2016年4月30日土曜日

Ⅰ期とⅡ期との間の“突然変異”

ところで、詩人としてのマチャードの人生をたどるとき、通常は、大きく三つの時期に分けて考えられることが多いようです。

Ⅰ モデルニスモの洗礼を受けて詩人として出発した初期(1899~1907)

Ⅱ モデルニスモ的な色彩を自ら取り除き、詩人としての独自の存在を確立した中期(1907~1917)

Ⅲ 哲学的な傾向を帯びてくる後期(1917~1939)

です。このように分類したとき特徴的に見えてくるのは、Ⅰ期とⅡ期との間に、断絶といってもいいほどの大きな作風の変化が見られることです。


詩人で、アントニオ・マチャードの研究家としても知られるアンヘル・ゴンサレス・ムニュス(Ángel González Muñiz、1925~2008)=写真=は、次のような見方をしています。

マチャードの詩を、モデルニスモ詩人ルベン・ダーリオは、「神秘と沈黙」と評した。マチャードは内面的、抒情的で、象徴主義的な夢想によらないものには関心をもたなかった。そんなマチャードが、深いカスティーリャ体験によって突然変異を起こした。自分自身の思うところについて確信を持って表現することを恐れなくなったのである。そして、マチャードはとうとう、飾り気なしに、教育や愛国の自由な体制をつくる倫理的な再生主義者であることを表明するようになるのである 。

ここでいう「突然変異を起こした(mutó)」とは、どういうことなのでしょう。

それは、まさにマチャード自身が『カスティーリャの野』の序文で言っている「ソリアの地での5年間は、いまの私にとっては、神聖不可侵なものである。そこで私は結婚をした。そこで、私の妻を、崇拝する人を失った。そして私の眼を、私の心をカスティーリャの本質へと向けた」というカスティーリャ体験であり、ソリアの生々しい現実のなかでのさまざまな人と出あいによるものであったに違いありません。

マチャードの詩作は、これまでにも見たようにフランスの象徴主義や当時の詩壇を風靡したモデルニスモ(モダニズム)の洗礼を受けてはじまりました。

モダニズムは1883年から85年ごろ、キューバのフリアン・デル・カサール、メキシコのナヘラ、コロンビアのシルバらラテンアメリカ各地の若い詩人たちが、それまでのロマン主義や象徴主義的な作品をもとに、言葉と感覚の変革を試みたものです。

つまり、ロマン主義の表現性や象徴主義の内省の深さ、創作の意識性のうえに、従来にない繊細な感覚による探求と言葉の音楽性の追求をしたわけです。

その代表的詩人、ニカラグアのルベン・ダーリオ(Rubén Darío 、1867~1916)は、詩の豊かな内容と形式で、いままでにない言葉の韻律やこれまで言葉にされたことのない感動を大胆に自由に表現しました。

2016年4月29日金曜日

カスティーリャの“創世記”

初版からして『カスティーリャの野』には、その前に出したマチャードの詩集『孤独、回廊、その他の詩』(1907)のような統一した形式はありません。

それがまた、この詩集の特徴と言えるかもしれません。マチャード自身、1917年の出版の際の序文で、つぎのように説明しています。

ソリア=写真、wiki=の地での5年間は、いまの私にとっては、神聖不可侵なものである。そこで私は結婚をした。そこで、私の妻を、崇拝する人を失った。そして私の眼を、私の心をカスティーリャの本質へと向けた。そこにあるのは私のイデオロギーとはまったく別のものだった。


私たちは二重の幻影の被害者だと私は考えてきた。もし私たちが外に目を向けて、起こっている出来事に入りこもうとすれば、その困難さの中に私たちは外側の世界を見失ってしまう。そこで見ている現実が私たちを追い払ってしまう。

そのとき、すべてが外から来ているように思われるが、それこそ自らのうちに散らばっている我々のうちにある世界なのだ。ならば、どうすればいいのか。私たちに与えられる糸を織ること、私たちの夢を夢みること、生きること。

こうすることでしか私たちは、この時代の奇跡的な行動を起こすことは出来ない。自分自身に注意深く、聞き耳を立てようとする人は、聞くことの出来る唯一の声に窒息してしまう。一方、よその騒音には茫然とさせられる。ならば、私たちは世界の単なる傍観者なのだろうか。

だが、私たちの目は、理性を搭載しているのだ。そして理性は分析し、問題を解く。すぐさま、崩壊の最中にある劇場を見つめよう。そして、私たち1人1人の影を舞台に投影しようではないか。詩人の使命というのは、永遠に人間的であるところの新しい詩を考案するところにあると私は思った。

個性的で生命力のある物語。妨げにならず、それ自体が生きている。私にはロマンセこそが、詩の中でも最高度の表現方法であると思われた。そして新しいロマンセを書くことにした。その意図は「アルバルゴンサレスの地」で答えを出している。

私の意図は、伝統的な手法を蘇らせようとするところからはかけ離れていた。騎士たちの、あるいはモリスコの古いかたちのロマンセを新たに作る、というのは私の好みでは決してない。見せかけの擬古主義はどれも、私には滑稽に思える。

確かに私は、良き叔父、D・アグスティン・ドゥランが1冊にまとめたロマンセ集によって読むことを学んだ。しかし私のロマンセは、英雄的な武勲に由来するものではなく、形成された民族から、歌われるところの土地から生まれたものである。

私のロマンセは、人間の土台であるところを、カスティーリャの野を、そして“創世記”と呼ばれるモーゼの最初の書物を見つめている。私が述べたこれらの意図と無関係な内容にあなたたちは出あうだろう。

それらの多くは、愛する国を心配してのことだ。それから、私にとって永遠の芸術作品であるところの自然への率直な愛である。結局のところ、いくつかの韻文作品が、人間の、世界の不可解さに思いを巡らすのに費やした(失われた、といえるかもしれないが)私の人生の多くの時間を示しているのだ。

(Cinco años en la tierra de Soria, hoy para mí sagrada –allí me casé; allí perdí a mi esposa, a quien adoraba—, orientaron mis ojos y mi corazón hacia lo esencial castellano. Ya era, además, muy otra mi ideología. Somos víctimas—pensaba yo— de un doble espejismo. Si miramos afuera y procuramos penetrar en las cosas, nuestro mundo externo pierde en solidez, y acaba por disipársenos cuando llegamos a creer, que no existe por sí, sino por nosotros. Pero si, convencidos de la íntima realidad, miramos adentro, entonces todo nos parece venir de fuera, y es nuestro mundo interior, nosotros mismos, lo que se desvanece. ¿Qué hacer entonces? Tejer el hilo que nos dan, soñar nuestro sueño, vivir; sólo así podremos obrar el milagro de la generación. Un hombre atento a sí mismo y procurando auscultarse, ahoga la única voz que podría escuchar; la suya; pero le aturden los ruidos extraños. ¿Seremos, pues, meros espectadores del mundo? Pero nuestros ojos están cargados de razón, y la razón analiza y disuelve. Pronto veremos el teatro en ruinas, y, al cabo, nuestra sola sombra proyectada en la escena. Y pensé que la misión del poeta era inventar nuevos poemas de lo eterno humano, historias animadas que, siendo suyas, viviesen, no obstante, por sí mismas. Me pareció el romance la suprema expresión de la poesía, y quise escribir un nuevo Romancero. A este propósito responde La tierra de Alvargonzález. Muy lejos estaba yo de pretender resucitar el género en su sentido tradicional. La confección de nuevos roman­ces viejos —caballerescos o moriscos— no fue nunca de mi agrado, y toda simulación de arcaísmos me parece ridícula. Cierto que yo aprendí a leer en el Romancero General que compiló mi buen tío don Agustín Durán; pero mis romances no emanan de las heroicas gestas, sino del pueblo que las compuso y de la tierra donde se cantaron; mis romances miran a lo elemental humano, al campo de Castilla y al Libro Primero de Moisés, llamado Génesis.
Muchas composiciones hallaréis ajenas a estos propósitos que os declaro. A una preocupación patriótica responden muchas de ellas; otras, al simple amor a la Naturaleza, que en mí supera infinitamente al del Arte. Por último, algunas rimas revelan las muchas horas de mi vida gastadas — alguien dirá: perdidas— en meditar sobre los enigmas del hombre y del mundo. )

2016年4月28日木曜日

初刷2300部

1907年からカスティーリャ地方のソリアでの生活を始めたマチャードは、1910年末、それまでに書きためた詩をまとめて「ルネサンス(Renacimiento)」という出版社から詩集を刊行しようと、編集者のグレゴリオ・マルティネス・シエラに最初の原稿を送っています。

