2016年5月28日土曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑪

詩集『カスティーリャの野』にセットで入っている散文とロマンセの「アルバルゴンサレスの地」は、前にもふれたようにストーリーは極めてよく似ています。

ただ一つ決定的に違うのは、末の子ミゲルの運命です。

散文のほうではミゲルは兄たちに殺されてしまうのですが、ロマンセでは生きながらえます。

生き続けることでミゲルは、父親の生をふたたび生きなおすことになるのです。

ミゲルは、父親と同じように幸せな結婚をして、父親が耕した同じ土地を耕します。

ロマンセの終わりは始まりへとつながり、次の世代による「再生」を予感させます。

そこにはマチャードのカスティーリャへの、すなわちスペインに対して抱いている願いが込められているように思われます。


良きものを殺してしまった「家」にあっても、そこが終焉なのではなく、次の世代へと受け継がれてゆくものが残っているのです。

詩人はそこに、希望を見いだそうとしているように思われます。

「千回も言い古された 昔話をつぶやいているよう」に、「そしてこれから千回も 繰り返すことになるだろうと」というように、カスティーリャには「澄んだ水」が繰り返し、繰り返し流れていくのです。

2016年5月27日金曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑩

青みがかった空にまたたく星。険しい岩山、闇に包まれた松林、深い谷底。そんな中から沸き立ってくる「水(agua)」の声がやがて人を暴き立てます。

「alba」「arriba」「alto azul ardía」などと、前半で語頭が「a」の単語を並べて頭韻的な響きを作り出しています。

「千回(mil veces)」のリフレインをはさんで、招きこむように「水(agua)」が四つ繰り返され、殺人の「証人」である泉は、目撃した犯罪について語っていきます。告発者の川は声高らかに罪をあばいていくのです。

それがやがて村人の耳に届き、川の水が音を立てて流れるように、犯罪を告げるコプラ(短詩)が人々の口から口へと伝えられていくことになります。

「泉から沼までの水による聴覚的効果は全てに勝っている」 のです。


ロマンセでは、殺人を犯した2人の心のうちを記述するのに長行を費やしている。彼らは自分たちが犯した恐ろしい行為を十分に承知して後悔します。

薄暗い森の中で2人は、罪を犯したあの日を思い出して震え出します。

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」で詩人は、自分のあり方を宇宙的な時間にまで広げたときにどのように位置づけられるかを、スペイン国民ひとりひとりに問いかけているようにも思えます。

そして、その答えは、後に生きる人々の問題として未来に開かれているのです。

世界と人間の生を問いながら、アルバルゴンサレスの地、すなわちカスティーリャ性の「黒沼」に埋没しているスペインの人びとに対して、再生への指針をほのめかした作品と言えるのかもしれません。

2016年5月26日木曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑨

殺人者の2人の兄弟がドゥエロ川の上流へと向かい、ラグナ・ネグラ(黒沼)にたどり着く最後の場面「人殺し(Los Asesionos)」 には、次のような描写があります。


アルバルゴンサレスの 上の2人の息子
フアンとマルティンは ある日
夜明けとともに ドゥエロ川の
上流をめざして 重苦しい道をゆくことにした
Juan y Martín, los mayores
de Alvargonzález, un día
pesada marcha emprendieron
con el alba, Duero arriba.

明星が 青みがかった
空に瞬いていた
谷や渓谷を埋めた 濃く白い霧が
薔薇色に染まっていた
鉛色の雲が
ドゥエロ川の水源となる
ウルヴィオンのそそり立つ峰を
ターバンのように取り巻いていた
La estrella de la mañana
En el alto azul ardía.
Se iba tiñendo de rosa
La espesa y blanca neblina
de los valles y barrancos,
y algunas nubes plomizas
a Urbión, donde el Duero nace,
como un turbante ponían.

かれらは泉に近づいた
澄んだ水が流れていた
流れはまるで 千回も言い古された
昔話をつぶやいているようだった
そしてこれから千回も
繰り返すことになるだろうと
Se acercaban a la fuente.
El agua clara corría,
sonando cual si contara
una vieja historia, dicha
mil veces y que tuviera
mil veces que repetirla.

野をよぎって流れる水は
その単調さでものがたる
「私は犯罪を知っている 犯罪ではないのか 
水のほとりの 生命への」
Agua que corre en el campo
dice en su monotonía:
Yo sé el crimmen, ¿ no es un crimen,
cerca del agua,  la vida?

2人の兄弟が通りかかると
綺麗な水がまた語りかけた
「泉のかたわらで
アルバルゴンサレスは眠っていた」
Al pasar los dos hermanos
relataba el agua limpia:
“A la vera de la fuente
Alvargonzález dormía.”

2016年5月25日水曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑧

父親の時代のアルバルゴンサレスの地は、かつての黄金期のスペインであり、目前にひろがる荒廃したアルバルゴンサレスの地は、すべてを失って行き先の見えない、いまの貧しいスペインなのです。

アルバルゴンサレスの地の荒廃の歴史は、すなわちスペインの荒廃の歴史に重なってきます。良きものを殺してしまった結末が、荒れ果てすさみきったスペインの現在なのです。

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」では、ゴツゴツとした岩山におおわれたカスティーリャの荒涼たる自然が克明に描き出されています。

それらがむしろ主体性を持っているかのように物語に割って入り、ときに醜さや脆さをさらけ出す人間なる存在の営みを浮き彫りにしているようにも思えます。


中でもこのロマンセで際立っているのが、川の流れをさかのぼってたどり着く源流の泉から、底の無い沼にいたるまで、「水」によって醸し出される比類のない映像的、聴覚的な効果でしょう。

試みに、このロマンセの自然描写のカギになると思われる単語がどれくらい使われているか調べてみると、次のようになりました。

カスティーリャの自然の基調をなすと考えられる「山(monte)」、「谷(valle)」、「松林(pinar)」はそれぞれ6回、「岩(roca)」や「樫(roble)」は3回ずつ。

一方、水にかかわる単語では「水(agua)」が13回、「沼(laguna)」10回、「泉(fuente)」9回、「ドゥエロ川(Duero)」6回、「川(río)」5回などとなっていました。

自然描写のなかでも特に「水」に関する記述を重視し、特別な役割をもたせていることがうかがえます。

2016年5月24日火曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑦

かつてはあたりで一番恵まれていたものの、いまでは狼が徘徊する惨めなアルバルゴンサレスの村。

詩人は、あるときは慎ましく善良に生きる彼らの姿を肯定的に見つめ、またあるときは、彼らの内に潜む醜い心に目をこらし、貧相な価値観に根ざす道徳性をあばき出します。

いずれにしてもマチャードは彼らの生の奥底に、ある種の悲しみを感じ取り、同じ人間として孤独な荒地に暮らす姿がいたたまれなく思われたのでしょう。

  野に働く人々には
  カインの血が多量に流れている
  Mucha sangre de Caín
  Tiene la gente labriega,

と作品の冒頭(「導入部分」のⅢ)で歌われます。


カインとその弟アベルは、旧約聖書の創世記(第4章)にあるアダムとイヴの子。カインは長じて農耕を営み、アベルは羊飼いになりました。

2人は供え物をしますが、主はアベルとその供え物は顧みたものの、カインのほうは顧みませんでした。カインはそれに憤って、アベルを野に誘い殺してしまいます=写真、wiki。

