2017年8月19日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑭

長谷川龍生は、私が頭に描いている「現代詩」というものを体現している天性の詩人の一人です。伝統的な短歌、俳句の抒情をまっ向から批判した「歌とは逆に歌に」の詩人、小野十三郎に学び、これまでにない新たな詩空間を築くことによって、小野の志を受け継ぎ開花させました。

小野十三郎の理論は明快で、大きな刺激を受けました。しかし小野の詩を読んでいても、その理論の意味するところがどう表現に結びついているのか、20代の私には読み取るのが困難でした。一方で、長谷川の詩を読んではじめて小野の主張するところの表現を見た気がしました。

伝統的な抒情とは異質の、物質的で張りつめた言葉の力学ともいえる詩空間が構築できることを知ったのです。

喩えは相当に飛躍するが、それは非ユークリッド幾何学の一つとして確固たる理論の骨組みを備えていたリーマン空間が、アインシュタインの相対性理論に使われることによって、肉を得、血流がゆきわたって行ったのと似ているように思えました。

「長谷川龍生のユニークさは、世界をその自然的な影や彩りや美の形においてではなく、そして勿論文学プロパーのことばとしてであるが、世界を〈論理的に〉とらえることのできる詩の構造を、初めてといっていい程の新しさでつくり上げたところにある。いわば世界観の新しさが、同時に詩の方法論上の新しさとして成立しているところが、前記の詩人達(中野重治や谷川雁=筆者注)との構造上の違いである。自然発生的な美に対する人間主体的な美を、自然構造的な論理の代りに人工的な論理を、世界をその衣装においてでなく、その本質を貫く運動としてとらえること、これらの発想を、全く新鮮な方法上の後ずけをもって行ったところに、長谷川龍生の詩の革命的といってよい意味がある」

と、岡庭昇は指摘している。

  しだいに潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。
  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

伝統的な抒情詩とは異質の、こうした長谷川ならではの詩作の具体的な方法の一つが、「理髪店にて」の中にも、そのエッセンスが凝縮されている「シュールドキュメンタリズム」でしょう。将来、長谷川の別の詩を読むときに、シュールドキュメンタリズムについてはあらためて考えてみたいと思います。


20代のとき、「理髪店にて」が入っている『パウロウの鶴』を読んで、大きな衝撃を受けました。しかし同時に、何事にもネガティブな性癖の持ち主の私にとって、なんとなく憧れがあった文学から遠ざかる契機となった苦い一冊ともなりました。

長谷川のような想像力をもち、言語空間を築くのは、私の能力では到底なしうることができないと観念したのです。そして、創作の道を断念し、一会社員として生きていこうと考えるようになりました。

長谷川は『パウロウの鶴』の後も、「理髪店にて」に垣間見られるような、伝統的な抒情とは異質で独自な幻想、妄想的な要素を含んだ、新たな言語空間を築く努力を続けていきます。

政治や社会、歴史、人々の心情や思いの根底にある「物理」までも徹底的に探ろうとする姿勢は、他の詩人の追随を許さない独創的なものとなりました。

アインシュタインの出現には、ニュートンから200年の歳月が必要でした。同じように、長谷川の後を追い、その先をも視野に入れるのは常人にたやすくできることではないでしょう。

しかし、長谷川龍生を「もはやどの詩人も手の届かない最高峰」などと持ち上げて、過去へと追いやってしまうような気持ちには私はなれません。

  変わりはてた異邦の港湾で
  元型の女 永遠の女を待っている
  自由な愛の取引は終わった と
  ドックの監視員が叫んでいる

  かつての愛の斥候であった一兵士の死骸
  冒されたざん濠 くびられた人家
  津波がさらっていった暮しの舟
  砲弾が崩していった詩稿の束

  全世界を相手にしている男の親和力
  その一すじの火縄だけをたよりにする
  戦友が倒れている 倒れた詩人の背後に
  集落があり 統制地が見え 国家がひそむ

2002年に出た詩集『立眠』=写真=の中の「遭遇こそ」という詩です。その実績や名声がどうであれ、より深く、より鋭い世界観へとつながる言語空間を探れば探るほど、その詩人の道のりは、より困難を増し、より孤独に、迷いだらけに、そして挫折の繰り返しとなります。

