2017年11月24日金曜日

金子光晴「燈台」⑫

1937(昭和12)年には「燈台」の入った詩集『鮫』を、1940(昭和15)年には『マレー蘭印紀行』をと、戦時下の体制が強化され国をあげて戦争に深入りしていく中でも光晴は、非協力、反戦の詩を書き続けました。

しかし「厚く偽装をこらして」発表をつづけてきた作品も、次第に危険視され、文壇からも敬遠されていきます。

1944(昭和19)年11月14日、東京への最初の空襲。光晴が住んでいた吉祥寺に近い、中島飛行機製作所に爆弾を投じていきました。以降、東京は106回の空襲を受けることになります。

「この戦争では犠牲になりたくない。他の理由で死ぬのならかまわないが……」、そんな「意地っ張り」から光晴は、山梨県山中湖畔の平野地区にある旅館の別荘を借りて疎開することに決めます。

〈落葉松の林のなかに、安い借家普請のような、その別荘と称する家も建っていた。零下二〇度の寒さで、掛布団が吐く息で凍り、インキは氷になって、櫓炬燵(やぐらごたつ)のなかでとかしてから使わねばならなかった。

さすがに空気だけは、清澄だった。障子一枚のむこうにみえている湖水は、鈍く凍りついて、晴れた陽はまぶしく照返し、胸を突きあわせるように近々と富士山が聳えていた。〉(『詩人』)


有名な詩「富士」は、この疎開中に作られました。

  重箱のやうに
  狭つくるしいこの日本。

  すみからすみまでみみつちく
  俺達は数へあげられてゐるのだ。

  そして、失礼千万にも
  俺達を召集しやがるんだ。

  戸籍簿よ。早く燃えてしまへ。
  誰も。俺の息子をおぼえてるな。

  息子よ。
  この手のひらにもみこまれてゐろ。

  帽子のうらへ一時、消えてゐろ。

  父と母とは、裾野の宿で
  一晩ぢゅう、そのことを話した。

  裾野の枯林をぬらして
  小枝をピシピシ折るやうな音を立てて
  夜どほし、雨がふってゐた。

  息子よ。ずぶぬれになつたお前が
  重たい銃を曳きずりながら、喘ぎながら
  自失したやうにあるいてゐる。それはどこだ?

  どこだかわからない。が、そのお前を
  父と母とがあてどなくさがしに出る
  そんな夢ばかりのいやな一夜が
  長い、不安な夜がやつと明ける。

  雨はやんでゐる。
  息子のゐないうつろな空に
  なんだ。糞面白くもない
  あらひざらした浴衣のやうな
  富士。

山の中の村に疎開したからといっても、もちろん、戦争から自分たちの生活が隔離できるはずはありません。敵機は幾編隊を組んで富士山をめがけてやってきました。そして一子、乾への召集令状がまた届きます。

〈二年目の子供の召集状が、山のなかにまでとどいた。平野村には七十何歳の老医師が一人いた。僕は、再度、子供を松葉いぶしにして、喘息発作を誘発し、老医者を招いて、現に病状をみせ、診断書を書いてもらうとそれをもって上京した。

三月の大空襲のあった日だった。本部まで出むいて、僕は、係官に会い、診断書をみせて、事情を話し、また一年引きのばしてもらうことにした。空襲がはげしくなってからは、招集状も届かないものが多く、軍では、あつまった人員だけをかきあつめるようにして現地に送るより仕方がなくなっていた。

それも、多くは現地へ送る船舶に不足して、主として敵上陸に備える内地防備の方へ廻されることになったらしい。子供のことが安心となれば、僕らとしては、これで一片づきだった。

だが、このことの結果が、いずれ、大きなしっぺい返しとなってかえってくることだけは、覚悟していた。最後の段階では敗戦とわかっていても、そこに至るまでに、かえって身の危険があると考えたのは、まだ、日本の軍の力を過信していた証拠であろう。

