2016年3月29日火曜日

ドン・キホーテの台地

「1898年世代」の知識人たちは、過去の栄光にすがるだけのスペインを、何とかしてヨーロッパの近代国家なみの水準に引きあげねばならないという意識で立ち上がりました。

現状に対する批判から出発しながらも、独立運動の分析でも帝国主義批判でもなく、次第に「スペインとは何か」という、なぜいまさらとも思える抽象的な問題に傾斜していきます。

そして彼らは、スペインという国のアイデンティティを「カスティーリャ(Castilla)」に求めていくのです。

「その名は忘れたがラ・マンチャのあるところに、それほど昔のことではないが、槍立てに槍、古びた楯、痩せ馬と足の速い猟犬を供えた型どおりの郷士がひとり住んでいた」 。

それは、かの文豪ミゲル・デ・セルバンテスの代表作『才知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ(El ingenioso hidalgo Don Quijote de La Mancha)』の主人公ドン・キホーテ=写真、wiki=の数々の冒険の舞台となったラ・マンチャ地方をも含む、スペイン中央部、赤茶け、痩せた台地。


最新のスペイン語版ウィキペディア などによれば、カスティーリャとは、中世にカスティーリャ王国に属していた地域の中心部。現在、地方行政区分となってはいませんが、二つの自治州、カスティーリャ・イ・レオン州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州にその名称が使われています。

北のビスケー湾岸から南はモレナ山脈に至り、周囲を山々に取り囲まれた「メセタ」と呼ばれる標高600~700メートルの高原台地に位置しています。

その名は、ラテン語で城を意味する「castellum」の複数形であるカステラ(castella)に由来し、8世紀末に文献に現れます。もともとはカンタブリアの南、ブルゴスを中心とする地域を指していました。

9世紀以降のレオン王国によるレコンキスタの最前線となった地域で、イスラム教徒に対抗して城(カスティーリョ)が数多く建てられたため、「カスティーリャ」と呼ばれるようになったといわれています。

北部海岸を除いて海洋の影響から隔絶されているため、気候は寒暑の差が大きく、厳しい大陸性気候です。年平均降水量は370~570ミリ程度。春から夏にかけての降水はほとんどなく、乾燥が著しい傾向があります。

住民は、イベリア原住民、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人などの混血からなります。11世紀はじめ、ナバラ王サンチョ3世はカスティーリャ伯領を併合しましたが、その死後に領土が分割相続され、カスティーリャ王国が誕生しました。

カスティーリャ王国とレオン王国は同君連合となり、12世紀から13世紀にかけてイベリア半島中部と南部(アル・アンダルス)の征服を進めました。前述したように1479年には、アラゴン王国との同君連合として、スペイン王国となったのです。

13世紀から16世紀にかけては人口も多く、ブルゴス、バリャドリード、メディナ・デル・カンポ、セゴビア、トレド、クエンカなど、小麦、ブドウ、オリーブを中心にした農業、それに牛、豚、羊などの牧畜を軸にした独自の経済活動で繁栄しましたが、17世紀以降は首都のマドリード以外は衰えていきました。

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