長谷川龍生は80歳を過ぎても迷い、失敗し、そしていまも求めつづけているのです。

2017年8月18日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑬

二つの連から成る「理髪店にて」は、これまで見てきたように、1連目と2連目のまったく異なった鮮明な映像が対比的に現れ、それらが切れ味のいい強烈な活断層となって響いてきます。

1連目は致命傷を負って海に沈んだ軍艦であり、2連目は客である潜水夫の荒んだ黒い肌を滑る西洋刃物です。

しかし理髪店にて、理容師と客とのやりとりに出あった第三者、すなわち散髪の順番待ちをしているのか、偶然この場に居合わせたと想定されるこの詩の作者の立場からすれば、時間はつながっているのです。

その見ているものの時間の連続と、場面の断絶が、比類のないドキュメントを生み出しているわけです。

赤と青のサインポールの扉を開けて順番待ちの長いすに座ってしばらくすると、鏡の前に座った後ろ姿の客の声が耳に入ってきました。がっしりした肉体労働者らしき男だ。なんやら、遠い異国の海のなかに沈んだ軍艦の話らしい。


  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

耳に入ってくる話にぐんぐん興味をそそがれてゆきます。それが、待っている作者の想像を掻き立て、頭のなかにクリアな映像を作っていきます。

ふっと我に返って、潜水夫らし客のほうに目をやります。すると、見えてくるのは「正面に篏った鏡の中」の客の姿です。

遠い海のなかに潜って、藻に包まれた軍艦の残骸を見渡して値踏みをしていた潜水労働者。それが、いま首から下をケープで閉ざされ、鏡のワクのなかに嵌っています。

目に入って来たのは鏡のなかに映し出された、唯一の資本である肉体をよりどころに働く労働者だったのです。それは港湾労働者などとして、各地を転々として働いていた詩人自身の姿でもあったのではなかったのでしょうか。

海に潜って、軍国主義の遺物を眺めて値踏みしている。そんな一見、たくましく、したたかで、若々しい強さを持った労働者であっても、ひとたび雇い主に首を切られればたちまち生きるすべを失ってしまいます。

国家という得体の知れない化け物は、ひとたび暴走を始めると「なめらかだが光なみうつ西洋刃物」のような切っ先をありふれた労働者や庶民に向けてきます。

それを戦中、戦後、肌身で感じていた天性の詩人は、鏡の中の姿から、剃首を後に折った生身の客のほうへと次第に視線を移ってゆきます。

すると、理髪師の骨のあるきゃしゃな手に握られた西洋剃刀が、いままさに客のまぶたへと迫っているのです。ひとつ間違えれば、ふたたび目を閉ざされる闇の中へと連れいかれるかもしれぬ危うさを秘めて。

長谷川とほぼ同時代の詩人、川崎洋は「理髪店にて」についてつぎのように指摘しています。

「昭和二十六年、連合国軍最高司令官がマッカーサーからリッジウェイに代わったころから、〈逆コース〉といわれた一連の動きが始まりました。第九条戦争放棄条項を含む憲法の見直しと再軍備。公職追放の解除。破壊活動防止法。電気・石炭業のスト規制法。その他、戦後民主主義から、もとに逆もどりし始めたような世の中となりました。沈められた重巡洋艦がやがて引き上げられる。そのことは、水面下のミリタリズムが、もう一度姿を現そうとしている、復活しようとしている、復活しようとしているという事を、詩の中で暗にほのめかしている。そんなふうに感じ取ることができ、そのことに、西洋刃物がいままさに瞼の下に斜めにかかったような不安感がある――とこの詩は告げています」

それは、なにも戦争直後だけの話ではありません。一見、平穏におもえても、生身に刃物があてられているゾッとするような危うさをいつも身に感じて生きるしかない時代と社会に、現にいま私たちは置かれているのです。

2017年8月17日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑫

  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

青みどろは、ホシミドロ科に属する淡水性の藻類の総称です。繁殖力が強く、池や水田を緑色に覆っているのが、どこでも見られます。

細胞が一列に並んで糸状になり、枝分かれせずに根本から先っぽまで太さがそろっているのが特徴。触るとぬるぬると滑る、つまりヌメリがあります。

池ができればすぐにアオミドロ=写真、wiki=が発生し、池の中の見通しが悪くなります。多量に発生すれば、底の方の藻体から死んで汚泥状となります。まさに「青味泥」です。