人を殺すという犯罪の始まりです。ロマンセを語るにあたり、カスティーリャの田舎で起こった悲劇の語り部はまず、カインの血をもつすべての人間に対して問いを投げかけているわけです。

物語が進むにつれて読者は、アルバルゴンサレスの村の出来事にスペインの骨格であるカスティーリャの姿を重ねて見ることを余儀なくされます。

「98年世代」の詩人は、アルバルゴンサレスの地にスペインを見ているのです。

2016年5月23日月曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑥

ロマンセ「アルバルゴンサレスの地」は、実際の出来事にインスピレーションを得て作られました。芸術性の高い創造の産物ですが、ロマンセの特徴である写実性やルポルタージュ的性格も備えています。

ヴィヌエサから遠くないところにあることになっているアルバルゴンサレスという場所は見あたりませんが、イアン・ギブソンによれば「地名を創作するうえで、ソリアとブルゴスの県境に位置するヴィジャルヴァロの村名が影響している可能性がある」 といわれます。

父親が投げ込まれ、2人の兄弟が自殺を遂げる作品の舞台「黒い沼(laguna Negra)」=写真=は、実際にウルヴィオン山麓の標高1.753m に存在します。ただし、底なし沼というのは伝説で、実際の深さはせいぜい10m程度のようです。


イアン・ギブソンによれば、マチャードがソリアにやってきた1907年春から、この付近では森林火災がひっきりなしに起こり、近くの町村で殺人や凶暴な犯罪も続きました。

マチャードは1910年秋、地域の友人たちとドゥエロ川を上って、暴風雨の中、ウルヴィオンの山頂を踏破するなどしています。ロマンセの舞台となるドゥエロ川源流へのこうした旅がきっかけとなって、「松林で覆われた地」で起こった凶悪事件をかなり注視していたようです。

「10月初旬の朝、彼はドゥエロ川の源流まで上ってみることを決心して、ブルゴスからシドネスまで行く乗合車にソリアで乗った。運転手の近くの前の列には、メキシコから、松林に囲まれた辺境にある生まれ故郷の村へ帰る“アメリカ帰り”、それに、2人の息子を連れてプラタに向かう、バルセロナから来た老いた農民が乗っていた。違う言葉を話す人たちと出あうことなくカスティーリャの草原を横断することはできない。“アメリカ帰り”はベラクルス訛りで私に話しかけた。また私の耳には、運転手と最近起こった犯罪について論じている農民の話が聞こえてきた。ドゥエロ川沿いの松林の中で、1人の若い羊飼いが人を刺し殺し、強姦までしていたのが見つかった。農民は、ヴァルデアヴェラノの金持ちの牧場主を、野蛮な悪事をした疑いようのない犯人としてソリアの刑務所に収監するように告発した。しかし、犠牲者が貧乏だったという理由で正義が信用されなかった」

と、マチャードは回想しています。

2016年5月22日日曜日

「アルバルゴンサレスの地」⑤

きょうは、第9章(⑨)と最終章(⑩)の要約です。

⑨土地(La tierra) Ⅰ(6行)、Ⅱ(20行)、Ⅲ(14行)、Ⅳ(8行)

ゴボウが、カラス麦が、毒麦が、呪われた土地を蔽っている。つるはしもすきも歯が立たない。すきが畑の中を掘り裂いて進んでゆく間にも、掘られた畝溝はふさがれてしまう。

「人殺しのフアンが耕作にとりかかっても、畝溝が畑に掘られるよりも早く彼の顔にしわが刻まれるだろう」。

東のほうでは、紅い斑点に蔽われた満月が果樹園の壁の背後で輝いていた。マルティンの血は恐怖で凍りついた。土の中に打ち込んだシャベルが血に染まっていた。

“アメリカ帰り”は故国でちゃんと根を張ることができた。金持ちで美しい娘を妻にめとった。アルバルゴンサレスの財産はいまや彼のものだ。


⑩ 人殺し(Los asesiones) Ⅰ(26行)、Ⅱ(16行)、Ⅲ(6行)、Ⅳ(16行)、Ⅴ(8行)、Ⅵ(18行)

アルバルゴンサレスの上の息子フアンとマルティンは、ある日の夜明け、ドゥエロ川の上流を目指して、骨の折れる道を歩むことにした。

谷間の濃く白い霧がバラ色に染まった。鉛色の雲がドゥエロ川の水源、ウルヴィオンのそそり立つ峰をターバンのように取り巻いていた。

2人の人殺しはラグナ・ネグラ(黒沼)にたどり着いた。水は澄み透り、黙り込んでいた。取り囲む高い岩壁には禿鷹が巣を作り、木霊が眠る。澄んだ水を山の鷲が飲みにやってくる。

父さん!兄弟は叫んだ。穏やかな沼の底に、彼らは身を沈めていった。

2016年5月21日土曜日

「アルバルゴンサレスの地」④

きょうは、第7章(⑦)と第8章(⑧)の要約です。

⑦ アメリカ帰り(El indiano) Ⅰ(30行)、Ⅱ(12行)

ミゲルは、この呪われた土地の一部を兄たちから買った。信念と情熱に燃えて土地を耕し、黄金色の穂、重い小麦の実をつける。ミゲルの畑には豊かな夏がやってきた。

それでも村から村へと語られていく。殺人者たちの呪いが彼らの土地には刻まれているのだ、と。ある晴れた午後、ミゲルは猟銃で武装し、2匹の猟犬を連れて、街道の緑のポプラ並木を歩いていった。

すると歌声が聞こえてきた。「あの人は土の中に葬られていない。死んだ父親を彼らは運んだ。レヴィヌエサの谷の松林の中をあのラグナ・ネグラ(黒沼)まで」


⑧ 家(La casa) Ⅰ(74行)、Ⅱ(55行)

アルバルゴンサレスの家の周りには、風に吹かれて、楡の木の葉が散り敷いている。教会の広場の3本の丸いアカシア=写真、wiki=の枝には、まだ緑が残っている。

実をつけたマロニエは、ところどころ葉が抜け落ちている。ふたたびバラの木は赤い花をいっぱいにつけ、秋の東屋は牧場の中で陽気に輝いている。

おお、スペインの真ん中、アルバルゴンサレスの地よ。貧しい土地よ。悲しい土地よ。あまりに悲しく、この土地には魂があるようだ。

草原を狼がよぎってゆく。月の光に吠えながら。森から森へ。崩れ落ちた岩がごろごろして、人の気配もない。

そこに禿鷹に啄まれた白い遺骨が光っている。哀れな、淋しい野よ。道もなく宿屋もない。呪われた哀れな野。わが祖国の哀れな野よ。

2016年5月20日金曜日

「アルバルゴンサレスの地」③

 きょうは、第4章(④)から第6章(⑥)までの要約です。


④ またの日々(Otras días) Ⅰ(18行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(24行)、Ⅳ(18行)、Ⅴ(48行)

