2016年3月31日木曜日

アンダルシア生まれ

これからしばらく、アントニオ・マチャードの生い立ちについて、詳しく紹介していきたいと思います。

アントニオは「1898年世代」が探ろうとした、本来のスペインが宿るとされるカスティーリャの風土とは全く異なる、温暖で海に近いスペイ南部の地、アンダルシアで生まれました。

「1875年7月のある夜、セビリアで生まれた。通りの名にもなっている、よく知られたラス・ドゥエニャ館=写真、wiki=でのことだ(Nací en Sevilla una noche de julio de 1875, en el célebre palacio de Las Dueñas, sito en la calle del misimo nombre.)」

マチャードは1917年、このように記しています。


1875年7月26日の夜、アントニオ・マチャード・イ・アルバレス(Antonio Machado y Álvarez)とアナ・ルイス・エルナンデスの次男として、アンダルシア地方のセビリアで誕生したのです。

この前の年の1874年には、マチャードの生涯にわたる協力者であり、同じく詩人の道を歩んだ兄マヌエルが生まれています。

後に詳しく触れますが父のアルバレスは民俗学者で、特にアンダルシアの民謡に関する多くの研究を残しています。また、曾祖父のホセ・アルバレス・ゲラは『象徴的統一(Unidad simbólica)』という著書で知られる哲学者でした。

さらには、父方の祖父はセビリア大学の学長も務めた医学者で、母方の叔父アグスティン・ドゥラン(Agustín Francisco Gato Durán)は、マチャードが読書の世界に足を踏み入れるきっかけになる『大ロマンセ集(Romance General)』の編者として知られています。

こうした学者一家の親族たちが、しばしば館の中庭に集まり、知り合いの知識人を交えて話に興じていました。

マチャードは、セビリアで最も知的で、人々の尊敬を受けていた家庭に生まれ育ったのです。

2016年3月30日水曜日

「遅れてしまった国」の詩人

スペインはカタルーニャ語、ガリシア語、バスク語などヨーロッパでも有数の多言語国家ですが、カスティーリャは、国全体の共通語であり、『ドン・キホーテ』が書かれたスペイン語(カスティーリャ語)が発祥した地でもあります。

カスティーリャ王国が発展し、カスティーリャ王権がその後の統一スペインにおいて中心的役割を果たしたため、カスティーリャ地方で話されていたロマンス語が国家の言語となったわけです。

言語と文学を絆とした共通の国民文化を土台にして、国家としての統一を果たしたドイツ。それに対してスペインでは、ようやく史上初の共和政を実現しても「共和国スペインはわずか数ヶ月に熱狂的な地方分立主義運動の渦の中に呑まれてしまった」 のです。

そして1898年、国家の破局的な事態にいたたまれずに立ち上がった、進歩的であるはずの知識人たちですら、スペインとは何かを問い「カスティーリャに心酔」 するところからはじめるよりほかにはありませんでした。


なんとも歯がゆく、後ろ向きで現実から遊離した行動のようにもみえますが、逆に、当時の知識人たちがそうしたベクトルをもって模索し、言葉をつむぎ出さざるを得なかったところにこそ、ヨーロッパ近代から取り残され、国民国家の形成でも異質な道を歩まなければならなかったスペインという国の本質が隠されているように思われます。

「98年世代」の活動は結局のところは、人々の間に深く浸透することも、社会的に大きな反響をもたらすこともなく、「挫折」といってもいい結果に終わります。

しかし曲がりなりにも「第2共和国から内戦期の1930年代は、文化の高揚期であった。第2共和国は“知識人の共和国”といわれたほど、知識人が政治に積極的にコミットした」 スペインでは稀有な時代であり、「98年世代と呼ばれるこの世代の作家たちによって、現代文学が始まったといっても過言ではない」 と位置づけられるように、文学的な意味あいは決して小さくはありませんでした。

他方で「98年世代」は、メディアが世界的に大きな変動を見せる時代とも重なっていました。19世紀後半には、電信、電話、海底電線の発達で、情報が迅速に伝達できるようになりました。

帝国主義の時代、政府や企業家は、世界各地の経済情報をいち早く正確につかむのにそれを利用した。テレビはなかったが、ラジオは実験段階に入っていました。そして、アメリカのイーストマン・コダックが競馬の判定のために開発した早撮カメラの登場、印刷技術の向上などによって、写真など映像報道の分野が新たに形作られていきます。

そんな当時の、情報や思想の大衆へのほとんど唯一の媒体(マス・メディア)は新聞でした。印刷技術の進歩は「日刊紙」を誕生させます。19世紀の終わりにアメリカで開発された高速輪転印刷機は、1時間に数万部の紙面を刷り、裁断、折たたみの能力まで備えていました。

都市への人口の集中、移民など民衆の国境を越えた移動、義務教育制度の普及、大衆の生活水準の向上などとともに商業新聞は普及しました。女性や子どもを含め、だれでも買える新聞や雑誌の普及は、商業ジャーナリズムを確立させ、職業人としてのジャーナリストを形成したのです。

人びとは、居ながらにして各地のニュースに接することが可能になり、「世界」に目を開くようになりました。

とはいえ、それはイギリスや米国などのことであって、近代の洗礼をあびていないスペインの、満足に文字も解せず、政治への関心も薄い地域の庶民たちは、それとは無縁に近い状態であったに違いありません。

古くは、中世スペインで活躍した騎士を描いた叙事詩『わがシッドの歌(Cantar de mio Cid)』を語り伝えた吟遊詩人たちのように、わが詩人アントニオ・マチャードの時代にはまだ、歴史で起こる出来事を記録して伝え、さらにはゲーテのように国民を結び付ける言語文化の担い手となることが、詩人に求められていたのです。

さて、「遅れてしまった国」のこうした困難な時代に居合わせたマチャードが、詩人としてどんな人生をおくっていくことになるのか。次に探っていきたいと思います。

2016年3月29日火曜日

ドン・キホーテの台地

「1898年世代」の知識人たちは、過去の栄光にすがるだけのスペインを、何とかしてヨーロッパの近代国家なみの水準に引きあげねばならないという意識で立ち上がりました。

現状に対する批判から出発しながらも、独立運動の分析でも帝国主義批判でもなく、次第に「スペインとは何か」という、なぜいまさらとも思える抽象的な問題に傾斜していきます。

そして彼らは、スペインという国のアイデンティティを「カスティーリャ(Castilla)」に求めていくのです。

「その名は忘れたがラ・マンチャのあるところに、それほど昔のことではないが、槍立てに槍、古びた楯、痩せ馬と足の速い猟犬を供えた型どおりの郷士がひとり住んでいた」 。

それは、かの文豪ミゲル・デ・セルバンテスの代表作『才知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha)』の主人公ドン・キホーテ=写真、wiki=の数々の冒険の舞台となったラ・マンチャ地方をも含む、スペイン中央部、赤茶け、痩せた台地。


最新のスペイン語版ウィキペディア などによれば、カスティーリャとは、中世にカスティーリャ王国に属していた地域の中心部。現在、地方行政区分となってはいませんが、二つの自治州、カスティーリャ・イ・レオン州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州にその名称が使われています。

北のビスケー湾岸から南はモレナ山脈に至り、周囲を山々に取り囲まれた「メセタ」と呼ばれる標高600~700メートルの高原台地に位置しています。

その名は、ラテン語で城を意味する「castellum」の複数形であるカステラ(castella)に由来し、8世紀末に文献に現れます。もともとはカンタブリアの南、ブルゴスを中心とする地域を指していました。

9世紀以降のレオン王国によるレコンキスタの最前線となった地域で、イスラム教徒に対抗して城(カスティーリョ)が数多く建てられたため、「カスティーリャ」と呼ばれるようになったといわれています。

北部海岸を除いて海洋の影響から隔絶されているため、気候は寒暑の差が大きく、厳しい大陸性気候です。年平均降水量は370~570ミリ程度。春から夏にかけての降水はほとんどなく、乾燥が著しい傾向があります。

住民は、イベリア原住民、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人などの混血からなります。11世紀はじめ、ナバラ王サンチョ3世はカスティーリャ伯領を併合しましたが、その死後に領土が分割相続され、カスティーリャ王国が誕生しました。

カスティーリャ王国とレオン王国は同君連合となり、12世紀から13世紀にかけてイベリア半島中部と南部(アル・アンダルス)の征服を進めました。前述したように1479年には、アラゴン王国との同君連合として、スペイン王国となったのです。

13世紀から16世紀にかけては人口も多く、ブルゴス、バリャドリード、メディナ・デル・カンポ、セゴビア、トレド、クエンカなど、小麦、ブドウ、オリーブを中心にした農業、それに牛、豚、羊などの牧畜を軸にした独自の経済活動で繁栄しましたが、17世紀以降は首都のマドリード以外は衰えていきました。

2016年3月28日月曜日

キューバ独立

世界が帝国主義段階に入った1890年代になると、王政回復後の比較的安定したスペインの政治状況も一転します。

ラテンアメリカの多くの国を失う事態になっても確かな政策を持ちえなかったスペインは、列強の世界分割に加われず、残った支配地の防衛だけに専念するありさまでした。

そんなところに、かねてから独立問題がくすぶっていたキューバで反乱が再燃したのです。反乱は1895年に始まり、臨時政府が樹立され、キューバ共和国憲法が制定されました。


