2017年8月19日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑭

長谷川龍生は、私が頭に描いている「現代詩」というものを体現している天性の詩人の一人です。伝統的な短歌、俳句の抒情をまっ向から批判した「歌とは逆に歌に」の詩人、小野十三郎に学び、これまでにない新たな詩空間を築くことによって、小野の志を受け継ぎ開花させました。

小野十三郎の理論は明快で、大きな刺激を受けました。しかし小野の詩を読んでいても、その理論の意味するところがどう表現に結びついているのか、20代の私には読み取るのが困難でした。一方で、長谷川の詩を読んではじめて小野の主張するところの表現を見た気がしました。

伝統的な抒情とは異質の、物質的で張りつめた言葉の力学ともいえる詩空間が構築できることを知ったのです。

喩えは相当に飛躍するが、それは非ユークリッド幾何学の一つとして確固たる理論の骨組みを備えていたリーマン空間が、アインシュタインの相対性理論に使われることによって、肉を得、血流がゆきわたって行ったのと似ているように思えました。

「長谷川龍生のユニークさは、世界をその自然的な影や彩りや美の形においてではなく、そして勿論文学プロパーのことばとしてであるが、世界を〈論理的に〉とらえることのできる詩の構造を、初めてといっていい程の新しさでつくり上げたところにある。いわば世界観の新しさが、同時に詩の方法論上の新しさとして成立しているところが、前記の詩人達(中野重治や谷川雁=筆者注)との構造上の違いである。自然発生的な美に対する人間主体的な美を、自然構造的な論理の代りに人工的な論理を、世界をその衣装においてでなく、その本質を貫く運動としてとらえること、これらの発想を、全く新鮮な方法上の後ずけをもって行ったところに、長谷川龍生の詩の革命的といってよい意味がある」

と、岡庭昇は指摘している。

  しだいに潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。
  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

伝統的な抒情詩とは異質の、こうした長谷川ならではの詩作の具体的な方法の一つが、「理髪店にて」の中にも、そのエッセンスが凝縮されている「シュールドキュメンタリズム」でしょう。将来、長谷川の別の詩を読むときに、シュールドキュメンタリズムについてはあらためて考えてみたいと思います。


20代のとき、「理髪店にて」が入っている『パウロウの鶴』を読んで、大きな衝撃を受けました。しかし同時に、何事にもネガティブな性癖の持ち主の私にとって、なんとなく憧れがあった文学から遠ざかる契機となった苦い一冊ともなりました。

長谷川のような想像力をもち、言語空間を築くのは、私の能力では到底なしうることができないと観念したのです。そして、創作の道を断念し、一会社員として生きていこうと考えるようになりました。

長谷川は『パウロウの鶴』の後も、「理髪店にて」に垣間見られるような、伝統的な抒情とは異質で独自な幻想、妄想的な要素を含んだ、新たな言語空間を築く努力を続けていきます。

政治や社会、歴史、人々の心情や思いの根底にある「物理」までも徹底的に探ろうとする姿勢は、他の詩人の追随を許さない独創的なものとなりました。

アインシュタインの出現には、ニュートンから200年の歳月が必要でした。同じように、長谷川の後を追い、その先をも視野に入れるのは常人にたやすくできることではないでしょう。

しかし、長谷川龍生を「もはやどの詩人も手の届かない最高峰」などと持ち上げて、過去へと追いやってしまうような気持ちには私はなれません。

  変わりはてた異邦の港湾で
  元型の女 永遠の女を待っている
  自由な愛の取引は終わった と
  ドックの監視員が叫んでいる

  かつての愛の斥候であった一兵士の死骸
  冒されたざん濠 くびられた人家
  津波がさらっていった暮しの舟
  砲弾が崩していった詩稿の束

  全世界を相手にしている男の親和力
  その一すじの火縄だけをたよりにする
  戦友が倒れている 倒れた詩人の背後に
  集落があり 統制地が見え 国家がひそむ

2002年に出た詩集『立眠』=写真=の中の「遭遇こそ」という詩です。その実績や名声がどうであれ、より深く、より鋭い世界観へとつながる言語空間を探れば探るほど、その詩人の道のりは、より困難を増し、より孤独に、迷いだらけに、そして挫折の繰り返しとなります。

長谷川龍生は80歳を過ぎても迷い、失敗し、そしていまも求めつづけているのです。

2017年8月18日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑬

二つの連から成る「理髪店にて」は、これまで見てきたように、1連目と2連目のまったく異なった鮮明な映像が対比的に現れ、それらが切れ味のいい強烈な活断層となって響いてきます。

