2016年12月31日土曜日

「ソリアの地」から「スペインの地へ」③

「ソリアの地」から「スペインの地へ」というように題名を一般化することによって、地域に対する攻撃的な色彩を薄めたとはいえ、この詩は、歯に衣を着せぬ、なんとも強烈な物言いをしています。

たとえば「野や村に悪しき人が溢れる/不健康な悪徳や獣じみた罪を犯すことができ/黒っぽい野良着の下に醜い魂を隠す者」「つねに羨望と悲しみで濁った目は/自分の物を固守し隣人が手に入れたものに涙する」などといった表現を見れば、「我らがまち」に対する容赦なき悪口雑言を並べたてている、と受け止められても不思議ではありません。

その地に生まれ地道に暮らす人たちからすれば、血筋や姿かたちまで貶されてはたまったものではないはずです。書き出しの「これら野に住む人間は…」からして、なんとも意味深長です。

この土地に人間が存在しているということそれ自体に対して、詩人は「呪いの荒れ地」と決めつけているようです。そして、そこに住む人びとは、キリスト教でもろもろの罪の原因となると考えられている、①虚栄あるいは尊大②貪欲③法外かつ不義なる色欲④暴食および酩酊⑤憤り⑥妬み⑦怠惰の「七つの大罪」の奴隷だというわけです。

『カスティーリャの野』では、一方で人生の真実に迫るような鋭いコプラが並んでいるかと思えば、かたや、愛する妻と暮らた場でもあったはずのカスティーリャの地の姿を、執拗なまでにあばき出します。

マチャードの本意はもちろん、住民たち個々の姿形やその行為を糾弾することではなかったでしょう。彼らの根っこにあるものに、詩人は眼を向けているのです。

とんでもない窮地に追い込まれた祖国を再生するには、言葉の力で、その「病弊」の根底にあるものを詳らかにすることが詩人の使命であると信じているかのようでもあります。

小柄で身軽く、我慢強い男、抜け目のないその目は
窪み、疑い深く、よく動く、そして
頬骨の出たほそ面に、太く濃い眉が
大弓のアーチを描く

この詩の中で、ソリアの農民の肖像画を肉体と精神の両面からこんなふうに描写しているところにライン・エントラルゴは注目し、同詩集の「イベリアの神(El dios Ibero)」 を引用して、次のように指摘しています。


〈こうした肉体的外見に、実に嫌悪感をもよおす倫理的条件の総体が呼応している。醜い魂―七つの大罪の奴隷、妬みと悲しみ、血を好む残忍さ。いや、そうではない。この肖像画には、わが国の高地地方の農民はよく描かれていない。彼はイベリア人なのだ。すなわち、

もしも歌曲の博徒
大弓師のように
穂に石を降らせ、
秋の収穫を取りそこねた神に投げつける
歌矢(サエタ)があったなら……

と願う男なのだ。しかし、イベリア人に対するアントニオ・マチャードの考えは、これに尽きるのだろうか。否、そのはずはない。彼の魂には希望が失われていない。彼も、世代のすべての仲間同様、可能性としてのスペイン人の到来を待望し、またその必要性を感じている。

  わが心は、黄褐色の大地のいかつい神が
  カスティーリャの樫に
  彫り刻むであろう
  たくましき腕のイベリアの男を待っている〉

2016年12月23日金曜日

「ソリアの地」から「スペインの地へ」②

イアン・ギブソンは「ソリアの地」が「ドゥエロの地へ」として再出版されたころの詩集に対する地元の受け止め方を次のように見ています。

〈マチャードがソリアに滞在したのは1907年春ごろからだが、そのころこの地域の村では森林火災がひっきりなしに起こされ、殺人や他の暴力犯罪も多発し治まるきざしはなかった。

そうした中での憂鬱な意気をそがれる雰囲気が「ドゥエロの地へ」の下書きの多くの修正や抹消、見直しにみられ、最終的に詩が組み立てられるまでに長く困難な詩作の行程があったことは明らかである。

それはともかく「ドゥエロの地へ」は、幾人かの市民たちの激しい反発を招いた。ソリア全体の秩序を乱す攻撃だと解釈されたからだ(確かにそこには、オンカラ峠の5メートルの積雪の中で起きた冷酷で残忍な瞬間が描かれていた)。

よそ者による攻撃は受け入れられなかった。しかも、学校のフランス語の教師が発言したということであればなおさらのことだ。イデアル・ヌマンシア(Ideal Numantino)」という新聞の1月13日の紙面には次のように記されている。


私たちが読んだマチャード氏の「ソリアの地」は美しい詩である。しかし、その内容は薦められるものではない。「ソリアの地」の住民たちをマチャード氏は公正に見ていると考えることはできない。

中には確かにマチャード氏が指摘するような悪い行為もある。しかし、詩人が作品の中では認めていない多くの美徳のなかのごくまれな例外的なものでしかないことは明白だ。

最も強力な攻撃をしたのは、1月14日付の「ソリア・ニュース」だった。

「この詩は悪意と遊びに満ちたパロディであり、間違いであり、盗作に近いものである。言及されているような破滅的な光景など見られず、ソリアの農民たちは高潔で森に火をつけることなどできないし、まして殺人を犯すことなどできはしない。」〉

2016年12月21日水曜日

「ソリアの地」から「スペインの地へ」①

以前も触れましたが、『カスティーリャの野』の売上げは好調でした。ウナムーノは詩集を絶賛し、ブエノスアイレスの雑誌『ラ・ナシオン(国民)』の1912年6月25日号に批評を寄せました。

アソリンは、マドリードの日刊紙「ABC」の彼のコラムで、この詩集を讃えました。また、オルテガ・イ・ガセットは「ロス・ルーネス・デ・エル・インパルシアル」誌に「深淵なる世代」としてコメントを寄せています。

しかし、文壇からは絶賛の声が上がった反面で、その舞台となったカスティーリャの住民たちから激しい反発を招いた詩も少なくありませんでした。

これら野に住む人間は松林に火を放ち
その焼け残りを戦利品のようにうかがう
昔からの黒い柏の森を根絶やしにし
山のたくましい樫を切り倒したばかりだ
El hombre de estos campos que incendia los pinares
y su despojo aguarda como botín de guerra,
antaño hubo raído los negros encinares,
talado los robustos robedos de la sierra.

いま哀れな子供たちが家を見捨て
聖なる流れのまにまに嵐が大海原へと
畑の土を洗い流していくのを彼は見送り
呪いの荒れ地に耕作 苦悩 放浪するだけ
Hoy ve a sus pobres hijos huyendo de susu lares;
la tempestad llevarse los limons de la tierra
por los sagrados ríos hacia los anchos mares;
y en páramos malditos trabaja, sufre y yerra.

埃にまみれ 街道の陽を浴びて金色をした
放牧の家畜たちを メリノの羊の群れを
豊沃なエストレマドゥーラへと招く羊飼い
粗野な旅人たちの血筋をひいている
Es hijo de una estirpe de rudos caminantes,
Pastores que conducen sus hordas de merinos
a Extremadura fértil,rebaños trashumantees
que mancha el polvo y dora el sol de los caminos.

小柄で身軽く、我慢強い男、抜け目のないその目は
窪み、疑い深く、よく動く、そして
頬骨の出たほそ面に、太く濃い眉が
大弓のアーチを描く
Pequeño, ágil,sufrido, los ojos de hombre astuto,
Hundidos, recelosos, movibles; y trazadas
cual arco de ballesta, en el semblante enjuto
de pómulos salientes, las cejas muy pobladas.

野や村に悪しき人が溢れる
不健康な悪徳や獣じみた罪を犯すことができ
黒っぽい野良着の下に醜い魂を隠す者
七つの大罪の奴隷
Abunda el hombre malo del campo y de la aldea,
Capaz de insanos vicios y crímenes bestiales,
Que bajo el pardo sayo esconde un alma fea
esclava de los siete pecados capitales.

つねに羨望と悲しみで濁った目は
自分のものを固守し隣人が手に入れたものに涙する
おのれの不運を受けとめず、またおのれの富を享受することもしない
幸運と悲運は彼を傷つけ、彼を悲嘆にくれさせる
Los ojos siempre tubios de envidia o de tristeza,
guarda su presa y llora la que el vecino alcanza;
ni para su infortunio ni goza su riqueza;
le hieren y acongojan fortuna y malandanza.

狂った悪癖と獣のような罪を犯しかねない
七つの大罪のしもべであるような
褐色の仕事着に醜悪な魂を隠した
田舎の 村の悪人は数知れぬ
Abunda el hombre malo del campo y de la aldea,
capaz de insanos vicios y crímenes bestiales,
que bajo el pardo sayo esconde un alma fea,
esclava de los siete pecados capitales.

ねたみや悲しみに曇った眼でいつも
獲物は取り込むが隣の利得には涙を流す
不幸に耐えるでも豊かさを楽しむでもない
幸運も災禍も彼を傷つけ苦しめる
Los ojos siempre turbios de envidida o de tristeza,
Guarda su presa y llora la que el vecino alcanza;
ni para su infortunio ni goza su riqueza;
le hieren y acongojan fortuna y malandanza.

ここにあげたのは同詩集の「スペインの地へ(Por Tierra de España)」 という詩です。

14音節(Alejandrino)、ababの脚韻を基調とする4行、8連のこの定型詩は、当初は「ソリアの地(Tierra Soriana)」という題が付けられていました。

ところが、地元ソリアの反発を配慮して「ドゥエロの地へ(Por Tierras Del Duero)」に変更になり、さらに「スペインの地へ」へと変更が繰り返されています。

2016年9月30日金曜日

コプラと「道」⑥

詩集『カスティーリャの野』にはさらに、こんなコプラもあります。

すべて過ぎ去り すべては残る
けれどわれわれが成すのは 過ぎること
道を開いて過ぎるのだ
海上の道を
Todo pasa y todo queda,
pero lo nuestro es pasar,
pasar hasiendo caminos,
caminos sobre la mar.

「すべて過ぎ去り すべては残る」、そのあとにも果てしない海がひろがり、われわれを待ち構えている。人がたどる道は海を歩むこと。われわれのできることは、航跡のようにやがては消えていくのであろう海の道をきり開き、過ぎゆくこと。

それは、どん底に追い込まれながら、それを自覚するに至っていないスペイン国民への呼びかけであり、励ましのようにも思えます。

後述するように、内戦へと向かう厳しい時代にあって、マチャードの夢はかなうことなく、やがて悲惨な終焉を迎えることになります。

しかし、彼の思いを込めて作られたコプラの多くは、深く民衆の心をとらえ、現在にいたるまで広く歌い継がれています。


たとえば、私の手元にある『喜びは我らに(El gusto es nuestro)』というCDを聴いていると「Caminante, son tus huellas」ではじまるマチャードのあのコプラに出あいました。

『喜びは我らに』は、フランコ独裁に逆らって歌いつづけた、ちょうどビートルズと同世代の3人のシンガーソングライター、ジョアン・マヌエル・セラー、ミゲル・リオス、ビクトール・マヌエルが、1996年の8月から9月にかけてスペイン27都市を巡ったコンサートのライブ・アルバム。

マチャードのコプラは、アルバムの14曲目、セラーが作った「Cantares」という歌に挿入されています。ライブでは、セラーとリオスがかけあいでこの歌を熱唱。

その中でこのコプラが叫ぶように朗読されると、観客たちの歓声はひときわ高まりをみせました。マチャードの詩はいまも言葉の力を失っていないのです。

2016年9月27日火曜日

コプラと「道」⑤

  道ゆくひとよ きみの足跡こそが
  道なのだ ほかにありはしない
  道ゆくひとよ 道などないのだ
  歩くことで 道はつくられる
  Caminante, son tus huellas
  el camino y nada más;
  caminante, no hay camino,
  se hace camino al andar.


「道」のコプラは、さらに続いていきます。

  歩くときに 道はできる
  そして振り返ればそこに
  もう二度と踏むことのない
  道が見える
  道ゆくひとよ 道などありはしない
  ただ海のうえの航路にすぎないのだ
  Al andar se hace camino
  y al volver la vista atrás
  se ve la senda que nunca
  se ha de volver a pisar
  Caminante, no hay camino
  sino estelas en la mar

そもそも、わたしたちが頼りとするような道などありはしません。

海に描かれる航跡のように、歩めばすぐに過去の中に消されてしまうのです。

ここで私は、まだ見ぬ世界へと漕ぎ出していったコロンブス=写真、wiki=の海を、無敵艦隊が進軍し敗れ去った海を、そして「日の沈まない国」が築かれ、すべてが失われていった海のことを思い描きます。

2016年9月25日日曜日

コプラと「道」④

 「かつてこの心を
  とがめし情熱の棘
  抜け去りし時より
  はや心をも感じえず」
 “En el corazón tenía
  la espina de una pasión;
  logré arrancármela un día:
  ya no siento el corazón.”

マチャードの詩「僕は夢心地に行く(Yo voy soñando caminos)」のなかに出てくる、人生のたとえとしての「道」は、マチャードの詩に再三登場するテーマです。

詩人は、時の流れにそって人間をとらえようとするとき、その最も適したイメージの一つを「道」に見いだします。

人生は旅。旅人の1人である詩人は「夢心地で」、「うたいつつ」道を行くのです。

詩集『カスティーリャの野』には、スペイン人ならだれもが口ずさめる、ともいわれるマチャードの代名詞的なコプラも組み込まれています。

  道ゆくひとよ きみの足跡こそが
  道なのだ ほかにありはしない
  道ゆくひとよ 道などないのだ
  歩くことで 道はつくられる
  Caminante, son tus huellas
  el camino y nada más;
  caminante, no hay camino,
  se hace camino al andar. 