しかし編集者は、原稿が十分整わなかったため、1912年4月末まで出版を待つことにしました。

当初マチャードは、詩集を「スペインの地(Tierras de España)」というタイトルにしようと考えていたようですが、最終的には「カスティーリャの野」に落ち着きました。

最後の原稿であったロマンセ「アルベルゴンサレスの地」を1911年にいちおう仕上げ、翌1912年4月半ばごろには印刷、6月には本屋に出回るようになります。

初版は計54の詩篇からなり、198ページ。本のカバーは、秋の樹木と雲の風景が描かれた木版画でした=写真。初刷りは2300部で、売れ行きは好調だったようです。


『カスティーリャの野』の初版は、次のような構成になっています。

最初に「ソリアの野(Campos de Soria)」をテーマにした九つの詩が並ぶ。そして、長大なロマンセ「アルバルゴンサレスの地(La tierra de Alvargonzález)」が10章構成で続く。

さらに「格言と歌(Proverbios y cantares)」として、29篇のコプラ調の短い詩(「全詩集」の1917年版では、24篇に整理されている)が続き、最後に四つの自由詩(「気まぐれ(Humorada)」、「助言(Consejos)」、「信条の表明(Profesión de fe)」、「諧謔(Mi bufón)」)などが並ぶ。

その後の編集でマチャードは次々と内容を拡充して行き、1936年の全詩集の段階では、最初の54篇の詩から123篇にふくれあがりました。

2016年4月27日水曜日

広大なるカスティーリャ!

これまで見てきたように、アントニオ・マチャードはレオノールとの生活の中から、『カスティーリャの野』を生み出しました。これからしばらく、彼の代表的な詩集となる『カスティーリャの野』の構成や特徴について考えていきます。


 「時たま見かけるものとては果てしなく続く平原だけの荒れ地が、何マイルにもわたって続いている。そして平原は小麦の緑色、あるいは刈り田の黄色で彩られる。ゆったりと間をおいて並んでいる厳しい常緑の陰うつな樫の木、あるいは一様な頭をもたげた物悲しい松の単調で重々しい行列が展開される。

時おり、なかば乾いたような貧しい沼、あるいは清澄な川の岸辺に、幾本かのポプラが立ち、それらは果てしない孤独の中で、強く深い根を張る。たいていこれらのポプラは、人間にこう語りかけている。

すなわちあそこには、多くは干乾しれんがで作られた村が平原の中で太陽に向かって広がり、太陽によって焼かれ、氷によってなめされ、青い空の中にその鐘楼のシルエットを描きながら存在する、と。

たいていの場合、背景には山脈の背骨が見えるが、近づいてみると、それははりえにしだとヒースが、折れ曲がった羊歯の上にその黄と赤の花をまき散らしているような、木立ちにおおわれてきびの形をした緑の新鮮な円形の山ではないことが分かる。

それらは、骨ばってごつごつした岩から成る支脈、そそり立つ岩山であり、渇きのために亀裂の生じた地層をむき出しにした、哀れな雑草におおわれた丘である」

 「1898年世代」が探っていた「カスティーリャの野」の姿を、ミゲル・デ・ウナムーノは主著の一つ『生粋主義をめぐって』(En torno al casticismo、1895年)=写真=でこんなふうに描いて、「広大なるカスティーリャ! この空いっぱいに広がる石化した海の物静かな悲しさのまた何と美しいことか!」と叫んでいます。

アントニオ・マチャードの『カスティーリャの野(Campos de Castilla)』は、タイトルの通り、「98年世代」が背負うことになった、こうした「カスティーリャ」に対するマチャードの体験と問題意識が色濃くあらわれている詩集、ということができるでしょう。

2016年4月26日火曜日

不在の妻

きのう見た「夢の会話(Los sueños dialogados)Ⅰ」を、清水憲男さんの論文を頼りに、詳しく読んでみることにします。

詩の中でマチャードは、自らが存在していながら妻は不在であるという、恐ろしい時間的落差を痛感して「私の言葉が呼び覚まされる(Mi parabra evoca)」(2行)、「従順な思い出(al recuerdo obediente)」(5行)といいます。

しかしこれと対照的に、死んだレオノールに対して、「君は見るのか(¿Ves?)」(9行)、「見て(Mira)」(11行)、「妻よ(esposa)」(12行)と3回呼びかけているのです。

最初の2連で、死という、起こってしまった過去の事実が肯定されますがが、マチャードはどうしてもあきらめきれず、彼女に虚しく呼びかけます。絶望的な叫びへの答えはただ「静まりかえった午後(la tarde silenciosa)」だけです。


「ドゥエロが流れる(Tras el Duero)」は、2人がよく散歩をしていた「ドゥエロのほとり(orillas del Duero)」と対応し、「紫色に染まっている(Se amorata)」という表現は、訪れる暗夜、すなわち死に向けての時間的転移を暗示しています。

前半の4行連ではソリアと結びつけられたレオノールの思い出が、後半の3行連では、それを背景にした抗い難い現在が語られます。しかし、この隔たりの間で、ソネットが唐突に分断されてしまうようなことはありません。

2人の堅い結びつきが「私の(el mió)」から「私たちの(el nuestro)」を導き出します。こうしてソネットの前半と後半が結びつきますが、「el mió」と「el nuestro」が別の連に離れて置かれていることによって、バルコニーの共有が崩されてしまった印象をも醸し出します。

そして2人のものでなくなった断絶感の直後に、「¿Ves?」という虚しい問いかけが効果的に響いているのです。

フランス象徴主義詩の影響なのか、最初の3行連の「モンカヨの山脈 白 バラ色(la sierra de Moncayo, blanca y rosa)」には2人の希望を、「炎(incendio)」や「緋色の雲(esa nube grana)」は燃え立つ愛の炎を、そして12行目の「星(estrella)」は2人の宿命を象徴しているのでしょう。

また、たそがれ時の星という取り合わせには愛と死の意味が二重写しになっているともとらえられるし、最後の2行にも空間と時間という二重性を詩の中に潜ませています。詩人としての力量の確かさをうかがわせるマチャードならではの巧みな技法、といえるのでしょう。

こうした点に注目しながら清水さんはこの詩について、次のように指摘しています。

「マチャードは、ある意味では神秘主義詩人に似て、伝達を本来目的とした言語では言い表せない感覚的深みにまで直感を媒介にして自己沈潜してゆき、その成果をありきたりの言葉でさり気なく暗示ないし象徴する。ソシュール用語をもって言い換えれば、表現したい“所記”に相応する“能記”が無いゆえに、あえて直接的能記をあきらめ、黙し、ごく当たり前の単語・構文の微妙な組み合わせを試み、その裏を読者の感受性、解釈力、直感に再度委ねたのである。歴史、文化の重みを秘めた言語の腰の強さ、柔軟性、単語同士の隣接から生まれる相乗効果、緊張などを確信し、それに自らの存在を賭けたマチャードの姿をここに十分見て取ることができる」 。

このようにレオノールの死に対し、詩作によって向きあうことで、マチャードのカスティーリャ体験はひとまず終焉を迎えることになるのです。

それは、「歴史、文化の重みを秘めた言語の腰の強さ、柔軟性、単語同士の隣接から生まれる相乗効果、緊張などを確信し、それに自らの存在を賭けた」と清水さんのいう詩人マチャードが、その創作のピークを迎えた時期でもあったのでしょう。

2016年4月25日月曜日

「夢の会話」

レオノールの死から10年以上たった1924年に出版された詩集『新しい歌(Nuevas canciones)』の中に、「夢の会話(Los sueños dialogados)Ⅰ」 という、最愛の妻を失ったことによる孤独を描いたと考えられるソネットが収められています。


君の姿が高くいっぱいに満たし
現れた!私の言葉が呼び覚まされる
緑の牧草地に乾燥した平原
満開のキイチゴ 灰色の岩
  ¡ Como en el alto llano tu figura
Se me aparece! ... Mi palabra evoca
el prado verde y la árida llanura,
la zarza en flor, la cenicienta roca.

そして従順な思い出 黒いカシ林
川辺のポプラの下 土手は芽吹いている
羊飼いが丘へ登っていく
町のバルコニーが光る:私の
Y al recuerdo obediente, negra encina
Brota en el cerro, baja el chopo al río;
e pastor va subiendo a la colina;
brilla un balcón de la ciudad: el mió,

私たちの。「君は見るのか」 遠く、アラゴンまで
モンカヨの山脈 白 バラ色……
見て 炎 緋色の雲に
el nuestro. ¿Ves? Hacia Aragón, lejana,
la sierra de Moncayo, blanca y rosa...
Mira el incendio de esa nube grana,

そしてあっちの青には星、妻よ
ドゥエロが流れる サンタナの丘
紫色に染まっている 静まりかえった午後
   y aquella estrella en el azul, esposa.
Tras el Duero, la loma de Santana
Se amorata en la tarde silenciosa.