1連目は致命傷を負って海に沈んだ軍艦であり、2連目は客である潜水夫の荒んだ黒い肌を滑る西洋刃物です。

しかし理髪店にて、理容師と客とのやりとりに出あった第三者、すなわち散髪の順番待ちをしているのか、偶然この場に居合わせたと想定されるこの詩の作者の立場からすれば、時間はつながっているのです。

その見ているものの時間の連続と、場面の断絶が、比類のないドキュメントを生み出しているわけです。

赤と青のサインポールの扉を開けて順番待ちの長いすに座ってしばらくすると、鏡の前に座った後ろ姿の客の声が耳に入ってきました。がっしりした肉体労働者らしき男だ。なんやら、遠い異国の海のなかに沈んだ軍艦の話らしい。


  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

耳に入ってくる話にぐんぐん興味をそそがれてゆきます。それが、待っている作者の想像を掻き立て、頭のなかにクリアな映像を作っていきます。

ふっと我に返って、潜水夫らし客のほうに目をやります。すると、見えてくるのは「正面に篏った鏡の中」の客の姿です。

遠い海のなかに潜って、藻に包まれた軍艦の残骸を見渡して値踏みをしていた潜水労働者。それが、いま首から下をケープで閉ざされ、鏡のワクのなかに嵌っています。

目に入って来たのは鏡のなかに映し出された、唯一の資本である肉体をよりどころに働く労働者だったのです。それは港湾労働者などとして、各地を転々として働いていた詩人自身の姿でもあったのではなかったのでしょうか。

海に潜って、軍国主義の遺物を眺めて値踏みしている。そんな一見、たくましく、したたかで、若々しい強さを持った労働者であっても、ひとたび雇い主に首を切られればたちまち生きるすべを失ってしまいます。

国家という得体の知れない化け物は、ひとたび暴走を始めると「なめらかだが光なみうつ西洋刃物」のような切っ先をありふれた労働者や庶民に向けてきます。

それを戦中、戦後、肌身で感じていた天性の詩人は、鏡の中の姿から、剃首を後に折った生身の客のほうへと次第に視線を移ってゆきます。

すると、理髪師の骨のあるきゃしゃな手に握られた西洋剃刀が、いままさに客のまぶたへと迫っているのです。ひとつ間違えれば、ふたたび目を閉ざされる闇の中へと連れいかれるかもしれぬ危うさを秘めて。

長谷川とほぼ同時代の詩人、川崎洋は「理髪店にて」についてつぎのように指摘しています。

「昭和二十六年、連合国軍最高司令官がマッカーサーからリッジウェイに代わったころから、〈逆コース〉といわれた一連の動きが始まりました。第九条戦争放棄条項を含む憲法の見直しと再軍備。公職追放の解除。破壊活動防止法。電気・石炭業のスト規制法。その他、戦後民主主義から、もとに逆もどりし始めたような世の中となりました。沈められた重巡洋艦がやがて引き上げられる。そのことは、水面下のミリタリズムが、もう一度姿を現そうとしている、復活しようとしている、復活しようとしているという事を、詩の中で暗にほのめかしている。そんなふうに感じ取ることができ、そのことに、西洋刃物がいままさに瞼の下に斜めにかかったような不安感がある――とこの詩は告げています」

それは、なにも戦争直後だけの話ではありません。一見、平穏におもえても、生身に刃物があてられているゾッとするような危うさをいつも身に感じて生きるしかない時代と社会に、現にいま私たちは置かれているのです。

2017年8月17日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑫

  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

青みどろは、ホシミドロ科に属する淡水性の藻類の総称です。繁殖力が強く、池や水田を緑色に覆っているのが、どこでも見られます。

細胞が一列に並んで糸状になり、枝分かれせずに根本から先っぽまで太さがそろっているのが特徴。触るとぬるぬると滑る、つまりヌメリがあります。

池ができればすぐにアオミドロ=写真、wiki=が発生し、池の中の見通しが悪くなります。多量に発生すれば、底の方の藻体から死んで汚泥状となります。まさに「青味泥」です。


ぬるぬるした「青味泥」が、アジアの片隅の小さな島国の、ボロボロになって沈んだ軍艦を覆っている。小さな島国ではあっても世界の列強に交じって覇権を争い、領土や資源を求めてアジアへの侵略を繰り返した軍国主義国でした。

