2017年5月26日金曜日

「病牀六尺」の力⑧

歩行困難になった1895年からすると子規は7年間、「病牀六尺」にあったということになります。58歳で死ぬまで8年間「しとねの墓穴」におかれたハイネと比べてみると、年齢こそ違いますが、文学や書くことへの執念には、共通点が多いように思われます。


死の寸前まで綴られた『病牀六尺』はこんな文章で始まります。

「病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に触れる事はあるが、布団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢(はか)なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪(しゃく)にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない」

わが身が恐るべき過酷な状態に置かれているというのに、なんとも冷静で快活な書きぶりです。短い生涯の間に数万の俳句を詠んだという子規。

弟子たちにも「普通の人にても、多少の学問ある者、俳句をものすること一万首以上に至らば、必ず第二期に入り来らん」(『俳諧大要』)などと、上達のためにはまずは多くの句を作ることを薦めました。

こうした子規は「病牀六尺」にあっても、視覚、聴覚、知覚、味覚、嗅覚など可能なあらゆる方法を駆使してひたすら書くことに挑んでいたのです。

「しとねの墓穴」において長い時間をかけて「彫琢」し抜いて仕上げていったハイネに対して子規は、書くことで生きている証しを見いだそうとするかの如く、身の回りにあるもの、起こることすべてを、書いて、書いて、書きまくっていきました。

一、田圃(たんぼ)に建家(たてや)の殖(ふ)えたる事
一、三島神社修繕落成石獅子用水桶(おけ)新調の事
一、田圃の釣堀釣手少く新鯉を入れぬ事
一、笹(ささ)の雪(ゆき)横町に美しき氷店出来(しゆつたい)の事
一、某別荘に電話新設せられて鶴の声聞えずなりし事
一、時鳥(ほととぎす)例によつて屡ゝ音(しばしばね)をもらし、梟(ふくろう)何処(どこ)に去りしかこの頃鳴かずなりし事
一、丹後守殿(たんごのかみどの)店先に赤提灯廻燈籠(ちようちんまわりどうろう)多く並べたる事
一、御行松(おぎようのまつ)のほとり御手軽御料理屋出来の事
一、飽翁(ほうおう)、藻洲(そうしゆう)、種竹(しゆちく)、湖邨(こそん)等の諸氏去りて、碧梧桐(へきごとう)、鼠骨(そこつ)、豹軒(ひようけん)等の諸氏来りし事
一、美術床屋に煽風器(せんぷうき)を仕掛けし事
一、奈良物店に奈良団扇(うちわ)売出しの事
一、盗賊流行して碧桐の舎(や)に靴を盗まれし事
一、草庵の松葉菊、美人蕉(ひめばしよう)等今を盛りと花さきて、庵主の病よろしからざる事

などと、『病牀六尺』に子規庵のある「根岸近況」を書き連ねていけば、『仰臥漫録』には、

十月八日 風雨
  精神稍(やや)静マル サレド食気ナシ
  朝飯遅ク食フ 小豆粥二ワン ツクダ煮 昨日ノ支那料理ノ残リ
  牛乳 西洋菓子
  午飯 サシミ 飯一ワン ツクダ煮 焼茄子 梨 ブダウ
  牛乳 西洋菓子 シホセンベイ
  便通トホータイ
  晩飯 サシミ三、四切 粥一ワン フジ豆 梨 ブダウ レモン
来客ナシ



などと、その日に食べたものを片っぱしから書き並べるとともに、「病室前ノ糸瓜棚 臥シテ見ル所」「コノ日風雨 夕顔一、干瓢二落ツ」などの絵もあちこちに添えています。

2017年5月25日木曜日

「病牀六尺」の力⑦

日本で「しとねの墓穴」の文学者というと、多くの人が、脊椎カリエスとたたかった正岡子規(1867-1902)=写真、wiki=を思い浮かべるでしょう。


新聞「日本」に掲載された『墨汁一滴』(明治34年1月16日~同年7月2日)と『病牀六尺』(明治35年5月5日~同年9月17日)、さらには最晩年の日記をまとめた『仰臥漫録』。

これらをあわせた、いわゆる「三大随筆」は、私の人生にとっても欠かすことのできない大切な書物となっています。

結核菌が脊椎へ感染した病気が、脊椎カリエスです。肺結核、腎結核など何らかの結核性の病気にかかった後に発病します。椎体内に乾酪壊死というチーズの腐ったような壊死巣ができ、椎体周囲に膿瘍が形成されます。

そうして椎体が破壊され、次いで椎間板にも病巣が及び、さらに隣接した椎体にも病巣が広がっていきます。椎体の破壊とともに脊柱の後弯変形がみられます。

腹部や殿部に膿がたまり、神経麻痺を生ずることもあります。当時、不治の病と見られていたこの脊椎カリエスに蝕まれた子規の晩年がどのようなものだったのか、ハイネと同じようにざっと年表にしてながめてみましょう。

1888(明治21)年 8月、鎌倉旅行の最中に最初に喀血。

1889(明治22)年 5月には大喀血し、肺結核と診断される。子規の号を用いるようになる。

1895(明治28)年 5月、日清戦争の従軍記者として帰国途上、船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後、松山に帰郷。松山中学校にいた漱石の下宿で静養。10月に再上京するころから腰痛で歩行困難になる。

1896(明治29)年 1月、子規庵で句会。結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症。数度の手術を受けたが病状は好転せず、臀部や背中に穴があき膿が流れ出る。

1899(明治32)年 夏以後、座ることも困難になる。この頃から約3年間、寝たきり。寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句、短歌、随筆を書き続けた。

1900(明治33)年 8月、大量の喀血。

1902(明治35)年 9月、死去。享年34。絶筆は

  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  をととひのへちまの水も取らざりき
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず

2017年5月24日水曜日

「病牀六尺」の力⑥

生と死のぎりぎりで書かれた『ロマンツェーロ』以降の作品には、確かに苦痛や苦悩の色合いが濃くあらわれています。

しかし冒頭にあげた詩を見てもわかるように、不思議に個人的な世界に矮小化することなく、開かれています。

冷静な描写のなかに思想と体験とが高いところで見事に結晶した、象徴的な世界をうかがうこともできます。

井上は「死に臨んで作られた悲痛凄惨な内容のかずかずの詩も、そのスタイルのみごとな形式に包まれて、最高度の芸術に開花しているといえる」としたうえで、「政治から孤立し、社会から隔絶し、ひとり死の床に呻吟しながらも、しかも、ハイネは政治や社会から離れきることはなかった」と指摘しています。

肉体は侵されながらも、精神は崩れることなく奇蹟ともいえる力を発揮したハイネの絶筆は、「ムーシュのために」とされています。片山敏彦の訳(新潮文庫『ハイネ詩集』)を読んでおきましょう。


     ムーシュのために(抄)

しかし私の墓の上には
珍しいかたちの、菫のはなが咲いていた。
花びらは硫黄いろの黄とそしてむらさきだった。
そして花の中には野生的な愛の力が生きていた。

そんな花がわたしの墓に咲いていた。
そして私のなきがらの上に身をかがめて
私の手に、額に、眼に接吻した、
悲しげに、無言に、恰も女ごころの嘆きのように。

しかし夢の持つ妖術よ! 不思議にも
硫黄いろの情熱の花は
一人の女の姿に変容した、
そしてそれがあなただった――まさにあなただった、懐しい人よ!

あなたがその花だった、そうなのだ、
その口づけで、それがあなたなのだと確かに判った。
どんな花の唇にもあんな情愛はこもっていない。
どんな花の涙にもあんな熱情は燃えていない。

私の眼はとじていたけれど
魂はあなたの顔を見まもっていた。
そしてあなたも私を見つめていた、その心は悦びにふるえつつ
姿は月の光のため精霊のようにほのぼの照って。

私たちは話さなかった。しかし私の心は聴き取っていた、
口には言わずあなたが心の奥で想っていたことを。――
口に言われる言葉は恥らいを失う、
沈黙こそなつかしく貞潔な花。

言葉には出さずに解り合う対話!
愛のこもった無言のおしゃべりをしていると
時間は、夏の夜の、幸福のおののきで編まれた美しい夢の中でのように
信じ難いほど速く流れ去る。

私たち二人が(私の夢の中で)何を話したかは、尋ねてはいけません!
蛍にお訊きなさい、蛍が草にどんな光の言葉を話すかは。
波にお訊きなさい、波がせせらぎの中で何をざわめいているのかは。
西かぜにお尋ねなさい、何を忍び泣いているのかと。

紅玉(ルビー)にお尋ねなさい、その輝きで何を話しているのかと。
菫と薔薇にお訊きなさい、その薫りで何を物語っているのかと。
けれど、尋ねてはいけません、月の光の漾(ただよ)う中で
あの花とその花の死んだ恋びととが、どんな睦ごとを話したかは。

2017年5月23日火曜日

「病牀六尺」の力⑤

「しとね」にあっても、ハイネは詩を書き続けました。先日、冒頭にあげた詩はまさに、そうした「しとねの墓穴」の〝産物〟ということになります。ならば当時のハイネは、どんなふうに詩を書いていたのでしょう。

井上正蔵によると、彼が創造した作品の数々は、当時もはやペンで書くことが困難になっていたため、不自由な手に鉛筆を握って、大きな白紙の上か、あるいは薄い二つ折版のノートに書きしるしたものが多く、原稿に残された大きな文字の筆跡は、麻痺や苦痛のあとをまざまざととどめているそうです。


1849年冬から50年夏までハイネの秘書的な役目をしたヒレブラントという人は、次のような証言を残しています。

「朝になると、いつも詩は出来上がっていました。それからいよいよ彫琢がはじまり、これが数時間も続いたのです。このあいだ、ちょうどモリエールが下婢ルイゾンの無学を利用したように、ハイネはよく私の若さを利用し、ひびき、音の抑揚、明晰などの点について、あれやこれやと私に助言を求めました。現在や過去の使いわけはことごとく厳密に考慮され、ふつう用いられない古語は、まずその適用の可否を吟味し、略綴はことごとく淘汰され、冗漫な形容詞はことごとく取除かれ、投げやりの箇所は随所に書き改められるのでした」

陰鬱なパリの夜、死の世界に彷徨しながら、天才詩人が心血を注いだ稀有の創造のいとなみが続けられていたのです。



「しとねの墓穴」で書かれた詩集『ロマンツェーロ』=写真、wiki=は、前例のない反響をおこし、1カ月足らずのうちに20000部が売れたといわれます。

2017年5月22日月曜日

「病牀六尺」の力④

先日の年表でも触れましたが、ハイネが実際に亡くなる10年前、1846年8月7日の「ドイツ一般新聞」に、どういうわけかハイネ死すとの〝誤報〟が載ります。

その後まもなくハイネと会ったエンゲルス(Friedrich Engels、1820-1895)=写真、wiki=の手紙には「あの気の毒な人はひどく衰弱している。骸骨のようにやせている。脳軟化症が拡大し、顔面の麻痺も同様。……あの人は肺病もしくは急性脳病で死ぬかもしれぬ」(9月16日ブリュッセル共産主義通信委員会あて書簡)とあります。


それでも当時はまだ、ときどき外出することは出来たようですが、1848年以降は、そうした体力も衰え果ててしまいます。

48年1月19日、母に送った手紙には、イギリスの新聞がまたも自分が死んだと報じたことを伝えながら「私の早死は非常に惜しまれました。ドイツの諸新聞の四分の三ぐらいも、私が死んだことになっています。もうそんなことには慣れっこなりました」と書いています。

死んではいないものの、生きていることが不思議なほど病状は悪化していたのです。ハイネは、もはや社会的生活をつづけることの出来ない、いわゆる肉体の廃人でした。そしてこの年の5月のある日が最後の外出となるのです。

『ロマンツェーロ』の後記に「かろうじて、私はルーブルまで足をひきずっていった。讃仰された美の女神、われらのミロの女像が台の上に立つ、あの崇高な室に入ったとき、私は、くずおれんばかりであった。その足下に伏して、私ははげしく泣いた。一塊の石さえ、あわれみをもよおさんばかりに。女神も慈悲ぶかく見下ろされたが、悄然として、お前にもわかるだろうが、私は腕がないから助けることが出来ないと云おうとしているかのようであった」と告白しています。



これから没するまでの八年にわたり、病床に釘付けされたような状態で生きることを強いられる「生きながらの死、生にあらざる生」(1848年9月17日マキシミリアン・ハイネ宛)、いわば「しとねの墓穴」に横たわらねばならなくなったのです。

2017年5月21日日曜日

「病牀六尺」の力③

ハイネ=スケッチ、wiki=の病気の正体は何だったのか。はっきりしたことは分かりませんが、その有力な説として、脳、脊髄、視神経などに病変が起こり、さまざまな神経症状が再発と寛解を繰り返す難病、多発性硬化症(MS)があげられています。


神経活動は、神経細胞から出る細い電線のような神経の線を伝わる電気活動によっています。髄鞘という〝絶縁体のカバー〟が壊れてなかの電線がむき出しになるのが脱髄疾患。

脱髄が斑状にあちこちにできて再発を繰り返すとMSになります。欧米の白人に多く、北ヨーロッパでは人口10万人に50人から100人くらい。

患者は高緯度地方ほど多いのが特徴です。平均発病年齢は30歳前後。原因としては自己免疫説が有力とされています。免疫系が自分の脳や脊髄を攻撃するようになるのです。なりやすさは、HLA遺伝子が握っているとされます。

神経が障害されると視力が低下したり、視野が欠けたりします。視神経だけが侵されるときは球後視神経炎といい、目を動かすと目の奥に痛みを感じます。

脳幹部が障害されると目を動かす神経が麻痺してものが二重に見えたり(複視)、目が揺れたり(眼振)、顔の感覚や運動が麻痺してしゃべりにくくなったりします。

小脳が侵されるとまっすぐ歩けなくなり、脊髄がやられると胸や腹が帯状にぴりぴりと痛み、手足のしびれや運動麻痺、尿失禁、排尿障害などが起こります。

多くは再発・寛解を繰り返します。再発の回数は年に3~4回から数年に1回程度。発病のときから寝たきりとなり、予後不良の経過をとる場合もあります。

素人目ですが。こうして見てくると、ハイネの症状や病気の進行にぴったりあてはまるようにも思われます。

2017年5月20日土曜日

「病牀六尺」の力②

ハイネは1797年12月、デュッセルドルフのユダヤ人家庭の長男として生まれました。ボン大学でA・W・シュレーゲル、ベルリン大学でヘーゲルの教えを受けて作家としてスタート。

『歌の本』などの抒情詩を初め、旅行体験をもとにした紀行や文学評論、政治批評などジャーナリスト的な活動も繰り広げていきました。

ところが著作中の政治や社会への批判によって次第にドイツ当局の監視の目が強まり、1831年にはパリに移り住むようになります。ここで多くの芸術家たちと交流を持ち、若き日のマルクスとも親しくなりました。

ハイネはロマン派の流れにありながらも、政治的な動乱の時代にあって批評精神に富んだ風刺詩や時事詩もたくさん発表しています。

平易な表現によって書かれたハイネの詩は、さまざまな作曲者によって曲が付けられ、とりわけ『歌の本』の詩からは多くの歌曲が生まれました。

なかでも一八三八年にフリードリヒ・ジルヒャーによって曲が付けられた「ローレライ」は広く知られ、ナチス時代にはハイネの著作は焚書の対象になったものの、この詩だけは作者の名前が抹消されて歌われました。

そんなハイネの晩年は、貧窮に喘ぎながら、寝たきりの壮絶な闘病生活を送ったことで知られています。それがどんなものだったのか、井上正蔵『ハインリヒ・ハイネ』(岩波書店)の年表をもとにたどってみることにしましょう。


1831年 5月、終生までの住処となるパリに移る。
1837年 晩夏に盲目にならんばかりに眼疾を患う。
1838年 年末に視力が再び減退し、口述代筆を余儀なくされる。
1839年 眼疾も、肉体疲労も進行。
1840年 『ベルネ覚書』を発表。肉体の疲労感、ますます激化。
1841年 年頭から眼疾起こる。マチルドと結婚。九月、ザロモン・シュトラウスと決闘。
1843年 春から激しい頭痛、左半身の感覚麻痺、視覚も錯乱。二五歳のマルクスと親交。
1844年 時事詩「貧しき職工たち」を発表。『新詩集』を刊行。眼疾、激しく起こる。
1845年 1月から左目はほとんど閉じ、右目も曇る。前年末の叔父ザロモン・ハイネの死去で、親族間で激しい遺産争いが起き、1847年に甥のカールがハイネを訪れて合意するまで続いた。このころから麻痺が悪化。
1846年 顔面麻痺が甚だしく、骸骨のように痩せ衰える。9月に訪れたエンゲルスが死を予感。ドイツでハイネ死去の誤報が流れる。
1847年 病状は好転せず。訪ねたラウペが、痩せ衰え、なかば盲いた姿に愕然とする。
1848年 重体となり脊髄病患者として入院中に2月革命勃発。体半分が動かなくなり、5月のルーブル美術館訪問を最後に寝たきり。いわゆる「しとねの墓穴」の生活が続く。6月、遺言状を書く。
1849年 「神の両足動物ではなく、死病につかれた不幸なユダヤ人」として、不安と絶望のうちに日々を過ごす。モルヒネを飲んでのかろうじての睡眠につく夜毎だったが、すばらしい詩のリズムが生まれたという。
1850年 病気のために出費もかさみ、生活は困窮。
1851年 『ロマンツェーロ』を刊行。4カ月で5000部ずつ4版。11月、遺言状を書く。
1852年 病勢は好転せず。ルイ・ナポレオンが帝政を宣告。
1853年 6月、かつての恋人テレーゼが訪れ、痛苦に堪えて生きる姿に驚嘆する。
1854年 「遺言断片」が書かれる。クリミヤ戦争勃発。
1855年 「ムーシュ(蝿)」と呼ばれたエリーゼ・クリニッツがたびたび訪問。
1856年 2月17日、吐血に襲われ死去。胸に花束をのせてもらい「花! 花! ああ、自然は美しい!」と言った。58歳。