この詩は、スペインの定型詩によくある、1行が11音節(シラブル)からなるエンデカシラボ(Endecasílabo)で、構成する14行のすべてで10番目のシラブルにアクセントがあるパロクシトーン(paroxítono)型です。

押印は、abab-cdcd-efe-fefで、ふたつの4行連は交互に韻を踏む連鎖押印になっている、すっきりと整ったソネットです。この詩については、明日、詳細に検討してみたいと思います。

2016年4月24日日曜日

カスティーリャを去る

この年1912年の6月、きのう読んだ文章の中にあった「旅人よ。そこに道はない。歩くところに道はできる(Caminante, no hay camino, se hace camino al andar)」というフレーズを含んだスペイン人に馴染の深い短詩も入っている3冊目の詩集『カスティーリャの野(Campos de Castilla)』が出版されました。

題名の通り、98年世代が背負うことになった「カスティーリャ」に対するマチャードの体験と問題意識が色濃くあらわれている詩集です。


『カスティーリャの野』は文壇からは絶賛の声が上がったものの、詩集に収められた中には地域の住民からの激しい反発を招いた詩も少なくありませんでした。この詩集については、後に詳しく検討していくことにしたいと思います。

ところで、マチャードの懸命な看病の甲斐もなく1912年8月1日、肺結核に冒されていたレオノールは静かに息をひきとります。マチャードと結婚して3年目。まだ19歳の若さでした。

死の1週間後、マチャードは逃れるようにしてマドリードへと向かい、転出希望の届けを出しています。そして5年間にわたったカスティーリャでの生活から離れ、11月1日付で、やはりフランス語教師としてアンダルシア地方の田舎町バエサに移りました。

マチャードにとって、レオノールという存在なしにソリアにとどまる意味を見いだせなかったのでしょうか。愛するひととの思い出が詰まった地にいることが耐えられなくなったのでしょうか。

それとも詩集『カスティーリャの野』の出版を機に、カスティーリャでの生活に区切りを付けたかったのでしょうか。確かなことはよくわかりません。

2016年4月23日土曜日

レオノールの視線

『アントニオ・マチャードとレオノールの視線』 という絵本では、病気の療養でそれまでずっと家の中で窓を眺めているだけだった2人が、散歩をはじめたときの様子が、次のように描かれています。

 「散歩をしてみたいの」とレオノールはある夜、思いついたように言った。彼女と窓の前に座っていたアントニオは、それがすごくうれしかった。レオノールがはじめてやってみたいことを言ってくれたからだ。


「分かったよ、僕の“宝もの”。あしたいっしょに行こう」とマチャードはこたえた。でも、それには二つの大きな問題があることに気がついた。

第一の問題は寒さからレオノールを守ってやらなければならない。第二に、雨が降ったときのことだ。車いすで歩き回るのは家の中でもかなり大変なのに、泥まみれの道をどうやって進むことができるだろう。

いったい、どこへ連れて行こう?
 
「アントニオ」と彼女はまぶしいような微笑みを浮かべて言った。

「あなたはいろいろ心配してくれているみたいだけど、大切なこと忘れていない」

「何かあったかなあ?」

「あなたは黒いノートに自分で書いているじゃない。《旅人よ。そこに道はない。歩くところに道はできる》って。私たちが望むところを歩いていけば、道になるんじゃない」

こうしてレオノールとアントニオは春が過ぎ去るころ、初めて外へ出かけていった。

「あそこ、見てごらん」

雲の谷間から、微かな太陽の光が差し込んできた。それはちょうど、雨も風もなかった、以前の春を思わせる日ざしだった。

Me gustaría tanto dar un paseo...―dijo Leonor una tarde como tantas otoras en que se encontraban Antonio y ella sentados ante la ventna.
Y él escuchó estas palabras con gran alegría, porque era la primera vez que ella le pedía tal cosa.
―Claro que sí, mi vida, mañana mismo—respondió sin darse cuenta de que tan buena noticia planteaba un problem, o mejor dicho, dos.
 El primer problema era el frío:debería abrigar muy bien a Leonor. El segundo era cómo iba a llevarla a pasear. Ya resultaba bastante problema andar por la casa con silla de ruedas, ¿cómo iban a recorrer los caminos llenos de barro?
 Y, sobre todo. ¿adónde se dirigrían?
―Ay, Antonio—le dijo ella con su maravillosa sonrisa—, tú siempre preocupado por cosas que no tienen mayor importancia. ¿Qué más da dónde vayamos? Tú mismo lo escribiste en tu cuaderno negro,《Caminante, no hay camino, se hace camino al andar》. Dejemos pues que esa el camino el que nos lleve donde él quiera.
Y allí que se fueron Leonor y Antonio en su primer paseo de primavera.
Míralos, por ahí van. Las nubes se han hecho a un lado y brillan ya unos tímidos rayos del sol. Y esos mismos rayos de sol dejan ver ahora algunas cosas que antes no se veían por la lluvia y el viento; como ciertos atisbos de primavera, por ejemplo.

2016年4月22日金曜日

喀血

結婚後もマチャードはソリアで教師を続けていましたが、希望していたフランス語研究のための留学が許され、1911年の年明け早々、幼い妻を伴ってパリへ赴きます。

パリでは、アンリ=ルイ・ベルクソン(1859~1941)=写真、wiki=の講義を受けるなど、充実した日々を送っていました。


ところが、フランスへ渡って半年後の7月14日の夜、レオノールが突然ひどい喀血に襲われます。パリ祭の夜のことでした。

マチャードは医者を求めてパリ中を狂ったように駆けまわりましたが見つからず、ようやくレオノールが病院にかつぎ込まれたのは翌朝になってからのことでした。

マチャードは勉強を中断して妻の看病に当たりましたが、彼女はなかなか快方に向かいません。仕方なくその年の9月、ソリアへ戻って静養させることになりました。

病状に進退がないまま冬を越し、翌1912年の春になって雪もなくなると、マチャードはレオノールを車いすに乗せてよく散歩に出かけました。

当時のマチャード夫妻の様子が可愛らしいイラストで綴られた『アントニオ・マチャードとレオノールの視線』 という絵本(8歳から12歳の子ども向け)が出版されています。

この中で、それまでずっと家の中で窓を眺めているだけだった2人が、散歩を始めたときの様子が次のように描かれています。

2016年4月21日木曜日

ちっちゃな理容師

米西戦争でスペインが敗れた1898年、23歳になったアントニオ・マチャードは初めて詩を発表し、詩人としての第一歩を踏み出しました。

1907年には公立中高等学校のフランス語の教師の資格を得て、同年5月、スペイン北部の古くからある町ソリアに着任式のため赴きました。

スペイン南部のアンダルシアに生まれ育ったマチャードにとって、運命的な初めての“カスティーリャ体験”がここにはじまわけです。

マチャードはいったんマドリードに戻り、正式に就業するために夏休み明けの9月にあらためてソリアに向かいました。同年末、マチャードの2冊目の詩集『寂寞、回廊、その他の詩(Soledades. Galerías. Otros poemas)』が出版されています。

ソリアでのすみかとなった下宿屋の夫婦には、まだ13歳になったばかりの娘レオノール=写真=がいました。マチャードは、20歳近く年下のこの少女にすっかり夢中になります。


そして、しゃれっ気などまったく持ち合わせていない内気な詩人は、彼女との年齢差を気にしながらも、意を決して求婚しました。

このあたりのマチャードの心境が、「汽車(El tren)」という詩の一節にうかがうことができる。

そして、私の愛する女の子
ああ、結婚することができたなら
ちっちゃな理容師と
  ¡Y la niña que yo quiero,
Ay, preferirá casarse
con un mocito barbero!