アルバルゴンサレスの2人の息子たちは険しい坂道を通り、灰色のラバに乗ってヴィヌエッサの松林の中を進んでいった。

彼らは家畜を見つけて村へ連れて帰ろうと、ドゥエロ川をさかのぼり、石橋のアーチを渡り、賑やかなインディオの町を後にした。

川の流れは谷底で鳴り響き、ラバの蹄鉄が石をたたく。ドゥエロの向こう岸では悲しげな声が歌っている。

「アルバルゴンサレスの土地は、豊かな稔りに満たされるだろう。しかしこの土地を耕した男は、この土地の下に眠っていない」


⑤ 罰(Castigo) Ⅰ(8行)、Ⅱ(12行)、Ⅲ(30行)

畑には血の色をしたヒナゲシが生えた。黒穂病がカラス麦と小麦の穂を腐らせた。遅霜が果樹園の果樹を花のうちに枯らした。

さらに不運が襲い、羊たちを病気にした。アルバルゴンサレスの息子たちは、土地に呪われた。窮乏した1年間の後には、悲惨な1年がつづいた。

ある冬の夜、2人の息子は消えかかった燠火をじっと見つめていた。薪もないし、眠れもしない。寒さはつのる。燻るランプ。

風に揺られた炎が2人の殺人者の思いにふける顔に、赤みを帯びた光を投げる。しゃがれたため息をつきながら沈黙を破って、兄が叫ぶ。なんという悪事をおれたちは働いたことか!

⑥ 旅人(El viajuero) Ⅰ(12行)、Ⅱ(10行)、Ⅲ(10行)、Ⅳ(28行)、Ⅴ(18行)

突風の中をひとりの男が馬でやってきた。「ミゲルです」。遠い国へ出かけていった末の弟の声だった。海の向こうへ冒険を求めてアメリカ大陸へと渡り、財産をつくって帰ってきたのだ。

父親に似て堂々としていた。彼はみんなに愛され、たくましかった。3兄弟は黙って、寂しい炉を見つめている。「兄さん、薪はないんですか」とミゲルが尋ねると、「ないんだよ」と長兄。

そのとき鉄の閂でしっかり閉められた扉を1人の男が開けた。男は父の顔をしている。薪の束をかつぎ、手には鉄の斧。金色の火の輪が、その白髪を縁取っている。

2016年5月19日木曜日

「アルバルゴンサレスの地」②

ひきつづき、第2章(②)と第3章(③)の要約です。

② 夢(El sueño) Ⅰ(8行)、Ⅱ(12行)、Ⅲ(14行)、Ⅳ(10行)

家の戸口で子供たちが遊んでいる。上の2人の間からカラスが飛び立った。妻が縫い物をしながら見守っている。かまどに薪が積み上げられている。

長男が火をつけようとするが、炎は燃えあがらない。弟が柏の幹の上に燃えやすい小枝を投げるが、燠火は消えてしまう。

末っ子が台所の煙突の下で火をつけると燃え上がり家中を照らす。アルバルゴンサレスは末っ子を膝の上に座らせ、お前がいちばん可愛いという。

物思いにふけり、出て行った2人の兄に、斧の刃がきらめく。


③ あの夜…(Aquella tarde...) Ⅰ(8行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(18行)、Ⅳ(12行)、Ⅴ(6行)、Ⅵ(8行)

息子たちは澄んだ泉のほとりで、眠り込んでいる父親を見た。父は眉をしかめる。その顔は斧の傷跡のような暗い影に曇っている。

息子たちが彼を刺し殺す夢を見る。目が覚めると夢がほんとうだったことに気づく。アルバルゴンサレスは、心臓と脇腹を4回、短刀で刺され、首に斧の一撃を受けた。

2人の殺人者は、ブナの森へと逃げ込み、ドゥエロ川の源流にあるラグナ・ネグラ(黒沼)まで死者を運ぶ。そして足に石をくくりつけて墓石とし、彼らは父を沼に沈めた。

底なしの沼に、近くの村人たちは近づこうとはしなかった。ドゥエロ川をぶらぶらしていた行商人が罪を負わされ、縛り首になった。数カ月後、母親が心痛で息絶えた。

こうして息子たちは、1軒の羊小屋、庭、麦畑、ライ麦畑、上等な草の生えた牧場、古い楡の木の上のミツバチの巣箱、鋤を引かせる2組の馬、番犬1匹を手に入れた。

2016年5月18日水曜日

「アルバルゴンサレスの地」①

アントニオ・マチャードのロマンセ「アルバルゴンサレスの地(La tierra de Alvargonzález)」は、これまでにふれたように、「善良な農夫アルバルゴンサレスの強欲な息子2人が、父の財産すべてを手に入れようと、父を殺して底なし沼へ投げ込む。その後2人は、呪われた日々の中で絶望し、父が沈む沼んでいる身を投げる」というあらすじの物語です。

初稿には「盲人のロマンセ」という副題が付けられ、「ラ・レクトゥラ(読書)」という雑誌の1912年4月号に掲載されました。

その後、修正がくわえられて、最終的な形態では「ファン・ラモン・ヒメネスへ」という添え書きが付けられました。


10章構成で、総行数は712行になります。  ここでは、その構成と内容を、何回かに分けてざっと眺めてみます。まずが、第1章(①)から順に、要約していきます。

① 導入部分 Ⅰ(16行)、Ⅱ(8行)、Ⅲ(20行)、Ⅳ(16行)

中くらいの財産の持ち主、この地では“お金持ち”と呼ばれていた若者アルバルゴンサレスが縁日のある日、1人の娘に惚れて1年後に結婚した。

結婚式は、笛、太鼓、ギター、マンドリンの音が村中に流れ、ヴァレンシア風の花火、アラゴンの踊りなど豪華なものだった。

アルバルゴンサレスは、土地を愛し幸せに暮らしていた。3人の子を授かり、ひとりを果樹園の仕事に、もうひとりを羊飼いに就かせ、末っ子を教会に入れた。農民たちの家には「カインの血」が流れている。