帰らざるとき、ともいえる永遠のテーマが「道」というイメージのなかで語られています。

ひとたび道を歩いたならば、もはや歩かなかったことにはできません。ふたたび歩き直すこともできないのです。

道は足跡でしかないのです。歩くことでしか、道をつくることはできません。

「道」は1人の人間の人生を指すだけにとどまらず、いまやすべてを失ってしまったスペインという祖国の歴史にもつながるのでしょう。

もはや「黄金の世紀」にもどることも、歴史をさかのぼって異なる道を歩き直すこともできはしません。

ただ、これからを歩くことによってしか、道を、歴史をつくることはできないのです。

2016年9月23日金曜日

コプラと「道」③

  僕はたそがれの道を
  夢心地にゆく、金色の
  丘よ、みどりの松
  ほこり白き柏!……
  この道はいずこへ行くのか?
  野道をつたい旅の身を
  僕はうたいつつゆく……
  ――夕日が沈む――
  「かつてこの心を
  とがめし情熱の棘
  抜け去りし時より
  はや心をも感じえず」
  Yo voy soñando caminos
      de la tarde. ¡Las colinas
      doradas, los verdes pinos,
      las polvorientas encinas!…
  ¿Adónde el camino irá?
      Yo voy cantando, viajero
      a lo largo del sendero…
  -la tarde cayendo está-.
  “En el corazón tenía
   la espina de una pasión;
   logré arrancármela un día:
  ya no siento el corazón.”


これは、広く知られているマチャードの「僕は夢心地に行く(Yo voy soñando caminos)」という詩です。夕暮れの散歩。黄昏時に響いてくるコプラに、夢見心地の詩人の心が吸い寄せられていきます。

最後の4行「かつてこの心を/とがめし情熱の棘/抜け去りし時より/はや心をも感じえず」は、たびたびスペインの人々の口にのぼるポピュラーなコプラです。

そこには、誰もが感じることのある、なかなかに深い人生哲学が込められているように思われます。

ときに詩人は自分の思想を、大衆的な方法でろ過しようとします。マチャードの志向したような実存的なテーマは、しばしば、短い言葉のなかに抒情的に凝縮されることがあります。

そうした、民衆が口にのぼりやすいコプラを作品の中に忍ばせておく。それによって人々の心をひきつけ、やがて民衆の詩として広がっていく。私はそんなあたりにも、マチャードの国民詩人としての深い資質と、言葉の天才ならではの「戦略」を感じるのです。

2016年9月22日木曜日

コプラと「道」②

民俗学者だった父親の影響もあって、子どものころからそうした歌に接していたアントニオ・マチャードにとって、「スペインの魂の誠実な記録」であるコプラは、ロマンセとともに「98年世代」としてのメッセージを人々に届ける格好の表現手段と考えていたのでしょう。

コプラなどの短詩は、カスティーリャ体験を経た中期から後期にかけて、より頻繁に作られるようになります。特に1924年に出版された『新詩集(Nuevas Canciones)』以降は、マチャードの詩の主流となったといってもよさそうです。


コプラ(Copla)は、もともとラテン語で「束縛」あるいは「結合」といった意味をもつ「copula」に由来します。3行あるいは4行で構成されるスペイン詩の中で最も小さな詩形式です。

18世紀にスペインで確立し、ラテンアメリカにも広まった。スペイン人に最もなじみ深い1行8音節、オチョシラボス(octosilabos)で作られるのがふつうです。

構成は、クアルテタ・デ・ロマンセ(cuarteta de romance)ともいわれる、8音節で偶数行が韻を踏む4行詩が多くなっています。つまり韻律や構成からすると、コプラはロマンセの一種、あるいは「ロマンセの継承者」と考えてもいい詩形なのです。

たとえて言えば、日本の近世に発展した文芸である俳諧連歌のうちから発句が自立し、やがて俳句として盛んに作られるようになったのと、どこか似たところがあるのかもしれません。

ロマンセと同じようにコプラは、民衆の歌と密接な関係を持っています。犯罪を訴え、歴史を語り、日常のできごとを描写します。愛を、嫉妬を、失望を語るのです。

昔から歌われてきた歌謡の一部をはしょったり、居酒屋で聞いたロマンセの中の一部から題材が取られたりもします。話し言葉であけっぴろげ、滑稽さ、とりわけ好色な効果を出すため、しばしば詩句に二重の意味を折り込むこともあります。

マチャードがこの詩形を好んだことについて、ヘスス・アリエタは「この庶民的な表現方法を用いているのは、la coplaとかel cantar popularにこそ詩的感情、詩的理念の本質的統合が、飾り気のない素朴な、最小限の手段で達成されると確信していたことによる」* としています。

* ヘスス・アリエタ「アントニオ・マチャード――アンダルシア生れの詩人におけるカスティーリャ的深奥――」上智大学外国語学部紀要第10号,1975, p.54

2016年8月30日火曜日

コプラと「道」①

詩集『カスティーリャの野』には、これまで見てきた、700行を超えるロマンセ「アルベルゴンサレスの地」のような長編詩があるかと思えば、一方で「ことわざと歌(Proverbios y Cantares)」としてまとめられた53篇など、多くの短詩が収録されています。

その多くは「copla(コプラ)」、「歌謡曲(cantar popular)」などといわれる、人々の生活に根ざした民謡や大衆歌謡によく使われる詩の形式です。


コプラについてマチャードは、晩年の散文集『フアン・デ・マイレーナ(Juan de Mairena)』(1936年)の中で、次のように述べています。

「スペインの魂の誠実な記録であるコプラの魅力は、その純真性にある。そのなかには人生経験を経てえられた人間のありようが明示されている。ときに、それを失ったときにおちいる窮地の正体を明らかにする。それはしばしば厚かましいほど、ありふれている。そこにコプラの真髄があると思われる。」

(La copla ――un documento sincero del alma española―― me encanta por su ingenuidad. En ella se define la hombría por la experiencia de la vida, la cual, a  su vez, se revela por una indigencia que implica el riesgo de perderla. Y este a veces, tan desvergonzadamente prosaico, me parece la perla de la copla. )*

*Antonio Machado: Juan de MairenaⅠ, Edición de Antonio Fernández Ferrer, p.266

2016年5月28日土曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑪

詩集『カスティーリャの野』にセットで入っている散文とロマンセの「アルバルゴンサレスの地」は、前にもふれたようにストーリーは極めてよく似ています。

ただ一つ決定的に違うのは、末の子ミゲルの運命です。

散文のほうではミゲルは兄たちに殺されてしまうのですが、ロマンセでは生きながらえます。

生き続けることでミゲルは、父親の生をふたたび生きなおすことになるのです。

ミゲルは、父親と同じように幸せな結婚をして、父親が耕した同じ土地を耕します。

ロマンセの終わりは始まりへとつながり、次の世代による「再生」を予感させます。

そこにはマチャードのカスティーリャへの、すなわちスペインに対して抱いている願いが込められているように思われます。


良きものを殺してしまった「家」にあっても、そこが終焉なのではなく、次の世代へと受け継がれてゆくものが残っているのです。

詩人はそこに、希望を見いだそうとしているように思われます。

「千回も言い古された 昔話をつぶやいているよう」に、「そしてこれから千回も 繰り返すことになるだろうと」というように、カスティーリャには「澄んだ水」が繰り返し、繰り返し流れていくのです。

2016年5月27日金曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑩

青みがかった空にまたたく星。険しい岩山、闇に包まれた松林、深い谷底。そんな中から沸き立ってくる「水(agua)」の声がやがて人を暴き立てます。

「alba」「arriba」「alto azul ardía」などと、前半で語頭が「a」の単語を並べて頭韻的な響きを作り出しています。

「千回(mil veces)」のリフレインをはさんで、招きこむように「水(agua)」が四つ繰り返され、殺人の「証人」である泉は、目撃した犯罪について語っていきます。告発者の川は声高らかに罪をあばいていくのです。

それがやがて村人の耳に届き、川の水が音を立てて流れるように、犯罪を告げるコプラ(短詩)が人々の口から口へと伝えられていくことになります。

「泉から沼までの水による聴覚的効果は全てに勝っている」 のです。


ロマンセでは、殺人を犯した2人の心のうちを記述するのに長行を費やしている。彼らは自分たちが犯した恐ろしい行為を十分に承知して後悔します。

薄暗い森の中で2人は、罪を犯したあの日を思い出して震え出します。

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」で詩人は、自分のあり方を宇宙的な時間にまで広げたときにどのように位置づけられるかを、スペイン国民ひとりひとりに問いかけているようにも思えます。

そして、その答えは、後に生きる人々の問題として未来に開かれているのです。

世界と人間の生を問いながら、アルバルゴンサレスの地、すなわちカスティーリャ性の「黒沼」に埋没しているスペインの人びとに対して、再生への指針をほのめかした作品と言えるのかもしれません。

2016年5月26日木曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑨

殺人者の2人の兄弟がドゥエロ川の上流へと向かい、ラグナ・ネグラ(黒沼)にたどり着く最後の場面「人殺し(Los Asesionos)」 には、次のような描写があります。


アルバルゴンサレスの 上の2人の息子
フアンとマルティンは ある日
夜明けとともに ドゥエロ川の
上流をめざして 重苦しい道をゆくことにした
Juan y Martín, los mayores
de Alvargonzález, un día
pesada marcha emprendieron
con el alba, Duero arriba.

明星が 青みがかった
空に瞬いていた
谷や渓谷を埋めた 濃く白い霧が
薔薇色に染まっていた
鉛色の雲が
ドゥエロ川の水源となる
ウルヴィオンのそそり立つ峰を
ターバンのように取り巻いていた
La estrella de la mañana
En el alto azul ardía.
Se iba tiñendo de rosa
La espesa y blanca neblina
de los valles y barrancos,
y algunas nubes plomizas
a Urbión, donde el Duero nace,
como un turbante ponían.

かれらは泉に近づいた
澄んだ水が流れていた
流れはまるで 千回も言い古された
昔話をつぶやいているようだった
そしてこれから千回も
繰り返すことになるだろうと
Se acercaban a la fuente.
El agua clara corría,
sonando cual si contara
una vieja historia, dicha
mil veces y que tuviera
mil veces que repetirla.

野をよぎって流れる水は
その単調さでものがたる
「私は犯罪を知っている 犯罪ではないのか 
水のほとりの 生命への」
Agua que corre en el campo
dice en su monotonía:
Yo sé el crimmen, ¿ no es un crimen,
cerca del agua,  la vida?

2人の兄弟が通りかかると
綺麗な水がまた語りかけた
「泉のかたわらで
アルバルゴンサレスは眠っていた」
Al pasar los dos hermanos
relataba el agua limpia:
“A la vera de la fuente
Alvargonzález dormía.”

2016年5月25日水曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑧

父親の時代のアルバルゴンサレスの地は、かつての黄金期のスペインであり、目前にひろがる荒廃したアルバルゴンサレスの地は、すべてを失って行き先の見えない、いまの貧しいスペインなのです。

アルバルゴンサレスの地の荒廃の歴史は、すなわちスペインの荒廃の歴史に重なってきます。良きものを殺してしまった結末が、荒れ果てすさみきったスペインの現在なのです。

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」では、ゴツゴツとした岩山におおわれたカスティーリャの荒涼たる自然が克明に描き出されています。

それらがむしろ主体性を持っているかのように物語に割って入り、ときに醜さや脆さをさらけ出す人間なる存在の営みを浮き彫りにしているようにも思えます。


中でもこのロマンセで際立っているのが、川の流れをさかのぼってたどり着く源流の泉から、底の無い沼にいたるまで、「水」によって醸し出される比類のない映像的、聴覚的な効果でしょう。

試みに、このロマンセの自然描写のカギになると思われる単語がどれくらい使われているか調べてみると、次のようになりました。

カスティーリャの自然の基調をなすと考えられる「山(monte)」、「谷(valle)」、「松林(pinar)」はそれぞれ6回、「岩(roca)」や「樫(roble)」は3回ずつ。

一方、水にかかわる単語では「水(agua)」が13回、「沼(laguna)」10回、「泉(fuente)」9回、「ドゥエロ川(Duero)」6回、「川(río)」5回などとなっていました。

自然描写のなかでも特に「水」に関する記述を重視し、特別な役割をもたせていることがうかがえます。

2016年5月24日火曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑦

かつてはあたりで一番恵まれていたものの、いまでは狼が徘徊する惨めなアルバルゴンサレスの村。

詩人は、あるときは慎ましく善良に生きる彼らの姿を肯定的に見つめ、またあるときは、彼らの内に潜む醜い心に目をこらし、貧相な価値観に根ざす道徳性をあばき出します。

いずれにしてもマチャードは彼らの生の奥底に、ある種の悲しみを感じ取り、同じ人間として孤独な荒地に暮らす姿がいたたまれなく思われたのでしょう。

  野に働く人々には
  カインの血が多量に流れている
  Mucha sangre de Caín
  Tiene la gente labriega,

と作品の冒頭(「導入部分」のⅢ)で歌われます。


カインとその弟アベルは、旧約聖書の創世記(第4章)にあるアダムとイヴの子。カインは長じて農耕を営み、アベルは羊飼いになりました。

2人は供え物をしますが、主はアベルとその供え物は顧みたものの、カインのほうは顧みませんでした。カインはそれに憤って、アベルを野に誘い殺してしまいます=写真、wiki。

人を殺すという犯罪の始まりです。ロマンセを語るにあたり、カスティーリャの田舎で起こった悲劇の語り部はまず、カインの血をもつすべての人間に対して問いを投げかけているわけです。

物語が進むにつれて読者は、アルバルゴンサレスの村の出来事にスペインの骨格であるカスティーリャの姿を重ねて見ることを余儀なくされます。

「98年世代」の詩人は、アルバルゴンサレスの地にスペインを見ているのです。

2016年5月23日月曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑥

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」は、実際の出来事にインスピレーションを得て作られました。芸術性の高い創造の産物ですが、ロマンセの特徴である写実性やルポルタージュ的性格も備えています。

ヴィヌエサから遠くないところにあることになっているアルバルゴンサレスという場所は見あたりませんが、イアン・ギブソンによれば「地名を創作するうえで、ソリアとブルゴスの県境に位置するヴィジャルヴァロの村名が影響している可能性がある」 といわれます。

父親が投げ込まれ、2人の兄弟が自殺を遂げる作品の舞台「黒い沼(laguna Negra)」=写真=は、実際にウルヴィオン山麓の標高1.753m に存在します。ただし、底なし沼というのは伝説で、実際の深さはせいぜい10m程度のようです。


イアン・ギブソンによれば、マチャードがソリアにやってきた1907年春から、この付近では森林火災がひっきりなしに起こり、近くの町村で殺人や凶暴な犯罪も続きました。

マチャードは1910年秋、地域の友人たちとドゥエロ川を上って、暴風雨の中、ウルヴィオンの山頂を踏破するなどしています。ロマンセの舞台となるドゥエロ川源流へのこうした旅がきっかけとなって、「松林で覆われた地」で起こった凶悪事件をかなり注視していたようです。

