2017年12月31日日曜日

石垣りん「女湯」②

  一九五八年元旦の午前0時
  ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
  ぎつしり芋を洗う盛況。

詩「女湯」は、ちょうど60年前のいまどき、1957(昭和32)年と1958(昭和33)年の境目の「午前0時」という時の記述からはじまっています。

心も新たに元日を迎えた、というよりは、大晦日の夜遅くまでかかって正月の準備に追われた、主婦と呼ばれる女たちが、何とかやっと片づけて、銭湯に飛び込んだというあわただしい印象がつたわってきます。

「七輪はまだ現役でした。木製の包丁差、徳用の大型のマッチ箱、台所の隅の上のほうに火の神様である荒神様を祀った神棚があったりして。流しはまだまだ木製が多かったのではないでしょうか。

ごまめや昆布巻を煮たり、きんとんを作ったり、伊達巻をこさえたり、仕事が終わるのが夜もずい分遅くなり、それから湯へ行くので、午前0時、すなわち元旦を風呂屋で迎えるということになるわけです」

と、1930(昭和5)年生まれの川崎洋は、思いめぐらしています(『すてきな詩をどうぞ』)。


もはや戦後ではない――戦後の復興が終わったことを告げる、よく知られた「経済白書」が出されたのは1956(昭和31)年のことでした。

この「もはや」は、当時としては、「これまでは戦後復興で大きな成長をとげてきたが、戦前の生産水準にまでたどり着いた。この先は成長をどう続けたらよいか」という、どちらかというと困惑ぎみのニュアンスだったようです。

しかし、復興期から脱した「もはや」の日本は、一気に右上がりの高度成長期を突っ走っていくことになります。

そんな兆しが、銭湯の女性たちがなんとか乗りきった1957年という1年間の出来事のあちこちに垣間見られます。

日本の高度成長を支える柱の一つになった自動車産業では、この年、富士精密工業(後に社名をプリンス自動車工業に変更し、日産自動車と合併)の「スカイライン」、トヨタ自動車の「コロナ」、日産自動車の「ダットサン210」など、新型車がつぎつぎ発売になっています。

ロッテは「グリーンガム」、明治製菓は「ミルクチョコレート・デラック」を発売し、日本コカ・コーラが設立されたのもこの年です。

「そごう東京店(有楽町そごう)」が開店し、初日だけで30万人以上が来店しました。また、日本の南極越冬隊が南極大陸に初めて上陸しました。

当時のソ連が、世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げれば、国内では糸川英夫らが開発した国産初のロケット「カッパー4C型」が、発射に成功しています。

5月にはイギリスが、キリスィマスィ島で初の水爆実験を実施。8月には 茨城県東海村の原子力研究所で原子炉が臨界点に達して「原子の火」がともります。一方で、9月にはソ連ウラル地方で原子力事故(爆発事故)が発生し、発表が隠されるという不吉な事態を招きました。

12月には立教大学の長嶋茂雄の巨人軍入団が決定。街にはこんな歌が流行っていました。

  久しぶりに 手をひいて
  親子で歩ける うれしさに
  小さい頃が 浮かんで来ますよ
  おっ母さん
  ここが ここが 二重橋
  記念の写真を とりましょね

そう、島倉千代子の「東京だョおっ母さん」です。150万枚の大ヒット。このとき島倉はまだ19歳でした。

2017年12月30日土曜日

石垣りん「女湯」①

いまから45年前、中学1年生のときに「詩」なるものの存在を知ってから、それを読むことによって言葉に接する喜びが、私の人生にとって欠かせないものとなりました。

そして近年は、年末年始になるときまってこの詩を読んでいます。石垣りんの「女湯」です。今年も飽きもせず、この作品を読みながら新しい年を迎えたいと思います。舞台は、ちょうど60年前の銭湯です。

     女湯

  一九五八年元旦の午前0時
  ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は
  ぎつしり芋を洗う盛況。

  脂と垢で茶ににごり
  毛などからむ藻のようなものがただよう
  湯舟の湯
  を盛り上げ、あふれさせる
  はいつている人間の血の多量、

  それら満潮の岸に
  たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡
  新しい年にむかつて泡の中からヴイナスが生まれる。

  これは東京の、とある町の片隅
  庶民のくらしのなかのはかない伝説である。

  つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる
  と、ゴマジオ色のパーマネントが
  あざらしのような洗い髪で外界へ出ていつた
  過去と未来の二枚貝のあいだから
  片手を前にあてて、

  待つているのは竹籠の中の粗末な衣装
  それこそ、彼女のケンリであつた。

  こうして日本のヴイナスは
  ボッティチェリが画いたよりも
  古い絵の中にいる、

  文化も文明も
  まだアンモニア臭をただよわせている
  未開の
  ドロドロの浴槽である。


「女湯」は、1959(昭和34)年に書肆ユリイカから出版された、『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』に入っています。

この詩集は、石垣りんの第1詩集。全部で43編の詩が、5部構成でおさめられています。「女湯」は第2部の最後、詩集全体の17番目に置かれています。

石垣りんは、1920(大正9)年、東京都の生まれ。1934(昭和9)年に高等小学校(当時は、義務教育である6年間の尋常小学校の後、授業料を取る2年間の高等小学校があった)を卒業し、事務見習いとして日本興業銀行に就職(初任給は昼食支給で18円)しました。14歳のときのことです。

敗戦直後から職場の機関誌に詩を載せるようになり、1948年には同人誌「銀河系」に参加。作品は、壺井繁治や大木惇夫が選をしていた全国銀行従業員組合連合会のアンソロジー「銀行員の詩集」にも選ばれました。

1958年、椎間板ヘルニアのため入院。手術を4回受けて、1年間を療養に費やしました。『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』は、その快気祝いとして配られた。詩集の「あとがき」には、次のように記されています。

〈こんどあることからたくさんの人のお世話になって、通常なら風呂敷か鰹節のひとつもくばつて祝とするところなのですが、何かこう、私に似つかわしい気持のあらわしかたはないものか、と自分の内面をのぞいてあれこれ物色したのですが、貧しい台所で、ご馳走したくてもわずかに書きためた詩稿があるばかり。長いあいだ生きてきて、たくわえらしいものはただこれだけだつたのか、と思い知らされました。〉

2017年12月29日金曜日

サハリンの銀河鉄道⑥完

ニッポノサウルス=写真=が発見されたのは、賢治のサハリンの旅から10年余り後の1934年の冬、サハリン南部にあった三井鉱山の川上炭鉱でのことです。


前に年譜でみたように、サハリンの旅で8月4日の栄浜から7日の鈴谷平原の間、賢治がどこにいたかははっきりしていません。

しかし、地質や鉱物に少なからぬ興味をもっていた賢治のことだから、ひょっとすると、サハリン有数の炭鉱だったこの川上炭山周辺を散策していたかもしれません。

それはともかく、『国土と教育』(1974年9月号)に載った根本要の「『日本竜』の発掘」によると、サハリンにしては暖かくて雪も少なかったその冬、炭鉱の病院の敷地を整備していた労働者が、骨のようなものがたくさんくっついた奇妙な石を見つけました。

知らせを受けた北大の長尾巧教授が調べたところ、トラコドン(ハドロサウルス類)の一種らしいとわかりました。

ハドロサウルスは二脚歩行性の草食恐竜で、頭部のとさかのような出っ張りがカモのくちばしのような形をしていることから、カモノハシ竜とも呼ばれています。

ニッポノサウルスの標本は、両脚、両腕、尾っぽの椎骨、あごなど約300点。頭骨の半分と背骨や指の骨の一部などが欠けているものの、全身骨格の約6割がそろっています。

体長は4メートルほど。まだ子どもで、海岸か浅海で食物でもあさっているうちに死んで化石になった、とみられています。

長尾教授は、発掘から2年後の1936年に「サハリンから見つかった新しい属と種のトラコドン恐竜」と題する論文を発表、これがニッポンの恐竜として世界的に知られる第1号になりました。

いまからみれば、日本ではない地で掘り出された化石に、日本竜(ニッポノサウルス)という名前がつけられているのだから、歴史の皮肉といわざるをえないでしょう。

かつての日本軍による侵攻や植民地化政策によって、東アジアなど多くの国々に取り返しのつかない傷跡が残されました。

しかし良きにつけ悪しきにつけ、それによって、わたしたちが迎え入れることのできた『銀河鉄道の夜』やニッポノサウルスのような文化的な遺産も少なくなかったはずです。

領土の問題は、政治や経済だけでなく、文学作品や文化にも大きな影響を及ぼしてきたことを、あらためて心に刻んでおきたいものだと思います。

2017年12月28日木曜日

サハリンの銀河鉄道⑤

以前、賢治と北海道のかかわりについて、旭川工業高等専門学校教授の石本裕之さんに教えていただいたことがあります。

石本さんによると、賢治と北海道の関係が本格的に研究されるようになるのは、生誕100年を前にした1990年代になってからで、それまであまり注目されなかったそうだ。

しかし、オホーツク挽歌詩群が、夜汽車の中で書かれた作品から始まっていて『銀河鉄道の夜』とイメージが重なることや、サハリンに「白鳥の停車場」を連想させる白鳥湖もあることから「銀河鉄道の夜のモデルは、オホーツク挽歌の旅だというのは完全に定説になった」と話していました。


いまと違って賢治の時代に、外国へそう簡単に出かけることができたとは考えにくい。もしも、そのときサハリンが日本領ではなく冷戦時代のソ連の領土だったとしたら、賢治のサハリン旅行が実現することはあり得なかったでしょう。

たまたまサハリンが日本の領土だったために賢治のサハリン行きは可能になり、トシの魂の行方を追って、稚内の宗谷岬ではなく、さらにはるか「上方」のサハリン・栄浜の白鳥湖まで足を伸ばすことができた。

そしてオホーツク挽歌詩群と呼ばれる名作が生まれ、『銀河鉄道の夜』という時空を超えた壮大な物語へと発展した。

サハリンへの旅がなくても賢治は『銀河鉄道の夜』を書いていたかもしれません。しかしそれは、いま残されている作品とはかなり違う内容だったことでしょう。

北への旅の道程が短かった分、物語のスケールも小さくなっていたかもしれません。

私は15年ほど前、長い間、人目にさらされることがなかったニッポノサウルス・サハリネンシスという恐竜の化石を、北海道大学の研究室で見せてもらったことがあります。

歯や骨の一部だけのことが多いそれまでに見た国内の恐竜化石と違って、骨格がごっそりそのまま残った美しい化石にすっかり魅せられました。

名前が示すように、日本の領土だったころのサハリンで、日本人によって発見された最初の恐竜です。

2017年12月27日水曜日

サハリンの銀河鉄道④

つぎにあげるのは、旅でたどり着いた栄浜で作られたと考えられる詩〈オホーツク挽歌〉の一部です。
  
  わたくしが樺太のひとのない海岸を
  ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
  とし子はあの青いところのはてにゐて
  なにをしてゐるのかわからない
  とゞ松やえぞ松の荒さんだ幹や枝が
  ごちやごちや漂ひ置かれたその向ふで
  波はなんべんも巻いてゐる
  その巻くために砂が湧き
  湖水はさびしく濁つてゐる
   (十一時十五分、その蒼じろく光る盤面)
  鳥は雲のこつちを上下する
  ここから今朝舟が滑つて行つたのだ
  砂に刻まれたその船底の痕と
  巨きな横の台木のくぼみ
  それはひとつの曲つた十字架だ
 

ここに出てくる「(十一時十五分、その蒼じろく光る盤面)」の一一時一五分は、前にあげた全集の年譜では「海岸での時計は午前一一時一五分を示す」とあります。

しかし、萩原さんは「午前」ではなく「午後」だと指摘します。さらに『銀河鉄道の夜』の「青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指し」た時計の盤面と深く関係があるとみています。

調べてみると、賢治が栄浜を歩いていたと予想される午後一一時一五分にも天頂には白鳥座があったというのです。

しかも見上げているのは白鳥湖のそば。天と地の「白鳥」が重なる奇跡的な時間だった。

八月三日午後六時二〇分に栄浜に着いた賢治は、旅館で旅装を解いて夕食でもとり、栄浜白鳥湖まで、お題目を唱えながら歩いた。夜半になり白鳥座と白鳥湖とが出あう時間が来た。

『銀河鉄道の夜』の「〔二十分停車〕」という記述に注目した萩原さんは「恐らく二十分間くらい、彼は天頂に達したときの白鳥座に祈り続けたのであり、それまでも、海岸線に沿って歩きながら祈った」と想像しています。

2017年12月26日火曜日

サハリンの銀河鉄道③

賢治のサハリン旅行の行程を、実際に現地まで行って調べた萩原昌好は著書『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』の中で、この旅と『銀河鉄道の夜』とが抜きさしならないほど結びついていることを、特に星座図との関係に注目しながら解明しています。

この本をたよりに、まずは、そもそもどうしてサハリンを旅先に選んだのかを検討してみます。


サハリンへの旅を中心に作られた「オホーツク挽歌詩群」と呼ばれる一連の詩の一つ〈青森挽歌〉に、「われらが上方とよぶその不思議な方角へ」という一行があります。

賢治はこれを、トシの魂の行方と一致する方角と定めていたと萩原さんはみています。

「われら」を含めた人間が「上方」と呼ぶのは、天の上方。星座の天球上の位置からすれば、緯度のより高い地点を志向したと考えられる。当時の日本の最も北方、それはサハリンにほかならなかった。

そして賢治は、自分が乗っている地上の列車の時刻と天上の星座の位置、さらに『銀河鉄道の夜』の時刻とを一致させるような仕掛けを用意したという。

『銀河鉄道の夜』には、白鳥の停車場に着くつぎのような場面があります。
 
 「もうぢき白鳥の停車場だねえ。」
 「あゝ、十一時かっきりには着くんだよ。」
 早くも、シグナルの緑の燈と、ぼんやり白い柱とが、ちらっと窓のそとを過ぎ、それから硫黄のほのほのやうなくらいぼんやりした転てつ機の前のあかりが窓の下を通り、汽車はだんだんゆるやかになって、間もなくプラットホームの一列の電燈が、うつくしく規則正しくあらはれ、それがだんだん大きくなってひろがって、二人は丁度白鳥停車場の、大きな時計の前に来てとまりました。
 さわやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針が、くっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまひました。
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
 「ぼくたちも降りて見やうか。」ジョバンニが云ひました。
 「降りやう。」二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。ところが改札口には、明るい紫がかった電燈が、一つ点いてゐるばかり、誰も居ませんでした。そこら中を見ても、駅長や赤帽らしい人の、影もなかったのです。
二人は、停車場の前の、水晶細工のやうに見える銀杏の木に囲まれた小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通ってゐました。

この中にある「十一時かっきりには着くんだよ」はなぜ一一時かっきりなのでしょうか。

『宮沢賢治「銀河鉄道」への旅』によれば、出発の日、賢治が乗ったと予想される花巻発午後九時五九分の列車の時刻表にはまさに一一時かっきりに着く駅があり、それは盛岡駅でした。

そして、その日時の星座図を調べると、盛岡の天頂には白鳥座がかかっていたことがわかりました。

さらに「上方」へとたどっていった最終的な到達地点、当時の日本の鉄道の最北端、サハリン・栄浜の白鳥座の位置についても同じようなことがうかがえるといいます。

2017年12月25日月曜日

サハリンの銀河鉄道②

『新校本・宮澤賢治全集』の年譜によると、宮沢賢治がサハリンへ向けて花巻を出たのは1923(大正12)年7月31日(火)。

ナーサルパナマの帽子、真白のリンネルの背広、渋いネクタイ、赤革の靴という賢治らしいいでたち。黒皮のカバンには、いつものようにシャープペンシルとノートが入っていました。


その後の旅程は、年譜によると次のようになっています。

8月1日(水) 青函連絡船で津軽海峡を渡り、5時間で函館に到着。札幌へ向かい、急行ならば6時間半で到着。札幌から旭川へ夜行列車にのったと推定。

2日(木) 詩〈旭川〉によって早朝、旭川についたと推定される。ついで上川農事試験場を訪ねたか。その後急行ならば約八時間乗車、稚内より樺太大泊行連絡線にのる。雨、霧が降っている。

3日(金) 稚内より宗谷海峡をわたり樺太亜庭湾の大泊港まで約八時間。大泊町、王子製紙株式会社樺太分社に細越健を訪ね、教え子の就職を依頼。

4日(土) 〈オホーツク挽歌〉により栄浜に赴いたと推定。大泊から豊原、栄浜へ到る樺太庁鉄道線の東海岸線にのり樺太庁所在地豊原町へ向かう。大泊港―栄町―大泊―楠渓町―一ノ沢―三ノ沢―貝塚―新場―中里―豊南―大沢の各駅を経ること二時間で豊原駅につく。豊原より北豊原―草野―小沼―富岡―深雪―大谷―小谷―落合を経て栄浜。さらに海岸荷扱所(栄浜から約1600メートル)までは、旅客船ではないが当時五銭で「便宜旅客」を扱い乗車できたというので、これを利用した可能性もある。海岸での時計は午前一一時一五分を示すと〈オホーツク挽歌〉には書かれている。

7日(火) 鈴谷平原は、鈴谷岳を中心として旭ヶ丘(樺太神社がある)、豊原公園をふくむ一帯で、樺太八景の一つ。ここで植物の採集を行ったようである。
本日付「天業民報」3面に「黎明行進歌(花巻農学校精神歌)」を発表。