レオノールは自分の一生をマチャードにささげる決意をします。そして、知りあって2年後の1909年7月末、2人はソリアの教会で結婚式を挙げます。マチャード34歳、レオノールは16歳でした。

2016年4月20日水曜日

オルテガに託す

1898年の敗戦によってスペインは、その真の伝統からも、海外文化からも分離していたことにいまさらながら気がつくことになりました。

そこで彼らはまず真実のスペインを探求しようと、過去のすぐれた古典や民衆文化に目を向け、そこから内省の文学を生みます。と同時に、新しい思考法をヨーロッパに求めていきました。

しかし、激しい民族的な感覚や独自性がそれによって失われることはなく、むしろスペイン特有の文化を世界文化と合流させる方向にむかっていくことになります。

だいぶ先走ることになりますが、こうした中で、マチャードはどのようなスペインを夢見ていたのでしょう。

  しかし別のスペインが生まれる
  のみと槌のスペイン
  民族のがっしりとした過去から成り立つ
  永遠の若さを持ったスペインが
  それは無慈悲で、しかも救いをもたらすスペイン
  報復の斧が手に
  夜明けを迎えるスペイン
  激怒と思索のスペイン

「彼はこのような歴史構造をもったスペイン、一見すると不可能に見えることをその業をもって追求するスペインを夢見た」とエントラルゴはいいます。


そして、マチャードはその夢を、自身よりも8歳若い思想家、ホセ・オルテガ・イ・ガセット(José Ortega y Gasset、1883-1955)=写真、wiki=に託します。

  そして厳格なフェリーペ2世が
  王の墳墓の緑より
  新しい建物を眺めようと顔をのぞかせ
  ルターの信徒たちを祝福せんことを
    Y que Felipe austero
    al borde de su regia sepultura,
    asome a ver la nueva arquitectura,
    y bendiga la prole de Lutero.
  
マチャードは、こんな一節が盛り込まれた短い詩を、『ドン・キホーテをめぐる思索』を書き始めていたオルテガに捧げています。マチャードは、オルテガに影響されたスペイン人たちがすぐれた業績を構築するだろうと、信じていたのです。

その業績というのは、ドイツ的でもプロテスタント的でもなく、まさにスペイン的なものになる。そして、この創造によってスペインは独自の言葉で世界に語りかけるであろう。そうなったとき、フェリーペ2世はスペイン精神の新たな再生を可能にした者たちに祝福を与えるであろう、というのです。

エントラルゴは「スペインの果たしうる使命とは近代人の創造物――知的、政治的、社会的、そして技術的創造物(それらの多くは、プロテスタント的異端の成果の上に直接・間接的に成り立っている)――をスペイン化する、つまりスペイン風に再創造するという仕事であると考えた」 のだと指摘しています。

こうした「1898年世代」の考えは、スペイン人たちに民族的自覚を促したものの、結果的には、それをどう実現するかという具体的な改革者としての立場に立つことはなく、夢想的、観想家的な域を出ることはなかったのです。

2016年4月19日火曜日

カスティーリャ精神

「1898年世代」の思想的な中心であるウナムーノは、彼の主著『生粋主義をめぐって』 でまず、カスティーリャ語がスペインの国語となっていった事実に注意を向けて、スペインにおいて純粋なものはカスティーリャにあるとしています。

カスティーリャは穀物市場の中心地であり、また地理的な中心でもあった。さらに、対外的行動を起こす際には、他の小国家に比べて最も征服者的で帝国的才知に恵まれた国でもあったため、必然的に指導的な地位に就いた。

だから、スペインにおいて純粋なものはカスティーリャの歴史的精神とその言語、文学に求めねばならず、さらにその中から永遠なるものと、かりそめのものを区別せねばならないといいます。


カスティーリャはモーロ人に占領された国土の再征服のため、分立した小国家群を統一し、それらに征服者の統一主義と世界のカトリック化の思想を鼓吹していきました。

これらの思想によって他の小国家群はカスティーリャ化されていった。カスティーリャはグラナダを占領し、アメリカ大陸を見つけ、征服者精神は絶対主義を生んだわけです。

カルロス1世はスペインと他のヨーロッパ諸国が協定を結ぶことによって、国内の統一を促進しようとしました。16世紀初頭には、ユダヤ人を追放し、宗教改革の嵐に対しては正教の保塁となります。

こうした激しい外的活動の後には、内的な思考の活動も活気づきました。外的行為をその母胎である内面的精神に還元しようとしたのです。

外的事業のカスティーリャ精神への反映は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』に代表される黄金世紀の文学に典型的に見られるのです。

2016年4月18日月曜日

純潔で真正なるカスティーリャ

伝統にしばられて死んでゆく伝統主義者、それに伝統を否定しながらも何ら変えようとせずに欠伸をするだけの進歩主義者たち。

こうした「二つのスペイン」に対して「1898年世代」は、どのように割って入ろうとしたのでしょう。

エントラルゴはさらに次のように指摘しています。

「98年の世代は、このどちらの一方に対しても各自それぞれの流儀で、またそれぞれ異なった正確さをもって、新しい伝統主義、つまり初期時代の、もしくは中世の伝統主義を考え出した。彼らはカルデロンの伝統にはベルセオやホルヘ・マンリーケのそれを対立させ、近代の叙事詩にはロマンセーロを、そしてフランシスコ・デ・ロハスにはイータの僧正を対立させるであろう。

要するに98年の世代の作家たちはみな、独創的で純粋なスペインを夢見、そしてその存在論的条件の命ずるままに、人間――歴史的であり、したがって伝統的な存在たる人間――が有する、避けられない「過去の必然性」の支えをそこに求めたのである。

ここで問題になっているのは、歴史の王国に先立つ自由の王国というヘーゲル的な夢であり、そしてウナムーノが初期時代のカスティーリャのヴィジョンをこの架空の王国と同一視するのも偶然ではない。アントニオ・マチャードがサンルーカルで、泥水となってゆっくり流れるグアダルキビール河を眺めて歌ったことは、彼ら全員についても言える。

  緑なす松の根元の
  泡立つ澄んだ水よ
  お前は何と快い音を立てていたことか!
  しかしいま海辺に近く塩からい
  泥河となって、私のように
  お前は故郷の泉を夢見ているのか?
  
カスティーリャ、すなわちベルセオやイータの僧正の初期カスティーリャは、98年の世代の夢想家たちにとってはスペイン史の源泉であり、暁の清純と喜びをもって歌う、泡立つ澄んだ水であった。この純潔で真正なるカスティーリャこそ、98年の世代の人々が周囲の誇大表現から逃れようとして、初期時代の人々の素朴さと自然さを選んだときに密かに求めたものなのだ。」


「98年世代」は、いたずらにカトリシズムなど前時代の古いものから離反しようとしていたわけでも、単に伝統を全面的に否定する進歩主義者でもなかったのです。

「スペイン史の源泉であり、暁の清純と喜びをもって歌う、泡立つ澄んだ水」すなわち、昔からスペインの不変なものとしてある「純潔で真正なるカスティーリャ」を見いだそうとしました。

そして彼らは、文学の社会的性格、すなわち文学の使命の一つである、社会を啓発するための文学を持つべきであると強調しました。

何かを求めるためには、現実をじっくりと見据える必要がある。その現実把握の手段として、目の前にある町や風景を克明に写し取る。そして過去、現在を批評し、そこからスペインのよき伝統、本来の良さをくみ取り、外国の知識を吸収しながら自分たちの国を再発見していく。

こうして得られたものから、正しいことは正しいと受け入れ、間違っていることに対してはあくまでも抗議して、社会の人々に伝えていく。彼らは、そんな使命を感じていたのでしょう。

2016年4月17日日曜日

二つのスペイン

後に「1898年世代」と呼ばれるようになった彼らは、幼少時から多かれ少なかれ、カトリックの信仰や慣習化した実践の中で堅固な教育を受けました。

しかし、そうしたカトリシズムへの帰依は、心からのものでも知的に啓発されたものでもありませんでした。当時のカトリック世界と自称する世界は、社会的、知的、芸術的な模範性をまったく欠いていました。

信仰を得ようともしない極めて弱い及び腰の宗教心は、人間的支えにはほとんどなりません。

慣習化したカトリシズムの中で宗教性という支えを欠き、知的で感受性が強く、効果的で輝かしい生を望むこれらの若者たちは、ついに幼いころの受身の信仰から、カトリックのあらゆる規則的な実践からも離反することになります。

スペインの19世紀の歴史は、伝統主義者を自称するスペイン人と、それを全面的に変革しようとした、自らを進歩主義者と呼ぶスペイン人とのあいだの言葉、さらには武器による闘争の中にありました。

17世紀の伝統(生粋の伝統)に立てこもった伝統主義者たちは、歴史的に現在に生きる術を知らなかった。そして、そうありたいとも望まず、そうあることもできなかったのです。

一方、伝統を全面的に否定する進歩主義者たちは懸命に“擬態”を装い、歴史的にスペイン人である術を知らなかったし、そうありたいとも望まなかった。エントラルゴはそんなふうにみています。


マチャードの『カスティーリャの野』にこんな詩があります。

  生きたいと望み、また生き始めた
  ひとりのスペイン人がいる
  死に行く一つのスペインと
  欠伸するもう一つのスペインとのあいだに。
  この世に出た若きスペインよ
  神が守りたまわんことを
  二つのスペインのうちの一つが
  君の心を凍らせるにちがいない。
  Ya hay un español que quiere
  vivir y a vivir empieza,
  entre una España que muere
  y otra España que bosteza.
  Españolito que vienes
  al mundo, te guarde Dios.
  Una de las dos Españas
  ha de helarte el corazón.