2017年5月19日金曜日

「病牀六尺」の力①

ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネ(1797-1856)=写真、wiki=が、最晩年に作った「Wie langsam kriechet sie dahin,」で始まる4行詩を訳してみました。

  なんとゆるやかに這っていくことだろう
  時間というむごたらしいカタツムリは
  なのにぼくはぜんぜん動けず
  かわり映えなきこの六尺に置かれたままだ

  ぼくのくらい独房にはひとすじの陽光も
  一条の希望のかがやきも射してはこない
  この宿命的なふしどと取りかえられるのは
  ただ墓場の穴ぐらしかありはしない

  たぶんぼくはずうっと前から死んでいるんだ
  夜になると脳髄でくりひろげられる
  いろとりどり仮装の列をなす幻想は
  たぶん幽霊たちのなせるわざ

  それは幻影にちがいあるまい
  古い異教の神たちのはらからだろう
  やつらは詩人の屍のドクロを
  ご機嫌な遊び場にえらんだ

  おそろしくも甘美なるオルギア
  この夜ごとに狂いまくる百鬼夜行を
  朝にはおりおり詩人の死んだ手が
  書きつくそうと探りもとめているのだ


ハイネが生前まとめた最後の詩集は『1853・54年詩篇』で、死の2年前、1854年10月に、ホフマン・ウント・カンペ社から出された『雑録集』(全3巻)の第1巻として刊行されました。

私が訳したこの詩は、『1853・54年詩篇』にある「続ラザロ詩篇」の一篇です。これは、ハイネの主要な詩集の一つ『ロマンツェーロ』のなかにある「ラザロ詩篇」の続篇にあたります。

1893年にカルペレスが『ハイネ著作集』を編んだときには、『ロマンツェーロ』以後の詩すべてを「最後の詩集」と名付け、そのなかに『1853・54年詩篇』も編みこまれました。

この訳詩に出てくる「カタツムリ」は、殻軸筋と呼ばれる筋肉で殻内の殻軸部に付着させ、この筋肉を収縮させることで体を殻内に引き込んで運動します。平均的な速さ時速6メートルほど、移動速度の世界記録は9.9メートルに達するそうです。

「オルギア」は、古代ギリシアにおいて一部の秘儀宗教カルトに見られた陶酔的な礼拝の形態のことです。特にディオニューソスを祀るカルトの儀式がこう呼ばれました。

かがり火のそばで、はめをはずした仮面舞踏が行われ、ティーターンたちが神々を苦しめたことを想起させるように生贄が切り刻まれていったそうです。

2017年5月18日木曜日

北村太郎「五月の朝」⑬

〈本来は怠け者で、第一詩集でろくな詩の数もなくて苦労したのに、省みれば、昭和五十三年以降は書いたという気がするんです。

けれどもそれは量の問題であって、質の点ではいろいろ問題もあるかもしれませんが。

とにかくたとえば田村とか鮎川と比べると、ぼくはやはり正当な詩人ではないような気がします。

中桐にしても全詩集を読み返してみるとすごい詩人だと思うし、彼はぼくにとって詩の先生という気がします。

もともとぼくは「センチメンタル・ジャーニー」と題につけるくらいだから、そのようなタイプの詩を書いているけれども、感情的と感傷的とでは日本語としてずいぶん違うと思うんです。センチメンタリストというのは感覚的な人間であるということです。

それでいえば、老年の入り口に入って、感覚なんてものが新鮮になりようもないのだけれども、自分としては若い人とつきあってもおもしろいし、街を歩いていても我ながらおもしろい感覚で街を見ているなという気もしたんです。

昔のモダニストの痕跡も残っているでしょう。どうにも感覚的な詩が多いんです。ただ感覚に溺れると、自己陶酔になり、他人が読めば必然的におしつけがましいということになる。

そういう自覚があったから抑えたつもりだけれども、たとえば詩集『犬の時代』(一九八三年)などを読むと、抑えがまだ緩いんじゃないかという気がするんです。

また、その前に出した詩集『悪の華』(一九八一年)については、たまたま三角関係でゴタゴタしていたときの揺れ動く気持ちがわりとよく書けていると自分では思っているんです。けれども、やはりセンチメンタルすぎるところがある。

それで一番最近の詩については、ひと言でいえばもっと軽く書いてもいい、俗語的なスタイルで書いてもおもしろいんじゃないかと考えているんです。それは求めて得られるものではないわけですが、北村のような厭世的な詩を書いていたやつにしては白けた詩を書いているといわれるのも悪くない。

年をとって病気になったこともあって、どうしても“デス”の死のほうが気になる。ですから決して軽くもないが、スタイルとしてはちょっと軽佻浮薄に流れても構わないというか。センチメンタルのセンチメントを抑えて、しかも自分の感覚で書けたらという気がするんです。〉

絶筆となった自伝『センチメンタルジャーニー』で、太郎は自らの詩について、このように書いています。

      五月の朝

  朝
  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い
  新聞をつぎつぎに読む 放火!
  愉快犯とは まったくすばらしい単語だ
  三方の窓のそとでヒヨドリたちが
  あまい声で啼くのもすてきだ
  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう
  とっても痛いめにあうところだったな
  やました公園で この冬の夜
  セコい中学生どもに蹴ころされたかもしれないのだぞ
  茫々たる髪と過去をきげんよく整えよう
  九時だ『悪の華』だ
  この安藤元雄訳を午前に読む習慣はなんたる快楽!
  どこかにあった一行<いとしい女〈ひと〉は裸体だった
  しかも私の心を知りぬいて>
  コーヒーいい匂い
  ヤバいおもい
  さんさんと 日は昇りつつある
  いかなる情念にとりこまれようともゆるせ
  かなたにひかる海よ


戦争直後などに書いかれたた太郎の初期の詩篇にひかれた私などは、「五月の朝」を初めて読んだとき、ちょっと軽すぎるんじゃないのという印象を受けました。もちろん詩人は、そんなことは百も承知で、折句という遊びをも織り込んだこの詩を作っているのでしょう。

「もっと軽く書いてもいい、俗語的なスタイルで書いてもおもしろいんじゃないか」「北村のような厭世的な詩を書いていたやつにしては白けた詩を書いているといわれるのも悪くない」。そんな志向は、この詩にも働いているように思われます。

詩集『笑いの成功』について北村は、「『犬の時代』が内閉的だったので、その反動ですかね、年も年なのであまり陰気に終えたくなかった。詩の配列を梅雨の詩から始めて五月の詩で終えたのも、さわやかさを読後に残せるようにしたかったからです」(「東京新聞」1985年12月14日夕刊)と語っています。

そんな『笑いの成功』の中でも、「五月の朝」は太郎はとってお気に入りの一篇だったようです。

“血液のがん”多発性骨髄腫の診断を受けてから5年経った1992(平成4)年の10月26日、太郎は虎の門病院=写真=で永眠しました。享年69歳。猫と囲碁とを、こよなく愛した人生でした。

2017年5月17日水曜日

北村太郎「五月の朝」⑫

  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう

そんな横浜で独り暮らしをしていた当時、たまにぶらぶらと出かけていく港が、太郎にとって気持ちの拠り所であり、詩を生むのに欠かせない場だったのではないでしょうか。


「きょう、港にいってきた。梅雨の晴れ間の日曜日。たいそうな賑わいだったな、やました公園は。

あの世が信じられないぶん、この世が信じられない、あるいは、あの世が信じられるだけ、この世が信じられる等々、つまり彼岸と此岸がバランスを保ってるとするのは人間の考えの癖であって、くせという字が病いだれであるように、これは精神の病気だ。

でも、これは痼病であるから治る見込みはない。ご大層なものは死んだ、とずいぶん昔、いわれたが、痼病だから治るわけがない。

ご中層、ご小層がしゃしり出ているだけの話である。そして、精神はちっとも変わらない。せいぜい秤〈はかり〉がこちら側に少々かしいでいるくらいの景色が当今の流行なのだ。

港は手をつなぎあった若者が多かった。それに家族づれ。子どもたち。老人はあまりいない。氷川丸と大桟橋のあいだに挟まれた海側に数百メートルの遊歩道があって、人びとはベンチに腰かけたり、ゆっくり歩いたりして、たいていは目を海に向けている。

いなかの海岸や浜には自然しかないけれど、港には文明がある――といいたいところだが、きょうは大桟橋に船が入ってなくて、いささか淋しい。遊歩道から海へ半円形に突き出ているところがあって、そこの低いフェンスに足をかけて、しばらく海を見ていた。

そのうちに船員を沖合に碇泊している貨物船に運ぶらしい艀〈はしけ〉が、大桟橋手前の舟だまりから出て、右の港口の方向を目ざしていく。かなりスピードを出していて、舳先〈へさき〉が突っ立っている。艀に視線をとめていると、こちらのからだが右から左へ動いていく。

駅で停まっている電車に乗っていて、隣り車線の電車が動きだすときの感じと似ているが、こちらが船でなく、海に乗ってるという感覚は独特である。艀が遠ざかるまでいくらも時間はたたなかったはずだが、とてつもなく長い時間のように思われ、また、このうえもなく貴重な数分のようにも思われた。

だから、もう日の暮れが近く、梅雨どきにしては爽やかな風を吹き送りつづけていた雲が少し切れて薄いオレンジ色の陽が斜めにさしてきても、半袖シャツではさすがに寒くはあったものの、もう一隻、こんどはPILOTと船腹いっぱいに白いペンキで記してある小船が先刻と同じ舟だまりから沖へ向かいだしたときには、やはりそれに視線をとめないわけにはいかなかった。

海のうえに立っていて、絶えず一方向へ動いていながら、からだはこの世のものではない気分。生と死のあいだの快楽そのもの。死の瞬間がこのようであれば、と願わないではいられなかったが、それこそこちら側のまぼろしだろう。生きるのはむずかしいけれど、死ぬのもまたなかなかめんどうな仕事ではないか」(「あの世の微光」1986年6月『現代詩手帖』)。

これを書いたころから、太郎は健康を害するようになります。咳がとまらず、頑固な鼻血に悩まされます。1987(昭和62)年、虎の門病院の精密検査で、血液のがん、多発性骨髄腫と診断されのです。発病から半年、長くても2年という死の病でした。

翌1988(昭和63)年に、田村隆一と和子は離婚。12月には、鎌倉の和子の家に転居しています。太郎は66歳。この年の10月に詩集『港の人』を出しました。同詩集には1~33と番号がふられた33篇が載っているが、その16番目をあげておきましょう。

  おなかをこわす
  からだをこわす
  という
  肺をこわす、とか
  頭をこわす、なんていわない
  どうしてかな、と考えながら開港資料館の前を歩いていく

  ぼくの骨髄は
  寒暖計で
  それがきょうはずいぶん低いとおもう
  水銀は腰のあたりか
  うつむいて歩いていると
  枯葉がすこし舞って、しつっこくついてくる

  こんど恋人にあったら
  たましい、こわしちゃってね、っていってやろうか
  つぶやきながら
  枯葉をけっとばし
  愁眉をひらく
  検疫所のビルの八階に喫茶店があるのを発見したのは
  あれは
  冬の始め
  きょうみたいな寒い日で

  エレベーターを降りながら
  いいとこみつけた、と喜んでいた
  きょうも
  そこへ昇って、にこにこしていよう

2017年5月16日火曜日

北村太郎「五月の朝」⑪

田村隆一とその戸籍上の妻の和子との間の奇妙な三角関係に疲れ切って、1981(昭和56)年からはじめた横浜市・大芝のアパートでの独り暮らし。

太郎は「経済的には本当に参ったんですけれど、楽し」い生活を送っていたのですが、当時、精神的に不安定になっていた和子との関係が切れたわけではありませんでした。

〈ここでもう一度、どうして鎌倉を出たかというと、こういうことがあったんです。鎌倉でぼくは朝と昼くらいは自分で作って食べていたけれど、へんな話ですが旧知の仲のよしみで、A子さんの元亭主が「それならうちに来て食えや」っていう。

その人は酒が好きで、ぼくはほんの少ししか呑めないので、世間一般の話をしている。けれど、なんかの拍子でちょっと意見がくい違うと興奮してしまう。一番かわいそうだったのは、口論なんかをすると、A子さんがオロオロしちゃう。

自分の戸籍上の亭主と恋人といっしょに飯食っていて二人が喧嘩するというんだから、身のおきどころもない。そんなこともあってA子さんがちょっと精神に異常をきたしたんです。それでぼくは精神病院に連れていった。そんなにひどいことはなかったけれど、ときには入院させることもあった。

ぼくの立場も不可解なものだったけれど、A子さんの亭主っていうのは酒呑みで、普段はわりと正常なんですけれど、呑むとわけがわからなくなって、A子さんをいじめる。そんなことでまたおかしくなって、やはり越したほうがいいとなった。

越したあともぼくは何度も病院に見舞いに行ったけれど、入院のときには亭主の許可が必要だっていうのに、元亭主は見舞いにもこないっていう。横浜から鎌倉まで行って、そこからバスに乗って山の上にある病院に見舞いに行く。けれど、そんなに病気は重くない。

どうしてそれが分かったかというと、精神病院の中の情景をこと細かにおもしろく話してくれるんです。精神がおかしかったら、そんなことできっこない。たいしたことはないと思ったわけです。だいぶよくはなったけれど、いまだにその病院には通っている。

よく考えてみれば、グロテスクな話だ。亭主は被害者だっていうことを声高にいうけれど、たしかにぼくほうが悪い。A子さんがそうなったについてもぼくのほうに責任がある。

考えるといやになったりして。そのときの日記にも書いたけれど、「ぼくはひょっとしたらいろいろな人を駄目にする星に生まれているのかもしれない」という気もして、本当に参った。

一九八六年(昭和六十一年)十月、鮎川が急死したんですが、その少し前にA子さんが自殺未遂をやったんです。いつだったか、彼女とこういいあったことがある。

「わたし死ぬなら横須賀線に飛び込んで死ぬから」「冗談いうな。世間知らずだから呑気なこというけれど、死体はきたねえし、横須賀線が止まったら国鉄が損害賠償で関係者に何千万円という賠償金を請求するから、そんなくだらないことやめろ」と。

ところで、ある日、夜の十二時前後に「わたし、今日死にます」って電話がかかってきて、ブツッと切れた。ぼくは面倒だからいいやなんて思いもしたんだけれど、これは本気だ、横須賀線に飛び込むんだと分かったから、駅に電話して横須賀線の最終電車の時間を聞いたら、あと三十分くらしかない。

これは大変だと、横浜駅までタクシーで行って、助役にこれこれの女の人が自殺するといっているから救けてくれとかけ合った。彼女は自殺する場所もいっていた、逗子の七越えというところが一番いいと。最終電車なら人に迷惑かからないと思っている。

そうするうちに、捕まえましたという連絡があったんです。睡眠薬でフラフラになって飛び込む寸前、とっつかまえた。運転手も徐行してくれたらしい。そのとき彼女はみんなに手紙を書き残している。「わたしは死にます」と。十分まちがったら駄目だったにちがいない。〉(『センチメンタルジャーニー』


ひとつのちょっとした誤解やいさかいが、とり返しのつかない亀裂を生んだり、心のありようや認識を乱したり、記憶の崩壊をまねいたり。そんなリスクといつも隣り合わせで、わたしたちは生きています。

『笑いの成功』=写真=は「五月の朝」のような軽めで明るい作品が多い詩集ですが、中には、精神を病んだ「A子さん」の世話をしていたころの微妙な心模様をうかがわせる、こんな詩もあります。

    暗号

  わたくしは数人の友だちにかこまれて
  長い手紙を読んでいた
  その書き手がそこにいたので
  これ、Qくんのだよね、と
  人さし指の向こうで声がし
  わたくしは自分が言いまちがえたのに気づいた
  すると長い手紙の内容が
  とつぜん意味不明になってしまい
  わたくしは蒼白になって便箋を何度も繰った
  言いまちがえによって
  書き手まで不明になっていくように思われ
  すごく胸が苦しくなった
  目ざめるとまだ夜なかであって
  わたくしのベッドをとりかこんでいる
  いくつかの人影が見えた

2017年5月15日月曜日

北村太郎「五月の朝」⑩

  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い

「五月の朝」は、こんなふうに始まる。陽が昇りつつある。食卓に、かなり強まってきた春の光がキラキラと差し込んでいる。そこに、コーヒーの匂いがただよってくる。

  春来れば路傍の石も光あり 高浜虚子
  磔像の全身春の光りあり 阿波野青畝
  春光や白髪ふえたる父と会ふ 日野草城

「春光」という季語がある。俳句では、この詩の時期より少し前の早春の感じの季語として使うことが多いが、輝く春の陽光には心浮き立つ格別なものがある。太郎の記憶の中にも五月の陽光は、特別な彩りと匂いを放って刻まれていたようだ。

〈戦前・戦中に浅草に住んでいたころは、たいてい五月のよく晴れた日を選び、一つの町ごとに町ぐるみの掃除をしたものだった。

年末の煤払いはいまでも家単位にやっているところが多いようだが、いわゆる大掃除は、梅雨に入る前に畳まで全部上げて、店、居間、台所にいたるまで、埃り一つないように清掃し、伝染病シーズンに備えるのが目的であったようである。