王政復古(1874)後に首相となり、ゲリラを孤立させるべく強硬策に出たカノバス(1828-97)=写真、wiki=は、独立戦争の最中に暗殺されてしまいます。一方でカリブ海を勢力圏にしようとしていた米国もキューバ問題に介入し、独立を要求します。

スペイン側に立つ列強はありませんでした。ハバナ湾で米国海軍の戦艦「メイン」が爆発・沈没した事件をきっかけに1898年4月、米西戦争が勃発しますが、スペイン軍はすべての戦線で完敗に終わりました。

同年12月、パリ講和条約でキューバの独立が認められ、グアムやフィリピンも合衆国に引き渡されることになります。米西戦争の敗北で、スペインは海外のほとんどすべての領土を失い、政治は行き場を失い、経済や社会も疲弊を極めることになりました。

こうした敗北に際し、スペインの現状を批判しつつ、あるべき未来像と真のスペインを見出そうとする一群の作家たちが登場してくるのです。前出の歴史家ビーベスは、次のように記しています。

「じっとしていることを知らないスペイン人の性格は、表面上は平静を保った王政復古体制の下でもいかんなく発揮された。まず第一に知識人達の活躍がある。つまり、当時のスペインの実情に満足できないさまざまな知識人グループが現われたのである。政治は彼らにとっては副次的なものにすぎず、彼らの不満はもっぱら祖国の歴史的本質及びスペインとヨーロッパ文化との関係に起因していた」 。

そうした「知識人グループ」の代表格が、後に「1898年世代」とよばれる人々でした。

すなわち、文学のジャンルでもきわめて重要な作品を残し、続く世代の作家たちに大きな影響を与えた思想家ミゲル・デ・ウナムーノ、ヘミングウェイがその作品を愛読したといわれる小説家のピオ・バローハ、耽美的な作風の小説を通して痛烈な社会批判を行ったラモン・マーリア・デル・バリェ=インクラン、そして、透明簡潔な文体で独自の叙情性を醸し出す作品を残した詩人アントニオ・マチャードたちだったのです。

2016年3月27日日曜日

幼稚なイデオロギー

1873年6月、スペインの新議会は連邦共和政を宣言し、主導権を握っていた連邦派のピ・イ・マルガルを大統領に選びました。

しかし、連邦派は政治的民主主義を目指す程度の政策しかもち得ず、民衆はローカルな世界で問題を解決しようと議会政治から距離を置くことになります。

こうして共和国となったスペインの統治はいっこうに安定せず、大統領が短期間に次々と入れ替わる異常事態となったのです。

1874年にはカンポス将軍主導のクーデターが起こり、共和政は2年足らずで終焉を迎えます。そして、王政の回復に国の安定を託すことになります。

イサベルの子アルフォンソ12世が国王に即位、スペインは再びボルボン家の王政国家になったのです。


歴史家のハイメ・ビセンス・ビーベス=写真、wiki=は、その著『スペイン――歴史的省察』で短期間ながらスペイン人が史上初めて体験した共和政について次のように総括しています。

「スペイン史上初の民主主義の体験を通してわかったことは、スペインには少数派ながら善意の人々が存在するものの、民衆はおよそ民主主義のための訓練を欠いているという事実にほかならなかった。普通選挙を通じて国政の担い手になることが望まれた当の国民は現実生活の重圧下に喘ぎ、到底選挙どころの騒ぎではなかった。半島北部のカトリック農民の不満を直接受け継いだ形でカルロス党の動きが再び活発化し、その影響がナバーラとカタルーニャ両地方に広まっていった。だが、政府が闘う相手はまだほかにもいた。第一は当時のセクト主義的風潮で、これは協調というものをことごとく不可能にした。第二は知性がすっかり萎えてしまった官僚界だった。そして第三には思想界で、ここでは思いもよらなかった自由が与えられたがために、次々と神がかり的で幼稚な内容の新しいイデオロギーがはびこり始めていた」

王政回復の立役者は、イサベル時代末期に閣僚を務めたカノバス・デル・カスティーリョでした。保守党を結成して1876年1月の総選挙で圧倒的多数を獲得すると、すぐさまカルリスタ戦争を平定し、カルリスタの一部を保守党に取り込みました。

カノバスは、単なる王政復古ではもはや体制を維持していくことができないことを知っていました。イサベル時代の法律や制度を復活させたものの、「革命の6年」の勢力を一掃することもありませんでした。革命の混乱期を超えた新秩序を作ろうとしたのです。

2016年3月26日土曜日

イサベル2世から「革命の6年」へ

「太陽の沈まない国」となったスペインですが、その隆盛は長くは続きません。1588年のアルマダ海戦で自慢の無敵艦隊がイングランド海軍に敗れると、イングランドは国力を急速に高めて17世紀後半には史上最大の領土を手に入れます。

一方でスペインは、衰退の一途をたどっていくのです。1640年にはポルトガルが、そして80年戦争でネーデルラント連邦共和国(オランダ)が独立。スペインは「最初の国際戦争」ともいわれる30年戦争に介入しますが、こちらのほうも敗退します。

1659年にはフランスとの間で、不平等条約のピレネー条約を締結、スペインの黄金世紀は終わりを告げました。それでも、アメリカ大陸など海外の支配地域のほうは成長を続け、いわば「植民地」大国としての地位は、かろうじて19世紀まで残ることになります。

その後、ナポレオン・ボナパルトの率いるフランス軍の侵攻(ナポレオン戦争)と王位の簒奪、それに抵抗した1808年の反ナポレオン蜂起を機に、スペイン独立戦争という愛国的な名が付いた戦争が始まります。

さらに1859~1860年のスペイン・モロッコ戦争など、国民の愛国的感情を高揚させようとする対外戦争が繰り返されました。しかし、こうした試みは「回帰的ナショナリズム」というべきもので、新たな国民的価値を作り出すというより、スペインの過去の栄光をうたって祖国愛を感情的に求めるものに過ぎなかったようです。

このようなスペインの国民形成の脆弱さは、学校教育や軍隊といった「装置」が国民的なものにならなかったことが反映していました。1857年にモヤーノ公教育法が制定されましたが、1900年になっても識字率は4割に達せず、学齢期の6割は就学していませんでした。

そのため公用語のスペイン語も普及せず、カタルーニャ語、バスク語、ガリシア語など、地域の固有言語が根強く残り、1900年になっても全人口の4分の1がスペイン語を母国語としてはいなかったのです。

ところでナポレオン戦争後のウィーン体制で、ボルボン家のフェルナンド7世がスペイン国王に復位。フェルナンド7世には嫡子がなかったため、後継者は弟ドン・カルロスと目されていました。

しかしフェルナンドは、娘イサベルが生まれると、長年用いられてきた女子相続を否定するサリカ法を廃棄。1833年に王が死ぬと、わずか3歳のイサベルが、イサベル2世(在位:1833~1868年)=写真、wiki=として即位しました。


これに承服できないカルロスはポルトガルで国王への即位を宣言し、カルロス5世と称した。これを受けて、バスク地方とナバーラでカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起こり、1833年から1876年まで3次にわたる内戦に突入することになります。

カルロス5世は絶対君主制の維持や復古を唱えました。一方、イサベル女王を戴くマドリード政府は、先王の方針を改めて自由主義を標榜。この内戦は王位継承戦争というだけでなく、スペインの体制変革の意味をもっていました。

内戦の間、マドリードの政府は、憲法の制定、教会財産の没収、教会の10分の1税の廃止、封建的領主制度の廃止、営業の自由の確立など自由主義に基づく改革を行いました。それは復古主義者たちの基盤を突き崩す力ともなり、まがりなりにも近代国家としての装いを整える足掛かりともなったのです。

しかし、1843年に始まったイサベル2世の親政は、決して讃えられるものではありませんでした。軍や党派の争い、近臣の間の対立によって、クーデターや陰謀が繰り返されることになるのです。

女王はしばしば反動的な将軍や政治家にも、教会や修道院にも好意を見せ、腐敗した廷臣や側近の言いなりになりました。そんな最中の1868年9月、フアン・プリム将軍がカディスでトペーテ海軍少将とともに反乱を起こします。

政府軍はコルドバ県アルコレアで敗北し、イサベルはフランスに亡命します。9月革命は成功し、自由主義連合のセラーノ将軍を首班とする臨時政府がつくられ、基本的人権の保障を約束した「国民への声明」が発表されました。いわゆる「革命の6年」の幕開けです。

イサベルの代わりに、プリム将軍らによってサヴォイア家からアマデオ1世が迎えられましたが、国王として即位する直前にプリム将軍は暗殺されてしまいます。後ろ盾を無くしたアマデオ1世に対し、共和派から退位を求める声が噴出。アマデオ1世は、即位からわずか3年後の1873年2月に自ら王位を退くことを余儀なくされました。

それに伴って、スペイン史上初めての共和政(第1共和政)が樹立されることになったのです。

2016年3月25日金曜日

太陽の沈まない国

ところで、統一国家としてのドイツが成立してから27年後、かつては世界中に多くの領土をもち「太陽の沈まない国」とも呼ばれた、いってみれば「帝国」としてのスペインが終焉のときを迎えます。