帝国主義と呼ばれる時代だったのです。レーニン的にいうなら、資本主義の独占段階。帝国主義に従って列強が、領土(植民地)を拡張していけば、いずれは覇権を争ってぶつかり合い世界大戦となります。それは当然の帰結でした。

そんな成れの果て、壊滅した帝国主義国家の手先ともいえる軍艦の残骸を「青みどろに揺れる藻」が覆っているのです。

レーニンのいうとおりなら、世界大戦の結果として、資本主義体制は破局へと向かっていたはずでした。ところが、時代はどうもそんなふうには進んでいかなかったのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

ぬるぬるとした「青味泥」が覆う、帝国主義的軍事国家の遺物である軍艦。そんな海の化石となりつつある残骸を、取り立てた感慨を持つわけでもなく、潜水夫である一労働者らしきが「ざっと二千万と見積って」見つめています。

そのころの二千万とは、いまなら十億くらいに値するかもしれません。一人の労働者が、ことによると「資本主義体制の破局」の象徴になったかもしれない、沈没した軍艦の値踏みをしているのです。

戦後、資本主義体制は無くなるどころか、更なる新たな展開を遂げてきました。資本主義はその本性を際立たせ、ますますわたしたちの生活に根を張っています。労働者の敵であるはずの資本家の姿は、すっかり見えずらくなってきました。

個人が大量の株を保有して会社を支配するというより、企業間で株式持ち合い、直接関係のない法人が会社を支配するようになった。資本家がモノと化するにつれて、団結して戦う労働者も減っていっきました。

私は30年ほど前、大学で経済学を勉強していました。通っていた大学の経済学部はまだ、マルクスの資本論を基礎に置く「マル経」と、消費者の行動や市場の構造を数学的に分析する「近経」の二つにはっきり分かれていました。「経済理論」と題された講義も「マル経」と「近経」で別々に2種類用意されていたのです。

長谷川龍生は若いときに新日本文学会に入り、「列島」などに参加して、どちらかというと社会性の強い詩を書いてきました。ですからなんとなく共産党的、マルクス主義的な詩人という烙印を押されることもあるようです。

しかし私には、「マル経」よりもはるかに「近経」的な思考をする詩人に思えます。「近経」のミクロ理論は基本的に、お金やモノ、サービスを得たいと欲する個々の人間が、市場の中で、価格の変動などに伴っておこなう合理的な行動をもとに成り立っています。

長谷川の詩には、労働がどうの、資本がどうの、賃金がどうのというよりも、なんやかんや理屈や主義主張を振りかざしたところで所詮は、カネやモノへの欲求や執着、打算で動いてゆく“人間というもの”のきわめて合理的な行動に興味を持ち、それに冷徹ともいえる眼差しを向けているものが多いように思うのです。

もっとも、彼が唯物論的、科学的なものの見方をする詩人という意味では実にマルクス主義的であるといえるかもしれません。長谷川龍生は国家や理念などといったものは信じません。確かなのは、巷にうごめくカネでありモノであり、それから人間に秘められている怨念なのです。

2017年8月16日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑪

以前にも少し見ましたが、長谷川龍生は、この詩を作ったころの20代、日傭い労働者、港湾労働者、日傭いセールスマン、業界新聞の記者など、さまざまな職に就いていました。それは、生活のためであるとともに、「ほんとうの人間の詩を、生活する場から発見したい」からだったのでしょう。

もっとも詩人の言にしたがえば、閉ざされた「私」の壁を何んの制約もなくすり抜けていくことができる長谷川龍生の「亡霊」が、「社会への唯一の交流媒体」として、労働に勤しんでいたというほうが正確なのかもしれません。

港湾労働者などとして肉体労働に汗を流していたこうした若き日々に、龍生は、「理髪店にて」に出てくる潜水夫のような人と出会ったのでしょうか。それとも当時は、巡洋艦「鳥海」のような軍艦のサルベージが盛んに話題にのぼっていたのでしょうか。

言うまでもないことですが、この世の何が「現実」で何が「幻影」であるのか、何が「実在」で何が「亡霊」なのか、はたまた何が「真実」で何が「虚偽」かなんて、そうたやすくはかり知ることができるものではありません。

ましてや「あくまでも、自己の言葉でもって、自己の意味でもって、自己だけにのみ可能である世界を構築しなければならない。そのためには、つねづね、洗練された感覚に、客体化の光を放射しなければならないのである」(長谷川龍生「自分の天職とは逆の方向に美をもとめて」)とうい詩人ともなれば、なおさらのことでしょう。


しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

それにしても、この潜水夫からは、無惨に破壊されて沈んでいる祖国の軍艦に対する感傷、無念さ、痛恨な思い、祖国愛といった、戦前、戦中の愛国教育を受け、国のために戦った多くの人々が持ちあわせているであろう感情は微塵も感じられません。

ただ、「なんぼくらいになるやろ」という商売人的、あるいは日傭い労働者的、プロレタリアート的な、合理でしたたかに残骸を見つめる視線があるだけです。この詩を読んだとき、私にはそれが実に爽快で気持ちよく、いつしかこの潜水夫は長谷川龍生という詩人そのものではないかと思うようになりました。

「根っから、この日本の国を信用していない」という長谷川龍生に、祖国愛は薄いといいます。「悪い国家というものの実体が判っているだけで、理想の国家像、ほんとうに大衆の住みよい、くらしよい国家像が判らないために、愛情のありかが判らない」(同上)からだそうです。

青年の日々を送る詩人の現実は、「私のまわりで、激しい変化を見せながら流動していたのであるが、私は、あまり、その波浪にはまかれなかった。唯、その波浪の恐怖を〈見る〉という行為にとどめただけで、私は、つねに、空白の意識に、閉じ込められていたのである」。

詩人は、潜水夫になって、その閉じ込められている空白の意識の海の中へと潜り込んでいます。すると、「〈見る〉という行為と、〈見ている自分が見られている〉という自意識とが、奇妙に重なって」現実が幻影化し、そこにイメージが乱出してくるのでしょう。

そうしたイメージの中から、現実とのかかわりあいのうえで、のっぴきならない〈私の存在〉を中核に材料を選択していった。そんな作業の中で、詩人の視界に現れてきた「ドキュメントという証拠物件」が、この場合には巡洋艦「鳥海」だったのではないでしょうか。

それは、「幻影といえども、現実との深い擦過点を求めた」(同上)ものだったのです。

2017年8月15日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑩ 

    剛よい羽毛をうち
    飛翔力をはらい
    いっせいに空間の霧を
    たちきり、はねかえし
    櫂のつばさをそろえて
    数千羽という渉禽の振動が
    耳の奥にひびいてくる。
     たんちょう類か、姉羽鶴こうのとりか
    どちらとも見わけのつかない
    奇妙なパウロウの羽ばたきが
    夜の、静かな大脳の空に、
     ひらめくとびの魚の
    胸鰭の水さばきのように
    皮膚の上から、連続的に
    ひびき、わたってくる。

「理髪店にて」が入っている第1詩集のタイトルでもある、有名な詩「パウロウの鶴」の冒頭です。

“パウロウ”は、犬のほおに管を通して唾液の分泌量を測定 する条件反射の実験で、大脳の生理機能を明らかにしたことで知られるロシアのイワン・ペトローヴィチ・パブロフ=写真、wiki=に由来するとも言われています。


長谷川龍生は、自閉症だった(である)そうです。自閉症は、内気な性格や引きこもり、さらにはうつ病などと混同されがちですが、それらとは根本的に異なり、生まれつき脳の機能に障害を持つ、発達障害のひとつと考えられています。

症状には①人とのかかわりに質的な障害がある②コミュニケーションが取れない③活動や興味の範囲に著しい偏りがある、などがあげられます。

医師の診断を受けてのことか、それとも一種の「詩語」として使っているのか、長谷川がどういう意味合いで自らを「自閉症」と言っているのかを断定することはできません。

しかし、自閉症の要因を自身の血脈や、生まれあわせた広い意味での環境の中に求めていたことは間違いないでしょう。

長谷川家には墓所はあるが、家はない。明治初頭の西南の役で戦病死して血筋が途絶えた長谷川家を、縁もゆかりもないカップルが引き継いだ。それが龍生の母イクであり、父カナメだったといいます。

「私は、小さい時から、この長谷川家をぶきみな呪いのかかっている家筋として、うすうすは知っていた。誰が、どのような方法で、この長谷川家に呪いをかけたのか、それは、余り言いたくはないが、とにかく、一族中に呪いをかけた奴が存在したのである。私は、単純に、その呪いから少しでもレーダー距離を置きたかった。単に意識の距離である。距離を置きながら、一族中の最大の焦点であり、呪われた最大の癌である私の父親〈長谷川カナメ〉のくたばるのをひたすらに待った」(長谷川龍生「自閉症異聞」1968年)