「10月初旬の朝、彼はドゥエロ川の源流まで上ってみることを決心して、ブルゴスからシドネスまで行く乗合車にソリアで乗った。運転手の近くの前の列には、メキシコから、松林に囲まれた辺境にある生まれ故郷の村へ帰る“アメリカ帰り”、それに、2人の息子を連れてプラタに向かう、バルセロナから来た老いた農民が乗っていた。違う言葉を話す人たちと出あうことなくカスティーリャの草原を横断することはできない。“アメリカ帰り”はベラクルス訛りで私に話しかけた。また私の耳には、運転手と最近起こった犯罪について論じている農民の話が聞こえてきた。ドゥエロ川沿いの松林の中で、1人の若い羊飼いが人を刺し殺し、強姦までしていたのが見つかった。農民は、ヴァルデアヴェラノの金持ちの牧場主を、野蛮な悪事をした疑いようのない犯人としてソリアの刑務所に収監するように告発した。しかし、犠牲者が貧乏だったという理由で正義が信用されなかった」

と、マチャードは回想しています。

2016年5月22日日曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑤

きょうは、第9章(⑨)と最終章(⑩)の要約です。

⑨土地(La tierra) Ⅰ(6行)、Ⅱ(20行)、Ⅲ(14行)、Ⅳ(8行)

ゴボウが、カラス麦が、毒麦が、呪われた土地を蔽っている。つるはしもすきも歯が立たない。すきが畑の中を掘り裂いて進んでゆく間にも、掘られた畝溝はふさがれてしまう。

「人殺しのフアンが耕作にとりかかっても、畝溝が畑に掘られるよりも早く彼の顔にしわが刻まれるだろう」。

東のほうでは、紅い斑点に蔽われた満月が果樹園の壁の背後で輝いていた。マルティンの血は恐怖で凍りついた。土の中に打ち込んだシャベルが血に染まっていた。

“アメリカ帰り”は故国でちゃんと根を張ることができた。金持ちで美しい娘を妻にめとった。アルバルゴンサレスの財産はいまや彼のものだ。


⑩ 人殺し(Los asesiones) Ⅰ(26行)、Ⅱ(16行)、Ⅲ(6行)、Ⅳ(16行)、Ⅴ(8行)、Ⅵ(18行)

アルバルゴンサレスの上の息子フアンとマルティンは、ある日の夜明け、ドゥエロ川の上流を目指して、骨の折れる道を歩むことにした。

谷間の濃く白い霧がバラ色に染まった。鉛色の雲がドゥエロ川の水源、ウルヴィオンのそそり立つ峰をターバンのように取り巻いていた。

2人の人殺しはラグナ・ネグラ(黒沼)にたどり着いた。水は澄み透り、黙り込んでいた。取り囲む高い岩壁には禿鷹が巣を作り、木霊が眠る。澄んだ水を山の鷲が飲みにやってくる。

父さん!兄弟は叫んだ。穏やかな沼の底に、彼らは身を沈めていった。

2016年5月21日土曜日

「アルバルゴンサレスの地」④

きょうは、第7章(⑦)と第8章(⑧)の要約です。

⑦ アメリカ帰り(El indiano) Ⅰ(30行)、Ⅱ(12行)

ミゲルは、この呪われた土地の一部を兄たちから買った。信念と情熱に燃えて土地を耕し、黄金色の穂、重い小麦の実をつける。ミゲルの畑には豊かな夏がやってきた。

それでも村から村へと語られていく。殺人者たちの呪いが彼らの土地には刻まれているのだ、と。ある晴れた午後、ミゲルは猟銃で武装し、2匹の猟犬を連れて、街道の緑のポプラ並木を歩いていった。

すると歌声が聞こえてきた。「あの人は土の中に葬られていない。死んだ父親を彼らは運んだ。レヴィヌエサの谷の松林の中をあのラグナ・ネグラ(黒沼)まで」


⑧ 家(La casa) Ⅰ(74行)、Ⅱ(55行)

アルバルゴンサレスの家の周りには、風に吹かれて、楡の木の葉が散り敷いている。教会の広場の3本の丸いアカシア=写真、wiki=の枝には、まだ緑が残っている。

実をつけたマロニエは、ところどころ葉が抜け落ちている。ふたたびバラの木は赤い花をいっぱいにつけ、秋の東屋は牧場の中で陽気に輝いている。

おお、スペインの真ん中、アルバルゴンサレスの地よ。貧しい土地よ。悲しい土地よ。あまりに悲しく、この土地には魂があるようだ。

草原を狼がよぎってゆく。月の光に吠えながら。森から森へ。崩れ落ちた岩がごろごろして、人の気配もない。

そこに禿鷹に啄まれた白い遺骨が光っている。哀れな、淋しい野よ。道もなく宿屋もない。呪われた哀れな野。わが祖国の哀れな野よ。

2016年5月20日金曜日

「アルバルゴンサレスの地」③

 きょうは、第4章(④)から第6章(⑥)までの要約です。


④ またの日々(Otras días) Ⅰ(18行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(24行)、Ⅳ(18行)、Ⅴ(48行)

アルバルゴンサレスの2人の息子たちは険しい坂道を通り、灰色のラバに乗ってヴィヌエッサの松林の中を進んでいった。

彼らは家畜を見つけて村へ連れて帰ろうと、ドゥエロ川をさかのぼり、石橋のアーチを渡り、賑やかなインディオの町を後にした。

川の流れは谷底で鳴り響き、ラバの蹄鉄が石をたたく。ドゥエロの向こう岸では悲しげな声が歌っている。

「アルバルゴンサレスの土地は、豊かな稔りに満たされるだろう。しかしこの土地を耕した男は、この土地の下に眠っていない」


⑤ 罰(Castigo) Ⅰ(8行)、Ⅱ(12行)、Ⅲ(30行)

畑には血の色をしたヒナゲシが生えた。黒穂病がカラス麦と小麦の穂を腐らせた。遅霜が果樹園の果樹を花のうちに枯らした。

さらに不運が襲い、羊たちを病気にした。アルバルゴンサレスの息子たちは、土地に呪われた。窮乏した1年間の後には、悲惨な1年がつづいた。

ある冬の夜、2人の息子は消えかかった燠火をじっと見つめていた。薪もないし、眠れもしない。寒さはつのる。燻るランプ。

風に揺られた炎が2人の殺人者の思いにふける顔に、赤みを帯びた光を投げる。しゃがれたため息をつきながら沈黙を破って、兄が叫ぶ。なんという悪事をおれたちは働いたことか!

⑥ 旅人(El viajuero) Ⅰ(12行)、Ⅱ(10行)、Ⅲ(10行)、Ⅳ(28行)、Ⅴ(18行)

突風の中をひとりの男が馬でやってきた。「ミゲルです」。遠い国へ出かけていった末の弟の声だった。海の向こうへ冒険を求めてアメリカ大陸へと渡り、財産をつくって帰ってきたのだ。

父親に似て堂々としていた。彼はみんなに愛され、たくましかった。3兄弟は黙って、寂しい炉を見つめている。「兄さん、薪はないんですか」とミゲルが尋ねると、「ないんだよ」と長兄。

そのとき鉄の閂でしっかり閉められた扉を1人の男が開けた。男は父の顔をしている。薪の束をかつぎ、手には鉄の斧。金色の火の輪が、その白髪を縁取っている。

2016年5月19日木曜日

「アルバルゴンサレスの地」②

ひきつづき、第2章(②)と第3章(③)の要約です。

② 夢(El sueño) Ⅰ(8行)、Ⅱ(12行)、Ⅲ(14行)、Ⅳ(10行)

家の戸口で子供たちが遊んでいる。上の2人の間からカラスが飛び立った。妻が縫い物をしながら見守っている。かまどに薪が積み上げられている。

長男が火をつけようとするが、炎は燃えあがらない。弟が柏の幹の上に燃えやすい小枝を投げるが、燠火は消えてしまう。

末っ子が台所の煙突の下で火をつけると燃え上がり家中を照らす。アルバルゴンサレスは末っ子を膝の上に座らせ、お前がいちばん可愛いという。

物思いにふけり、出て行った2人の兄に、斧の刃がきらめく。


③ あの夜…(Aquella tarde...) Ⅰ(8行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(18行)、Ⅳ(12行)、Ⅴ(6行)、Ⅵ(8行)

息子たちは澄んだ泉のほとりで、眠り込んでいる父親を見た。父は眉をしかめる。その顔は斧の傷跡のような暗い影に曇っている。

息子たちが彼を刺し殺す夢を見る。目が覚めると夢がほんとうだったことに気づく。アルバルゴンサレスは、心臓と脇腹を4回、短刀で刺され、首に斧の一撃を受けた。

2人の殺人者は、ブナの森へと逃げ込み、ドゥエロ川の源流にあるラグナ・ネグラ(黒沼)まで死者を運ぶ。そして足に石をくくりつけて墓石とし、彼らは父を沼に沈めた。

底なしの沼に、近くの村人たちは近づこうとはしなかった。ドゥエロ川をぶらぶらしていた行商人が罪を負わされ、縛り首になった。数カ月後、母親が心痛で息絶えた。

こうして息子たちは、1軒の羊小屋、庭、麦畑、ライ麦畑、上等な草の生えた牧場、古い楡の木の上のミツバチの巣箱、鋤を引かせる2組の馬、番犬1匹を手に入れた。

2016年5月18日水曜日

「アルバルゴンサレスの地」①

アントニオ・マチャードのロマンセ「アルバルゴンサレスの地(La tierra de Alvargonzález)」は、これまでにふれたように、「善良な農夫アルバルゴンサレスの強欲な息子2人が、父の財産すべてを手に入れようと、父を殺して底なし沼へ投げ込む。その後2人は、呪われた日々の中で絶望し、父が沈む沼んでいる身を投げる」というあらすじの物語です。

初稿には「盲人のロマンセ」という副題が付けられ、「ラ・レクトゥラ(読書)」という雑誌の1912年4月号に掲載されました。

その後、修正がくわえられて、最終的な形態では「ファン・ラモン・ヒメネスへ」という添え書きが付けられました。


10章構成で、総行数は712行になります。  ここでは、その構成と内容を、何回かに分けてざっと眺めてみます。まずが、第1章(①)から順に、要約していきます。

① 導入部分 Ⅰ(16行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(20行)、Ⅳ(16行)

中くらいの財産の持ち主、この地では“お金持ち”と呼ばれていた若者アルバルゴンサレスが縁日のある日、1人の娘に惚れて1年後に結婚した。

結婚式は、笛、太鼓、ギター、マンドリンの音が村中に流れ、ヴァレンシア風の花火、アラゴンの踊りなど豪華なものだった。

アルバルゴンサレスは、土地を愛し幸せに暮らしていた。3人の子を授かり、ひとりを果樹園の仕事に、もうひとりを羊飼いに就かせ、末っ子を教会に入れた。農民たちの家には「カインの血」が流れている。

この田舎の家でもそうだった。家に来た2人の兄の嫁は、子を産む前に不和の種を生んだ。田舎者の強欲さは遺産相続の分け前では満足せず、欲しいものを手に入れようとする。

末っ子は教会へ入ったものの、ラテン語よりも娘たちのほうが好きだった。ある日、僧服を脱ぎ捨てて遠い国へ渡った。母は泣き、父は財産の分け前を与えて幸運を祈った。

アルバルゴンサレスのいかつい額には、皺が刻み込まれていた。秋のある日、彼は1人で家を出た。澄んだ泉にたどり着き、その傍らで眠り込んだ。

2016年5月17日火曜日

スペインを作るロマンセ

カトリックの伝統や習慣にがんじがらめに縛られ、時代から取り残されてしまったスペイン。

ヨーロッパ近代ばかりが気にかかり、内を顧みようとしない借物の進歩主義者たちのスペイン。

これら「二つのスペイン」の狭間にあって、カスティーリャの地の本質を見つめ直すことで、新たなスペインへと再生する道をマチャードは探りつづけました。

そんなマチャードにとって、土地にしっかり根付いた民衆の歌であり、言葉であり、長い歴史を通してそうあり続けてきたロマンセは、「最高度の表現方法」であったはずです。

そして、「新しいロマンセを書く」ことを詩人の使命と考えていたのに違いないのです。

「詩人は、《良きおじさん》アグスティン・ドゥランによって監修・編集されたロマンセーロを読んで聞かせる練習をしていた。家族の中でも、人気のある詩は熱心に読まれていた。

そんな環境に育ったマチャードが、ソレアの田舎町で起こった犯罪に直感を得て、何らかの民衆のロマンセを聞くか知るかして、カスティーリャの高原を舞台にした現代的な叙事詩を企てる日が来たとしても、不思議ではない。

このようにして“アルバルゴンサレスの地”は誕生した」


イアン・ギブソンはマチャードの評伝=写真=の中でこんなふうに指摘しています。

スペイン民俗学を築いたカリスマ的な父の仕事をながめ、母方の叔父がまとめたロマンセ集に身体までどっぷりと浸かってマチャードは育ちました。

スペイン人たちが親から子の世代へと代々受け継いできたロマンセや歌謡を、彼ほど広く深く身に刻める環境にあった人間は稀かもしれません。

しかし、マチャードだけが特殊だったというわけでもなさそうです。

ロルカも語ったように、スペイン人の「乳母たちは、昔から、女中やさらに身分の低い召使いとともに、貴族やブルジョアの家庭に、ロマンセ、歌謡、お伽話をつたえるというきわめて重要な働きをしてい」たのです。

逆にみると、世代間でロマンセなどの民謡をつないできた営みが、スペイン人を作り、スペインという国を作ってきたといえるのではないでしょうか。

それをたどっていけばカインにまで行き着くかもしれないし、そうした営みがまた「98年世代」が探ったスペインの本質にも、衰退して行き場を失ったスペインの現実にもつながるのです。

そう考えてくると、マチャードがロマンセを選んだのは、単に子供のころに慣れ親しんでいたという程度のところにとどまるのではなく、「98年世代」的な課題に迫る最適な詩形への模索の中でたどりついたものだったという側面も決して軽視できないように思われてなりません。