2016年4月16日土曜日

「98年世代」

それでは「1898年世代」とは、そもそもどういう性格の人々で、どんな主張をもっていたのか。「98年世代」に関する古典的な書とされるP・ライン・エントラルゴの『スペイン1898年代の世代』(La generación del noventa y ocho, 1967)=写真=をもとに、「二つのスペイン」という視点から整理しておきましょう。


「98年世代」についてエントラルゴは「1890年から1905年のあいだに、その自我ならびにスペイン的意識に目覚め成熟した人たちである」として、次の人々をあげています。

「ミゲル・デ・ウナムーノ、アソリン、アントニオ・マチャード、ビオ・バロッハ、バーリェ・インクランおよびメネンデス・ピダルらと相前後して、アンヘル・ガニベット、ラミロ・デ・マエストゥ、ハシント・ベナベンテ、イグナシオ・スロアーガ、マヌエル・マチャード、アルバレス・キンテーロ兄弟、マヌエロ・ブエノ、シルベリオ・ランサ、それにカスティーリャの印象派画家ダーリオ・デ・レゴヨスを加えてもよかろう」 。

思想家、作家、詩人、画家、ジャーナリストなど、当時のスペインを代表する知識人たちが並んでいます。同じ時代に生きた彼らは、同じような危機感をもって立ち上がり、思想や理想も共通していました。

エントラルゴは、若き日の「98年世代」のほとんどが「ヨーロッパ的」かつ「近代的」な読書体験から刺激を受けることによって、その魂の奥深くに、高遠な精神と積極的な有効性を備えた「いわくいいがたい大望」を抱いていた、としています。

  ……夏の明るい午後
  家族の居間で
  私が夢みはじめた
  初めての倦怠

「1898年」の20年あまり前に生まれたアントニオ・マチャードも、神秘的なものを詩的に表現する無垢な詩人の精神で「夢みはじめ」ていたのです。

シェイクスピア、モンテーニュ、ヘーゲル、バルザック、レオパルディ、スタンダールらの作品の中に脈打っている人間たちの芸術、思想、そして生そのもの。こうした読書体験によって彼らは、近代ヨーロッパ的な精神を身に着けていきます。

一方で、歴史的な魅力がまったく消え失せた当時のスペインとの無味乾燥な触れ合いもそこにはありました。これらが彼らの魂に同時に働いて、「正統カトリックからの明らかな離反」という一つの類似した反応を決定的なものにしたのです。

2016年4月15日金曜日

1896年にマドリードにやって来た作家たち

これまでに繰り返してきたように、アントニオ・マチャードは、スペイン「1898年世代」の詩人と位置づけられています。

ところで、これまで当たり前のように使ってきた「世代(la generación)」という概念は、いかなるものなのでしょう。

そもそもをたどっていくと、D・ガブリエラ・マウラ(D. Gabriela Maura)が1908年、オルテガ・イ・ガセット(Ortega y Gasset)との論争の中で、「惨敗のあとに知的に生まれた(nacida intelectualmente a raíz del desastre)」「世代(la generación)」として使われたところに行き当たるようです。

「desastre」とは、もちろん「1898年の敗戦」のことです。


「La generación del 98」という言葉は、1910年に書かれたアソリン(Azorín、本名José Augusto Trinidad Martínez Ruiz、1873-1967)=写真、wiki=の随筆「二つの世代(Dos Generaciónes)」の中に登場してきます。

この随筆でアソリンは、1896年にマドリードにやってきた作家志望の若者グループと、1910年ごろの好色文学など、いわゆる通俗作家グループを取り上げて、それら二つの世代の違いを検討しています。

それによると、1896年にマドリードやってきた若者たちは「芸術への深い愛、前時代の“形式”に対する抗議と独立への熱望」を持ち、「無視、理想、大望、物質的なものではない何かを求めて戦い、芸術、政治に純粋な客観性を示す少し高尚な何かのために戦い、変革、向上、完成、高揚へのあこがれがきわだっていた」としているのに対して、1910年ころの作家は「最も低級で、激しいエロティズムに極めて大胆に身をまかせている」と嘆いています。

アソリンが1896年の作家グループとして取り上げているのは、インクラン、バロハ、マエツ、ウナムーノ、ルベン・ダーリオ。これら1896年にマドリードにやって来た作家たちを、後になぜか「98年代」と呼ぶようになったのです。

アソリンが1913年に出した4編の随筆から「1898年代」について述べている箇所を拾い上げた古家久世は、「敗戦が一つの刺激となり、今まで底流していた物の具体化が促された事は事実であるが、1898年の敗戦が唯一の契機でない事を、アソリンははっきりと認識している。しかし、彼は歴史上、記憶に値する日付、1898年にちなんで、La generación del 98、98年の世代と命名したのだと解釈しうる」 と推測しています。

2016年4月14日木曜日

カトリシズムの勝利

20世紀を迎える時点になると、資本家階級と労働者階級との、あるいは寡頭制的なカシキスモ(各政党に属するカシーケと呼ばれる地方名望家・政治的ボスに依拠した政治システム)と大衆的な民主主義との慢性的な抗争状態の中で、スペインの教会は、はっきりと資本家側、カシキスモ側に立つことになります。

これ以後、国家は聖職者を経済的に支えなければならなくなったうえ、教育を全面的に教会に委ねてしまうことになるのです。

スペインは、近代的国民を育てて市民精神を形づくる原動力になるはずの機関を、みすみす手放してしまったわけです。

そして、内戦の勝利によりカトリック的なスペインは、“その他のスペイン”を圧倒する勝利を手に入れ、カトリシズムは再び公式の国家宗教となります。


フランコ体制の制度的、イデオロギー的な主柱はカトリック教会でした。フランコ(Francisco Franco y Bahamonde、1892-1975)=写真、wiki=自身、内戦は、彼が大きらいだったフリーメーソンやフランス百科全書とその近代的派生物――すなわち自由主義、資本主義、社会主義――に対する十字軍であったと宣言しています。

「スペイン史の展開においてユニークなのは、まず、スペイン内戦においてカトリックの反動的な有機体説が近代的な世俗主義に勝利したことである。次に、スペインにおいては〈古代〉と〈近代〉との間の長引く宗教的・政治的抗争が、カトリックのヒスパニック的なスペインと、リベラルなヨーロッパ化されたスペインとの間の文明的な抗争という形態をとった、という事実である」 とカサノヴァは指摘しています。

カトリック的、ヒスパニック的なスペインと、リベラルでヨーロッパ化を目指すスペイン。

これら隔絶した「二つのスペイン」が対立しあう場は、マチャードら「1898年世代」の知識人たちによるスペイン再生に向けた取り組みに対しても、大きな障壁として立ちはだかることになるのです。

2016年4月13日水曜日

宗教的十字軍

教会は、ナポレオンの侵略に対抗してスペイン人民を動員するにあたり、決定的な役回りを演じました。

1808年に起こった独立戦争では、地域的にはほとんどの場合、ゲリラ司祭に率いられ「不敬なサタンの軍勢」に対する宗教的十字軍として戦われました。

カトリック信仰とスペイン国民を同一視する伝統は、これによって強化されることになったのです。

スペインは近代において、三つの内戦を経験します。第1次カルリスタ戦争(1833~39)=写真、wiki=、第2次カルリスタ戦争(1872~76)、そして世界大戦のきっかけにもなったスペイン内戦(1936~39)です。



これらはすべて、反近代的な対抗革命運動として始まり、のちに戦闘準備を整えたカトリック教会によって、神なきリベラリズムや無神論の共産主義に対する宗教的十字軍として聖別されることになります。

ところで、フランス軍がスペインから撤退した1813年、教会の高位聖職者と田舎の聖職者は、異端審問所を解消する企てに反発し、フランスの侵略者に向けていた非難を、身内の異端というべき“リベラルなフランスびいき”に対して発するようになります。