わたくしは子どもだったが、表の舗装道路に、二枚ずつ人の字形に立てかけた畳の列が並んでいるところをくぐり抜けて遊んだりしたものだった。さわやかな五月の風、かなり湿度の高くなった日の光。

箪笥や嵩ばった什器など、重たい物をかつぐ男衆の上半身裸の腕や背に汗が輝く。昼食は母や女中が作った握り飯がきまりだった。

隣りの文房具屋、その先の果物屋、前のパン屋、鮨屋、どこも忙しげに人びとが立ち働き、ときには持ち運ぶ陶器類を取り落として、道に派手な音が響き、女たちの悲鳴のような高い声が聞こえることもあった。

そうこうするうちに、たっぷり陽光を吸いこんだ畳を叩きまくる段どりになる。濛々たる埃りの煙がいっそ爽快に街のうえの空に舞い上がる。細い棒切れで叩く音が五月の大通りに響く。〉(北村著『詩へ詩から』)


ところで、「コーヒーいい匂い」からはじまる詩「五月の朝」は、コーヒーの匂いでしめくくられる。

  コーヒーいい匂い
  ヤバいおもい
  さんさんと 日は昇りつつある
  いかなる情念にとりこまれようともゆるせ
  かなたにひかる海よ

ひかるコップとともにあった「コーヒーいい匂い」は、ここに来て「ヤバいおもい」へとつながる。

「いかなる情念にとりこまれようともゆるせ」という、もはや、苦さも、渋さも、甘さも人生のなかで味わい尽くしてきた大人の言葉になっているのだ。

コーヒーといえば、詩集『笑いの成功』のなかには、六月のコーヒーの詩も入っている。季節がすすんで気候も、詩人の心象もだいぶ変化しているあらわれか、受けるイメージは「五月の朝」とはだいぶ異なる。

     白いコーヒー

  さわやかな風が吹いている 六月
  ゆうべはあんなに恐ろしく雨戸やガラス窓を
  揺り動かし、小さな蛍光灯で翻訳小説を
  読んでいたぼくの額に、青い汁を垂らされていたのに

  いま朝 あの邪悪な風の意志、あの
  入り組んだ話の筋を追うのを中断させた忌々しい
  うなり声、ついにぼくの手から本を奪って
  ウイスキー・グラスを押しつけた、あの陰険な息は

  ない! 悩ましげに身を揉んでいた
  ミズキやソメイヨシノの林は、無数の葉を
  さざなみのように瞬かせ、窓に光の挨拶を送っている
  なんということだろう、ゆうべの

  闇の吊り上がった目がいまはこんなにも
  やさしい緑の微笑に変わってしまう風の表情
  自然にからかわれているだけなのか、ぼくは
  と、すこし憂鬱になってしまう でも

  涼しい風は快く、青空のした、遠くの街から
  いまにも行進曲が聞こえてくるみたいな――パンを
  一枚焼き、コーヒーをいれる 茶色の
  茶碗にフィルターペーパーをかぶせ、ひとさじの粉に最初の

  熱い数滴をそそぐと、たちまち芳香がひろがる ついで
  一気に一杯ぶんの湯を これで
  気分のわるいわけはないのだが、それでも
  心が揺れ動くのは、自然のなかの自分が

  ゆうべのあらしから、錨の爪でひっかかれる
  海底の砂のように、荒らされ、曇っているからなのだろう
  「あるものはないものばかり」つづめていえば
  そうなるが、ムクドリも、ヒヨドリも

  愉快そうに林から出たり入ったりしているではないか!
  茶碗に入ったコーヒーを見る 茶色の
  容器のなかの黄色い液体とは、ずいぶん
  陰気だな――ともあれ、あした

  また、口笛のように風が吹きだすとしても、きょうは、
  きょう、生きるに値する幻があればいいのだ
  たとえば、白いコーヒーがなみなみと
  茶色の茶碗につがれる、ある夜の!

2017年5月14日日曜日

北村太郎「五月の朝」⑨

  九時だ『悪の華』だ
  この安藤元雄訳を午前に読む習慣はなんたる快楽!
  どこかにあった一行<いとしい女〈ひと〉は裸体だった
  しかも私の心を知りぬいて>

言うまでもないことかもしれないが、「五月の朝」に出てくる『悪の華』というのは、フランスの詩人シャルル・ピエール・ボードレール(1821~1867)=写真、wiki=の詩集です。


ボードレール唯一の韻文詩集で、象徴主義のはじまりを告げる歴史的な意味をもちます。

初刊は1857年。「憂鬱と理想」「悪の花」「反逆」「葡萄酒」「死」に区分され、序詩を含めた101篇が収録されました。

しかし、このうち禁断詩篇といわれる6篇(「宝石」「忘れの河」「あまりに快活な女に」「レスボス」「地獄に落ちた女たち」「吸血鬼の変身」)が、反道徳的だとして風俗壊乱の罪に問われて罰金処分を受け、これらの詩の削除を命ぜられます。

第2版は1861年に刊行。削除を免れた詩のほかに32篇を追加、配列を変更して全125篇を収録する。現在はこの第2版が定本となりました。ボードレールの死後に、友人たちが編集した第3版が刊行されています。

1866年に補遺詩集『漂着物』として刊行された作品を含めた152編が収められました。ただ、禁断詩篇の6篇は第3版にも入れられず、『悪の華・補遺』(1869年)に収録されています。

『悪の華』は日本でも、多くの詩人やフランス文学者によって翻訳されています。「安藤元雄訳」が最初に出たのは、1981年。集英社の『世界文学全集 42 ボードレールほか』に収められたものです。

「五月の朝」が発表された1983年には、集英社から単行本の『悪の華』が出版されました。1991年には文庫版が出ています。文庫版で安藤元雄はボードレールや『悪の華』について次のように解説しています。

〈その唯一の詩集『悪の華』は、初版が出るや否や風俗壊乱の罪に問われて罰金刑を宣告され、中で最も特徴的な詩を六篇も削除するよう命ぜられて、世間にはいわば悪名を方をとどろかせてしまった。

この罰金が払いきれなくて、ナポレオン三世の皇后に嘆願状を書き、まけてもらう始末である。継父は有力な軍人で、トルコ大使やスペイン大使をつとめ、最後には元老院議員にまでなった人だが、その継父に真向からそむいたのだから仕方がない。

生父ゆずりの資産がないわけではなかったのに、若いうちにあまり浪費をしたので準禁治産者あつかいとなり、死ぬまで後見人から僅かの定額を支給されるだけで暮さなければならなかったから、いつも窮乏していた。とうとう借金に追われてパリを逃げ出し、ベルギーに行って病に倒れる。

しかも誇りと自負は高く、若い一時期にダンディとして羽ぶりのよい生活もしたことがあるだけに、彼はいつも自分の置かれている状況について屈辱を感じ続けた。悲惨な一生と言わなければならないだろう。

にもかかわらず、そのたった一冊の『悪の華』が、その後のフランスの、ひいてはヨーロッパの、さらにはその影響を受けたもっと広汎な国々(その中にはむろん日本も入っている)の、詩の流れを決定した。

それは単にそれまでの通年的な詩の書き方をほんの少しばかり変えた(かりにそういうことがあればそれだけでもすでに大したことには違いないが)というような、なまやさしいものではない。

むしろ、詩というものについての根本的な見方、とらえ方に変更を迫ったのだ。あえて図式的に言えば、詩を書くという作業を水平にひろがることから垂直に深まることへと変えた。

ボードレール以前のロマン主義が、さらにそれに先立つ古典的、客観主義的な詩の理解の仕方への挑戦として、強烈な主観主義的態度を投げつけたのが事実だとすれば、ボードレールはそのロマン主義の主観そのものの根に問いをかけたと言える。〉

いずれにしても、詩を作ったころ太郎は、出版されたばかりの「安藤元雄訳」を「午前に読む」のが習慣になっていたのでしょう。

ところで、「いとしい女〈ひと〉は裸体だった/しかも私の心を知りぬいて」という詩句は、罰金処分を受けて削除が命じられた禁断詩篇のなかの「宝石」の冒頭に出てきます。「安藤元雄訳」ではつぎのようになっています。

     宝石

  いとしい女〈ひと〉は裸体だった、しかも、私の心を知りぬいて、
  音高く鳴る宝石だけを身につけていた。
  その絢爛〈けんらん〉豪華なよそおいの 誇らしげな姿と言えば
  幸福の絶頂にあるモールの女奴隷を思わせた。

  ゆらめきながらそれが鋭い嘲〈あざけ〉るような響きを立てると、
  金銀細工と宝石の この輝きわたる世界を前に
  うっとりと心を奪われ、狂おしいほどに私は愛する
  それら 音と光がまじり合っているものたちを。

  さていま 彼女は身を横たえて 愛されるままになり、
  長倚子〈いす〉の高みから嬉〈うれ〉しげにほほえみかけていた
  海のように深くやさしい私の愛が
  断崖〈だんがい〉に寄せるように彼女の方へのぼるのを見て、

  目をひたと私に据えたまま、飼い馴〈な〉らされた虎〈とら〉のように、
  茫然〈ぼうぜん〉と夢みる様子で彼女はしなを作ろうとした。
  すると あどけなさが淫〈みだ〉らさと一つになって
  移り変わるその姿に新しい魅力を添えて行った。

  その腕と言い脚と言い、太腿〈ふともも〉と言い腰と言い、
  油のようになめらかに、白鳥のようにしなやかに、
  私の晴れ晴れと見開いた目の前を通り過ぎた。
  また その腹やその乳房、私の葡萄〈ぶどう〉のこの房は、

  せり出して来た、「悪の天使」よりも甘ったるく、
  私の魂のおさまっていた休息を掻〈か〉き乱そうと、
  さらにはそれが静かに孤独に坐〈すわ〉っていた
  水晶の岩の上から 魂を追い立てようと。

  新しい図柄で つながってしまったような眺めだ
  アンティオペーの腰が 年端も行かない少年の上半身に。
  それほどに胴は細くて骨盤が張り出していた。
  褐色の浅黒い肌に頬紅〈ほおべに〉の何と綺麗〈きれい〉だったこと!

  ――やがてランプが力尽きて死んでしまうと、
  いまは煖炉〈だんろ〉の火が部屋を照らすばかりとなったので、
  それが焔〈ほのお〉の溜息〈ためいき〉をつくたびごとに、
  琥珀〈こはく〉いろのこの肌が血の中にひたるのだった!

2017年5月13日土曜日

北村太郎「五月の朝」⑧

まずは「あっこをいつまでもだいていたいぼくのかわいいひとよ」という折句を組み込みます。

そして、思いつくままの言葉を横へ横へととテンポよく連ねてゆきます。

「五月の朝」を書いているのは、毒のない「愉快犯」かもしれません。

そこに出てくるのは、「バターをパンに塗る/コーヒーいい匂い/新聞をつぎつぎに読む」ごくふつう日常。

最近のできごとであり、街で起こった事件です。

  朝
  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い
  新聞をつぎつぎに読む 放火!
  愉快犯とは まったくすばらしい単語だ
  三方の窓のそとでヒヨドリたちが
  あまい声で啼くのもすてきだ
  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう

すでにみたように、このころ太郎は「金はないけれど」も気ままで楽しい「独身」生活を送っていました。住んでいたのは、海に近い横浜市中区大芝台の「六畳と三畳二間のアパート」です。

詩が発表された1983(昭和58)年、横浜では、21世紀に向けて街の命運を賭けた巨大な都市開発がはじまっています。横浜都心部の一体化と強化をめざしたウォーターフロント「横浜みなとみらい21」事業です。

面積186ha、うち埋め立て部が76ha。ランドマークタワーや日産本社ビルなどオフィスビル開発を進める中央地区、コスモワールド、赤レンガ倉庫などがある新港地区、そごうやスカイビルがある出島地区があります。現在では、就業人口が10万人近くになるそうです。


「うん開港記念日だな あさって」。「横浜みなとみらい21」はその後、横浜開港祭のメイン会場にもなりました。三角関係に疲れ、横浜に住むようになったのにはいろんな要因があったのでしょうが、きっと太郎は体質的に港町が肌にあっていたのでしょう。

「五月の朝」を書く20年以上前に、「のんきな詩であるが、わたくし自身、この作品には割りと愛着がある」という「ヨコハマ――1960年夏」という次にあげる詩を作っています。

  きたない海だ 洪水の河口のように
  ミルクコーヒー色だ おまけに
  ビニールの袋や藁屑や、いかがわしいものが浮かんでいる ぼくは
  がっかりしてガムをかんだ だが

  やっぱり港はすてきな光りと響きだ 真夏の
  青空の下の、たくさんの貨物船はすばらしい威厳だ おお
  おびただしい国よ欲望よ法律よ!
  ペンキを塗りかえたばかりの緑色の船と
  貝殻のこびりついた、錆びた船とが
  ひとつのブイに繋がれている
  そのもやい網のむこうの白灯台と赤灯台のあいだからは
  水色のタグボートにひかれて、鼠色のタンカーが入ってくる

  いっぱいに絞った写真のように
  オレンジ色や茶色のマストが重なりあい
  かもめたちの残像のあとに、ドックのクレーンが迫ってくる
  リベットを打つ音、テナーサックスがあくびする汽笛、バースの
  いつも陰気な岸壁を、猫のようになめている
  波の舌、大桟橋から街へ
  フルスピードで走っていくタクシーの
  熱いゴムのきしり……車には、小麦色の
  かわいいオンリーが、シガレットをふかしていた だが

  やっぱり港はいい匂いだ チーフ・オフィサーの白い制服も
  過重労働の若い荷役人夫のグリースくさい汗も
  みんなすてきにロマンチックだ
  (こどものとき、配管工か
  貨物船のかまたきになりたいと思ったことがあった)
  ぼくは満足してガムをほきだし、ポケットからサングラスを出して
  かけた そしてマストの信号旗や
  煙突のマークを、もういちど
  ゆっくり観察しはじめた

〈当時、わたくしは三十七歳だった。しばらく詩を書かないでいて、なぜ「ヨコハマ」を書く気になったか、よくは思い出せないが、そのとき勤めていた会社の休みの日に、妻と子ども二人を連れて横浜の港へ遊びに行った、その印象が強かったのではないかと思う。

子どもたちはまだ小学校にも上がっていなかった。わたくしたちは(今でもあるが)港内巡覧船に乗って、港を一巡した。わたくしは滅多に旅行をしないし、街で遊ぶ以外に、外出や散歩もほとんどしないが、夏の横浜以降、港が好きになった。

十年くらい前だったが、元日か二日の寒い日に一人で港内巡覧船に乗ったことがある。さすがにこの日は寒風吹きすさんで、壮烈な港見物だったが、それでもけっこう楽しかった。〉(北村著『詩を読む喜び』)

*写真は、「みなとみらい21と富士山の夕景」(ウィキペディアから)

2017年5月12日金曜日

北村太郎「五月の朝」⑦

1983(昭和53)年に発表された「五月の朝」は、加島祥造が見つけてくれたという「横浜は中区大芝台の六畳と三畳二間のアパート」で一人暮らしをしているときに作られた作品です。

鎌倉での三角関係から逃れるようにやってきた地でしたが、近くには緑豊かな中国人墓地、10秒もかからないところに銭湯があり、3、4分歩くと下町ふうの商店街。15分も歩くと根岸の競馬場。太郎は一目で気に入りました。

〈とにかくそこらのおじさんやおばさんと仲よくなって、ぼくが商店街を歩くとあっちからもこっちからもみんな、「こんにちわ」と声がかかる。それでいて夜はものすごく静かで、ちょっと行くと牧場まであって、牛がモーッと啼く。〉(『センチメンタルジャーニー』)

そんな新たな「独身」生活のなかで、性懲りもなく親子ほど年の違う若い女性への恋もしていたわけです。それはともかく、ここで詩の中身を少し詳しく見てみましょう。

  朝
  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い
  新聞をつぎつぎに読む 放火!
  愉快犯とは まったくすばらしい単語だ
  三方の窓のそとでヒヨドリたちが
  あまい声で啼くのもすてきだ
  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう
  とっても痛いめにあうところだったな
  やました公園で この冬の夜
  セコい中学生どもに蹴ころされたかもしれないのだぞ
  茫々たる髪と過去をきげんよく整えよう
  九時だ『悪の華』だ
  この安藤元雄訳を午前に読む習慣はなんたる快楽!
  どこかにあった一行<いとしい女〈ひと〉は裸体だった
  しかも私の心を知りぬいて>
  コーヒーいい匂い
  ヤバいおもい
  さんさんと 日は昇りつつある
  いかなる情念にとりこまれようともゆるせ
  かなたにひかる海よ


「愉快犯(ゆかいはん)」は、世間を騒がせたり、恐慌におとしめて、それを喜び、楽しむ犯罪や犯人のことをいいます。私がこの言葉をはっきり意識するようになったのは、1977(昭和52)年1月から2月にかけて東京や大阪で次々に起こった青酸コーラ無差別殺人事件=写真=です。

1977年(昭和52年)1月3日深夜、東京都港区で東海道新幹線の列車食堂のアルバイトに就いていた男子高校生が、バイト先から宿舎へ戻る途中、公衆電話に置かれていた未開封のコカ・コーラを見つけました。

それを持ち帰って飲んだところ、異様な味がしたのですぐに吐き出し、水道水で口をそそいだが突然倒れてしまった。高校生は意識不明の重体となり、病院に運ばれて救命処置が行われましたが、まもなく死亡します。

