2016年3月24日木曜日

「ゲーテ時代」

これまで高村光太郎と比較しながらアントニオ・マチャードを見てきましたが、これからしばらくは、この詩人が歴史的にどのように位置づけられるのか、ヨーロッパ的な視点から私なりに眺めてみたいと思います。

ドイツ近世を代表する、ゲーテ=写真、wiki=、シラーという2人の詩人が当時の文壇を辛辣に批評した『クセーニエン(Xenien)』(1796年)という連作詩集があります。

2行連詩形式(エピグラム)で、その95番目(「ドイツ国(Das Deutsche Reich)」)と、96番目(「ドイツの国民性(Deutscher Nationalcharakter)」)はつぎのようになっている。

ドイツとはどこにあるのか、私はその国を見出すことができない
教養あるドイツが始まるところ、政治的ドイツは終わるのだ
Deutschland? aber wo liegt es? Ich weiß das Land nicht zu finden,
Wo das gelehrte beginnt, hört das politische auf.
 
ドイツ人よ、君たちは国民になろうと望んでいるけれども、無駄なことだ
そんなことではなく、自分よりも自由に、人間に形成しなさい
Zur Nation euch zu bilden, ihr hoffet es, Deutsche, vergebens;
Bildet, ihr könnt es, dafür freier zu Menschen euch aus.

18世紀、一般にドイツと呼び慣わされていた国は、ドイツ語が話される多種多様な地域を漠然と指すだけで、フランスやイギリスのように政治的に統一された国家といえるものではありませんでした。


この時代は、ゲーテが政務担当者を務めていたワイマール公国など、300以上の領邦国家に分裂していたのです。ドイツ第3帝国のイデオロギーの根源をルターの宗教改革までさかのぼって解明しようとしたユダヤ系哲学者ヘルムート・プレスナーは、そんなドイツについて「遅れてきた国民」と呼んでいます。

ドイツの文学史で「ゲーテ時代」(1750年から1850年ころ)と呼ばれる当時、ドイツという国は、政治的というよりもむしろ神聖ローマ帝国以来の文化的概念として存在していました。

中でも言語やそれによって生み出される文学は、ドイツ人を共通の意識で結びつけるほとんど唯一といってもいい絆の役割を果たしていたと考えられます。そして、ゲーテをはじめとする詩人たちは、ドイツ人を政治的に統合する基盤にもなる大きな役割を担うことになります。

「クセーニエン」の詩句は、「ドイツ帝国と国民文化の現状と将来を暗示している。しかし、これは風刺ではなく国民文化の精神に重きを置く真正なるドイツ精神を映していた」 (渡邉直樹「ゲーテの〈ドイツ帝国〉政治の世界と精神の王国」宇都宮大学研究紀要「外国文学」53号)といえるのかもしれません。

そうはいっても、ドイツにおいて、真の国民文化の精神がどこにあるかが早くから自覚されていたわけでもありません。

最近翻訳されたアンヌ=マリ・ティエスの『国民アイデンティティの創造――18~19世紀のヨーロッパ』(斎藤かぐみ訳、勁草書房)によれば、「真に国民的な精神がどこにあるのかを言えないまま、フランス・モデルの支配下に置かれつづけ」ていたドイツの状況が変わったのは「国民の精神は民衆のうちにあるとされた18世紀後半のこと」で、この転換が、若きゲーテにも大きな影響を与えたヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの著作に強烈に表れているといいます。

ヘルダーは「国民の文化と価値観が知られるのは言語を通じてであり、国民の編成には共通言語が欠かせないと主張してやまなかった」。では、その共通言語の拠りどころはどこに求められるのでしょうか。

「言語と詩歌と民衆が一つであった時代に湧き起こり、今日わずかに伝えられる原初の詩歌に霊感を求めること」だとヘルダーは考え、ストラスブールでゲーテに出あった際に「民謡を集めて詩の肥やしとすることを勧めた」のです。

ドイツは1871年、神聖ローマ帝国のような多民族国家ではなく、同じ言語を話すドイツ人の国民国家であることを拠りどころに国家の統一がなされました。

これは、プロイセンの経済力や軍事力を背景に、ビスマルクの強引な指導によってオーストリアやフランスとの戦争を誘発させて可能になった、という側面は否定できないにしても、その土台には言語文化たる文学などを絆にした国民文化の精神が働いていたと考えることができるのでしょう。

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