さらには、スペインの再生に向けて必要なのは「新しいロマンセを書く」こと、しかもスペインのスペインたるカスティーリャのロマンセを描くことだとマチャードは確信していたに違いありません。

2016年5月16日月曜日

モーゼを見つめて

ロマンセは民謡、民謡はいってみれば昔の流行歌です。多くの流行歌の中から、民衆に愛好され、つぎつぎと歌いつがれて残ったものが民謡となたのです。そこには土の香があり、体臭があります。

ロマンセの魅力は、土着性にあるのです。古ロマンセからは騎士の甲冑の響きや蹄の音が聞こえてきます。洗練された都市性の対極にある土着性は、マチャードたち「98年世代」が探ろうとしていた、カスティーリャが本来もっているものにもつながるのでしょう。

民謡はけっして洗練された芸術作品ではありません。洗練の度合い、高度の思想性と形式美を基準とすれば、ロマンセが文学史に占める地位はそう高くはないかもしれません。

しかしスペインでは20世紀になっても、マチャードやロルカら天賦の才を得た詩人たちが、モチーフを生かす最適の形式としてロマンセを選び、芸術性の高い作品を書きました。

前述したようにマチャードの父、アルバレスはスペインの先駆的民俗学者でした。そしてアントニオは、母方の親戚のアグスティン・ドゥランの「ロマンセーロ(民謡集)」を繰り返し読んで聞かされて育ちました。

そういう意味では、マチャードが「アルバルゴンサレスの地」にロマンセという形式を用いたのは、子どものころから慣れ親しんだ伝統的な手法によるという自然な選択だったとも受け取れます。

しかし、スペイン再生に向けてカスティーリャの真髄に迫ろうとする「98年世代」の詩人としての使命を果たす最適な言葉の器として、マチャードはかなり意識的にロマンセという形式を選んだのではないかと私は推測しています。


『カスティーリャの野』の序文をもう一度振り返ってみると、ロマンセについて次のように記しています。

〈すぐさま、崩壊の最中にある劇場を見つめよう。そして、私たち1人1人の影を舞台に投影しようではないか。そして、詩人の使命は、永遠に人間的であるところの新しい詩を考案するところにあると思った。個性的で生命力のある物語。妨げにならず、それ自体が生きている。

私には、ロマンセが詩の中でも最高度の表現方法であると思われた。そして新しいロマンセを書くことにした。その意図は「アルバルゴンサレスの地」で答えを出している。私の意図は、伝統的な手法を蘇らせようとするところからはかけ離れていた。

騎士たちの、あるいはモリスコの古いかたちのロマンセを新たに作る、というのは私の好みでは決してない。見せかけの擬古主義は私にはどれも滑稽に思える。確かに私は、良き叔父、D・アグスティン・ドゥランが一冊にまとめたロマンセ集によって読むことを学んだ。

しかし私のロマンセは、英雄的な武勲に由来するものではなく、形成された民族から、歌われるところの土地から生まれたものである。私のロマンセは、人間の土台であるところを、カスティーリャの野を、そして“創世記”と呼ばれるモーゼの最初の書物を見つめている。

私が述べたこれらの意図と無関係な内容にあなたたちは出あうだろう。それらの多くは、愛する国を心配してのことだ。それから、私にとって永遠の芸術作品であるところの自然への率直な愛である。〉

2016年5月15日日曜日

乳母の子守歌

レコンキスタが日常の茶飯事だった15世紀の民衆にとって、エル・シッドは期待される英雄像であり、架空の英雄ベルナルドでさえ祖国の独立を守るためにローランを倒した今日的な人物でした。

伝説はその時代の民衆の悲願のあらわれといえます。レコンキスタ・スペインの民衆は「ロマンセ」の中にその思いを吐露しました。

そしてロマンセは、口から口へと伝えられ、それを耳にする人の心をひとつにし、民衆の思考のパターンとなっていきました。


そうした伝承の糸は、現代にまでつながっています。たとえばフェデリコ・ガルシア・ロルカ=写真=は「子守歌」をテーマにした講演で次のように証言しています。

「子どもたちにこの憂鬱なパンを与えるのは貧しい女性たちで、裕福な家にそれを届けるのも彼女たちなのです。金持ちの子どもは貧しい女性の子守歌を聞き、その唄が、白い野生の乳とともに、この国の精髄を授けるのです。

乳母たちは、昔から、女中やさらに身分の低い召使いとともに、貴族やブルジョアの家庭に、ロマンセ、歌謡、お伽話をつたえるというきわめて重要な働きをしています。

金持ちの子どもたちは、すばらしい女中や乳母のおかげでヘルネルドやドン・ベルナルドや、タマールやエルタルの恋人たちのことを知るのですが、彼女たちは、われわれにスペイン史の第一課をさずけ、『汝は孤独なり、而して孤独に生きん』というイベリアの銘のきびしい刻印を、われわれの肉体に押すために、山をくだり、川に沿って、やってくるのです。

われわれが、仙女の存在を認めるとすれば、当然、いろいろ重要な要素が子どもの眠りをさそうのに手を貸します。仙女はアネモネと温かさをもたらし、母親と子守唄がほかのものを整えるのです」

2016年5月14日土曜日

ルポルタージュ的性格

橋本一郎はその著『ロマンセーロ』の中で、スペインのロマンセや叙事詩の特徴として、民衆の歴史を写し取った写実的、ルポルタージュ的な性格をあげています。

スペインの中世は、南部のイスラム勢力と北部のキリスト教諸国との抗争の歴史でした。

キリスト教徒の側から見ればこの抗争は、侵略され奪い去られた国土の回復であり、国土の再征服運動(レコンキスタ)=写真=でした。

当時高い水準を持っていたイスラム文明は、レコンキスタを文書に記録し、その中核であったカスティーリャ王国は、レコンキスタの運動を叙事詩に記録し、歌いました。


12、13世紀のころ、叙事詩は頂点に達する。それを支えたのは、文字文化を知らないカスティーリャの民であり文化的土壌だったのです。

もちろん当時の上層階級は、ラテン語を使って文書を作り、手紙を書いていました。しかし、それは大衆とは無縁なもので、ラテン語の史書は血も涙もない歴史の骸骨でしかありません。

血も涙もある英雄をいきいきと再現するには、話しことば(ロマンス語、すなわちロマンセ)の歌、叙事詩が必要でした。

カスティーリャという地名は、城を意味する「カスティーリョ」に由来する。そこにはイスラムの侵略軍を防ぐ国境の城がたくさんありました。

カスティーリャの南には広い無人の荒野があり、そのはずれに国境の町として戦場になっていたメディナセリの町があります。

ここに住んでいた吟遊詩人の手でまとめられた叙事詩が『わがシッドの歌』であり、作られたのは1110年~1140年ごろのこと。聴衆にはまだ戦いの記憶がなまなましく残っていました。

「戦闘があると、その模様をのべた短い報道の歌がつくられ、それがまとまって長編になった。長編になっても、もとの報道性は残っていた。スペインの叙事詩が写実的なのはそのためである。

それは『ローランの歌』を筆頭とするフランスの叙事詩の物語性ないし虚構性とよい対照をなしている。フランスの叙事詩は写本が多い。ほぼ完全なものだけで90編を超える。

スペインで完全に残った写本は『わがシッドの歌』だけだ。これは作品の量の差のみではない。フランスものが始めから歴史小説であり、スペインものがルポルタージュ文学だったためだ。

小説は書かれた作品で、当然作者がある。『ローランの歌』の作者テュロルド以来、かなりの詩人名がわかっている。スペインの叙事詩人で名前がわかっている人はひとりもいない。報道記事は無署名の時、かえって公正で客観的なものとなるからである」 と橋本は指摘しています。

2016年5月13日金曜日

大衆的リアリズム

英、仏、独にも14世紀から15世紀にかけて、ロマンセのような民衆的詩形式のバラードがありましたが、長続きはしませんでした。

しかしスペインのロマンセは、14世紀末以降、各時代を通してすぐれた詩人たちに愛好されてきました。

スペインの文学は「芸術のための芸術」といった芸術至上主義よりは、現実に、あるいは実生活に密着したプラグマティズム的な傾向が強いといわれます。

それは、大衆に向けられた文学としてのリアリズムであり、地方性でもあるのです。

民衆歌謡のロマンセをはじめ、中世の叙事詩やロペ・デ・ベガ(Lope de Vega、1562-1635)=写真、wiki=の演劇、ピカレスク小説がそのいい例です。


こうした「民衆性」は作品が伝えられていくうちに、さまざまな人びとによって改良、改ざんされる、集団性、共有性とでも呼ぶべき性格を伴います。

「黄金世紀」の演劇で、オリジナルの姿のままで伝わっているものは多くはありません。

作品を書きあげた作者が座頭や役者たちに渡すと、彼らはまるで共有財産ででもあるかのように手を加えてしまうのです。

よく知られているように『ドン・キホーテ』も剽窃をまぬがれませんでした。

セルバンテスの『後篇』が出版される前の年に、アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダなる男がタラゴナ市で偽作『ドン・キホーテ』を発表しました。

偽作の出来ばえはなかなかのもので、権威ある「カスティーリャ古典叢書」としていまも本物といっしょに並んでいるそうです。

2016年5月12日木曜日

晩生の果実

スペイン人は対象を直覚的に把握し、それを衝撃的な表現に委ね、文体や形式の洗練に意を用いない傾向があるといわれます。

一つの作品を徹底的に深化させ、その完成度を高めることより、多くの作品に瞬発的な才知のひらめきを発揮するほうに長けているというわけです。

例えばフランスの『ロランの歌』=写真=が各詩行10音綴を厳守しているのに対して、スペインの『わがシッドの歌』の詩行は最短10音綴から最長20音綴とまちまちです。

また押韻も、前者が、同音韻つまり各詩行最後のアクセントのある母音およびその後の母音と子音が全く同一と、手が込んでいるのに対して、後者は、行末のアクセントのある母音(と最後の母音)だけによる類音韻。

技巧的により簡単な類音韻になっていく傾向は、主としてロマンセや詩劇を介してスペイン文学全体を貫いていくことになります。


牛島は、スペイン語の「晩生の果実(fruto tardío)」という言葉に注目します。

「ヨーロッパ諸国の文学のなかですでにすたれてしまったジャンルが遅れてスペインに移入され、それが異なった時間的・空間的環境ゆえに、独特の興趣を帯びた文学となって実を結ぶこと」 を指しています。

例えば16世紀のヨーロッパではすでに中世騎士道の礼儀作法を示すマニュアル的な存在になっていた騎士道物語が、スペインでは新大陸発見という歴史的な熱狂の時代に大流行するというようなケースのことです。

「晩生の果実」は外国から入って来た文学に限りません。

スペインに以前から存在していたものが、ある種の色付けをされ、時により活気を帯びて、再び、あるいは繰り返し立ち現れる。この場合に「晩生の果実」は、「継続性」となるわけです。

各詩行8音節、偶数行押韻のロマンセはまさに、この「継続性」を象徴する詩形式なのでしょう。

2016年5月11日水曜日

ドン・ロドリーゴの嘆き

スペインの詩情を如実に反映した文学ジャンルともいわれるロマンセは、フランスやイギリスの叙事詩をも取りこんで発展してきました。

フランスの中世には、スペインよりはるかに多くの英雄叙事詩が作られ、14世紀までは存続します。しかしフランスでは、自国の叙事詩の遺産を継承することはありませんでした。

イギリス、ドイツ、北欧諸国も同様です。これらの国々では、ルネサンスの到来が中世との断絶を意味していました。

これに対して、今日まで命脈を保ち続けたスペインの伝承歌謡であるロマンセは、逆に、バイロンなど多くの外国の文人を魅惑し、彼らに大きな影響を与えることにもなったのです。

その一例として牛島は、モーロ人の侵入によって亡国の憂き目にあった西ゴード王国最後の王、ドン・ロドリーゴの嘆きを歌ったロマンセをあげています。

  昨日はスペインの王だったが
  今日は町の長ですらない
  昨日は町や城を所有していたが
  今日はまったくの無一物
  昨日は家来を従えていたのに
  今日は仕える者もなく
  これこそわが物といえる
  銃眼胸壁ひとつない


この一節は、ヴィクトル・ユゴー(Victor, Marie Hugo、1802-1885)=写真、wiki=の「敗戦」(『東方詩集』所収)で、次のように蘇っているというのです。

  きのうはもっていた、城や美しい町々
  ユダヤの奴らに売る何千ものギリシャの女奴隷
  そして広大なハレム 巨大な武具庫。
  きょうは裸同然 打ちやぶられ追われ傷ついて
  逃げていく……この帝国に ああ! 何が残ったか
  アッラーよ! 銃眼付の塔ひとつないのです!(辻昶訳)

2016年5月10日火曜日

口承文芸から活字文学へ

『わがシッドの歌』をはじめ『ベルナルド・デル・カルビオの歌』、『フェルナン・ゴンサーレスの詩』、『ラーラの7人の公子』などの叙事詩はみな、ロマンセに多くの題材を提供しています。

逆に、後世の学者が散逸した14世紀以前の叙事詩を復元しようとすると、15世紀に作られたロマンセを重要な資料として用いることにもなりました。

ロマンセが当時の民衆の間で人気を呼ぶと、遍歴歌人たちは叙事詩以外にも手を広げて題材を求め、史実や文学作品に基づかない虚構のロマンセも生み出されるようになります。

この段階におけるロマンセは、いずれも「よみ人知らず」で、口承によって大衆の間に伝播しました。

15世紀末から16世紀にかけて、これらが貴族社会や宮廷に入りこむようになると、ロマンセは新たな展開を見せることになります。

教養のある詩人や音楽家たちが、より洗練された作品に仕上げたり、新たに創作したりするようになったからです。

こうして大衆の中にあったロマンセが、文化として根づき、フォルクローレ(民謡)としての地歩を築いていくことになったのです。


さらに、そのころ実用化され始めた印刷術によってロマンセは、口承文芸から作者の名が付いた活字文学へと変貌を遂げていきます。

16世紀末になると、ルイス・デ・ゴンゴラ(Luis de Góngora y Argote、1561-1627)=写真、wiki=やロペ・デ・ベガ(Lope de Vega、1562-1635)ら当代一級の詩人たちもロマンセに手を染めるようになりました。