11日(土) 未明、左に内浦湾(噴火湾)を走る車中に疲れはてて函館に近づこうとする。函館より連絡線で青森へ。青森から盛岡へ約六時間である。

12日(日) 盛岡より徒歩で帰花。

2017年12月24日日曜日

サハリンの銀河鉄道①

最近は、北朝鮮の話題にかき消されてしまっている感はありますが、尖閣諸島、竹島、北方領土などの領土問題は、依然として解決の糸口を見いだせないままの状態がつづいています。

四方を海に囲まれた島国、という安心感からか、中国や韓国の激しい攻勢にさらされるような事態にでもならないと、わたしたちは「領土」というものをあまり意識することはありません。

でも、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、帝国主義的な国際情勢の中で日本も列強と覇権を争い、近隣諸国に侵攻、侵略を繰り返しました。

南サハリン、朝鮮半島、台湾などに領土を拡大し、北東アジアや太平洋にいくつかの委任統治領を持つ時代もあったのです。

北海道の北に、北海道よりやや小さい面積約7万6000平方キロの南北に細長い島、サハリン(樺太)があります。


いまはロシア領ですが、日露戦争後のポーツマス条約で1905年、北緯50度以南の島南部がロシアから日本に割譲されてから1945年の敗戦までの40年間、多いときには40万人以上の人口を抱える日本の領土でした。

そんな時代のサハリンを、宮沢賢治(1896~1933)が訪れています。1923(大正12)年8月、27歳のときのことです。

岩手県・花巻の農学校の教諭をしていた賢治は、前の年の22年11月、最愛の妹トシを病気で失っています。その悲しみは、並大抵のものではありませんでした。

そのときトシの耳もとでお題目を叫び、押し入れに首を突っ込んで慟哭したといいます。

いまだ悲しみが癒えきれない時期のサハリンへの旅。それは、表向きは教え子の就職依頼のためでしたが、実際は死んだトシとの魂の交信を求める傷心旅行の色彩が濃いものでした。

2017年12月23日土曜日

安水稔和「鳥」⑬

  すれちがって
  ふりむかずそのまま。
  背中できく鳥の声。
  日だまりの坂道。

  立ちどまって
  しゃがみこんでそのまま。
  眼前に見る鳥の幻。
  雨の流れる歩道の端。

  風が吹く街なかで
  ところかまわず
  両手を拡げてみる。
  羽ばたいてみる。

  鳥よ。
  わたしは鳥か。
  飛ばぬ鳥か。
  それとも。

2013年秋に出版された第21詩集『記憶の目印』に入っている「鳥歌」です。82歳で出されたこの詩集の中にも、あちこちに「鳥」がいます。詩人は「すれちがって/ふりむかずそのまま/背中で鳥の声をき」き、「立ちどまって/しゃがみこんでそのまま。/眼前に見る鳥の幻」を見ています。


安水は以前、朝日新聞のインタビューで「詩について」つぎのように語っています。

 〈一人の男が歩いていく。気がかりなその男の後姿を見すえることは、多くの他の気がかりを見すえることであり、気がかりはすべて見すえている私から生まれるのです。詩を書くとは、詩にかかわるとは、気がかりをはっきりと気がかりとすることなのだと思いさだめるとき、私もまた歩いていく一人の男になるのです〉(昭和50年6月13日付「朝日新聞」)

 「鳥の声」は、「鳥の幻」は、「見すえている私」から生まれてくる「気がかり」。気がかりをはっきり、気がかりとする。すなわち、「鳥の声」を、「鳥の幻」を、はっきり気がかりにしようとする詩人。その姿もまた、気がかりとなります。「鳥の声」、「鳥の幻」となるのです。

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

〈云いたいことを云う、書きたいことを書く、というふうには、詩における言葉の問題は簡単ではないようです。なにかあることがいいたいとき、いいたいことの内容が大切であるというよりは、むしろ、なにかあることがいいたいとおもうその意識のありようこそが大切なのです。

だから、詩句の表現を磨くとか、よりよい表現を求めるということが、詩における言葉の問題であってはなりません。意識のありように対応するもの(言葉)を見据えることこそ、詩における言葉の問題の大要であると、私はおもうのです〉(「鳥になれ 鳥よ―言葉の問題」)

詩人は書きつづけています。うたい続けています。生きている「意識のありよう」である言葉を。「鳥の声」を、「鳥の幻」を、そして「鳥の夢」を。

2017年12月22日金曜日

安水稔和「鳥」⑫

安水稔和は神戸の詩人であるとともに、旅の詩人でもあります。なかでも、この半世紀近く、菅江真澄(1754~1829)=写真=の足跡を追う旅をつづけています。

菅江真澄は江戸時代の紀行家です。30歳ごろ、故郷の三河(愛知県東部)を離れて、信濃(長野県)に旅立ち、以後、越後(新潟県)から庄内(山形県)を経て秋田に入り、津軽(青森県)、南部(岩手県)、仙台(宮城県)、蝦夷地(北海道)、下北半島(青森県)などをめぐっています。

48歳のときに津軽を経て再び秋田へ入ってからは秋田領内を離れることなく、今の秋田県内のほとんどの市町村に足跡をしるしました。


旅をしながら『菅江真澄遊覧記』と総称される旅日記をはじめ、随筆、秋田藩の地誌など著作は200冊以上に及びました。うち77冊12帖が近世の歴史民俗を記録した第一級の資料として、国の重要文化財になっています。

百科事典的知識しかもたない私に、菅江真澄について語る資格はありません。ただ、安水が「真澄と歩く私の旅」の中で作ったという、大好きな作品があります。『蟹場まで』(2004年)に入っている詩「大浜」です。

  行きついた崖は
  しぶきに包まれて。

  岩床が揺れている。
  岩肌に隙間なく
  身を寄せあって。
  鳥たちがひしめいている。

  風にもまれて
  鳴き交わす声。
  いきたいか いきたいか。

  風の隙間から
  かぼそい稚い声。
  いきたい いきたい。

  足もとの湧きかえる水
  沖へ走る潮の筋。
  その先は見えない。

〈真澄の文章を読んでいると事細かに書きとめられた事実にまず驚く。いくら驚いても驚きたらぬ。だが、私が本当に驚くのは、事実のなかに入っていく真澄の後姿。その眼の位置。

その書きとめる手つき。一口にいってしまえば、真澄は定住者ではない。といって漂泊者でもない。とどまらず、さすらわず、常に過ぎつつ、しかも常に住みつく者だ。

真澄の跡追い、真澄の視線たどるとき、見えるものと見えないもの、あるものとありえないもの、生きていないものと死んでいないもの、同時に見とおすことむつかしいものが同時に見えてくるようにおもわれてならない。真澄は文学者ではない。

詩人ではない。だが、真澄の方法をなんとか文学の方法・詩の方法に転化させることはできないものかと、私はひそかに考えている。〉(『鳥になれ 鳥よ』の「過ぎつつ住みつく者」)と、安水は記しています。

もう20年以上前になります。私は、宮城県北部にある国内有数の渡り鳥の飛来地「伊豆沼・内沼」の在る農村地帯に住んで、北からやってきて帰ってゆく鳥たちを1年間みつめて暮らしました。東日本大震災で、最大の揺れ「震度7」を記録したところです。

伊豆沼は田んぼの広がる農村地帯にあります。ガンやハクチョウなど渡り鳥たちが群れでやってきて沼の周りに棲みつき、イネの落ち穂やマコモなどを餌にして春まで暮らします。

農家の人たちにとって、大切に育てたイネを啄まれたり、田畑を荒らされたりする“厄介者”なのですが、来なければ、居なければ寂しい“居候”でもあります。

毎年、同じルートでやってきてそうした、奇妙だが安定した共存生活を送り、暖かくなると再び営巣地のシベリアのほうへと帰っていきます。

「定住者ではない。といって漂泊者でもない。とどまらず、さすらわず、常に過ぎつつ、しかも常に住みつく」。考えてみれば、それは「鳥」の生き方そのもののように思えます。

2017年12月21日木曜日

安水稔和「鳥」⑪

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

鳥も夢をみるのかもしれません。ふつうにこの詩を読めば、飛び立とうともがき、なりふりかまわず走る詩人の姿を描いているように思えます。とすれば、どうしてそれが「鳥」なのでしょう。

  君は鳥。
  羽を切られた鳥。
  この庭にすぎぬ
  歩くしかない
  君は鳥。
  歩いて三歩四歩
  垣根のまえに
  立ちすくむしかない
  君は鳥。
    (「鳥は君」から)

  もう一度鳥をとばそうか。
  かわいた固い掌から
  かわいた固い空へ。
  もう一度鳥をとばそうか。
  うすい今日へ。
  なんとか。
  もう一度。
    (「鳥をとばす」から)


ときに「君は鳥」であり、「とばそう」という対象にもなります。安水の「鳥」は、さまざまな立場や位相で作品の中に登場してくるのです。

「詩は言葉でつくるものだ」というマラルメ的な、象徴主義的な「鳥」に近づくこともあれば、具象的、現存する鳥の切実な姿を見せることもあります。

ドイツの大数学者ダフィット・ヒルベルトは、「点」や「直線」を「ビールジョッキ」や「机」に置き換えて、「2直線は1点で交わる」を「2つの机は1つのビールジョッキで交わる」としても同じことだ、と現代数学を表現しました。

もちろん安水の「鳥」は、「恐竜」でも「犬」でも「蟻」でもかまわないというわけではないはずです。安水は、「詩学」(1959年9月号)に寄せた「日常の詩」の中で、次のように記しています。

〈私は鳥を書きつづけたが、鳥はついに鳥ではなかった。鳥が鳥の世界をつくるはずもなかった。なにも私はあの鳥は私自身であったとかいうのではない。そんなことではない。私が鳥を書いていたとき、鳥の周囲を人間がうろうろしていたのだ。

私もその一人だった。鳥は私たちの間をぬって飛んでいた。そういうことなのだ。だから、鳥がどんなに鳥になり、どんどん飛び、あまりに鳥そのものに近づき、どんどん近づき、そのあげく、鳥になろうとするとき、鳥でなくなってひとつの象徴にかぎりなく近づくとき、私はこの手で鳥を殺さざるをえない。

鳥をとりもどさざるをえない。このような衝動・殺意を、私ははっきりと自覚せざるをえなかった。〉

安水の「鳥」を読んでいると私の頭には、スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットが自らの「生の理性 (razon vital)」の哲学に関して隠喩的に用いた「私は私と私の環境である」という言葉が思い浮かんでくるのです。

2017年12月20日水曜日

安水稔和「鳥」⑩

  失ったものを
  指折るのもひとつの悲しみ。
  それを忘れようとし
  あるいは忘れてしまったのは――
  深い悲しみの姿。

  失ったもの
  すべて灰のごとく
  風のなかであまりに軽かったが。
  それら風に散ったものを
  忘れ去ることは
  なおさらたやすかったが。

  意味を喪い
  生のなかに死ぬ
  われわれ。
  すでに啄まれて
  腐肉
  跡もない。

1953(昭和28)年、安水が22歳のときに作り、第1詩集のタイトルにもなった詩「存在のための歌」は、四つの章から成っていいます。これは、その第1章です。

この詩は、安水の詩人としての旅立ちの作品であるとともに、その後も彼の詩作の底にいつも通奏低音のように響きつづけているように思えます。


安水は自身の『詩作ノート』で、この詩に関して「満州事変の年にぼくは生まれた」という言葉にはじまり、次のように語っています。

〈満州事変の年にぼくは生まれた。日中戦争の始まった年にぼくは小学校に入学した。太平洋戦争の始まったときぼくは小学校五年生。そして日本が敗れたときぼくは十三歳だった。戦場へは行かず、工場へも行かず、といって集団疎開もせず、中学二年生は街のなかで焼夷弾の雨をじっと待っているだけだった。焼けた街から田舎へ逃亡したぼくはその夏、やせほそった餓えた十三回目の夏を迎えた。

戦後十年。それがつまりぼくの青春なのだろうが、それはまだ手に入っていないのにすでに失ってしまったものを追認しつづける時間であったといってもいいだろう。いったい、ひとはどのようにして年齢を重ねていくものだろうか。

ひとつひとつ獲得していくのか。ひとつひとつ獲得して充実していくのか。その頃ぼくはそうは思わなかった。逆に、ひとつひとつ喪失していくのだとおもった。だから、ひとつひとつの喪失をあやまりなく追認したいとおもっていた。成熟とはつまりは負の認識の累積ではないかとおもっていた〉

4章にわたるこの詩には、それぞれ2行のエピグラフ(題辞)が付いています。この第1章には、

      禿鷹は飛び去った
      すでに久しい以前に

2章、3章は、

      虎が吼えるのだ
      痩せさらばえた虎が

      鳩が焼け死んだ
      眼のまえで

「禿鷹」「虎」「鳩」とつづいて第4章に置かれているのが「鳥」。そして、詩はつぎのように締めくくられます。

      鳥は常に追われる
      残酷きわまる手に

  ―さあ
  と誰かが誘う。
  ―さあ
  と誰もが応えたいのだ。

  ―さあすべて
   投げ捨て
   すべてやさしきもの
   死をうしろに
   すべてうしろに
   さあ……
   すべてうしろに
   さあ……

  誰もが誘う。
  誰もが応えたいのだ。
  ―われわれ
   なにものでも
   ありえないだろうが
   さあわれわれ
   なにものでも
   ありえないままに
   さあ

「―さあ と誰かが誘う。」ことが起こって欲しいと詩人は願っています。そして、「―さあ と誰もが応えたいのだ。」と感じます。願望を少しはみ出て、希望の光が射しているように思われます。

この詩が作られてから60年あまり。敗戦の焼け野原に代わって、今度は津波にさらわれた廃墟が、ヒロシマ、ナガサキに代わってフクシマが、大きな喪失感となって、この国を覆っています。

詩人は60年が過ぎたいま、「鳥は常に追われる」という認識を、果たしてどんなふうにとらえ直しているのでしょうか。

2017年12月19日火曜日

安水稔和「鳥」⑨

〈毎年冬になると、メジロが庭にやって来る。山に食べ物がすくなくなるのだろう、山を降りてくる。サザンカの蜜など吸いに来る。

そこで、ミカンを半分に切って庭の木の枝に刺しておくと、二羽、一羽、また二羽、次々とやって来て、交替でミカンをつっついている。

注意して見ていると、午前中に西隣から植木伝いにやって来て、ひとしきりミカンを食べて、それから下の家に移り、家伝い木伝いに山へ帰っていく。どうやら鳥の道があるらしい。

昨年は地震のあともメジロはやって来た。その鳴き声を耳にして、その姿を目にして、どんなになぐさめられたことか。やがて暖かくなると、ぱったりと来なくなった。山で巣作り子育てが始まったのだろう。またの冬には会おうね。

それが、この冬は一度その声を耳にしただけ。それっきり。年が変わっても、春めいてきても、まったく姿を見せない。どうしたのだろう。

家のまわりはまだ更地だらけ。一軒おいて西の家が、すぐ下の家が取り壊されて。さらにその下の家も、その横の家も取り壊されてそのまま。植木もすくなくなってしまって。

そのうえ、あたりはうちつづく取り壊し作業、補修工事、新築工事、さまざまの車が人がひんぱんに出入して、さまざまの騒音に取り囲まれて、メジロは来たくても来れないのではないかしら。家伝い木伝いの鳥の道が地震のあと、とだえたのではないかしら。

それでもとこの冬も、庭の木の枝にいつものようにミカンを刺しておいたのだが、待っても待ってもメジロは来ない。あの食いしんぼうのヒヨさえ、どうしたことか来ない。ミカンは変色して黒く小さくカラカラに乾いてしまった。

サザンカが咲いても、ユキヤナギが咲いても、ハクモクレンが咲いても、聞こえてくるのは、かん高いヒヨの声ばかり。それも時たま。サクラが咲いて、サクラが散って、木々が萌え立ち、春たけなわ。見渡せば町はまだまだ。人はこれから。

鳥よ来い。人よ戻れ。春冷えの愁いは、いかにも深い〉


阪神大震災から1年あまり経った1996年4月29日付の神戸新聞に掲載された安水の「鳥の道」と題されるエッセーです。

一瞬の天災は、すべてのものを一変させます。崩れ落ちた瓦礫、焼け跡。呆然たる喪失感から少しずつ前へと足を踏み出して、瓦礫を片づけ、やっと更地になりました。

それでも「一軒おいて西の家が、すぐ下の家が。さらにその下の家も、その横の家も取り壊されてそのまま」。植木もめっきり減ったままです。そして、取り壊し作業や補修工事が続いています。騒々しく、ひっきりなしに車や人が出入りしています。震災からの復興の音です。

こうした環境の劇的な変化が、影響しているのでしょう。庭に来ていた鳥たちが、来なくなったのです。詩人は、それが気にかかってしかたがありません。逆に見ると、1年たってようやくこのころには、愛する鳥をじっくりと見つめ、思いを寄せるゆとりが生まれていたのかもしれません。

発生からもうすぐ4年になる東日本大震災で、最も揺れが激しい震度7を記録したのは宮城県の栗原市でした。震度7は「立っていることができず、はわないと動くことができない」という、これ以上にないレベルの震度です。

この栗原市と隣の登米市にまたがって、日本有数の渡り鳥の飛来地「伊豆沼・内沼」=写真=があります。25年前、私は1年間ここで、何万もの渡り鳥たちを見つめて暮らしたことがあります。