どういういきさつかは知りませんが、母のイクは戦前の、龍生がまだ8歳のときに「明らかに栄養失調」で死んでいます。また父カナメは、その30年後に「徳島県の片田舎」の病院で、行路病者として誰にも見とられずにこと切れました。

このとき龍生はすでに、福井県・三国町の、縁もゆかりもない名谷家へ養子に入っています。筆名として残しているだけで、「長谷川」からは縁が切れていたことになります。

龍生は7人兄弟の五男でした。長男は一高、東大卒の数学の秀才でしたが昭和初期に変死、三男は25歳の若さで流浪の果てに栄養失調死、四男は大阪信貴山の山麓で拾われたが20歳で病死、というように、長谷川一族はほとんどが行路病死、変死の家系だといいます。

「私は、小さい時から、そのような環境の中で、自らと世の中との通路を閉ぢた。明らかに自閉症として、詩人の道をえらんだ。しかし、自閉症としては生きていくことはできない。私はそこで亡霊を創造した。現在、街をあるいたり、会社に勤めたり、他人と会話したりしているのは、私の亡霊である。亡霊だけが、自閉症の壁を、何んの制約もなくすり抜けていくことができ、社会への唯一の交流媒体として働いている」(同)

2017年8月14日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑨

《喉から頬、顎、額などを剃った後、喉の柔らかい部分がどうしてもうまくいかぬ。こだわり尽くした彼はその部分を皮ごと削ぎ取りたいような気がした。肌理の荒い一つ一つの毛穴に油が溜まっているような顔を見ていると彼は真からそんな気がしたのである。若者はいつか寝入ってしまった。がっくりと後へ首をもたせてたわいもなく口を開けている。不揃いな、汚れた歯が見える。

疲れ切った芳三郎は居ても立ってもいられなかった。全ての関節に毒でも注されたような心持がしている。何もかも投げ出してそのままそこへ転げたいような気分になった。もうよそう!こう彼は何遍思ったか知れない。しかし惰性的に依然こだわっていた。

……刃がチョッと引っかかる。若者の喉がピクツとうごいた。彼の頭の先から足の爪先まで何か早いものに通り抜けられたように感じた。で、その早いものは彼からすべての倦怠と疲労とを取っていってしまった。

傷は五厘ほどもない。彼はただそれを見詰めて立っていた。薄く削がれた跡は最初乳白色をしていたが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上がって来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上がって来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一筋に流れた。この時彼には一種の荒々しい感情が起こった。

かって客の顔を傷つけた事のなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫って来た。呼吸はだんだん忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打克つ事が出来なくなった。

……彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと喉をやった。刃がすっかり隠れるほどに。若者は身悶えもしなかった。

ちょっと間を置いて血がほどばしる。若者の顔は見る見る土色に変わった。

芳三郎はほとんど失神して倒れるように傍らの椅子に腰を落とした。すべての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還ってきた。眼をねむってぐったりしている彼は死人の様に見えた。夜も死人の様に静まりかえった。全ての運動は停止した。すべての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷ややかにこの光景を眺めていた》


志賀直哉が、青年時代の1910(明治43)年に書いた短編小説『剃刀』の最後の部分です。現在の東京・六本木の理容店「辰床」の主人、芳三郎は珍しく風邪をひいて、忙しい盛りではあったが寝込んでいました。

芳三郎はもともと、この床屋の小僧ですが、前の主人がその剃刀の腕前に惚れ込んで1人娘の婿に迎えました。

芳三郎は剃刀の扱いは名人クラスだが癇の強い男で、客の肌を撫でて少しでもざらつけば毛を1本1本押し出すようにして剃らねば気が済みませんでした。客は芳三郎にあたってもらうと1日延びがちがうと言い、彼は10年間、客の顔にキズをつけたことがないことを自慢にしていました。

2人の使用人は頼りにならなかった。芳三郎は熱で苦しい身を横たえながら床の中で1人いらいらしていました。剃刀を研ごうとしても、熱で手が震えて思うようにいきません。

そんなところに、景気良く硝子戸を開けてせいの低い二十二三の若者が入ってきました。イキがった口のききようだが田舎者。節くれ立った指や凸凹の多い黒い顔から、昼間は荒い労働についていると察せられます。