ぬるぬるした「青味泥」が、アジアの片隅の小さな島国の、ボロボロになって沈んだ軍艦を覆っている。小さな島国ではあっても世界の列強に交じって覇権を争い、領土や資源を求めてアジアへの侵略を繰り返した軍国主義国でした。

帝国主義と呼ばれる時代だったのです。レーニン的にいうなら、資本主義の独占段階。帝国主義に従って列強が、領土(植民地)を拡張していけば、いずれは覇権を争ってぶつかり合い世界大戦となります。それは当然の帰結でした。

そんな成れの果て、壊滅した帝国主義国家の手先ともいえる軍艦の残骸を「青みどろに揺れる藻」が覆っているのです。

レーニンのいうとおりなら、世界大戦の結果として、資本主義体制は破局へと向かっていたはずでした。ところが、時代はどうもそんなふうには進んでいかなかったのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

ぬるぬるとした「青味泥」が覆う、帝国主義的軍事国家の遺物である軍艦。そんな海の化石となりつつある残骸を、取り立てた感慨を持つわけでもなく、潜水夫である一労働者らしきが「ざっと二千万と見積って」見つめています。

そのころの二千万とは、いまなら十億くらいに値するかもしれません。一人の労働者が、ことによると「資本主義体制の破局」の象徴になったかもしれない、沈没した軍艦の値踏みをしているのです。

戦後、資本主義体制は無くなるどころか、更なる新たな展開を遂げてきました。資本主義はその本性を際立たせ、ますますわたしたちの生活に根を張っています。労働者の敵であるはずの資本家の姿は、すっかり見えずらくなってきました。

個人が大量の株を保有して会社を支配するというより、企業間で株式持ち合い、直接関係のない法人が会社を支配するようになった。資本家がモノと化するにつれて、団結して戦う労働者も減っていっきました。

私は30年ほど前、大学で経済学を勉強していました。通っていた大学の経済学部はまだ、マルクスの資本論を基礎に置く「マル経」と、消費者の行動や市場の構造を数学的に分析する「近経」の二つにはっきり分かれていました。「経済理論」と題された講義も「マル経」と「近経」で別々に2種類用意されていたのです。

長谷川龍生は若いときに新日本文学会に入り、「列島」などに参加して、どちらかというと社会性の強い詩を書いてきました。ですからなんとなく共産党的、マルクス主義的な詩人という烙印を押されることもあるようです。

しかし私には、「マル経」よりもはるかに「近経」的な思考をする詩人に思えます。「近経」のミクロ理論は基本的に、お金やモノ、サービスを得たいと欲する個々の人間が、市場の中で、価格の変動などに伴っておこなう合理的な行動をもとに成り立っています。

長谷川の詩には、労働がどうの、資本がどうの、賃金がどうのというよりも、なんやかんや理屈や主義主張を振りかざしたところで所詮は、カネやモノへの欲求や執着、打算で動いてゆく“人間というもの”のきわめて合理的な行動に興味を持ち、それに冷徹ともいえる眼差しを向けているものが多いように思うのです。

もっとも、彼が唯物論的、科学的なものの見方をする詩人という意味では実にマルクス主義的であるといえるかもしれません。長谷川龍生は国家や理念などといったものは信じません。確かなのは、巷にうごめくカネでありモノであり、それから人間に秘められている怨念なのです。

2017年8月16日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑪

以前にも少し見ましたが、長谷川龍生は、この詩を作ったころの20代、日傭い労働者、港湾労働者、日傭いセールスマン、業界新聞の記者など、さまざまな職に就いていました。それは、生活のためであるとともに、「ほんとうの人間の詩を、生活する場から発見したい」からだったのでしょう。

もっとも詩人の言にしたがえば、閉ざされた「私」の壁を何んの制約もなくすり抜けていくことができる長谷川龍生の「亡霊」が、「社会への唯一の交流媒体」として、労働に勤しんでいたというほうが正確なのかもしれません。

港湾労働者などとして肉体労働に汗を流していたこうした若き日々に、龍生は、「理髪店にて」に出てくる潜水夫のような人と出会ったのでしょうか。それとも当時は、巡洋艦「鳥海」のような軍艦のサルベージが盛んに話題にのぼっていたのでしょうか。