死因はシアン化ナトリウム(青酸ソーダ)入りのコカ・コーラを飲んだ中毒でした。この事件の直後にも、高校生がコーラを拾った電話ボックス近くの歩道で、作業員が倒れているのが見つかり、死亡しました。

その後、東京駅の八重洲地下街で見つかったチョコレートなどからも青酸化合物が検出されます。チョコレート箱に「オコレル ミニクイ ニホンジンニ テンチュウヲ クタス」などと脅迫文らしきものが添付されていました。

これら一連の事件は結局、犯人にたどり着かずに時効となっています。

「ヒヨドリ」は、ヒーヨ、ヒーヨと甲高く鳴くのが特徴的な鳥。日本では留鳥または漂鳥としてごく普通に見られるが、海外での生息数は少ない。里山、公園など適度に樹木のあるところに多く生息し、町中でも見られます。

果実や花の蜜を好み、ツバキやサクラなどの花に集まって蜜を吸ったり、庭にミカンやリンゴなど果物の半切れを置いておくとすぐにやって来ます。

「開港記念日」は、横浜港のことをいっているのだろう。横浜港は、安政6年6月2日(1859年7月1日)に開港した。その翌年の6月2日に、開港1周年を記念して人々が山車を繰り出すなどして祝ったのが開港記念日の起源とされています。

現在の開港祭は1981年、「国際デープレ横浜どんたく」として開かれたのにはじまります。「五月の朝」が発表された前年の1982年から、正式に開かれるようになりました。いまや横浜の夏を告げる大イベント。また毎年6月2日は横浜の開港記念日と定められ、横浜市立の学校は休業日となるそうです。

この詩が発表になった前年1982年の12月から翌年2月にかけて、「やました公園」すなわち山下公園など横浜市内の公園や地下街で、ホームレスが次々に襲われ、殺傷される横浜浮浪者襲撃殺人事件が起こっています。

犯人は横浜市内に住む中学生を含む少年のグループ。

中学2年生3人、中学3年生2人、高校1年生、16歳の無職4人の計10人でした。

かれらは「おまえらのせいで横浜が汚くなるんだ」と叫びながら浮浪者に暴行を加え、「横浜を綺麗にするためゴミ掃除しただけ」と自供しました。

かろうじて寝るところはあったものの「茫々たる髪」で、「銀行預金の残高が五百円になってしまっ」たこともあったという浮浪者寸前のギリギリの生活をしていた当時の太郎にとって、「痛いめにあうところだったな」というのは、まさに実感だったのでしょう。

近年、ケチなことや、ずるいことの意味でさかんに使われるようになった「セコい」。もともとは、悪い、下手というような意味、あるいは、客種が悪い、景気が良くないといった、的屋、芸人の隠語として用いられていました。それが関西を中心に一般に広まり、金銭的なことをいうようになったようです。

「ヤバい」は江戸時代から、悪事がみつかりそう、身の危険が迫っているなど、盗人や的屋が不都合な状況になったときに使っていた言葉だそうです。それが、戦後のヤミ市などで一般にも広がりました。

1980年代には若者の間で、怪しい、カッコ悪いなどの意味でも使われるようになりました。1990年代に入ると、すごい、ぬけだせないほど魅力的といった肯定的な意味でも用いられています。



太郎は新聞社で長く校閲に携わっていました。その影響もあってか、「五月の朝」の中には、新鮮な“ニュースの言葉”が、あちこちに散らばっています。

2017年5月11日木曜日

北村太郎「五月の朝」⑥

53歳の男が親友の妻と恋に落ちた時、彼らの地獄は始まった――ねじめ正一の小説『荒地の恋』にも描かれ、すっかり有名になった、北村太郎、田村隆一とその妻をめぐる奇妙な“三角関係”をもう少し眺めておくことにしましょう。

太郎が家を出てはじまった川崎でのA子さん(田村和子)との「隠遁生活」は、長くは続きませんでした。

太郎はあちこち転々と居場所を変えながら、A子さんや「元の夫」とのついたり離れたりの関係が続いていきます。

そのヘンについて『センチメンタルジャーニー』には次のように記されている。


〈そこにいたのは短い間でした。一九七八年(昭和五十三年)十月に移って、翌年の夏までしかいなかった。というのもすごい暑い家で、なかなか住み心地はいいんだけれど、とにかく夏暑い。

ぼくはいいんですけれど、A子さんは驚異的に暑さに弱い人だった。

それでそこから歩いて十五分くらいのところに、駅の傍に一軒、わりと広い家を捜し当てた。その家に夏に越して、三カ月くらい暮れまでいたんです。川崎のそのふたつの家で、結局一年ちょっといたことになる。そしてその年の暮れ、逗子に移ったんです。

それも複雑で、A子さんの元の夫が別の女性とできて小金井に住むことになったんです。むろんA子さんとは別れてはいないで、「俺は家を出るけれど、鎌倉の家は俺たちの家なんだから管理してくれ」という。女は家を大事にする。

そんなんで鎌倉の家とほど遠くない逗子に十畳の一間を借りて住んだわけです。大家さんがおばあさんで、気に入った。けれども、あくる年の一九八〇年(昭和五十五年)になったら、管理だけでは駄目だというんで、A子さんが家に戻るといいだしたんです。

結構です、帰ってくださいっていうことで、ぼくはおばあさんの家にとどまって、ときどき鎌倉からA子さんが来たししたんです。そのうちに面倒だから鎌倉に来ないかとなって、ぼくも逗子を引き揚げて、鎌倉の家の部屋を借りることにしたわけです。

その後もいろんな事件がおきて、A子さんの元の亭主が鎌倉に戻るといいだした。A子さんもひきうけざるをえないで、そうなるとぼくはまったくはじきだされる。ショックでしたけれど、とにかく元の旦那に会うのはいやだ。

で、ぼくの友人の若い夫妻が鎌倉の小町にいたから、小町へ移ることにしたんです。その間に元亭主とA子さんがよりを戻して、家野すぐそばに六畳、一畳半の風呂つきの洒落たアパートが空いているんだけれども、旦那も「北村、来いよ」っていうんで、かたすぐに越しちゃったんです。

とにかくぼくがはじきだされているわけです。A子さんの気持ちはよく分かる。不思議じゃない。別にけしからんとも思わなかった。元亭主と三角関係でいるという。いいときはいいんです。元恋人ということで一向にかまわない。けれども、やはり三人いっしょという不自然さはどうしようもない。

それで小綺麗で家賃も四万五千円と安くてなかなかいいところだったけれども、元亭主が百メートルも離れていないところにいるというのはどうもということで、加島に、「精神的に参ってしまったから、いいところ探してくれよ」と頼んだら、横浜は中区大芝台の六畳と三畳二間のアパートを見つけてきてくれたんです。〔中略〕

かみさんに「あなたなんか結婚する値打ちない」といわれたけれど、ひとり暮らしをして、本当にそうだなと思った。ぼくは家庭人というのは全然似合わない。こういう男が結婚するっていうのがおかしい。気がつくのが遅いと思った。

ひとり暮らしというのはじつに快適で、ひとりでいるありがたさっていうのを身に染みて感じた。けれどもどん底生活そのもので、窓をあけると墓場という環境だった。それで、金はないけれど若い連中と友達になったり、誰にもわずらわされなくて、楽しかった。〉

こうした、ひとりの開放感を身に染みつつ「若い連中」との生活を楽しんでいた最中の1983(昭和61)年、朗読会を通じて知り合った若い恋人へのメッセージを織り込んで作られたのが「五月の朝」でした。

  朝
  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い
  新聞をつぎつぎに読む 放火!
  愉快犯とは まったくすばらしい単語だ
  三方の窓のそとでヒヨドリたちが
  あまい声で啼くのもすてきだ
  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう
  とっても痛いめにあうところだったな
  やました公園で この冬の夜
  セコい中学生どもに蹴ころされたかもしれないのだぞ
  茫々たる髪と過去をきげんよく整えよう
  九時だ『悪の華』だ
  この安藤元雄訳を午前に読む習慣はなんたる快楽!
  どこかにあった一行<いとしい女〈ひと〉は裸体だった
  しかも私の心を知りぬいて>
  コーヒーいい匂い
  ヤバいおもい
  さんさんと 日は昇りつつある
  いかなる情念にとりこまれようともゆるせ
  かなたにひかる海よ

1回目で詳しくみた、この詩の中に織り込まれた「あっこをいつまでもだいていたいぼくのかわいいひとよ」という折句。どうやって作ったかといえば、おそらく、最初に組み込む言葉があって、後からまわりの言葉が現れてきたのでしょう。

「あっこ」というのがいかなる女性なのか私には分かりませんが、「あっこをいつまでもだいていたいぼくのかわいいひとよ」のそれぞれの文字が、周辺の言葉を構成されていく文を誘導し、中身や体裁がきまっていきます。

まさに、「愉快犯」ともいえる詩人の手口で作られているわけです。

2017年5月10日水曜日

北村太郎「五月の朝」⑤

〈一九七六年(昭和五十一年)にそのA子さんに会う前になにかの会やなにかで一、二度会っているんです。

五十一年の夏ごろでした。ある日、彼女と会って話していると、亭主とのあいだが全然うまくいっていないという。

で、まあ同情もあって「困ったことですね」とかいっているうちに、なんかその人といっしょに話していると気持ちが休まるというか、女の魅力というのは人によって違うわけで、ぼくにとってはいっしょにいて心が休まるということですが、それから数回彼女に会っているうちに、旦那とうまくいっていないことが分かって、こっちもそういう気になってくる。

するとかみさんとの気持ちが離れていくわけです。かみさんとは二十年以上もいっしょにいるんだから、普通の夫婦だと思う。

それで過ごせばすごせるし、別にそれほど決定的な不満というのもなかったかと思う。

けれどもA子さんと話して以降、この人といっしょになる運命なんじゃないかとばかりに、再々会っていたわけです。

それは子どものことも考えたし、二十何年いっしょにいてぶちこわすのはどうかと思ったりもしました。けれども、再々会ったりしているうちに自分の気持ちとしては、かみさんよりもA子さんといっしょに暮らすほうにいくのはしょうがないとなったんです。

もうかみさんとは気持ちが完全に離れていたということもある。そういうことで、会社をやめてから、半年くらいは再建しようとも思ったけれど、これはもう駄目だということが分かった。家にいて仕事ができる状態ではないし、かといって仕事をしなければ食えないんですから、新しく自分の生活を変えて仕事をやるしかないと考えたわけです。

子どもはかわいそうだったけれど。いまでも子どもには悪いと思っている。ただそう決めたら、元にもどれない。飛ぶよりない。飛ばなかったら、もっとひどい目にあうという気がした。で、さんざん我慢したすえ、二年くらいたってから家を出たわけです。〔中略〕

一番の被害者はかみさんでしょう。再建できるなら再建したほうがいいというに決まっている。けれど、再建できなかったら、またその場所から考え直さなければいけない。それは家を出る半年くらい前からひじょうに確固としてありました。

ぼくはそういうところで最後の決断をしたわけですが、家を出る一年も二年も前から状況を見ていて、そういう見通しというか、冷静といえば冷静でした。家を出たときはまったく身ひとつで、A子さんのほうもかなり破滅的になって、時期が合って出たわけです。

金は百万円くらいもったでしょうか、でも家には数百万円残して出たわけです。その頃角川書店の中途にしてあった翻訳があっただけで、六、七十万円しか入る見通しがなかったんです。年金ももらっていない時期だし、先行きが不安でした。

彼女もいくらかもって出たので、お互いにやりくりした。食うために翻訳をやって、なんとか二人でやっていけるかという感じでした。川崎の家は六畳、三畳、隣が大家さんの家で、後ろに竹藪。そこによく鮎川とか友人が遊びに来ました。〉(『センチメンタルジャーニー』)


A子さん、すなわち良く知られているように田村隆一の妻、和子とのこうした恋愛事件。それが表沙汰になり、朝日新聞社での25年間にわたる会社員生活に終止符を打ったのは1976(昭和51)年、54歳のときでした。この年を境に、それまでの寡作がウソのように、北村太郎は多作な詩人に変貌していきます。

その変貌には、忙しい新聞社での勤務から開放されたといった物理的な要因もあったのでしょうが、瀬尾育生は次のように、北村太郎という詩人の本質的なところに目を向けています。

「突然の詩的多産がはじまるのは一九七六年。つまり彼が自らの生命力を永続的な恐怖によって損傷したり賦活したりして、自らの罪の意識と釣り合わせるような生を選んだ、そのときからだ」(『現代詩手帖2月臨時増刊 北村太郎』)。

太郎は、この年から世を去る15年ほどの間に、9冊の詩集、7冊の散文集を出しています。そのうちの1冊、家を出て田村和子と生活するようになった1978(昭和53)年に刊行した詩集『冬を追う雨』には、「五月」を描いた、つぎのような詩があります。

     緑

  打ちよせる波のように
  カーテンが揺れる
  わたくしはすべての動くものを目で追ったが

  ことば
  水
  緑の葉のむれのそよぎ
  女のひとの目の光り
  もちろん匂いも
  死ですら
  動く

  すぐ消える
  よろこびの声
  ながい長い文字のたくさんの仕組み
  欲望と
  限りない風の感情
  たちまち骨がかさなり

  子猫がねむる
  五月の倚子

2017年5月9日火曜日

北村太郎「五月の朝」④

潮干狩りの事故で亡くなった妻は、「あなた、わたしを生きなかったわね」といっているのではないか。「わたしを生きなかった」と妻が迫ってくる。太郎は、そんなふうに感じるようになります。

わたしがこういう死に方をしたのは、あなたに直接関係はないんだろうけれども、あなたはようするに自分だけの生を追求して、わたしを生きなかった。こうした謎の声は、その後の詩の中にもしばしば登場してきます。

1954(昭和29)年、関喜代子と再婚。後に男女2人の子を授かります。1966(昭和41)年には、初めての詩集『北村太郎詩集』を刊行しました。

〈思潮社の小田久郎が「『荒地』の人はほとんど詩集を出したけれど、あなたは出していないから編集者をさし向けますから出しましょうよ」という。それはありがとう、ということで、これならどうにか人様に見せられるかという詩を数えたら、たった二十二篇しかない。

総行数は八百ちょっとでした。川西健介という編集者が面倒をみてくれたんですが、さすがに呆れ返っていった、「これだけですか」と。といって捨ててのもそんなに多くはないので、もともと数が少ない。戦前、戦中のモダニズムの詩など載せるわけにいかない。

束(つか)を出すために困って、なんと一ページたった七行にしたんですが、それでも百五十ページで収まってしまった。粟津潔さんの装丁で、その年の十一月、ちょうど満四十四歳になる少し前に出たわけです。

ぼくが鮎川の初めての詩集に解説を書いたこともあって、お返しというわけではないけれど、鮎川に解説を書いてもらいました。できあがったものを手にとってみると、なにかこれで終わりだという感じがまずしました。

鮎川に「これができたから、もうじき死ぬかもしれない」といったら笑われたというか、呆れられたような気があります。第一詩集が四十四歳近くというのは「荒地」のなかで遅いだけではなく、詩壇全体を考えても戦前でも遅いと思う。

それは結局、本質的に詩人としての自覚が著しく未成熟だったことに尽きる。衰弱詩人だといったけれど、若くして衰弱していて、未熟のまま年月がたってしまったということ。よかれあしかれ、いわゆる詩人の枠に入らないへんな詩人じゃないかという気がするんです。〉(『センチメンタルジャーニー』)


1972(昭和47)年には詩集『冬の当直』を、1976(昭和51)年には、散文集『パスカルの大きな眼』と詩集『眠りの祈り』をいずれも思潮社から刊行しています。「そんなに変わりばえはしないけれども、本人は楽しんで書いている詩が多かった」というこの詩集のタイトルになったのはこんな詩でした。

     眠りの祈り

  物自体は不可知であり
  形相即質料であり永遠は逆さに着いた目であり

  わたくしは形而上学を熱愛し
  どぶ板にしぶきをあげる驟雨が大すきで

  闇の窓からとつぜん飼猫がとび込んで
  よくみると鼠をくわえていてわたくしはギャッと叫び

  ペンキ臭い下等室でもいいから船旅をして
  精神の現象をつぶさに観察して

  緻密な絨毯をけして逆なですまいと思い
  駅の階段を二段ずつ駆けのぼって行き

  蛇行する川の両側の決定的な矛盾は
  宙に浮いた川向こうであり

  わたくしは白昼にしか夢をみることができず
  夜はみみっちく覚めていて

  大むかでが壁を這い
  わたくしの神経はそれに同調して危機を直観し

  存在していないくせに存在し
  猫にとって鰹節は物自体ではなくて

  断崖はしちょうにとられる碁石ほど絶望的で
  ほとんど時間の孤立であり

  まもなく観念は霧消し
  わたくしは観念のなかに眠り

  天井のしみが怪物に見えて
  わたくしは半睡のうちにふたたび叫ぶわたくしを聞いている

54歳。『眠りの祈り』を出した年、太郎は定年まで1年を残して朝日新聞社を退職しています。その理由は、職場での人間関係がいやになったのにくわえ、前妻との初めての恋愛から「三十四年くらいたって」の恋愛問題がかかわっていました。

〈A子さんというのと恋愛したわけだけれども、むこうはむこうで亭主との問題があって悩んでいた。かみさんにはまったく罪はない、被害者です。ぼくはさんざん謝った。それでも駄目なわけで、頭がおかしくなって自殺するとか崩壊するに決まっている。