この田舎の家でもそうだった。家に来た2人の兄の嫁は、子を産む前に不和の種を生んだ。田舎者の強欲さは遺産相続の分け前では満足せず、欲しいものを手に入れようとする。

末っ子は教会へ入ったものの、ラテン語よりも娘たちのほうが好きだった。ある日、僧服を脱ぎ捨てて遠い国へ渡った。母は泣き、父は財産の分け前を与えて幸運を祈った。

アルバルゴンサレスのいかつい額には、皺が刻み込まれていた。秋のある日、彼は1人で家を出た。澄んだ泉にたどり着き、その傍らで眠り込んだ。

2016年5月17日火曜日

スペインを作るロマンセ

カトリックの伝統や習慣にがんじがらめに縛られ、時代から取り残されてしまったスペイン。

ヨーロッパ近代ばかりが気にかかり、内を顧みようとしない借物の進歩主義者たちのスペイン。

これら「二つのスペイン」の狭間にあって、カスティーリャの地の本質を見つめ直すことで、新たなスペインへと再生する道をマチャードは探りつづけました。

そんなマチャードにとって、土地にしっかり根付いた民衆の歌であり、言葉であり、長い歴史を通してそうあり続けてきたロマンセは、「最高度の表現方法」であったはずです。

そして、「新しいロマンセを書く」ことを詩人の使命と考えていたのに違いないのです。

「詩人は、《良きおじさん》アグスティン・ドゥランによって監修・編集されたロマンセーロを読んで聞かせる練習をしていた。家族の中でも、人気のある詩は熱心に読まれていた。

そんな環境に育ったマチャードが、ソレアの田舎町で起こった犯罪に直感を得て、何らかの民衆のロマンセを聞くか知るかして、カスティーリャの高原を舞台にした現代的な叙事詩を企てる日が来たとしても、不思議ではない。

このようにして“アルバルゴンサレスの地”は誕生した」


イアン・ギブソンはマチャードの評伝=写真=の中でこんなふうに指摘しています。

スペイン民俗学を築いたカリスマ的な父の仕事をながめ、母方の叔父がまとめたロマンセ集に身体までどっぷりと浸かってマチャードは育ちました。

スペイン人たちが親から子の世代へと代々受け継いできたロマンセや歌謡を、彼ほど広く深く身に刻める環境にあった人間は稀かもしれません。

しかし、マチャードだけが特殊だったというわけでもなさそうです。

ロルカも語ったように、スペイン人の「乳母たちは、昔から、女中やさらに身分の低い召使いとともに、貴族やブルジョアの家庭に、ロマンセ、歌謡、お伽話をつたえるというきわめて重要な働きをしてい」たのです。

逆にみると、世代間でロマンセなどの民謡をつないできた営みが、スペイン人を作り、スペインという国を作ってきたといえるのではないでしょうか。

それをたどっていけばカインにまで行き着くかもしれないし、そうした営みがまた「98年世代」が探ったスペインの本質にも、衰退して行き場を失ったスペインの現実にもつながるのです。

そう考えてくると、マチャードがロマンセを選んだのは、単に子供のころに慣れ親しんでいたという程度のところにとどまるのではなく、「98年世代」的な課題に迫る最適な詩形への模索の中でたどりついたものだったという側面も決して軽視できないように思われてなりません。

さらには、スペインの再生に向けて必要なのは「新しいロマンセを書く」こと、しかもスペインのスペインたるカスティーリャのロマンセを描くことだとマチャードは確信していたに違いありません。

2016年5月16日月曜日

モーゼを見つめて

ロマンセは民謡、民謡はいってみれば昔の流行歌です。多くの流行歌の中から、民衆に愛好され、つぎつぎと歌いつがれて残ったものが民謡となたのです。そこには土の香があり、体臭があります。

ロマンセの魅力は、土着性にあるのです。古ロマンセからは騎士の甲冑の響きや蹄の音が聞こえてきます。洗練された都市性の対極にある土着性は、マチャードたち「98年世代」が探ろうとしていた、カスティーリャが本来もっているものにもつながるのでしょう。

民謡はけっして洗練された芸術作品ではありません。洗練の度合い、高度の思想性と形式美を基準とすれば、ロマンセが文学史に占める地位はそう高くはないかもしれません。

しかしスペインでは20世紀になっても、マチャードやロルカら天賦の才を得た詩人たちが、モチーフを生かす最適の形式としてロマンセを選び、芸術性の高い作品を書きました。

前述したようにマチャードの父、アルバレスはスペインの先駆的民俗学者でした。そしてアントニオは、母方の親戚のアグスティン・ドゥランの「ロマンセーロ(民謡集)」を繰り返し読んで聞かされて育ちました。

そういう意味では、マチャードが「アルバルゴンサレスの地」にロマンセという形式を用いたのは、子どものころから慣れ親しんだ伝統的な手法によるという自然な選択だったとも受け取れます。

しかし、スペイン再生に向けてカスティーリャの真髄に迫ろうとする「98年世代」の詩人としての使命を果たす最適な言葉の器として、マチャードはかなり意識的にロマンセという形式を選んだのではないかと私は推測しています。


『カスティーリャの野』の序文をもう一度振り返ってみると、ロマンセについて次のように記しています。

〈すぐさま、崩壊の最中にある劇場を見つめよう。そして、私たち1人1人の影を舞台に投影しようではないか。そして、詩人の使命は、永遠に人間的であるところの新しい詩を考案するところにあると思った。個性的で生命力のある物語。妨げにならず、それ自体が生きている。

私には、ロマンセが詩の中でも最高度の表現方法であると思われた。そして新しいロマンセを書くことにした。その意図は「アルバルゴンサレスの地」で答えを出している。私の意図は、伝統的な手法を蘇らせようとするところからはかけ離れていた。

騎士たちの、あるいはモリスコの古いかたちのロマンセを新たに作る、というのは私の好みでは決してない。見せかけの擬古主義は私にはどれも滑稽に思える。確かに私は、良き叔父、D・アグスティン・ドゥランが一冊にまとめたロマンセ集によって読むことを学んだ。

しかし私のロマンセは、英雄的な武勲に由来するものではなく、形成された民族から、歌われるところの土地から生まれたものである。私のロマンセは、人間の土台であるところを、カスティーリャの野を、そして“創世記”と呼ばれるモーゼの最初の書物を見つめている。

私が述べたこれらの意図と無関係な内容にあなたたちは出あうだろう。それらの多くは、愛する国を心配してのことだ。それから、私にとって永遠の芸術作品であるところの自然への率直な愛である。〉

2016年5月15日日曜日

乳母の子守歌

レコンキスタが日常の茶飯事だった15世紀の民衆にとって、エル・シッドは期待される英雄像であり、架空の英雄ベルナルドでさえ祖国の独立を守るためにローランを倒した今日的な人物でした。

伝説はその時代の民衆の悲願のあらわれといえます。レコンキスタ・スペインの民衆は「ロマンセ」の中にその思いを吐露しました。

そしてロマンセは、口から口へと伝えられ、それを耳にする人の心をひとつにし、民衆の思考のパターンとなっていきました。


そうした伝承の糸は、現代にまでつながっています。たとえばフェデリコ・ガルシア・ロルカ=写真=は「子守歌」をテーマにした講演で次のように証言しています。

「子どもたちにこの憂鬱なパンを与えるのは貧しい女性たちで、裕福な家にそれを届けるのも彼女たちなのです。金持ちの子どもは貧しい女性の子守歌を聞き、その唄が、白い野生の乳とともに、この国の精髄を授けるのです。