言うまでもないことですが、この世の何が「現実」で何が「幻影」であるのか、何が「実在」で何が「亡霊」なのか、はたまた何が「真実」で何が「虚偽」かなんて、そうたやすくはかり知ることができるものではありません。

ましてや「あくまでも、自己の言葉でもって、自己の意味でもって、自己だけにのみ可能である世界を構築しなければならない。そのためには、つねづね、洗練された感覚に、客体化の光を放射しなければならないのである」(長谷川龍生「自分の天職とは逆の方向に美をもとめて」)とうい詩人ともなれば、なおさらのことでしょう。


しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

それにしても、この潜水夫からは、無惨に破壊されて沈んでいる祖国の軍艦に対する感傷、無念さ、痛恨な思い、祖国愛といった、戦前、戦中の愛国教育を受け、国のために戦った多くの人々が持ちあわせているであろう感情は微塵も感じられません。

ただ、「なんぼくらいになるやろ」という商売人的、あるいは日傭い労働者的、プロレタリアート的な、合理でしたたかに残骸を見つめる視線があるだけです。この詩を読んだとき、私にはそれが実に爽快で気持ちよく、いつしかこの潜水夫は長谷川龍生という詩人そのものではないかと思うようになりました。

「根っから、この日本の国を信用していない」という長谷川龍生に、祖国愛は薄いといいます。「悪い国家というものの実体が判っているだけで、理想の国家像、ほんとうに大衆の住みよい、くらしよい国家像が判らないために、愛情のありかが判らない」(同上)からだそうです。

青年の日々を送る詩人の現実は、「私のまわりで、激しい変化を見せながら流動していたのであるが、私は、あまり、その波浪にはまかれなかった。唯、その波浪の恐怖を〈見る〉という行為にとどめただけで、私は、つねに、空白の意識に、閉じ込められていたのである」。

詩人は、潜水夫になって、その閉じ込められている空白の意識の海の中へと潜り込んでいます。すると、「〈見る〉という行為と、〈見ている自分が見られている〉という自意識とが、奇妙に重なって」現実が幻影化し、そこにイメージが乱出してくるのでしょう。

そうしたイメージの中から、現実とのかかわりあいのうえで、のっぴきならない〈私の存在〉を中核に材料を選択していった。そんな作業の中で、詩人の視界に現れてきた「ドキュメントという証拠物件」が、この場合には巡洋艦「鳥海」だったのではないでしょうか。

それは、「幻影といえども、現実との深い擦過点を求めた」(同上)ものだったのです。

2017年8月15日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑩ 

    剛よい羽毛をうち
    飛翔力をはらい
    いっせいに空間の霧を
    たちきり、はねかえし
    櫂のつばさをそろえて
    数千羽という渉禽の振動が
    耳の奥にひびいてくる。
     たんちょう類か、姉羽鶴こうのとりか
    どちらとも見わけのつかない
    奇妙なパウロウの羽ばたきが
    夜の、静かな大脳の空に、
     ひらめくとびの魚の
    胸鰭の水さばきのように
    皮膚の上から、連続的に
    ひびき、わたってくる。

「理髪店にて」が入っている第1詩集のタイトルでもある、有名な詩「パウロウの鶴」の冒頭です。

“パウロウ”は、犬のほおに管を通して唾液の分泌量を測定 する条件反射の実験で、大脳の生理機能を明らかにしたことで知られるロシアのイワン・ペトローヴィチ・パブロフ=写真、wiki=に由来するとも言われています。


長谷川龍生は、自閉症だった(である)そうです。自閉症は、内気な性格や引きこもり、さらにはうつ病などと混同されがちですが、それらとは根本的に異なり、生まれつき脳の機能に障害を持つ、発達障害のひとつと考えられています。

症状には①人とのかかわりに質的な障害がある②コミュニケーションが取れない③活動や興味の範囲に著しい偏りがある、などがあげられます。

医師の診断を受けてのことか、それとも一種の「詩語」として使っているのか、長谷川がどういう意味合いで自らを「自閉症」と言っているのかを断定することはできません。

しかし、自閉症の要因を自身の血脈や、生まれあわせた広い意味での環境の中に求めていたことは間違いないでしょう。

長谷川家には墓所はあるが、家はない。明治初頭の西南の役で戦病死して血筋が途絶えた長谷川家を、縁もゆかりもないカップルが引き継いだ。それが龍生の母イクであり、父カナメだったといいます。