家を出て別々に暮らせば少しは冷めるかもしれない。とにかく家庭を捨てようとしたわけです。離婚も考えたんです。一度壊れたものは絶対に駄目だってかみさんにいった。いくら年をとっていてもきちんと整理したほうがいいといったけれど、かみさんは絶対に反対なんです。

彼女は古い道徳に育った、自分が辛抱すればいいというタイプの女性でした。けれども、そのくせまったく辛抱しないどころか、自分のプライドが許さないという。離婚しないのなら、こっちには請求する権利がないから、ぼくが家を出て、送金すれば、つまり家庭内離婚でいくよりしょうがないと思ったわけです。〉



*有楽町にあった北村太郎が務めていたころの朝日新聞東京本社(ウィキペディアから)

2017年5月8日月曜日

北村太郎「五月の朝」③

北村太郎が参加した「ル・バル」(1939年2月刊19号)の同人募集には次のように記されていたそうです。

①詩人にもいろいろある。古池を見て喜んだり、お月さんを見て泣いたりする。機械の美しさなどとカンタンしてベルトに捲きこまれ、死んでしまつたりする。こんな詩人には用がない。僕たちはライジンング・ゼナレイションだから、過去的過去はすててしまふ。

②あらゆる意味で健康でなければならぬ。従つて所謂、蒼白い文学青年ではあり得ない。

これについて太郎は、〈軽薄といえば軽薄にちがいないが、しかし①で述べられているのは〈過去的過去〉との訣別であって、これは中桐雅夫が後年、「やせた心」で書いた「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は/おれは絶対風雅の道はゆかぬ」(『会社の人事』所収)の、〈風雅の道〉のことでもあろう。

あるいは、なんの発展も期待できないような過去の残滓のようなものであったかもしれない。風雅とか過去とかいうものが浅くしか捉えられていないのは詩的モダンボーイたちの弱点であったろうが、朔太郎、達治、それに中原中也の世界から離れようとすれば、幼稚であるにしても、ごく自然な宣言だった。〉(「センチメンタルジャーニー」)とふりかえっています。


太郎は、1940(昭和15)年に東京府立第三商業学校を卒業。4月1日から日本橋三越近くにあった横浜正金銀行の東京支店に就職しましたが、一週間でやめてしまいます。

朝から晩まで帳面だけをつけるだけの仕事に、初日からがっくり。こういうことがずっと続くのかと思うと暗澹たる気持ちになった。「新潮」を買って仕事のあい間に見ていると係長に見つかって怒られた。それでいやになり、無断でやめたというのです。

太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、東京外国語学校に入学。翌年には根本和子と結婚し、長男昭彦を授かります。1944(昭和19)年1月から7月まで海軍予備生徒となり、旅順で一般兵科の基礎訓練を受けました。

7月下旬には横須賀市久里浜の海軍通信学校に入り、卒業後は士官候補生となり、大和田通信隊に勤務。英米の暗号通信を傍受し分析する仕事に携わります。隊の生活は厳しかったが、英語が読めて勉強できる環境をありがたく思ったといいます。

終戦となった後、除隊となり、長野の母の実家の近くに疎開していた家族のもとに帰ります。日本橋の小さな商社に就職し1946(昭和21)年、商社が設立した外電配給会に移り、外電やGHQの指令などを翻訳する仕事に就きました。

東京外語学校は昭和19年に知らぬままに卒業になっていて、同社に在籍のまま東大仏文科に入学。大学の研究室にあったフランスの文芸誌「nrf」のバックナンバーにカフカの「変身」やスケッチの仏訳を見つけ、耽読するなどしました。夏を過ぎて退社。妻子を養うため、古道具外交員、生命保険外交員などアルバイトを転々とします。

1947(昭和22)年4月、学生の身分を隠して、京橋の出版社に入ります。このころから「北村太郎」のペンネームを使うようになっっています。9月には月刊「荒地」の創刊に参加。1949(昭和24)年に東大を卒業。卒論は「パスカル論序説」でした。

卒業後、大阪商事に就職しましたが、1949(昭和24)年には退社。この年、年刊『荒地詩集51年版』の編集を担当、11月には朝日新聞社へ入り、校閲部員となっています。ところが翌1952(昭和27)年8月、大きな悲劇が襲います。川崎の海に潮干狩りに来ていた妻子が、深みにはまって水死してしまったのです。

翌年、「終わりのない始まり」という詩を発表しています。「ぼくらはやがて冷たい闇に沈むだろう/さよなら、あまりに短いぼくらの夏の強い光りよ!」というボードレールの詩句を前書きに付けた、全4章におよぶ長篇です。その前半の2章をあげておきましょう。

 1

  いま、何時?
     夢ばかり見つめていた黒い眼と、
     ぼくの髪をさぐった指の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     馬車の鈴ばかり聴いていた小さな耳と、
     葡萄のような乳房の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     犬ばかり追っていた冷たい鼻と、
     いい匂いのした頬の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     お互いに深く愛しあった八歳の
     男の子と、若い母の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     おお、夕ぐれの横浜子安火葬場、
     夏の光りが、生けるものたちの影を
     長々と敷石にうつす、午後六時!

 2

  骨をひろう人たちよ、
  どうか、泣かないでください。
  泣いて鉄の箸に挟んだ昭彦の骨を
  落したりしないでください。まだ熱い
  この子の骨を、ひとつでもコンクリートの床に落すと、
  そのひびきが、ぼくの骨に伝わりそうです。
  骨をひろう人たちよ、
  どうか、泣かないでください。
  泣いて錆びた箸に挟んだ和子の骨を
  落したりしないでください。まだ赤い
  和子の骨を、ひとつでも靴のうえに落すと、
  その音が、ぼくの骨を折りそうです。
  しずかな、しずかな、夏の
  夕方の火葬場、光りが斜めに射す窓の
  向うにある空は、沈黙して
  ひろがっています。ああ、どうか
  泣かないでください。死んだものたちの
  影も、あの鰯雲のあたりで
  おしゃべりをして、にこにこと
  ほほえんでいるころかもしれません。どうか
  泣かないで、骨を
  ひろう人たちよ、泣いて昭彦と
  和子の骨を落したりしないでください……

*写真は、北村太郎(思潮社『現代詩体系――④』1967年)から

2017年5月7日日曜日

北村太郎「五月の朝」②

北村太郎(本名・松村文雄)は、1922(大正11)年11月17日、東京の日暮里の近く、当時の谷中村に生まれました。

父の徹は、逓信省簡易保険局の下級官吏。母の安江は長野県の安曇野出身。二人の間に生まれた四人兄弟の三男だった。長兄の敏夫は病気のため早世。次兄の英男は毎日新聞の記者を務め、双子の弟の武雄は「沖」所属の俳人として活躍しました。

かぞえ年七つだった1928(昭和3)年秋の昭和天皇の御大典、すなわち即位の礼が盛大に祝われた際に「当時の東京市電だったか玉川電車だったかの花電車」を父に手を引かれて見物に行ったのが、太郎の最初の記憶でした。

「闇のなかで、遠くからいやに明るい電車がゆっくり近づいてきて、ゆっくり去るのを、驚きながら見つめていた」といいます。


1923(大正12)年9月の関東大震災で自宅は焼失。一家は、いまの世田谷区の弦巻に引っ越します。小学生だった太郎は、まだ豊かだった自然のなかで元気いっぱい遊んでいましたが、人生で初めて虚脱感のなかに身を置くことになります。

〈一九三一年(昭和六年)夏、わたくしは小学校三年の生徒であった。その日、わたくしは新築間もない二階の六畳まで午睡したのだった。わたくしの家は世田谷・弦巻にあり、周囲は畠や原っぱが多くて、二階の家は低い天守閣のように、遠くから見えた。

たぶんトンボ釣りに疲れたのか、それとも玉川プールのひどく冷たい水で泳いでぐったりしたのだろうか、九歳のわたくしは青畳のうえで眠ってしまったのだ。数時間後、まだ日の永い夕暮れに目覚めて、わたくしは何を発見したのか。

それは、雪のふる夜の空を見あげているような虚脱感であった。わたくしはもちろん涙を流さず、しだいに夕焼け空が微妙に薄闇に変化してゆく窓をぼんやりながめていた。桃色の爪、なめらかに伸びた皮膚を持つ少年の、その夏の日の記憶は、わたくしの一生の静かな恐怖の始まりである〉(「パスカルの大きな眼」)。

1932(昭和7)年、小学3年を修了すると、現在の台東区の金竜小学校へ転校します。父のいとこが浅草で飲食店を二つもっていて、うち一軒のそば屋を譲り受けることになったのです。

浅草へと引っ越して、次第に「町っ子」へと変身していきます。路地裏でのメンコやベーゴマ遊び、紙芝居、やがて近くの映画館や芝居小屋へも足が向かうことになったのです。

1935(昭和10)年、東京府立第三商業学校に入学。国語の教科書に載っていた正岡子規の俳句や短歌に感銘し、東大国文科出身の家久甫教諭の講義に刺激を受けます。短歌や俳句、詩を読みあさり、自己流で作って投稿をはじめました。

〈振りかえってみると、一九三七年(昭和十二)年というのは、わたくしの一生の中でも格別忙しい年だったように思う。正岡子規や若山牧水に心酔して短歌づくりに精をだしたかと思うと、古本屋で詩集を買いあさり、同時に詩づくりにも熱心になった。

今氏先生の指導で知らない明治、大正期の詩人の作品をたくさん読んだりしたかと思うと、「若草」「蝋人形」などの若い詩人の投稿欄に絶えず刺戟されたりもするというあんばいだった。

朔太郎はもうそろそろ時代遅れだ情報も幼い頭にインプットされて、春山行夫、西脇順三郎なぞという名前が気にかかり始めてもいた。この年の七月七日、日中戦争が始まり、時局は穏やかでなくなったが、下町の文学少年の卵には、さして気になる動きではなかった。〉

1938(昭和13)年、雑誌「蝋人形」に短歌を投稿し、何度か特選になっています。「蝋人形」の読者のための欄で、中桐雅夫が主宰している同人誌「ルナ(のちのル・バル)」への参加を募る案内が載っていました。

その詩を読んで、「魅惑され」ていた鮎川信夫が加入していることを知っていた太郎は「こりゃすてきなチャンスだとばかり」に、作品数篇を送って申込の手続きをします。

太郎が「ル・バル」へ入ったときの同人は、編集の中桐雅夫をはじめ、鮎川、衣更着信、山川章など計17人。同人費は、月額2円でした。

親から10円ほどの小遣いをもらっていたものの「古本屋めぐりをして金を使うばかりか、生意気にタバコを吸ったり、夜な夜な喫茶店に出入りしたりしている身」には、ばかにならない出費だったようです。

さて、「ル・バル」16号に初めて太郎の作品が載りました。次にあげる「BOHEMIAN CHANSON」という詩でした。

  脚のない建築が
  虚空に乳色に睡ると
  沓い森の手風琴はもう聞えない
  やがて夕暮も
  白い翳をのこして
  消え去つてしまふ

     ★

  ああ!
  蒼い顔が崩れてゐる
  白蛾が笑つてゐる
  星座が疲れてゐる

  洋燈は莨のけむりに
  墓標のやうに息をはく

  颱風が夢に沈むとき



*写真は、御大典記念奉祝花電車

2017年5月6日土曜日

北村太郎「五月の朝」①

今年のゴールデンウィークもあしたで終わりですが、きょうからしばらく、北村太郎の「五月の朝」を読むことにしましょう。

      五月の朝

  朝
  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い
  新聞をつぎつぎに読む 放火!
  愉快犯とは まったくすばらしい単語だ
  三方の窓のそとでヒヨドリたちが
  あまい声で啼くのもすてきだ
  うん開港記念日だな あさって
  ブラスバンドいっぱいの陽を浴びて
  塩っからい堤防のマーチを街じゅうに轟かすだろう
  とっても痛いめにあうところだったな
  やました公園で この冬の夜
  セコい中学生どもに蹴ころされたかもしれないのだぞ
  茫々たる髪と過去をきげんよく整えよう
  九時だ『悪の華』だ
  この安藤元雄訳を午前に読む習慣はなんたる快楽!
  どこかにあった一行<いとしい女〈ひと〉は裸体だった
  しかも私の心を知りぬいて>
  コーヒーいい匂い
  ヤバいおもい
  さんさんと 日は昇りつつある
  いかなる情念にとりこまれようともゆるせ
  かなたにひかる海よ


「五月の朝」は、月刊文芸誌『海』の1983(昭和58)年6月号に掲載されました。北村太郎が60歳のときです。その後、1985(昭和60)年に書肆山田から出版された詩集『笑いの成功』に収められました。

『笑いの成功』は、A5変型112ページ。函入布製。定価1600円。この詩集は「拍手」「白いコーヒー」「クチナシ」など25篇からなり、「五月の朝」はいちばん最後に置かれています。

この詩の一行目の「朝」の最初の音だけとると「あ」。そこから斜め下へと文字をたどっていくと、「あっこをいつまでも」となります。「も」から今度は左斜め下へとたどると、だ、い、「堤」の「て」、「痛」の「い」、た、い。

さらに「茫々」の「ぼ」、「九」の「く」。すなわち「だいていたいぼく」となります。同じようににして、「九」からまた斜め右下へ読んでいくと「のかわいいひとよ」です。

こうしてすべてを続けて読むと「あっこをいつまでもだいていたいぼくのかわいいひとよ」となります。若い恋人へのメッセージが隠された折句詩(アクロスティック)であることがわかります。

折句は、詩や文章のなかに本筋とは別の言葉を織りこむ“ことばあそび”の一つ。句や文のアタマの字を使って作られることが多いようです。その典型は、伊勢物語に出てくる和歌「唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ」。

  からころも
  きつつなれにし
  つましあれば
  はるばるきぬる
  たびをしぞおもふ

頭文字をならべると、花の名「かきつはた」(カキツバタ)が折り込まれていることがわかります。谷川俊太郎の、「あいしてます」の折句が入った詩もよく知られています。

  あくびがでるわ
  いやけがさすわ
  しにたいくらい
  てんでたいくつ
  まぬけなあなた
  すべってころべ

北村は、自伝『センチメンタルジャーニー』(草思社)で次のように述べています。

〈ぼくの詩のなかに五、六篇だけれど、恋人へのメッセージを組み込んだ詩があるんです。たとえば原稿用紙の上から五番目の斜め左にずっと下っていくと「なにこチャン、ぼくは君を愛しているよ」なんて書いてある。いわば暗号の詩というか。そんないろんな詩の書き方を楽しんでいる。〉

「暗号」がどこかに隠れているかもしれません。そんなふうに注意して読むのも、北村の詩の楽しみです。

2017年5月5日金曜日

中原中也「早春散歩」⑮

1937(昭和12)年9月下旬、中也は第2詩集『在りし日の歌』の原稿を清書し、小林秀雄に託します。そして10月初め、結核性髄膜炎を発病し、同月6日、鎌倉養生院に入院。半月後の22日に永眠しました。死後、小林秀雄は次のように記しています。

「先日、中原中也が死んだ。夭折したが彼は一流の抒情詩人であつた。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもからいろいろな事を言はれ乍ら、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、何処かで鼠でも死ぬ様に死んだ」(『手帖』昭和12年12月)。


ちょうど中原が逝ったころ出た『文学界』10月号に、私の好きな春の詩が載っています。

     正午
              丸ビル風景

  あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
  ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
  月給取の午休〈ひるやす〉み、ぷらりぷらりと手を振つて
  あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
  大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
  空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる
  ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても……
  なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな
  あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ
  ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ
  大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口
  空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかな

東京のど真ん中。昼休みのサイレンとともに、大きなビルからぞろぞろ蟻のようにわき出してくるサラリーマンたちの群れを中也らしいリズムで描き出しています。

8行目の「なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな」は、近世の滑稽本などにみられることわざ「酒なくて何のおのれが桜かな」からきています。

ノイローゼで入院した後、鎌倉に移り住んだ中也は、東京へ出ようとはしませんでした。昭和12年6月9日付の阿部六郎への手紙には「東京駅の雑踏は、思ひみるだにムツとします」と書いています。さらに、次にあげる7月7日の阿部あての手紙からは、中也が当時、郷里へ引きあげる予定でいたことがうかがえます。

〈小生事秋になつたら郷里に引き上げようと思ひます。なんだか郷里住みといふことになつてゴローンと寝ころんでみたいのです。もうくにを出てから十五年ですからね。ほとほともう肉感に乏しい関東の空の下にはくたびれました。それに去年子供に死なれてからといふものは、もうどんな詩情も湧きません。瀬戸内海の空の下にでもゐたならば、また息を吹返すかも知れないと思ひます。〔中略〕

僕としてはもうすぐにも帰りたいのですが、子供を連れて夏の汽車は大変だといふので、やつぱりどうしてもお彼岸過ぎにしなければならないのです。何しろ学生ならば「ながァい夏のお休み」を、退屈しながら鎌倉みたいなところ(鉋屑みたいなところ)に暮らすのかと思ふと、いやになッちやふ。――此の春以来可なり読書しました。此の十日くらゐ何にも読みません。読まないでゐると幾分旅情を感じたりします。郷里に帰つてもフランス語以外は当分何もしないつもりです。〉

さらば、東京。そんな気持ちを込めて、中也は「正午」を作ったのかもしれません。中也はついに生涯、定職につくことはありませんでした。それだけに、大都会のサラリーマンの哀れさのようなものを客観視できたのでしょう。それにしても、詩人はどこから昼休みのサラリーマンたちを眺めているのでしょうか。

