2016年12月31日土曜日

「ソリアの地」から「スペインの地へ」③

「ソリアの地」から「スペインの地へ」というように題名を一般化することによって、地域に対する攻撃的な色彩を薄めたとはいえ、この詩は、歯に衣を着せぬ、なんとも強烈な物言いをしています。

たとえば「野や村に悪しき人が溢れる/不健康な悪徳や獣じみた罪を犯すことができ/黒っぽい野良着の下に醜い魂を隠す者」「つねに羨望と悲しみで濁った目は/自分の物を固守し隣人が手に入れたものに涙する」などといった表現を見れば、「我らがまち」に対する容赦なき悪口雑言を並べたてている、と受け止められても不思議ではありません。

その地に生まれ地道に暮らす人たちからすれば、血筋や姿かたちまで貶されてはたまったものではないはずです。書き出しの「これら野に住む人間は…」からして、なんとも意味深長です。

この土地に人間が存在しているということそれ自体に対して、詩人は「呪いの荒れ地」と決めつけているようです。そして、そこに住む人びとは、キリスト教でもろもろの罪の原因となると考えられている、①虚栄あるいは尊大②貪欲③法外かつ不義なる色欲④暴食および酩酊⑤憤り⑥妬み⑦怠惰の「七つの大罪」の奴隷だというわけです。

『カスティーリャの野』では、一方で人生の真実に迫るような鋭いコプラが並んでいるかと思えば、かたや、愛する妻と暮らた場でもあったはずのカスティーリャの地の姿を、執拗なまでにあばき出します。

マチャードの本意はもちろん、住民たち個々の姿形やその行為を糾弾することではなかったでしょう。彼らの根っこにあるものに、詩人は眼を向けているのです。

とんでもない窮地に追い込まれた祖国を再生するには、言葉の力で、その「病弊」の根底にあるものを詳らかにすることが詩人の使命であると信じているかのようでもあります。

小柄で身軽く、我慢強い男、抜け目のないその目は
窪み、疑い深く、よく動く、そして
頬骨の出たほそ面に、太く濃い眉が
大弓のアーチを描く

この詩の中で、ソリアの農民の肖像画を肉体と精神の両面からこんなふうに描写しているところにライン・エントラルゴは注目し、同詩集の「イベリアの神(El dios Ibero)」 を引用して、次のように指摘しています。


〈こうした肉体的外見に、実に嫌悪感をもよおす倫理的条件の総体が呼応している。醜い魂―七つの大罪の奴隷、妬みと悲しみ、血を好む残忍さ。いや、そうではない。この肖像画には、わが国の高地地方の農民はよく描かれていない。彼はイベリア人なのだ。すなわち、

もしも歌曲の博徒
大弓師のように
穂に石を降らせ、
秋の収穫を取りそこねた神に投げつける
歌矢(サエタ)があったなら……

と願う男なのだ。しかし、イベリア人に対するアントニオ・マチャードの考えは、これに尽きるのだろうか。否、そのはずはない。彼の魂には希望が失われていない。彼も、世代のすべての仲間同様、可能性としてのスペイン人の到来を待望し、またその必要性を感じている。

  わが心は、黄褐色の大地のいかつい神が
  カスティーリャの樫に
  彫り刻むであろう
  たくましき腕のイベリアの男を待っている〉

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