「私は、小さい時から、この長谷川家をぶきみな呪いのかかっている家筋として、うすうすは知っていた。誰が、どのような方法で、この長谷川家に呪いをかけたのか、それは、余り言いたくはないが、とにかく、一族中に呪いをかけた奴が存在したのである。私は、単純に、その呪いから少しでもレーダー距離を置きたかった。単に意識の距離である。距離を置きながら、一族中の最大の焦点であり、呪われた最大の癌である私の父親〈長谷川カナメ〉のくたばるのをひたすらに待った」(長谷川龍生「自閉症異聞」1968年)

どういういきさつかは知りませんが、母のイクは戦前の、龍生がまだ8歳のときに「明らかに栄養失調」で死んでいます。また父カナメは、その30年後に「徳島県の片田舎」の病院で、行路病者として誰にも見とられずにこと切れました。

このとき龍生はすでに、福井県・三国町の、縁もゆかりもない名谷家へ養子に入っています。筆名として残しているだけで、「長谷川」からは縁が切れていたことになります。

龍生は7人兄弟の五男でした。長男は一高、東大卒の数学の秀才でしたが昭和初期に変死、三男は25歳の若さで流浪の果てに栄養失調死、四男は大阪信貴山の山麓で拾われたが20歳で病死、というように、長谷川一族はほとんどが行路病死、変死の家系だといいます。

「私は、小さい時から、そのような環境の中で、自らと世の中との通路を閉ぢた。明らかに自閉症として、詩人の道をえらんだ。しかし、自閉症としては生きていくことはできない。私はそこで亡霊を創造した。現在、街をあるいたり、会社に勤めたり、他人と会話したりしているのは、私の亡霊である。亡霊だけが、自閉症の壁を、何んの制約もなくすり抜けていくことができ、社会への唯一の交流媒体として働いている」(同)

2017年8月14日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑨

《喉から頬、顎、額などを剃った後、喉の柔らかい部分がどうしてもうまくいかぬ。こだわり尽くした彼はその部分を皮ごと削ぎ取りたいような気がした。肌理の荒い一つ一つの毛穴に油が溜まっているような顔を見ていると彼は真からそんな気がしたのである。若者はいつか寝入ってしまった。がっくりと後へ首をもたせてたわいもなく口を開けている。不揃いな、汚れた歯が見える。

疲れ切った芳三郎は居ても立ってもいられなかった。全ての関節に毒でも注されたような心持がしている。何もかも投げ出してそのままそこへ転げたいような気分になった。もうよそう!こう彼は何遍思ったか知れない。しかし惰性的に依然こだわっていた。

……刃がチョッと引っかかる。若者の喉がピクツとうごいた。彼の頭の先から足の爪先まで何か早いものに通り抜けられたように感じた。で、その早いものは彼からすべての倦怠と疲労とを取っていってしまった。

傷は五厘ほどもない。彼はただそれを見詰めて立っていた。薄く削がれた跡は最初乳白色をしていたが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上がって来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上がって来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一筋に流れた。この時彼には一種の荒々しい感情が起こった。

かって客の顔を傷つけた事のなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫って来た。呼吸はだんだん忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打克つ事が出来なくなった。

……彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと喉をやった。刃がすっかり隠れるほどに。若者は身悶えもしなかった。

ちょっと間を置いて血がほどばしる。若者の顔は見る見る土色に変わった。

芳三郎はほとんど失神して倒れるように傍らの椅子に腰を落とした。すべての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還ってきた。眼をねむってぐったりしている彼は死人の様に見えた。夜も死人の様に静まりかえった。全ての運動は停止した。すべての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷ややかにこの光景を眺めていた》


志賀直哉が、青年時代の1910(明治43)年に書いた短編小説『剃刀』の最後の部分です。現在の東京・六本木の理容店「辰床」の主人、芳三郎は珍しく風邪をひいて、忙しい盛りではあったが寝込んでいました。

芳三郎はもともと、この床屋の小僧ですが、前の主人がその剃刀の腕前に惚れ込んで1人娘の婿に迎えました。

芳三郎は剃刀の扱いは名人クラスだが癇の強い男で、客の肌を撫でて少しでもざらつけば毛を1本1本押し出すようにして剃らねば気が済みませんでした。客は芳三郎にあたってもらうと1日延びがちがうと言い、彼は10年間、客の顔にキズをつけたことがないことを自慢にしていました。