インテリのこまかいリストが作りあげられ、本土作戦の前には、そういったあいまいな分子は、大量虐殺されるというようなデマがとんでいた。ありそうなことだった。〉(同上)

「富士」が収められた詩集『蛾』のあとがきに光晴は「全篇に哀傷のやうなものがただようてゐるのは、いつ終るかもしれない戦争の狂愚に対する絶望と歎きのよりどころない気持からで、いつはりなく弱々しい心になってゐた」と当時の心境を記しています。

2017年11月23日木曜日

金子光晴「燈台」⑪

  辛子のやうに痛い、ぶつぶつたぎつた戦争にむかつてやつらは、むやみに引金をひいた。
  いきるためにうまれてきたやつらにとつて、すべてはいきるためのことであつた。
  それだのに、やつらはをかしいほどころころと死んでいつた。
  リーベンたちは一つ一つへそのある死骸をひきずつてトラックにつみ、
  夜のあけきらぬうちにはこんで川底に、糞便のやうに棄てた。
  ふるさとのあるやつも。ふるさとのないやつも。

  そのからだどもはやつぱり、塞がつたり、あつがつたりするからだだつたのに。
  いまはどれも、蓮根のやうに孔があいて、肉がちぎれて百ひろがでて、かほがくつしやりとつぶされて。
  あんまりななりゆきに、やつらは、こくびをかしげ、うではひぢに、ひぢはとなりのひぢに、あわてふためいてたづねる。
  ――なぜ、おいらは、こんな死骸なんかになつたのかしら。

  だが、いくらかんがへてみても駄目だ。やつらの頭顱(とうろ)には、むなしいひびきをたててひとすぢに、濁水がそそぎこむ。
  氾濫する水は、――「忘れろ」といふ。

  こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。
  おいらは、これで満足といふわけか。
  だが、水は、やつぱり「忘れろ」といふ。

「燈台」が入っている詩集『鮫』にある「泡」という詩の一部です。中国ではじまった戦争の無惨さに対して、単に人道主義的な叫びを上げるのではなく、実態をからだで受け止め直視しているのです。

「こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。」と腹の底からの問いを発します。そして行きついたものは、日本という国の「そらのふかさ」をつくっている理不尽な「神」の存在だったのです。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

1932(昭和7)年に、長い海外への旅から帰ってきた光晴の眼には、日本人をがんじがらめにしている天皇を頂点にした権力機構が、異様なものとして写っていたのでしょう。

「いまの日本人ほどの文化教養がありながら、いきなり飛びついてゆける天皇イズムの強力な魅力の正体について、どうしても合点がゆかないところがあった」(「政治的関心」)のです。


当時、光晴はマックス・シュティルナー(1806~1856)=写真=の思想に強い影響を受けていました。

いかなる人間的共通性にも解消出来ない自我のほかのすべてを空虚な概念として退け、自己が自らの有する力によって所有し消費するものだけに価値を認める“徹底したエゴイズム”の立場から、個人を阻害する国家などのあらゆる権力を否定する、アナキズムともいえる立場を主張したドイツの哲学者だそうです。

そうした中で、「天皇制権力機構への批判」を象徴的に歌いあげた「燈台」を作った背景について首藤基澄は、『金子光晴研究』で次のように指摘しています。

〈天皇はただに政治的な側面ばかりでなく、宗教的・倫理的な性格を帯びて日本人をしめつけていた。従って、昭和期における自我の確立は、天皇を中枢とする一切の権力を剥ぎ棄てることから始めなければならなかったわけである。

大正デモクラシーが簡単にやりすごしてしまったその問題を、スティネルに裸にされた光晴は恐れずに悪魔祓いして行ったのである。

彼は「マックス・スティルネルの影響で、政治を蛇蝎視していた時代の僕は、政治を憎まずにはいられないほど、政治にこだわりを持っていた」といっている。

われわれの心の底まで蚕食してしまう天皇制を批判する時、彼はスティルネルに習って一切の価値を否定するニヒリズムを基盤にしていたのである。〉

2017年11月22日水曜日

金子光晴「燈台」⑩

「燈台」が入った詩集『鮫』は、1937(昭和12)年8月、人民社から刊行されます。前にも見たように、その直前の昭和12年7月には、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。国をあげて戦争へとのめりこんでいった真っただ中でのことでした。