北方から群れをなしてたくさんの渡り鳥がやって来て、棲みいているこの時節になると、あの震災で彼らの渡りに何か変化が起こったのだろうかと気にかかります。

でも、心配はありません。一時的にちょっぴり「道」を変えることはあっても、あの6500万年前の、隕石衝突による絶滅の危機からも生き延びた恐竜の子孫である鳥たちなのです。

そういえば、安水の詩集『鳥』の中にこんな詩もありました。

      鳥

  ねむっても
  ねむっても
  鳥は空にいた。
  めざめても
  めざめても
  鳥は空にいた。
  いつも
  いつものとおり
  風に支えられて
  鳥は空にいた。
  土や水からは遠いところを
  いつも
  いつものとおり
  飛んでいた。

少しばかり近くで見かけることがなくなったって、鳥は空にいます。いつものように飛んでいるのです。

2017年12月18日月曜日

安水稔和「鳥」⑧

あれからちょうど20年が経ちました。1995年1月17日午前5時46分。マグニチュード7.3。安水稔和のまちを、兵庫県南部地震(阪神大震災)=写真=が襲ったのです。神戸市長田区の家は半壊、九死に一生を得た詩人にとって、それは

  私たちのまちを襲った
  五十年目の戦争。
     (安水の詩「神戸 五十年目の戦争」=朝日新聞1995年1月27日)

でした。


20年前、私も西宮市に住んでいて被災しました。家の中はメチャメチャ。電気も水も無い生活が続きました。その日から1年間、新聞記者だった私は震災の報道に追われることになりました。ヘリのカメラマンから送られてくる写真からは、安水が住む神戸市長田区の街並みが、煙と炎に包まれているのが見て取れました。

  目のなかを燃えつづける炎。
  とどめようもなく広がる炎。
  炎炎炎炎炎炎炎。
  また炎さらに炎。

  目もまえに広がる焼け跡。
  ときどき噴きあがる火柱。
  くすぶる。
  異臭漂う。

  瓦礫に立つダンボール片。
  崩れた門柱の張り紙。
  倒れた壁のマジックの文字。
  みな無事です 連絡先は……。

  木片の墓標。
  この下にいます。
  墓標もなく。
  この下にいます。

  これが神戸なのか。
  これが長田のまちなのかこれが。
  これはいつか見たまちではないか。
  一度見て見捨てたまちではないか。     (同詩)

長田のまちを覆う煙を見た私たちは当初、関東大震災のことを思い描いていました。大正12年 (1923年) 9月1日に発生した関東大震災では、地震が起きた直後から火災が発生し、延々46時間にわたって延焼。犠牲者の9割近くが火災によるものでした。

阪神大震災直後、廃墟と化した神戸に設けられた遺体の仮安置所や警察署を歩き回り、私は次第にこの地震が、関東大震災とはかなり性格が違っていることに気がつき出しました。断片的な情報をつなぎ合わせていくと、亡くなった方たちの95%くらいが、地震で潰れたり倒壊した建物の下敷きになった「圧死」が原因だということがわかったのです。

炎炎炎炎炎炎炎。また炎さらに炎。長田のまちは、阪神大震災では特異的に、火災で焼き尽くされてしまいました。しかも、壊れた家の下敷きになって亡くなった人たちもたくさん出ました。そういう意味では、詩人は、被災地の中でもとりわけ凄惨な光景の目撃者だったことになります。

そのとき、安水の脳裏には、まだ中学生だった「あの日」が鮮明に浮かび上がっていたに違いありません。昭和20(1945)年6月5日、神戸の3度目の大空襲。長田の家を失った安水は幼い妹の手を引いて、焼け野原になった街の海沿いの市電道を煙に包まれて歩いていました。

そして大空襲の後、安水は一家で長田を離れ、母の実家のあった現在の兵庫県たつの市に疎開しました。しかし「五十年目の戦争」では、「見捨て」ることはありませんでした。詩人はひたすらに、言葉を刻みつづけたのです。

  神戸のまち長田のまち
  生きて愛するわたしたちのまち。
  生きて愛するわたしたち
  ここを離れず。

  焼け残った山茶花のかげにきく
  鳥の声。
  倒れた軒の下の砕けた植木鉢に開く
  水仙の花群。
           (同詩)

ここでも詩人は、鳥の声をきいています。

2017年12月17日日曜日

安水稔和「鳥」⑦

    鳥よ

  花が咲いてもとっくに散って。
  風が吹いてもとっくに止んで。
  河が溢れてもとっくに涸れて。
  水なく。風なく。花なく。枝なく。声なく。
  声もなく土塊ゆっくりと宙に舞う野で。
  声かける。

  ―鳥になれ。
   鳥よ。

1971年に出版された第8詩集『歌のように』の中の詩です。この詩に限らす、安水稔和は、「―鳥になれ。鳥よ。」の呼びかけを、詩人は自身の作品や講演などさまざまな場面でつづけています。

〈ここでは、鳥にむかって鳥になれといっているのです。そんな馬鹿なことといってしまわずに、今一度口に出していってみてください。鳥になれ。鳥よ。海になれ。海よ。空になれ。空よ。あなたになれ。あなた。……

つまり、空が空でなくなっていて、海が海でなくなっていて、あなたがあなたでなくなっていて、つまり、鳥が鳥でなくなっていて、この二行は成立しうるわけです。鳥が鳥でなくなっているという認識があれば、なんのことはないありふれた二行なのです。

スモッグの空を空と呼ぶことはできない。ヘドロの海を海と呼ぶことはできない。このような拒否の意識から、ごく自然にこの二行は生まれるのです〉(安水稔和著『鳥になれ 鳥よ』)

 ―鳥になれ。
 鳥よ。

あなたになれ。あなた。それは、本来の鳥に、本来のあなたに戻れ、ということなのでしょうか。とすれば、本来の鳥、本来の鳥とは何なのか。それとも、鳥はこういうもの、人はこういものといった捕らわれから自由になって、現存在としての“自分”を見つめよ、という実存主義的な呼びかけなのでしょうか。


安水が盛んに「鳥」を書いていたのは、工業化が急激に進んだ高度成長期、大量生産、大量消費のツケが、公害というかたちで噴出した時代と重なります。公害は、環境問題というよりグローバルで、とらえどころなく、よりいっそう困難な問題となって、私たちの前に立ちはだかり続けています。

それにしても、これほどまでに「鳥が鳥である」ことが難しい時代があったでしょうか。科学技術などが起爆力になって次々に新たなモノやメディアがもたらされ、価値観を含めて目まぐるしい速さで変わっていきます。本来の姿を見い出すことは容易なことではありません。

「鳥になれ」と呼びかけているのは詩人です。基本的には、その直感からナチュラルに出てきている言葉であって、みだりに理屈を云々すべきものではないでしょう。それにしても、詩人が「鳥になれ」と呼びかけている鳥とは、どんな鳥なのか。『鳥になれ 鳥よ』に安水は次のように記しています。

〈私の想像力の世界の鳥は、黒い鳥ばかりです。走っても走ってもとびたてません。いつまでも土のうえを走っています。羽根が一枚もないのもいます。赤裸です。首を泥田につっこんでいるのもいます。息絶えています。井戸にはまった鳥。首を大きな手で握られた鳥。太陽のなかへとびこむ鳥。黒こげの鳥。さまざまの、もはや鳥とはいいがたい鳥たちなのです、それは鳥です。でも、鳥ではありません。でも、鳥であってほしい。でも、鳥ではありません。鳥になれ。鳥になれ。鳥になれ。……鳥よ。

つまり、この二行から必然的に、鳥が鳥でないということがどうしても判明するのです。そして、鳥でない鳥という虚体から言葉は動いているのです〉

2017年12月16日土曜日

安水稔和「鳥」⑥

   君は鳥。
   ぼくは鳥。
   飛ぶ意志である。
   ともに飛ぶ意志はない。
   ともに飛ぶとは
   とるにたらぬ時間のなかに
   とびちった籾殻。
   朽ちようとする世界のなかに
   ふりまかれた仮説。
   ぼくは鳥。
   君は鳥。
   時間に犯された
   意志ならぬ意志。
   ただ飛ぶことの意志。
   意志はどこに由来するともしれぬ。
   ただ想像する、
   この世界の外の
   闇のなかにあるいは
   意志するものがいるのかもしれぬと。


詩集『鳥』のなかにある「飛ぶ意志」という詩です。この詩をはじめ安水の五つの詩作品が入った「鳥について」という混声合唱組曲があります。

1959(昭和34)年に東京都立新宿高校音楽部OBやOGらによって創立され、いまも定期演奏会やコンテストなどいろんな活動をしている市民合唱団「アルベルネ・ユーゲント・コール」の創立40周年委嘱作品。

若かりしころ、この合唱団のピアノ伴奏をしたこともあるという池辺晋一郎によって作曲されました。

アルベルネ・ユーゲント・コールとは、ドイツ語で「お人好しな若者達の合唱団」という意味で、「20代から70代まで、いろいろな世代で楽しく歌っている」そうです。そんなアルベルネ・ユーゲント・コールに、安水稔和は次のようなメッセージを寄せています。

〈わたしがまだ若い頃、25、6歳の頃、鳥のことばかり書いた時期があった。原稿用紙を広げてまず鳥と書いた。鳥と書くと不思議に言葉の扉が開いた。次々と鳥が現われた。飛ぶ鳥。いつまでも飛び続ける鳥。落ちる鳥。歩く鳥。走る鳥。いつまでたっても飛べない鳥。坐りこんだ鳥。動かない鳥。羽根のない鳥。泥だらけの鳥。投げこまれた礫。さまざまの鳥たちが日常の世界を駆け抜け、非日常の世界へ飛び立った。

鳥は鳥であって、わたしであって、あなたであって、わたしたちであった。鳥は言葉であり、声であり、歌であった。そんな鳥たちを集めて詩集を作った。詩集の題を『鳥』とした。詩集に閉じこめたはずの鳥たちは、その後も、事あるごとに現われた。さまざまの姿態で、今も。

   あの鳥影に言の葉を引き結べば
   日影揺れる戸口に
   なつかしい人が立つという
   わずかに血のにおう
   あなたの眉のあたりをまた
   鳥の影が過ぎる     (「春は鳥占」終連)

このたびの合唱組曲「鳥について」の詩はいずれも1956年から7年にかけて書いたものである。
「鳥よ」3篇と「飛ぶ意志」は詩集『鳥』(1958年刊)から、第4曲「歌」は詩集『愛について』(1956年刊)から池辺晋一郎さんが選び取られた。

半世紀近く前に飛び立ったわたしの言葉たちが、池辺さんによって新しい翼を与えられ、池田明良さんとアルベルネ・ユーゲント・コールの皆さんによってあらためて飛び立つことになった〉

安水稔和の詩は、私たちの心に、脳の中に、直接に響いてきます。とやかく言う必要はないのです。その言葉そのものを、そして詩人の中にある「意志」を、受け取ればいい。歌い、その声を聴けばいいのです。

2017年12月15日金曜日

安水稔和「鳥」⑤

             鳥

  あれが鳥だ。
  大空に縛られた存在。
  動くことを強いられた
  被術者。
  世界の外から
  悪意の手によって投げこまれた
  礫だ。

いま読んでいる「鳥が夢を見た。」の「鳥」が入った詩集『鳥』の冒頭の詩です。

こちらのほうに出てくる「鳥」は、大空を飛びまわる自由な存在という私たちがふつうに抱く鳥のイメージとは正反対です。空に「縛られた存在」であり、動くことを強いられた「被術者」。

そして「悪意の手によって投げこまれた礫」でもあるというのです。自由を謳歌するどころか、主体性のない「受け身」でしかない存在としての鳥ということになります。

話はだいぶ飛びますが、私が中学生のころ、こんな歌が流行っていました。

  いま私の願いごとが
  かなうならば翼がほしい
  この背中に鳥のように
  白い翼つけてください
  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ
  行きたい

そう、フォークグループ「赤い鳥」が歌って1970年代に大ヒット、その後も合唱曲などとして広く歌われている「翼をください」です。


この歌が流行りだしたころ、私は中学生。がんじがらめの学校生活にウンザリし始めたころで、心に響き、大好きになりました。

でも、ちょうど同じころ科学に興味をもつようになり、中でも、アインシュタインの相対性理論なるものがあることを知って、この曲に対する感じかたが変わった記憶があります。

もちろん当時の私に微分幾何学の知識があるはずはなし、相対性理論がまともに理解できたわけでもありません。しかし、

地球は、ニュートン的な力で太陽と互いに引き合いながらまわっているわけではなく、ひときわ質量の大きい太陽の周りの空間そのものが曲がっていて、そのへこみにそって地球は進んでいるだけのこと。

私たちがどんなに速く走れるロケットをつくったとしても、光速に近づくにつれロケットの質量が増えていって加速できなくなり、光には永遠に追いつけない。

といった、相対論っぽい理屈をこねるようになっていました。そして、私たちが置かれている時空って、勝手に羽ばたいたり、飛び回ったりするようにはなっていないんじゃないかと、漠然と思いはじめたのでした。

物理学とは縁遠い話ですが、考えてみるとその後の人生経験の中で、「それ的」なものをずいぶんと体感し続けてきたように感じます。

「自由な空」ほど、とりとめなく不安で、居場所を見つけるのが難しいところはありません。自由に飛ぼうとすれば飛ぶほど、そこにはすさまじいばかりの「抵抗」が待ちかまえていて、がんじがらめにされるのがオチなのです。

私の場合、年を取るにつれて、鳥であろうが、人間であろうが、神さまであろうが、時空に「縛られた存在」以外の何者でもないという思いは深まって、冒頭の安水の詩が実感として分かるようになってきました。

数年前の春、十和田湖畔や、北海道の野付半島、サロマ湖畔で、病原性の強いH5N1亜型鳥インフルエンザウイルスによって死んだとみられれるハクチョウが見つかりました。

私は当時、北海道にいてそれを詳しく調べたのですが、専門家たちの見方を総合すると、どうも、中国大陸で流行っていた毒性の強いウイルスが、カモか何かの渡り鳥によって運ばれてハクチョウに感染した可能性が高いことがわかりました。

キョクアジサシのように、中には何万キロも移動することもある渡り鳥。きっとそれは「自由な」などという生やさしいものではないはずです。

生きていくために「動くこと」を強いられているのです。ある見方をすれば遺伝子の為すがままに、ある見方によれば宇宙の摂理によって。それは、人間でも同じことなのでしょう。

そして、自覚してか、知らずにか、「鳥インフルエンザウイルス」に現象として見られるような「悪意の手によって投げこまれた礫」となることもあるのです。鳥にしても、人間にしても。

2017年12月14日木曜日

安水稔和「鳥」④

ざっと400~500万年ほど前、われわれの祖先は、ボノボやチンパンジーなど類人猿の祖先から別れて人類になったと考えられています。人類と類人猿を分ける決定的な違いは、生物学的には、2足で歩けたかどうかにあるようです。

たとえば400万年くらい前のアウストラロピテクスは、脳の大きさはチンパンジーとほとんど変わりません。ですから知能的には、チンパンジーと大差はなかったとみられます。

しかし、骨格や骨盤、下肢の形、足跡などから2本足で直立歩行していたとことから、人類に属すると考えられているわけです。

2足歩行で、前脚、すなわち腕を歩行に使わなくてもよくなったことで、重いものを持って移動することができるようになりました。それに、物を投げたり、高度な道具をつくり、使うことも。

さらには、頭部が直立した胴体の真上に乗るかたちになり、大きな頭でも支えることもできるようになったのです。

2足歩行をする動物は決して多くはありません。前脚を歩くのに使わず2足歩行するようになった動物の元祖が、かつて1億年以上にわたって地上に君臨した恐竜です。

ヒトの場合、地面と垂直に直立して歩くのに対し、恐竜は地面と平行の姿勢でうまくバランスを取りながら歩いたと考えられています。


だいぶ前になりますが、慶応大学理工学部の、ヒトの歩き方をコンピュータ解析している研究室を訪ねたことがあります。研究室では当時、2足歩行をする姿勢によって、歩くスピードがどんなふうに変わるのかを調べていました。

モデルは、体長10~13メートル、体重約2トンの肉食恐竜アロサウルス。体を円錐状の14の節に分け、足跡から割り出した歩幅で足を振らせたらどんな動きをするかシミュレーションをしました。

すると、最も安定していたのは、体を水平にしてバランスをとる「水平型」でした。ゴジラのように直立した姿勢だと、頭や尾の振れが大きくて歩幅が減り、歩きにくいことがわかったのです。

水平な姿勢で、足と体の各部の振れが合致する自然な歩きをしたときの速さは毎秒1.68メートル、時速約6キロ。マラソン選手なみの時速13~18キロも楽々出せることが推測されました。

2本の足を軸に、体を水平にしてシーソーのようにバランスを取る歩き方は、ある意味ではヒトの直立歩行よりずっと“省エネ”で、理にかなったものだったのかもしれません。

恐竜の子孫、いや恐竜の生き残りである鳥もたいていは、人間と同じく2本足で、ちょんちょんと器用に歩き、ときに俊足で走ります。

ただ、2本足で立って地上でひたすら頭でっかちになっていったヒトに対して恐竜は、前肢を翼に変えて空に飛び立つ道を選んだのです。ダチョウ=写真=のような一部の鳥を除いて。そうして――

