2016年4月6日水曜日

自由教育学院

1883年、祖父がマドリード大学の教授に任命されたのを機に、マチャード一家はセビリアを後にしてマドリードに移り住みます。このときアントニオは8歳でした。

「私の生まれた町の記憶は、すべて子供のときのままだ。というのも、生まれて8年経つと、父の転勤でマドリードに移ったからだ。そして自由教育学院で、教育を受けた。先生たちの強い愛情によって育てられたことに深く感謝している。私の思秋期や青春時代はマドリードにあった。(Mis recuerdos de la ciudad natal son todos infantiles, porque a los ocho años pasé a Madrid, adonde mis padres se transladaron, y me eduqué en la instituición Libre de Enseñanza. A sus maestros guardo vivo afecto y profunda gratitud. Mi adolescencia y mi juventud son madrileños.)」 とマチャードは後に回想しています。

マドリードで祖父や父は多くの知識人たちと知り合い、交際の輪が広がっていきます。その中には、自由教育学院の創立者のギンター・デ・ロス・リオス(Francisco Giner de los Ríos、1839-1915)=写真、wiki=や、その後継者たちもいました。


自由教育学院は、教会の手によらない自由で学問的な教育を一般市民に施すことによって、最終的には社会を革新する原動力を育てることを目標とした学校です。

リオスをはじめ、当時のスペイン文部省の保守的でカトリック思想に基づいた教育方針に批判的な大学や中・高等学校の教師たちによって1876年に設立されました。

兄のマヌエルとともに1883年、この自由教育学院に入学しました。2人の精神形成のうえで、この学校は、計り知れない意味合いを持つことになります。

その詳細は、また別の機会に検討するとして、1900年、アントニオは高等学校卒業にあたる「Bachiller」の資格を得ています。

ところでアントニオは、こうした少年時代に見つめていた父親の姿を、詩集『新しい歌(Nuevas Canciones)』にあるソネットで、次のように描いています。


これはセビリアの灯 館
泉のざわめきとともに 生まれたところ
書斎には私の父 背が高い
短いあごひげ ぴんと張った口ひげ
Esta luz de Sevilla...Es el palacio
Donde nací con su rumor de fuente.
Mi padre, en su despacho.-La alta frente.
La breve mosca, y el bigote lacio-.

父はまだ若い 本を読み 書き ページをめくる
そして想いを巡らして 起き上がる
庭に通じるドアを開け 渡る
ときどき独り言 時に歌う
Mi padre aún más joven. Lee, escribe, hojea
sus libros y medita. Se levanta;
va hacia la puerta del jardín. Pasa.
A veces habla solo, a veces canta.

大きな目で心配そうに見つめる父の視線
いまはあてなく さまよう
空の中 目を置けるところに
Sus grandes ojos de mirar inquieto
Ahora vagar parecen, sin objeto
Donde pueden posar, en el vacío.
  
きのうから明日へと逃げてゆく
あの日に見た 私の父よ!
情け深い 私の白髪頭
Ya escapan de su ayer a su mañana;
Ya miran en el tiempo, ¡padre mío!
Piadosamente mi cabeza cana.

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