フランスの影響が強く、スペイン精神が沈滞していた18世紀にはいったんは衰えましたが、19世紀のロマン主義により息を吹き返します。

そして20世紀に入っても「アルバルゴンサレスの地」のマチャードや、「夢遊病者のロマンセ」のロルカといった天才詩人たちによって脈々と生き続けることになったのです。

2016年5月9日月曜日

叙事詩が衰退し

ロマンセが発生した社会史的な背景は、14世紀後半から15世紀にかけてのいわゆる「中世の危機」に求められます。

当時、金融経済と商業の発達による社会の変化やブルジョアジーの台頭で、カスティーリャの封建制は深刻な危機におちいっていました。

さらに、ペドロ残酷王とその異母弟エンリーケ・デ・トラスタマラとの抗争が起こり、カスティーリャは混迷を極めることになります。

こうした内乱は、カスティーリャの文学(カスティーリャ詩)を激変させます。

それまで主流だった『わがシッドの歌(Cantar de mio Cid)』=写真、wiki=を代表とする叙事詩が衰退し、新たなジャンルとしてのロマンセが誕生したのです。


封建制の揺らいだ混乱の時代になって、封建的共同体の統一とその保持の役回りをしていた叙事詩がすたれるのは、歴史的な宿命だったのかもしれません。

叙事詩は長く手の込んだ構成のため、よほど熟練した遍歴歌人でないと語り切れませんでした。一方、長ったらしい朗唱に最後まで付き合える聴衆がそうそういるわけでもありません。

そこで自然の成り行きとして、遍歴歌人たちは聴衆の喜びそうな部分、つまり叙事詩のさわりだけを取り出して語るようになったのです。

遍歴歌人たちが叙事詩のエッセンスを抜き取り、加工して、繰り返し朗唱することで民衆に浸透し、歌い継がれていきました。

こうして、短い民衆歌謡として成立したのがロマンセだったのです。

修飾語を減らして会話を多用、劇的効果を出すため、詩が最高潮に達した時に不意に終わる「断片化技法」などが、ロマンセらしいところ。

さらに、叙事詩のような教訓性、宗教性はなくなり、悲劇的結末を迎えることが多いのも、ロマンセの特徴といえます。

2016年5月8日日曜日

フラメンコにも影響

マチャードの対策「アルバルゴンサレスの地」について具体的に検討する前に、ここではまず、ロマンセという詩がそもそもどういう性格のもので、スペインにとってどのような意味と歴史をもっているのか整理しておきましょう。

スペイン語のロマンセ(romance)はもともと、ローマ帝国の支配下における話し言葉だった俗ラテン語から派生した方言、ロマンス語を意味しています。

フランス語、イタリア語、スペイン語など10種ほどの言語の総称であるロマンス語のことです。と同時に、ロマンセは、スペイン文学の大きなジャンルを形成することになった詩の形式をも意味します。

たいていのロマンセは物語性を帯びています。韻律論的には、各詩行が8音節のオクトシラボ(octosilabo)で構成され、偶数行だけが韻を踏みます。

といっても行末の母音だけがゆるやかに押韻する類音韻で、同一の母音が詩全体を貫いているのがその特徴です。


ロマンセは中世からスペインで愛好されてきました。ふつう二つのメロディを交互に繰り返して歌われ、フラメンコのカンテ(歌)にも多大な影響を与えたといわれる詩の形式です。

ロマンセは14世紀の末にはすでに、民衆性の濃いバラードの一種として作られるようになっていたと考えられています。それが継承され、現在でも生き生きと命脈を保っているのです。

それは「ヨーロッパ文学にあっては類例をみない、文字どおり稀有な現象といわなければならない」 と牛島信明は指摘します。明日から、牛島の研究などを参考にロマンセの歴史をざっと振り返ってみることにします。

2016年5月7日土曜日

ロマンセという形式

アントニオ・マチャードの代表的な詩集『カスティーリャの野』(1912年)には、「アルバルゴンサレスの地(La tierra de Alvargonzáles)」というタイトルの二つの作品が、セットで収められています。

一つはパリの「Mundial」誌の1912年1月号に発表された散文体の物語・伝説「La tierra de Alvargonzáles(Cuento-Leyenda)」。

もう一つは、同じ年にまとめられたロマンセ(romance)形式の韻文「La tierra de Alvargonzáles(Al poeta Juan Ramón Jiménez)」です。

二つは、形式の違いを除くと共通部分が非常に多い作品です。

にもかかわらず、散文によっても、韻文によっても、読者に訴えかけようとしたところには、兄弟による父殺しをテーマにしたこの物語に込められたマチャードの思い入れの深さと、強いメッセージ性を読み取ることができるでしょう。

特にロマンセのほうは、全体で700行余り、詩集の約半数のページを割く畢竟の大作です。


シャルル・ボードレール=写真、wiki=に始まるフランス象徴主義やルベン・ダーリオらのモデルニスモ(近代主義)の影響で詩を書き始め、祖国の近代化を夢見たマチャード。

詩人としての模索の中で、彼はどうしてロマンセという形式にたどりついたのでしょう。また、このような大作を書く必要があったのでしょう。

そして、フランスなど他のヨーロッパ諸国では忘れ去られた、一見すると古くさく時代に逆行しているようにも思えるロマンセという古い形式を使い、赴任したソリアの近くの田舎を舞台にドロ臭くもある物語を書くことに力をそそいだのでしょうか。

そこには、カスティーリャを探るという「98年世代」的な意図とともに、以前に見た「二つのスペイン」に対するマチャードの立ち位置や、社会的使命に裏打ちされた詩人の「戦略」的な志向が関係しているのではないかと私は考えています。

2016年5月5日木曜日

「ドゥエロ川のほとりで」

きのうみた「ソリアの野(Campos de Soria )」における「春が通り過ぎてゆく(la primavera pasa)」「野は夢みている(el campo sueña)」「長い外套を着て 通り過ぎてゆく(pasan cubiertos con sus luengas capas)」などは、主語と動詞を連ねた自然な文体、モデルニスモの名残りを排除した簡素な表現です。

より現実主義的だが、独特の深みを備えた表現を展開していきます。

「カスティーリャの荒れ地にふさわしい暗い色調そのままのパレットを持って、詩人はその景色を描写する。しかし、マチャードにとって最も大切なことは、その景色に触れた心からにじみ出るもの、つまり彼の心理的な解釈なのである。カスティーリャの大地を目前にして、詩人は言う、人間と世界のなぞを瞑想しつつ何時間も過してしまった、と」 。

カスティーリャの風景に触れた心からにじみ出すものに、歴史的解釈が加えられます。マチャードにとってカスティーリャの風景は、歴史が刻まれた舞台でもあり、スペインの運命に思いを巡らす心象風景でもあるのでしょう。

詩人は、そうした二重、三重の風景を描き、叫びます。その叫びはときには、軽蔑をあびせかけているように響くのです。


そういう意味での典型的な詩として、ソリアを水源としスペイン北部ポルトガルへと流れ込むドゥエロ川=写真、wiki=を題材にした詩「ドゥエロ川のほとりで(A orillas del Duero)」があげられます。

ドゥエロは イベリアとカスティーリャの
樫の芯を貫き 流れる。
ああ、悲しく 気高い大地よ!
高原と 荒野と 岩だらけの大地、
鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野、
衰微していく町々、旅籠のない街道、
驚きは顔にしても、踊ることも 歌うことも忘れた 田舎の住人たち、
彼等は 火種の絶えた竃を見限り、
カスティーリャよ、そこを流れる長い川のように、
ただ 海へ向かい 流れていくのだ。

El Duero cruza el corazón de roble
de Iberia y de Castilla.
¡Oh, tierra triste y noble,
la de los altos llanos y yermos y roquedas,
de campos sin arados, regatos ni arboledas;
decrépitas ciudades, caminos sin mesones,
y atónitos palurdos sin danzas ni canciones
que aún van, abandonando el mortecino hogar,
como tus largos ríos, Castilla, hacia la mar!

このようにはじまる「ドゥエロ川のほとりで」は、詩節がない78行の長編です。14音節の行が多く、そのほとんどが13音節目に最後のアクセントを置いています。韻律は、風刺詩に向いているともいわれる短長格(yambico)。

カスティーリャの「悲しく、そして気高い大地」の低迷した現実を、その「高原と 荒野と 岩だらけの大地」「鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野」「衰微していく町々、旅籠のない街道」などの風景とともに、詩人の胸によみがえる過去の追想によって際立たせている。過去の栄光と、現在の衰退のコントラストを読者に鮮明に浮き上がらせ、詩人は祖国の運命の沈痛な瞑想にふけっているのです。

この詩については、あらためて別の機会に詳しく検討することにしたいと思います。

いずれにしても、こうした詩人の試みは「ドゥエロ川のほとりで」、「ソリアの野」と続いて、詩集『カスティーリャの地』に置かれているロマンセ「アルバルゴンサレスの地」に至って極まりを見せることになります。

2016年5月4日水曜日

「ソリアの野」

これまでに見てきたような詩の「変貌」は、祖国の危機を乗り越えようと「98年世代」が探究した「カスティーリャ」を体験したマチャードが、詩人としての社会的な使命を果たすために選んだ結果であったのでしょう。

そして、それは民俗学者である父などの影響で培われた資質にも大きくかかわっていたと考えられます。


ソリアの大地は干からびて寒い
丘や禿山の上を
緑の草原の上を 灰色の斜面の上を
春が通り過ぎてゆく
香りゆたかなハーブのなかに
小さな白いひなぎくの花を残して
Es la tierra de Soria árida y fría.
Por las colinas y las sierras calvas,
verdes pradillos, cerros cenicientos,
la primavera pasa,
dejando entre las hierbas olorosas
sus diminutas margaritas blancas.

大地はまだよみがえらない
野は夢みている
4月がきても モンカヨの斜面は
雪に蔽われている
旅びとは首や口をマフラーで包み
羊飼いは長い外套を着て
通り過ぎてゆく
La tierra no revive, el campo sueña.
Al empezar abril está nevada
la espalda del Moncayo;
el caminante lleva en su bufanda
envueltos cuello y boca, y los pastores
pasan cubiertos con sus luengas capas.

これは、1907年のある日、荒野のなか、冷たく、乾いたソリアに着いた片田舎のフランス語教師の姿を思い起こさせる「ソリアの野(Campos de Soria )」という詩の冒頭部分です。

2016年5月3日火曜日

形容詞にとらわれない詩

林一郎は、マチャードの初期の3作品(『孤独(Soledades)』のIV、『孤独、回廊、その他の詩(Soledades. Galerías. Otros poemas)』=写真=のLXXVIIとCXLVIIIという番号の詩と、詩集『カスティーリャの野』とを比べて、そこで使われている名詞、形容詞、動詞の数を調べています。


それによれば、初期の3作品の合計は、名詞77、形容詞42、動詞が27。軽蔑、嫌悪されていたはずの名詞や形容詞が非常に多く使われ、動詞は名詞の3分の1、形容詞の3分の2程度と少なく、決して動詞が優位、とはいえないことがわかります。

ところが『カスティーリャの野』になると様相はかなり変わってきます。分析した152作品、総計2823行で、名詞は4445、形容詞1483、動詞2116でした。

①名詞が最も多く、形容詞の3倍、動詞の約2倍にのぼる。②動詞は、形容詞の1.5倍多い。③形容詞は最も少なく名詞の3分の1、動詞の3分の2、という結果になったのです。

もちろん、この比較が統計的に意味をなすものではありません。それに、実験的な作品でもない限り、いくら韻文でも名詞、形容詞、動詞のどれかだけで文を織りなすことは通常はありえません。

だから名詞軽視、形容詞嫌いといってもそれは、程度の差の域を出はしません。

しかし、マチャードが中期以降、特に形容詞にとらわれないで詩を書こうと意識的に努めていた可能性をうかがい知ることはできそうです。

林は「Machadoの場合、まずmodernistaとしての自己の色彩を消すことから始めた。これこそ詩であると思いこんで自らの存在をかけた処女詩集《Soledades》(1903年)を世に問うて批評家の好評を博しながら、それとは逆の方向に自らの詩作の道を転向せざるを得なかった。

その苦しみは想像にあまりある。彼の詩が祖国の大地にしっかりと根をおろしたものに変貌するためには、最愛の少女妻Leonorの死という代償を払わねばならなかった」 と指摘しています。

2016年5月2日月曜日

名詞軽蔑、形容詞嫌悪、動詞礼賛

  形容詞と名詞は
  清浄なる水のよどみ
  抒情的な文法における
  動詞の不慮の出来事である
  明日あるであろうきょう
  そして未だに終わらぬ昨日
    El adjetivo y el nombre,
  remansos del agua limpia,
  son accidentes del verbo
  en la gramática lírica,
  del Hoy que será Mañana,
  y el Ayer que es Todavía
 
アントニオ・マチャードの死後まとめられた『補遺(Los Complementarios)1912~1925』=写真=に収められた詩の中で、彼はこのようにうたっています。


ここに述べられているように、マチャードは詩語としての名詞を軽蔑し、形容詞を嫌悪、逆に動詞を礼賛していたと、しばしば考えられてきました。

しかし、こうした傾向はマチャードの生涯を通じて一貫していたというわけではなく、『カスティーリャの野』の前と後、すなわち98年世代的なカスティーリャを強く意識する前と後とで、劇的な変化が起こったと見たほうがよさそうです。

たとえば、第1詩集『孤独』のなかの「地平線(Horizonte)」 という14音節の短い詩を読んでみましょう。

ある明るい夕べ、倦怠のように拡がり、
夏の灼熱が その槍をふるうとき、
平原のうえに 整然とそびえる 千の影は
ぼくの 重苦しい夢の幻影を 映し出していた。
En una tarde clara y amplia como el hastío,
cuando su lanza blande el tórrido verano,
copiaban el fantasma de un grave sueño mío
mil sombras en teoría, enhiestas sobre el llano.