1898年に勃発した米西戦争で、アメリカ合衆国に敗北。パリ条約によってカリブ海域ではキューバが独立し、プエルトリコやフィリピンをアメリカに割譲、さらにアメリカとドイツでミクロネシア諸島が分割され、残された海外の領土のほぼ全てを失ったのです。

もともと「スペインは、カトリック両王が成立させた」といわれています。すなわち、1469年に結婚したイサベルとフェルナンド=写真、wiki=が内戦を克服して、1474年、前者はカスティーリャ女王、後者はアラゴン国王に即位しました。


さらに1492年にはグラナダを攻略、1512年にはナバーラ王国を併合し、王権の権威を高めていったのです。こうして彼らカトリック両王は、ポルトガル以外のイベリア半島を共同統治することになります。

その領域は現在のスペイン王国とほぼ同じでした。カトリック両王の後も、一つの王朝(ハプスブルク家、ついでブルボン家)が支配する状態が続いたのです。

1492年には、コロンブスがアメリカ大陸に到達しました。スペインは国力を蓄え、1519年には国王カルロス1世が神聖ローマ皇帝カール5世としての即位もして、ハプスブルク家の全盛期を迎えます。

この時期、スペインはアメリカ大陸に新たな領土を獲得し、国家としても繁栄を極めることになります。1521年にはアステカ王国、1532年にはインカ帝国を滅ぼし、支配下に置きました。

さらに1580年から1640年にかけては、スペイン王がポルトガル王も兼ねて中南米やアジア・アフリカ沿岸に点在するポルトガルの領土を獲得。16世紀半ばから17世紀前半まで、いわゆる「黄金の世紀(Siglo de Oro)」を迎えます。

領地のどこかでいつでも太陽がのぼっている、まさに「太陽の沈まない国」となったのです。

2016年3月24日木曜日

「ゲーテ時代」

これまで高村光太郎と比較しながらアントニオ・マチャードを見てきましたが、これからしばらくは、この詩人が歴史的にどのように位置づけられるのか、ヨーロッパ的な視点から私なりに眺めてみたいと思います。

ドイツ近世を代表する、ゲーテ=写真、wiki=、シラーという2人の詩人が当時の文壇を辛辣に批評した『クセーニエン(Xenien)』(1796年)という連作詩集があります。

2行連詩形式(エピグラム)で、その95番目(「ドイツ国(Das Deutsche Reich)」)と、96番目(「ドイツの国民性(Deutscher Nationalcharakter)」)はつぎのようになっている。

ドイツとはどこにあるのか、私はその国を見出すことができない
教養あるドイツが始まるところ、政治的ドイツは終わるのだ
Deutschland? aber wo liegt es? Ich weiß das Land nicht zu finden,
Wo das gelehrte beginnt, hört das politische auf.
 
ドイツ人よ、君たちは国民になろうと望んでいるけれども、無駄なことだ
そんなことではなく、自分よりも自由に、人間に形成しなさい
Zur Nation euch zu bilden, ihr hoffet es, Deutsche, vergebens;
Bildet, ihr könnt es, dafür freier zu Menschen euch aus.

18世紀、一般にドイツと呼び慣わされていた国は、ドイツ語が話される多種多様な地域を漠然と指すだけで、フランスやイギリスのように政治的に統一された国家といえるものではありませんでした。


この時代は、ゲーテが政務担当者を務めていたワイマール公国など、300以上の領邦国家に分裂していたのです。ドイツ第3帝国のイデオロギーの根源をルターの宗教改革までさかのぼって解明しようとしたユダヤ系哲学者ヘルムート・プレスナーは、そんなドイツについて「遅れてきた国民」と呼んでいます。

ドイツの文学史で「ゲーテ時代」(1750年から1850年ころ)と呼ばれる当時、ドイツという国は、政治的というよりもむしろ神聖ローマ帝国以来の文化的概念として存在していました。

中でも言語やそれによって生み出される文学は、ドイツ人を共通の意識で結びつけるほとんど唯一といってもいい絆の役割を果たしていたと考えられます。そして、ゲーテをはじめとする詩人たちは、ドイツ人を政治的に統合する基盤にもなる大きな役割を担うことになります。

「クセーニエン」の詩句は、「ドイツ帝国と国民文化の現状と将来を暗示している。しかし、これは風刺ではなく国民文化の精神に重きを置く真正なるドイツ精神を映していた」 (渡邉直樹「ゲーテの〈ドイツ帝国〉政治の世界と精神の王国」宇都宮大学研究紀要「外国文学」53号)といえるのかもしれません。

そうはいっても、ドイツにおいて、真の国民文化の精神がどこにあるかが早くから自覚されていたわけでもありません。

最近翻訳されたアンヌ=マリ・ティエスの『国民アイデンティティの創造――18~19世紀のヨーロッパ』(斎藤かぐみ訳、勁草書房)によれば、「真に国民的な精神がどこにあるのかを言えないまま、フランス・モデルの支配下に置かれつづけ」ていたドイツの状況が変わったのは「国民の精神は民衆のうちにあるとされた18世紀後半のこと」で、この転換が、若きゲーテにも大きな影響を与えたヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの著作に強烈に表れているといいます。

ヘルダーは「国民の文化と価値観が知られるのは言語を通じてであり、国民の編成には共通言語が欠かせないと主張してやまなかった」。では、その共通言語の拠りどころはどこに求められるのでしょうか。

「言語と詩歌と民衆が一つであった時代に湧き起こり、今日わずかに伝えられる原初の詩歌に霊感を求めること」だとヘルダーは考え、ストラスブールでゲーテに出あった際に「民謡を集めて詩の肥やしとすることを勧めた」のです。

ドイツは1871年、神聖ローマ帝国のような多民族国家ではなく、同じ言語を話すドイツ人の国民国家であることを拠りどころに国家の統一がなされました。

これは、プロイセンの経済力や軍事力を背景に、ビスマルクの強引な指導によってオーストリアやフランスとの戦争を誘発させて可能になった、という側面は否定できないにしても、その土台には言語文化たる文学などを絆にした国民文化の精神が働いていたと考えることができるのでしょう。

2016年3月23日水曜日

二つの「道程」⑪

1945年から1950年までに書かれた作品を集めた高村光太郎の詩集『典型』の序には、戦時下における表現活動に対する自責の念が強くこもった、次のような文章があります。

 「これらの詩は多くの人々に悪罵せられ、軽侮せられ、所罰せられ、たわけと言われつづけて来たもののみである。私はその一切の鞭を自己の背にうけることによつて自己を明らかにしたい念慮に燃えた。私はその一切の憎しみの言葉に感謝した。私の性来が持つ詩的衝動は死に至るまで私を駆つて詩を書かせるであろう。そして最後の審判は仮借なき歳月の明識によつて私の頭上に永遠に下されるであろう。私はただ心を幼くしてその最後の巨大な審判の手に順うほかない」。

一方、レオノールを失ったマチャードはその後も教師として、次第に動乱が激しさを増す国内を転々とします。

1931年4月に第二共和国政府が発足したころには各地で労働者や教員らのストライキが慢性化。爆弾騒ぎやテロも日常茶飯事となり、共和政府転覆を目指した軍事クーデターも起こりました。

そうした中、マチャードも、共和派の立場からさまざまな言動を発していきますが、スペイン内戦に突入した1936年には、爆撃にさらされたマドリードに居られなくなり、高齢の母たちとバレンシアへ避難。

1938年には、バルセロナに移り、その後、フランコ軍によるバルセロナ制圧に備えて貨物列車でフランスへと渡ります。


しかし、病と疲労が重なり1939年2月22日、滞在していたフランスの小さな町コリウール=写真、wiki=のホテルで息をひき取ります。63歳でした。

かつては〝太陽の沈まない国〟とまでいわれながら「ピレネーの向こうはヨーロッパではない」とまで落ちぶれてしまったスペインの詩人の「Camino」。

「きわめて長い間、近代文明から隔離されてそれなりの文化を成熟させて来た」(丸山眞男「近代日本における思想史的方法の形成」)という日本の芸術家の「道程」。よく似たこれらの詩は、いまも国民たちに広く親しまれ、読みつがれてきています。

それは、「自然を信じ、自然に即して進もうとする人間の決意をうたい、そして自然の加護を念願する」(吉田精一『声で読む 現代詩』)といった、人類の普遍的な思想をうたいあげているからでしょう。

と同時に、近代ヨーロッパを追いかける立場に置かれながらも、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」ときっぱりわが道をわが足で歩もうとする「近代文明から隔離されて」きた国の詩人たちの強い意志が、共鳴されてきたあらわれと見ることもできるのではないでしょうか。

2016年3月22日火曜日

二つの「道程」⑩

愛した女性だけでなく、ほかにも光太郎とマチャードには似たところが多いように思えます。たとえば、大きな父の存在です。

高村光雲=写真、wiki=という明治の木彫の大家の長男として生まれた光太郎は、父と同じ彫刻家の道を歩みながら、その権威や江戸以来の職人的なやり方とことごとく対立していきます。


一方、マチャードの父アントニオ・マチャード・イ・アルバレスは、フラメンコや民謡の研究で有名な民俗学の権威。マチャードはその影響を強く受けて育ち、父の研究に関係すると思われる作品もたくさんあります。