乳母たちは、昔から、女中やさらに身分の低い召使いとともに、貴族やブルジョアの家庭に、ロマンセ、歌謡、お伽話をつたえるというきわめて重要な働きをしています。

金持ちの子どもたちは、すばらしい女中や乳母のおかげでヘルネルドやドン・ベルナルドや、タマールやエルタルの恋人たちのことを知るのですが、彼女たちは、われわれにスペイン史の第一課をさずけ、『汝は孤独なり、而して孤独に生きん』というイベリアの銘のきびしい刻印を、われわれの肉体に押すために、山をくだり、川に沿って、やってくるのです。

われわれが、仙女の存在を認めるとすれば、当然、いろいろ重要な要素が子どもの眠りをさそうのに手を貸します。仙女はアネモネと温かさをもたらし、母親と子守唄がほかのものを整えるのです」

2016年5月14日土曜日

ルポルタージュ的性格

橋本一郎はその著『ロマンセーロ』の中で、スペインのロマンセや叙事詩の特徴として、民衆の歴史を写し取った写実的、ルポルタージュ的な性格をあげています。

スペインの中世は、南部のイスラム勢力と北部のキリスト教諸国との抗争の歴史でした。

キリスト教徒の側から見ればこの抗争は、侵略され奪い去られた国土の回復であり、国土の再征服運動(レコンキスタ)=写真=でした。

当時高い水準を持っていたイスラム文明は、レコンキスタを文書に記録し、その中核であったカスティーリャ王国は、レコンキスタの運動を叙事詩に記録し、歌いました。


12、13世紀のころ、叙事詩は頂点に達する。それを支えたのは、文字文化を知らないカスティーリャの民であり文化的土壌だったのです。

もちろん当時の上層階級は、ラテン語を使って文書を作り、手紙を書いていました。しかし、それは大衆とは無縁なもので、ラテン語の史書は血も涙もない歴史の骸骨でしかありません。

血も涙もある英雄をいきいきと再現するには、話しことば(ロマンス語、すなわちロマンセ)の歌、叙事詩が必要でした。

カスティーリャという地名は、城を意味する「カスティーリョ」に由来する。そこにはイスラムの侵略軍を防ぐ国境の城がたくさんありました。

カスティーリャの南には広い無人の荒野があり、そのはずれに国境の町として戦場になっていたメディナセリの町があります。

ここに住んでいた吟遊詩人の手でまとめられた叙事詩が『わがシッドの歌』であり、作られたのは1110年~1140年ごろのこと。聴衆にはまだ戦いの記憶がなまなましく残っていました。

「戦闘があると、その模様をのべた短い報道の歌がつくられ、それがまとまって長編になった。長編になっても、もとの報道性は残っていた。スペインの叙事詩が写実的なのはそのためである。

それは『ローランの歌』を筆頭とするフランスの叙事詩の物語性ないし虚構性とよい対照をなしている。フランスの叙事詩は写本が多い。ほぼ完全なものだけで90編を超える。

スペインで完全に残った写本は『わがシッドの歌』だけだ。これは作品の量の差のみではない。フランスものが始めから歴史小説であり、スペインものがルポルタージュ文学だったためだ。

小説は書かれた作品で、当然作者がある。『ローランの歌』の作者テュロルド以来、かなりの詩人名がわかっている。スペインの叙事詩人で名前がわかっている人はひとりもいない。報道記事は無署名の時、かえって公正で客観的なものとなるからである」 と橋本は指摘しています。

2016年5月13日金曜日

大衆的リアリズム

英、仏、独にも14世紀から15世紀にかけて、ロマンセのような民衆的詩形式のバラードがありましたが、長続きはしませんでした。

しかしスペインのロマンセは、14世紀末以降、各時代を通してすぐれた詩人たちに愛好されてきました。

スペインの文学は「芸術のための芸術」といった芸術至上主義よりは、現実に、あるいは実生活に密着したプラグマティズム的な傾向が強いといわれます。

それは、大衆に向けられた文学としてのリアリズムであり、地方性でもあるのです。

民衆歌謡のロマンセをはじめ、中世の叙事詩やロペ・デ・ベガ(Lope de Vega、1562-1635)=写真、wiki=の演劇、ピカレスク小説がそのいい例です。


こうした「民衆性」は作品が伝えられていくうちに、さまざまな人びとによって改良、改ざんされる、集団性、共有性とでも呼ぶべき性格を伴います。

「黄金世紀」の演劇で、オリジナルの姿のままで伝わっているものは多くはありません。

作品を書きあげた作者が座頭や役者たちに渡すと、彼らはまるで共有財産ででもあるかのように手を加えてしまうのです。

よく知られているように『ドン・キホーテ』も剽窃をまぬがれませんでした。

セルバンテスの『後篇』が出版される前の年に、アロンソ・フェルナンデス・デ・アベリャネーダなる男がタラゴナ市で偽作『ドン・キホーテ』を発表しました。

偽作の出来ばえはなかなかのもので、権威ある「カスティーリャ古典叢書」としていまも本物といっしょに並んでいるそうです。

2016年5月12日木曜日

晩生の果実

スペイン人は対象を直覚的に把握し、それを衝撃的な表現に委ね、文体や形式の洗練に意を用いない傾向があるといわれます。

一つの作品を徹底的に深化させ、その完成度を高めることより、多くの作品に瞬発的な才知のひらめきを発揮するほうに長けているというわけです。

例えばフランスの『ロランの歌』=写真=が各詩行10音綴を厳守しているのに対して、スペインの『わがシッドの歌』の詩行は最短10音綴から最長20音綴とまちまちです。

また押韻も、前者が、同音韻つまり各詩行最後のアクセントのある母音およびその後の母音と子音が全く同一と、手が込んでいるのに対して、後者は、行末のアクセントのある母音(と最後の母音)だけによる類音韻。

技巧的により簡単な類音韻になっていく傾向は、主としてロマンセや詩劇を介してスペイン文学全体を貫いていくことになります。


牛島は、スペイン語の「晩生の果実(fruto tardío)」という言葉に注目します。

「ヨーロッパ諸国の文学のなかですでにすたれてしまったジャンルが遅れてスペインに移入され、それが異なった時間的・空間的環境ゆえに、独特の興趣を帯びた文学となって実を結ぶこと」 を指しています。

例えば16世紀のヨーロッパではすでに中世騎士道の礼儀作法を示すマニュアル的な存在になっていた騎士道物語が、スペインでは新大陸発見という歴史的な熱狂の時代に大流行するというようなケースのことです。

「晩生の果実」は外国から入って来た文学に限りません。

スペインに以前から存在していたものが、ある種の色付けをされ、時により活気を帯びて、再び、あるいは繰り返し立ち現れる。この場合に「晩生の果実」は、「継続性」となるわけです。

各詩行8音節、偶数行押韻のロマンセはまさに、この「継続性」を象徴する詩形式なのでしょう。

2016年5月11日水曜日

ドン・ロドリーゴの嘆き

スペインの詩情を如実に反映した文学ジャンルともいわれるロマンセは、フランスやイギリスの叙事詩をも取りこんで発展してきました。

フランスの中世には、スペインよりはるかに多くの英雄叙事詩が作られ、14世紀までは存続します。しかしフランスでは、自国の叙事詩の遺産を継承することはありませんでした。