中村稔は「ビル全体を眺望できるような遠くで、しかもサラリーマンの手を振り眼をあげ眼をおこす動作もよく見える、そんな場所のようです。そういう視点の不確かさが、この詩に何か不安定な感じを与えています。同時に、やはり彼岸から現世をふりかえるような、人生への懐かしさが滑稽な感じの中にひそんでいます」(『名詩鑑賞 中原中也』)と記しています。

さて、中也の春の詩を読んでいる間にいつのまにか、うららかな春も夏へと移り変わる時節へと移ってきました。最後にもういちど、「早春散歩」に目を通して、本題である賢治の作品へ戻ることにしましょう。

     早春散歩

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

*写真は、中原中也記念館になっている山口市湯田温泉の中也生誕の地(ウィキペディアから)

2017年5月4日木曜日

中原中也「早春散歩」⑭

愛する息子、文也を失った中也は、遺体を抱いてなかなか棺に入れさせませんでした。四十九日の間、僧侶を毎日呼んで読経してもらったといいます。

そして、葬式についての近隣の悪口や巡査の足音などが、幻聴として聞こえるようになります。ラジオに向かってお辞儀をすることもあったそうです。

中也の精神は破綻しかかっていました。母フクのはからいで、1937(昭和12)年の1月上旬、千葉市にある神経科の病院、中村古峡療養所に入院します。入院中に書かれた「二月一日(月曜)曇」の日記には、次のような記述があります。

〈六時起床。廊下を拭く。野外作業は最初先ず松葉掻きを始めたが、風ひどく集めた松葉がはじめから吹き散るので、貝殻を砕く。注射の後、少しく寒気。白隠和尚座禅和讃を読み、間もなくして再び貝殻砕きを始めたが、猶寒気。

暫くつゞけてみたが寒気やまず。頓服を貰はうかと思つたが、なんだか薬に依頼心を起しては駄目といふ気持が起つたからそのまゝ自室に入り、「どうすれば全治するか」を少し読む。

自分の部屋が可愛くてなりませぬ。これが当分自分の居所だと思ふと、可愛くて可愛くてなりませぬ。差当り不足の品二三、早く求めたくてなりませぬ。〉

2月中旬に退院すると、小林秀雄や大岡昇平が住む鎌倉への転居を思い立ち、扇ケ谷の寿福寺裏の家に落ち着きます。ここが、転々と居を変え続けた中也の最後の住みかとなりました。

この年の3月23日の日記に、「文学界に詩稿発送。」とあります。送った「詩稿」というのは、2行1連を基調とした29連の長い春の詩です。「春日狂想」という題が示しているように、当時の詩人の不安定な心境をうかがわせるとともに、「遺言」のようにも思われてきます。


     春日狂想

      1

  愛するものが死んだ時には、
  自殺しなけあなりません。

  愛するものが死んだ時には、
  それより他に、方法がない。

  けれどもそれでも、業〈ごふ〉(?)が深くて、
  なほもながらふことともなつたら、

  奉仕の気持に、なることなんです。
  奉仕の気持に、なることなんです。

  愛するものは、死んだのですから、
  たしかにそれは、死んだのですから、

  もはやどうにも、ならぬのですから、
  そのもののために、そのもののために、

  奉仕の気持に、ならなけあならない。
  奉仕の気持に、ならなけあならない。

      2

  奉仕の気持になりはなつたが、
  さて格別の、ことも出来ない。

  そこで以前〈せん〉より、本なら熟読。
  そこで以前〈せん〉より、人には丁寧。

  テムポ正しき散歩をなして
  麦稈真田〈ばくかんさなだ〉を敬虔〈けいけん〉に編み――

  まるでこれでは、玩具〈おもちや〉の兵隊、
  まるでこれでは、毎日、日曜。

  神社の日向を、ゆるゆる歩み、
  知人に遇〈あ〉へば、につこり致し、

  飴売爺々〈あめうりぢぢい〉と、仲よしになり、
  鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、

  まぶしくなつたら、日蔭に這入〈はい〉り、
  そこで地面や草木を見直す。

  苔はまことに、ひんやりいたし、
  いはうやうなき、今日の麗日。

  参詣人等もぞろぞろ歩き、
  わたしは、なんにも腹が立たない。

      《まことに人生、一瞬の夢、
      ゴム風船の、美しさかな。》

  空に昇つて、光つて、消えて――
  やあ、今日は、御機嫌いかが。

  久しぶりだね、その後どうです。
  そこらの何処〈どこ〉かで、お茶でも飲みましよ。

  勇んで茶店に這入りはすれど、
  ところで話は、とかくないもの。

  煙草なんぞを、くさくさ吹かし、
  名状しがたい覚悟をなして、――

  戸外〈そと〉はまことに賑やかなこと!
  ――ではまたそのうち、奥さんによろしく、

  外国〈あつち〉に行つたら、たよりを下さい。
  あんまりお酒は、飲まんがいいよ。

  馬車も通れば、電車も通る。
  まことに人生、花嫁御寮。

  まぶしく、美〈は〉しく、はた俯〈うつむ〉いて、
  話をさせたら、でもうんざりか?

  それでも心をポーツとさせる、
  まことに、人生、花嫁御寮。

      3

  ではみなさん、
  喜び過ぎず悲しみ過ぎず、
  テムポ正しく、握手をしませう。

  つまり、我等に欠けてるものは、
  実直なんぞと、心得まして。

  ハイ、ではみなさん、ハイ、御一緒に――
  テムポ正しく、握手をしませう。

2017年5月3日水曜日

中原中也「早春散歩」⑬

生前、中也自身によって編まれた詩集/は、『山羊の歌』と『在りし日の歌』の2冊だけです。これまでに見たように、長男の文也が生まれた直後の1934(昭和9)年12月、中也27歳のとき、待望の第1詩集『山羊の歌』を出版しました。

その後、文也の死や、中也の精神疾患による入院の時期をはさんで昭和11年から昭和12年9月まで、何段階かの過程を経て、第2詩集『在りし日の歌』がまとめられたと推定されています。

原稿の清書作業は、昭和12年8月末から9月23、24日にかけて行われましたが、詩集が創元社から刊行されたのは、中也の死から半年たった昭和13年4月15日のこと。本になった『山羊の歌』を中也は見ていません。

そんな『在りし日の歌』の中から、ここで、今回の連載のテーマにしている「春」にかかわる詩を二つ読んでおきましょう。


「わが半生」と「春宵感懐」。どちらも時節は春宵。いずれにも、春のわきたつような明るさはなく、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」ではじまる「早春散歩」と同じような空気が流れているように感じられます。

     わが半生

  私は随分苦労して来た。
  それがどうした苦労であつたか、
  語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
  またその苦労が果して価値の
  あつたものかなかつたものか、
  そんなことなぞ考へてもみぬ。

  とにかく私は苦労して来た。
  苦労して来たことであつた!
  そして、今、此処〈ここ〉、机の前の、
  自分を見出すばつかりだ。
  じつと手を出し眺めるほどの
  ことしか私は出来ないのだ。

     外〈そと〉では今宵、木の葉がそよぐ。
     はるかな気持の、春の宵だ。
     そして私は、静かに死ぬる、
     坐つたまんまで、死んでゆくのだ。

「わが半生」は、昭和11年5月の『四季』に発表されました。中也29歳。「私は随分苦労して来た」といいながらも、それまでの人生を淡々と静かに受け止めて、「それがどうした苦労であつたか、/語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。」のです。

悩みの多かった青春に別れを告げ、「そして私は、静かに死ぬる、/坐つたまんまで、死んでゆくのだ。」と平静な気持ちで死を予感しています。

このころ幼い文也はまだ元気で、可愛い盛り。父親としての責任も身にしみていたのだろうが、ここでは「じつと手を出し眺めるほどの/ことしか私は出来ないのだ。」などと、生活感は感じられません。

つぎにあげるのは、「わが半生」と同じころ作られたと思われる「春宵感懐」という詩です。

  雨が、あがつて、風が吹く。
   雲が、流れる、月かくす。
  みなさん、今夜は、春の宵。
   なまあつたかい、風が吹く。

  なんだか、深い、溜息が、
   なんだかはるかな、幻想が、
  湧くけど、それは、掴〈つか〉めない。
   誰にも、それは、語れない。

  誰にも、それは、語れない
   ことだけれども、それこそが、
  いのちだらうぢやないですか、
   けれども、それは、示〈あ〉かせない……

  かくて、人間、ひとりびとり、
   こころで感じて、顔見合せれば
  につこり笑ふといふほどの
   ことして、一生、過ぎるんですねえ

  雨が、あがつて、風が吹く。
   雲が、流れる、月かくす。
  みなさん、今夜は、春の宵。
   なまあつたかい、風が吹く。

この詩について中村稔は『名詩鑑賞 中原中也』に、次のように記しています。

「この作品はくちずさんでたのしければそれでよいのです。しかし、この作品をたのしむためには、何らか人生の苦渋ともいうべきものを、読者が体験していることが必要でしょう。そして、中原中也が、それを道化にまぎらしているように、読者もまた、自らお道化〈どけ〉る必要があるでしょう。

道化には笑いの奥の悲しみがつきものですが、この作品の底にもやはり悲しみが流れているのです。」

*写真は、速水御舟の「春の宵」(http://czt.b.la9.jp/hayami-enbu.html から借用)

2017年5月2日火曜日

中原中也「早春散歩」⑫

最愛の息子、文也が死にました。中也は悲嘆に暮れ、激しい精神錯乱に陥ります。そんなころ、次のような詩を作っています。

     月の光 (その一)

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

    お庭の隅の草叢〈くさむら〉に
    隠れているのは死んだ児〈こ〉だ

  月の光が照つてゐた
  月の光が照つてゐた

    おや、チルシスとアマントが
    芝生の上に出て来てる

  ギタアを持つては来てゐるが
  おつぽり出してあるばかり

    月の光が照つてゐた
    月の光が照つてゐた

     (その二)

  おゝチルシスとアマントが
  庭に出て来て遊んでる

  ほんに今夜は春の宵
  なまあつたかい靄〈もや〉もある

  月の光に照らされて
  庭のベンチの上にゐる

  ギタアがそばにはあるけれど
  いつかう弾き出しさうもない

  芝生のむかふは森でして
  とても黒々してゐます

  おゝチルシスとアマントが
  こそこそ話してゐる間

  森の中では死んだ子が
  蛍のやうに蹲〈しやが〉んでる


詩人は月の光の照らす庭の芝生に、牧童たちがあらわれる幻影を見ています。その「隅の草叢に」は、「死んだ児」が隠れてみているのです。この児はもちろん、文也をイメージしているのでしょう。

「その一」では、執拗に「月の光が照つてゐた」が繰り返されて、悲しみを際立たせています。月光は、「ギタアを持つては来てゐるが/おつぽり出してあるばかり」である雑然とした庭を照らすのです。空洞となった詩人の心の闇に、むなしく月が降りそそいでいるのでしょう。

「その二」にも、「森の中では死んだ子が/蛍のやうに蹲んでる」という表現があります。失ったわが子の幻影を追う作者の心は、悲しくも、美しく、むなしい。その舞台を詩人は「なまあつたかい靄」もある「春の宵」に置いています。

「チルシス」と「アマント」というのは、ヴェルレーヌの詩「Mandoline(マンドリーヌ)」に出て来る牧童の名です。もともとは、古代ギリシャの詩人テオクリトスの『牧歌』に出てくる男の牧人の名前「ティルシス」と「アミュンタス」からきています。

これらの牧人名は、古代ローマの詩人ヴェルギリウスの『詩選』では、下働きの女性名と美少年の名前として使われました。その後、16世紀のイタリアの詩人タッソの牧歌劇『アミンタ』に、イタリア名「ティルシ」と「アミンタ」として受け継がれました。「チルシス」と「アマント」は、これらのフランス語読みです。

中也は原書の『ヴェルレーヌ全集』を、1926(大正15)年に購入しています。ここでは、川路柳虹訳の「マンドリーヌ」をあげておきましょう。川路はヴェルレーヌの訳詩集の訳者自註で、かれらを「滑稽役」として紹介しています。

  夜の調べのうたひて
  着飾つた聴衆、
  弾くひとの爪音〈つまおと〉に
  さわやかな舞台はひらかれる。

  チルジスもゐる、アマントもゐる、
  さては相変らずのクリタンドルも、
  情〈こゝろ〉ないひとに優しい歌をつたへるダミイも出てゐる。

  絹の短い胴着〈どうぎ〉をきて
  長い裳裾〈もすそ〉は後に曳く、
  その優しさ、その楽しさうな様子、
  そのしとやかな青い衣〈きぬ〉の影。

  うす薔薇色の月の光りに
  恍惚〈うつとり〉 取り巻かれ、
  そよ吹く軟らかな風につれて


  囀づりしきるマンドリーヌ。

2017年5月1日月曜日

中原中也「早春散歩」⑪

1934(昭和9)年10月18日に、長男文也(ふみや)が生まれました。嬉しい出来事は続きます。その翌月には、小林秀雄の紹介で、文圃堂が詩集の出版を引き受けることになったのです。装丁は高村光太郎に依頼されました。12月、中也生前の唯一の詩集となる『山羊の歌』がついに刊行されました。


最愛の息子との生活について、後に中也は日記の中で「文也の一生」と題し、次のようにつづっている。

〈昭和九年(一九三四)八月 春よりの孝子の眼病の大体癒つたによつて帰省。九月末小生一人上京。文也九月中に生れる予定なりしかば、待つてゐたりしも生れぬので小生一人上京。

十月十八日生れたりとの電報をうく。八白先勝みづのえといふ日なりき。その午後一時山口市後河原田村病院(院長田村旨達氏の手によりて)にて生る。生れてより全国天気一ヶ月余もつゞく。

昭和九年十二月十日小生帰省。午後日があたつてゐた。客間の東の六畳にて孝子に負はれたる文也に初対面。小生をみて泣く。それより祖母(中原コマ)を山口市新道の新藤病院に思郎に伴はれて面会にゆく。祖母ヘルニヤ手術後にて衰弱甚だし。

(十二月九日午後詩集山羊の歌出来。それを発送して午後八時頃の下関行にて東京に立つ。小澤、高森、安原、伊藤近三見送る。駅にて長谷川玖一と偶然一緒になる。玖一を送りに藤堂高宣、佐々木秀光来てゐる。)

手術後長くはないとの医者の言にもかゝはらず祖母二月三日まで生存。その間小生はランボオの詩を訳す。一月の半ば頃高森文夫上京の途寄る。たしか三泊す。二人で玉をつく。高森滞在中は坊やと孝子方部屋の次の次の八畳の間に寝る。祖母退院の日は好晴、小生坊やを抱いて祖母のフトンの足の方に立つてゐたり、東の八畳の間。

三月二十日頃小生腹痛はげしく三四日就床。これよりさき一月半ば頃坊や孝子の乳房を噛み、それが膿みて困る。三月二十六日呉郎高校に合格。この頃お天気よく、坊やを肩車して権現山の方へ歩いたりす。一度小生の左の耳にかみつく。

四月初旬(?)小生一人上京。四月下旬高森淳夫上京アパートに同居す。六月七日谷町六二に越す。高森も一緒。六月末帰省。七月十日頃高森文夫を日向に訪ぬ。三四日滞在。七月末祇園祭。花火を買ひ来て坊やにみす。八月十日母と女中と呉郎に送られ上京。

湯田より小郡まではガソリンカー。坊や時々驚き窓外を眺む。三等寝台車に昼間は人なく自分達のクーペには坊やと孝子と自分のみ。関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。上京家に着くや坊や泣く。おかゆをつくり、少し熱いのをウツカリ小生一匙口に入れまた泣く。

九月ギフの女を傭ふ。十二月二十三日夕暇をとる。坊や上京四五日にして匍(は)ひはじむ。「ウマウマ」は山口にゐる頃既に云ふ。九月十日頃障子をもつて起つ。九月二十日頃立つて一二歩歩く。間もなく歩きだし、間もなく階段に登る。降りることもぢきに覚える。

拾郎早大入試のため三月十日頃上京。間もなく宇太郎君上京、同じく早大入試のため。坊や此の頃誰を呼ぶにも「アウチヤン」なり。拾郎合格。宇太郎君山高合格。八月の十日頃階段中程より顛落。そのずつと前エンガワより庭土の上に顛落。

七月十日拾郎帰省の夜は坊やと孝子と拾郎と小生4人にて谷町交番より円タクにて新宿にゆく。ウチハや風鈴を買ふ。新宿一丁目にて拾郎に別れ、同所にて坊やと孝子江戸川バスに乗り帰る。小生一人青山を訪ねたりしも不在。すぐに帰る。坊やねたばかりの所なりし。

春暖き日坊やと二人で小澤を番衆会館アパートに訪ね、金魚を買つてやる。同じ頃動物園にゆき、入園した時森にとんできた烏を坊や「ニヤーニヤー」と呼ぶ。大きい象はなんとも分からぬらしく子供の象をみて「ニヤーニヤー」といふ。豹をみても鶴をみても「ニヤーニヤー」なり。

やはりその頃昭和館にて猛獣狩をみす。一心にみる。六月頃四谷キネマに夕より淳夫君と坊やをつれてゆく。ねむさうなればおせんべいをたべさせながらみる。七月淳夫君他へ下宿す。八月頃靴を買ひに坊やと二人で新宿を歩く。春頃親子三人にて夜店をみしこともありき。

八月初め神楽坂に三人にてゆく。七月末日万国博覧会にゆきサーカスをみる。飛行機にのる。坊や喜びぬ。帰途不忍池を貫く路を通る。上野の夜店をみる。〉

ところが、出生から2年後、予期せぬ不幸が襲います。「坊やの胃相変わらずわるく、終日むづかる」と日記に書かれた約1週間後の1936(昭和11)年11月、文也病没。愛するわが子を失った悲痛のなか、中也は春にかかわる次のようなソネット風の詩も残しています。