しかし、どん底の危機と切迫した動乱の中、アカデミズムに身を置くことを潔しとせず、詩人として、共和主義者として、現実に身を置き、言葉を発してゆく道を選びます。

そして、彼ら「道程」の詩人たちはやがて大きな戦争に巻き込まれ、二人とも計り知れない挫折感を味わうことになるのです。

第二次世界大戦で光太郎は、大政翼賛会中央協力会議の委員や日本文学報国会詩部会長を務め、戦争を賛美する多くの詩を書きました。

それによって多くの若者を死に追いやってしまったという自責の念で、戦争直後から岩手県の山村で孤独な自炊、自活の生活を送ります。

2016年3月21日月曜日

二つの「道程」⑨

詩「道程」を作った年、光太郎は智恵子との結婚生活を始めます。まさに人生という道程の節目だったわけです。


「道程」について伊藤信吉は「こうして生活のあたらしい場をもとめた高村光太郎は、それまでの外向的・発散的な態度とは反対に、自分の内部へいっさいを集中し、そこに自分の可能性をそだて、それを陶冶し、自律の精神を養う〝内的世界〟をひらいた。同時にそこにあたらしい詩の世界がひらかれた。そのあたらしい生活の行手を祈りに似たおもいで思い描いた詩である。光太郎は《僕の後ろに道は出来る》《僕の前に道はない》と、自分の道をひらくのは自分の意志とその行為だけだと、きっぱりとした眼ざしで前方をみつめた」と指摘しています。

「道程」の時期に光太郎と智恵子の新しい生活が始まったように、「カミーノ」を作ったころのマチャードにも人生を決定づける一人の女性との出会いがありました。

1907年に公立中高等学校のフランス語正教授の資格を得て、スペイン北部の古い町ソリアに着任した、そこの下宿屋の夫婦に、まだ13歳になったばかりの娘レオノールがいたのです。

マチャードは20歳近く年下のこの少女にすっかり夢中になります。不器用で服装にも無頓着なマチャードは勇気を奮い起こして求婚し、1909年7月末、2人はソリアの教会で結婚します。マチャード34歳、レオノール一6歳でした。

新しい生活に入って間もない1911年初め、マチャードは妻を伴ってフランス語の勉強のためパリへ留学します。しかし、パリへ渡って半年後の7月14日、レオノールを突然ひどい喀血が襲います。マチャードは勉強を中断して、妻の静養のためソリアへ帰らざるを得なくなります。

結婚生活を始めた直後から肋膜などを患い、後に精神の異常をも来たした智恵子に対する光太郎のように、マチャードもレオノールに精いっぱいの看病をしました。しかし、その甲斐もなく1912年8月、彼女は静かに息をひきとりました。

まだ19歳。智恵子と同じ肺結核が死を招きました。その1週間後、マチャードはレオノールと暮らしたソリアを逃れるように離れています。その後ふたたび結婚することはありませんでした。

2016年3月20日日曜日

二つの「道程」⑧

「自然」は、人間の生と一体のものでありまた、「日本人である」「スペイン人である」といった自らのアイデンティティを確認する拠り所ともなります。

詩集『道程』の3番目に出てくる「根付の国」では、そうした「自ら日本人であることを再認識し、日本人として生きようとする屈折した心情」(堀江信男『高村光太郎論 典型的日本人の詩と真実』)がうたわれています。

頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付の様な顔をして
魂をぬかれた様にぽかんとして
自分を知らない、こせこせした
命のやすい
見栄坊な
小さく固まつて、納まり返つた
猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗のかけらの様な日本人


一方、『カスティーリャの野』にも、マチャードがスペイン人の「自画像」を鋭く描き出した、少々どぎつくも思われる描写が随所に見られます。たとえば次にあげるのは、「Por Tierra de España(スペインの地へ)」 という詩の一部です。

Pequeño, ágil,sufrido, los ojos de hombre astuto,
Hundidos, recelosos, movibles; y trazadas
cual arco de ballesta, en el semblante enjuto
de pómulos salientes, las cejas muy pobladas.
(小柄で身軽く、我慢強い男、抜け目のないその目は
窪み、疑い深く、よく動く、そして
頬骨の出たほそ面に、太く濃い眉が
大弓のアーチを描く)

Abunda el hombre malo del campo y de la aldea,
Capaz de insanos vicios y crímenes bestiales,
Que bajo el pardo sayo esconde un alma fea
esclava de los siete pecados capitales.
(野や村に悪しき人が溢れる
不健康な悪徳や獣じみた罪を犯すことができ
黒っぽい野良着の下に醜い魂を隠す者
七つの大罪の奴隷)

2016年3月19日土曜日

二つの「道程」⑦

光太郎が「道程」として102行の初期形を9行に凝縮させたように、詩集『カスティーリャの野』にマチャードは、「Camino」のようなコプラの母型ともいえる、スペイン独自のロマンセという伝統形式による「La tierra de Alvargonzález(アルバルゴンサレスの地)」という総行数712行に及ぶ詩を載せています。

このロマンセは「善良な農夫アルバルゴンサレスの強欲な息子2人が、父の財産すべてを手に入れようと、父を殺して底なし沼へ投げ込む。その後2人は、呪われた日々の中で絶望し、父が沈む沼んでいる身を投げる」というストーリーですが、その重要な役割を担っているのも「自然」です。

光太郎の「理念としての自然」に対して、そこでは「象徴としての自然」が物語を展開しくと言えるかもしれません。なにより語り部が「水」に置かれているのです。たとえば父親を殺した2人の兄弟がドゥエロ川の上流へと向かい、身を投げる黒沼にたどり着く最後の場面「Los Asesionos(人殺したち)」の節 には、次のような描写があります。

Juan y Martín, los mayores
de Alvargonzález, un día
pesada marcha emprendieron
con el alba, Duero arriba.
(アルバルゴンサレスの 上の二人の息子
フアンとマルティンは ある日
夜明けとともに ドゥエロ川の
上流をめざして 重苦しい道をゆくことにした)

La estrella de la mañana
En el alto azul ardía.
Se iba tiñendo de rosa
La espesa y blanca neblina
de los valles y barrancos,
y algunas nubes plomizas
a Urbión, donde el Duero nace,
como un turbante ponían.
(明星が 青みがかった
空に瞬いていた
谷や渓谷を埋めた 濃く白い霧が
薔薇色に染まっていた
鉛色の雲が
ドゥエロ川の水源となる
ウルヴィオンのそそり立つ峰を
ターバンのように取り巻いていた)

Se acercaban a la fuente.
El agua clara corría,
sonando cual si contara
una vieja historia, dicha
mil veces y que tuviera
mil veces que repetirla.
(かれらは泉に近づいた
澄んだ水が流れていた
流れはまるで 千回も言い古された
昔話をつぶやいているようだった
そしてこれから千回も
繰り返すことになるだろうと)

Agua que corre en el campo
dice en su monotonía:
Yo sé el crimmen, ¿ no es un crimen,
cerca del agua,  la vida?
(野をよぎって流れる水は
その単調さでものがたる
「私は犯罪を知っている 犯罪ではないのか 
水のほとりの 生命への」)

Al pasar los dos hermanos
relataba el agua limpia:
“A la vera de la fuente
Alvargonzález dormía.”
(二人の兄弟が通りかかると
綺麗な水がまた語りかけた
「泉のかたわらで
アルバルゴンサレスは眠っていた」)

青みがかった空にまたたく星。険しい岩山、闇に包まれた松林、深い谷底。そんな中から沸き立ってくる「agua(水)」の声がやがて人を暴き立てます。

「alba」「arriba」「alto azul ardía」などと、前半で語頭が「a」の単語を並べて頭韻的な響きを作り出しています。

「mil veces(千回)」のリフレインをはさんで、招きこむように「agua(水)」が四つ繰り返され、殺人の「証人」である泉は、目撃した犯罪について語っていきます。

告発者の川は声高らかに罪をあばいていくのです。それがやがて村人の耳に届き、川の水が音を立てて流れるように、犯罪を告げるコプラ(短詩)が人々の口から口へと伝えられていくことになります。

「泉から沼までの水による聴覚的効果は全てに勝っている」(園田 守男・堀川 笙子「アルバルゴンザレスの地 : 伝説物語とロマンセ : A・マチャド」) のです。

「アルバルゴンサレスの地」で詩人は、自分のあり方を宇宙的な時間にまで広げたときにどのように位置づけられるかを、スペインのひとりひとりに問いかけているようにも思えてきます。そして、その答えは、後に生きる人々の問題として未来に開かれているのです。

2016年3月18日金曜日

二つの「道程」⑥

初期形の「道程」で光太郎は、「生命の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ」「どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は/たうとう自分をつかまへたのだ」などと、生命と自然とのかかわりを深く内省し、自然、いや宇宙の法則がその生き方を導いてくれることも示しています。

それは、「具象としての目に見える自然ではなく、理念としての自然が表明されている。客観的に自然を眺め鑑賞するのではなく、自分の生きる道を考えた、処世術というような小手先のものでなく、信念にまで高められて示されている」と井田康子は指摘しています(『高村光太郎の生』)。

