2017年5月26日金曜日

「病牀六尺」の力⑧

歩行困難になった1895年からすると子規は7年間、「病牀六尺」にあったということになります。58歳で死ぬまで8年間「しとねの墓穴」におかれたハイネと比べてみると、年齢こそ違いますが、文学や書くことへの執念には、共通点が多いように思われます。


死の寸前まで綴られた『病牀六尺』はこんな文章で始まります。

「病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢(はか)なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪(しゃく)にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない」

わが身が恐るべき過酷な状態に置かれているというのに、なんとも冷静で快活な書きぶりです。短い生涯の間に数万の俳句を詠んだという子規。

弟子たちにも「普通の人にても、多少の学問ある者、俳句をものすること一万首以上に至らば、必ず第二期に入り来らん」(『俳諧大要』)などと、上達のためにはまずは多くの句を作ることを薦めました。

こうした子規は「病牀六尺」にあっても、視覚、聴覚、知覚、味覚、嗅覚など可能なあらゆる方法を駆使してひたすら書くことに挑んでいたのです。

「しとねの墓穴」において長い時間をかけて「彫琢」し抜いて仕上げていったハイネに対して子規は、書くことで生きている証しを見いだそうとするかの如く、身の回りにあるもの、起こることすべてを、書いて、書いて、書きまくっていきました。

一、田圃(たんぼ)に建家(たてや)の殖(ふ)えたる事
一、三島神社修繕落成石獅子用水桶(おけ)新調の事
一、田圃の釣堀釣手少く新鯉を入れぬ事
一、笹(ささ)の雪(ゆき)横町に美しき氷店出来(しゆつたい)の事
一、某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりし事
一、時鳥(ほととぎす)例によつて屡ゝ音(しばしばね)をもらし、梟(ふくろう)何処(どこ)に去りしかこの頃鳴かずなりし事
一、丹後守殿(たんごのかみどの)店先に赤提灯廻燈籠(ちようちんまわりどうろう)多く並べたる事
一、御行松(おぎようのまつ)のほとり御手軽御料理屋出来の事
一、飽翁(ほうおう)、藻洲(そうしゆう)、種竹(しゆちく)、湖邨(こそん)等の諸氏去りて、碧梧桐(へきごとう)、鼠骨(そこつ)、豹軒(ひようけん)等の諸氏来りし事
一、美術床屋に煽風器(せんぷうき)を仕掛けし事
一、奈良物店に奈良団扇(うちわ)売出しの事
一、盗賊流行して碧桐の舎(や)に靴を盗まれし事
一、草庵の松葉菊、美人蕉(ひめばしよう)等今を盛りと花さきて、庵主の病よろしからざる事

などと、『病牀六尺』に子規庵のある「根岸近況」を書き連ねていけば、『仰臥漫録』には、

十月八日 風雨
  精神稍(やや)静マル サレド食気ナシ
  朝飯遅ク食フ 小豆粥二ワン ツクダ煮 昨日ノ支那料理ノ残リ
  牛乳 西洋菓子
  午飯 サシミ 飯一ワン ツクダ煮 焼茄子 梨 ブダウ
  牛乳 西洋菓子 シホセンベイ
  便通トホータイ
  晩飯 サシミ三、四切 粥一ワン フジ豆 梨 ブダウ レモン
来客ナシ



などと、その日に食べたものを片っぱしから書き並べるとともに、「病室前ノ糸瓜棚 臥シテ見ル所」「コノ日風雨 夕顔一、干瓢二落ツ」などの絵もあちこちに添えています。

2017年5月25日木曜日

「病牀六尺」の力⑦

日本で「しとねの墓穴」の文学者というと、多くの人が、脊椎カリエスとたたかった正岡子規(1867-1902)=写真、wiki=を思い浮かべるでしょう。


新聞「日本」に掲載された『墨汁一滴』(明治34年1月16日~同年7月2日)と『病牀六尺』(明治35年5月5日~同年9月17日)、さらには最晩年の日記をまとめた『仰臥漫録』。

これらをあわせた、いわゆる「三大随筆」は、私の人生にとっても欠かすことのできない大切な書物となっています。

結核菌が脊椎へ感染した病気が、脊椎カリエスです。肺結核、腎結核など何らかの結核性の病気にかかった後に発病します。椎体内に乾酪壊死というチーズの腐ったような壊死巣ができ、椎体周囲に膿瘍が形成されます。

そうして椎体が破壊され、次いで椎間板にも病巣が及び、さらに隣接した椎体にも病巣が広がっていきます。椎体の破壊とともに脊柱の後弯変形がみられます。

腹部や殿部に膿がたまり、神経麻痺を生ずることもあります。当時、不治の病と見られていたこの脊椎カリエスに蝕まれた子規の晩年がどのようなものだったのか、ハイネと同じようにざっと年表にしてながめてみましょう。