イギリス、ドイツ、北欧諸国も同様です。これらの国々では、ルネサンスの到来が中世との断絶を意味していました。

これに対して、今日まで命脈を保ち続けたスペインの伝承歌謡であるロマンセは、逆に、バイロンなど多くの外国の文人を魅惑し、彼らに大きな影響を与えることにもなったのです。

その一例として牛島は、モーロ人の侵入によって亡国の憂き目にあった西ゴード王国最後の王、ドン・ロドリーゴの嘆きを歌ったロマンセをあげています。

  昨日はスペインの王だったが
  今日は町の長ですらない
  昨日は町や城を所有していたが
  今日はまったくの無一物
  昨日は家来を従えていたのに
  今日は仕える者もなく
  これこそわが物といえる
  銃眼胸壁ひとつない


この一節は、ヴィクトル・ユゴー(Victor, Marie Hugo、1802-1885)=写真、wiki=の「敗戦」(『東方詩集』所収)で、次のように蘇っているというのです。

  きのうはもっていた、城や美しい町々
  ユダヤの奴らに売る何千ものギリシャの女奴隷
  そして広大なハレム 巨大な武具庫。
  きょうは裸同然 打ちやぶられ追われ傷ついて
  逃げていく……この帝国に ああ! 何が残ったか
  アッラーよ! 銃眼付の塔ひとつないのです!(辻昶訳)

2016年5月10日火曜日

口承文芸から活字文学へ

『わがシッドの歌』をはじめ『ベルナルド・デル・カルビオの歌』、『フェルナン・ゴンサーレスの詩』、『ラーラの7人の公子』などの叙事詩はみな、ロマンセに多くの題材を提供しています。

逆に、後世の学者が散逸した14世紀以前の叙事詩を復元しようとすると、15世紀に作られたロマンセを重要な資料として用いることにもなりました。

ロマンセが当時の民衆の間で人気を呼ぶと、遍歴歌人たちは叙事詩以外にも手を広げて題材を求め、史実や文学作品に基づかない虚構のロマンセも生み出されるようになります。

この段階におけるロマンセは、いずれも「よみ人知らず」で、口承によって大衆の間に伝播しました。

15世紀末から16世紀にかけて、これらが貴族社会や宮廷に入りこむようになると、ロマンセは新たな展開を見せることになります。

教養のある詩人や音楽家たちが、より洗練された作品に仕上げたり、新たに創作したりするようになったからです。

こうして大衆の中にあったロマンセが、文化として根づき、フォルクローレ(民謡)としての地歩を築いていくことになったのです。


さらに、そのころ実用化され始めた印刷術によってロマンセは、口承文芸から作者の名が付いた活字文学へと変貌を遂げていきます。

16世紀末になると、ルイス・デ・ゴンゴラ(Luis de Góngora y Argote、1561-1627)=写真、wiki=やロペ・デ・ベガ(Lope de Vega、1562-1635)ら当代一級の詩人たちもロマンセに手を染めるようになりました。

フランスの影響が強く、スペイン精神が沈滞していた18世紀にはいったんは衰えましたが、19世紀のロマン主義により息を吹き返します。

そして20世紀に入っても「アルバルゴンサレスの地」のマチャードや、「夢遊病者のロマンセ」のロルカといった天才詩人たちによって脈々と生き続けることになったのです。

2016年5月9日月曜日

叙事詩が衰退し

ロマンセが発生した社会史的な背景は、14世紀後半から15世紀にかけてのいわゆる「中世の危機」に求められます。

当時、金融経済と商業の発達による社会の変化やブルジョアジーの台頭で、カスティーリャの封建制は深刻な危機におちいっていました。

さらに、ペドロ残酷王とその異母弟エンリーケ・デ・トラスタマラとの抗争が起こり、カスティーリャは混迷を極めることになります。

こうした内乱は、カスティーリャの文学(カスティーリャ詩)を激変させます。

それまで主流だった『わがシッドの歌(Cantar de mio Cid)』=写真、wiki=を代表とする叙事詩が衰退し、新たなジャンルとしてのロマンセが誕生したのです。


封建制の揺らいだ混乱の時代になって、封建的共同体の統一とその保持の役回りをしていた叙事詩がすたれるのは、歴史的な宿命だったのかもしれません。

叙事詩は長く手の込んだ構成のため、よほど熟練した遍歴歌人でないと語り切れませんでした。一方、長ったらしい朗唱に最後まで付き合える聴衆がそうそういるわけでもありません。

そこで自然の成り行きとして、遍歴歌人たちは聴衆の喜びそうな部分、つまり叙事詩のさわりだけを取り出して語るようになったのです。

遍歴歌人たちが叙事詩のエッセンスを抜き取り、加工して、繰り返し朗唱することで民衆に浸透し、歌い継がれていきました。

こうして、短い民衆歌謡として成立したのがロマンセだったのです。

修飾語を減らして会話を多用、劇的効果を出すため、詩が最高潮に達した時に不意に終わる「断片化技法」などが、ロマンセらしいところ。

さらに、叙事詩のような教訓性、宗教性はなくなり、悲劇的結末を迎えることが多いのも、ロマンセの特徴といえます。

2016年5月8日日曜日

フラメンコにも影響

マチャードの対策「アルバルゴンサレスの地」について具体的に検討する前に、ここではまず、ロマンセという詩がそもそもどういう性格のもので、スペインにとってどのような意味と歴史をもっているのか整理しておきましょう。

スペイン語のロマンセ(romance)はもともと、ローマ帝国の支配下における話し言葉だった俗ラテン語から派生した方言、ロマンス語を意味しています。

フランス語、イタリア語、スペイン語など10種ほどの言語の総称であるロマンス語のことです。と同時に、ロマンセは、スペイン文学の大きなジャンルを形成することになった詩の形式をも意味します。

たいていのロマンセは物語性を帯びています。韻律論的には、各詩行が8音節のオクトシラボ(octosilabo)で構成され、偶数行だけが韻を踏みます。

といっても行末の母音だけがゆるやかに押韻する類音韻で、同一の母音が詩全体を貫いているのがその特徴です。


ロマンセは中世からスペインで愛好されてきました。ふつう二つのメロディを交互に繰り返して歌われ、フラメンコのカンテ(歌)にも多大な影響を与えたといわれる詩の形式です。

ロマンセは14世紀の末にはすでに、民衆性の濃いバラードの一種として作られるようになっていたと考えられています。それが継承され、現在でも生き生きと命脈を保っているのです。

それは「ヨーロッパ文学にあっては類例をみない、文字どおり稀有な現象といわなければならない」 と牛島信明は指摘します。明日から、牛島の研究などを参考にロマンセの歴史をざっと振り返ってみることにします。

2016年5月7日土曜日

ロマンセという形式

アントニオ・マチャードの代表的な詩集『カスティーリャの野』(1912年)には、「アルバルゴンサレスの地(La tierra de Alvargonzáles)」というタイトルの二つの作品が、セットで収められています。