『鮫』には次のような序文があります。


〈武田麟太郎さんに序文をお願ひしたが、別に書くこともなささうだといふこと。僕が自分で筆をもつたが矢張、必ず言はねばならぬこともありません。一言、鮫は、南洋旅行中の詩、他は帰朝後一、二年の作品です。

なぜもつと旅行中に作品がないかと人にきかれますが、僕は文学のために旅行したわけではなく、塩原多助が倹約したやうにがつがつと書く人間になるのは御めんです。

よほど腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩を作らないつもりです。

僕の詩を面白がつて発表をすすめてくれた人は中野重治さんで、序文をたのしむのはその方が順序と思ひましたが、このあついのにと察してたのむのをやめました。〉

よほどの「腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいこと」があって作られたのでしょう。反骨心にあふれた7篇の詩が収められこの詩集は200部出版されましたが、ほとんど梱包も解かれぬまま、光晴宅と人民社の発行人の武田麟太郎宅に山積みにされました。

武田宅に置かれた詩集は昭和20年の東京大空襲で焼失しています。

それにしても、言論統制が厳しさを増していたこの時代に、偽装を施した表現を用いたとはいえ、天皇制批判や日本軍の暴状をあばく激しい言葉を投げつけた、こうした詩集が出版されていたということは驚きです。光晴は自伝『詩人』につぎのように書いています。

〈印刷のはこびになったとき、盧溝橋事件があり中日戦争の火ぶたが切って落された。やはり、来る筈のものが来たという感じだった。

前の年、通州事件があって、日本人が虐殺された。丁度那須へ避暑にゆく時で、折角の行楽がくらい気持のものになった。その秋頃深夜明け方近く、僕が勉強していると人気ない表通りに、異様な地ひびきがきこえ、それがいつまでもつづいた。

小窓を開けて、そっとみると、蜒々(えんえん)とした、みたこともない戦車の列であった。どこへゆくのか。それが、毎夜つづいては、ただごととはおもえなかった。しかし、日本国民は、おおかた、なにも気づかなかった。日華事変の突発は、前年のこのことを裏書した。

戦時に入っては、僕の『鮫』も、一まず形勢をみて出版すべきだという説も出て、僕も、引込めるつもりでいたところ、『人民文庫』の編集をしていた本庄陸男が余丁町の家にやってきて、その考えに異議を申し立てた。

「こんな形勢になってこそ、この詩集の意義があると僕は思います。是非出してください」という、真正面な言葉によって、僕は意をひるがえした。本庄君のようなヒタ向きな人間のことばを、日本ではすでに久しく耳にしなかったのだ。

二人で余丁町から新宿に歩いて、角筈の角にあるオリムピックという店で、夕食をとりながら、出版の手筈をあれこれと相談した。本庄君はもう、よほど胸の病勢がすすんでいたらしい。

『鮫』は、禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い、そんな面倒な鍵さがしをするような閑人が当局にはいなかった。

なにしろ、国家は非常時だったのだ。わかったら、目もあてられない。『燈台』は、天皇制批判であり、『泡』は、日本軍の暴状の暴露、『天使』は、徴兵に対する否定と、厭戦論であり、『紋』は、日本人の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に値する人間だったのだ。

強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生きのびられるかが、我ながらみものであった。そして、この結果は、当時の僕としては、いかなる力をもってしても、考え直したり、枉(ま)げたりする余地のあるものではなかった。

僕らの周囲、例えば、僕の会社の上役連中にしても、日本国民としての国家への協力――それによって将来もうまい汁を吸えるようにとのはかない下心もあって、いつでも御用事業に切りかえようという態勢に出た。彼らは、大きな世界地図を壁に掛けて、新聞の報道に従って占領地に小旗を、いくつも刺していった。

