2017年4月30日日曜日

中原中也「早春散歩」⑩

「早春散歩」を作ったころの、1933(昭和9)年3月、中也は東京外国語学校専修科を修了します。そして、下宿で近所の学生にフランス語の個人教授を始めました。

5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人誌「紀元」に参加。月末には、腎臓炎を患っています。7月、「帰郷」、「少年時」などを季刊『四季』に、9月には、「凄じき黄昏」、「秋」を『紀元』創刊号に発表しています。

いずれも、『山羊の歌』用に印刷済みの詩編です。『山羊の歌』は青山二郎の装丁で江川書房から刊行される予定でしたが実現しませんでした。

12月、遠縁にあたる上野孝子と故郷で結婚します。中旬には上京して、当時の四谷区花園町の花園アパートに新居を構えました。同じアパートに住んでいた青山二郎は、そのころ、について次のように記しています。


〈新宿御苑の前から、電車道を越えて市ケ谷見附に出る路がある。一丁ばかり行つて左に折れて、そのまゝ左に右に折れて行くと、其処に花園アパートと謂ふ三階建三棟のボウ大なアパートがあつた。

赤坂の家をたたんでから、此処に私は十年住んでゐた。私が移つてマル一年ばかりしてから、中原が来た様に覚えている。その少し前に小林が結婚して、やがて私の方は夫婦別れをして、そのあと中原が結婚した。

そして、朝鮮の女学校を出た新妻を連れて、いきなり此の花園アパートへ中原が越して来たのである。生れて初めて東京に来て、これも生れて初めて見るアパートと謂ふものに入れられて、二十二か三の若い奥さんは事毎にちゞみ上つてゐた。

数寄屋橋の菊正ビルで中原は一杯やるのが好きで、奥さんの方は連れて行かれて、その間にライスカレーを二皿平らげるのである。それから銀座を一廻りし乍ら、ソレ松屋だ、三越だ、服部だと指差して、大きな声で説明する詩人の夫を奥さんは辱しがつた。

やれやれと思つてゐると、尾張町の四ツ角で中原が最敬礼(注:皇居に向かってなされた最もていねいな敬礼)を始めるのだつた。奥さんは外の遊びは何も知らなかつたが、麻雀だけは中原同様に下手糞ながらやれたから、我々の間に麻雀が流行つた。

中原が我々二三の者に手ほどきをして流行らせたのである。なんでも或る夏のことその晩は運良く奥さんが現れないで、夜明しになつた時、私の部屋で我々は四谷署にあげられた。

ポンもチーも区別の付き兼ねる連中が一晩留置所に入れられたのだから、皆んな得意だつた。その朝一番に呼出されて調べられ、帰つて来て見ると未だ寝てゐて誰も知らなかつた。

大岡昇平はその頃酒場の女が出来て、或る日二人連れで私の処へやつて来た時、中原にふつかつた。彼等は仲の悪い犬みたいに、会うと始めから喉を鳴らしてゐるのである。だから五分もすると双方は忽ち立上つた。

大岡は倚子の前にあつた重たい大きな木の足台を、金太郎が大石を振上げた様な恰好で、頭上高く振りかぶつた。私は大岡の女に耳打ちして、三階へ走つて行つて中原の奥さんをトツサに呼んで来させた。

さうして置いて、喧嘩をするなら表テでやつて呉れと二人にダメを押した。人のゐない所だと、二人では喧嘩にならない、さういふ喧嘩は始末の悪いもので世話の焼けること一通りではない。

中原の知つてゐる人間が私の所にいりびたつている癖に、詰り彼等に言はせると――電信柱の高いのも郵便ポストの赤いのも、皆んな私のノボクレの故なのである。そこへ中原の奥さんが大岡の女と駆けつけた。

中原は中原の一面を奥さんに見せることがなかつたので、この不意打ちに酷く面食らつた様子で、その怒りで大岡の女の背中をどやし付けながら、女房を呼ぶとは何事だと叫んだ。と、大岡は大岡で、よくも俺の女房の背中をどやしたなと改つた。