道のない道を行くのが人間の自己形成の道程であり、生命を導いていく根源は自然であると詩人は確信していることが、初期形を読むとより明瞭になってくるのです。

自然を信じて自然のままに進む決意をうたい、自然を生かすことによって自己をのばしていこうとする。人間の生と自然とは本来、一体のものなのです。そして、

  ああ
  人類の道程は遠い
  そして其の大道はない
  自然の子供等が全身の力で拓いて行かなければならないのだ

と、そうした思いは「人類の道程」へと広がっていきます。


マチャードも、米西戦争敗北という祖国の危機、および自らの生き方を探るなかで「自然」をよりどころにしていました。中でも、スペインのアイデンティティたるカスティーリャ地方の「自然」にありました。

詩集『カスティーリャの野』の序文でも「A una preocupación patriótica responden muchas de ellas; otras, al simple amor a la Naturaleza, que en mí supera infinitamente al del Arte. 《注13》(それらの多くは、愛する国を心配してのことだ。それから、私にとって永遠の芸術作品であるところの自然への率直な愛である)」とそれを明確に表明しています。

2016年3月17日木曜日

二つの「道程」⑤

「パンの会」における狂乱怒濤との「契合点」というのは、光太郎にとって日本の旧い体制に対する反逆を意味していました。

「本当の青春の無鉄砲が内に目ざめた」以上、偽物だらけに思える日本の社会に安住することはできず、その反逆がデカダンの方向をとることになったのでしょう。

堀江信男は、「そのように日本の根本的改革を求め、個人の絶対的自由を求めた光太郎が、『旧体制』の厚い壁に突き当たり、その衝突からくる精神の不均衡が、かれを駆ってデカダンの情炎に行かせたとすれば、そこからの脱却は、対社会、対家族の関係において、精神の均衡を回復する何らかの変化がなければならないはずである。それは何だったのであろうか」と問いかけたうえで、それは「やはり自然に対する対し方の深化というか、変化である」(『高村光太郎論 典型的日本人の詩と真実』)として、「自然」に注目しています。

それを裏付けるように実際、光太郎は29歳だった1911年、デカダンの生活からの脱却して自然へ向かおうとした行動とみられる北海道移住を計画しました。

北川太一編の年譜によると「五月、精神の危機を感じ、酪農で生活を立てようと北海道移住を志し、経営難の琅玕洞を人にゆずって月寒にいったが、月末には失望して帰る」とされています。


「道程」はもともと100行を超える長い詩で、その最後の7行を中心に、詩人の伝えたい本質を象徴的に9行に凝縮させました。この初期形からは、光太郎のそうした「自然」への思いをうかがい知ることができます。
  
  どこかにつうじてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  道は僕のふみしだいて来た足あとだ
  だから
  道の最端にいつでも僕は立つてゐる
  何といふ曲りくねり
  迷ひまよつた道だらう
  自堕落に消え滅びかけたあの道
  絶望に閉ぢ込められたあの道
  幼い苦悩にもみつぶされたあの道
  ふり返つてみると
  自分の道は戦慄に値ひする
  四離滅裂な
  又むざんな此の光景を見て
  誰がこれを
  生命の道と信ずるだろう
  それだのに
  やつぱり此が生命を導く道だつた
  そして僕は此処まで来てしまつた
  此のさんたんたる自分の道を見て
  僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
  あのやくざに見えた道の中から
  生命の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
  僕をひき廻して眼をはぢき
  もう此処と思ふところで
  さめよ、さめよと叫んだのは自然だ
  これこそ厳格な父の愛だ
  子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
  どんな時にも自然の手を離さなかつた僕は
  たうとう自分をつかまへたのだ
  恰度その時事態は一変した
  俄かに眼前にあるものは光りを放射し
  空も地面も沸く様に動き出した
  そのまに
  自然は微笑をのこして僕の手から
  永遠の地平線へ姿をかくした
  ……………

2016年3月16日水曜日

二つの「道程」④

ところで、高村光太郎(1883-1956)の、「Camino」より一行短い「道程」は1914(大正3)年2月、光太郎30歳のときに作られた。『カスティーリャの野』は1912年6月の出版だから、だいたい同じころの作品と考えていいでしょう。

マチャードが「近代」から取り残された挫折感から出発せざるを得なかったとすれば、光太郎は西洋との間の大きな溝を克服しなければならない時代に置かれていました。

20代半ばの3年間、光太郎はアメリカ、イギリス、フランスへと留学しています。

その著「父との関係」によると、「アメリカの一年半は結局私から荒つぽく日本的着衣をひきはがしたに過ぎず、積極的な『西洋』を感じさせるまでは至らなかつた。その『西洋』を濃厚に身に浴びざるを得なかったのが、一年間のロンドン生活であった」といいます。

そしてフランスへ渡った光太郎は、当時の日本の庶民には望むべくもなかった「自由を口にする」庶民や「解放された庶民の生活」に「文化のいはれ」を見て取ったものの、どうしようもない日本とフランスの文化の落差を感じます。1910年代の日本の現実と激しく対立する遠因が、ここに明確な形をとることになる。

光太郎は「国籍をまつたく忘れる時間が多かった」というパリにあっても、人種の壁を越えることができませんでした。

「そのうちパリに居ることに疑問を持ちはじめた。モデルの体を写生しながら、これは到底わからないと思ふようになつた。虎を見てゐるやうな気がした。対象の内部がどうしてもつかめない。これが日本人のモデルならもつとしん底から分るだろうと思ひ出した」(「父との関係――アトリエにて 2・3・4――」)のです。

ちなみに光太郎は、オーストリア出身の詩人、リルケ(Rainer Maria Rilke、1875-1826)が以前住んでいた建物にアトリエを借りていました。

光太郎もリルケもパリに住む「近代彫刻の父」ロダン(François-Auguste-René Rodin、1840-1917)=写真、wiki=を敬愛し深い影響を受けますが、2人のロダンへの接近の仕方には大差がありました。


「Rodin war einsam vor seinem Ruhme .Und der Ruhm ,der kam ,hat ihn vielleicht noch einsamer gemacht .(名声があがるま え、ロダンは、孤独であった。だが、やってきた名声は、ロダンをいっそう孤独にしたことだろう)」 ではじまる有名な「ロダン論」を書くとともに、その詩作にも大きな影響を受けるリルケは、1902年9月から頻繁に親しくロダンのアトリエを訪れていました。

それに対して光太郎の行動は、なんとも臆病でぎこちないものでした。「ロダンへの浸水は相変わらずだった。しかし、展覧会場などでは時々姿を見かける大家に話しかける度胸も、パリのアトリエを訪ねていく勇気もなかった」(湯原かの子『高村光太郎――智恵子と遊ぶ夢幻の生』)のです。

同じ外国人であっても、隣国のヨーロッパ人と、アジアの訪ね人では、その距離感には大きな隔たりがあったのでしょう。

欧米への留学から帰った光太郎は、「パンの会」など若い芸術家たちとの集まりに顔を出しては、談笑や論争、酒を飲み交わすなどして青春を爆発させていきます。

「あの頃、万事遅蒔な私は外国から帰つて来て、はじめて本当の青春の無鉄砲が内に目ざめた。其が時代的に或る契合点を持つてゐた。前からあつたパンの会に引きずり込まれたのは自然の事であつた。細かい事は大抵忘れた。又忘れてもいいのだ。通り抜けて来た事は私にとつて一つの本能の陶冶になつた」(「パンの会の頃」)と光太郎は回想しています。

2016年3月15日火曜日

二つの「道程」③

国の再生のためマチャードら「98年世代」が探し求めたのは、大帝国時代の華やかな歴史ではなく、スペインにもともと宿り再生のよりどころとすべき魂でした。

とりわけ彼らは、大帝国時代には顧みられなくなっていたスペイン中央部の険しい地形に覆われたカスティーリャ地方の「自然」に目を向けたのです。

夏は太陽が容赦なく照りつけ、冬は体の底まで凍てつかせる厳しい高地。スペイン語の故郷であり、文豪セルバンデスの『ドン・キホーテ』の冒険の舞台にもなった赤茶けた殺風景な世界です。

1907年にマチャードは、フランス語の教師として生まれ故郷とは全く異なる風土のカスティーリャへ赴任します。そして、その自然とそこに暮らす素朴な人たちに愛情を抱きます。

詩集『カスティーリャの地』は、荒涼とした風景とそれに投影されるスペインの姿を深い叙情の調べで歌いあげるとともに、二重、三重の風景に導くことで、そこに歴史的解釈も重ねていきます。


たとえば詩「A orillas del Duero(ドゥエロ川のほとりで)」では――。

El Duero cruza el corazón de roble
de Iberia y de Castilla.
¡Oh, tierra triste y noble,
la de los altos llanos y yermos y roquedas,
de campos sin arados, regatos ni arboledas;
decrépitas ciudades, caminos sin mesones,
y atónitos palurdos sin danzas ni canciones
que aún van, abandonando el mortecino hogar,
como tus largos ríos, Castilla, hacia la mar! 《注3》
(ドゥエロは イベリアとカスティーリャの
樫の芯を貫き 流れる。
ああ、悲しく 気高い大地よ!
高原と 荒野と 岩だらけの大地、
鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野、
衰微していく町々、旅籠のない街道、
驚きは顔にしても、踊ることも 歌うことも忘れた 田舎の住人たち、
彼等は 火種の絶えた竃を見限り、
カスティーリャよ、そこを流れる長い川のように、
ただ 海へ向かい 流れていくのだ。
=訳は、石田安弘編訳『アントニオ・マチャード詩集』から)