  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――

そんな苦しみを味わうことにもなります。しかし、それでも、2本足を選んだ人間も、鳥も、飛びたち、羽ばたこうと、けんめいに走るのです。

2017年12月13日水曜日

安水稔和「鳥」③

詩「鳥」をはじめて読んだ20年あまり前、そのころ私は、カナダで開かれていた恐竜の博覧会で、一つの恐竜の化石に出逢って、すっかり魅せられていました。

シノルニトイデス=写真、wiki。「中国の鳥に似た動物」という意味の名がついた小型の恐竜です。


寝ている鳥のように、体を縮めて丸まった形で、化石になりました。細い2本の足、3本の足指、指に鋭く曲がったつめがついていました。

シノルニトイデスは、カナダと中国との共同調査で、中国内モンゴルの1億2000万年前の地層から出てきました。

もとの姿は、長さ1.2メートル、高さ75~80センチ、体重5キロと推定されました。体に比べて頭は大きめで、口には歯がありました。小さな爬虫類や哺乳類を食べて暮らしていたようです。

詳しく調べるとシノルニトイデスは、恐竜としては大きな脳をもつ小型肉食恐竜トゥロオドンの仲間とわかりました。トゥロオドンは、絶滅しなかったら人間に進化したものもあったかもしれない、という学者もいるほど脳が発達していたと考えられています。

カナダの世界的恐竜学者、フィリップ・カリー博士が、「トゥロオドンをみても、脳を収容するスペースが鳥なみに大きい。しっかりと前の方を向くようにつくられた眼球のまわりの骨格なども、鳥とそっくり。鳥の祖先は恐竜というよりも、鳥は恐竜の一種とさえいえる」と、そのころ自信たっぷりに話してくれたのを思い出します。

当時すでに恐竜研究者のほとんどが、鳥の祖先は恐竜と考えるようになっていましたが、いまや恐竜の一部が鳥になったという認識が一般の私たちにも広まりつつあるように思われます。

鳥はもはや鳥類というよりも恐竜類、その中でも獣脚類に属するマニラプトラ目(すなわちドロマエオサウルスやオヴィラプトルを含むグループ)として位置づける研究者も少なくありません。

私がシノルニトイデスに出会った少し後に、映画「ジュラシックパーク」が公開されました。

スクリーンをけたたましく走り回るヴェロキラプトルを見て、シノルニトイデスもこんなふうに人類が現れる遥か前の地上を走り、その仲間からやがて、地上には居たたまれなくなって空へ飛び立つものが現れたのではないかと想像したものです。

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。

私は、シノルニトイデスと出逢ってすっかり“鳥恐竜”に夢中になりました。そして、モンゴル・ゴビ砂漠の発掘現場、中国の博物館などいろんなところを訪ねて、恐竜と鳥との関係に思いを馳せました。そんなとき頭にあったのが、この「鳥」でした。

地上にいた恐竜が、どのようにして鳥として飛び立ったのか。木の上から繰り返し飛び降りているうちに翼が発達していったのか。それとも、地上で獲物の昆虫を取ろうと懸命に飛び回っているうちに「捕虫網」のように翼が発達していったのでしょうか。

いずれにしても恐竜たちもきっと、飛びたとうと走っても、走っても、砂をけちらし、水たまりにふみこみ、なりふりかまわず走っても、走っても、を何度も、何度も、幾世代も、幾世代にもわたって繰り返して、未知の空を手に入れていったに違いないと私には思えてならなかったのです。

2017年12月12日火曜日

安水稔和「鳥」②

安水稔和=写真=は神戸に生まれ、そこで生活を営み、創作活動をつづけている神戸の詩人です。


1931(昭和6)年9月、神戸市須磨区に生まれました。13歳のとき、神戸大空襲で被災。その際、現在の兵庫県たつの市にあった母の生家に疎開し、終戦の日を迎えています。

敗戦から4年後に神戸に戻り、長田区池田上町に居住。ここで現在まで暮らしています。

1950(昭和25)年、神戸大学文学部英米文学科に入学。その年の12月には詩誌「ぽえとろ」を創刊。本格的な創作活動に入ります。

1954(昭和29)年に大学を卒業し、地元の中・高一貫の女子校に就職。翌年には、第1詩集『存在のための歌』を刊行ました。

以後、詩作をはじめ、評論やラジオドラマ、菅江真澄研究など、旺盛な創作、文筆活動は衰えることなく現在まで続いています。

詩集だけをとっても、1954年の『存在のための歌』から『記憶の目印』までに21冊。ざっと3年に1冊のペースで、筆を折ることなく続いています。

子供のときから20回近い転居を繰り返し、大学も、仕事も、迷いに迷ってあれこれ手をつけて、いまだ然したる人生の手応えを感じられずにいる。そんな私からすると、神戸という生まれ育った地でひたすら一つの道を究め続ける安水は、何とも羨ましく、すごいと思います。

いつだったか、物理学、俳句、教育行政の“三足の草鞋”のいずれにおいても、人並みはずれた大きな業績を残している有馬朗人が「物理なら物理、俳句なら俳句、行政なら行政へ徹底的にエネルギーを投じるべきでした。ですから後輩には一芸に徹すべしと言っている」と自省の弁を述べる文章を読んで、これほどの“スーパーマン”でもそんなふうに考えているのかと驚いたことがあります。

  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――

ハタから見れば順風満帆、一筋の道に打ち込む、迷いのない落ち着いた人生のように見えても、たった一つの人生を歩みつづける詩人そのひと自身にとっては、そんなオメデタイものであるはずはありません。

「鳥」はだれも、「鳥」になろうとして、飛びたとうとして、羽ばたき、けんめいに走る、なのに、飛びたてない。そんな、ながいながい、にがいにがい夢を見つつ、生きているのです。

2017年12月11日月曜日

安水稔和「鳥」①

今年も、越冬のため北からやってきた冬鳥たちが、日本列島各地にたくさん集まってきている時節になりました。きょうからしばらく安水稔和の「鳥」を再読します。

     鳥

  鳥が夢をみた。
  いつおわるともしれぬ
  ながいながい夢をみた。
  いつまでたっても
  飛びたてぬ、
  飛びたとうと
  羽ばたいて
  けんめいに走るのだが
  いつまでたっても
  土の上を走っている、
  砂をけちらし
  水たまりにふみこみ
  なりふりかまわず走るのだが
  いつまでたっても
  土から離れられぬ――
  にがいにがい夢をみた。


1958(昭和33)年、「くろおぺす」から出版された安水稔和の第3詩集『鳥』の第Ⅰ部、冒頭からはじまる「鳥」の連作の11番目に出てくる詩です。

安水稔和は若いときからおびただしい数の作品を発表しています。そして、高齢になっても詩作への意欲はいっこうに衰えを見せることはありません。むしろ老いていっそう、意欲や冴えをみせているようにも感じられます。

鳥の詩もたくさん書いています。まだきちんと読んではいませんが、近年出版された第21詩集『記憶の目印』にも、「鳥歌」という作品を見かけました。

鳥は、北極から南極まで地球の広い範囲に生息します。同じように、安水の長大な詩世界のあちこちを「鳥」は、ときに群がり、ときに独りで、飛びまわっているようにも思われます。

鳥はくちばしを持つ、卵生の恒温せきつい動物。たいていは体が羽毛で覆われ、歯はなく、翼をもって、飛ぶことができます。2足歩行で、大きさは5センチほどのマメハチドリから、3メートル近いダチョウまでさまざまです。

鳥には社会性があり、目でとらえるサインや、鳴き声、さえずりによってコミュニケーションをとります。群れをつくって共同で狩猟をしたり、繁殖を支えたり。道具を加工して使用することが観察されている鳥もいます。

多くは、“一夫一妻”の繁殖形態をとり、卵は巣のなかで温められ両親によって孵化させられます。しかし、夫婦関係は繁殖期ごとに替わるのがふつうで、生涯続くことはまれのようです。

鳥は、世界7大陸で1万種近くが知られ、四肢動物の中で最も種類が多いのが特徴です。飛ぶのに高度に適応した、ユニークな消化器や呼吸器を持ち、飛行機のような“鉄の塊”に乗らなくても、大空を自由にはばたけるのです。

2017年12月10日日曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑭

  わたしはわたしのうたの中で
  べこの子の背中に
  かげろうをゆらつかせ
  りんごのキモチがわかるとほざき
  めんこい小馬のたてがみを
  朝つゆでぬらした

  わたしは東京生れの東京そだち
  べこの子や小馬とくらしたことはない
  だがわたしの父母は
  ともに みちのくの生れ
  父は弘前
  母は仙台
  わたしがこのんで
  雪国のうたをつくるのは
  どうやら二人から受けついだ
  血のせいらしい 血のせいらしい

と、サトウハチローは「わたしのうた」という詩で、自嘲気味にうたっています。

1949(昭和24)年の「長崎の鐘」を最後に流行歌から退き、童謡に専念することを宣言したハチローは、1953(昭和28)年に童謡集『叱られ坊主』を出版して、翌年に芸術選奨文部大臣賞を受賞します。

1955(昭和30)年には「ちいさい秋みつけた」を作り、2年後のレコード大賞童謡賞を受賞するなど、めざましい活躍をつづけていきます。


同時に、質の高い童謡が生まれていくために作詞料のアップなど環境づくりにも力を尽くしました。

戦争直後から約10年間にわたって東京タイムズに連載したエッセイ『見たり聞いたりためしたり』の中で、次のように記しています。

〈最近、必要があって、各レコード会社の童謡の作詩料をしらべた。調査の結果は、ボクをブンブンのカンカンにさせた。

あまりにも、あまりにもあまりにも、安すぎるからだ。各会社とも、流行歌の半分以下なのだ。いったい、こういう料金はどこから割りだしたのだ。ばかにするにもほどがある。

勿論、作品そのものも、これはと思うものはないが、そういう点からいったら、流行歌だって同じだ。いや、それ以下だ。童謡の方は、ばかばかしいウタが多く、流行歌の方は、愚劣極まるのが多い。

童謡には社会に害毒を流すというようなものは、みあたらなかったが、流行歌の方には、大分ある。書いてる作者の頭をうたぐりたくなるものがずらりとならんでいるのは流行歌で、作者自身が本体を一つもつかんでないのが多いのが童謡の方だった。

罪の軽いのは、どちらかというと、これは公平にみて童謡の方なのだ。それなのに、安いのだ。ふざけちゃいけねえや……とケツをまくりたくなるのは無理はねえやだ。〉

戦後の流行歌に対してハチローは、「社会に害毒を流す」と言葉を荒だてるほどにまで、満足のいかないものを感じていたようです。

しかし、「リンゴの唄」は、もはや単なる“流行歌”の範疇を離れ、「歴史」になっていきました。ハチローをはじめ、作曲した万城目正も、歌った並木路子も、霧島昇も、鬼籍に入ったいまも、「リンゴの唄」は歌い継がれています。

そして、敗戦の焼け野原からの復興の歩みの中で生まれた新しい世代のリンゴ「ふじ」が、いまや世界のリンゴとして輝きをはなっています。赤いリンゴに唇よせる「リンゴの唄」に、「ふじ」もよく似合う。

  歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なおたのし
  みんなで歌えば 尚なお嬉し
  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

「リンゴの唄」はきっとこれからも歌い続けられていくことでしょう。日本が、自由に、生き生きと、みんなで歌える国であるならば、ですが。

2017年12月9日土曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑬

  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ
  うねりの波の 人の世に
  はかなく生きる 野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

  召されて妻は 天国へ
  別れてひとり 旅立ちぬ
  かたみに残る ロザリオの
  鎖に白き 我が涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

敗戦から4年後の1949(昭和24)年に、作詞・サトウハチロー、作曲・古関裕而作曲、歌・藤山一郎でコロムビアレコードから発売され、大ヒットした「長崎の鐘」です。


「私は、この『長崎の鐘』を作曲する時、サトウハチローさんの詞の心と共に、これは、単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って“なぐさめ”の部分から長調に転じて力強くうたい上げた」と古関は自伝に記しています。

この歌は、長崎の原爆で妻を失い、自らも被爆しながら治療にあたった長崎医大の永井隆博士の『長崎の鐘』や『この子を残して』を読んで感動し、ハチローが作詞したもの。

ハチロー自身も、広島の原爆で腹違いの弟、節を失っています。ハチローは節を“チャカ”と呼んで、幼いころから可愛がっていました。広島中央放送局へ転勤する親友を大阪駅で見送りましたが、別れがたく、そのままついて昭和20年8月5日夜に広島へ行き、翌朝、被爆しました。

  お前がいなくなって
  俺はひとりの兄弟もなくなってしまった
  ポンプを
  押しっこして水をのみたくても
  もうのめない

  ああ 秋空だけが
  いたずらに毎日青い青い

これは、そんな弟にむけて書いた詩の一節です。

  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ

「長崎の鐘」の染み入るような出だしは、弟に対する痛恨の想いから噴き出してきた言葉に違いありません。

ハチローはこの「長崎の鐘」を最後に流行歌から退き、童謡に専念することを宣言します。実際にはその後も流行歌をいくつか作詞していますが、仕事の中心が童謡に向けられるようになったことは確かでしょう。

ハチローの弟子、宮中雲子は「サトウ先生の生涯」をまとめた『うたうヒポポタマス』に、「ハチローは、詩を書き始めたときに、自ら童謡を選んだ。流行歌でヒットを出し、小唄を書いて拍手を受けたが、ほんとうに書きたいのは美しい抒情詩であり、童謡だった」と記しています。

「リンゴの唄」に始まった、敗戦で打ちひしがれた人々を励まし再起をうながす歌をとどけるという、ある意味では詩を職業とする者の使命ともいえる仕事は、「長崎の鐘」で一応やり終えたという気持ちが、ハチローのどこかにあったのかもしれません。

それにしても、

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空

そして、

  こよなく晴れた 青空を
  悲しと思う せつなさよ

という、「リンゴの唄」と「長崎の鐘」の二つの空。見つめる想いは異なっているのでしょうが、どちらも青くすっきりと澄んでいます。

2017年12月8日金曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑫

〈もうこのあたりでいいかと見回すと、ちょうどいい具合の木が見つかりました。
よし、ここで、とロープを枝に投げたら、勢い余って指からすり抜けて飛んでいきました。何てドジなんだと思いながら、ロープを拾いに斜面を少し下りようとして目をあげたときです。月光にリンゴの木が浮かび上がっている。まるで自ら光を放ちこちらを見てくれと言わんばかりにその木は輝いていました。

 「えっ、こんなところにまだリンゴの畑があったのか」
 人の手が入らなくなって久しい見捨てられたリンゴ畑だと思ったのです。夢か幻か。もう自分が何のために山に登ってきたのかも忘れてしまいました。実はこの辺はドングリがはえる高さの限界でした。毎日、リンゴのことばかり考えていたから、ドングリの木がリンゴの木に見えたのです。

とにかくその木は自分の木とは全く違い、虫の被害もなく、見事な枝を張り、葉を茂らせていました。私はその魔法の木に一瞬にして目も心も奪われました。

こんな山の中でなぜ、農薬を使っていないのにこれほど葉をつけるのか。なぜ虫や病気がこの葉を食いつくさないのか。その木の前に呆然と立ちすくんでいました。あたりはなんともかぐわしい土の匂いに満ち溢れ、肩まである草をかき分けると、足元はふかふかで柔らかく湿気があります。

雨のせいではありません。クッションを敷きつめたような感触です。そして突然稲妻に打たれたかのように、「これが答えだ」と直感しました〉(木村秋則著『リンゴが教えてくれたこと』)


絶対に不可能といわれた無農薬・無肥料栽培を成功させ、「奇跡のリンゴ」として映画にもなった青森県の農業家、木村秋則さん。

畑すべてを無農薬・無肥料に替えて6年たっても「収穫ゼロ」が続き、親戚からは「家を出ていけ」とののしられ、周りからは「あいつはバカだから口をきくな」。万策尽き果てて、自殺を思いたって山へ入ったときの話です。

リンゴは「農薬でつくる」と言われるほど病害虫が多く、栽培が難しい果物。木村さんのリンゴ栽培への執念は、自殺を思い立ってからも、尽きることはなありませんでした。首をくくろうとしていたとき、月光に、リンゴの木が浮かび上がってきた。実は、ドングリの木だったのですが。そして、ハタと悟る。

「やっぱり土が違うんだ。そうだ、この土をつくればいい」

手のかかるリンゴ栽培は、毎年ふつうに実らせるだけでも農家の人たちの大変な労苦が要ります。まして木村さんのように新しい栽培法に替えたり、新しい品種に挑んだりするのは、いのちを賭けるくらいの並々ならぬ覚悟がなければ臨めるものではないのでしょう。

  あの娘よい子だ 気立てのよい娘
  リンゴによく似た 可愛いい娘
  誰方(どなた)が言ったか うれしい噂
  かるいクシャミも 飛んで出る
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

「リンゴの唄」には、木村さんのような困苦してリンゴつくりに励む栽培農家の姿はありません。ここに出てくるリンゴは、果物屋で売られ消費者が手にしているリンゴ。なんとなく神秘的で、高級で、庶民にはなかなか手に入らないがキュートで可愛らしい都会的な果物です。

