2016年3月21日月曜日

二つの「道程」⑨

詩「道程」を作った年、光太郎は智恵子との結婚生活を始めます。まさに人生という道程の節目だったわけです。


「道程」について伊藤信吉は「こうして生活のあたらしい場をもとめた高村光太郎は、それまでの外向的・発散的な態度とは反対に、自分の内部へいっさいを集中し、そこに自分の可能性をそだて、それを陶冶し、自律の精神を養う〝内的世界〟をひらいた。同時にそこにあたらしい詩の世界がひらかれた。そのあたらしい生活の行手を祈りに似たおもいで思い描いた詩である。光太郎は《僕の後ろに道は出来る》《僕の前に道はない》と、自分の道をひらくのは自分の意志とその行為だけだと、きっぱりとした眼ざしで前方をみつめた」と指摘しています。

「道程」の時期に光太郎と智恵子の新しい生活が始まったように、「カミーノ」を作ったころのマチャードにも人生を決定づける一人の女性との出会いがありました。

1907年に公立中高等学校のフランス語正教授の資格を得て、スペイン北部の古い町ソリアに着任した、そこの下宿屋の夫婦に、まだ13歳になったばかりの娘レオノールがいたのです。

マチャードは20歳近く年下のこの少女にすっかり夢中になります。不器用で服装にも無頓着なマチャードは勇気を奮い起こして求婚し、1909年7月末、2人はソリアの教会で結婚します。マチャード34歳、レオノール一6歳でした。

新しい生活に入って間もない1911年初め、マチャードは妻を伴ってフランス語の勉強のためパリへ留学します。しかし、パリへ渡って半年後の7月14日、レオノールを突然ひどい喀血が襲います。マチャードは勉強を中断して、妻の静養のためソリアへ帰らざるを得なくなります。

結婚生活を始めた直後から肋膜などを患い、後に精神の異常をも来たした智恵子に対する光太郎のように、マチャードもレオノールに精いっぱいの看病をしました。しかし、その甲斐もなく1912年8月、彼女は静かに息をひきとりました。

まだ19歳。智恵子と同じ肺結核が死を招きました。その1週間後、マチャードはレオノールと暮らしたソリアを逃れるように離れています。その後ふたたび結婚することはありませんでした。

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