御用作家たちも、続々と海をわたって、報道陣に加わった。非協力の作家のリストを、軍の黒幕になって作っている文士もあった。

金子光晴はまだ返り新参の駆出しだったので、そういうリストにも漏れていた。詩が難解ということも、僕にとっては有利だった。それに、僕の詩の鍵をにぎった連中は、概して、僕を外界から護ってくれた。

多くの正直な詩人達が、沈黙を守らされている時、僕に語らせようという、暗黙のあいだの理解が、目立たぬ場所で僕を見まもっていてくれたのだ。

文学報国会というものがうまれ、その会員でないものは、非協力者として、文筆の仕事もできなような窮屈な時代がきて、文士全体がなにか積極的な国家の提灯持の役を引受けなければ、一括して存在を許されなくなりそうな危機に、殆んど会に出席しなかった僕の存在を大目にみてくれたことは、やはり、文人の社会なればこそと、今でも思っている。

前田鉄之助と往来でばったり会った時、前田は、「君、いい加減にした方がいいよ。当局だって、めくらばかりがいるわけじゃないんだから」と、忠告してくれた。

最初は半年位で片づくなどという楽観説もあったのが、その年の暮になっても片付かず、益々戦局は深入りしてゆくばかりになって、「不拡大」を叫びながら、政府も曳きづられて、方途がつかない状態になっていった。〉

2017年11月21日火曜日

金子光晴「燈台」⑨

      三

  こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
  ――神はゐない。
  と、おろかにも放言した。
  それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
  ………………。
  ………………。

  つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
  神は下界をみおろしてゐる。
  かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
  ――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

  だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
  雷鳴。
  いや、いや、それは、
  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。
  威嚇するやうに雁行し、
  つめたい歯をむきだしてひるがへる
  一つ
  一つ
  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

大日本帝国憲法の第1条は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する)とされています。

戦前、天皇制を否定する主張を者は不敬罪、治安維持法違反などで、場合によっては死刑になることもありました。

「神はゐない」と「放言した」ために、ひどい処罰を受けて身を滅ぼした人たち。

逆説的な言い方をしたりメタファーで覆い包んだりしてはいるものの、詩人のこうした暴露的な言葉も、「神はゐない」という放言と立場は同じでしょう。

神のきびしい「いましめ」に縛られたこの世に「うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。」と詩人は嘆きます。


国民の生命を「一銭五厘」のハガキ一枚、いや「赤紙」=写真=といわれた徴兵令状一枚で自由に出来ました。そんな、天皇を頂点とした軍国主義国家への鋭い反発が、言葉に込められています。

「一銭五厘」とは、そもそも戦時中の葉書の郵便料金のことですが、実際は役場の職員が召集令状を持ってきました。臨時召集の令状は薄い赤色の紙であったことから「赤紙」と言われます。

当時、満20歳の男子は全員徴兵検査を受けました。甲種合格では2年間の現役兵としての兵役があり、乙、丙種はそのまま地域に残り、2年間の兵役を終えて帰郷した甲種合格者とともに「在郷軍人」として市民生活を送っていました。「燈台」ができたころは、40歳まで兵役を課されていたのです。

在郷軍人として市民生活を送っている傍らも、演習召集、教育召集、国民兵召集などいろんな色の召集令状が届けられ、有事にすぐ動けるような体制が整えられていました。

軍司令部から「赤紙」が地域の警察に運ばれ、さらに地域の役場の兵事係が手渡しました。「赤紙」には、発行年度や本人の住所や氏名のほか、出征すべき日時や場所が指示されていました。受け取り証の本人署名をする欄があって、配布時に切り取られて兵事係が預かったのです。

一人が何回も召集された例も多かったようです。職業や特技、健康状態、徴兵検査結果の優劣などによって、軍にとって有用と判断されれば、何回も「赤紙」を渡され、兵隊に行かざるをえませんでした。