サトウハチローは、空襲にさらされていた戦時中に、東京で「リンゴの唄」を作りました。そのころのハチローは、大都会に住む売れっ子の作詞家でした。子どものころ両親の郷里の東北のリンゴ畑を歩いたといった経験はあったのでしょうが、基本的には“都会に出てきて一皮むけた”感じのリンゴを見つめて書かれた詩といえるでしょう。

「リンゴの唄」は、戦時中は「軟弱すぎる」と検閲ではねられました。うって変わって戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からは歓迎されるかたちで検閲を通り、国民に爆発的に広まります。詩は、時代や政治状況、置かれた立場などによって作られかた、読まれかたが大きく変わります。

2011年の東日本大震災の直後、被災地で「リンゴの唄」を歌おうといった歌手らの活動もあったようです。「リンゴの唄」には、戦後の焼け野原に響いたときのように、人々を励まし前向きにさせる力があります。実際、被災地で「リンゴの唄」を口ずさんで気持ちを支えた人も多いことでしょう。

でも、もしも、精魂込めて育ててきたリンゴ畑に足を踏み入れることさえできなくなったフクシマの農家の人たちの耳に、

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空

と、都会的で明るい歌声が入ってきたとしたら、どんな気持ちを抱くでしょう。私などの想像のおよぶ範囲ではありませんが、「心をなぐさめ励ます歌だから」と単純には割り切れないものがあったにちがいありません。

2017年12月7日木曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑪

  みかんの花が 咲いている
  思い出の道 丘の道
  はるかに見える 青い海
  お船がとおく かすんでる

  黒い煙を はきながら
  お船はどこへ 行くのでしょう
  波に揺られて 島のかげ
  汽笛がぼうと 鳴りました

  何時か来た丘 母さんと
  一緒に眺めた あの島よ
  今日もひとりで 見ていると
  やさしい母さん 思われる

よく知られた「みかんの花咲く丘」は、「リンゴの唄」が大ヒットしていた終戦直後の1946年8月25日にNHKのラジオ番組「空の劇場」で発表されました。加藤省吾が作詞、海沼實が作曲をした童謡です。


放送の直前になっても作品が仕上がらずに悩んでいた作曲家の海沼實が、たまたま行き会った音楽雑誌編集長の加藤省吾に即席で歌詞を作ってもらい、なんとか間に合わせたといいます。

海沼と加藤が曲のタイトルを決めようとしたとき、最初にイメージされたのは「みかんの歌」でした。が、2人には、旧知の間柄だったサトウ・ハチローのことが頭に浮かんできます。

「リンゴの唄」の二番煎じと嫌味を言われるかもしれない。というわけで、リンゴが実ならみかんは花でいこうと、あれこれ思案した後に「みかんの花咲く丘」になったというエピソードも付いています。

ところで、南国らしい駘蕩とした明るいメロディの半面、詩を読んでみるとなんとなく物悲しい。みかんの丘の道ははるかにかすむ思い出の道なのです。そして、いまはもう亡いのであろう母を偲ばせる丘でもあります。

ミカンの産地、静岡県出身の作詞家、長田恒雄にこんな詩もあります。

  歌ふのをやめよ
  僕は枝にのぼって
  そっと 皮のまま
  みかんをかじる

  ほろにがく酸っぱくあまく
  家郷が
  僕の底辺にしみる

          (「家郷にて5」)

 太陽に恵まれた南国の果物でありながらミカンには、こうした、ほろ苦さや憂いをうたった詩がけっこう多いようです。むしろ、初恋、青空といった浮き立つものとマッチして、

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔

といった弾むように前向きな明るさを生み出すイメージ力は、寒冷な厳しい風土の中で育つリンゴのほうが強いようにも思えます。

なんといったってリンゴは、あの激しい「ねぶた」の祭りを、熱情の板画家、棟方志功を、そして骨太でたくましい北のまほろば、三内丸山遺跡を生んだ地で育っているのですから。

2017年12月6日水曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑩

  雨……雨……雨……
  雨は銀座に新しく
  しみじみとふる、さくさくと、
  かたい林檎の香のごとく、
  舗石の上、雪の上。

  黒の山高帽、猟虎の毛皮、
  わかい紳士は濡れてゆく。
  蝙蝠傘の小さい老婦も濡れてゆく。
  ……黒の喪服と羽帽子。
  好いた娘の蛇目傘。
  しみじみとふる、さくさくと、
  雨は林檎の香のごとく。

         (北原白秋「銀座の雨」)

リンゴというのは、不思議な果物です。「人こひ初めしはじめなり」(藤村)と、「初恋」のシンボルになったかと思えば、銀座の雨の香も放ちます。

そういえば、旧約聖書「創世記」のエデンの園で、アダムとイヴが誘惑にまけて食べてしまった「善悪の知識の木」の「禁断の果実」も、昔から絵画ではリンゴが描かれるのが定番になっています。

というのは、ラテン語で「善悪の知識の木」の「悪の」の部分にあたる「malus」を、同じつづりの「リンゴ」の意味と取り違えたか、二重の意味が含まれていると読み取ったから、とされているそうです。

これほどまでに、「知恵の木」=リンゴというイメージが定着した背景には、リンゴという果物が持つ、美しくも神秘的な形象が画家たちの想像力をかき立てたという側面もあったに違いありません。

ギリシア神話には、不和の女神エリスが「最も美しい女神に与える」と言って投げ入れた黄金のリンゴをめぐってヘラ、アテナ、アフロディテの3女神が争い、やがてトロイア戦争に至るエピソードがあります(パリスの審判)。

知恵の木といえば、近代科学を切り開いたアイザック・ニュートンが「木から落ちるリンゴを見て万有引力の法則に気づいた」という逸話はあまりにも有名です。


現代のカリスマ、スティーブ・ジョブズ(1955~2011)たちがつくったコンピューター会社の名前も、そのロゴマークも「アップル」。アップルのパソコン、マッキントッシュ(Macintosh)もリンゴの品種名「McIntosh」(日本の「旭」)から取られたものだそうです。

「アップル」の由来については、ジョブズが果食主義を実践していた、知人のリンゴ園の剪定作業から帰ってきたところで名前を決める打ち合わせをした、尊敬していたビートルズのレコード会社名「アップル」から、知恵の実でイメージが良い、頭が「A」で電話帳の最初のほうに出てくる、など諸説があるとか。

  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

古今東西の偉人たちを惹きつけ、人間の歴史や文化のさまざまなイメージを喚起するリンゴ。西洋リンゴが入ってきた明治期に育ち、好奇心のかたまりのような詩人だったサトウハチローが、その神秘的でエキゾチックで、ときにエロティックな色彩をも放つこの果物に興味を抱かないはずはなかったでしょう。

2017年12月5日火曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑨

  今日のつかれを 日ぐれの風に
  さらりとばして かえる道
  遠い昔に わが母親に
  教えてもらった 唄が出る
  ――あゝ なつかしの その唄に
    ふるさとのふるさとの 山の形が見えてくる
    母の瞳も 見えてくる

  いやな思いを 指折りかぞえ
  眉をひそめる 雨の夜
  雨の中から わが母親の
  しっかりおやりの 声がする
  ――あゝ なつかしの その声に
    ふるさとのふるさとの 家のけむりがゆれている

    母の姿も ゆれている

  ペンをとりあげ おもいのままに
  ひとり静かに 書く手紙
  文字の影から わが母親の
  やさしくみている 顔がある
  ――あゝ なつかしの その顔に
    ふるさとのふるさとの なにもかもがあふれてる
    母の匂いも あふれてる

サトウハチロー=写真、wiki=の「郷愁」という詩です。ハチローは、東京に生まれ、人生の主たる活動の場も東京でした。


「リンゴの唄」を書いた戦時中も、妻子を千葉県に疎開させ、自身は東京に残って空襲の中、仕事を続けていました。

この詩の中で「ふるさとのふるさとの 山の形が見えてくる」とうたう、ふるさととはどこをイメージしているのでしょう。

ハチローの母も父も東北の出身でした。母の佐藤はるは、いまの宮城県仙台市出身で、地元の有力新聞、河北新報社の創業者の義妹にあたります。父の佐藤紅緑は、青森県弘前市の出身です。

「とにかくあの人は、デタラメな作り話ばかり私にする人でした」と妹の佐藤愛子が話していたように、ハチローはいかにも詩人らしく、その作品だけでなく言動も虚構に満ちていました。とはいえ、幼いころ何度も訪れた東北をハチローが「ふるさと」と感じていたとみるのは自然でしょう。

サトウハチローの本名の八郎という名前は、祖父の佐藤弥六(1842~1923)のネーミングでした。8番目の孫ということで名付けたようです。しかし、よく考えてみると9番目の孫だった。そこで、八九郎にしようという案も出たとか。

弥六は、幕末から大正まで活躍した弘前の名士でした。福沢諭吉の慶應義塾で学び、諭吉に学才を認められてオランダ公使に推挙されたこともあったといいますが、兄の急死で帰郷。

弘前へ戻ってからは、唐物(和洋雑貨)屋を開くかたわら、英学を教えたり、郷土史を執筆したり。さらに県会議員となって、産業振興にも尽力しました。森鴎外の作品「渋江抽斎」にも郷土史家として登場します。

弥六は、特産である青森リンゴの指導者で、功労者でもありました。西欧から入ってきたばかりのリンゴ栽培にも最初のころから携わり、大日本農会から表彰されてもいます。また、リンゴの種類や栽培法について書かれた『林檎図解』という本も出しています。

けんか好きで、押し付けや筋が通らないことには食ってかかる破天荒な性格は、息子の紅緑、孫のハチローへと受け継がれていきました。同時に、郷里の宝であるリンゴへの想いもまた、弥六から孫へと伝わっていたのかもしれません。

2017年12月4日月曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑧

リンゴはもともと、中東コーカサスから、中央アジアにかけての一帯でつくられていて、それがシルクロードの商人の活動や、アレクサンダー大王の東征などで世界に広まったと考えられています。

私たちがいま食べているリンゴは、明治以降、欧米から入ってきた外来種。江戸時代から国内でつくられていた在来種(和リンゴ)がありました。

しかし、和リンゴは直径が「9寸(約3センチ)以内」と小さく、肉が薄く、味でも西洋リンゴにおよぶものではありませんでした。

宮沢賢治の作品を読んでいると、リンゴがあちこちに出てきます。表記は、「りんご」、「苹果」、「林檎」とさまざま。

現在では漢字で書くとき、リンゴ一般を「林檎」とすることが多いようですが、西洋リンゴが入って来た明治期には、和リンゴとは違う漢字を使っていました。

在来の和リンゴを「林檎」、西洋リンゴは「苹果」と書いたのです。賢治作品に出てくるのは「苹果」が圧倒的に多くなっています。詩や童話の中でさまざまなイメージを形作っていたのは、在来種ではなく主に西洋リンゴだったことになります。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

明治に日本へ入ってきた苹果のなかで、戦前から、戦後の「ふじ」が出現するまでのあいだに「赤いリンゴ」といえば、ふじの親にあたる「国光」、それにいまもアップルパイなど製菓には欠かせない「紅玉」が最もポピュラーで、これら2種が圧倒的なシェアをしめていました。


「リンゴの唄」を作詞したサトウハチローも、それを口ずさんだ終戦直後の国民の多くも、おそらく、国光や紅玉が「可愛いやリンゴ」だったのでしょう。

「国光」も「紅玉」も1871(明治4)年に、アメリカから日本へ入ってきました。 「国光」というと日本国産といったイメージを放ちますが、原産は米ヴァージニア州です。

果皮は黒ずんだ赤色で、果肉は白黄色でしっかりした歯ごたえがあります。液汁が多くて、ほどよく酸味がきいているのが特徴です。

「紅玉」は、米ニューヨーク州原産。開拓使によって導入され、1900年に命名されました。名前のように艶やかな深紅の肌、果肉は白く細やかでやや小玉。強い、個性的な酸味をもちます。

私が幼少のころも、リンゴといえば「国光」か「紅玉」でした。そして少し大きくなってからなんとなく、「国光」には大人の女性を、「紅玉」にはおちゃめな少女のイメージを抱くようになりました。

「リンゴの唄」のリンゴは、私にとっては「紅玉」なのです。

2017年12月3日日曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑦

  赤いリンゴに 唇よせて

いまの時代に「赤いリンゴ」といわれれば、おそらく大半の人たちがあのリンゴを思い浮かべるでしょう。

日本だけではなく、中国でも、韓国でも、アメリカでも、きっと多く人たちが、あのリンゴを頭に浮かべるに違いありません。

そう、甘みが強くて味がよく、歯ごたえがあってジューシー、それに日持ちがすこぶるいい。三拍子そろった世界一のリンゴ「ふじ」です。

国内のふじの収穫量は、2006年で46万トン。生産されている70種あまりのリンゴ収穫量の55%を占めています。ふじは、1980年代半ばころから、リンゴの本場のアメリカで栽培が始まったのを皮切りに、中国、韓国、ブラジルなど海外の国々へも広まっています。

2002年には、中国で総生産量の40%、韓国は80%、ブラジルでは45%を占め、世界全体で約1200万トンと、品種別でついにトップにおどり出ました。

「ジャパン・アズ・ナンバーワン」は遠い過去となり、退潮気味の日本経済。農産物が外国から大量に輸入される時代となって、日本の農業はTPPなどでさらに自由化への脅威にさらされています。


そんな中、世界に輸出され各国で栽培されるようになった「ふじ」は、戦後日本の「リンゴの唄」に匹敵するような、日本農業の“希望の星”といえる象徴的な存在なのかもしれません。

「ふじ」は、青森県南津軽郡藤崎町の農林省園芸試験場東北支場(現在の果樹研究所リンゴ研究拠点)で戦前の1930年代後半から育成されてきました。

  歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なおたのし
  みんなで歌えば 尚なお嬉し
  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

戦争直後の荒廃の中から、リンゴづくりの現場も次第に復興を遂げていきました。試験研究機関の設備も復旧されて技術者の充足が図られ、戦前から育種試験が繰り返されてきたリンゴ畑で、みんなの力を合わせた新たな研究がはじまったのです。

戦争を乗り越え、ともに幾多の努力を重ねて結実したのが、1962(昭和37)年に品種登録された「ふじ」でした。名前は、育成地である青森県藤崎町の「ふじ」、それに「富士山」にもかけて付けられたそうです。

「ふじ」はもともと、1939(昭和14)年に「国光」と「デリシャス」の二つの品種を掛け合わせて誕生しています。そして、23歳になり“一人前”と認められて登録され、世に旅立ったわけです。

ですから「ふじ」は、「リンゴの唄」が作られ、流行っていたころは世にはまだ出ていません。「リンゴの唄」に出てくるのは「国光」など、「ふじ」の親たちの世代のリンゴと考えられることになります。

2017年12月2日土曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑥

終戦直後に封切られた映画「そよかぜ」の当時の評価は、決してかんばしいものではなかったようです。

『戦後芸能史物語』(朝日選書)によれば、キネマ旬報(再建2号)では「音楽的な感動がない」、朝日新聞(1945年10月12日付)では「ムシヅを走らせたいと思ふ人はこの映画の最初の十分間を経験しても十分である」とまで酷評しています。しかし、挿入歌の「リンゴの唄」のほうはすっかり人々の心をとらえました。


1945(昭和20)年12月10日、東京の芝田村町(いまの港区西新橋)の飛行館で公開放送されたNHKの「希望音楽会」には、多くの聴取者からの要望で並木路子が出演、「リンゴの唄」が歌われました。

ラジオで初めてこの歌が放送されたのです。並木路子は『「リンゴの唄」の昭和史』で、次のように書いています。

「田村町の飛行館スタジオでのNHKラジオの公開録音のときには、たくさんの人たちが参加しました。それこそ、物の乏しい、燃料もないこの冬をどうやって過ごそうかという、敗戦国そのものの生活でしたが、皆さん、眼をキラキラさせて私の歌を聴き、大きな拍手を送ってくださいました。

このとき私は籠にりんごを入れ、それを抱えて客席に下り、りんごを皆さんにくばりながら歌ったのですが、りんごはその頃、貴重品でしたので、会場は大変な騒ぎになりました。一個のりんごが奪い合いなんです。りんごを手にした人は、まるでその年の幸運を掴んだみたいに喜んでいました。反対に、りんごをもらえなかった人は気の毒なくらいがっかりして――。たった一個のりんごで、そんな騒ぎになったのですから、今から考えると、とても信じられないような情景だと思うのですね。

そのときのりんごの値段は一個五円で、月給二十万円という今のお金に換算すると、五千円くらいにあたるのだそうです。ただ世の中が混乱していたというだけではなく、それよりも、戦争による人手不足やら肥料不足やらで、りんごの生産量がすごく落ちていたのでしょう。そのときに使ったりんごは二箱でしたが、青森の農業会でお世話くださったものでした」

事実、戦争直後のリンゴ園は、どこも荒廃に近い状態になっていました。収穫量も、昭和17年に28万トンほどあったのが、18年には23万トン台に、19年には17万9900トン、20年には6万4600トンにまで落ち込んでいたのです。

農家では、リンゴ園を維持するための資材や肥料、農薬などすべてが、絶対的に不足。ヤミ取引に頼らなければならなりませんでした。

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

庶民にとって、こんなふうにリンゴが身近にある生活は、夢のまた夢といえる時代だったのでしょう。

2017年12月1日金曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」⑤

焦土のなかで終戦を迎えた日本人に、はじめて戦争からの解放感を味わわせてくれたのが「リンゴの唄」でした。短調でありながら、こともなげな明るい曲調に、人々は戦争が終わった喜びをしみじみかみしめたのでした。