1888(明治21)年 8月、鎌倉旅行の最中に最初に喀血。

1889(明治22)年 5月には大喀血し、肺結核と診断される。子規の号を用いるようになる。

1895(明治28)年 5月、日清戦争の従軍記者として帰国途上、船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後、松山に帰郷。松山中学校にいた漱石の下宿で静養。10月に再上京するころから腰痛で歩行困難になる。

1896(明治29)年 1月、子規庵で句会。結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症。数度の手術を受けたが病状は好転せず、臀部や背中に穴があき膿が流れ出る。

1899(明治32)年 夏以後、座ることも困難になる。この頃から約3年間、寝たきり。寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句、短歌、随筆を書き続けた。

1900(明治33)年 8月、大量の喀血。

1902(明治35)年 9月、死去。享年34。絶筆は

  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  をととひのへちまの水も取らざりき
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず

2017年5月24日水曜日

「病牀六尺」の力⑥

生と死のぎりぎりで書かれた『ロマンツェーロ』以降の作品には、確かに苦痛や苦悩の色合いが濃くあらわれています。

しかし冒頭にあげた詩を見てもわかるように、不思議に個人的な世界に矮小化することなく、開かれています。

冷静な描写のなかに思想と体験とが高いところで見事に結晶した、象徴的な世界をうかがうこともできます。

井上は「死に臨んで作られた悲痛凄惨な内容のかずかずの詩も、そのスタイルのみごとな形式に包まれて、最高度の芸術に開花しているといえる」としたうえで、「政治から孤立し、社会から隔絶し、ひとり死の床に呻吟しながらも、しかも、ハイネは政治や社会から離れきることはなかった」と指摘しています。

肉体は侵されながらも、精神は崩れることなく奇蹟ともいえる力を発揮したハイネの絶筆は、「ムーシュのために」とされています。片山敏彦の訳(新潮文庫『ハイネ詩集』)を読んでおきましょう。


     ムーシュのために(抄)

しかし私の墓の上には
珍しいかたちの、菫のはなが咲いていた。
花びらは硫黄いろの黄とそしてむらさきだった。
そして花の中には野生的な愛の力が生きていた。

そんな花がわたしの墓に咲いていた。
そして私のなきがらの上に身をかがめて
私の手に、額に、眼に接吻した、
悲しげに、無言に、恰も女ごころの嘆きのように。

しかし夢の持つ妖術よ! 不思議にも
硫黄いろの情熱の花は
一人の女の姿に変容した、
そしてそれがあなただった――まさにあなただった、懐しい人よ!

あなたがその花だった、そうなのだ、
その口づけで、それがあなたなのだと確かに判った。
どんな花の唇にもあんな情愛はこもっていない。
どんな花の涙にもあんな熱情は燃えていない。

私の眼はとじていたけれど
魂はあなたの顔を見まもっていた。
そしてあなたも私を見つめていた、その心は悦びにふるえつつ
姿は月の光のため精霊のようにほのぼの照って。

私たちは話さなかった。しかし私の心は聴き取っていた、
口には言わずあなたが心の奥で想っていたことを。――
口に言われる言葉は恥らいを失う、
沈黙こそなつかしく貞潔な花。

言葉には出さずに解り合う対話!
愛のこもった無言のおしゃべりをしていると
時間は、夏の夜の、幸福のおののきで編まれた美しい夢の中でのように
信じ難いほど速く流れ去る。

私たち二人が(私の夢の中で)何を話したかは、尋ねてはいけません!
蛍にお訊きなさい、蛍が草にどんな光の言葉を話すかは。
波にお訊きなさい、波がせせらぎの中で何をざわめいているのかは。
西かぜにお尋ねなさい、何を忍び泣いているのかと。

紅玉(ルビー)にお尋ねなさい、その輝きで何を話しているのかと。
菫と薔薇にお訊きなさい、その薫りで何を物語っているのかと。
けれど、尋ねてはいけません、月の光の漾(ただよ)う中で
あの花とその花の死んだ恋びととが、どんな睦ごとを話したかは。

2017年5月23日火曜日

「病牀六尺」の力⑤

「しとね」にあっても、ハイネは詩を書き続けました。先日、冒頭にあげた詩はまさに、そうした「しとねの墓穴」の〝産物〟ということになります。ならば当時のハイネは、どんなふうに詩を書いていたのでしょう。