後年、中原の死後、この奥さんを嫁に貰つて呉れと強請んでゐたのを思ひ出して私が話すと、大岡はケロリと忘れてゐて私のネツゾウだと言ふから、特に書き添へて置く。私が中原を書かずに此の章で奥さん許り書いてゐるのは、中原の女性に対する愛情が彼を更生させてゐたからである。

極めて素朴な石頭の、家ねずみの様な若い女性――下駄屋も詩人も区別すること無く、亭主だから亭主にして、女房だから女房になつた、恁ういふ女性に結ばれた時期を中原は愛してゐる様子だつた。私は昔淋病に成つたことがあると言ふだけで、中原は私の所へ来てもお茶を飲むことを奥さんに禁じられてゐた。

奥さんに子供が出来たらしいのが分つてから、暫くすると奥さんは眼を患つた。うつちやつて置くと盲目になる病気だつた。段々一人で歩けない様になつた。それから毎日病院通ひが始まつた。三階から中原が手を引いて降りて、表テに出て、二三丁先きの俥屋までおねりの様に歩いて行く。

それから時間が来ると、またその通りに俥屋まで迎へに行つて連れて帰つて来て、三階の部屋に納める。それが今日びのアベックの様に恰好の良いものではなく、殊更に引く手をかゝげて、小男が色眼鏡を掛けた若い女の半歩前を歩いて行くのである。これが三四ケ月続いた様に覚えてゐる。〉(『新文藝読本・中原中也』「私の接した中原中也」)

「早春散歩」を作り、結婚をした翌1934(昭和9)年10月、長男の文也(ふみや)が生まれました。中也は、無類の子煩悩さを発揮します。そんな、愛するわが子に関する作品もたくさん残しました。その一つに、こんな春の詩もあります。

     春と赤ン坊

  菜の花畑で眠つているのは……
  菜の花畑で吹かれているのは……
  赤ン坊ではないでせうか?

  いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
  ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
  菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

  走つてゆくのは、自転車々々々
  向ふの道を、走つてゆくのは
  薄桃色の、風を切つて……

  薄桃色の、風を切つて
  走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)
  ――赤ン坊を畑に置いて

*写真は、孝子との結婚記念写真(昭和8年12月3日)=『新潮日本文学アルバム・中原中也』から

2017年4月29日土曜日

中原中也「早春散歩」⑨

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……


全3連、各連6行のワクにおさめながらも、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」といったふうに、のびやかで親しみやすい口語表現でつづられている「早春散歩」。

詩そのものは、とくに難しいところもなく、すらすらと読んでいけます。参考に、中村稔の『名詩鑑賞 中原中也』から、この詩の一つの読みかたを引用しておきます。

〈「早春散歩」という題は明るいものですし、たしかに「春が立返つた」ことをたのしんでもいるのですが、うたわれている内容には寂寥があふれています。

早春の光の中での寂寥、はなやぎそめた光に照らしだされるさびしさ、それがこの作品の主題です。

この作品の第一行は、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」と書かれています。陰があるのは建物だけではありません。散歩する詩人の心にも陰があるのです。

その心を、早春の風が、薄絹か、ハンカチのように、ひきちぎり、きれぎれにして風にとばせるのです。

この詩は朗読してみると気づくことですが、リフレーンが頻用されており、それが幾重にも詩人の心のわびしさを読者にたたみかけるように訴えてきます。

第二聯で、「まるで過去がなかつたかのやうに」「少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如く」「確固たるものの如く」「隙間風にも消え去るものの如く」と、四度もくりかえしています。

第三聯では、「春を迎へるものであることを」「春は立返つたのであることを」とかさね、「風に吹かれながら」「歩きながら」「見やりながら」とくりかえし、「僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……」とくりかえしています。

そのたびに、水が池に滲み入るように、明るい外光の中の寂寥が、読者の心に滲み入ってくるのです。この作品で注目されることには、もうひとつ、第二聯に告白された心境があります。

ここで詩人は、「過去がなかつたかのやうに」とうたい、「風の中を吹き過ぎる 異国人のやうな眼眸をして」と言い「確固たるものの如く、 また隙間風にも消え去るものの如く」と自己を表現しています。