一つはパリの「Mundial」誌の1912年1月号に発表された散文体の物語・伝説「La tierra de Alvargonzáles(Cuento-Leyenda)」。

もう一つは、同じ年にまとめられたロマンセ(romance)形式の韻文「La tierra de Alvargonzáles(Al poeta Juan Ramón Jiménez)」です。

二つは、形式の違いを除くと共通部分が非常に多い作品です。

にもかかわらず、散文によっても、韻文によっても、読者に訴えかけようとしたところには、兄弟による父殺しをテーマにしたこの物語に込められたマチャードの思い入れの深さと、強いメッセージ性を読み取ることができるでしょう。

特にロマンセのほうは、全体で700行余り、詩集の約半数のページを割く畢竟の大作です。


シャルル・ボードレール=写真、wiki=に始まるフランス象徴主義やルベン・ダーリオらのモデルニスモ(近代主義)の影響で詩を書き始め、祖国の近代化を夢見たマチャード。

詩人としての模索の中で、彼はどうしてロマンセという形式にたどりついたのでしょう。また、このような大作を書く必要があったのでしょう。

そして、フランスなど他のヨーロッパ諸国では忘れ去られた、一見すると古くさく時代に逆行しているようにも思えるロマンセという古い形式を使い、赴任したソリアの近くの田舎を舞台にドロ臭くもある物語を書くことに力をそそいだのでしょうか。

そこには、カスティーリャを探るという「98年世代」的な意図とともに、以前に見た「二つのスペイン」に対するマチャードの立ち位置や、社会的使命に裏打ちされた詩人の「戦略」的な志向が関係しているのではないかと私は考えています。

2016年5月5日木曜日

「ドゥエロ川のほとりで」

きのうみた「ソリアの野(Campos de Soria )」における「春が通り過ぎてゆく(la primavera pasa)」「野は夢みている(el campo sueña)」「長い外套を着て 通り過ぎてゆく(pasan cubiertos con sus luengas capas)」などは、主語と動詞を連ねた自然な文体、モデルニスモの名残りを排除した簡素な表現です。

より現実主義的だが、独特の深みを備えた表現を展開していきます。

「カスティーリャの荒れ地にふさわしい暗い色調そのままのパレットを持って、詩人はその景色を描写する。しかし、マチャードにとって最も大切なことは、その景色に触れた心からにじみ出るもの、つまり彼の心理的な解釈なのである。カスティーリャの大地を目前にして、詩人は言う、人間と世界のなぞを瞑想しつつ何時間も過してしまった、と」 。

カスティーリャの風景に触れた心からにじみ出すものに、歴史的解釈が加えられます。マチャードにとってカスティーリャの風景は、歴史が刻まれた舞台でもあり、スペインの運命に思いを巡らす心象風景でもあるのでしょう。

詩人は、そうした二重、三重の風景を描き、叫びます。その叫びはときには、軽蔑をあびせかけているように響くのです。


そういう意味での典型的な詩として、ソリアを水源としスペイン北部ポルトガルへと流れ込むドゥエロ川=写真、wiki=を題材にした詩「ドゥエロ川のほとりで(A orillas del Duero)」があげられます。

ドゥエロは イベリアとカスティーリャの
樫の芯を貫き 流れる。
ああ、悲しく 気高い大地よ!
高原と 荒野と 岩だらけの大地、
鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野、
衰微していく町々、旅籠のない街道、
驚きは顔にしても、踊ることも 歌うことも忘れた 田舎の住人たち、
彼等は 火種の絶えた竃を見限り、
カスティーリャよ、そこを流れる長い川のように、
ただ 海へ向かい 流れていくのだ。

El Duero cruza el corazón de roble
de Iberia y de Castilla.
¡Oh, tierra triste y noble,
la de los altos llanos y yermos y roquedas,
de campos sin arados, regatos ni arboledas;
decrépitas ciudades, caminos sin mesones,
y atónitos palurdos sin danzas ni canciones
que aún van, abandonando el mortecino hogar,
como tus largos ríos, Castilla, hacia la mar!

このようにはじまる「ドゥエロ川のほとりで」は、詩節がない78行の長編です。14音節の行が多く、そのほとんどが13音節目に最後のアクセントを置いています。韻律は、風刺詩に向いているともいわれる短長格(yambico)。

カスティーリャの「悲しく、そして気高い大地」の低迷した現実を、その「高原と 荒野と 岩だらけの大地」「鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野」「衰微していく町々、旅籠のない街道」などの風景とともに、詩人の胸によみがえる過去の追想によって際立たせている。過去の栄光と、現在の衰退のコントラストを読者に鮮明に浮き上がらせ、詩人は祖国の運命の沈痛な瞑想にふけっているのです。

この詩については、あらためて別の機会に詳しく検討することにしたいと思います。

いずれにしても、こうした詩人の試みは「ドゥエロ川のほとりで」、「ソリアの野」と続いて、詩集『カスティーリャの地』に置かれているロマンセ「アルバルゴンサレスの地」に至って極まりを見せることになります。

2016年5月4日水曜日

「ソリアの野」

これまでに見てきたような詩の「変貌」は、祖国の危機を乗り越えようと「98年世代」が探究した「カスティーリャ」を体験したマチャードが、詩人としての社会的な使命を果たすために選んだ結果であったのでしょう。

そして、それは民俗学者である父などの影響で培われた資質にも大きくかかわっていたと考えられます。


ソリアの大地は干からびて寒い
丘や禿山の上を
緑の草原の上を 灰色の斜面の上を
春が通り過ぎてゆく
香りゆたかなハーブのなかに
小さな白いひなぎくの花を残して
Es la tierra de Soria árida y fría.
Por las colinas y las sierras calvas,
verdes pradillos, cerros cenicientos,
la primavera pasa,
dejando entre las hierbas olorosas
sus diminutas margaritas blancas.

大地はまだよみがえらない
野は夢みている
4月がきても モンカヨの斜面は
雪に蔽われている
旅びとは首や口をマフラーで包み
羊飼いは長い外套を着て
通り過ぎてゆく
La tierra no revive, el campo sueña.
Al empezar abril está nevada
la espalda del Moncayo;
el caminante lleva en su bufanda
envueltos cuello y boca, y los pastores
pasan cubiertos con sus luengas capas.