剃り始めたものの思うように切れない。手も震える。水洟が垂れてくる。切れない剃刀で剃られながらも平気な顔をしている若者は無神経さが癪に触る。それでも、少しでもざらつけば、どうしてもそこにこだわらずにはいられない。こだわればこだわるほど癇癪が起こってくる。そして、冒頭にあげた場面になるわけです。

子どものころの私は、床屋へ行くのが怖かった。あの、剃刀があるからです。床屋に入ると、その日の機嫌を探るように理容師のおじさんの顔を覗き込むのが常でした。

さすが小説の神様、志賀直哉の描写も見事です。が、あのゾッとする瞬間を、

  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

と、5行で表現しきる詩人もまたすごい。無駄な表現が削ぎ落とされた、なんという驚くべきリアリティでしょう。

「理髪店にて」をはじめて読んだときの20歳くらい私は、この詩人は剃刀のように鋭く、冷たく、そして怖い人に違いないと思い込んでいました。

2017年8月13日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑧

最近では、男性が美容院でパーマネントウエーブをかけるのは当たり前ですし、シェービングや美顔のために女性が理容店を利用するケースも多くなっています。

しかし「理髪店にて」のころは、理容店のあの、赤青白の3色が螺旋状に回るサインポールが置かれた入口から入るのは、男に限られていたはずです。

理容(理髪)は先史時代からありました。青銅器時代の紀元前3500年ころの剃刀も見つかっているそうです。『旧約聖書』にも理容のことが書かれていますし、釈迦の10大弟子の1人ウパーリは、出家前には釈迦族の理髪師でした。


近世のヨーロッパでは、理髪師は外科医と同種の職業として扱われていた国も多かったようですが、日本では江戸時代の「髪結い」の流れをくみ、明治時代にかけては「理髪業従事者」と総称されました。伝統的な髪型が対象の理容について、「髪結い」の呼称はいまも残っています。

また江戸時代、鬢(びん)や月代(さかやき)を剃り、髪を結うことを仕事にした髪結床は床屋とも呼ばれていました。床屋という呼び方は、理髪業従事者とその店の俗称としていまも通用しています。近代的な理髪店は、文明開化の折に横浜に開業したものが第1号といわれます。

  春は早ようから  川辺の葦に
  蟹が店出し  床屋で ござる
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

  小蟹ぶつぶつ  石鹸(シャボン)を とかし
  おやじ自慢で  鋏(はさみ)を 鳴らす
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

1923年に発表された北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡「あわて床屋」では、新たな時代の理髪店で使われるようになった、文明開化を象徴する道具の一つといってもいいハサミをモチーフに、白秋らしい発想と巧みなオノマトペで歌っています。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

ハサミの普及で理髪店の主役だった剃刀は、少しずつ補助的な道具に変わっていきました。しかし「理髪店にて」の時代、もしくはこの理髪店においては、まだまだ剃刀が頑と主役を張っているように思えます。それも、「なめらかだが光なみうつ西洋刃物が」。

戦後のドサクサから経済復興へと経済が激しく動き出したころ、時代の変化に動ずることなく安定した収入が得られる理容師は人気の職種で、競争も激しかったようです。きっと、いまのカリスマ美容師と似たようなところもあったのでしょう。

そんな時代の、激動する大都会の象徴、新宿の理髪店を訪れた常連らしき潜水夫の「荒んだ黒い顔」を剃刀が滑っていく。80~90キロもあるヘルメット潜水の重い潜水服を着て、海中を這いずり回る百戦錬磨のたくましい肉体労働者。といえども、理髪師のきゃしゃな骨張った手がもしも、グサリといけば、一巻の終わりなのです。

2017年8月12日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑦

流氷の海の下を潜ってみたい、と思い立って学生のころ、ライセンスを取るためスキューバ・ダイビングの講習に通ったことがあります。北海道の海でも大丈夫なように、厚さ1センチ余りの厚めのウエットスーツを買い、積丹半島の海に通いました。

ところが、山育ちでろくに泳げもしない私には、海に潜るという作業は想像以上にハードルが高かった。エアタンクを背負い、浮力に負けないための重りをつけるとけっこう動きずらい。潜るにつれてのしかかる水圧に対処するための「耳抜き」がうまくいかず、耳がつぶされるように痛みました。

なによりも、海中にいるという閉塞感が先に立って、レギュレーター(自動調整器)から適度に送られてきている呼吸ガスがどうにも息苦しくてパニックのような状態になります。結局、向いていないなと観念し、講習の途中でやめてしまいました。