落日の輝きは 紫の鏡となり、
焔のガラスとなって、古びた無窮に向かい
平原に 重苦しい夢を投げかけていた……。
そして ぼくの足音が 拍車のように鳴り、
彼方の 血に染まった西空に 谺するのが感じられた。
そして さらに遥かに、澄んだ曙の 歓びの歌が。
La gloria del ocaso era un purpúreo espejo,
era un cristal de llamas, que al infinito viejo
iba arrojando el grave soñar en la llanura...
Y yo sentí la espuela sonora de mi paso
repercutir lejana en el sangriento ocaso,
y más allá, la alegre canción de un alba pura.

詩を読めばすぐにわかるように、「明るい夕べ(una tarde clara)」、「倦怠のように(como el hastío)」、「夏の灼熱(el tórrido verano)」、「千の影(mil sombras)」、 「ぼくの 重苦しい夢の幻影(el fantasma de un grave sueño mío)」、「落日の輝き(La gloria del ocaso)」、「紫の鏡(un purpúreo espejo)」、「古びた無窮(al infinito viejo)」、「血に染まった西空(el sangriento ocaso)」、「歓びの歌(la alegre canción)」、「澄んだ曙(un alba pura)」などと、モデルニスモの影響なのか、名詞や形容詞がふんだんに並べられ、象徴性もあわせもつ鮮やかなイメージを作り出しています。

名詞を軽蔑し、形容詞を嫌悪、逆に動詞を礼賛していたというような傾向はここでは感じられません。

2016年5月1日日曜日

『孤独(Soledades)』

モダニズムの精神は「98年世代」の作家の文学の潮流とも基本的には合致して、若い詩人たちの心を激しくとらえました。

こうしてマチャードやヒメネスらの詩作は、ルベン・ダーリオの強い影響のもとに出発することになったのです。しかしマチャードは、やがてモダニズムの影響から離れ、独自の道を求めるようになります。

詩人としての内面的な感情が表現形式を求めて模索していた時期に、たまたまルベン・ダーリオという輝かしいモデルニスタの出現に出あい、その華々しい衣装をまとって発表したのが第1詩集の『孤独(Soledades)』でした。


しかしその後、詩が生まれてくる母胎は自らの精神であって、言葉の音色や色彩や入りくんだ情緒は枝葉末節に過ぎず、自分で物事をどのように見るか、自らの精神を通して世界をどのようにとらえるかのほうが、より根本であり重要だとマチャードは考えるようになっていったようです。

そこには、彼自身の生来の気質が絡んでいるとともに、思想を共有するウナムーノの影響も大きかったと考えられます。

そしてソリアでの5年間によってマチャードは、祖国とは何か、現実とは何かを見据える目と心を養いました。

自らの孤独の世界の中に閉じこもって美しい夢想にふける青年は、カスティーリャの荒涼とした大地に情容赦なく放り出されたことで、否応なしにイデオロギーの転換を強いられたといってもいいのではないでしょうか。

では、こうした転換を詩人としてどうのように成し得ていったのでしょう。客観的に外界を観察して事象の内部に浸透しようとすると事物はたちまち崩れ去り、残るのは依然として主観的な自己だけです。

詩集の序文にもうかがえるように、それならば主体と客体とを入れかえ、外界の事象がわれわれの内部に浸透したときに主観は消失し、客観が生まれるとマチャードは考えたのではないだろうか。

自分という主観的なフィルターをかけた網膜がとらえた現象だけを表現する立場から、フィルターなど一切取っ払い、外界の事象が自己を透りぬけるままにさせて、それがそのまま詩作品として結晶します。

詩人として実にあやうい、自己喪失のリスクをはらむ崖っぷちに立つ道をマチャードは自ら選んだことになります。いずれにしても、「98年世代」としてのマチャードの歩みは、まずはモデルニスタとしての色彩を消すことから始まったのです。

2016年4月30日土曜日

Ⅰ期とⅡ期との間の“突然変異”

ところで、詩人としてのマチャードの人生をたどるとき、通常は、大きく三つの時期に分けて考えられることが多いようです。

Ⅰ モデルニスモの洗礼を受けて詩人として出発した初期(1899~1907)

Ⅱ モデルニスモ的な色彩を自ら取り除き、詩人としての独自の存在を確立した中期(1907~1917)

Ⅲ 哲学的な傾向を帯びてくる後期(1917~1939)

です。このように分類したとき特徴的に見えてくるのは、Ⅰ期とⅡ期との間に、断絶といってもいいほどの大きな作風の変化が見られることです。


詩人で、アントニオ・マチャードの研究家としても知られるアンヘル・ゴンサレス・ムニュス(Ángel González Muñiz、1925~2008)=写真=は、次のような見方をしています。

マチャードの詩を、モデルニスモ詩人ルベン・ダーリオは、「神秘と沈黙」と評した。マチャードは内面的、抒情的で、象徴主義的な夢想によらないものには関心をもたなかった。そんなマチャードが、深いカスティーリャ体験によって突然変異を起こした。自分自身の思うところについて確信を持って表現することを恐れなくなったのである。そして、マチャードはとうとう、飾り気なしに、教育や愛国の自由な体制をつくる倫理的な再生主義者であることを表明するようになるのである 。

ここでいう「突然変異を起こした(mutó)」とは、どういうことなのでしょう。

それは、まさにマチャード自身が『カスティーリャの野』の序文で言っている「ソリアの地での5年間は、いまの私にとっては、神聖不可侵なものである。そこで私は結婚をした。そこで、私の妻を、崇拝する人を失った。そして私の眼を、私の心をカスティーリャの本質へと向けた」というカスティーリャ体験であり、ソリアの生々しい現実のなかでのさまざまな人と出あいによるものであったに違いありません。

マチャードの詩作は、これまでにも見たようにフランスの象徴主義や当時の詩壇を風靡したモデルニスモ(モダニズム)の洗礼を受けてはじまりました。

モダニズムは1883年から85年ごろ、キューバのフリアン・デル・カサール、メキシコのナヘラ、コロンビアのシルバらラテンアメリカ各地の若い詩人たちが、それまでのロマン主義や象徴主義的な作品をもとに、言葉と感覚の変革を試みたものです。

つまり、ロマン主義の表現性や象徴主義の内省の深さ、創作の意識性のうえに、従来にない繊細な感覚による探求と言葉の音楽性の追求をしたわけです。

その代表的詩人、ニカラグアのルベン・ダーリオ(Rubén Darío 、1867~1916)は、詩の豊かな内容と形式で、いままでにない言葉の韻律やこれまで言葉にされたことのない感動を大胆に自由に表現しました。

2016年4月29日金曜日

カスティーリャの“創世記”

初版からして『カスティーリャの野』には、その前に出したマチャードの詩集『孤独、回廊、その他の詩』(1907)のような統一した形式はありません。

それがまた、この詩集の特徴と言えるかもしれません。マチャード自身、1917年の出版の際の序文で、つぎのように説明しています。

ソリア=写真、wiki=の地での5年間は、いまの私にとっては、神聖不可侵なものである。そこで私は結婚をした。そこで、私の妻を、崇拝する人を失った。そして私の眼を、私の心をカスティーリャの本質へと向けた。そこにあるのは私のイデオロギーとはまったく別のものだった。


私たちは二重の幻影の被害者だと私は考えてきた。もし私たちが外に目を向けて、起こっている出来事に入りこもうとすれば、その困難さの中に私たちは外側の世界を見失ってしまう。そこで見ている現実が私たちを追い払ってしまう。

そのとき、すべてが外から来ているように思われるが、それこそ自らのうちに散らばっている我々のうちにある世界なのだ。ならば、どうすればいいのか。私たちに与えられる糸を織ること、私たちの夢を夢みること、生きること。

こうすることでしか私たちは、この時代の奇跡的な行動を起こすことは出来ない。自分自身に注意深く、聞き耳を立てようとする人は、聞くことの出来る唯一の声に窒息してしまう。一方、よその騒音には茫然とさせられる。ならば、私たちは世界の単なる傍観者なのだろうか。

だが、私たちの目は、理性を搭載しているのだ。そして理性は分析し、問題を解く。すぐさま、崩壊の最中にある劇場を見つめよう。そして、私たち1人1人の影を舞台に投影しようではないか。詩人の使命というのは、永遠に人間的であるところの新しい詩を考案するところにあると私は思った。

個性的で生命力のある物語。妨げにならず、それ自体が生きている。私にはロマンセこそが、詩の中でも最高度の表現方法であると思われた。そして新しいロマンセを書くことにした。その意図は「アルバルゴンサレスの地」で答えを出している。

私の意図は、伝統的な手法を蘇らせようとするところからはかけ離れていた。騎士たちの、あるいはモリスコの古いかたちのロマンセを新たに作る、というのは私の好みでは決してない。見せかけの擬古主義はどれも、私には滑稽に思える。

確かに私は、良き叔父、D・アグスティン・ドゥランが1冊にまとめたロマンセ集によって読むことを学んだ。しかし私のロマンセは、英雄的な武勲に由来するものではなく、形成された民族から、歌われるところの土地から生まれたものである。

私のロマンセは、人間の土台であるところを、カスティーリャの野を、そして“創世記”と呼ばれるモーゼの最初の書物を見つめている。私が述べたこれらの意図と無関係な内容にあなたたちは出あうだろう。

それらの多くは、愛する国を心配してのことだ。それから、私にとって永遠の芸術作品であるところの自然への率直な愛である。結局のところ、いくつかの韻文作品が、人間の、世界の不可解さに思いを巡らすのに費やした(失われた、といえるかもしれないが)私の人生の多くの時間を示しているのだ。

(Cinco años en la tierra de Soria, hoy para mí sagrada –allí me casé; allí perdí a mi esposa, a quien adoraba—, orientaron mis ojos y mi corazón hacia lo esencial castellano. Ya era, además, muy otra mi ideología. Somos víctimas—pensaba yo— de un doble espejismo. Si miramos afuera y procuramos penetrar en las cosas, nuestro mundo externo pierde en solidez, y acaba por disipársenos cuando llegamos a creer, que no existe por sí, sino por nosotros. Pero si, convencidos de la íntima realidad, miramos adentro, entonces todo nos parece venir de fuera, y es nuestro mundo interior, nosotros mismos, lo que se desvanece. ¿Qué hacer entonces? Tejer el hilo que nos dan, soñar nuestro sueño, vivir; sólo así podremos obrar el milagro de la generación. Un hombre atento a sí mismo y procurando auscultarse, ahoga la única voz que podría escuchar; la suya; pero le aturden los ruidos extraños. ¿Seremos, pues, meros espectadores del mundo? Pero nuestros ojos están cargados de razón, y la razón analiza y disuelve. Pronto veremos el teatro en ruinas, y, al cabo, nuestra sola sombra proyectada en la escena. Y pensé que la misión del poeta era inventar nuevos poemas de lo eterno humano, historias animadas que, siendo suyas, viviesen, no obstante, por sí mismas. Me pareció el romance la suprema expresión de la poesía, y quise escribir un nuevo Romancero. A este propósito responde La tierra de Alvargonzález. Muy lejos estaba yo de pretender resucitar el género en su sentido tradicional. La confección de nuevos roman­ces viejos —caballerescos o moriscos— no fue nunca de mi agrado, y toda simulación de arcaísmos me parece ridícula. Cierto que yo aprendí a leer en el Romancero General que compiló mi buen tío don Agustín Durán; pero mis romances no emanan de las heroicas gestas, sino del pueblo que las compuso y de la tierra donde se cantaron; mis romances miran a lo elemental humano, al campo de Castilla y al Libro Primero de Moisés, llamado Génesis.
Muchas composiciones hallaréis ajenas a estos propósitos que os declaro. A una preocupación patriótica responden muchas de ellas; otras, al simple amor a la Naturaleza, que en mí supera infinitamente al del Arte. Por último, algunas rimas revelan las muchas horas de mi vida gastadas — alguien dirá: perdidas— en meditar sobre los enigmas del hombre y del mundo. )

2016年4月28日木曜日

初刷2300部

1907年からカスティーリャ地方のソリアでの生活を始めたマチャードは、1910年末、それまでに書きためた詩をまとめて「ルネサンス(Renacimiento)」という出版社から詩集を刊行しようと、編集者のグレゴリオ・マルティネス・シエラに最初の原稿を送っています。

しかし編集者は、原稿が十分整わなかったため、1912年4月末まで出版を待つことにしました。

当初マチャードは、詩集を「スペインの地(Tierras de España)」というタイトルにしようと考えていたようですが、最終的には「カスティーリャの野」に落ち着きました。

最後の原稿であったロマンセ「アルベルゴンサレスの地」を1911年にいちおう仕上げ、翌1912年4月半ばごろには印刷、6月には本屋に出回るようになります。

初版は計54の詩篇からなり、198ページ。本のカバーは、秋の樹木と雲の風景が描かれた木版画でした=写真。初刷りは2300部で、売れ行きは好調だったようです。


『カスティーリャの野』の初版は、次のような構成になっています。

最初に「ソリアの野(Campos de Soria)」をテーマにした九つの詩が並ぶ。そして、長大なロマンセ「アルバルゴンサレスの地(La tierra de Alvargonzález)」が10章構成で続く。

さらに「格言と歌(Proverbios y cantares)」として、29篇のコプラ調の短い詩(「全詩集」の1917年版では、24篇に整理されている)が続き、最後に四つの自由詩(「気まぐれ(Humorada)」、「助言(Consejos)」、「信条の表明(Profesión de fe)」、「諧謔(Mi bufón)」)などが並ぶ。

その後の編集でマチャードは次々と内容を拡充して行き、1936年の全詩集の段階では、最初の54篇の詩から123篇にふくれあがりました。

2016年4月27日水曜日

広大なるカスティーリャ!