     また来ん春……

  また来ん春と人は云ふ
  しかし私は辛いのだ
  春が来たつて何になろ
  あの子が返つて来るぢやない

  おもへば今年の五月には
  おまへを抱いて動物園
  象を見せても猫〈にやあ〉といひ
  鳥を見せても猫〈にやあ〉だつた

  最後に見せた鹿だけは
  角によつぽど惹かれてか
  何とも云はず 眺めてた

  ほんにおまへもあの時は
  此の世の光のただ中に
  立つて眺めてゐたつけが……

2017年4月30日日曜日

中原中也「早春散歩」⑩

「早春散歩」を作ったころの、1933(昭和9)年3月、中也は東京外国語学校専修科を修了します。そして、下宿で近所の学生にフランス語の個人教授を始めました。

5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人誌「紀元」に参加。月末には、腎臓炎を患っています。7月、「帰郷」、「少年時」などを季刊『四季』に、9月には、「凄じき黄昏」、「秋」を『紀元』創刊号に発表しています。

いずれも、『山羊の歌』用に印刷済みの詩編です。『山羊の歌』は青山二郎の装丁で江川書房から刊行される予定でしたが実現しませんでした。

12月、遠縁にあたる上野孝子と故郷で結婚します。中旬には上京して、当時の四谷区花園町の花園アパートに新居を構えました。同じアパートに住んでいた青山二郎は、そのころ、について次のように記しています。


〈新宿御苑の前から、電車道を越えて市ケ谷見附に出る路がある。一丁ばかり行つて左に折れて、そのまゝ左に右に折れて行くと、其処に花園アパートと謂ふ三階建三棟のボウ大なアパートがあつた。

赤坂の家をたたんでから、此処に私は十年住んでゐた。私が移つてマル一年ばかりしてから、中原が来た様に覚えている。その少し前に小林が結婚して、やがて私の方は夫婦別れをして、そのあと中原が結婚した。

そして、朝鮮の女学校を出た新妻を連れて、いきなり此の花園アパートへ中原が越して来たのである。生れて初めて東京に来て、これも生れて初めて見るアパートと謂ふものに入れられて、二十二か三の若い奥さんは事毎にちゞみ上つてゐた。

数寄屋橋の菊正ビルで中原は一杯やるのが好きで、奥さんの方は連れて行かれて、その間にライスカレーを二皿平らげるのである。それから銀座を一廻りし乍ら、ソレ松屋だ、三越だ、服部だと指差して、大きな声で説明する詩人の夫を奥さんは辱しがつた。

やれやれと思つてゐると、尾張町の四ツ角で中原が最敬礼(注:皇居に向かってなされた最もていねいな敬礼)を始めるのだつた。奥さんは外の遊びは何も知らなかつたが、麻雀だけは中原同様に下手糞ながらやれたから、我々の間に麻雀が流行つた。

中原が我々二三の者に手ほどきをして流行らせたのである。なんでも或る夏のことその晩は運良く奥さんが現れないで、夜明しになつた時、私の部屋で我々は四谷署にあげられた。

ポンもチーも区別の付き兼ねる連中が一晩留置所に入れられたのだから、皆んな得意だつた。その朝一番に呼出されて調べられ、帰つて来て見ると未だ寝てゐて誰も知らなかつた。

大岡昇平はその頃酒場の女が出来て、或る日二人連れで私の処へやつて来た時、中原にふつかつた。彼等は仲の悪い犬みたいに、会うと始めから喉を鳴らしてゐるのである。だから五分もすると双方は忽ち立上つた。

大岡は倚子の前にあつた重たい大きな木の足台を、金太郎が大石を振上げた様な恰好で、頭上高く振りかぶつた。私は大岡の女に耳打ちして、三階へ走つて行つて中原の奥さんをトツサに呼んで来させた。

さうして置いて、喧嘩をするなら表テでやつて呉れと二人にダメを押した。人のゐない所だと、二人では喧嘩にならない、さういふ喧嘩は始末の悪いもので世話の焼けること一通りではない。

中原の知つてゐる人間が私の所にいりびたつている癖に、詰り彼等に言はせると――電信柱の高いのも郵便ポストの赤いのも、皆んな私のノボクレの故なのである。そこへ中原の奥さんが大岡の女と駆けつけた。

中原は中原の一面を奥さんに見せることがなかつたので、この不意打ちに酷く面食らつた様子で、その怒りで大岡の女の背中をどやし付けながら、女房を呼ぶとは何事だと叫んだ。と、大岡は大岡で、よくも俺の女房の背中をどやしたなと改つた。

後年、中原の死後、この奥さんを嫁に貰つて呉れと強請んでゐたのを思ひ出して私が話すと、大岡はケロリと忘れてゐて私のネツゾウだと言ふから、特に書き添へて置く。私が中原を書かずに此の章で奥さん許り書いてゐるのは、中原の女性に対する愛情が彼を更生させてゐたからである。

極めて素朴な石頭の、家ねずみの様な若い女性――下駄屋も詩人も区別すること無く、亭主だから亭主にして、女房だから女房になつた、恁ういふ女性に結ばれた時期を中原は愛してゐる様子だつた。私は昔淋病に成つたことがあると言ふだけで、中原は私の所へ来てもお茶を飲むことを奥さんに禁じられてゐた。

奥さんに子供が出来たらしいのが分つてから、暫くすると奥さんは眼を患つた。うつちやつて置くと盲目になる病気だつた。段々一人で歩けない様になつた。それから毎日病院通ひが始まつた。三階から中原が手を引いて降りて、表テに出て、二三丁先きの俥屋までおねりの様に歩いて行く。

それから時間が来ると、またその通りに俥屋まで迎へに行つて連れて帰つて来て、三階の部屋に納める。それが今日びのアベックの様に恰好の良いものではなく、殊更に引く手をかゝげて、小男が色眼鏡を掛けた若い女の半歩前を歩いて行くのである。これが三四ケ月続いた様に覚えてゐる。〉(『新文藝読本・中原中也』「私の接した中原中也」)

「早春散歩」を作り、結婚をした翌1934(昭和9)年10月、長男の文也(ふみや)が生まれました。中也は、無類の子煩悩さを発揮します。そんな、愛するわが子に関する作品もたくさん残しました。その一つに、こんな春の詩もあります。

     春と赤ン坊

  菜の花畑で眠つているのは……
  菜の花畑で吹かれているのは……
  赤ン坊ではないでせうか?

  いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
  ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
  菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

  走つてゆくのは、自転車々々々
  向ふの道を、走つてゆくのは
  薄桃色の、風を切つて……

  薄桃色の、風を切つて
  走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)
  ――赤ン坊を畑に置いて

*写真は、孝子との結婚記念写真(昭和8年12月3日)=『新潮日本文学アルバム・中原中也』から

2017年4月29日土曜日

中原中也「早春散歩」⑨

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……


全3連、各連6行のワクにおさめながらも、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」といったふうに、のびやかで親しみやすい口語表現でつづられている「早春散歩」。

詩そのものは、とくに難しいところもなく、すらすらと読んでいけます。参考に、中村稔の『名詩鑑賞 中原中也』から、この詩の一つの読みかたを引用しておきます。

〈「早春散歩」という題は明るいものですし、たしかに「春が立返つた」ことをたのしんでもいるのですが、うたわれている内容には寂寥があふれています。

早春の光の中での寂寥、はなやぎそめた光に照らしだされるさびしさ、それがこの作品の主題です。

この作品の第一行は、「空は晴れてても、建物には蔭があるよ、」と書かれています。陰があるのは建物だけではありません。散歩する詩人の心にも陰があるのです。

その心を、早春の風が、薄絹か、ハンカチのように、ひきちぎり、きれぎれにして風にとばせるのです。

この詩は朗読してみると気づくことですが、リフレーンが頻用されており、それが幾重にも詩人の心のわびしさを読者にたたみかけるように訴えてきます。

第二聯で、「まるで過去がなかつたかのやうに」「少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如く」「確固たるものの如く」「隙間風にも消え去るものの如く」と、四度もくりかえしています。

第三聯では、「春を迎へるものであることを」「春は立返つたのであることを」とかさね、「風に吹かれながら」「歩きながら」「見やりながら」とくりかえし、「僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……」とくりかえしています。

そのたびに、水が池に滲み入るように、明るい外光の中の寂寥が、読者の心に滲み入ってくるのです。この作品で注目されることには、もうひとつ、第二聯に告白された心境があります。

ここで詩人は、「過去がなかつたかのやうに」とうたい、「風の中を吹き過ぎる 異国人のやうな眼眸をして」と言い「確固たるものの如く、 また隙間風にも消え去るものの如く」と自己を表現しています。

こういう脱落感、人間失格感は、「ゆきてかへらぬ」をはじめとする「永訣の秋」の詩編と共通しているものです。少なくとも、「永訣の秋」の詩情の萌芽がすでにこの作品に認められるのです。〉

春の日といえば、うららかで、明るいイメージがします。俳句に、春日影という季語があります。影という字が入ってはいますが、春の日の光、春の陽光、春陽のことを意味します。

しかし、この詩人の目にある春の風景にも、心のなかにも「蔭」がはっきりとあるのです。紗(しゃ)や絽(ろ)のように生地のうすい薄絹かハンケチででもあるかのように、早春の風が、詩人らの心をきれぎれにひきちぎり、散らします。

風がさっとひきちぎるほど、詩人の心は薄く、もろい状態なのでしょう。中也で、リフレーンというと、すぐに、有名な「汚れつちまつた悲しみに……」が頭に浮かんできます。

  汚れつちまつた悲しみに
  今日も小雪の降りかかる
  汚れつちまつた悲しみに
  今日も風さえ吹きすぎる

  汚れつちまつた悲しみは
  たとえば狐の革裘(かわごろも)
  汚れつちまつた悲しみは
  小雪のかかつてちぢこまる

  汚れつちまつた悲しみは
  なにのぞむなくねがうなく
  汚れつちまつた悲しみは
  倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

  汚れつちまつた悲しみに
  いたいたしくも怖気(おじけ)づき
  汚れつちまつた悲しみに
  なすところもなく日は暮れる……

この詩は口語詩ですが、基本的に七五調。小唄のように心地のよいリズムを刻んでいます。「汚れつち」の「つ」の促音によって「汚れ」のイメージを押し出し、リフレーンによって「悲しみ」の大きさがつたわってきます。

「早春散歩」のリフレーンは、「汚れつちまつた悲しみに……」のように大っぴらで声高なものではなく、詩の中にはまり込んで幾重にもつきまとっていきます。

それほどに、詩人の「淋しい心」はかなり深となって根差し、「蔭」となっているのでしょう。リフレーンがそれを、静かに浸みわたらせていきます。

2017年4月28日金曜日

中原中也「早春散歩」⑧

中也は「詩的履歴書」の中で、「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」と記しています。

この期間、1日の大半を使っていた「散歩」というのはどんなものだったのでしょうか。中也が残した「散歩生活」という未発表の随筆には、次のようにあります。

〈「女房でも貰つて、はやくシヤツキリしろよ、シヤツキリ」と、従兄みたいな奴が従弟みたいな奴に、浅草のと或るカフエーで言つてゐた。

そいつらは私の卓子のぢき傍で、生ビール一杯を三十分もかけて飲んでゐた。私は御酒を飲んでゐた。好い気持であつた。話相手が欲しくもある一方、ゐないこそよいのでもあつた。

其処を出ると、月がよかつた。電車や人や店屋の上を、雲に這入つたり出たりして、涼しさうに、お月様は流れてゐた。そよ風が吹いて来ると、私は胸一杯呼吸するのであつた。

「なるほどなア、シヤツキリしろよ、シヤツキリ――かア」

私も女房に別れてより茲に五年、また欲しくなることもあるが、しかし女房がゐれば、こんなに呑気に暮すことは六ヶ敷六ヶ敷(むつかし)からうと思ふと、優柔不断になつてしまふ。

それから銀座で、また少し飲んで、ドロンとした目付をして、夜店の前を歩いて行つた。四角い建物の上を月は、やつぱり人間の仲間のやうに流れてゐた。

初夏なんだ。みんな着物が軽くなつたので、心まで軽くなつてゐる。テカ/\した靴屋の店や、ヤケに澄ました洋品店や、玩具おもちや屋や、男性美や、――なんで此の世が忘らりよか。

「やア――」といつて私はお辞儀をした。日本が好きで遥々(はるばる)独乙から、やつて来てペン画を描(か)いてる、フリードリッヒ・グライルといふのがやつて来たからだ。

「イカガーデス」にこ/\してゐる。顳(こめかみ)をキリモミにしてゐる。今日は綺麗な洋服を着てゐる。ステッキを持つてる。〉

ちなみに、ここに出てくるフリードリッヒ・グライル(1902~2003)は、ペン画家で、NHKドイツ語放送のアナウンサーをしていた人です。

東洋の地に憧れて1928(昭和3)年に来日して、その後、日本を第二の故郷として定住。一橋大など多くの大学でドイツ語とドイツ文化を教えたりもしています。


また、「我が生活」というこれも未発表の随筆には、

〈女に逃げられた時、来る年の受験日は四ヶ月のむかふにあつた。父からも母からも、受験準備は出来たかと、言つて寄こすのであつた。

だが私は口惜しい儘に、毎日市内をホツツキ歩いた。朝起きるとから、――下宿には眠りに帰るばかりだつた。二三度、漢文や英語の、受験参考書を携へて出たこともあつたが、重荷となつたばかりであつた。〉

と「口惜しい」ままに「ホツツキ歩いた」青春の日々を描いている。さらに、同じ「我が生活」という題名の別の文章には――

〈私は銀座を歩いてゐた。私は中幕の勧進帳までしか見なかった。おなかが空いた時芝居なんかの中に、さう長くゐられるものではない。それよりかまだ歩いてゐた方がマシである。帰れば、借りつけの賄屋から取ることが出来る。けれども、

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める。〉とあります。

ところで、「毎日々々歩き通す」中也の散歩生活が終わりを告げる1933(昭和8)年10月というのは、遠縁の上野孝子と結婚、新居を構える直前にあたります。

このとき、「亡命者のやうな私の心」にきっと、大きな変化があらわれたのだろう。中也26歳。それは、青春の終焉を意味していたのかもしれません。


  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

「早春散歩」は、「ホツツキ歩いた」、「毎日々々歩き通す」という散歩生活の最後にあたる、この昭和8年に作られています。



*1933年の銀座通り(ウィキペディア)

2017年4月27日木曜日

中原中也「早春散歩」⑦

    春の雨

  昨日は喜び、今日は死に、
  明日は戦ひ?……
  ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
  道に踏まれて消えてゆく。

  歌ひしほどに心地よく、
  聞かせしほどにわれ喘〈あえ〉ぐ。
  春わが心をつき裂きぬ、
  たれか来りてわを愛せ。

  あゝ喜びはともにせん、
  わが恋人よはらからよ。

  われの心の幼なくて、
  われの心に怒りあり。

  さてもこの日に雨が降る、
  雨の音きけ、雨の音。


長谷川泰子が小林秀雄のもとにに走った後も、詩作を中断することはありませんでした。むしろ、前に見た「朝の歌」にみられるように、この事件以降、中也は詩人になったといえるかもしれません。

そして、1927(昭和2)~1928(昭和3)年に中也は第一詩集を出そうと試みました。結局、その計画は実現しませんでしたが、「春の雨」はその詩集に入れるつもりで書かれた詩の一つです。

そんなさ中の昭和3年5月、泰子と小林の関係も破綻します。原因は泰子の神経症だったようですが、事は相当に深刻で、小林は関西へ単身逃げ出しました。

泰子は心情というものがまったく欠如している女だという内容の手紙を、小林は妹に送っています。それからの彼らについて、吉田凞生の「中原中也小伝」には次のように書かれています。

〈しかしそういう泰子が、中也の目には「私の聖母」と映ったのだから、異性関係というものは分からない。中也にしてみれば、泰子は自分のところへ帰ってくるべきなのだが、泰子の方は承知しない。

それどころか、山川幸世という左翼の演劇青年の子供を産んでしまう。中也はその子に名を付けてやり、泰子が映画女優として仕事に出る時は、お守りをしてやったりする。子供に対する特別な感情の現れである。

この間、中也は河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、内海誓一郎らと同人誌「白痴群」を創刊する。昭和四年四月のことである。誌名は「俗物になれぬバカの集まり」という意味である。

初めて自分の詩を世に問う舞台を得た中也は、活発に詩作し、毎号作品を載せた。その中には「寒い夜の自画像」のように詩人としての使命感を示す詩もあれば、「時こそ今は……」のように泰子に対する再求愛のメッセージを含んだ詩もある。

人間には日常の利害打算よりもっと価値のある、普遍的な幸福というものがあり、愛というものがある、というのが詩人中也の信念だった。

しかし「白痴群」は一年で廃刊となった。原稿の集まりが悪くなったためである。そして廃刊を機に、中也の詩作も停滞し始める。

フランス行きの手段として外務書記生の試験を受けることを考え、東京外語に通い始めたりしている。小林秀雄が新進評論家として活躍し始めたのと対照的である。昭和六年、弟恰三が病没したことも中也には衝撃だった。

死者は清純で、生き残った自分は図々しい、という自責の念が中也を悩ます。『山羊の歌』の最後の二篇、「憔悴」「いのちの声」には、生命の停滞感とそこから脱出したいという願望が見える。