そんなのは海に向かない素人の話。スキューバなど潜水技術が進歩した現代では、訓練を積んだプロなら、思いのままに海中を動き回り、沈没船の引き上げ、救助などの困難な作業にもあたれるようになっています。

しかし「理髪店にて」のお客である戦後間もない時期の潜水夫が、映画「海猿」の海難救助にあたる海上保安官のようなイメージで、スルスルと海に潜り、サルベージの作業にあたっていたとは考えにくいようです。

スキューバは1943年にフランスで考案されたもので、海中での作業やスポーツのため世界に普及し始めたのは1950年代になってからのこと。それまでは、いわゆる「ヘルメット潜水」でした。


ヘルメット潜水=写真、wiki=は、ゴム引き帆布などの防水素材で作られた潜水服と、ガラス窓のついた主に真鍮製のヘルメットを使って、水上からホースでヘルメットに空気を供給する送気式の潜水方法です。

1900年前後に基本的なシステムが確立され、以来、水中土木作業や軍事、漁業用にも広く利用され、スキューバが普及し始めるまで実用的な潜水法としてはほとんど唯一のものでした。

潜水服はゴム引きの帆布などの防水素材で作られ、首のところが大きく開く。ここからダイバーが服の中に入り、台座を取り付けヘルメットを固定します。

ヘルメットには、空気供給ホースの接続口や排気バルブ、水上と交信するための電話装置などが取り付けられ台座に固定されているため、首はほとんど動かせません。そのため、外を見るためのガラス窓が取り付けられているのです。

潜水服やヘルメットの内容積が多く、大きな浮力がかかるので胸や背中などに重い鉛の重りをつけたうえ、直立姿勢を保てるように靴にも鉛が内蔵されています。そのため装備の総重量は80~90キロに達しました。

水上の空気供給設備さえ稼動していれば何時間でも海中にいられるわけですが、空気供給ホースが水中の障害物に引っ掛かる危険性が常につきまとい、ダイバーの水中行動は極度に制約されていました。

スキューバのように空気の給排気がダイバーの呼吸に応じて自動的に調整されるわけではないので、ダイバー自身が空気供給ホースの調整バルブとヘルメットの排気バルブの双方を操作して調整しなければなりません。操作を誤ると、窒息死や潜水服が水圧で押しつぶされて傷害を負ったりすることもありました。

身につける装備が重いため、水上では一人で移動することは困難です。水中でもフィン(足ひれ)を使って泳ぐことはなく、ほとんど水底をはうように歩いて移動する必要がありました。

わたしたちがいま抱く潜水のイメージよりも、むしろ、様々な装置がつながれた大きな膨らみを持った宇宙服を着て、ぎこちない感じの足取りで月面を歩いたアポロ宇宙飛行士の姿に近いものだったのかもしれません。

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

「理髪店にて」をはじめて読んだとき私は、冒頭「しだいに 潜ってたら」の「潜ってたら」がなんとなく気になっていました。「潜ってたら」ではなく、「潜っていったら」と表現したほうが潜水の動きが出てくるのに、どうして「潜ってたら」なのだろうかと。

だが、当時の潜水事情を考えてみると、納得します。水中を人魚のようにゆらゆらと潜って行くなどという動作はできなかったのですから。

野武士のような体つきをした頑健な労働者が、決死の覚悟で水底を這うように歩いて移動する。まさに「潜ってたら」だったのです。

2017年8月11日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑥

「理髪店にて」が入っている龍生の第1詩集『パウロウの鶴』が出版されたのは1957年。敗戦の年から12年が経っていました。

この間に、大戦で海に沈んだ軍艦を引き上げ回収する計画や試みがどれくらいあったのか。沈んだ軍艦を利用する事業や商売があったのか。あったとすれば、どのようなものだったのか。私には把握できていません。

いま私にできるのは、良く知られた戦艦「陸奥(むつ)」=写真、wiki=の引き上げから推し量ることくらいです。


「陸奥」は1921(大正10)年10月に完成し、戦前の学校の教科書に描かれるなど日本海軍の象徴として国民に愛されました。

大戦中は、戦地に赴かず温存されていましたが、1943年(昭和18)年6月8日、広島湾沖柱島泊地で原因不明の爆発事故を起こし、沈没してしまいます。

乗員1474人のうち助かったのは353人だけ。死者のほとんどは溺死でなく爆死でした。

爆沈直後から海軍は再戦力化に向けて「陸奥」引き上げを検討していました。しかし調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されて諦めました。