召集のシステムは、軍のトップでなければ知ることはできませんでした。徹底した秘密主義のため、「赤紙」は郵便で来ると思われて「一銭五厘」と呼ばれたり、クジや役場で選抜しているという誤解も生じたようです。

国民がいかに怨嗟の声を放っても、唾を吐き、つぶてを投じても、天皇のところまでは届きません。「一銭五厘」の消耗品たちがいかに傷つこうとも、弾丸の届かないところで「なにもとどかぬたかみで、安閑として、神は下界をみおろしてゐる」のです。

詩人は弾のとどかないところで「安閑と」高みの見物をしている「神」を、権力の座から「曳きずりおろすんだ」と叫びます。

  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。

というのは、天皇を楯にして、そのまわりにはびこっている軍部の不気味な動きを表しているのでしょうか。そして最後に、日中戦争などで威力を発揮した、大量の爆弾類を搭載して水上を滑走して飛ぶ水上爆撃機が登場します。

  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

天皇の言葉は「信託」となって、戦争に駆り立て、国民と国土のうえに長く、重くのしかかっていきました。

2017年11月20日月曜日

金子光晴「燈台」⑧

    一

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

      二

  それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
   (こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
  包茎。
  禿頭のソクラテス。
  薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。  めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

  神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

  神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
  燈台はただよひ、

  燈台は、耳のやうにそよぐ。


第二章へと進んでいくと「そら」に「めじろおししてゐる」神をめぐる比喩的な表現は、より具体的に、はばかることなくすさまじいまでの勢いを強めていきます。

佐藤總右は『金子光晴・さまよえる魂』で次のように記しています。

〈たとえば“そら”という皇居のふかみには「神さまたちがめじろおししている」のである。それは神国日本の実状であり、かりにもそこをのぞいたりすれば、たちまち“不敬罪”という刑罰がくだされるというのである。

そういえばその当時は、二重橋の奥にはたえず霞がたなびき、牢固としたそのやぐら門はつねに身を清めた近衛兵に守られて、われわれ市民はやぐら門の間近にさえ近づくことが出来なかった。

しかもそこには“燈台”という現人(あらひと)神の天皇が君臨させられている。だが、その“燈台”は白い一本の蝋燭であり、男性として一人前にならない包茎なのだ。

(この辺の複数のイメージは金子光晴の独壇場である。しかも、“燈台”“蝋燭”“包茎”というイメージが、“禿頭のソクラテス”=写真=にまで進展すると、もやは私はこの詩人のアイロニーの見事さに脱帽せざるを得ない。

なぜなら哲人ソクラテスは生涯インポだったという伝説が伝えられている。そのことにさえ思い当たるからである)〉

詩のなかにある「三位一体」とは、「キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験に顕示された精霊なる神とが、唯一なる神の位格(ペルソナ)であるとする説。この三者に優劣の差別はない」と、広辞苑にはあります。

キリスト教を離れても、三つの要素が互いに結びついていて、本質において一つであること、三者が協力して一体になること、三者が心を合わせることなどを指して用いられる場合もしばしばあるそうです。

ソニーが1967(昭和42)年に開発したブラウン管「トリニトロン(TRINITRON)」。一つの電子銃から三原色分の電子線を放つこのブラウン管は、三位一体を表す英語TRINITYと電子を表す英語ELECTRONから名づけられました。

小泉純一郎が総理大臣だったとき「三位一体の改革」を唱えました。地方に出来る事は地方に、民間に出来る事は民間に、という小さな政府論を実現するため「国庫補助負担金の廃止・縮減」「税財源の移譲」「地方交付税の一体的な見直し」をいう三つの政策を一体的に進めようとするものでした。

神も、経済も、政治も、ときに、「三位一体」であることによって、恐ろしいまでのふるまいを見せるのです。

2017年11月19日日曜日

金子光晴「燈台」⑦

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

岬の突端に、「いつぽんのしろい蝋燭(ろうそく)」のように立っている燈台。眼下には騒ぐ海が広がり、塔の上には遥かな空があります。

金子光晴は〈詩集「鮫」のなかの、燈台という詩も、白浜燈台を頭のなかに描いてつくったもので、やはりこの時の旅行の印象が深く心に焼きついていたので、内部からの発想が、象(かたち)を借りたものだと言える〉(「日本の芸術について」)と記しています。