しかし敗戦の現実はきびしく、食糧・住宅不足をはじめとする多難な時代が待ち受けていました。人々は生活を再建する方途を独力で見つけていかねばならりませんでした――

ずいぶん前に買った「証言の昭和史」という、写真や絵がふんだんに入った学研の全12巻シリーズの第6巻『焼跡に流れるリンゴの唄』のリードに、こんな文句を見かけました。


戦後かなりしてから生まれた私には、「焦土のなかで迎えた終戦」を実感することは出来ない。ただ、兵庫県西宮市に住んでいた1995年に、阪神大震災で一瞬のうちに廃墟と化した街の中で「炊き出し」や「配給」といった言葉が日常的になり、「焦土のなか」とはこれに近いものではなかったか、と思った記憶はある。

敗戦日本のあちこちにあった「焼跡」。それをモチーフにした詩はたくさんあります。たとえば、

  おきすてられた舞台装置のやうに
  防火壁が夕やけの空をささへてゐる。
  横たふしになって赤銹びてゐるクレーン。
  鉄屑や鋼索や焼トタンの累積。
  雨ざらしの金庫。
  なにもかもがそのままで時がたってゐる。
  ねぢまがった鉄骨の残骸に
  コンクリの裂片をくっつけた鉄筋の網がぶらさがり
  蜘蛛の巣のやうにゆれてゐる。

           (岡本潤「廃墟2」)

こんな「廃墟」となっても、街は死んではいませんでした。

  町は眠ってはいなかった
  眠ったふりをして 目だけ働かせ
  殺気すら含んでいた
  一人の用心深い悪漢のように

  経済警察官がいないことがわかると
  男女の背中や 肩や 両手で運ばれる
  無数の軟体動物が
  焼暗の停車場にうごめき
  初発列車に殺到した
  列車は悲鳴に似た汽笛をひびかせ
  早朝の大気の中を
  ブラックマーケットのある大都会へと突進していった

           (近藤東「眠っていない町」)

「焼跡に流れるリンゴの唄」というフレーズを聞くと私はなぜか、1994年に国内で公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督の『シンドラーのリスト』を思い出します。

ナチスによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進むなか、ポーランド系ユダヤ人の収容所送りを阻止したドイツ人実業家オスカー・シンドラーが描かれたこの映画は、「戦争を記録したフィルムはモノクロだから」という監督の考えで、ほぼ全編がモノクロで作られました。

ただ、ごく一部分にカラーが採用されているところがあります。シンドラーに心理的な影響を与える赤い服の女の子や蝋燭の赤い炎です。ホロコーストの殺伐たる光景のなかに、とつじょ現れ不思議なふるまいをするその赤い服の少女は、私のなかの「リンゴ=少女」に違いないのです。

2017年11月30日木曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」④

「リンゴの唄」を歌った並木路子の『「リンゴの唄」の昭和史』によれば、サトウハチローはこの歌を「いつ終わるかわからない戦争だから、こんなときこそ、青空を見上げる気持ちの明るい歌がなければ」という気持ちで、戦争中に書かれたものだだそうです。とすれば、

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空

というのはやはり、私の若いころのひねくれた解釈ではなく、赤いリンゴに脣を寄せて黙って青い空を見ている、と読んだほうが自然なようです。ただし、リンゴに唇を寄せているのは、口づけを知ったくらいの少女に違いないという私の思いは変わりません。


「リンゴの唄」が挿入歌として使われた映画「そよかぜ」の中では、秋田のリンゴ畑で、主演の並木路子=写真=がまん丸いリンゴをちょっぴり齧りながら、晴れた空を見つめるような場面が出てきます。並木は、そのとき23歳。少女というよりはもう「若い女性」という年代になっていたわけですが、映画からは、健康的なまさに、

  あの娘よい子だ 気立てのよい娘
  リンゴによく似た 可愛いい娘

といった雰囲気がわき立ってきます。

「そよかぜ」は終戦の1945年の10月10日に公開されました。監督は佐々木康。戦後のGHQ(連合国軍総司令部)の検閲を通った第1号映画として知らています。

主人公のみちは18歳の少女。母とともに劇場の裏方として働きながら、いつかは歌手にと夢見ていました。楽団員たちはみちの才能を見抜き、歌を教えます。楽団員の横山とみちはお互い意識しながら、口を開けば憎まれ口を聴く仲になっていました。

ある日、スター歌手の恵美が引退することになり、楽団リーダーの舟田は後任にみちを推薦します。みちはまずはコーラスで実績を積むことになります。

仲間たちの恋愛や結婚の話に悲喜こもごもする中、みちは横山の何気ないからかいに傷つき、姉の出産の手伝いに行くことになった母といっしょに秋田の実家に帰ってしまいます。

そんなとき、みちの実力を認めた支配人が、新番組のスターとして抜擢することを決める。喜んだ楽団員たちは総出で秋田へみちを迎えに行く。横山とのわだかまりも解けて、みちは夢に見た歌手としてステージに立つ。

そんなあらすじの、明るいサクセスストーリーです。並木路子(1921~2001)は、1936年(昭和11)年に松竹少女歌劇学校に入学、翌年に浅草国際劇場で初舞台を踏みました。

「連夜の空襲の恐怖を忘れさせる」ような明るい音楽映画を戦時中から計画していた松竹から「歌が歌えて芝居ができ、一応はかわい子ちゃん的要素もあって」抜擢されたというのが、映画初主演となるこの映画でした。ちょうど、「そよかぜ」のみちのように。

サトウハチローの詞は戦中にすでに出来あがっていました。しかし佐々木監督の早撮りもあって、万城目正の曲のほうは撮影に間に合いませんでした。

そのため、秋田のリンゴ畑で、わんぱく盛りの子どもたちや農家の人たちといっしょに歌うシーンは、実は「丘を越えて」を歌って撮影し、アフレコで「リンゴの唄」を吹き込んだということです。

それはともかく、「そよかぜ」の林檎畑のシーンを見ても思うのですが、赤いリンゴと晴れた青空とはなんともまあ、よく似あいます。そういえば、こんな詩もありました。

  いいお天気ですなあ
  とでもいひたげな
  これは
  これは
  真冬
  まつ赤な
  日向の林檎である

     (山村暮鳥「ある時」)

2017年11月29日水曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」③

「リンゴの唄」についてサトウハチローは「軍歌がひどく陰気なものばかりだったんで、ものすごく景気のいい歌があったほうがいいと思って、それで書いた」といっています。

言うまでもないことですが、「リンゴの唄」は国民が口ずさめる歌謡曲の作詞として書いたものです。ゲーテやボードレールの詩にいろんな作曲家が後から曲を付けたといった性質のものとは違います。


それを承知のうえで、邪道かもしれませんがこのブログではあえて曲から離れ、「リンゴの唄」を一つの詩として、主に文字面を読むことで味わっていきたいと思います。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

若いころ私は、この唄を聞いて、「リンゴ」は恋を知り始めたころの少女の、「青い空」はさわやかで優しい青年のシンボル(象徴)ではないかと思いました。つまり、この詩は、初めてのキスをした直後を描いているのではないかと。

純朴でかわいらしい少女に初めて脣をよせた後、青年はだまって彼女を見つめています。可愛いリンゴの少女も、なんにもいいません。でも、その気持ちを2人は分かりあえている。

少々「意訳」のしすぎ的な部分があるかもしれませんが、新聞の文章などと違って詩は、いろんな読み方ができるから面白いし、その真価があります。

「リンゴの唄」も、リンゴという、敗戦直後という特別な時期にピンと際立つ象徴的な言葉を使い、人によっていろんな聞き方がされたからあれほどの大ヒットをしたのでしょう。

私が愛用している飯塚書店の「詩の辞典」には「象徴」について、「何か類似した性質があったり、連想を呼ぶ点があって、一つのものが他のものを心に浮かばせ、暗示したりするために用いられると、それをシンボルという」とあります。

では、そのころの私がどうして、リンゴから少女へと連想を呼んだのか。いろんな要素があるでしょうが、そのころ読んでいた藤村と杢太郎の二つの詩が、私の深いところで作用していたように思われます。

  やさしく白き手をのべて
  林檎をわれにあたへしは
  薄紅の秋の実に
  人こひ初めしはじめなり
     (島崎藤村「初恋」)

  林檎屋の小娘が、
  今日もまた前掛で
  紅い林檎を磨いてゐる。
  息をかけては拭いてゐる。
  だがまだ林檎は堅そうだ。
  ちやうどお前の心のやうに。
     (木下杢太郎「林檎屋の小娘」)

2017年11月28日火曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」②

「リンゴの唄」を作詞したサトウハチローは、1903(明治36)年5月23日に現在の東京都新宿区市谷薬王寺町に生まれました。

父は「少年小説」で知られる作家の佐藤紅緑=写真。母のはるは、いまの宮城県仙台市出身で、河北新報社を創業した一力健治郎の義妹にあたります。かれら2人の長男でした。


兄弟には、作家の佐藤愛子、脚本家で劇作家の大垣肇らがいます。3人とも母は異なり、肇は愛人の子供で同居することはありませんでした。

紅緑は子どもたちの理想を描く小説を書き続けましたが、皮肉なことに長男のハチローをはじめ同居していた4人の息子たちはみな不良少年で、道楽者。

ハチローは詩人として大成したものの、他の3人は乱脈な生活を続け、破滅的な死にかたをしています。紅緑は彼らの借金のシリぬくいに追われました。

旧制中学に入学すると、紅緑は舞台女優の三笠万里子と同棲するようになって離婚します。ハチローは父への反発で、中学を落第、退校、勘当、留置場送りを繰り返しました。

犯罪など不良行為をした児童らを収容していた感化院のあった小笠原諸島の父島で、詩人の福士幸次郎と知り合い、決定的な影響を受けます。

1919(大正8)年、福士の紹介で西條八十に弟子入り。童謡を作り始め、いろんな雑誌や新聞に掲載されるようになります。同時に、「文党」や「銅鑼」などの文芸誌にも参加。1926(大正15)年には処女詩集『爪色の雨』を出版しました。

昭和にはいると童謡や詩だけでなく、小説や映画の主題歌など仕事の幅を広げ、1938年(昭和13)年には日本コロムビアと専属契約を交わします。

1945年(昭和20)年8月6日、広島への原爆投下で弟の節を失います。ハチローは節を探しに行きましたが、遺骨や遺品は見つかりませんでした。

同年8月15日の終戦。戦後初の映画「そよかぜ」の挿入歌「リンゴの唄」を作詞します。並木路子の歌で大流行し、戦後の日本を象徴する歌となったのです。

1946年(昭和21)年から東京タイムズでエッセイ「見たり聞いたりためしたり」の連載を開始、同年12月からNHKのラジオ番組「話の泉」のレギュラー。1951(昭和26)年にはラジオドラマ「ジロリンタン物語」の原作を執筆します。

ハチローは、陸奥速男、山野三郎、玉川映二、星野貞志、清水操六、並木せんざなどさまざまな別名をもち、活躍の舞台も実に多彩でした。

童謡に「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」「とんとんともだち」など。歌謡曲も「リンゴの唄」だけでなく「長崎の鐘」「うちの女房にゃ髭がある」などヒット曲が山ほどあります。ほかに校歌、CMソングなどおびただしい数の作品を発表しています。

2万にもおよぶ詩のうち3千が母に関するものだといいますが、佐藤愛子の『血脈』によれば、不良少年だったハチローは母に愛情らしきものは示したことはなく、作品にある母への思いはフィクションだとされています。

それでも、父の故郷の青森には一度しか訪れていないものの、母の故郷、仙台への訪問は50回を越えていたとか。

芸術選奨文部大臣賞、レコード大賞童謡賞、NHK放送文化賞など多く賞を受けるなど華々しい後半生を送り、勲三等瑞宝章を受章した1973年(昭和48)年11月13日、心臓発作により70歳でこの世を去っています。

2017年11月27日月曜日

サトウハチロー「リンゴの唄」①

リンゴが美味しい季節になりました。きょうから気分を変えて、サトウハチロー「リンゴの唄」を詩として再読していくことにします。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

  あの娘よい子だ 気立てのよい娘
  リンゴによく似た 可愛いい娘
  誰方(どなた)が言ったか うれしい噂
  かるいクシャミも 飛んで出る
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

  朝の挨拶 夕べの別れ
  いとしいリンゴに ささやけば
  言葉は出さずに 小くびをまげて
  明日も又ねと 夢見顔
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

  歌いましょうか リンゴの歌を
  二人で歌えば なおたのし
  みんなで歌えば 尚なお嬉し
  リンゴの気持を 伝えよか
  リンゴ可愛や 可愛やリンゴ

      ――『サトウハチロー詩集』(ハルキ文庫)


日本人ならだれでも知っているといってもいい「リンゴの唄」は、戦後に公開された最初の映画「そよかぜ」(1945年10月10日公開、松竹大船)の挿入歌として発表されました。

みなさんご存知の通り空前のヒット曲となり、戦後の歌謡曲はこの曲にはじまったとも言われています。

作詞はサトウハチロー。作曲は万城目正。並木路子と霧島昇が歌いました。並木と霧島は、この映画の出演もしています。

サトウハチローがこの詞を作ったのは戦時中でしたが「軟弱すぎる」と検閲で許可されず、終戦とともにようやく日の目を見ることになったのです。

レコードは映画公開から2カ月後の昭和20年12月14日に録音され、翌年1月に日蓄工業株式会社から「コロムビアレコード」の第1回新譜臨時発売分として売り出されました。

終戦の年の122月に行われたNHKの公開ラジオ番組で、並木が「リンゴの唄」を歌いながら客席に降りてカゴからリンゴを配ると、会場が取り合いの大騒ぎになったというエピソードも残っています。

「リンゴの唄」は、終戦直後の焼け跡の映像とともによく流れます。そして、戦争直後の焼け野原の光景や、重圧から解き放たれた解放感とうまくマッチして、憔悴しきった国民の心を癒やしたとしばしば評されます。

1960年生まれの私には、もちろん「敗戦で憔悴しきった心」を実感することはできません。この唄に親しみをもったのは、子どものころテレビの「なつメロ」番組などで何度も耳にしてからです。

そういう意味では、私はこの詩を読み切るのは不可能でしょうし、とやかく語る資格は無いのかもしれません。ただ、「なつメロ」番組でこの唄をちょくちょく耳にしていた中学生のころ、私はリンゴに夢中になっていました。

長野県に生まれ、長野県の山里で育った私の周りにはいつもリンゴの木がありました。長野は、青森に次ぐリンゴの生産県。

けれど、当時の私には、なんといってもいちばん美味しいのは青森で、甘さも、歯ごたえも青森りんごにはかなわないという印象がありました。

何ともそれが悔しくて、中学生としてはかなり無謀な試みでしたが、長野のリンゴをおいしくするにはどうしたらいいのかと真剣に考えました。

そして仲間たちと毎日林檎園に通って、土の性質によってリンゴの糖度や酸性度がどのように変わるかを調べる実験に明け暮れていました。

そのころ「リンゴの唄」を聞いて、知りたいと思っていたことがあります。

一つは、どうして父や母の世代にとってリンゴという果物が、これほどまでに魅力的だったのかということ。それから、歌詞に出てくるリンゴはいったい、どういう品種だったのだろうか、ということです。

2017年11月26日日曜日

金子光晴「燈台」⑭

  燈台

    一

そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

飴のやうなエーテルにただよふ、
天使の腋毛。
鷹のぬけ毛。

青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

信心ふかいたましひだけがのぼる
そらのまんなかにつつたつた、
いつぽんのしろい蝋燭。
――燈台。

    二

それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
(こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
包茎。
禿頭のソクラテス。
薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
燈台はただよひ、

燈台は、耳のやうにそよぐ。

    三

こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
――神はゐない。
と、おろかにも放言した。
それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
………………。
………………。

つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
神は下界をみおろしてゐる。
かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
雷鳴。
いや、いや、それは、
燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
ひつつこい蠅ども。
威嚇するやうに雁行し、
つめたい歯をむきだしてひるがへる
一つ
一つ
神託をのせた
五台の水上爆撃機。


「天皇制」というような日本という国の本質に深く根ざした、政治的でデリケートなテーマに、まっ向から、しかも、グローバルでありながら低い目線からの確かな視座と、文学的素養を持って挑んだ詩人が、金子光晴のほかにいたでしょうか。いるでしょうか。

光晴は自らの詩人としての姿勢について、次のように書いています。

「純粋詩の主唱者たちにとっても、政治的意義を持った詩は、非詩なのである。その人たちの立場から、僕は、それを至極もっともなことと思っているし、僕が、対蹠的な立場で政治的悪臭の強い作品をつくっているからといって、ただちに、相手どって反駁する筋合いのものでもあるまい。

そして、僕にとっては詩の完成などは、まず第二段で、ある政治に抵抗するために、便宜な一方法としてふたたび詩を選んだという経緯なのだから、詩作態度のうえでも他人にまでおのれを見習うようにと強いるほどの自信を持っていない。

しかし、僕のように必要条件から、詩作をはじめるということも、僕にはきわめて自然なことのように思えるのだ。純粋な詩の動機などということは、百年待っても僕のうえには起って来そうもない奇蹟なのだ。