中也がそのために選んだのは、詩集を出版することだった。昭和七年(一九三二)、中也は『山羊の歌』を編集し、家から三百円を引き出して、自費刊行を企てる。

だが資金が続かず、本文を印刷しただけで中断せざるを得なくなった。それも一つの引き金となったのか、年末にはノイローゼ状態となった。強迫観念に襲われ、幻聴があったという。

しかし年が明けて昭和八年になると、精神状態は徐々に平衡を取り戻したらしい。この年三月、東京外語を修了。秋、遠縁に当る上野孝子と見合いをし、十二月に郷里山口で結婚した。中也は珍しく素直だったと伝えられている。

新居は四谷区(現在の新宿区)の花園アパートで、同じアパートに小林秀雄との共通の友人、青山二郎がいた。同じ十二月、『ランボオ詩集《学校時代の詩》』を三笠書房から刊行した。中也はまずランボーの翻訳で認められたのである。〉

「早春散歩」はこの年の早春、中也の精神状態が平衡を取り戻しつつあったころ書かれたと推定されています。

2017年4月26日水曜日

中原中也「早春散歩」⑥

  天井に 朱〈あか〉きいろいで
    戸の隙を 洩れ入る光、
  鄙〈ひな〉びたる 軍楽の憶ひ
    手にてなす なにごともなし。

  小鳥らの うたはきこえず
    空は今日 はなだ色らし、
  倦〈う〉んじてし 人のこころを
    諫〈いさ〉めする なにものもなし。

  樹脂〈じゆし〉の香に 朝は悩まし
    うしなひし さまざまのゆめ、
  森竝〈もりなみ〉は 風に鳴るかな

  ひろごりて たひらかの空
    土手づたひ きえてゆくかな
  うつくしき さまざまの夢。

中也自身がが最も好きだったともいわれ、「この詩に近代文学の誕生を見る」(吉田健一)などと讃えられる有名な詩「朝の歌」です。

以前にも見ましたが、中也は「詩的履歴書」の中に〈大正十五年五月、『朝の歌』を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり『朝の歌』にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くための、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす〉と記しています。

ここに中也は、自身の詩を見出した手応えを感じていたことになります。この詩はソネット風の五七調と、極めて古典的な形式で書かれています。しかし、そこに醸し出されているものは、従来の朝のイメージとは掛け離れています。


「小鳥らの うたはきこえず」、空は、ツユクサの花=写真、wiki=に見られる、はなだ色(薄い藍色)で、「土手づたひ きえてゆくかな/うつくしき さまざまの夢。」というのです。そこには、新たな日を迎えた溌溂とした雰囲気とは無縁の、心の倦怠感のようなものが漂っています。

「朝の歌」に関して、野田真吉は、次のように記しています(『中原中也――わが青春の漂泊』)。

〈至純で自由な幼児のような魂をもって生きようと希った中原は、それ故に世故たけた現実生活の恥辱にまみれ、ふみにじられなければならなかった。

文字どおり業苦のさなかに身を置き、生きなければならなかった。だが、その業苦を自らのものとしてうけとめ生きることに、彼は詩人が至純な魂をいだいて生きているしるしだと思った。

私が中原中也の詩からうける人間的感動はこのような業苦の世界のただなかにたえずゆれうごき、身も心も引き裂かれる至極赤裸な人間の魂の痛みを抒情詩としてたかめ、うたいあげられているところにある。

それは祈りであり、悔恨であり、迷いであり、愛慕未練の訴えである。〉

「朝の歌」が入っている詩集『山羊の歌』(1934年)の、この詩の前にも、私の好きな春の詩があります。初稿は「朝の歌」と同じころ書かれたとみられている「春の夜」です。

       春の夜

  燻銀〈いぶしぎん〉なる窓枠の中になごやかに
    一枝の花、桃色の花。

  月光うけて失神し
    庭〈には〉の土面〈つちも〉は附黒子〈つけぼくろ〉。

  あゝこともなしこともなし
    樹々よはにかみ立ちまはれ。

  このすゞろなる物の音〈ね〉に
    希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。

  山虔〈つつま〉しき木工のみ、
    夢の裡〈うち〉なる隊商のその足竝〈あしなみ〉もほのみゆれ。

  窓の中〈うち〉にはさはやかの、おぼろかの
    砂の色せる絹衣〈ごろも〉。

  かびろき胸のピアノ鳴り
    祖先はあらず、親も消〈け〉ぬ。

  埋みし犬の何処〈いづく〉にか、
    蕃紅花色〈さふらんいろ〉に湧きいづる
        春の夜や。

蕃紅花色というと、サフランの雌しべで染めた黄色っぽい色と、うす紫っぽい花の色の二通りが考えられます。この詩の場合、どちらがしっくりいくでしょうか。

2017年4月25日火曜日

中原中也「早春散歩」⑤

同棲していた長谷川泰子に逃げられた翌年の1926(大正15年・昭和元)年4月、中原中也=写真、wiki=は日本大学予科文科へ入学するものの9月に退学。11月ごろには、アテネ・フランセへ通います。


1928年(昭和3年)5月には父謙助が死去。中也は喪主でしたが、葬儀に帰省参列はしませんでした。このころ小林秀雄は、長谷川泰子のもとを去っています。昭和4、5年に書かれたとみられる「我が生活」という題の草稿には、次のようにあります。

〈私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶(みつ)めることが出来てゐたのと確信する。

つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若(も)し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。

手短かに云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なものが如何に不可能であるかを知つたのだ。私は厳密な論理に拠つた、而して最後に、最初見た神を見た。

然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜(くや)しくなるのだつた。――このことは今になつてやうやく分るのだが、そのために私は嘗ての日の自己統一の平和を、失つたのであつた。全然、私は失つたのであつた。

一つにはだいたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所が殆ど皆無であつたので、その口惜しさに遇つて自己を失つたのでもあつたゞらう。

とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」であつた。〉

「口惜しき人」の意味合いは、単に女に逃げられた、友人に裏切られたというところにとどまりません。先行きも希望も見えない、名伏しがたいものを生きていく「口惜しき人」になったのです。それは、中也が、詩人になった瞬間であったのかもしれません。

1931(昭和6)年4月、東京外国語学校専修科仏語部に入学。この年の9月には、日本医科大学の学生だった弟の恰三が病死しています。中也は、その直後、次のような弟の追悼詩を書いています。中也が24歳のときです。

      死別の翌日

  生きのこるものはづうづうしく、
  死にゆくものはその清純さを漂はせ
  物云ひたげな瞳を床の上にさまよはすだけで、
  親を離れ、兄弟を離れ、
  最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

  さて、今日はよいお天気です。
  街の片側は翳〈かげ〉り、片側は日射しをうけてあつたかい、
  けざやかにもわびしい秋の午前です。
  空は昨日までの雨に拭はれてすがすがしく、
  それは海の方まで続いてゐることが分ります。

  その空をみながら、また街の中をみながら、
  歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
  さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
  みたばかりの死に茫然として、
  卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

この詩を読んでいくと、季節の違いこそあれ、詩のかたちも味わいも「早春散歩」とよく似たところがあることに気がつきます。

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

中村稔は〈早春と秋という季節のちがいはあっても、散歩しながら心のなかにふきあげてくる感傷を描いている〉という点で両作品は似ており〈「死別の翌日」の呼吸、声調が、そのまま「青春散歩」にひきつがれている〉(『国文学』昭和52年10月)。



さらに、大岡昇平は「死別の翌日」の〈個人的感情の直截な表出から、より普遍化された詩想への展開〉が「早春散歩」(「神と表象としての世界」)と指摘しています。

2017年4月24日月曜日

中原中也「早春散歩」④

1925(大正14)年3月、中也は同棲していた泰子とともに上京します。中也は17歳、もうすぐで18歳になるというときのことです。

日大の予科などを受験するというのを口実にしましたが、替え玉受験を依頼したり、試験日にわざと遅刻して受験しなかったり。かと思えば今度は、受験のために予備校に通うのだといって両親らをごまかしていました。

そして山口の実家から、当時としてはサラリーマンの初任給よりずっと多かった80円、90円という送金をしてもらっていたのです。母のフクが「肝焼き息子」という生活の始まりです。送金は100円、120円とつりあがり、死ぬまで続いていきます。

秋山駿は「評伝」で次のように記しています。

〈これは、十七、八歳の乱暴さに賭けてでなければ行なえぬ、敢行の行為である。ヴァレリーは、自分の知る若干の天才の場合には、十九歳から二十四歳にかけての間に知的クーデターがあった、としているが、中原のこれは、それに先行する生のクーデターであった、といっていい。

しかし、その敢行の行為が、嘘を吐く(家に向って)、社会から見れば一種のインチキを踏み切り板にしているところに、中原の問題である。私が、中原における犯罪性と言ったのは、そこだ。むろん、そこはこの敢行の特徴を極端化するために言ったので、本当は犯罪性ではない。

嘘は、それを必要として自分の生の行手を賭ける者にとっては、嘘ではない、正当な行為である。むろん、嘘ではない、正当な行為である。むろん、中原はそう考えた。いま、すべてが赦されている、と。

――しかし、こういう生活の手段を生涯続けなければならない、と思うようになってからは、いったいこういう行為とその生とは、赦さるべきものなのか、それとも赦されないのか、という自問自答を、中原は無限に繰り返すようになる。

「生の罪」、あるいはこれを逆転して、「罪としての生」といった音調のものが、彼の詩の根底を流れ出す。〉(『新潮日本文学アルバム・中原中也』)


上京した翌月の1925(大正14)年4月、富永太郎と親しかった小林秀雄=写真、wiki=と知り合います。

この運命的な出会いによって、日本の近代文学史上よく知られた“奇怪な三角関係”がはじまることになるのです。

その年の11月12日、肺病を患い闘病生活を続けていた富永太郎が、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と自ら取り去り、24歳の若さで死にます。

その直後、泰子は中也のもとを離れて小林秀雄のところへ走り、同棲を始めるのです。

そのあたりの詳細は、有名な大岡昇平の『朝の歌』につづられている。ここでは、小林自身が後に書いた「中原中也の思ひ出」(昭和24年8月『文藝』)の一節をあげるのに留めておきましょう。

〈私は中原との関係を一種の悪縁であつたと思つてゐる。大学時代、初めて中原に会つた当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてから、そんな風に思ひ出したがるものだ。

中原に会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふことによつても協力する)奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原の間を目茶目茶にした。

言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にならない。

驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。だゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見附けただけであつた。夢の多すぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。

そんな言葉ではないが、中原はそんな意味のことを言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。〉

中也や秀雄たちの青春は、「宗教風の恋」を問うたような賢治とはかなり異質なものだったようです。それはともかく、こうした“奇怪な三角関係”のころに作られたと考えられる作品の中に、つぎのような春の詩があります。

      春

  春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
  その汗を乾かそうと、雲雀〈ひばり〉は空に隲〈あが〉る。
  瓦屋根今朝不平がない、
  長い校舎から合唱は空にあがる。

  あゝ、しづかだしずかだ。
  めぐり来た、これが今年の私の春だ。
  むかし私の胸を搏〈う〉つた希望は今日を、
  厳〈いか〉めしい紺青〈こあを〉となつて空から私に降りかゝる。

  そして私は呆気〈ほうけ〉てしまふ、バカになつてしまふ
  ――藪かげの、小川か銀か小波〈さざなみ〉か?
  藪かげの小川か銀か小波か?

  大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
  一つの鈴をころばしてゐる、
  一つの鈴を、ころばして見てゐる。

2017年4月23日日曜日

中原中也「早春散歩」③

中原中也(1907―1937)は、1907(明治40)年4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)に父柏村謙助、母フクの長男として生まれています。

父謙助は当時陸軍軍医として旅順にいました。1909(明治42)年、父謙助の転任にともなって広島へ、その後、金沢へと移り住みます。

1914(大正3)年3月、父謙助が朝鮮龍山(現ソウル市)聯隊の軍医長となったため、家族は山口に戻ります。1915(大正4)年1月、弟の亜郎が病死。その死を歌ったのが最初の詩作だと、中也は後に書いています。

8月、父謙助は山口に帰任。10月には中原家との養子縁組を届け出て、一家は中原姓となりました。1917年(大正6)年4月、父謙助は願によって予備役に編入され、中原医院を受け継ぐ。

1920(大正9)年2月、『婦人画報』と『防長新聞』に投稿した短歌が入選。4月には県立山口中学(現山口県立山口高等学校)に入学しましたが、このころ読書に目覚め、次第に学業を怠るようになります。

1922(大正11)年5月、友人2人とともに私家版の歌集『末黒野』を刊行。中に、「温泉集」と題して、28首を収めました。「防長新聞」に好意のある批評が載っています。

1923(大正12)年3月、山口中学を落第し、京都の立命館中学第3学年に転入学しました。晩秋には、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒していきます。

その冬、ドイツ文学者の成瀬無極が主宰した小劇団「表現座」に所属していた女優、長谷川泰子(1904―1993)=写真、wiki=を知ることになります。


稽古場にいたとき、中学生がやってきて、ダダの詩の書いてあるノートを見せたのが、出会いの始まりだ、と自著『ゆきてかへらぬ』で泰子は述べています。

泰子は、広島市出身。英和女学校(現・広島女学院)を卒業。ひとり立ちして生きていこうと女優を志し、京都に出てきて、表現座で役者修業をしていました。しかし劇団は解散してしまったため、泰子は途方に暮れてしまいます。

「それなら、ぼくの部屋に来てもいいよ」と中也が言ったのがきっかけで、二人の同棲生活がはじまります。1924年(大正13年)4月のことです。

この年の7月、富永太郎が、上海に渡って永住しようという計画に挫折して、友人がいる京都へ遊びに来ました。その際、中也と知り合い、2人はすっかり意気投合。詩を語り、ダダイストを論じあう仲になります。

そのころとについて、大岡昇平は『中原中也伝――揺籃』のなかで、次のように記している。

〈富永は殆ど毎日中原の部屋へ来て詩の話をし、下鴨の下宿へは寝に帰るだけだった。と当時中原と同棲していた長谷川泰子はいっている。富永二十三歳、中原十七歳、泰子二十歳である。

泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優で、撮影所へはあまり行かなかった。二人の食事を作った。しかし酒を出すなんて考えたことはなかったというから、二詩人のアルコール中毒は大して進んでいなかったと見倣していい。また金もなかった。〔中略〕

中原はこの前の年から高橋新吉の影響の下に、ダダイスムの詩を書いている。早熟の詩才は二人の大学生にとって驚異だったことは間違いない。

富永も大正十年から約十五篇の詩を書いているが、いずれも習作の域を出ず、模索時代である。中原は彼にとって、最初の詩人の友であった。

七月七日附の手紙に「ダダイストを訪ねてやりこめられたり」の句があるところをみると、中原は六歳年長の友に遠慮しなかったと想像される。しかし相互に影響の跡は、二人のその後の作品にはあまり見あたらない。〉

中也が「詩帖」と呼んだ詩篇ノートの最も古い一冊にも、「春」の詩が書かれています。推敲を重ね、中也が生きているときに出した唯一の詩集『山羊の歌』の冒頭に置かれることになった詩「春の日の夕暮」です。

     春の日の夕暮

  トタンがセンベイ食べて
  春の日の夕暮は穏かです
  アンダースローされた灰が蒼ざめて
  春の日の夕暮は静かです

  吁〈ああ〉! 案山子〈かかし〉はないか――あるまい
  馬嘶〈いなな〉くか――嘶きもしまい
  ただただ月の光のヌメランとするまゝに
  従順なのは 春の日の夕暮か

  ポトホトと野の中に伽藍は紅く
  荷馬車の車輪 油を失ひ
  私が歴史的現在に物を云へば
  嘲〈あざけ〉る嘲る 空と山とが

  瓦が一枚 はぐれました
  これから春の日の夕暮は
  無言ながら 前進します
  自〈み〉らの 静脈管の中へです

2017年4月22日土曜日

中原中也「早春散歩」②

中原中也は、自らの詩作の遍歴について、未発表の「詩的履歴書」という文章で、次のように記しています。
 
大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌つたのが抑々〈そもそも〉の最初である。学校の読本の、正行〈まさつら〉が御暇乞の所、「今一度〈ひとたび〉天顔を拝し奉りて」というのがヒントをなした。

大正七年、詩の好きな教生に遇う。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。

大正九年、露細亜〈ロシア〉詩人ベールィ=写真、wiki=の作を雑誌で見かけて破格語法なぞということは、随分先から行われてゐることなんだなと安心す。

大正十年友人と「末黒野」なる歌集を印刷す。少しは売れた。

大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。

大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思う。

仝年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省がなかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎〈とが〉めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正十四年、小林に紹介さる。

大正十四年八月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和二年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。

仝年十一月、諸井三郎を訪ぬ。

昭和三年父を失ふ。ウソついて日大に行つてるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧ろウソが明白にされたので過去三ヶ年半の可なり辛い自責感を去る。

昭和四年同人雑誌「白痴群」を出す。

昭和五年八号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和七年季刊誌「四季」第二輯夏号に詩三篇を掲載。

昭和八年五月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。

昭和八年十二月、結婚。

昭和九年四月、「紀元」脱退。

昭和九年十二月、「ランボオ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。

昭和十年六月、ジイド全集に「暦」を訳す。

仝年十月男児を得。

仝年十二月「山羊の歌」刊行。

昭和十一年六月「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正四年より現今迄の制作詩篇約七百。内五百破棄。


さらに「履歴書」の最後には、この詩の題名にもなった「散歩」について、次のように書かれていました。

「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。」

*アンドレイ・ベールイ(1880-1934)は、実験的な作風や独自の詩論で知られるロシア後期象徴派の中心的な詩人