「この時の旅行の印象」というのは、26~27歳のころ、千葉県南房総の白浜のほうへ旅をしたときの思い出のようです。

房総半島を南へと向かうと、潮風の香る海辺のまち白浜にたどりつきます。東西に全長10kmの海岸線。さわやかな海の蒼さ、陽光は飛び散るようにきらめき、すべての風景をくっきりと映し出します。

そんな白浜の近く、房総半島の最南端野島崎には野島埼灯台が立っています。高さ24メートルの、太平洋にぐるりと囲まれた白亜の八角灯台。灯台の光源であるレンズの直径は2メートル以上あるそうです。

1866年(慶応2)年5月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書によって建設することになった8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つです。

1870(明治2)年、観音埼灯台に続いて、日本の洋式灯台では2番目に初点灯しました。むかしもいまも野島崎は、日本の中枢、東京湾に出入りする船舶を守る最重要なポイントなのです。

ヴェルニーをトップとするフランス人技師たちの設計で建設された当初は、白色八角形のレンガ造の燈台でした。燈火までの高さは30m 。フランス製の一級のレンズが使われました。

光晴が白浜を訪れたとみられる直後の1923(大正12)年、関東大震災のため地上 6 m のところで折れて、大音響と共に倒壊しました。1925(大正14)年に現在の白色塔形(八角形)コンクリート造で再建されますが、1945(昭和20)年の太平洋戦争の攻撃で再び大きな被害を受けることになります。

燈台は、船舶の航路標識の一つで、その外観や灯光によって位置を示す光波標識の中の「夜標」として位置づけられています。遠くからでも識別できる強力な光源をもち、夜間には光源が明滅、大型のものは光源のレンズが回転して、航行する船舶が場所を識別する目印となるのです。

そもそも、紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことに始まるといわれている灯台。

紀元前279年ごろから約19年の歳月をかけて、世界の七不思議の一つともいわれる「アレクサンドリアの大灯台」=写真、wiki=が港口のファロス島に建設されます。約134m の高さがあったと言われ、796年の地震で半壊するまで使われていたようです。


日本では、839年(承和6年)に復路離散した遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと『続日本後紀』にあるのが、最初の燈台と考えられています。

江戸時代に入って海運が盛んになると、灯明台や常夜灯が岬や港に近い神社の境内などに設置されるようになりました。

第二次世界大戦直前には400基を数えるようになりましたが、海外の水準からすると「ダークシー」と呼ばれる状況でした。戦後は高度経済成長により飛躍的に増加し、燈台は3000基を超えるまでになっています。

2006(平成18)年、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下惠介監督)の舞台となったことで知られる、日本最後の職員滞在灯台、女島灯台(長崎県五島市)が自動化され、日本の全ての灯台が無人化されました。

旅で見たとき、燈台が印象に残ってたがものの、光晴に特別な感慨はなかったようです。旅から約10年後にできたこの詩で、燈台は、空、高所、雲の上などへの連想に誘う作品の舞台、主題への導入の大きな役割を演じることになったあけです。

燈台の上の深い空。その空へ私たちの目を向けさせ、そこに何があるかを語る。空は聖なるもの、神々のいるところ。詩人がここで語るのは、信仰の神々でも観念上の神々でもありません。

「現人神」としての天皇であり、その絶対権力であり、天皇を中心に築かれた絶対的な国家体制なのです。戦前の天皇は人間であるよりも神でした。「天」にある絶対的存在だったのです。