こういう脱落感、人間失格感は、「ゆきてかへらぬ」をはじめとする「永訣の秋」の詩編と共通しているものです。少なくとも、「永訣の秋」の詩情の萌芽がすでにこの作品に認められるのです。〉

春の日といえば、うららかで、明るいイメージがします。俳句に、春日影という季語があります。影という字が入ってはいますが、春の日の光、春の陽光、春陽のことを意味します。

しかし、この詩人の目にある春の風景にも、心のなかにも「蔭」がはっきりとあるのです。紗(しゃ)や絽(ろ)のように生地のうすい薄絹かハンケチででもあるかのように、早春の風が、詩人らの心をきれぎれにひきちぎり、散らします。

風がさっとひきちぎるほど、詩人の心は薄く、もろい状態なのでしょう。中也で、リフレーンというと、すぐに、有名な「汚れつちまつた悲しみに……」が頭に浮かんできます。

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる
  汚れつちまつた悲しみに
  今日も風さえ吹きすぎる

  汚れつちまつた悲しみは
  たとえば狐の革裘(かわごろも)
  汚れつちまつた悲しみは
  小雪のかかつてちぢこまる

  汚れつちまつた悲しみは
  なにのぞむなくねがうなく
  汚れつちまつた悲しみは
  倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

  汚れつちまつた悲しみに
  いたいたしくも怖気(おじけ)づき
  汚れつちまつた悲しみに
  なすところもなく日は暮れる……

この詩は口語詩ですが、基本的に七五調。小唄のように心地のよいリズムを刻んでいます。「汚れつち」の「つ」の促音によって「汚れ」のイメージを押し出し、リフレーンによって「悲しみ」の大きさがつたわってきます。

「早春散歩」のリフレーンは、「汚れつちまつた悲しみに……」のように大っぴらで声高なものではなく、詩の中にはまり込んで幾重にもつきまとっていきます。

それほどに、詩人の「淋しい心」はかなり深となって根差し、「蔭」となっているのでしょう。リフレーンがそれを、静かに浸みわたらせていきます。

2017年4月28日金曜日

中原中也「早春散歩」⑧

中也は「詩的履歴書」の中で、「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」と記しています。

この期間、1日の大半を使っていた「散歩」というのはどんなものだったのでしょうか。中也が残した「散歩生活」という未発表の随筆には、次のようにあります。

〈「女房でも貰つて、はやくシヤツキリしろよ、シヤツキリ」と、従兄みたいな奴が従弟みたいな奴に、浅草のと或るカフエーで言つてゐた。

そいつらは私の卓子のぢき傍で、生ビール一杯を三十分もかけて飲んでゐた。私は御酒を飲んでゐた。好い気持であつた。話相手が欲しくもある一方、ゐないこそよいのでもあつた。

其処を出ると、月がよかつた。電車や人や店屋の上を、雲に這入つたり出たりして、涼しさうに、お月様は流れてゐた。そよ風が吹いて来ると、私は胸一杯呼吸するのであつた。

「なるほどなア、シヤツキリしろよ、シヤツキリ――かア」

私も女房に別れてより茲に五年、また欲しくなることもあるが、しかし女房がゐれば、こんなに呑気に暮すことは六ヶ敷六ヶ敷(むつかし)からうと思ふと、優柔不断になつてしまふ。

それから銀座で、また少し飲んで、ドロンとした目付をして、夜店の前を歩いて行つた。四角い建物の上を月は、やつぱり人間の仲間のやうに流れてゐた。

初夏なんだ。みんな着物が軽くなつたので、心まで軽くなつてゐる。テカ/\した靴屋の店や、ヤケに澄ました洋品店や、玩具おもちや屋や、男性美や、――なんで此の世が忘らりよか。

「やア――」といつて私はお辞儀をした。日本が好きで遥々(はるばる)独乙から、やつて来てペン画を描(か)いてる、フリードリッヒ・グライルといふのがやつて来たからだ。