これは、1907年のある日、荒野のなか、冷たく、乾いたソリアに着いた片田舎のフランス語教師の姿を思い起こさせる「ソリアの野(Campos de Soria )」という詩の冒頭部分です。

2016年5月3日火曜日

形容詞にとらわれない詩

林一郎は、マチャードの初期の3作品(『孤独(Soledades)』のIV、『孤独、回廊、その他の詩(Soledades. Galerías. Otros poemas)』=写真=のLXXVIIとCXLVIIIという番号の詩と、詩集『カスティーリャの野』とを比べて、そこで使われている名詞、形容詞、動詞の数を調べています。


それによれば、初期の3作品の合計は、名詞77、形容詞42、動詞が27。軽蔑、嫌悪されていたはずの名詞や形容詞が非常に多く使われ、動詞は名詞の3分の1、形容詞の3分の2程度と少なく、決して動詞が優位、とはいえないことがわかります。

ところが『カスティーリャの野』になると様相はかなり変わってきます。分析した152作品、総計2823行で、名詞は4445、形容詞1483、動詞2116でした。

①名詞が最も多く、形容詞の3倍、動詞の約2倍にのぼる。②動詞は、形容詞の1.5倍多い。③形容詞は最も少なく名詞の3分の1、動詞の3分の2、という結果になったのです。

もちろん、この比較が統計的に意味をなすものではありません。それに、実験的な作品でもない限り、いくら韻文でも名詞、形容詞、動詞のどれかだけで文を織りなすことは通常はありえません。

だから名詞軽視、形容詞嫌いといってもそれは、程度の差の域を出はしません。

しかし、マチャードが中期以降、特に形容詞にとらわれないで詩を書こうと意識的に努めていた可能性をうかがい知ることはできそうです。

林は「Machadoの場合、まずmodernistaとしての自己の色彩を消すことから始めた。これこそ詩であると思いこんで自らの存在をかけた処女詩集《Soledades》(1903年)を世に問うて批評家の好評を博しながら、それとは逆の方向に自らの詩作の道を転向せざるを得なかった。

その苦しみは想像にあまりある。彼の詩が祖国の大地にしっかりと根をおろしたものに変貌するためには、最愛の少女妻Leonorの死という代償を払わねばならなかった」 と指摘しています。

2016年5月2日月曜日

名詞軽蔑、形容詞嫌悪、動詞礼賛

  形容詞と名詞は
  清浄なる水のよどみ
  抒情的な文法における
  動詞の不慮の出来事である
  明日あるであろうきょう
  そして未だに終わらぬ昨日
    El adjetivo y el nombre,
  remansos del agua limpia,
  son accidentes del verbo
  en la gramática lírica,
  del Hoy que será Mañana,
  y el Ayer que es Todavía
 
アントニオ・マチャードの死後まとめられた『補遺(Los Complementarios)1912~1925』=写真=に収められた詩の中で、彼はこのようにうたっています。


ここに述べられているように、マチャードは詩語としての名詞を軽蔑し、形容詞を嫌悪、逆に動詞を礼賛していたと、しばしば考えられてきました。

しかし、こうした傾向はマチャードの生涯を通じて一貫していたというわけではなく、『カスティーリャの野』の前と後、すなわち98年世代的なカスティーリャを強く意識する前と後とで、劇的な変化が起こったと見たほうがよさそうです。

たとえば、第1詩集『孤独』のなかの「地平線(Horizonte)」 という14音節の短い詩を読んでみましょう。

ある明るい夕べ、倦怠のように拡がり、
夏の灼熱が その槍をふるうとき、
平原のうえに 整然とそびえる 千の影は
ぼくの 重苦しい夢の幻影を 映し出していた。
En una tarde clara y amplia como el hastío,
cuando su lanza blande el tórrido verano,
copiaban el fantasma de un grave sueño mío
mil sombras en teoría, enhiestas sobre el llano.

落日の輝きは 紫の鏡となり、
焔のガラスとなって、古びた無窮に向かい
平原に 重苦しい夢を投げかけていた……。
そして ぼくの足音が 拍車のように鳴り、
彼方の 血に染まった西空に 谺するのが感じられた。
そして さらに遥かに、澄んだ曙の 歓びの歌が。
La gloria del ocaso era un purpúreo espejo,
era un cristal de llamas, que al infinito viejo
iba arrojando el grave soñar en la llanura...
Y yo sentí la espuela sonora de mi paso
repercutir lejana en el sangriento ocaso,
y más allá, la alegre canción de un alba pura.

詩を読めばすぐにわかるように、「明るい夕べ(una tarde clara)」、「倦怠のように(como el hastío)」、「夏の灼熱(el tórrido verano)」、「千の影(mil sombras)」、 「ぼくの 重苦しい夢の幻影(el fantasma de un grave sueño mío)」、「落日の輝き(La gloria del ocaso)」、「紫の鏡(un purpúreo espejo)」、「古びた無窮(al infinito viejo)」、「血に染まった西空(el sangriento ocaso)」、「歓びの歌(la alegre canción)」、「澄んだ曙(un alba pura)」などと、モデルニスモの影響なのか、名詞や形容詞がふんだんに並べられ、象徴性もあわせもつ鮮やかなイメージを作り出しています。

名詞を軽蔑し、形容詞を嫌悪、逆に動詞を礼賛していたというような傾向はここでは感じられません。

2016年5月1日日曜日

『孤独(Soledades)』

モダニズムの精神は「98年世代」の作家の文学の潮流とも基本的には合致して、若い詩人たちの心を激しくとらえました。

こうしてマチャードやヒメネスらの詩作は、ルベン・ダーリオの強い影響のもとに出発することになったのです。しかしマチャードは、やがてモダニズムの影響から離れ、独自の道を求めるようになります。

詩人としての内面的な感情が表現形式を求めて模索していた時期に、たまたまルベン・ダーリオという輝かしいモデルニスタの出現に出あい、その華々しい衣装をまとって発表したのが第1詩集の『孤独(Soledades)』でした。


しかしその後、詩が生まれてくる母胎は自らの精神であって、言葉の音色や色彩や入りくんだ情緒は枝葉末節に過ぎず、自分で物事をどのように見るか、自らの精神を通して世界をどのようにとらえるかのほうが、より根本であり重要だとマチャードは考えるようになっていったようです。

そこには、彼自身の生来の気質が絡んでいるとともに、思想を共有するウナムーノの影響も大きかったと考えられます。

そしてソリアでの5年間によってマチャードは、祖国とは何か、現実とは何かを見据える目と心を養いました。

自らの孤独の世界の中に閉じこもって美しい夢想にふける青年は、カスティーリャの荒涼とした大地に情容赦なく放り出されたことで、否応なしにイデオロギーの転換を強いられたといってもいいのではないでしょうか。

では、こうした転換を詩人としてどうのように成し得ていったのでしょう。客観的に外界を観察して事象の内部に浸透しようとすると事物はたちまち崩れ去り、残るのは依然として主観的な自己だけです。

詩集の序文にもうかがえるように、それならば主体と客体とを入れかえ、外界の事象がわれわれの内部に浸透したときに主観は消失し、客観が生まれるとマチャードは考えたのではないだろうか。

自分という主観的なフィルターをかけた網膜がとらえた現象だけを表現する立場から、フィルターなど一切取っ払い、外界の事象が自己を透りぬけるままにさせて、それがそのまま詩作品として結晶します。

詩人として実にあやうい、自己喪失のリスクをはらむ崖っぷちに立つ道をマチャードは自ら選んだことになります。いずれにしても、「98年世代」としてのマチャードの歩みは、まずはモデルニスタとしての色彩を消すことから始まったのです。