2017年11月18日土曜日

金子光晴「燈台」⑥

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

「エーテル」の語源は、燃やす、輝くといった意味をもつ、ギリシア語の“アイテール”とされます。

空間に何らかの物質が充満しているという考えは古代ギリシャからありました。その「天空を満たす物質」が、エーテルです。

エーテルは17世紀以後、力や光が空間を伝わるための媒質とされてきました。デカルトは、ブドウの樽のブドウ酒のように、あらゆる物質の隙間を埋める「微細な物質」を想定。それが光を伝達させ、惑星はその渦に乗って動いていると考えていたといいます。

エーテルは、惑星の運動をはじめ、光や電磁気の振る舞い、さらには私たちの日常に起こっているさまざまな事象を成り立たせているのに欠かせないものとされてきたわけです。

ところが、エーテルを想定するとさまざまな矛盾を来たしてきます。辻褄を合わせるために、エーテルの理論は二転三転、いろんな理論武装を重ねて複雑怪奇な様相を呈することになるのです。

エーテルという“化け物”を完全否定し、「幻影」でしかないことを明らかにしたのは、あのアインシュタインです。

相対性理論によって、エーテルを含めた絶対座標系、絶対的な基準は取り払われ、より根本的な原理から「長さ」や「時間」といった概念が導き出されるようになったのです。

「天使」は、聖書などに登場する神の使い。英語の「Angel」はギリシア語のアンゲロスに由来し、原義は「伝令」「使いの者」。天使は人間よりも優れた知恵と能力を持った、肉体を持たない“霊”であるとされます。

キリスト教では悪魔は、堕落した天使。もともと神によって善きものとしてつくられたものの、神にさからって地獄に堕ち、人間に悪を行うことを薦めるようになったとされます。

「鷹」は、古くから支配者の権力の象徴的な存在として扱われてきました。古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在します。

日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ)が置かれたという記録があります。

平安時代にも天皇は代々鷹狩を好み、狩をする鷹場がは禁野として一般の出入りが制限されていました。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残し、その技術の書『新修鷹経』を編纂させています(818年)。


金子光晴が「エーテル」に対してどのような認識をもっていたかは分かりません。

ただ、アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年。それを拡張させて、一般相対性理論が出たのが1915~1916年のことです。

光晴がヨーロッパなどを放浪していた時期に、化けの皮が剥がされた「エーテル」が一般の間でも、世界的に大きな話題になっていたことは想像されます。

古くから天空を満たしていると信じられながら、それが幻影でしかなかった「エーテル」。幻でしかないのに「飴のやう」であるエーテルに、神の使いである霊的な存在である天使の「腋毛」が、そして支配者の象徴である鷹の「ぬけ毛」が、リアルにただよっているのです。

この場面、じっくりと味わいたい強烈なメタファーだと思います。そして、さらに畳みかけるように「青銅」がつづきます。

青銅は主成分が銅で、スズを含む合金。中国から製法が伝わったことから、青銅は唐金(からかね)とも呼ばれています。

青銅の使用は、紀元前3000年ごろ、初期のメソポタミア文明であるシュメール文化の時代までさかのぼるそうです。青銅は銅などに比べて硬く、鋳造や圧延などの加工ができたので、斧、剣、壷などに広く使われてきました。

より安価な鉄の製造技術が確立すると多くの青銅製品は鉄製品に代わりますが、大砲の材料としては19世紀ごろまで用いられています。大砲のような大型製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったからだそうです。

日本へは紀元前4世紀ごろ、鉄とともに九州に伝わったと考えられています。紀元前1世紀ごろ、国内での生産が始まり、2世紀には大型銅鐸が作られます。

鉄とともに伝来したため、日本で青銅で作られたのは祭器が中心でした。「神さま」を神さまとするための道具として使われたのです。

秤〈かんかん〉は、車の重さなどを測る大型の秤のことでしょう。重さを量ること、あるいはそのために使う台秤を意味する「看貫(かんかん)」という言葉に由来します。

「飴のやうなエーテル」には、神さまたちの「はだ」から発せられる、祭器や大砲の材料に使われてきた青銅が灼けるやうな凄じい「にほひ」が漂います。

そして、そこには大砲の重さを計ることもできるであろう、大きな秤が置かれているのです。