すなわち、カトリック国スペインが、リベラルなスペインに向けて「宗教的十字軍」を起こしたことになります。

こうしてカトリック的でヒスパニック的なスペインが、リベラルでヨーロッパ化したスペインと対立する「二つのスペイン」 という現象が生じるわけです。

2016年4月12日火曜日

スペイン・カトリシズムの変遷

きのう見たように、反近代的な公共宗教の典型だったといえるであろうスペイン・カトリシズム。

それは、カトリック両王の時代からマチャードら「1898年世代」が登場する時代までの間にどのように位置づけられ、スペインという国をどう動かしていったのでしょう。

ここでは、「脱私事化」などユニークな概念を用いて近代社会における公共宗教の諸相を分析した、ホセ・カサノヴァの力作『近代世界の公共宗教』 をよりどころに探ってみます。


この本では、スペイン、ポーランド、ブラジル、合衆国の四つの地域におけるカトリシズムとプロテスタンティズムの宗教的伝統を事例にあげて論じています。

その中でスペインのカトリシズムは、公認された独裁主義的な国家宗教から多元的な市民社会における非公認教会への変容ぶりが、当面の問題として取り上げられています。

同書によれば、カトリック王を戴く近代初期のスペイン国家の形成によって教会と国家が一体化することで、スペインのキリスト教がいわゆる「戦闘教会」に変容したとされます。

遅ればせに導入された異端審問所(1481年)は国家形成の機能を果たすことになり、国民的な、統一された最初の国家機関となった。

ユダヤ、イスラム教徒、ムーア人たちはスペインから排除されたものの、それは下からの民の圧力と上からの宗教的動員というパターンで起こったというのです。

戦闘教会は、地中海やアジアではイスラム教と、アメリカでは異教徒と戦い、ヨーロッパでは異端者と戦いつづけました。

こうしてスペインは、台頭するヨーロッパ諸国から孤立。王国と教会は、政治と宗教の統一という目的を共有してはいたものの、ヨーロッパを舞台にこれを力ずくで維持することには失敗します。

そのため、支配の及ぶ領土内で、普遍主義的なカトリックの理念を保存せざるを得なくなったのです。

2016年4月11日月曜日

キリスト教による統一

ここまでマチャードの青年期までをたどってきましたが、ここで再びスペインの歴史のほうに目を転じます。マチャードの母国スペインはもともと、カトリック両王=写真=によって成立されたとされました。

カトリック両王とは、アルゴン王フェルナンド2世(在位1479~1516)とカスティーリャ女王イサベル1世(在位1474~1504)の2人の通称です。


カトリック王の称号は、イベリア半島最後のイスラム国であるグラナダを征服したのを讃えて、ローマ教皇アレクサンデル6世からおくられました。

スペインの歴代の王はその後もしばしば「カトリック王」と呼ばれることになります。新体制の柱になったのは「カスティーリャ」でした。

両王は一貫して王権の強化と優位確立を追い求め、巧みな均衡に乗った強権政治を進めていきます。

国土回復戦争の完結を意味することになるグラナダ王国の征服、近代史の幕開けを告げるアメリカ大陸という「新世界」との遭遇。

両国のヨーロッパへの回帰につながるイタリア南部の支配強化など、スペインだけでなく、その後の世界史をも決定づけるような政策がいずれも成功裏に運ばれることになります。

両王は、新体制の基盤をキリスト教による信仰の統一に置きました。このため中世以来の伝統を破り、ユダヤ教徒やイスラム教徒に、改宗か国内退去かの選択を迫りました。

さらに、高位聖職者の一部の協力を得て、いち早く教会の刷新を進めます。これによって、後にドイツやフランスで起こったプロテスタント革命による混乱を避けることができたのです。

しかし一方で、キリスト教による信仰の統一のもとに歩むことになったスペインでは、カトリシズムが何世紀にもわたって、近代のさまざまな領域における世俗化や近代化のプロセスを妨げることになります。

原則的で根本主義的な、そして無益な抵抗運動は、資本主義や自由主義、近代世俗国家、民主主義革命、社会主義などと戦ったのです。スペイン・カトリシズムは、反近代的な公共宗教の典型だったといえるのでしょう。

2016年4月10日日曜日

「魂の美しい人」

ルベン・ダーリオ(Rubén Darío)に限らず多くの友人たちが、深い静けさを秘めたマチャードの誠実さをたたえ、同時にユーモアを解する愛すべき人柄であると指摘しています。


1898年世代の代表的思想家ミゲル・デ・ウナムーノ=写真、wiki=は、

「彼は身なりは構わなかった。だが、私の知る全ての人の中で最も魂の美しい人であった。(hombre más descuidado de cuerpo y más limpio de alma de cuantos conozco.  )」

と、外面からは想像もつかないマチャードの内面の美しさを見て取っていました。

ウナムーノが言うとおり、マチャードは服装や外見にはいっこうに頓着しませんでした。華やかさには欠けましたが、女性の愛を受け止めないような無粋な輩でもありませんでした。

いわば女たちのマニャーラでも ブラドミンでもなかったのだ
―間抜けなこのなりは君らが知っている―
しかしクピートの放った矢には傷ついて
ご婦人方のあだおろそかにせぬものの 一切を愛しむ僕だった
Ni un seductor Mañara, ni un Bradomín he sido
-ya conocéis mi torpe aliño indumentario-,
mas recibí la flecha que me asignó Cupido,
y amé cuanto ellas pueden tener de hospitalario

前にあげた詩「肖像」には、こんな一節もあります。とはいえ、マチャードは冷たい大都会での生活には馴染めなかったようです。

1902年、グァテマラからパリに引き上げてきた弟のホアキンとともにフランスを去り、地方の学校の一介の教師としての生涯を歩み始めます。

また、この年、第1詩集『孤独(Soledades)』を出版しています。

2016年4月9日土曜日

ルベン・ダーリオとの出会い

米西戦争の惨敗という国家的一大事は、青年マチャードの内面深くに衝撃を及ぼし、生涯の文学的方向を決定したといっていいでしょう。

翌1899年、マチャードはパリに赴き、すでに滞在していた兄のマヌエルとともに、ガニュエル出版(Casa Ganier)の文学作品の翻訳の仕事に携わります。

そして、文人たちのたまり場だったラテン街のホテルに4カ月間住み込み、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)、ポール・フォルト(Paul Fort)、バロハらと知り合いになります。


1902年には、ゴメス・カリジョ(Gómez Carrillo)が代理領事をしていたグァテマラ領事館の書記として再びパリへ行き、敬愛するルベン・ダーリオ(Rubén Darío)=写真、wiki=に会っています。

ルベンが、この時に会った若い詩人の印象から、その内に秘められた深い精神性を感じていたことは、次の詩「アントニオ・マチャードに祈る(Oración Por Antonio Machado)」 にもうかがえます。

神秘的な沈黙
いくども投げかけた
彼の視線は これまで目にしたことのないほどの
深いところまで達している
ひとことひとことが
ときに内気で ときに激しく
そこには思索の明かりがともる
いつも燃えたぎるような
輝くと深みにあった
慎み深く信仰をする人のように
1000レオーネの羊飼いであり
子羊でもある
嵐を招きそうでもあれば
蜂蜜の菓子を持参しそうでもある
驚くべき人生を
愛を 喜びを
深い詩句で歌った
その秘密は彼の内側に秘められている
たぐいまれな天馬に乗って
奇跡的な1日へと向かう
アントニオへの願いは神々への願い
神々よ救いたまえ アーメン
Misterios y silencioso
Iba una y otora vez.
Su mirada era tan profunda
que apenas se podía ver.
Cuando hablaba tenía un dijo
de timidez y de altivez.
Y la luz de sus pensamientos
Casi siempre se veía arder.
Era luminoso y profundo
Como era hombre de buena fe.
Fuera pastor de mil leones
y de corderos a la vez.
Conduciría tempestades
o traería un panal de miel.
Las maravillas de la vida
y del amor y del placer.
Cantaba en versos profundos
Cuyo secreto era de él.
Montado en un raro Pegaso,
un día al imposible fue.
Ruego por Antonio a mis dioses,
ellos le salven siempre. Amén.