これまで見てきたように、アントニオ・マチャードはレオノールとの生活の中から、『カスティーリャの野』を生み出しました。これからしばらく、彼の代表的な詩集となる『カスティーリャの野』の構成や特徴について考えていきます。


 「時たま見かけるものとては果てしなく続く平原だけの荒れ地が、何マイルにもわたって続いている。そして平原は小麦の緑色、あるいは刈り田の黄色で彩られる。ゆったりと間をおいて並んでいる厳しい常緑の陰うつな樫の木、あるいは一様な頭をもたげた物悲しい松の単調で重々しい行列が展開される。

時おり、なかば乾いたような貧しい沼、あるいは清澄な川の岸辺に、幾本かのポプラが立ち、それらは果てしない孤独の中で、強く深い根を張る。たいていこれらのポプラは、人間にこう語りかけている。

すなわちあそこには、多くは干乾しれんがで作られた村が平原の中で太陽に向かって広がり、太陽によって焼かれ、氷によってなめされ、青い空の中にその鐘楼のシルエットを描きながら存在する、と。

たいていの場合、背景には山脈の背骨が見えるが、近づいてみると、それははりえにしだとヒースが、折れ曲がった羊歯の上にその黄と赤の花をまき散らしているような、木立ちにおおわれてきびの形をした緑の新鮮な円形の山ではないことが分かる。

それらは、骨ばってごつごつした岩から成る支脈、そそり立つ岩山であり、渇きのために亀裂の生じた地層をむき出しにした、哀れな雑草におおわれた丘である」

 「1898年世代」が探っていた「カスティーリャの野」の姿を、ミゲル・デ・ウナムーノは主著の一つ『生粋主義をめぐって』(En torno al casticismo、1895年)=写真=でこんなふうに描いて、「広大なるカスティーリャ! この空いっぱいに広がる石化した海の物静かな悲しさのまた何と美しいことか!」と叫んでいます。

アントニオ・マチャードの『カスティーリャの野(Campos de Castilla)』は、タイトルの通り、「98年世代」が背負うことになった、こうした「カスティーリャ」に対するマチャードの体験と問題意識が色濃くあらわれている詩集、ということができるでしょう。

2016年4月26日火曜日

不在の妻

きのう見た「夢の会話(Los sueños dialogados)Ⅰ」を、清水憲男さんの論文を頼りに、詳しく読んでみることにします。

詩の中でマチャードは、自らが存在していながら妻は不在であるという、恐ろしい時間的落差を痛感して「私の言葉が呼び覚まされる(Mi parabra evoca)」(2行)、「従順な思い出(al recuerdo obediente)」(5行)といいます。

しかしこれと対照的に、死んだレオノールに対して、「君は見るのか(¿Ves?)」(9行)、「見て(Mira)」(11行)、「妻よ(esposa)」(12行)と3回呼びかけているのです。

最初の2連で、死という、起こってしまった過去の事実が肯定されますがが、マチャードはどうしてもあきらめきれず、彼女に虚しく呼びかけます。絶望的な叫びへの答えはただ「静まりかえった午後(la tarde silenciosa)」だけです。


「ドゥエロが流れる(Tras el Duero)」は、2人がよく散歩をしていた「ドゥエロのほとり(orillas del Duero)」と対応し、「紫色に染まっている(Se amorata)」という表現は、訪れる暗夜、すなわち死に向けての時間的転移を暗示しています。

前半の4行連ではソリアと結びつけられたレオノールの思い出が、後半の3行連では、それを背景にした抗い難い現在が語られます。しかし、この隔たりの間で、ソネットが唐突に分断されてしまうようなことはありません。

2人の堅い結びつきが「私の(el mió)」から「私たちの(el nuestro)」を導き出します。こうしてソネットの前半と後半が結びつきますが、「el mió」と「el nuestro」が別の連に離れて置かれていることによって、バルコニーの共有が崩されてしまった印象をも醸し出します。

そして2人のものでなくなった断絶感の直後に、「¿Ves?」という虚しい問いかけが効果的に響いているのです。

フランス象徴主義詩の影響なのか、最初の3行連の「モンカヨの山脈 白 バラ色(la sierra de Moncayo, blanca y rosa)」には2人の希望を、「炎(incendio)」や「緋色の雲(esa nube grana)」は燃え立つ愛の炎を、そして12行目の「星(estrella)」は2人の宿命を象徴しているのでしょう。

また、たそがれ時の星という取り合わせには愛と死の意味が二重写しになっているともとらえられるし、最後の2行にも空間と時間という二重性を詩の中に潜ませています。詩人としての力量の確かさをうかがわせるマチャードならではの巧みな技法、といえるのでしょう。

こうした点に注目しながら清水さんはこの詩について、次のように指摘しています。

「マチャードは、ある意味では神秘主義詩人に似て、伝達を本来目的とした言語では言い表せない感覚的深みにまで直感を媒介にして自己沈潜してゆき、その成果をありきたりの言葉でさり気なく暗示ないし象徴する。ソシュール用語をもって言い換えれば、表現したい“所記”に相応する“能記”が無いゆえに、あえて直接的能記をあきらめ、黙し、ごく当たり前の単語・構文の微妙な組み合わせを試み、その裏を読者の感受性、解釈力、直感に再度委ねたのである。歴史、文化の重みを秘めた言語の腰の強さ、柔軟性、単語同士の隣接から生まれる相乗効果、緊張などを確信し、それに自らの存在を賭けたマチャードの姿をここに十分見て取ることができる」 。

このようにレオノールの死に対し、詩作によって向きあうことで、マチャードのカスティーリャ体験はひとまず終焉を迎えることになるのです。

それは、「歴史、文化の重みを秘めた言語の腰の強さ、柔軟性、単語同士の隣接から生まれる相乗効果、緊張などを確信し、それに自らの存在を賭けた」と清水さんのいう詩人マチャードが、その創作のピークを迎えた時期でもあったのでしょう。

2016年4月25日月曜日

「夢の会話」

レオノールの死から10年以上たった1924年に出版された詩集『新しい歌(Nuevas canciones)』の中に、「夢の会話(Los sueños dialogados)Ⅰ」 という、最愛の妻を失ったことによる孤独を描いたと考えられるソネットが収められています。


君の姿が高くいっぱいに満たし
現れた!私の言葉が呼び覚まされる
緑の牧草地に乾燥した平原
満開のキイチゴ 灰色の岩
  ¡ Como en el alto llano tu figura
Se me aparece! ... Mi palabra evoca
el prado verde y la árida llanura,
la zarza en flor, la cenicienta roca.

そして従順な思い出 黒いカシ林
川辺のポプラの下 土手は芽吹いている
羊飼いが丘へ登っていく
町のバルコニーが光る:私の
Y al recuerdo obediente, negra encina
Brota en el cerro, baja el chopo al río;
e pastor va subiendo a la colina;
brilla un balcón de la ciudad: el mió,

私たちの。「君は見るのか」 遠く、アラゴンまで
モンカヨの山脈 白 バラ色……
見て 炎 緋色の雲に
el nuestro. ¿Ves? Hacia Aragón, lejana,
la sierra de Moncayo, blanca y rosa...
Mira el incendio de esa nube grana,

そしてあっちの青には星、妻よ
ドゥエロが流れる サンタナの丘
紫色に染まっている 静まりかえった午後
   y aquella estrella en el azul, esposa.
Tras el Duero, la loma de Santana
Se amorata en la tarde silenciosa.

この詩は、スペインの定型詩によくある、1行が11音節(シラブル)からなるエンデカシラボ(Endecasílabo)で、構成する14行のすべてで10番目のシラブルにアクセントがあるパロクシトーン(paroxítono)型です。

押印は、abab-cdcd-efe-fefで、ふたつの4行連は交互に韻を踏む連鎖押印になっている、すっきりと整ったソネットです。この詩については、明日、詳細に検討してみたいと思います。

2016年4月24日日曜日

カスティーリャを去る

この年1912年の6月、きのう読んだ文章の中にあった「旅人よ。そこに道はない。歩くところに道はできる(Caminante, no hay camino, se hace camino al andar)」というフレーズを含んだスペイン人に馴染の深い短詩も入っている3冊目の詩集『カスティーリャの野(Campos de Castilla)』が出版されました。

題名の通り、98年世代が背負うことになった「カスティーリャ」に対するマチャードの体験と問題意識が色濃くあらわれている詩集です。


『カスティーリャの野』は文壇からは絶賛の声が上がったものの、詩集に収められた中には地域の住民からの激しい反発を招いた詩も少なくありませんでした。この詩集については、後に詳しく検討していくことにしたいと思います。

ところで、マチャードの懸命な看病の甲斐もなく1912年8月1日、肺結核に冒されていたレオノールは静かに息をひきとります。マチャードと結婚して3年目。まだ19歳の若さでした。

死の1週間後、マチャードは逃れるようにしてマドリードへと向かい、転出希望の届けを出しています。そして5年間にわたったカスティーリャでの生活から離れ、11月1日付で、やはりフランス語教師としてアンダルシア地方の田舎町バエサに移りました。

マチャードにとって、レオノールという存在なしにソリアにとどまる意味を見いだせなかったのでしょうか。愛するひととの思い出が詰まった地にいることが耐えられなくなったのでしょうか。

それとも詩集『カスティーリャの野』の出版を機に、カスティーリャでの生活に区切りを付けたかったのでしょうか。確かなことはよくわかりません。

2016年4月23日土曜日

レオノールの視線

『アントニオ・マチャードとレオノールの視線』 という絵本では、病気の療養でそれまでずっと家の中で窓を眺めているだけだった2人が、散歩をはじめたときの様子が、次のように描かれています。

 「散歩をしてみたいの」とレオノールはある夜、思いついたように言った。彼女と窓の前に座っていたアントニオは、それがすごくうれしかった。レオノールがはじめてやってみたいことを言ってくれたからだ。


「分かったよ、僕の“宝もの”。あしたいっしょに行こう」とマチャードはこたえた。でも、それには二つの大きな問題があることに気がついた。

第一の問題は寒さからレオノールを守ってやらなければならない。第二に、雨が降ったときのことだ。車いすで歩き回るのは家の中でもかなり大変なのに、泥まみれの道をどうやって進むことができるだろう。

いったい、どこへ連れて行こう?
 
「アントニオ」と彼女はまぶしいような微笑みを浮かべて言った。

「あなたはいろいろ心配してくれているみたいだけど、大切なこと忘れていない」

「何かあったかなあ?」

「あなたは黒いノートに自分で書いているじゃない。《旅人よ。そこに道はない。歩くところに道はできる》って。私たちが望むところを歩いていけば、道になるんじゃない」

こうしてレオノールとアントニオは春が過ぎ去るころ、初めて外へ出かけていった。

「あそこ、見てごらん」

雲の谷間から、微かな太陽の光が差し込んできた。それはちょうど、雨も風もなかった、以前の春を思わせる日ざしだった。

Me gustaría tanto dar un paseo...―dijo Leonor una tarde como tantas otoras en que se encontraban Antonio y ella sentados ante la ventna.
Y él escuchó estas palabras con gran alegría, porque era la primera vez que ella le pedía tal cosa.
―Claro que sí, mi vida, mañana mismo—respondió sin darse cuenta de que tan buena noticia planteaba un problem, o mejor dicho, dos.
 El primer problema era el frío:debería abrigar muy bien a Leonor. El segundo era cómo iba a llevarla a pasear. Ya resultaba bastante problema andar por la casa con silla de ruedas, ¿cómo iban a recorrer los caminos llenos de barro?
 Y, sobre todo. ¿adónde se dirigrían?
―Ay, Antonio—le dijo ella con su maravillosa sonrisa—, tú siempre preocupado por cosas que no tienen mayor importancia. ¿Qué más da dónde vayamos? Tú mismo lo escribiste en tu cuaderno negro,《Caminante, no hay camino, se hace camino al andar》. Dejemos pues que esa el camino el que nos lleve donde él quiera.
Y allí que se fueron Leonor y Antonio en su primer paseo de primavera.
Míralos, por ahí van. Las nubes se han hecho a un lado y brillan ya unos tímidos rayos del sol. Y esos mismos rayos de sol dejan ver ahora algunas cosas que antes no se veían por la lluvia y el viento; como ciertos atisbos de primavera, por ejemplo.

2016年4月22日金曜日

喀血

結婚後もマチャードはソリアで教師を続けていましたが、希望していたフランス語研究のための留学が許され、1911年の年明け早々、幼い妻を伴ってパリへ赴きます。

パリでは、アンリ=ルイ・ベルクソン(1859~1941)=写真、wiki=の講義を受けるなど、充実した日々を送っていました。


ところが、フランスへ渡って半年後の7月14日の夜、レオノールが突然ひどい喀血に襲われます。パリ祭の夜のことでした。

マチャードは医者を求めてパリ中を狂ったように駆けまわりましたが見つからず、ようやくレオノールが病院にかつぎ込まれたのは翌朝になってからのことでした。

マチャードは勉強を中断して妻の看病に当たりましたが、彼女はなかなか快方に向かいません。仕方なくその年の9月、ソリアへ戻って静養させることになりました。

病状に進退がないまま冬を越し、翌1912年の春になって雪もなくなると、マチャードはレオノールを車いすに乗せてよく散歩に出かけました。

当時のマチャード夫妻の様子が可愛らしいイラストで綴られた『アントニオ・マチャードとレオノールの視線』 という絵本(8歳から12歳の子ども向け)が出版されています。

この中で、それまでずっと家の中で窓を眺めているだけだった2人が、散歩を始めたときの様子が次のように描かれています。

2016年4月21日木曜日

ちっちゃな理容師

米西戦争でスペインが敗れた1898年、23歳になったアントニオ・マチャードは初めて詩を発表し、詩人としての第一歩を踏み出しました。

1907年には公立中高等学校のフランス語の教師の資格を得て、同年5月、スペイン北部の古くからある町ソリアに着任式のため赴きました。

スペイン南部のアンダルシアに生まれ育ったマチャードにとって、運命的な初めての“カスティーリャ体験”がここにはじまわけです。

マチャードはいったんマドリードに戻り、正式に就業するために夏休み明けの9月にあらためてソリアに向かいました。同年末、マチャードの2冊目の詩集『寂寞、回廊、その他の詩(Soledades. Galerías. Otros poemas)』が出版されています。

ソリアでのすみかとなった下宿屋の夫婦には、まだ13歳になったばかりの娘レオノール=写真=がいました。マチャードは、20歳近く年下のこの少女にすっかり夢中になります。


そして、しゃれっ気などまったく持ち合わせていない内気な詩人は、彼女との年齢差を気にしながらも、意を決して求婚しました。

このあたりのマチャードの心境が、「汽車(El tren)」という詩の一節にうかがうことができる。

そして、私の愛する女の子
ああ、結婚することができたなら
ちっちゃな理容師と
  ¡Y la niña que yo quiero,
Ay, preferirá casarse
con un mocito barbero!