「イカガーデス」にこ/\してゐる。顳(こめかみ)をキリモミにしてゐる。今日は綺麗な洋服を着てゐる。ステッキを持つてる。〉

ちなみに、ここに出てくるフリードリッヒ・グライル(1902~2003)は、ペン画家で、NHKドイツ語放送のアナウンサーをしていた人です。

東洋の地に憧れて1928(昭和3)年に来日して、その後、日本を第二の故郷として定住。一橋大など多くの大学でドイツ語とドイツ文化を教えたりもしています。


また、「我が生活」というこれも未発表の随筆には、

〈女に逃げられた時、来る年の受験日は四ヶ月のむかふにあつた。父からも母からも、受験準備は出来たかと、言つて寄こすのであつた。

だが私は口惜しい儘に、毎日市内をホツツキ歩いた。朝起きるとから、――下宿には眠りに帰るばかりだつた。二三度、漢文や英語の、受験参考書を携へて出たこともあつたが、重荷となつたばかりであつた。〉

と「口惜しい」ままに「ホツツキ歩いた」青春の日々を描いている。さらに、同じ「我が生活」という題名の別の文章には――

〈私は銀座を歩いてゐた。私は中幕の勧進帳までしか見なかった。おなかが空いた時芝居なんかの中に、さう長くゐられるものではない。それよりかまだ歩いてゐた方がマシである。帰れば、借りつけの賄屋から取ることが出来る。けれども、

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める。〉とあります。

ところで、「毎日々々歩き通す」中也の散歩生活が終わりを告げる1933(昭和8)年10月というのは、遠縁の上野孝子と結婚、新居を構える直前にあたります。

このとき、「亡命者のやうな私の心」にきっと、大きな変化があらわれたのだろう。中也26歳。それは、青春の終焉を意味していたのかもしれません。


  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

「早春散歩」は、「ホツツキ歩いた」、「毎日々々歩き通す」という散歩生活の最後にあたる、この昭和8年に作られています。



*1933年の銀座通り(ウィキペディア)

2017年4月27日木曜日

中原中也「早春散歩」⑦

    春の雨

  昨日は喜び、今日は死に、
  明日は戦ひ?……
  ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
  道に踏まれて消えてゆく。

  歌ひしほどに心地よく、
  聞かせしほどにわれ喘〈あえ〉ぐ。
  春わが心をつき裂きぬ、
  たれか来りてわを愛せ。

  あゝ喜びはともにせん、
  わが恋人よはらからよ。

  われの心の幼なくて、
  われの心に怒りあり。

  さてもこの日に雨が降る、
  雨の音きけ、雨の音。


長谷川泰子が小林秀雄のもとにに走った後も、詩作を中断することはありませんでした。むしろ、前に見た「朝の歌」にみられるように、この事件以降、中也は詩人になったといえるかもしれません。

そして、1927(昭和2)~1928(昭和3)年に中也は第一詩集を出そうと試みました。結局、その計画は実現しませんでしたが、「春の雨」はその詩集に入れるつもりで書かれた詩の一つです。

そんなさ中の昭和3年5月、泰子と小林の関係も破綻します。原因は泰子の神経症だったようですが、事は相当に深刻で、小林は関西へ単身逃げ出しました。

泰子は心情というものがまったく欠如している女だという内容の手紙を、小林は妹に送っています。それからの彼らについて、吉田凞生の「中原中也小伝」には次のように書かれています。

〈しかしそういう泰子が、中也の目には「私の聖母」と映ったのだから、異性関係というものは分からない。中也にしてみれば、泰子は自分のところへ帰ってくるべきなのだが、泰子の方は承知しない。

それどころか、山川幸世という左翼の演劇青年の子供を産んでしまう。中也はその子に名を付けてやり、泰子が映画女優として仕事に出る時は、お守りをしてやったりする。子供に対する特別な感情の現れである。

この間、中也は河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、内海誓一郎らと同人誌「白痴群」を創刊する。昭和四年四月のことである。誌名は「俗物になれぬバカの集まり」という意味である。

初めて自分の詩を世に問う舞台を得た中也は、活発に詩作し、毎号作品を載せた。その中には「寒い夜の自画像」のように詩人としての使命感を示す詩もあれば、「時こそ今は……」のように泰子に対する再求愛のメッセージを含んだ詩もある。