カスティーリャの「悲しく、そして気高い大地」の低迷した現実を、その「高原と 荒野と 岩だらけの大地」「鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野」「衰微していく町々、旅籠のない街道」などの風景とともに、詩人の胸によみがえる過去の追想によって際立たせています。

過去の栄光と、現在の衰退のコントラストを読者に鮮明に浮き上がらせ、詩人は祖国の運命の沈痛な瞑想にふけるのです。

2016年3月14日月曜日

二つの「道程」②

二つの「道程」。それは後に日本とスペインの近代詩に大きな足跡を残すことになる東西の詩人が、たまたま同じような時期に同じような詩を作っていた、ということではありますが、果たして単にそれだけ、にとどまるのでしょうか。

私にはどうも、そう簡単に済ますことができない両国の時代背景が深くかかわっているように思えてなりません。

二つの「道程」、さらには同時代に生を受けた二人の詩人の間には、資質や文学性、さらには「近代」に対峙せざるをえないというお国事情など、多くの共通項が見えてくるのです。

コロンブスがアメリカ大陸にたどり着いてから、世界のあちこちに「植民地」を築き、かつては〝太陽の沈まない国〟といわれたスペイン。

しかし19世紀になると「植民地」だった中南米諸国が次々に独立し、1898年の米西戦争の敗北でついに最後に残っていたキューバも失って大帝国は完全に崩壊しました。国家的な危機で経済は沈滞し、国民は疲弊の極に達したのです。

こうしたどん底のスペインを根本から見直し、ゼロからの再生の道を探る、後に〝1898年世代〟と呼ばれる知識人たちがこの時期に活動を始めます。アントニオ・マチャードは、その主要メンバーの一人です。

マチャードは光太郎より8年前の1875年、温暖なスペイン南部のアンダルシア地方、セビーリャに生まれました。


1906~1909年の欧米留学中に経験した光太郎と同じようにマチャードも、20代のとき、文学で言えばボードレール=写真、wiki=をはじめ、ヴェルレーヌ、マラルメ、ヴァレリーなどとと続く象徴主義が芳醇に花を開いていたパリで、覚醒的な「洗礼」を受けています。

そして1898年に本格的に詩を書きはじめます。ちょうど米西戦争に敗北した年のことでした。まさにゼロの状態から、彼も、スペインも歩み出さなければならなかったのです。

世界に広がっていたすべての道は失われ、八方ふさがり。道などそこにはない。未来につながる道など見えない。それでも歩くしかない。歩いてはじめて道になるのだ。歩いたあとが、かけがえのない独自の道になっていく。

「Camino(道程)」は、こうした時代に生まれた一人の詩人の人生の道であるとともに、過去の栄光にしがみついているうちにいつの間にかヨーロッパの近代化から取り残され、行く先の見えない状態に追いこまれた祖国スペインとその国民に、精神的な道しるべを示そうとしているようにも思われます。

2016年3月13日日曜日

二つの「道程」①

     道程
 
  僕の前に道はない
  僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ
  父よ
  僕を一人立ちにさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄を僕に充たせよ
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

高村光太郎=写真、wiki=の有名な詩「道程」が発表され、第1詩集『道程』(1914年)が自費出版された2年前の1912年、スペインで1冊の詩集が出版されています。


アントニオ・マチャードの『Caopos de Castilla(カスティーリャの野)』です。マチャードは、日本ではそれほど知られていませんが、スペインの近代詩を開拓した国民的な大詩人。

見方によっては、日本の近代詩における高村光太郎に近い存在として位置付けることもできるかもしれません。

この詩集のなかには、スペイン人ならだれもが口ずさめる、ともいわれる民衆の間に広く浸透した「Camino(道程)」と呼ばれるコプラ(短詩)が組み込まれています。

Caminante, son tus huellas
el camino y nada más;
caminante, no hay camino,
se hace camino al andar.
Al andar se hace camino
y al volver la vista atrás
se ve la senda que nunca
se ha de volver a pisar
Caminante, no hay camino
sino estelas en la mar
(道ゆくひとよ きみの足跡こそが
道なのだ ほかにありはしない
道ゆくひとよ 道などないのだ
歩くことで 道はつくられる
歩くときに 道はできる
そして振り返ればそこに
もう二度と踏むことのない
道が見える
道ゆくひとよ 道などありはしない
ただ海のうえの航路にすぎないのだ)

ざっと読んだだけでも、光太郎の「道程」と類似点が多いことは明らかでしょう。これからしばらく、光太郎と比較しながら、マチャードという詩人について考えてみることにしましょう。

2016年3月12日土曜日

ロマンセの伝統

日本ほど詩の作者が多い国は稀なのではないでしょうか。といっても現代詩ではなく、おもに伝統的定型詩である短歌や俳句のことですが。

万葉のむかしから1300年たっても、皇族から庶民まで広く詠まれている短歌。1000万人が作っているともいわれる俳句。数知れない結社の歌会や句会があちこちで開かれ、カルチャーセンターには実作の講座がずらり、盛況のようです。

短歌や俳句のような短詩ではありませんが、スペインでも、他のヨーロッパ諸国ではとっくに滅んでしまった「ロマンセ」という伝統的な詩が、いまも文学のジャンルの一つを成し、詩人たちによって歌い継がれています。

ロマンセは各行8音節で偶数行のみが韻を踏んで歌われる、『わがシッドの歌』のような中世の叙事詩の流れをくむ物語詩です。

スペインの中世は、南のイスラム勢力と北のキリスト教諸国との抗争の歴史でした。キリスト教徒の側から見れば、奪い取られた国土を回復するための運動(レコンキスタ)。

とくにスペインの中核となったカスティーリャ王国では、吟遊詩人たちがその戦いの模様を叙事詩として記録し、伝える、いまの報道記者のような役割を担っていました。

しかし叙事詩は長く手の込んだ構成だったため、よほど熟練した吟遊詩人でないと語り切れません。そのため14世紀末になると、聴衆の喜びそうなエッセンスだけを叙事詩から抜き出して歌われるようになります。それが民衆歌謡、ロマンセです。


フランスやドイツでも同じようなバラードがありましたが、ルネサンスの到来とともに忘れ去られます。しかしスペインのロマンセだけは、民衆から民衆へと口承で伝わり、共有されて生き残ります。

そしてフランス象徴主義やモデルニスモ(モダニズム)の影響を受けた現代の詩人たちも、優れた作品を生み出しているのです。

ガルシア・ロルカの代表的な詩集『ジプシー歌集』もこの形式ですし、わがアントニオ・マチャードにも次のようにはじまる「アルヴァルゴンサレスの地」という有名なロマンセがあります。

  若い頃 アルヴァルゴンサレスは
  中くらいの財産の持ち主で
  それは ほかの土地では安楽な身分と
  呼ばれ ここでは金持と呼ばれた
  ベルランガの縁日で
  ひとりの娘に惚れて
  一年後に 結婚した
  結婚式は 豪華だった
  見た者は 忘れないだろう
  結婚祝いは ずばぬけていた
  アルヴァルは 村じゅうに はずんだ
  風笛や長太鼓を
  フリュート ギター マンドリンを
  ヴァレンシア風の花火を
  アラゴン風の踊りを

           (大島博光訳)

1898年の米西戦争敗北の国家的な危機からスペイン再生の道を探っていたマチャードら“98年世代”の知識人たちが目を向けたのは、スペインの中のスペインともいえるカスティーリャ地方でした。

1907年にフランス語の教師としてそこに赴任したマチャードが、土着の農家の2人の息子たちによる父親殺しをテーマに作ったのがこのロマンセです。

1912年に出版された詩集『カスティーリャの野』に入っている、この700行をこえる長編詩とここ数年、私は格闘してきました。その途中経過も、これから少しずつご紹介したいと思います。

2016年3月11日金曜日

『サラミスの兵士たち』

スペイン内戦について書かれた、ハビエル・セルカスの『サラミスの兵士たち』という小説があります。

スペインで2001年に出版されると、1年以上にわたって売り上げのトップを走り、スペイン語版の売上は60万部。

24カ国語に翻訳されて全世界で100万部を突破し、映画化もされました。

ノーベル賞作家バルガス・リョサは「近年読んだ中で最も優れた作品。大きなテーマを扱った重い文学が、読者をひきつけることを知らしめてくれる」とスペインの有力紙で絶賛しています。

スペイン内戦は1936年7月、第2共和国政府に対する軍部の蜂起で始まりました。

人民戦線とも呼ばれる共和国陣営は、アナーキストや共産主義者たち、それにマルローやヘミングウェイらが参加した国民義勇軍などとともに反乱軍を抑え込もうとしました。

しかし共和国陣営は、力尽きます。

フランコ率いる反乱軍は自らを国民軍と名乗り、ファランヘ党などファシズム勢力を取り込んで次々と都市を制圧、1939年4月に勝利を宣言したのです。


『サラミスの兵士たち』は、ファランヘ党の創設者の1人で理論的指導者だった作家サンチェス・マサスの銃殺未遂事件をテーマにしています。

作者と同じ名前の主人公の新聞記者ハビエル・セルカスはある日、内戦終結間近にカタルーニャ山中であった共和国軍による集団銃殺のエピソードを知ります。

フランス国境近くに連行されたマサスは、混乱に乗じて森に逃げ込んだものの、共和国軍の若い兵士に見つかってしまう。

ところが、兵士はなぜかマサスの目を見つめただけで去っていった、というのです。

主人公のセルカスは、この事件を扱った「本質的な秘密」という記事を書きます。

それは、内戦で非業の死を遂げたアントニオ・マチャードの内戦終結60年を記念した追悼特集の企画記事ということになっているのです。

その「企画記事」に、マチャードの最期が要領よくまとめられているので、ここに引用しておきましょう。

〈マチャードは、母と弟のホセとともにバレンシアを発ち、1938年4月、バルセロナに到着した。ホテル・マジェスティックに投宿した後、サン・ジャルバジ地区の古い豪邸カスタニェー邸に逗留した。