僕の政治への関心も、御多分にもれず、不平、不満というかたちで出てきている。やるかたない不平、不満に、若干のニュアンスをつけたものが、僕の詩だと思えば、まちがいがない。僕の不平、不満は、僕の詩のきっかけということになる。」(『日本の芸術について』)

光晴は戦後も、あいかわらずの貧苦のなか、純粋詩を書き続けます。そして、1975(昭和50)年、この世を去りました。享年79歳。一子、森乾は詩人としての父に次のように書き残しました。

「執念深いまでに詩に愛着した父の死は、最後の古いタイプの詩人が消滅したという点で反ってサバサバする面もあろうが、あんなに詩に片よった愛憎をよせる詩人ばかはもう出現しないだろうから、我が国の詩壇や詩人にとって一つの損失であることも事実だろう」

どんなに美しい、手の込んだことばを並びたてたところで、権力や権威にへつらい、真実の声から離れた詩になんの価値があるのでしょう。詩も、言論活動のなかにあるのです。

ゆく道を見失いそうになったときに、私はいつも光晴の詩を読み返す。すると、まるで真っ暗な海を航海している最中に見つけた一本の燈台のように、心強く、勇気づけられます。

2017年11月25日土曜日

金子光晴「燈台」⑬

  「犬と某々国人入るを許さず」と  
  おのが生れた土地の公園に書き出されて
  それでも黙つてゐたのはつい昨日の事だ。
  日本一たび起つて米英蘭を撃つ。
  大東亜圏内に今かかる横暴の文字無し。
  天上天下、
  アジヤの住民アジヤを護り、
  アジヤの良民アジヤをたのしむ。
  これを非とする神は此の世にいまさぬ。
  これを非とする理不尽は唯彼等の我慾だ。
  世界の選良と思ひ上つた彼等の夢が
  逐はれた彼等を歯がみさせる。
  昔日の非道に未練をすてない
  米英蘭の妄執断じて絶つべし。
  大東亜の同胞われら日本の義を知り、
  われらの神とともに彼等を撃つ。
  公明天日の如きわれらの理念と
  無比の武力と甚深の文化と
  今や世界の蒙昧をひらくのみだ。

1942(昭和17)年に高村光太郎が作った「神とともにあり」という詩です。

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。
     〔中略〕
  つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
  神は下界をみおろしてゐる。
  かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
  ――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

「われらの神」とともに撃とう呼びかける光太郎に対して、「燈台」の詩人は神を曳きずりおろせと叫びます。ともに美術家で、世界を旅してまわった両詩人の、戦争における姿勢はまったく正反対のものでした。

太平洋戦争が始まってから光太郎は、「十二月八日」「彼等を撃つ」など、他にも多くの戦争協力、戦争賛美詩を発表していきました。戦中、「此の大いなる日に生くる身の衷情と感激を伝へたいと思ふばかり」で、詩集『大いなる日』も出しています。

詩壇は日本文学報国会に吸収され、「詩によって君国に報ずる道」を選ばされました。村野四郎「撃滅の賦」、三好達治「捷報臻る」、西条八十「若鷲の歌」、壺井繁治「指の旅」など、光太郎に限らず多くの詩人たちが戦争協力詩を書いていきました。


1945(昭和20)年8月15日が来ます。光晴たちは、蓄音機でセント・ルイス・ブルースをかけて、狂喜のあまり踊りまわりました。「そろそろ、疎開から引き上げようか」。家族でそんな話も出ましたが、光晴たちは終戦後も1年間、疎開地にとどまります。

光太郎をはじめ詩人という詩人が戦争に協力する中で、ほとんどただ一人、発表のあてもなく反戦詩を書き続けた光晴。

その彼が、終戦とともに軍国主義から民主主義へと急転するとたちまち、今度は抵抗詩人として一躍もてはやされることになるのです。けれども、そうした世上に光晴は、逆に深い疑念を抱くようになります。

〈僕は、詩の世界で、少々過分な待遇を受けるようになったが、それに乗ってゆくには、過去の苦しみがひどすぎた。軽佻な大衆を信用できなくなってしまっていたのだ。

戦争中、戦争詩を書いていた連中は、丁度、いまの僕のように、ちやほやされた。そして、チウインガムのようにカスは吐きすてられた。僕は、おもちゃにされたくないという気持から、できるだけジャーナリズムから遠ざかって生きてゆくようにした。

僕は、僕を甘やかすもののなかに敵をみないわけにはゆかなかった。そればかりか、僕の性格は、あれほど僕がまもりつづけた筈の自由のよろこび、ヒューマニズムと名のつくものに対してさえ、猜疑の目をむけずにはいられなかった。

それがあまりにたやすく使われ、おしつけがましく横行しはじめたとき、一億玉砕の時期以上に、人間への不信が輪がかけたものになってきはじめた。〉(『詩人』)

2017年11月24日金曜日

金子光晴「燈台」⑫

1937(昭和12)年には「燈台」の入った詩集『鮫』を、1940(昭和15)年には『マレー蘭印紀行』をと、戦時下の体制が強化され国をあげて戦争に深入りしていく中でも光晴は、非協力、反戦の詩を書き続けました。

しかし「厚く偽装をこらして」発表をつづけてきた作品も、次第に危険視され、文壇からも敬遠されていきます。

1944(昭和19)年11月14日、東京への最初の空襲。光晴が住んでいた吉祥寺に近い、中島飛行機製作所に爆弾を投じていきました。以降、東京は106回の空襲を受けることになります。

「この戦争では犠牲になりたくない。他の理由で死ぬのならかまわないが……」、そんな「意地っ張り」から光晴は、山梨県山中湖畔の平野地区にある旅館の別荘を借りて疎開することに決めます。

〈落葉松の林のなかに、安い借家普請のような、その別荘と称する家も建っていた。零下二〇度の寒さで、掛布団が吐く息で凍り、インキは氷になって、櫓炬燵(やぐらごたつ)のなかでとかしてから使わねばならなかった。

さすがに空気だけは、清澄だった。障子一枚のむこうにみえている湖水は、鈍く凍りついて、晴れた陽はまぶしく照返し、胸を突きあわせるように近々と富士山が聳えていた。〉(『詩人』)


有名な詩「富士」は、この疎開中に作られました。

  重箱のやうに
  狭つくるしいこの日本。

  すみからすみまでみみつちく
  俺達は数へあげられてゐるのだ。

  そして、失礼千万にも
  俺達を召集しやがるんだ。

  戸籍簿よ。早く燃えてしまへ。
  誰も。俺の息子をおぼえてるな。

  息子よ。
  この手のひらにもみこまれてゐろ。

  帽子のうらへ一時、消えてゐろ。

  父と母とは、裾野の宿で
  一晩ぢゅう、そのことを話した。

  裾野の枯林をぬらして
  小枝をピシピシ折るやうな音を立てて
  夜どほし、雨がふってゐた。

  息子よ。ずぶぬれになつたお前が
  重たい銃を曳きずりながら、喘ぎながら
  自失したやうにあるいてゐる。それはどこだ?

  どこだかわからない。が、そのお前を
  父と母とがあてどなくさがしに出る
  そんな夢ばかりのいやな一夜が
  長い、不安な夜がやつと明ける。

  雨はやんでゐる。
  息子のゐないうつろな空に
  なんだ。糞面白くもない
  あらひざらした浴衣のやうな
  富士。

山の中の村に疎開したからといっても、もちろん、戦争から自分たちの生活が隔離できるはずはありません。敵機は幾編隊を組んで富士山をめがけてやってきました。そして一子、乾への召集令状がまた届きます。

〈二年目の子供の召集状が、山のなかにまでとどいた。平野村には七十何歳の老医師が一人いた。僕は、再度、子供を松葉いぶしにして、喘息発作を誘発し、老医者を招いて、現に病状をみせ、診断書を書いてもらうとそれをもって上京した。

三月の大空襲のあった日だった。本部まで出むいて、僕は、係官に会い、診断書をみせて、事情を話し、また一年引きのばしてもらうことにした。空襲がはげしくなってからは、招集状も届かないものが多く、軍では、あつまった人員だけをかきあつめるようにして現地に送るより仕方がなくなっていた。

それも、多くは現地へ送る船舶に不足して、主として敵上陸に備える内地防備の方へ廻されることになったらしい。子供のことが安心となれば、僕らとしては、これで一片づきだった。

だが、このことの結果が、いずれ、大きなしっぺい返しとなってかえってくることだけは、覚悟していた。最後の段階では敗戦とわかっていても、そこに至るまでに、かえって身の危険があると考えたのは、まだ、日本の軍の力を過信していた証拠であろう。

インテリのこまかいリストが作りあげられ、本土作戦の前には、そういったあいまいな分子は、大量虐殺されるというようなデマがとんでいた。ありそうなことだった。〉(同上)

「富士」が収められた詩集『蛾』のあとがきに光晴は「全篇に哀傷のやうなものがただようてゐるのは、いつ終るかもしれない戦争の狂愚に対する絶望と歎きのよりどころない気持からで、いつはりなく弱々しい心になってゐた」と当時の心境を記しています。

2017年11月23日木曜日

金子光晴「燈台」⑪

  辛子のやうに痛い、ぶつぶつたぎつた戦争にむかつてやつらは、むやみに引金をひいた。
  いきるためにうまれてきたやつらにとつて、すべてはいきるためのことであつた。
  それだのに、やつらはをかしいほどころころと死んでいつた。
  リーベンたちは一つ一つへそのある死骸をひきずつてトラックにつみ、
  夜のあけきらぬうちにはこんで川底に、糞便のやうに棄てた。
  ふるさとのあるやつも。ふるさとのないやつも。

  そのからだどもはやつぱり、塞がつたり、あつがつたりするからだだつたのに。
  いまはどれも、蓮根のやうに孔があいて、肉がちぎれて百ひろがでて、かほがくつしやりとつぶされて。
  あんまりななりゆきに、やつらは、こくびをかしげ、うではひぢに、ひぢはとなりのひぢに、あわてふためいてたづねる。
  ――なぜ、おいらは、こんな死骸なんかになつたのかしら。

  だが、いくらかんがへてみても駄目だ。やつらの頭顱(とうろ)には、むなしいひびきをたててひとすぢに、濁水がそそぎこむ。
  氾濫する水は、――「忘れろ」といふ。

  こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。
  おいらは、これで満足といふわけか。
  だが、水は、やつぱり「忘れろ」といふ。

「燈台」が入っている詩集『鮫』にある「泡」という詩の一部です。中国ではじまった戦争の無惨さに対して、単に人道主義的な叫びを上げるのではなく、実態をからだで受け止め直視しているのです。

「こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。」と腹の底からの問いを発します。そして行きついたものは、日本という国の「そらのふかさ」をつくっている理不尽な「神」の存在だったのです。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

1932(昭和7)年に、長い海外への旅から帰ってきた光晴の眼には、日本人をがんじがらめにしている天皇を頂点にした権力機構が、異様なものとして写っていたのでしょう。

「いまの日本人ほどの文化教養がありながら、いきなり飛びついてゆける天皇イズムの強力な魅力の正体について、どうしても合点がゆかないところがあった」(「政治的関心」)のです。


当時、光晴はマックス・シュティルナー(1806~1856)=写真=の思想に強い影響を受けていました。

いかなる人間的共通性にも解消出来ない自我のほかのすべてを空虚な概念として退け、自己が自らの有する力によって所有し消費するものだけに価値を認める“徹底したエゴイズム”の立場から、個人を阻害する国家などのあらゆる権力を否定する、アナキズムともいえる立場を主張したドイツの哲学者だそうです。

そうした中で、「天皇制権力機構への批判」を象徴的に歌いあげた「燈台」を作った背景について首藤基澄は、『金子光晴研究』で次のように指摘しています。

〈天皇はただに政治的な側面ばかりでなく、宗教的・倫理的な性格を帯びて日本人をしめつけていた。従って、昭和期における自我の確立は、天皇を中枢とする一切の権力を剥ぎ棄てることから始めなければならなかったわけである。

大正デモクラシーが簡単にやりすごしてしまったその問題を、スティネルに裸にされた光晴は恐れずに悪魔祓いして行ったのである。

彼は「マックス・スティルネルの影響で、政治を蛇蝎視していた時代の僕は、政治を憎まずにはいられないほど、政治にこだわりを持っていた」といっている。

われわれの心の底まで蚕食してしまう天皇制を批判する時、彼はスティルネルに習って一切の価値を否定するニヒリズムを基盤にしていたのである。〉

2017年11月22日水曜日

金子光晴「燈台」⑩

「燈台」が入った詩集『鮫』は、1937(昭和12)年8月、人民社から刊行されます。前にも見たように、その直前の昭和12年7月には、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。国をあげて戦争へとのめりこんでいった真っただ中でのことでした。

『鮫』には次のような序文があります。


〈武田麟太郎さんに序文をお願ひしたが、別に書くこともなささうだといふこと。僕が自分で筆をもつたが矢張、必ず言はねばならぬこともありません。一言、鮫は、南洋旅行中の詩、他は帰朝後一、二年の作品です。

なぜもつと旅行中に作品がないかと人にきかれますが、僕は文学のために旅行したわけではなく、塩原多助が倹約したやうにがつがつと書く人間になるのは御めんです。

よほど腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩を作らないつもりです。

僕の詩を面白がつて発表をすすめてくれた人は中野重治さんで、序文をたのしむのはその方が順序と思ひましたが、このあついのにと察してたのむのをやめました。〉

よほどの「腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいこと」があって作られたのでしょう。反骨心にあふれた7篇の詩が収められこの詩集は200部出版されましたが、ほとんど梱包も解かれぬまま、光晴宅と人民社の発行人の武田麟太郎宅に山積みにされました。

武田宅に置かれた詩集は昭和20年の東京大空襲で焼失しています。

それにしても、言論統制が厳しさを増していたこの時代に、偽装を施した表現を用いたとはいえ、天皇制批判や日本軍の暴状をあばく激しい言葉を投げつけた、こうした詩集が出版されていたということは驚きです。光晴は自伝『詩人』につぎのように書いています。

〈印刷のはこびになったとき、盧溝橋事件があり中日戦争の火ぶたが切って落された。やはり、来る筈のものが来たという感じだった。

前の年、通州事件があって、日本人が虐殺された。丁度那須へ避暑にゆく時で、折角の行楽がくらい気持のものになった。その秋頃深夜明け方近く、僕が勉強していると人気ない表通りに、異様な地ひびきがきこえ、それがいつまでもつづいた。

小窓を開けて、そっとみると、蜒々(えんえん)とした、みたこともない戦車の列であった。どこへゆくのか。それが、毎夜つづいては、ただごととはおもえなかった。しかし、日本国民は、おおかた、なにも気づかなかった。日華事変の突発は、前年のこのことを裏書した。

戦時に入っては、僕の『鮫』も、一まず形勢をみて出版すべきだという説も出て、僕も、引込めるつもりでいたところ、『人民文庫』の編集をしていた本庄陸男が余丁町の家にやってきて、その考えに異議を申し立てた。

「こんな形勢になってこそ、この詩集の意義があると僕は思います。是非出してください」という、真正面な言葉によって、僕は意をひるがえした。本庄君のようなヒタ向きな人間のことばを、日本ではすでに久しく耳にしなかったのだ。

二人で余丁町から新宿に歩いて、角筈の角にあるオリムピックという店で、夕食をとりながら、出版の手筈をあれこれと相談した。本庄君はもう、よほど胸の病勢がすすんでいたらしい。

『鮫』は、禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い、そんな面倒な鍵さがしをするような閑人が当局にはいなかった。

なにしろ、国家は非常時だったのだ。わかったら、目もあてられない。『燈台』は、天皇制批判であり、『泡』は、日本軍の暴状の暴露、『天使』は、徴兵に対する否定と、厭戦論であり、『紋』は、日本人の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に値する人間だったのだ。

強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生きのびられるかが、我ながらみものであった。そして、この結果は、当時の僕としては、いかなる力をもってしても、考え直したり、枉(ま)げたりする余地のあるものではなかった。

僕らの周囲、例えば、僕の会社の上役連中にしても、日本国民としての国家への協力――それによって将来もうまい汁を吸えるようにとのはかない下心もあって、いつでも御用事業に切りかえようという態勢に出た。彼らは、大きな世界地図を壁に掛けて、新聞の報道に従って占領地に小旗を、いくつも刺していった。

御用作家たちも、続々と海をわたって、報道陣に加わった。非協力の作家のリストを、軍の黒幕になって作っている文士もあった。

金子光晴はまだ返り新参の駆出しだったので、そういうリストにも漏れていた。詩が難解ということも、僕にとっては有利だった。それに、僕の詩の鍵をにぎった連中は、概して、僕を外界から護ってくれた。

多くの正直な詩人達が、沈黙を守らされている時、僕に語らせようという、暗黙のあいだの理解が、目立たぬ場所で僕を見まもっていてくれたのだ。

文学報国会というものがうまれ、その会員でないものは、非協力者として、文筆の仕事もできなような窮屈な時代がきて、文士全体がなにか積極的な国家の提灯持の役を引受けなければ、一括して存在を許されなくなりそうな危機に、殆んど会に出席しなかった僕の存在を大目にみてくれたことは、やはり、文人の社会なればこそと、今でも思っている。

前田鉄之助と往来でばったり会った時、前田は、「君、いい加減にした方がいいよ。当局だって、めくらばかりがいるわけじゃないんだから」と、忠告してくれた。

最初は半年位で片づくなどという楽観説もあったのが、その年の暮になっても片付かず、益々戦局は深入りしてゆくばかりになって、「不拡大」を叫びながら、政府も曳きづられて、方途がつかない状態になっていった。〉