人間には日常の利害打算よりもっと価値のある、普遍的な幸福というものがあり、愛というものがある、というのが詩人中也の信念だった。

しかし「白痴群」は一年で廃刊となった。原稿の集まりが悪くなったためである。そして廃刊を機に、中也の詩作も停滞し始める。

フランス行きの手段として外務書記生の試験を受けることを考え、東京外語に通い始めたりしている。小林秀雄が新進評論家として活躍し始めたのと対照的である。昭和六年、弟恰三が病没したことも中也には衝撃だった。

死者は清純で、生き残った自分は図々しい、という自責の念が中也を悩ます。『山羊の歌』の最後の二篇、「憔悴」「いのちの声」には、生命の停滞感とそこから脱出したいという願望が見える。

中也がそのために選んだのは、詩集を出版することだった。昭和七年(一九三二)、中也は『山羊の歌』を編集し、家から三百円を引き出して、自費刊行を企てる。

だが資金が続かず、本文を印刷しただけで中断せざるを得なくなった。それも一つの引き金となったのか、年末にはノイローゼ状態となった。強迫観念に襲われ、幻聴があったという。

しかし年が明けて昭和八年になると、精神状態は徐々に平衡を取り戻したらしい。この年三月、東京外語を修了。秋、遠縁に当る上野孝子と見合いをし、十二月に郷里山口で結婚した。中也は珍しく素直だったと伝えられている。

新居は四谷区(現在の新宿区)の花園アパートで、同じアパートに小林秀雄との共通の友人、青山二郎がいた。同じ十二月、『ランボオ詩集《学校時代の詩》』を三笠書房から刊行した。中也はまずランボーの翻訳で認められたのである。〉

「早春散歩」はこの年の早春、中也の精神状態が平衡を取り戻しつつあったころ書かれたと推定されています。

2017年4月26日水曜日

中原中也「早春散歩」⑥

  天井に 朱〈あか〉きいろいで
    戸の隙を 洩れ入る光、
  鄙〈ひな〉びたる 軍楽の憶ひ
    手にてなす なにごともなし。

  小鳥らの うたはきこえず
    空は今日 はなだ色らし、
  倦〈う〉んじてし 人のこころを
    諫〈いさ〉めする なにものもなし。

  樹脂〈じゆし〉の香に 朝は悩まし
    うしなひし さまざまのゆめ、
  森竝〈もりなみ〉は 風に鳴るかな

  ひろごりて たひらかの空
    土手づたひ きえてゆくかな
  うつくしき さまざまの夢。

中也自身がが最も好きだったともいわれ、「この詩に近代文学の誕生を見る」(吉田健一)などと讃えられる有名な詩「朝の歌」です。

以前にも見ましたが、中也は「詩的履歴書」の中に〈大正十五年五月、『朝の歌』を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり『朝の歌』にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くための、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす〉と記しています。

ここに中也は、自身の詩を見出した手応えを感じていたことになります。この詩はソネット風の五七調と、極めて古典的な形式で書かれています。しかし、そこに醸し出されているものは、従来の朝のイメージとは掛け離れています。


「小鳥らの うたはきこえず」、空は、ツユクサの花=写真、wiki=に見られる、はなだ色(薄い藍色)で、「土手づたひ きえてゆくかな/うつくしき さまざまの夢。」というのです。そこには、新たな日を迎えた溌溂とした雰囲気とは無縁の、心の倦怠感のようなものが漂っています。

「朝の歌」に関して、野田真吉は、次のように記しています(『中原中也――わが青春の漂泊』)。

〈至純で自由な幼児のような魂をもって生きようと希った中原は、それ故に世故たけた現実生活の恥辱にまみれ、ふみにじられなければならなかった。

文字どおり業苦のさなかに身を置き、生きなければならなかった。だが、その業苦を自らのものとしてうけとめ生きることに、彼は詩人が至純な魂をいだいて生きているしるしだと思った。

私が中原中也の詩からうける人間的感動はこのような業苦の世界のただなかにたえずゆれうごき、身も心も引き裂かれる至極赤裸な人間の魂の痛みを抒情詩としてたかめ、うたいあげられているところにある。