マチャードはバルセロナでも、反乱勃発時からしてきたことをしつづけた。つまり、共和国政府の正当性を擁護する文章を書きつづけた。だが老いて衰弱し、病をわずらい、もはやフランコは倒せないだろうと思っていた。

「もう終わりだ。バルセロナはいつ陥落してもおかしくない。戦略的にも政治的にも歴史的にも、われわれが敗れたのは自明のことだ。しかし、人間として見たらどうなのだろう? ひょっとして、勝ったのはわれわれかもしれない」こう書いている。

結びの文が的を射ているかどうかはともかく、前半はまちがいなく正しかった。

1939年1月22日の夜、フランコ軍によるバルセロナ制圧の4日前、マチャードは母と弟とともに貨物列車でフランス国境に向かった。道づれにはコルプス・バルガ、カルラス・リバといった作家がいた。

サルビア・デ・テールとフィゲラスに近いファシャット農場で泊まり、27日夜、雨の中を600メートル歩き、マチャード一行はとうとう国境越えを果たした。荷物は途中で置いていくしかなく、金もなかった。

マチャードはコルプス・バルガに助けられてコリウールにたどりつき、ブニョル・キンタナ・ホテルに投宿したが、ひと月もせず息をひきとった。母親もその3日後に後を追った。

アントニオ・マチャードの外套のポケットにあったメモを、弟のホセが見つけた。辞世の句の書き出しだろうか、そこには次のような文句が書かれていた。「この青き日々、幼き日の太陽よ」〉

アントニオ・マチャードは、これまでも見てきたように、スペインが米西戦争に敗れて世界中の植民地をすべて失った1898年に詩人として出発し、スペイン内戦が終結する1939年に亡命先のフランスで非業の死を遂げています。

その間、大きな屈辱を味わい混乱を極めたスペインの国民に対し、詩人として渾身の言葉を発し続けました。スペイン再生を夢み、模索し、しかし結局のところは挫折。その死の直後に、フランコ独裁による閉ざされた時代に突入しました。

しかしマチャードの夢は、次の世代の詩人たちにたしかに受け継がれていきます。20世紀は「イスパニア詩の第2の黄金世紀」といわれるほど、才能豊かで個性的な詩人たちがたくさん現れることになりました。

20年ほど前、スペイン人のギタリストに教えてもらってから、私は、衣服やお金には全く無頓着でありながら慎ましくも張りつめた繊細な心をもつマチャードに、すっかり魅せられるようになりました。

そしていま、この愛する詩人に関する私のささやかな研究を論文としてまとめる仕事を進めています。

このブログの中でも、これから折を見て、マチャード研究の私なりの成果についても少しずつ公表していきたいと考えています。その際は、ご一読いただければ幸いです。

最後に、マチャードが内戦のただ中、郷里バレンシアの近郊にあるロカフォールで1937年5月に作った「詩(うた)」(石田安弘訳)という作品をあげておきましょう。
 
オレンジ畑のうえに
月が昇りかけている
クリスタルの 小鳥のように
金星が 光っている

はるかな山脈を背に 空は
琥珀と 翡翠の色合いを留め
静寂な海を
青磁と 濃紫に染めている

すでに庭園は 闇に包まれ
――水路に 水の流れる音がするーー
香りの小夜鳴き鶯
ジャスミンの香りが 溢れかえっている

戦は 広々とした海原のうえで
眠りこけているかのようだ
いま 花ざかりのバレンシアは
グアダラビアール川の水を飲んでいる

多くの繊細な塔を擁え
香ぐわしい夜を抱く バレンシア
ぼくは いつもきみとともにいるだろう
きみを目にすることができなくなった時も
原野の砂が拡がり


すみれ色の海が 遠のいていく時も

2016年3月10日木曜日

史上最大の民族脱出

第2次大戦はスペインの内戦によって口火が切られた、ともいわれています。1936年に始まった、人民戦線(共和派)政府とフランコ将軍率いる右派反乱軍との争いです。

まだ20代初めの大学生だった私は、この内戦にかかわる2冊の本に出あって、決定的な影響を受けました。ジョージ・オーウェルの『カタロニア讃歌』と、ロバート・キャパの写真集『戦争――そのイメージ』です。

内戦を取材して新聞記事を書こうと、オーウェルは1936年にスペインに赴きます。

しかし、バルセロナでやがて、フランコ軍に対抗する義勇軍のひとつPOUM(マルクス主義者統一労働党)アラゴン戦線分遣隊の伍長として参戦することになります。

その際の経験をもとに書かれた迫真のルポルタージュが、『カタロニア讃歌』です。

ある朝、オーウェルは、味方の塹壕内で敵弾を受けます。昇る陽を背に、交代する見張りの歩哨と話していると突然、パンという大きな音と閃光につつまれ、電極にでも触れたような衝撃を感じたのです。

「弾がどこか体の前の部分にあたったらしいことはわかった。口をきこうとしたが、声が出なかった。かすかにキーキーというだけだった。しかし、もう一度ためしてみると、なんとか、どこをやられたか、と訊くことができた。咽喉だという返事だった」

「かかえ起こされると、口からたくさんの血が流れでた。後ろでスペイン兵が、弾は首をきれいに突きぬけている、というのが聞こえた」(橋口稔訳・カタロニア讃歌)

キャパは、ハンガリー生まれの米国の報道写真家です。35ミリのライカを携えてオーウェルと同じ36年、内戦に飛び込みます。そして、コルドバで、人民戦線の兵士が頭を撃たれて倒れる一瞬を至近距離から写して、世界を驚かせます。

『戦争』には、有名なこの1枚にはじまり、スペイン内戦関連の写真が18枚入っています。私には「兵士の死」よりむしろ、内戦が終わる39年に撮影された18枚目の、どこまでも続く避難民の列を撮った写真のほうが強く印象に残っています。


その写真には、キャパの次のような一文が添えられています。

「6週間を越える期間、普通の市民たちや共和派の軍隊がカタロニアから退散した。40万人余りの人々が、国境を越えてフランスに流れこんだ。これは恐らく人間の歴史上、最大の民族脱出であろう。その特殊な性格、すなわち、ふつうの避難民だけでなく、ひとつの全軍勢の退却という点で、この脱出は新しい問題となった」

ところで話は、マチャードに移ります。1912年、最愛の妻レオノールを肺結核で失ったアントニオは、思い出の地ソリアを去ってからも一教師として、スペイン各地を転々とします。

詩作や哲学の勉強を重ね、静かに内的な深みへ向かおうとする自身の志向に変わりはありませんでしたが、内戦の混乱へと進む時代の流れのなかで、次第にそうしていることが許されなくなっていきます。

そして、オーウェルのように共和派を支援する立場から、政治的な活動や混迷する社会に向けた激しい発言が目立つようになっていきます。その言動は、行く場を失いつつあったスペイン人民たちに少しずつ浸透してゆき、心の拠りどころともなっていくのでした。

私はキャパの、フランスへと逃れてゆくスペインの人たちの長い行列の写真を見るたびに、この中にきっとマチャードも居るに違いない、と思うのです。

2016年3月9日水曜日

最愛のレオノール

日本で最も知られたスペインの詩人といえばたぶん、ガルシア・ロルカでしょう。マチャードはロルカの才能をいち早く認め、ロルカもマチャードを深く敬愛していました。

しかし2人のひととなりは、かなり違っていたようです。気鋭の劇作家として劇団を率いて各地を回り、音楽、絵画など多様な世界で華々しく才を発揮した、おしゃれでダンディーな感じのロルカ。それに対してマチャードは、なんとも野暮ったいのです。

若いころから詩人として尊敬されてはいましたが、身だしなみにはまったく無頓着で、職を求めてスペイン内を転々とするシャイで風采の上がらない一教師として、あまり豊かではない生涯を送りました。

ロルカが生まれた1898年、23歳だったアントニオは最初の詩を書いて、詩人としての第一歩を踏み出します。1907年には公立中高等学校のフランス語の正教員の資格を得て、この年の9月、スペイン北部の、古くからある小都市ソリアの学校に赴任します。


そこで下宿することになった家の夫婦には、まだ13歳の娘レオノール=写真=がいました。

マチャードは、20歳近く年下のこの少女に恋をします。そして、年齢差を気にしながらも、意を決して求婚しました。「汽車」という詩にはこんな一節があります。

  そして、私の愛する女の子
  ああ、結婚することができたなら
  ちっちゃな理容師と

レオノールも一生をマチャードに賭ける心を固めます。1909年7月末に、2人はソリアの教会で結婚式を挙げました。マチャード34歳、レオノールは16歳のことです。

1911年初め、マチャードは妻を伴って、フランス語の勉強のためパリへ留学します。

ところが、半年後の7月にレオノールは突然ひどい喀血に襲われます。パリ祭の夜のことでした。

マチャードは医者を求めてパリ中を狂ったように駆けめぐりました。9月にはソリアへ戻って懸命に看病を続けますが、快方に向かうことなく翌1912年8月、肺結核でレオノールは静かに息をひきとりました。結婚して3年、まだ19歳でした。