2人の使用人は頼りにならなかった。芳三郎は熱で苦しい身を横たえながら床の中で1人いらいらしていました。剃刀を研ごうとしても、熱で手が震えて思うようにいきません。

そんなところに、景気良く硝子戸を開けてせいの低い二十二三の若者が入ってきました。イキがった口のききようだが田舎者。節くれ立った指や凸凹の多い黒い顔から、昼間は荒い労働についていると察せられます。

剃り始めたものの思うように切れない。手も震える。水洟が垂れてくる。切れない剃刀で剃られながらも平気な顔をしている若者は無神経さが癪に触る。それでも、少しでもざらつけば、どうしてもそこにこだわらずにはいられない。こだわればこだわるほど癇癪が起こってくる。そして、冒頭にあげた場面になるわけです。

子どものころの私は、床屋へ行くのが怖かった。あの、剃刀があるからです。床屋に入ると、その日の機嫌を探るように理容師のおじさんの顔を覗き込むのが常でした。

さすが小説の神様、志賀直哉の描写も見事です。が、あのゾッとする瞬間を、

  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

と、5行で表現しきる詩人もまたすごい。無駄な表現が削ぎ落とされた、なんという驚くべきリアリティでしょう。

「理髪店にて」をはじめて読んだときの20歳くらい私は、この詩人は剃刀のように鋭く、冷たく、そして怖い人に違いないと思い込んでいました。

2017年8月13日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑧

最近では、男性が美容院でパーマネントウエーブをかけるのは当たり前ですし、シェービングや美顔のために女性が理容店を利用するケースも多くなっています。

しかし「理髪店にて」のころは、理容店のあの、赤青白の3色が螺旋状に回るサインポールが置かれた入口から入るのは、男に限られていたはずです。

理容(理髪)は先史時代からありました。青銅器時代の紀元前3500年ころの剃刀も見つかっているそうです。『旧約聖書』にも理容のことが書かれていますし、釈迦の10大弟子の1人ウパーリは、出家前には釈迦族の理髪師でした。


近世のヨーロッパでは、理髪師は外科医と同種の職業として扱われていた国も多かったようですが、日本では江戸時代の「髪結い」の流れをくみ、明治時代にかけては「理髪業従事者」と総称されました。伝統的な髪型が対象の理容について、「髪結い」の呼称はいまも残っています。

また江戸時代、鬢(びん)や月代(さかやき)を剃り、髪を結うことを仕事にした髪結床は床屋とも呼ばれていました。床屋という呼び方は、理髪業従事者とその店の俗称としていまも通用しています。近代的な理髪店は、文明開化の折に横浜に開業したものが第1号といわれます。

  春は早ようから  川辺の葦に
  蟹が店出し  床屋で ござる
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

  小蟹ぶつぶつ  石鹸(シャボン)を とかし
  おやじ自慢で  鋏(はさみ)を 鳴らす
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

1923年に発表された北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡「あわて床屋」では、新たな時代の理髪店で使われるようになった、文明開化を象徴する道具の一つといってもいいハサミをモチーフに、白秋らしい発想と巧みなオノマトペで歌っています。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

ハサミの普及で理髪店の主役だった剃刀は、少しずつ補助的な道具に変わっていきました。しかし「理髪店にて」の時代、もしくはこの理髪店においては、まだまだ剃刀が頑と主役を張っているように思えます。それも、「なめらかだが光なみうつ西洋刃物が」。

戦後のドサクサから経済復興へと経済が激しく動き出したころ、時代の変化に動ずることなく安定した収入が得られる理容師は人気の職種で、競争も激しかったようです。きっと、いまのカリスマ美容師と似たようなところもあったのでしょう。

そんな時代の、激動する大都会の象徴、新宿の理髪店を訪れた常連らしき潜水夫の「荒んだ黒い顔」を剃刀が滑っていく。80~90キロもあるヘルメット潜水の重い潜水服を着て、海中を這いずり回る百戦錬磨のたくましい肉体労働者。といえども、理髪師のきゃしゃな骨張った手がもしも、グサリといけば、一巻の終わりなのです。