レオノールは自分の一生をマチャードにささげる決意をします。そして、知りあって2年後の1909年7月末、2人はソリアの教会で結婚式を挙げます。マチャード34歳、レオノールは16歳でした。

2016年4月20日水曜日

オルテガに託す

1898年の敗戦によってスペインは、その真の伝統からも、海外文化からも分離していたことにいまさらながら気がつくことになりました。

そこで彼らはまず真実のスペインを探求しようと、過去のすぐれた古典や民衆文化に目を向け、そこから内省の文学を生みます。と同時に、新しい思考法をヨーロッパに求めていきました。

しかし、激しい民族的な感覚や独自性がそれによって失われることはなく、むしろスペイン特有の文化を世界文化と合流させる方向にむかっていくことになります。

だいぶ先走ることになりますが、こうした中で、マチャードはどのようなスペインを夢見ていたのでしょう。

  しかし別のスペインが生まれる
  のみと槌のスペイン
  民族のがっしりとした過去から成り立つ
  永遠の若さを持ったスペインが
  それは無慈悲で、しかも救いをもたらすスペイン
  報復の斧が手に
  夜明けを迎えるスペイン
  激怒と思索のスペイン

「彼はこのような歴史構造をもったスペイン、一見すると不可能に見えることをその業をもって追求するスペインを夢見た」とエントラルゴはいいます。


そして、マチャードはその夢を、自身よりも8歳若い思想家、ホセ・オルテガ・イ・ガセット(José Ortega y Gasset、1883-1955)=写真、wiki=に託します。

  そして厳格なフェリーペ2世が
  王の墳墓の緑より
  新しい建物を眺めようと顔をのぞかせ
  ルターの信徒たちを祝福せんことを
    Y que Felipe austero
    al borde de su regia sepultura,
    asome a ver la nueva arquitectura,
    y bendiga la prole de Lutero.
  
マチャードは、こんな一節が盛り込まれた短い詩を、『ドン・キホーテをめぐる思索』を書き始めていたオルテガに捧げています。マチャードは、オルテガに影響されたスペイン人たちがすぐれた業績を構築するだろうと、信じていたのです。

その業績というのは、ドイツ的でもプロテスタント的でもなく、まさにスペイン的なものになる。そして、この創造によってスペインは独自の言葉で世界に語りかけるであろう。そうなったとき、フェリーペ2世はスペイン精神の新たな再生を可能にした者たちに祝福を与えるであろう、というのです。

エントラルゴは「スペインの果たしうる使命とは近代人の創造物――知的、政治的、社会的、そして技術的創造物(それらの多くは、プロテスタント的異端の成果の上に直接・間接的に成り立っている)――をスペイン化する、つまりスペイン風に再創造するという仕事であると考えた」 のだと指摘しています。

こうした「1898年世代」の考えは、スペイン人たちに民族的自覚を促したものの、結果的には、それをどう実現するかという具体的な改革者としての立場に立つことはなく、夢想的、観想家的な域を出ることはなかったのです。

2016年4月19日火曜日

カスティーリャ精神

「1898年世代」の思想的な中心であるウナムーノは、彼の主著『生粋主義をめぐって』 でまず、カスティーリャ語がスペインの国語となっていった事実に注意を向けて、スペインにおいて純粋なものはカスティーリャにあるとしています。

カスティーリャは穀物市場の中心地であり、また地理的な中心でもあった。さらに、対外的行動を起こす際には、他の小国家に比べて最も征服者的で帝国的才知に恵まれた国でもあったため、必然的に指導的な地位に就いた。

だから、スペインにおいて純粋なものはカスティーリャの歴史的精神とその言語、文学に求めねばならず、さらにその中から永遠なるものと、かりそめのものを区別せねばならないといいます。


カスティーリャはモーロ人に占領された国土の再征服のため、分立した小国家群を統一し、それらに征服者の統一主義と世界のカトリック化の思想を鼓吹していきました。

これらの思想によって他の小国家群はカスティーリャ化されていった。カスティーリャはグラナダを占領し、アメリカ大陸を見つけ、征服者精神は絶対主義を生んだわけです。

カルロス1世はスペインと他のヨーロッパ諸国が協定を結ぶことによって、国内の統一を促進しようとしました。16世紀初頭には、ユダヤ人を追放し、宗教改革の嵐に対しては正教の保塁となります。

こうした激しい外的活動の後には、内的な思考の活動も活気づきました。外的行為をその母胎である内面的精神に還元しようとしたのです。

外的事業のカスティーリャ精神への反映は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に代表される黄金世紀の文学に典型的に見られるのです。

2016年4月18日月曜日

純潔で真正なるカスティーリャ

伝統にしばられて死んでゆく伝統主義者、それに伝統を否定しながらも何ら変えようとせずに欠伸をするだけの進歩主義者たち。

こうした「二つのスペイン」に対して「1898年世代」は、どのように割って入ろうとしたのでしょう。

エントラルゴはさらに次のように指摘しています。

「98年の世代は、このどちらの一方に対しても各自それぞれの流儀で、またそれぞれ異なった正確さをもって、新しい伝統主義、つまり初期時代の、もしくは中世の伝統主義を考え出した。彼らはカルデロンの伝統にはベルセオやホルヘ・マンリーケのそれを対立させ、近代の叙事詩にはロマンセーロを、そしてフランシスコ・デ・ロハスにはイータの僧正を対立させるであろう。

要するに98年の世代の作家たちはみな、独創的で純粋なスペインを夢見、そしてその存在論的条件の命ずるままに、人間――歴史的であり、したがって伝統的な存在たる人間――が有する、避けられない「過去の必然性」の支えをそこに求めたのである。

ここで問題になっているのは、歴史の王国に先立つ自由の王国というヘーゲル的な夢であり、そしてウナムーノが初期時代のカスティーリャのヴィジョンをこの架空の王国と同一視するのも偶然ではない。アントニオ・マチャードがサンルーカルで、泥水となってゆっくり流れるグアダルキビール河を眺めて歌ったことは、彼ら全員についても言える。

  緑なす松の根元の
  泡立つ澄んだ水よ
  お前は何と快い音を立てていたことか!
  しかしいま海辺に近く塩からい
  泥河となって、私のように
  お前は故郷の泉を夢見ているのか?
  
カスティーリャ、すなわちベルセオやイータの僧正の初期カスティーリャは、98年の世代の夢想家たちにとってはスペイン史の源泉であり、暁の清純と喜びをもって歌う、泡立つ澄んだ水であった。この純潔で真正なるカスティーリャこそ、98年の世代の人々が周囲の誇大表現から逃れようとして、初期時代の人々の素朴さと自然さを選んだときに密かに求めたものなのだ。」


「98年世代」は、いたずらにカトリシズムなど前時代の古いものから離反しようとしていたわけでも、単に伝統を全面的に否定する進歩主義者でもなかったのです。

「スペイン史の源泉であり、暁の清純と喜びをもって歌う、泡立つ澄んだ水」すなわち、昔からスペインの不変なものとしてある「純潔で真正なるカスティーリャ」を見いだそうとしました。

そして彼らは、文学の社会的性格、すなわち文学の使命の一つである、社会を啓発するための文学を持つべきであると強調しました。

何かを求めるためには、現実をじっくりと見据える必要がある。その現実把握の手段として、目の前にある町や風景を克明に写し取る。そして過去、現在を批評し、そこからスペインのよき伝統、本来の良さをくみ取り、外国の知識を吸収しながら自分たちの国を再発見していく。

こうして得られたものから、正しいことは正しいと受け入れ、間違っていることに対してはあくまでも抗議して、社会の人々に伝えていく。彼らは、そんな使命を感じていたのでしょう。

2016年4月17日日曜日

二つのスペイン

後に「1898年世代」と呼ばれるようになった彼らは、幼少時から多かれ少なかれ、カトリックの信仰や慣習化した実践の中で堅固な教育を受けました。

しかし、そうしたカトリシズムへの帰依は、心からのものでも知的に啓発されたものでもありませんでした。当時のカトリック世界と自称する世界は、社会的、知的、芸術的な模範性をまったく欠いていました。

信仰を得ようともしない極めて弱い及び腰の宗教心は、人間的支えにはほとんどなりません。

慣習化したカトリシズムの中で宗教性という支えを欠き、知的で感受性が強く、効果的で輝かしい生を望むこれらの若者たちは、ついに幼いころの受身の信仰から、カトリックのあらゆる規則的な実践からも離反することになります。

スペインの19世紀の歴史は、伝統主義者を自称するスペイン人と、それを全面的に変革しようとした、自らを進歩主義者と呼ぶスペイン人とのあいだの言葉、さらには武器による闘争の中にありました。

17世紀の伝統(生粋の伝統)に立てこもった伝統主義者たちは、歴史的に現在に生きる術を知らなかった。そして、そうありたいとも望まず、そうあることもできなかったのです。

一方、伝統を全面的に否定する進歩主義者たちは懸命に“擬態”を装い、歴史的にスペイン人である術を知らなかったし、そうありたいとも望まなかった。エントラルゴはそんなふうにみています。


マチャードの『カスティーリャの野』にこんな詩があります。

  生きたいと望み、また生き始めた
  ひとりのスペイン人がいる
  死に行く一つのスペインと
  欠伸するもう一つのスペインとのあいだに。
  この世に出た若きスペインよ
  神が守りたまわんことを
  二つのスペインのうちの一つが
  君の心を凍らせるにちがいない。
  Ya hay un español que quiere
  vivir y a vivir empieza,
  entre una España que muere
  y otra España que bosteza.
  Españolito que vienes
  al mundo, te guarde Dios.
  Una de las dos Españas
  ha de helarte el corazón.

2016年4月16日土曜日

「98年世代」

それでは「1898年世代」とは、そもそもどういう性格の人々で、どんな主張をもっていたのか。「98年世代」に関する古典的な書とされるP・ライン・エントラルゴの『スペイン1898年代の世代』(La generación del noventa y ocho, 1967)=写真=をもとに、「二つのスペイン」という視点から整理しておきましょう。


「98年世代」についてエントラルゴは「1890年から1905年のあいだに、その自我ならびにスペイン的意識に目覚め成熟した人たちである」として、次の人々をあげています。

「ミゲル・デ・ウナムーノ、アソリン、アントニオ・マチャード、ビオ・バロッハ、バーリェ・インクランおよびメネンデス・ピダルらと相前後して、アンヘル・ガニベット、ラミロ・デ・マエストゥ、ハシント・ベナベンテ、イグナシオ・スロアーガ、マヌエル・マチャード、アルバレス・キンテーロ兄弟、マヌエロ・ブエノ、シルベリオ・ランサ、それにカスティーリャの印象派画家ダーリオ・デ・レゴヨスを加えてもよかろう」 。

思想家、作家、詩人、画家、ジャーナリストなど、当時のスペインを代表する知識人たちが並んでいます。同じ時代に生きた彼らは、同じような危機感をもって立ち上がり、思想や理想も共通していました。

エントラルゴは、若き日の「98年世代」のほとんどが「ヨーロッパ的」かつ「近代的」な読書体験から刺激を受けることによって、その魂の奥深くに、高遠な精神と積極的な有効性を備えた「いわくいいがたい大望」を抱いていた、としています。

  ……夏の明るい午後
  家族の居間で
  私が夢みはじめた
  初めての倦怠

「1898年」の20年あまり前に生まれたアントニオ・マチャードも、神秘的なものを詩的に表現する無垢な詩人の精神で「夢みはじめ」ていたのです。

シェイクスピア、モンテーニュ、ヘーゲル、バルザック、レオパルディ、スタンダールらの作品の中に脈打っている人間たちの芸術、思想、そして生そのもの。こうした読書体験によって彼らは、近代ヨーロッパ的な精神を身に着けていきます。

一方で、歴史的な魅力がまったく消え失せた当時のスペインとの無味乾燥な触れ合いもそこにはありました。これらが彼らの魂に同時に働いて、「正統カトリックからの明らかな離反」という一つの類似した反応を決定的なものにしたのです。

2016年4月15日金曜日

1896年にマドリードにやって来た作家たち

これまでに繰り返してきたように、アントニオ・マチャードは、スペイン「1898年世代」の詩人と位置づけられています。

ところで、これまで当たり前のように使ってきた「世代(la generación)」という概念は、いかなるものなのでしょう。

そもそもをたどっていくと、D・ガブリエラ・マウラ(D. Gabriela Maura)が1908年、オルテガ・イ・ガセット(Ortega y Gasset)との論争の中で、「惨敗のあとに知的に生まれた(nacida intelectualmente a raíz del desastre)」「世代(la generación)」として使われたところに行き当たるようです。

「desastre」とは、もちろん「1898年の敗戦」のことです。


「La generación del 98」という言葉は、1910年に書かれたアソリン(Azorín、本名José Augusto Trinidad Martínez Ruiz、1873-1967)=写真、wiki=の随筆「二つの世代(Dos Generaciónes)」の中に登場してきます。

この随筆でアソリンは、1896年にマドリードにやってきた作家志望の若者グループと、1910年ごろの好色文学など、いわゆる通俗作家グループを取り上げて、それら二つの世代の違いを検討しています。

それによると、1896年にマドリードやってきた若者たちは「芸術への深い愛、前時代の“形式”に対する抗議と独立への熱望」を持ち、「無視、理想、大望、物質的なものではない何かを求めて戦い、芸術、政治に純粋な客観性を示す少し高尚な何かのために戦い、変革、向上、完成、高揚へのあこがれがきわだっていた」としているのに対して、1910年ころの作家は「最も低級で、激しいエロティズムに極めて大胆に身をまかせている」と嘆いています。

アソリンが1896年の作家グループとして取り上げているのは、インクラン、バロハ、マエツ、ウナムーノ、ルベン・ダーリオ。これら1896年にマドリードにやって来た作家たちを、後になぜか「98年代」と呼ぶようになったのです。

アソリンが1913年に出した4編の随筆から「1898年代」について述べている箇所を拾い上げた古家久世は、「敗戦が一つの刺激となり、今まで底流していた物の具体化が促された事は事実であるが、1898年の敗戦が唯一の契機でない事を、アソリンははっきりと認識している。しかし、彼は歴史上、記憶に値する日付、1898年にちなんで、La generación del 98、98年の世代と命名したのだと解釈しうる」 と推測しています。