それは祈りであり、悔恨であり、迷いであり、愛慕未練の訴えである。〉

「朝の歌」が入っている詩集『山羊の歌』(1934年)の、この詩の前にも、私の好きな春の詩があります。初稿は「朝の歌」と同じころ書かれたとみられている「春の夜」です。

       春の夜

  燻銀〈いぶしぎん〉なる窓枠の中になごやかに
    一枝の花、桃色の花。

  月光うけて失神し
    庭〈には〉の土面〈つちも〉は附黒子〈つけぼくろ〉。

  あゝこともなしこともなし
    樹々よはにかみ立ちまはれ。

  このすゞろなる物の音〈ね〉に
    希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。

  山虔〈つつま〉しき木工のみ、
    夢の裡〈うち〉なる隊商のその足竝〈あしなみ〉もほのみゆれ。

  窓の中〈うち〉にはさはやかの、おぼろかの
    砂の色せる絹衣〈ごろも〉。

  かびろき胸のピアノ鳴り
    祖先はあらず、親も消〈け〉ぬ。

  埋みし犬の何処〈いづく〉にか、
    蕃紅花色〈さふらんいろ〉に湧きいづる
        春の夜や。

蕃紅花色というと、サフランの雌しべで染めた黄色っぽい色と、うす紫っぽい花の色の二通りが考えられます。この詩の場合、どちらがしっくりいくでしょうか。

2017年4月25日火曜日

中原中也「早春散歩」⑤

同棲していた長谷川泰子に逃げられた翌年の1926(大正15年・昭和元)年4月、中原中也=写真、wiki=は日本大学予科文科へ入学するものの9月に退学。11月ごろには、アテネ・フランセへ通います。


1928年(昭和3年)5月には父謙助が死去。中也は喪主でしたが、葬儀に帰省参列はしませんでした。このころ小林秀雄は、長谷川泰子のもとを去っています。昭和4、5年に書かれたとみられる「我が生活」という題の草稿には、次のようにあります。

〈私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶(みつ)めることが出来てゐたのと確信する。

つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若(も)し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。

手短かに云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なものが如何に不可能であるかを知つたのだ。私は厳密な論理に拠つた、而して最後に、最初見た神を見た。

然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜(くや)しくなるのだつた。――このことは今になつてやうやく分るのだが、そのために私は嘗ての日の自己統一の平和を、失つたのであつた。全然、私は失つたのであつた。

一つにはだいたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所が殆ど皆無であつたので、その口惜しさに遇つて自己を失つたのでもあつたゞらう。

とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」であつた。〉

「口惜しき人」の意味合いは、単に女に逃げられた、友人に裏切られたというところにとどまりません。先行きも希望も見えない、名伏しがたいものを生きていく「口惜しき人」になったのです。それは、中也が、詩人になった瞬間であったのかもしれません。

1931(昭和6)年4月、東京外国語学校専修科仏語部に入学。この年の9月には、日本医科大学の学生だった弟の恰三が病死しています。中也は、その直後、次のような弟の追悼詩を書いています。中也が24歳のときです。

      死別の翌日

  生きのこるものはづうづうしく、
  死にゆくものはその清純さを漂はせ
  物云ひたげな瞳を床の上にさまよはすだけで、
  親を離れ、兄弟を離れ、
  最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

  さて、今日はよいお天気です。
  街の片側は翳〈かげ〉り、片側は日射しをうけてあつたかい、
  けざやかにもわびしい秋の午前です。
  空は昨日までの雨に拭はれてすがすがしく、
  それは海の方まで続いてゐることが分ります。

  その空をみながら、また街の中をみながら、
  歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
  さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
  みたばかりの死に茫然として、
  卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

この詩を読んでいくと、季節の違いこそあれ、詩のかたちも味わいも「早春散歩」とよく似たところがあることに気がつきます。

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

中村稔は〈早春と秋という季節のちがいはあっても、散歩しながら心のなかにふきあげてくる感傷を描いている〉という点で両作品は似ており〈「死別の翌日」の呼吸、声調が、そのまま「青春散歩」にひきつがれている〉(『国文学』昭和52年10月)。