2017年11月21日火曜日

金子光晴「燈台」⑨

      三

  こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
  ――神はゐない。
  と、おろかにも放言した。
  それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
  ………………。
  ………………。

  つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
  神は下界をみおろしてゐる。
  かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
  ――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

  だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
  雷鳴。
  いや、いや、それは、
  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。
  威嚇するやうに雁行し、
  つめたい歯をむきだしてひるがへる
  一つ
  一つ
  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

大日本帝国憲法の第1条は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する)とされています。

戦前、天皇制を否定する主張を者は不敬罪、治安維持法違反などで、場合によっては死刑になることもありました。

「神はゐない」と「放言した」ために、ひどい処罰を受けて身を滅ぼした人たち。

逆説的な言い方をしたりメタファーで覆い包んだりしてはいるものの、詩人のこうした暴露的な言葉も、「神はゐない」という放言と立場は同じでしょう。

神のきびしい「いましめ」に縛られたこの世に「うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。」と詩人は嘆きます。


国民の生命を「一銭五厘」のハガキ一枚、いや「赤紙」=写真=といわれた徴兵令状一枚で自由に出来ました。そんな、天皇を頂点とした軍国主義国家への鋭い反発が、言葉に込められています。

「一銭五厘」とは、そもそも戦時中の葉書の郵便料金のことですが、実際は役場の職員が召集令状を持ってきました。臨時召集の令状は薄い赤色の紙であったことから「赤紙」と言われます。

当時、満20歳の男子は全員徴兵検査を受けました。甲種合格では2年間の現役兵としての兵役があり、乙、丙種はそのまま地域に残り、2年間の兵役を終えて帰郷した甲種合格者とともに「在郷軍人」として市民生活を送っていました。「燈台」ができたころは、40歳まで兵役を課されていたのです。

在郷軍人として市民生活を送っている傍らも、演習召集、教育召集、国民兵召集などいろんな色の召集令状が届けられ、有事にすぐ動けるような体制が整えられていました。

軍司令部から「赤紙」が地域の警察に運ばれ、さらに地域の役場の兵事係が手渡しました。「赤紙」には、発行年度や本人の住所や氏名のほか、出征すべき日時や場所が指示されていました。受け取り証の本人署名をする欄があって、配布時に切り取られて兵事係が預かったのです。

一人が何回も召集された例も多かったようです。職業や特技、健康状態、徴兵検査結果の優劣などによって、軍にとって有用と判断されれば、何回も「赤紙」を渡され、兵隊に行かざるをえませんでした。

召集のシステムは、軍のトップでなければ知ることはできませんでした。徹底した秘密主義のため、「赤紙」は郵便で来ると思われて「一銭五厘」と呼ばれたり、クジや役場で選抜しているという誤解も生じたようです。

国民がいかに怨嗟の声を放っても、唾を吐き、つぶてを投じても、天皇のところまでは届きません。「一銭五厘」の消耗品たちがいかに傷つこうとも、弾丸の届かないところで「なにもとどかぬたかみで、安閑として、神は下界をみおろしてゐる」のです。

詩人は弾のとどかないところで「安閑と」高みの見物をしている「神」を、権力の座から「曳きずりおろすんだ」と叫びます。

  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。

というのは、天皇を楯にして、そのまわりにはびこっている軍部の不気味な動きを表しているのでしょうか。そして最後に、日中戦争などで威力を発揮した、大量の爆弾類を搭載して水上を滑走して飛ぶ水上爆撃機が登場します。

  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

天皇の言葉は「信託」となって、戦争に駆り立て、国民と国土のうえに長く、重くのしかかっていきました。

2017年11月20日月曜日

金子光晴「燈台」⑧

    一

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

      二

  それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
   (こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
  包茎。
  禿頭のソクラテス。
  薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。  めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

  神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

  神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
  燈台はただよひ、

  燈台は、耳のやうにそよぐ。


第二章へと進んでいくと「そら」に「めじろおししてゐる」神をめぐる比喩的な表現は、より具体的に、はばかることなくすさまじいまでの勢いを強めていきます。

佐藤總右は『金子光晴・さまよえる魂』で次のように記しています。

〈たとえば“そら”という皇居のふかみには「神さまたちがめじろおししている」のである。それは神国日本の実状であり、かりにもそこをのぞいたりすれば、たちまち“不敬罪”という刑罰がくだされるというのである。

そういえばその当時は、二重橋の奥にはたえず霞がたなびき、牢固としたそのやぐら門はつねに身を清めた近衛兵に守られて、われわれ市民はやぐら門の間近にさえ近づくことが出来なかった。

しかもそこには“燈台”という現人(あらひと)神の天皇が君臨させられている。だが、その“燈台”は白い一本の蝋燭であり、男性として一人前にならない包茎なのだ。

(この辺の複数のイメージは金子光晴の独壇場である。しかも、“燈台”“蝋燭”“包茎”というイメージが、“禿頭のソクラテス”=写真=にまで進展すると、もやは私はこの詩人のアイロニーの見事さに脱帽せざるを得ない。

なぜなら哲人ソクラテスは生涯インポだったという伝説が伝えられている。そのことにさえ思い当たるからである)〉

詩のなかにある「三位一体」とは、「キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験に顕示された精霊なる神とが、唯一なる神の位格(ペルソナ)であるとする説。この三者に優劣の差別はない」と、広辞苑にはあります。

キリスト教を離れても、三つの要素が互いに結びついていて、本質において一つであること、三者が協力して一体になること、三者が心を合わせることなどを指して用いられる場合もしばしばあるそうです。

ソニーが1967(昭和42)年に開発したブラウン管「トリニトロン(TRINITRON)」。一つの電子銃から三原色分の電子線を放つこのブラウン管は、三位一体を表す英語TRINITYと電子を表す英語ELECTRONから名づけられました。

小泉純一郎が総理大臣だったとき「三位一体の改革」を唱えました。地方に出来る事は地方に、民間に出来る事は民間に、という小さな政府論を実現するため「国庫補助負担金の廃止・縮減」「税財源の移譲」「地方交付税の一体的な見直し」をいう三つの政策を一体的に進めようとするものでした。

神も、経済も、政治も、ときに、「三位一体」であることによって、恐ろしいまでのふるまいを見せるのです。

2017年11月19日日曜日

金子光晴「燈台」⑦

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

岬の突端に、「いつぽんのしろい蝋燭(ろうそく)」のように立っている燈台。眼下には騒ぐ海が広がり、塔の上には遥かな空があります。

金子光晴は〈詩集「鮫」のなかの、燈台という詩も、白浜燈台を頭のなかに描いてつくったもので、やはりこの時の旅行の印象が深く心に焼きついていたので、内部からの発想が、象(かたち)を借りたものだと言える〉(「日本の芸術について」)と記しています。

「この時の旅行の印象」というのは、26~27歳のころ、千葉県南房総の白浜のほうへ旅をしたときの思い出のようです。

房総半島を南へと向かうと、潮風の香る海辺のまち白浜にたどりつきます。東西に全長10kmの海岸線。さわやかな海の蒼さ、陽光は飛び散るようにきらめき、すべての風景をくっきりと映し出します。

そんな白浜の近く、房総半島の最南端野島崎には野島埼灯台が立っています。高さ24メートルの、太平洋にぐるりと囲まれた白亜の八角灯台。灯台の光源であるレンズの直径は2メートル以上あるそうです。

1866年(慶応2)年5月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書によって建設することになった8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つです。

1870(明治2)年、観音埼灯台に続いて、日本の洋式灯台では2番目に初点灯しました。むかしもいまも野島崎は、日本の中枢、東京湾に出入りする船舶を守る最重要なポイントなのです。

ヴェルニーをトップとするフランス人技師たちの設計で建設された当初は、白色八角形のレンガ造の燈台でした。燈火までの高さは30m 。フランス製の一級のレンズが使われました。

光晴が白浜を訪れたとみられる直後の1923(大正12)年、関東大震災のため地上 6 m のところで折れて、大音響と共に倒壊しました。1925(大正14)年に現在の白色塔形(八角形)コンクリート造で再建されますが、1945(昭和20)年の太平洋戦争の攻撃で再び大きな被害を受けることになります。

燈台は、船舶の航路標識の一つで、その外観や灯光によって位置を示す光波標識の中の「夜標」として位置づけられています。遠くからでも識別できる強力な光源をもち、夜間には光源が明滅、大型のものは光源のレンズが回転して、航行する船舶が場所を識別する目印となるのです。

そもそも、紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことに始まるといわれている灯台。

紀元前279年ごろから約19年の歳月をかけて、世界の七不思議の一つともいわれる「アレクサンドリアの大灯台」=写真、wiki=が港口のファロス島に建設されます。約134m の高さがあったと言われ、796年の地震で半壊するまで使われていたようです。


日本では、839年(承和6年)に復路離散した遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと『続日本後紀』にあるのが、最初の燈台と考えられています。

江戸時代に入って海運が盛んになると、灯明台や常夜灯が岬や港に近い神社の境内などに設置されるようになりました。

第二次世界大戦直前には400基を数えるようになりましたが、海外の水準からすると「ダークシー」と呼ばれる状況でした。戦後は高度経済成長により飛躍的に増加し、燈台は3000基を超えるまでになっています。

2006(平成18)年、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下惠介監督)の舞台となったことで知られる、日本最後の職員滞在灯台、女島灯台(長崎県五島市)が自動化され、日本の全ての灯台が無人化されました。

旅で見たとき、燈台が印象に残ってたがものの、光晴に特別な感慨はなかったようです。旅から約10年後にできたこの詩で、燈台は、空、高所、雲の上などへの連想に誘う作品の舞台、主題への導入の大きな役割を演じることになったあけです。

燈台の上の深い空。その空へ私たちの目を向けさせ、そこに何があるかを語る。空は聖なるもの、神々のいるところ。詩人がここで語るのは、信仰の神々でも観念上の神々でもありません。

「現人神」としての天皇であり、その絶対権力であり、天皇を中心に築かれた絶対的な国家体制なのです。戦前の天皇は人間であるよりも神でした。「天」にある絶対的存在だったのです。

2017年11月18日土曜日

金子光晴「燈台」⑥

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

「エーテル」の語源は、燃やす、輝くといった意味をもつ、ギリシア語の“アイテール”とされます。

空間に何らかの物質が充満しているという考えは古代ギリシャからありました。その「天空を満たす物質」が、エーテルです。

エーテルは17世紀以後、力や光が空間を伝わるための媒質とされてきました。デカルトは、ブドウの樽のブドウ酒のように、あらゆる物質の隙間を埋める「微細な物質」を想定。それが光を伝達させ、惑星はその渦に乗って動いていると考えていたといいます。

エーテルは、惑星の運動をはじめ、光や電磁気の振る舞い、さらには私たちの日常に起こっているさまざまな事象を成り立たせているのに欠かせないものとされてきたわけです。

ところが、エーテルを想定するとさまざまな矛盾を来たしてきます。辻褄を合わせるために、エーテルの理論は二転三転、いろんな理論武装を重ねて複雑怪奇な様相を呈することになるのです。

エーテルという“化け物”を完全否定し、「幻影」でしかないことを明らかにしたのは、あのアインシュタインです。

相対性理論によって、エーテルを含めた絶対座標系、絶対的な基準は取り払われ、より根本的な原理から「長さ」や「時間」といった概念が導き出されるようになったのです。

「天使」は、聖書などに登場する神の使い。英語の「Angel」はギリシア語のアンゲロスに由来し、原義は「伝令」「使いの者」。天使は人間よりも優れた知恵と能力を持った、肉体を持たない“霊”であるとされます。

キリスト教では悪魔は、堕落した天使。もともと神によって善きものとしてつくられたものの、神にさからって地獄に堕ち、人間に悪を行うことを薦めるようになったとされます。

「鷹」は、古くから支配者の権力の象徴的な存在として扱われてきました。古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在します。

日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ)が置かれたという記録があります。

平安時代にも天皇は代々鷹狩を好み、狩をする鷹場がは禁野として一般の出入りが制限されていました。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残し、その技術の書『新修鷹経』を編纂させています(818年)。


金子光晴が「エーテル」に対してどのような認識をもっていたかは分かりません。

ただ、アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年。それを拡張させて、一般相対性理論が出たのが1915~1916年のことです。

光晴がヨーロッパなどを放浪していた時期に、化けの皮が剥がされた「エーテル」が一般の間でも、世界的に大きな話題になっていたことは想像されます。

古くから天空を満たしていると信じられながら、それが幻影でしかなかった「エーテル」。幻でしかないのに「飴のやう」であるエーテルに、神の使いである霊的な存在である天使の「腋毛」が、そして支配者の象徴である鷹の「ぬけ毛」が、リアルにただよっているのです。

この場面、じっくりと味わいたい強烈なメタファーだと思います。そして、さらに畳みかけるように「青銅」がつづきます。

青銅は主成分が銅で、スズを含む合金。中国から製法が伝わったことから、青銅は唐金(からかね)とも呼ばれています。

青銅の使用は、紀元前3000年ごろ、初期のメソポタミア文明であるシュメール文化の時代までさかのぼるそうです。青銅は銅などに比べて硬く、鋳造や圧延などの加工ができたので、斧、剣、壷などに広く使われてきました。

より安価な鉄の製造技術が確立すると多くの青銅製品は鉄製品に代わりますが、大砲の材料としては19世紀ごろまで用いられています。大砲のような大型製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったからだそうです。

日本へは紀元前4世紀ごろ、鉄とともに九州に伝わったと考えられています。紀元前1世紀ごろ、国内での生産が始まり、2世紀には大型銅鐸が作られます。

鉄とともに伝来したため、日本で青銅で作られたのは祭器が中心でした。「神さま」を神さまとするための道具として使われたのです。

秤〈かんかん〉は、車の重さなどを測る大型の秤のことでしょう。重さを量ること、あるいはそのために使う台秤を意味する「看貫(かんかん)」という言葉に由来します。

「飴のやうなエーテル」には、神さまたちの「はだ」から発せられる、祭器や大砲の材料に使われてきた青銅が灼けるやうな凄じい「にほひ」が漂います。

そして、そこには大砲の重さを計ることもできるであろう、大きな秤が置かれているのです。

2017年11月17日金曜日

金子光晴「燈台」⑤

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。


地上から見上げたとき、頭のうえにひろがっているる「そら(空)」。

地球をおおう大気圏だとその「ふかさ」はざっと1000キロにもおよんでいます。

高気圧や低気圧、雲ができたり消えたりする対流圏だと、9~17キロです。

太陽の光は、大気中の酸素、窒素、水蒸気などの分子や、微粒子にぶつかって散乱します。青っぽい光は散乱されやすく、赤っぽい光は散乱されにくい傾向があります。

光が大気中をどのように進んで、目に届くかによって空の色は変わり、さまざまな表情を見せるのです。

東のほうに朝焼け、暗い空が赤く染まります。陽が昇っていくと晴れていれば青色になり、日没が近くなると西のほうはオレンジ色の夕焼け。雲は白く、曇りなら灰色。夜中は真っ黒、空は星の世界に変わります。

空と空以外が作り出す境界線を“スカイライン”と言います。空と海面とのスカイラインが水平線、空と大地との境界が地平線。

よく知られた柿本人麻呂の歌「さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月渡る見ゆ」(夜は更けたらしい。雁の鳴く声が聞こえる空に月が渡っていくのが見える)など、万葉人たちも空を扱った歌をたくさん作っています。

もっとずっと昔、たとえば縄文人は、空をどんなふうに見つめていたのでしょう。考古学者の小林達雄らの研究によれば、次のように位置づけるようです。

恒久的な人工建造物である竪穴住居に住むようになって縄文人には、イエの「ウチ」と「ソト」の意味ができてきた。イエのソトには狩猟などをする仲間のイエが何軒か集まったムラの世界が広がる。その外にあるのが、ハラ。

旧石器人は自然の中に溶け込んで生きてきたが、縄文人はムラという人工スペースを確保してムラとハラをはっきり区別した。彼らにとってハラは対立するものである一方で、食物を手に入れる場所であり道具の材料を提供してくれるところでもあった。

ハラの外にはヤマ。ヤマの向こうにはソラが広がっている。イエを抱えるムラはヒトの世界、ハラはヒトと自然の共生の世界、ヤマは自然そのもの、ソラはヒトや自然をこえた神の世界。生きて行くことのできない「アノ世」でもあった、というわけです。

「空」という漢字は、「穴」という字と、つきぬける意味を含む「工」が組み合わされてできています。つきぬけて穴があき、中になにもないことを示しているのです。

一方、空のことを、しばしば「天」と呼びます。天という漢字は、人の姿を現す「大」の上に、「一」を置いて、人の上方、すなわち空の方向を示す。人の上方という意味では「空」という字と重なるわけです。

二つの文字を組み合わせれば「天空」。「空=天」は神の住むところとされてきたので、派生的に「天」だけで神を意味することもあります。死後に人の霊がゆく、人が達することができる、神の世界に近いところにある天国。

嬉しくて仕方ないと「天にも昇る心地」になります。しかし、そんな「そら」の「ふかさ」を、詩人は「のぞいてはいけない」といいます。「神さまたちがめじろおししてゐる」、そんな「そらのふかさ」を「のぞいてはいけない」というのです。