井上正蔵によると、彼が創造した作品の数々は、当時もはやペンで書くことが困難になっていたため、不自由な手に鉛筆を握って、大きな白紙の上か、あるいは薄い二つ折版のノートに書きしるしたものが多く、原稿に残された大きな文字の筆跡は、麻痺や苦痛のあとをまざまざととどめているそうです。


1849年冬から50年夏までハイネの秘書的な役目をしたヒレブラントという人は、次のような証言を残しています。

「朝になると、いつも詩は出来上がっていました。それからいよいよ彫琢がはじまり、これが数時間も続いたのです。このあいだ、ちょうどモリエールが下婢ルイゾンの無学を利用したように、ハイネはよく私の若さを利用し、ひびき、音の抑揚、明晰などの点について、あれやこれやと私に助言を求めました。現在や過去の使いわけはことごとく厳密に考慮され、ふつう用いられない古語は、まずその適用の可否を吟味し、略綴はことごとく淘汰され、冗漫な形容詞はことごとく取除かれ、投げやりの箇所は随所に書き改められるのでした」

陰鬱なパリの夜、死の世界に彷徨しながら、天才詩人が心血を注いだ稀有の創造のいとなみが続けられていたのです。



「しとねの墓穴」で書かれた詩集『ロマンツェーロ』=写真、wiki=は、前例のない反響をおこし、1カ月足らずのうちに20000部が売れたといわれます。

2017年5月22日月曜日

「病牀六尺」の力④

先日の年表でも触れましたが、ハイネが実際に亡くなる10年前、1846年8月7日の「ドイツ一般新聞」に、どういうわけかハイネ死すとの〝誤報〟が載ります。

その後まもなくハイネと会ったエンゲルス(Friedrich Engels、1820-1895)=写真、wiki=の手紙には「あの気の毒な人はひどく衰弱している。骸骨のようにやせている。脳軟化症が拡大し、顔面の麻痺も同様。……あの人は肺病もしくは急性脳病で死ぬかもしれぬ」(9月16日ブリュッセル共産主義通信委員会あて書簡)とあります。


それでも当時はまだ、ときどき外出することは出来たようですが、1848年以降は、そうした体力も衰え果ててしまいます。

48年1月19日、母に送った手紙には、イギリスの新聞がまたも自分が死んだと報じたことを伝えながら「私の早死は非常に惜しまれました。ドイツの諸新聞の四分の三ぐらいも、私が死んだことになっています。もうそんなことには慣れっこなりました」と書いています。

死んではいないものの、生きていることが不思議なほど病状は悪化していたのです。ハイネは、もはや社会的生活をつづけることの出来ない、いわゆる肉体の廃人でした。そしてこの年の5月のある日が最後の外出となるのです。

『ロマンツェーロ』の後記に「かろうじて、私はルーブルまで足をひきずっていった。讃仰された美の女神、われらのミロの女像が台の上に立つ、あの崇高な室に入ったとき、私は、くずおれんばかりであった。その足下に伏して、私ははげしく泣いた。一塊の石さえ、あわれみをもよおさんばかりに。女神も慈悲ぶかく見下ろされたが、悄然として、お前にもわかるだろうが、私は腕がないから助けることが出来ないと云おうとしているかのようであった」と告白しています。



これから没するまでの八年にわたり、病床に釘付けされたような状態で生きることを強いられる「生きながらの死、生にあらざる生」(1848年9月17日マキシミリアン・ハイネ宛)、いわば「しとねの墓穴」に横たわらねばならなくなったのです。

2017年5月21日日曜日

「病牀六尺」の力③

ハイネ=スケッチ、wiki=の病気の正体は何だったのか。はっきりしたことは分かりませんが、その有力な説として、脳、脊髄、視神経などに病変が起こり、さまざまな神経症状が再発と寛解を繰り返す難病、多発性硬化症(MS)があげられています。


神経活動は、神経細胞から出る細い電線のような神経の線を伝わる電気活動によっています。髄鞘という〝絶縁体のカバー〟が壊れてなかの電線がむき出しになるのが脱髄疾患。

脱髄が斑状にあちこちにできて再発を繰り返すとMSになります。欧米の白人に多く、北ヨーロッパでは人口10万人に50人から100人くらい。

患者は高緯度地方ほど多いのが特徴です。平均発病年齢は30歳前後。原因としては自己免疫説が有力とされています。免疫系が自分の脳や脊髄を攻撃するようになるのです。なりやすさは、HLA遺伝子が握っているとされます。