さらに、大岡昇平は「死別の翌日」の〈個人的感情の直截な表出から、より普遍化された詩想への展開〉が「早春散歩」(「神と表象としての世界」)と指摘しています。

2017年4月24日月曜日

中原中也「早春散歩」④

1925(大正14)年3月、中也は同棲していた泰子とともに上京します。中也は17歳、もうすぐで18歳になるというときのことです。

日大の予科などを受験するというのを口実にしましたが、替え玉受験を依頼したり、試験日にわざと遅刻して受験しなかったり。かと思えば今度は、受験のために予備校に通うのだといって両親らをごまかしていました。

そして山口の実家から、当時としてはサラリーマンの初任給よりずっと多かった80円、90円という送金をしてもらっていたのです。母のフクが「肝焼き息子」という生活の始まりです。送金は100円、120円とつりあがり、死ぬまで続いていきます。

秋山駿は「評伝」で次のように記しています。

〈これは、十七、八歳の乱暴さに賭けてでなければ行なえぬ、敢行の行為である。ヴァレリーは、自分の知る若干の天才の場合には、十九歳から二十四歳にかけての間に知的クーデターがあった、としているが、中原のこれは、それに先行する生のクーデターであった、といっていい。

しかし、その敢行の行為が、嘘を吐く(家に向って)、社会から見れば一種のインチキを踏み切り板にしているところに、中原の問題である。私が、中原における犯罪性と言ったのは、そこだ。むろん、そこはこの敢行の特徴を極端化するために言ったので、本当は犯罪性ではない。

嘘は、それを必要として自分の生の行手を賭ける者にとっては、嘘ではない、正当な行為である。むろん、嘘ではない、正当な行為である。むろん、中原はそう考えた。いま、すべてが赦されている、と。

――しかし、こういう生活の手段を生涯続けなければならない、と思うようになってからは、いったいこういう行為とその生とは、赦さるべきものなのか、それとも赦されないのか、という自問自答を、中原は無限に繰り返すようになる。

「生の罪」、あるいはこれを逆転して、「罪としての生」といった音調のものが、彼の詩の根底を流れ出す。〉(『新潮日本文学アルバム・中原中也』)


上京した翌月の1925(大正14)年4月、富永太郎と親しかった小林秀雄=写真、wiki=と知り合います。

この運命的な出会いによって、日本の近代文学史上よく知られた“奇怪な三角関係”がはじまることになるのです。

その年の11月12日、肺病を患い闘病生活を続けていた富永太郎が、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と自ら取り去り、24歳の若さで死にます。

その直後、泰子は中也のもとを離れて小林秀雄のところへ走り、同棲を始めるのです。

そのあたりの詳細は、有名な大岡昇平の『朝の歌』につづられている。ここでは、小林自身が後に書いた「中原中也の思ひ出」(昭和24年8月『文藝』)の一節をあげるのに留めておきましょう。

〈私は中原との関係を一種の悪縁であつたと思つてゐる。大学時代、初めて中原に会つた当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてから、そんな風に思ひ出したがるものだ。

中原に会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふことによつても協力する)奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原の間を目茶目茶にした。

言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にならない。

驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。だゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見附けただけであつた。夢の多すぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。

そんな言葉ではないが、中原はそんな意味のことを言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。〉

中也や秀雄たちの青春は、「宗教風の恋」を問うたような賢治とはかなり異質なものだったようです。それはともかく、こうした“奇怪な三角関係”のころに作られたと考えられる作品の中に、つぎのような春の詩があります。

      春

  春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
  その汗を乾かそうと、雲雀〈ひばり〉は空に隲〈あが〉る。
  瓦屋根今朝不平がない、
  長い校舎から合唱は空にあがる。

  あゝ、しづかだしずかだ。
  めぐり来た、これが今年の私の春だ。
  むかし私の胸を搏〈う〉つた希望は今日を、
  厳〈いか〉めしい紺青〈こあを〉となつて空から私に降りかゝる。

  そして私は呆気〈ほうけ〉てしまふ、バカになつてしまふ
  ――藪かげの、小川か銀か小波〈さざなみ〉か?
  藪かげの小川か銀か小波か?

  大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
  一つの鈴をころばしてゐる、
  一つの鈴を、ころばして見てゐる。