その1週間後、マチャードは逃れるようにしてソリアを去りました。レオノールの死から12年たった1924年に出された詩集『新しい歌』の中に、「夢の会話」という最愛の妻を失った孤独を描いたと思われるソネットがあります。

  きみの姿が高みを満たすように
  現れる! 私の言葉が呼び覚まされる
  緑の牧草地と乾いた平原
  満開のキイチゴ 灰色の岩

  そして従順な思い出 黒いカシ林
  川辺のポプラの下 土手は芽吹いている
  羊飼いが丘へと登っていく
  街のバルコニーが光る 私の

  私たちの。見える? 遠く、アラゴンまで
  モンカヨの山脈 白とバラ色……
  見て 炎 緋色の雲に

  そしてあっちの青空に星、妻よ
  ドゥエロの向こうに サンタナの丘
  静寂な夜 紫色に染まっている

マチャードはその後、二度と結婚をすることはありませんでした。(詩は、筆者の粗訳)

2016年3月8日火曜日

ドン底のスペイン

不動産バブルの崩壊、巨額の不良債権、5割にのぼる若年失業率……スペインは2012年、深刻な金融・経済危機に直面し、世界的なニュースになりました。

しかし、こうした国家的危機はこの国にとってそう珍しいわけでもありません。たとえば、1898年のアメリカとの米西戦争敗北も、国の根幹を揺るがす歴史的な危機でした。

1492年にコロンブスがアメリカ大陸に上陸してから、いわば“帝国”としてのスペインが営々と築かれました。

ヨーロッパではネーデルラントや南イタリアを属領とし、中南米、フィリピン、マカオ、アフリカ沿岸などにも勢力を広げて、領土のどこかでいつも日が昇っている「太陽の沈まない国」を実現します。

しかし、大航海時代に世界最強を誇った無敵艦隊も1588年のイングランド上陸作戦で壊滅。80年戦争や西仏戦争に敗れて、次第にヨーロッパの覇権は衰えます。

19世紀に入ると、中南米諸国の独立運動が各地で起こり、新大陸の植民地も次々と失っていきました。

そして1898年、米西戦争に敗北。最後に残っていた植民地キューバも失い、帝国は完全に崩壊したのです。政治的な大危機にともなって、国内の経済や社会も疲弊しきりました。

こうしたドン底の祖国をなんとか生き返らせようと立ち上がったのが、アントニオ・マチャードをはじめとする「1898年世代」と呼ばれる作家や詩人たちです。

98年世代は、スペインを根本的に見直し、大帝国時代の華やかさではなく、この国にもともと宿っている魂を探り再生への道を求めました。それを象徴するのがスペイン中央部のカスティーリャの地だったのです。

夏は太陽が容赦なく照りつけ、冬は体の底まで凍てつかせる。赤茶けて荒涼とした、あの「ドン・キホーテ」が書かれ、舞台にもなったところ。

マチャードは1875年、スペイン南部の明るく温暖なセビーリャに生まれました。しかし、フランス語の教師としてその後、故郷とは全く異なる気候と風土のカスティーリャへ赴任します。

そしてこの地の厳しい環境と、そこで暮らす素朴な人たちに深い共感を抱くようになります。レオノールという運命の少女に出会い、結婚するのもここでのことでした。


1912年には、『カスティーリャの野』(Campos de Castilla)=写真、wiki=という詩集を出版しています。

  すがれた秋の
  どんよりとした暗鬱な夕ぐれ
  むきだしの不毛な野を
  風変りな男がひとり さまよう

  干からびた曠野の道を通って
  生気のないポプラの大木のあいだを
  ただひとり おのれの影と狂気といっしょに
  狂人が行く 大きな声でわめきながら

  ほの暗い野のはるか彼方には
  茨や灌木の茂みに蔽われた丘が見える
  とげとげしい梢を冠にいただいた
  古い柏の林の廃墟が見える

この詩集に載っている「或る狂人」(大島博光訳)という詩の一部です。

「私たちに内在している深い精神の鼓動を、さざ波のように伝えてくれる」といわれるマチャードの詩は、100年後に起こったスペイン危機にあえぐ人たちの心の深いところにも、きっと響いているに違いないと私は思っています。

2016年3月7日月曜日

カミーノ(道)

アントニオ・マチャード(1875-1939)は、日本ではそれほど知られていませんが、「1898年世代」と呼ばれるスペインの一群の知識人に属する国民的な大詩人です。

19世紀、支配下にあった中南米の国々の独立運動があちこちで起こり、スペインは1898年には最後に残っていたキューバも、米西戦争の敗北で失いました。

スペインの海外支配は完全に終焉し、経済や社会も疲弊を極めることになります。

こうした自国の未曾有の危機に際して、スペインという国を根本的に見直し、再生への道を模索したのが「98年世代」とよばれるグループです。

彼らは過去の栄光ではなく、ドン・キホーテの冒険の舞台のような赤茶け、痩せた“カスティーリャ”の地にスペインの魂を探りました。

まさに1898年に詩人としての第一歩を踏み出したマチャードは、スペインの混乱の時代を生き、内戦が終わる1939年に亡命先のフランスで非業の死を遂げています。


  道をゆく人よ きみの足跡
  それが道だ ほかにありはしない
  道をゆく人よ 道などない
  歩いて 道はつくられる
  Caminante, son tus huellas
  el camino y nada más;
  caminante, no hay camino,
  se hace camino al andar.

多くのスペイン人が暗唱しているといわれる、通常「カミーノ(道)」と呼ばれているマチャードの短詩(コプラ)の冒頭の部分です。

高村光太郎の「道程」を思わせるこの詩には、人生行路だけでなく、スペインという国のたどってきた道のりをも、暗示しているように思われるのです。

2016年3月6日日曜日

マチャードとの出会い

これは、古今東西いろんな詩人の作品を、気ままに読んでいくためのブログです。タイトルは、私が最も敬愛するアントニオ・マチャード(Antonio Machado、1875-1939)=写真、wiki=から取りました。私にとって、スペインの国民的詩人アントニオ・マチャードは「詩人」の代名詞でもあります。そんなマチャードを出発点にして、果てしない詩の旅へと足を踏み入れたいと思います。


「一身にして二生を経る」。あの伊能忠敬が地図作りの旅に出たのは、いまの私と同じ55歳のときだったそうです。そんな大事業にはとても及びもつきませんが、私の残りの「二生」目は、「詩を読む」ことに費やしたいと、けっこう本気で思っています。そんなきっかけを与えてくれたのが、スペインの詩人アントニオ・マチャード(1875-1939)でした。

私がスペインに関心を持つようになったのは、大学生だった30年以上前のことです。2カ月くらい、バルセロナ、グラナダ、マドリードなどスペインを中心にヨーロッパを1人で放浪しました。なぜスペインだったのか、はっきり覚えてはいません。ただ、あのころギターに夢中だったのと、スペイン内戦の迫真のルポルタージュ、オーウェルの『カタロニア讃歌』や報道写真家キャパが内戦を撮った写真集に刺激を受けたことが影響していると思います。

「ピレネーの向こうはヨーロッパではない」といわれてきたスペイン。いまはどうなっているか知りませんが、レールの幅がスペインだけ違っていて、夜行列車で国境までたどり着くと、車両を取り替えると車掌にたたき起こされた覚えがあります。コルドバの大聖堂には、イスラム教の礼拝堂。グラナダの洞窟でロマのフラメンコを見物したりすると、ここはヨーロッパなのだろうかと不思議に思えました。

就職して10年ほどたって、ようやく会社の仕事にも慣れたころ、休みを取って再びスペインを訪れました。そのころから、だいぶ違った視点でこの国を眺めるようになっていました。16~17世紀には、多くの地域を支配し、「太陽の沈まない国」として世界に君臨したスペインですが、その後、近代文明を花開かせた西欧諸国から取り残されます。

ヨーロッパにありながら「近代」を通過することなく、中世のカトリック的な世界観や制度を引きずって現代に至っています。急速な近代化を至上命題にしてきた日本からすれば、あまり学ぶことはない国と近年はみられてきたように感じられます。しかし、考えてみると、良くも悪くも私たちの生活や社会の基盤になっている近代文明を探るのに、近代をくぐって来なかった西欧であるスペインは、逆の意味で、絶好の「材料」を提供してくれるのではないのかと私には思えてきたのです。

旅行の後すぐ、仕事の合間にスペイン語の勉強をはじめ、セルバンテス、オルテガ、ロルカなど、辞書をひきながら少しずつ読むようになりました。あるときスペイン語とギターを習っていたスペインのギタリストから、「スペインで最高の詩人はアントニオ・マチャードだ」という話を聞きました。

「無駄な言葉が一切使われていない。地味だが深い精神の鼓動がある」と、彼はマチャードに心酔していました。そして私も、マチャードの詩を読むことに惹かれていきました。それは、私が「詩を読む」という至上の悦びをしる始まりでもあったのです。