神経が障害されると視力が低下したり、視野が欠けたりします。視神経だけが侵されるときは球後視神経炎といい、目を動かすと目の奥に痛みを感じます。

脳幹部が障害されると目を動かす神経が麻痺してものが二重に見えたり(複視)、目が揺れたり(眼振)、顔の感覚や運動が麻痺してしゃべりにくくなったりします。

小脳が侵されるとまっすぐ歩けなくなり、脊髄がやられると胸や腹が帯状にぴりぴりと痛み、手足のしびれや運動麻痺、尿失禁、排尿障害などが起こります。

多くは再発・寛解を繰り返します。再発の回数は年に3~4回から数年に1回程度。発病のときから寝たきりとなり、予後不良の経過をとる場合もあります。

素人目ですが。こうして見てくると、ハイネの症状や病気の進行にぴったりあてはまるようにも思われます。

2017年5月20日土曜日

「病牀六尺」の力②

ハイネは1797年12月、デュッセルドルフのユダヤ人家庭の長男として生まれました。ボン大学でA・W・シュレーゲル、ベルリン大学でヘーゲルの教えを受けて作家としてスタート。

『歌の本』などの抒情詩を初め、旅行体験をもとにした紀行や文学評論、政治批評などジャーナリスト的な活動も繰り広げていきました。

ところが著作中の政治や社会への批判によって次第にドイツ当局の監視の目が強まり、1831年にはパリに移り住むようになります。ここで多くの芸術家たちと交流を持ち、若き日のマルクスとも親しくなりました。

ハイネはロマン派の流れにありながらも、政治的な動乱の時代にあって批評精神に富んだ風刺詩や時事詩もたくさん発表しています。

平易な表現によって書かれたハイネの詩は、さまざまな作曲者によって曲が付けられ、とりわけ『歌の本』の詩からは多くの歌曲が生まれました。

なかでも一八三八年にフリードリヒ・ジルヒャーによって曲が付けられた「ローレライ」は広く知られ、ナチス時代にはハイネの著作は焚書の対象になったものの、この詩だけは作者の名前が抹消されて歌われました。

そんなハイネの晩年は、貧窮に喘ぎながら、寝たきりの壮絶な闘病生活を送ったことで知られています。それがどんなものだったのか、井上正蔵『ハインリヒ・ハイネ』(岩波書店)の年表をもとにたどってみることにしましょう。


1831年 5月、終生までの住処となるパリに移る。
1837年 晩夏に盲目にならんばかりに眼疾を患う。
1838年 年末に視力が再び減退し、口述代筆を余儀なくされる。
1839年 眼疾も、肉体疲労も進行。
1840年 『ベルネ覚書』を発表。肉体の疲労感、ますます激化。
1841年 年頭から眼疾起こる。マチルドと結婚。九月、ザロモン・シュトラウスと決闘。
1843年 春から激しい頭痛、左半身の感覚麻痺、視覚も錯乱。二五歳のマルクスと親交。
1844年 時事詩「貧しき職工たち」を発表。『新詩集』を刊行。眼疾、激しく起こる。
1845年 1月から左目はほとんど閉じ、右目も曇る。前年末の叔父ザロモン・ハイネの死去で、親族間で激しい遺産争いが起き、1847年に甥のカールがハイネを訪れて合意するまで続いた。このころから麻痺が悪化。
1846年 顔面麻痺が甚だしく、骸骨のように痩せ衰える。9月に訪れたエンゲルスが死を予感。ドイツでハイネ死去の誤報が流れる。
1847年 病状は好転せず。訪ねたラウペが、痩せ衰え、なかば盲いた姿に愕然とする。
1848年 重体となり脊髄病患者として入院中に2月革命勃発。体半分が動かなくなり、5月のルーブル美術館訪問を最後に寝たきり。いわゆる「しとねの墓穴」の生活が続く。6月、遺言状を書く。
1849年 「神の両足動物ではなく、死病につかれた不幸なユダヤ人」として、不安と絶望のうちに日々を過ごす。モルヒネを飲んでのかろうじての睡眠につく夜毎だったが、すばらしい詩のリズムが生まれたという。
1850年 病気のために出費もかさみ、生活は困窮。
1851年 『ロマンツェーロ』を刊行。4カ月で5000部ずつ4版。11月、遺言状を書く。
1852年 病勢は好転せず。ルイ・ナポレオンが帝政を宣告。
1853年 6月、かつての恋人テレーゼが訪れ、痛苦に堪えて生きる姿に驚嘆する。
1854年 「遺言断片」が書かれる。クリミヤ戦争勃発。
1855年 「ムーシュ(蝿)」と呼ばれたエリーゼ・クリニッツがたびたび訪問。
1856年 2月17日、吐血に襲われ死去。胸に花束をのせてもらい「花! 花! ああ、自然は美しい!」と言った。58歳。