2016年4月8日金曜日

決して味わうことのなかった青春

1898年、マチャード兄弟は、懐かしいグラナダやセビリアを旅行し、生まれ育ったラス・ドゥエニャスの館も訪れています。それは、スペインが米西戦争に惨敗し、すべての植民地を失った屈辱的な年でもありました。

物質的にも精神的にも弛緩し、衰退の途をたどってきたスペインの結末でした。このスペイン惨敗の年、マチャードは「1898年世代」としての活動の原動力ともなる「決して味わうことのなかった青春(Juventud nunca vivida)」を送らざるを得ないという、宿命を自覚することになりました。


幼い日に思いをはせた次の詩は、そんな時代状況が色濃く反映しているといえるでしょう。

春がキスをする
柔らかく 木立に
新たな緑が芽吹く
もくもくとあがる煙のような緑
雲が過ぎ去っていった
若々しい野の上を
私が震える葉のなかに見た
冷たい4月の雨
花盛りのアーモンドの木の下
花でいっぱいになった
-想い出-を私は呪った
愛のない青春
人生の途上にあるいま
思い巡らすことはやめさせられた
青春は生きてはいない
誰がふたたび夢を見られよう!
La primavera besaba
Suavemente la arboleda,
y el verde nuevo brotaba
como una verde humareda.
 Las nubes iban pasando
sobre el campo juvenil...
Yo vi en las hojas temblando
las frescas lluvias de abril.
 Bajo ese almendro florido,
todo cargado de flor
-recordé-, yo he maldecido
mi juventud sin amor.
    Hoy, en mitad de la vida,
me he parado a meditar...
¡Juventud nunca vivida,
quién te volviera a soñar!

当時のスペイン全体の精神的状況について「1898年世代」の作家の1人、ピオ・バロハ(Pío Baroja)=写真=は、次のように記しています。

「民衆の生活のほとんどすべての秩序が拒まれた。この時代、リベラルな言動をする大半は私的な生活や文学の中に避難していた。(Rechazados en casi todos los órdenes de la vida pública, los jóvenes de profesiones liberales de este tiempo tendieron en su meyor parte a refugiarse en la vida privada y en la literatura. )」。

2016年4月7日木曜日

父の死

アントニオが成長していく間、父のアルバレスは近代的な民俗学を起こすために献身的な努力を続けていきました。

1878年に英国・ロンドンで世界初の民俗学会が設立されると、アルバレスはすぐに同じような学会をスペインでも作ることを決意します。

1881 年には、ドイツ出身の言語学者フーゴー・シューハルト(Hugo Ernst Mario Schuchardt、1842-1927)=写真、wiki=らの協力で、スペイン民俗学会に当たる「エル・フォルクローレ・エスパニョール(el folclore español)」を創設しました。


1881年11月には、「スペイン民俗学の組織的基盤」を発表。1882年には「エル・フォルクローレ・アンダルス(El Folklore Andaluz)」を設立し、各地に学会を作っていきました。

その後、アルバレスは経済的に逼迫し食べていけない苦境を脱するため、アメリカ大陸のプエルトリコ・ポンセへ財産登記人として単身、出稼ぎに行きます。1892年のことです。

ところが1年も経たずに病気のため帰国、セビリアへ戻ったものの、1893年2月に亡くなってしまいます。息子たちは、父の死に目に会うことはできませんでした。

アルバレスの死は、スペインの民俗学にとって大きな痛手となりました。アルバレスの死後、スペインの民俗学は衰退し、前にも触れたようにスペインではいまも、学問の一分野としてみなされていないに等しい状況にあります。

もちろん当時のアントニオら家族たちにとっても、その死の衝撃には計り知れないものがあったに違いありません。父の死が契機となって、マチャード兄弟のボヘミアン的な生活が始まります。

踊り手として知られたドーニャ・ビクトリア・ミネリ(Doña Victoria Minelli)の集まりに顔を出したり、自由教育学院の教授で言語学者のエドアルド・ベネット(Eduardo Benet)の主宰する政治や詩を論じる会に出入りしたり。

マチャードの演劇熱が高まったのもこのころで、劇団に所属して端役を演じたりもしています。さらに1895年、祖父が没すると窮乏はさらに深刻になり、叔父のいたグァテマラへ渡るという夢も消えていきました。

2016年4月6日水曜日

自由教育学院

1883年、祖父がマドリード大学の教授に任命されたのを機に、マチャード一家はセビリアを後にしてマドリードに移り住みます。このときアントニオは8歳でした。

「私の生まれた町の記憶は、すべて子供のときのままだ。というのも、生まれて8年経つと、父の転勤でマドリードに移ったからだ。そして自由教育学院で、教育を受けた。先生たちの強い愛情によって育てられたことに深く感謝している。私の思秋期や青春時代はマドリードにあった。(Mis recuerdos de la ciudad natal son todos infantiles, porque a los ocho años pasé a Madrid, adonde mis padres se transladaron, y me eduqué en la instituición Libre de Enseñanza. A sus maestros guardo vivo afecto y profunda gratitud. Mi adolescencia y mi juventud son madrileños.)」 とマチャードは後に回想しています。

マドリードで祖父や父は多くの知識人たちと知り合い、交際の輪が広がっていきます。その中には、自由教育学院の創立者のギンター・デ・ロス・リオス(Francisco Giner de los Ríos、1839-1915)=写真、wiki=や、その後継者たちもいました。


自由教育学院は、教会の手によらない自由で学問的な教育を一般市民に施すことによって、最終的には社会を革新する原動力を育てることを目標とした学校です。

リオスをはじめ、当時のスペイン文部省の保守的でカトリック思想に基づいた教育方針に批判的な大学や中・高等学校の教師たちによって1876年に設立されました。

兄のマヌエルとともに1883年、この自由教育学院に入学しました。2人の精神形成のうえで、この学校は、計り知れない意味合いを持つことになります。

その詳細は、また別の機会に検討するとして、1900年、アントニオは高等学校卒業にあたる「Bachiller」の資格を得ています。

ところでアントニオは、こうした少年時代に見つめていた父親の姿を、詩集『新しい歌(Nuevas Canciones)』にあるソネットで、次のように描いています。


これはセビリアの灯 館
泉のざわめきとともに 生まれたところ
書斎には私の父 背が高い
短いあごひげ ぴんと張った口ひげ
Esta luz de Sevilla...Es el palacio
Donde nací con su rumor de fuente.
Mi padre, en su despacho.-La alta frente.
La breve mosca, y el bigote lacio-.

父はまだ若い 本を読み 書き ページをめくる
そして想いを巡らして 起き上がる
庭に通じるドアを開け 渡る
ときどき独り言 時に歌う
Mi padre aún más joven. Lee, escribe, hojea
sus libros y medita. Se levanta;
va hacia la puerta del jardín. Pasa.
A veces habla solo, a veces canta.

大きな目で心配そうに見つめる父の視線
いまはあてなく さまよう
空の中 目を置けるところに
Sus grandes ojos de mirar inquieto
Ahora vagar parecen, sin objeto
Donde pueden posar, en el vacío.
  
きのうから明日へと逃げてゆく
あの日に見た 私の父よ!
情け深い 私の白髪頭
Ya escapan de su ayer a su mañana;
Ya miran en el tiempo, ¡padre mío!
Piadosamente mi cabeza cana.

2016年4月5日火曜日

「幼い日の想い出」

アントニオは1881年になると、アントニオ・サンチェスの小学校(colegio)に通うようになります。

次にあげるのは、マチャードの第1詩集『孤独(Soledades)』の「幼い日の想い出(Recuerdo infantil)」という詩です。

スペイン人たちが最も口ずさみやすいといわれるオクトシラボ(octosílabo、8音節)の韻律に乗って、当時の様子が生き生きと描かれています。


真冬の 暗くて寒い
午後も 生徒たちは
勉強です 窓の外の
退屈な 雨だれの音
教室の中 掛け図の
逃げていく カイン
死んでいる アベル
そのわきの赤いしみ
枯木のような身体に
粗末な服 年とった
先生が 本を片手に
大声を張りあげると
みんなは声を揃えて
学課の暗誦をします
千カケル百ハ 十万
千カケル千ハ 百万
真冬の 暗くて寒い
午後も 生徒たちは
勉強です 窓の外の
退屈な 雨だれの音

Una tarde parda y fría
De invierno. Los colegiales
Estudian. Monotonía
de lluvia tras los cristales.
 Es la clase. En un cartel
se representa a Caín
fugitivo, y muerto Abel,
junto a una mancha carmín.
Con timbre sonoro y hueco
truena el maestro, un anciano
mal vestido, enjuto y seco,
que lleva un libro en la mano.
Y todo un coro infantil
va cantando lección:
《mil veces ciento, cien mil;
mil veces mil, un millíon》 .
Una tarde parda y fría
de invierno. Los colegiales
estudian. Monotonía
de la lluvia en los cristales.

2016年4月4日月曜日

ジャコバンの血

アルバレスとアナとの間にはマヌエル、アントニオを含めて5人の息子がいましたが、彼らは親戚のアグスティン・ドゥラン(1789~1862)==写真、wiki=が編んだ「ロマンセーロ(民謡集)」を、声に出して繰り返し読んで聞かせたといいます。

後に詳しく見ますが、ロマンセは8音節の韻文で書かれているスペインの民謡で、ロマンセを集めたものがロマンセーロ(民謡集)です。


16世紀に入ってから民謡を集大成しようとする気運が高まり、様々な民謡集が編纂され、出版になりました。中でも特異な位置を占めるのが、ルカス・ロドリゲスの『物語民謡集』でした。

このロマンセーロの特色は、単に作者不詳のロマンセを集めただけでなく、それをもとにしてロドリゲス自身が注釈に該当する詩を添えるなどして手を加えた民謡集になっているところにありました。

こうした作品などに注目しながら、ドゥランは「ロマンセーロ」をまとめあげたのです。

さて、このあたりで誕生後のアントニオ・マチャードのほうに話を戻しましょう。マチャードの代表詩集『カスティーリャの野(Campos de Castilla)』の冒頭の詩「肖像(Retrato)」は次のようなフレーズから始まっています。

僕の幼年時代はセビーリャの中庭の想い出
またレモンの熟れて明るい果樹園のそれだ
Mi infancia son recuerdos de un patio de sevilla
y un huerto claro donde madura el limonero;

マチャードの生涯は、陽光の降り注ぐ大きな館の庭園で、揺り椅子に腰を下ろした母の胸に眠り、終日そこで遊んでいる甘美な記憶とともにはじまります。母の大きな慈愛は、その豊かな感受性の源泉となったのでしょう。

そして、このアンダルシアの庭園の鮮やかな色彩とふくいくたる香りは、詩人の心に深く刻み込まれました。子守歌として聞いた噴水のつぶやきは、彼の脳裏に深く刻まれたらしく、後に繰り返しうたわれることになるのです。

この血管を流れているのはジャコバンの血
だが僕の詩は清らかな泉から湧きあがる
Hay en mis venas gotas de sangre jacobina,
pero mi verso brota de manantial sereno;

そして、マチャードの詩人としての素養は「中庭」の母の大きな愛に加え、こうした「館」に集うジャコバン(急進改革派)的な知識人たちとの刺激的な交わりの中で培われていったのです。

2016年4月3日日曜日

「1868年世代」の祖父

アントニオの父“デモフィロ”の、きのう見たようなユニークで先取的な学者気質は、その父から受け継いでいたようです。

マチャードの祖父にあたるアルバレスの父アントニオ・マチャード・ニュネス(1815~1896)=写真、wiki=は、活動的な自然科学者でした。


イパレンセ大学教授として、人類学や動物学を研究。1868年に起こった9月革命によってイサベル2世はフランスへ亡命し、それまでの厳しい検閲などから開放されて自由な表現が可能になりました。

ニュネスは9月革命のとき、セビリアの革命委員会の中心人物として戦いました。「1868年世代」と呼ばれる、革命で活躍した一群の作家や知識人の1人でもあります。

父デモフィロの影響でマヌエルやアントニオも、フラメンコをはじめ、スペイン独自の民謡や伝承に興味を持って育ちました。

事実、2人ともアンダルシアの情趣を映した多くの詩を残していますし、マヌエルには前述のソレアに手向けた賛辞としてこんな一篇もあります。

ソレアレスの歌は
奥深い心のうた
奥深いうた
うたのなかの女王
民衆の歌の母
泣け たぐいなきうたよ
おまえの調べを……
わたしのうつろな心のうちに
きこえてくる、太弦にひびく
「深き淵より」の祈りが……
泣け うたよ
Canto de Soleares
hondo cantar del corazón
hondo cantar.
Reina de los cantares.
Madre del canto popolar.
Llora tu son,
Copla sin par.
Y en mi vacío corazon
Se oye sonar
el “de profundis” del bordón...
Llora, cantar.

2016年4月2日土曜日

フラメンコの発掘

浜田滋郎の労作『フラメンコの歴史』によると、たとえば、フラメンコの歴史に名をとどめた最古のカンタオール(フラメンコの歌い手)を発掘したのも“デモフィロ(民衆を愛する者)”と呼ばれたアントニオの父アルバレスです。

そのカンタオールは、ティオ・ルイス・エル・デ・ラ・フリアーナ(ラ・フリアーナのルイスとっつあん)と呼ばれていました。ワインの町、ヘレスで18世紀に活躍した人物です。

デモフィロがアンダルシアの町村を訪ね歩いて民謡を採集していたとき、土地の古老から何十年か前に活躍していたフリアーナが、カンタオールとして仲間うちに記憶されている最も古い名であることを明らかにしたのです。


デモフィロは自著『フラメンコ歌謡集成(Colección de Cantes Flamencos) 』=写真=の中で、この古老について「彼は18世紀末のカンテ・フラメンコの王者であり、ポロ、カーニャ、セギディーリャ・ヒターナ、リビアーナ、トナなどに関するきわだった知識を持っていた」という意味の記述をしています。

また、デモフィロは、ソレアと呼ばれたカンテ・フラメンコの代表的な曲種で、現在よく知られた次のコプラ(短詩)も発掘しています。

心からいとしいソレア
夜は お前が恋しい
昼も お前が恋しい
Soleá del alma mía,
tanto te quiero de noche
como te quiero de día.

しかし、このような民俗学の隆盛は、残念ながら長くはつづきませんでした。

「スペイン国内でも南部(アンダルシア地方とエストレマドゥーラ地方)に限られており、また、その期間も短いものであった。1893 年にアルバレスが亡くなると、活動の中心はマドリッドに移るが、その活動内容は各地に送る質問表の作成に限定されていく」( 第842回 日本民俗学会談話会「“地域学”としての民俗文化研究―スペインの民俗学、民族学、人類学」)。

それだけにいっそうアルバレスの業績は高く評価できるでしょうし、フランコ独裁政権後のスペイン民族学・人類学に大きな影響を与えるものだったのです。

2016年4月1日金曜日

デモフィロ、民衆を愛する者

詩人マチャードを考察していくうえで今後、大きな意味あいを持つことになる父アルバレスと叔父アグスティン・ドゥランについて、ここで少し掘り下げて見ておくことにしましょう。

ウィキペディア(スペイン語版) には、マチャードの父アルバレス=写真=は、“デモフィロ(Demófilo)”つまり「民衆を愛する者」という意味のペンネームを持つ、スペインを代表する民俗学者として大きく紹介されています。

スペインの民謡や民間伝承を収集し、学問的な研究を始めた先駆者だったのです。


1848年にサンティアゴ・デ・コンポステラに生まれ、1893年にセビリアで亡くなりました。アルバレスは、セビリアで人生の大半を送り、哲学や法律学を学びました。

師のフェデリコ・デ・カストロ(Federico de Castro)からは進化論やクラウス哲学の思想を学び、特にヘルベルト・スペンサーの社会的功利主義の哲学に傾倒しています。

また、セビリア大学で形而上学を教えたり、地方判事、弁護士事務所を開いたりとさまざまな職に就いています。

特に、自由主義的知識人を育成することを目指した自由教育学院(Institución Libre de Enseñanza)の民俗学の教授として、月刊誌「哲学、文学、科学(Filosofía, Literatura y Ciencias、1869–1874)」などを舞台に展開した民俗文化に関する研究は、スペインの歴史の中でも特筆すべき先駆的意味を持っていました。

アルバレスの活動やスペイン民俗学の特徴についてアンヌ=マリ・ティエスは『国民アイデンティティの創造』の中で次のように記しています。

「スペインの場合、民俗文化に関する地方レベルの活発な取り組みと中央組織の役割の小ささが、イタリア以上に際立った対照をなしていた。〔アントニオ・〕マチャード・イ・アルバレスが、専門誌『スペイン民俗学』を創刊したのは早くも1881年のことである。

彼は同誌上で、3年前に設立されたロンドンの民俗学協会を忠実になぞった協会の組織原則を論じたが、それは地方レベルの様々な専門誌と協会を生み出すことになる。1883年にはカスティーリャ、1884年にはリオハ、バスク=ナバラ、アンダルシア、ガリシアに協会ができている。

同じ年に、『カナリア民俗文化の質問調査構想』が発表された。盛り上がりを見せていたカタルーニャ探訪協会には、民俗文化部が設けられている。以後数十年にわたって、地方レベルでの出版活動、収集事業、博物館の創設が続いていく。国立民俗博物館の設立は1940年になる」