占領下の監視のため終戦直後には浮揚作業はできず、1948(昭和23)年になってから、西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始する。

しかしこのとき、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こって作業が中断されてしまいます。「はぎとり事件」とはどいういうものだったのか。それを知る手がかりとして、少し長くなりますが、1952(昭和27)年6月30日の衆議院本会議における当時の内藤隆・行政監察特別委員長の発言を引用しておくことにします。
     
 《国有財産管理処分に関する事件の第三に、山口県岩国市の沖になぞの爆沈を遂げた軍艦陸奥のはぎとり事件と称せられるものであります。

これは、西日本海事工業株式会社が、山口県知事の許可を得て、搭載物資たる燃料、食料品、繊維品、非鉄金属類の引揚げを企てたことに端を発するものでありますが、当時陸奥は、連合軍からわが国に返還されていなかつたので、極東海軍司令部から抗議が来たために、一時この計画は中止されたのであります。

その後、建設省が主体となり、あらためて搭載物件の引揚げ及び処分をその責任において実施することの許可を得たので、建設省にその実施監督を山口県知事に委任し、引揚げた物件は一般の返還軍需物資、すなわち特殊物件の処分方法により、政府の指示に従つて売却するということになつたのであります。

ここにおいて、山口県知事は、あらためて前述西日本海事工業と契約を結び、引揚げ作業が再開されたのでありますが、この作業継続中、朝鮮事変が勃発して、金属類の価格が暴騰し、また陸奥の艦体有体が連合軍からわが国に返還されるに至つたのであります。

今までは引揚げ許可を受けた物件だけが特殊物件として返還されたのでありますが、今度は艦体そのものも返還されたのでありますから、建設省の所管においての引揚げ物件の範囲、すなわち搭載物件は何ぞやということが問題となつて来たのであります。

大蔵省、建設省、山口県当局の見解は、艦と一体をなす機械類、裝備品は搭載物件ではないとしているのでありますが、会社側はこれをきわめて広義に解し、艦体をどんどん破壞して、重要機械類、裝備品を引揚げ、またこれを無断で処分してしまつたのであります。

しかるにかかわらず、山口県の監督の任に当つている係員は、県が搭載物件でないとしている物件の引揚げを黙認記し、また無條件に契約量を超過する引揚げを認め、火薬に対しても申請通りの数量の使用を許可しているのであります。

これは、県と会社とが共謀して、特殊物件の名のもとに国有財産を窃取横領したのではないかとの疑いも起りますので、本委員会はこの点を追究しましたところ、結局搭載物件に関する見解の相違と、県がこの仕事を一係長にまかせ切りであり、この係長がまつたく傀儡的存在となつて会社側に翻弄されていたことが判明したのであります。

なおこれに加うるに、建設省が三回目の期間延長に際し、何ら実情を調査しなかつたことが、不正行為にさらに拍車をかけた結果となつたことも否定しがたく、中国財務局もまたその所管となりた後、單に一片の書類による警告を発しただけで、全然現地調査をしていないというように、行政官公署の事務懈怠が禍因をなしていることも否定できないのであります。

山口地方検察庁は、本年四月十五日、西日本海事工業社長武岡賢に対し、業務上の横領罪で起訴しておりますが、大蔵省、建設省、山口県当局は、損害の共同調査を遂げ、西日本海事工業に対し求償すべき責任があるというのが、本委員会の結論の一つであります。

なお、本件調査中、陸奥艦内には約一千柱と推定される多数の英霊と殉職者の尊き遺体が眠つていることが判明いたしましたので、関係官庁を証人として喚問し、英霊に対する事後の行政措置につき、その善処方を要求したのであります。遺家族多数より、委員会に対し、激励と感謝のり書状が参つております》

長谷川龍生が「理髪店にて」の着想を得たころはきっと、こうした陸奥の「はぎとり事件」のような軍艦のサルベージ作業を巡るあれやこれやが話題になり、新聞などが盛んに取りあげていたのでしょう。

「陸奥」の乗組員の遺族たちは、それでも諦めることはなく、1955(昭和30)年5月には2度目の陸奥遺体引揚請願書を国会に提出。翌1956年には、浮田信家・元海軍中佐が遺族会代表宅を訪れ、「多くの軍艦が沈んでいるので陸奥だけを引き揚げるのは出来ない」旨を知らせますが、引き揚げ運動は粘り強く継続されます。

そして1970(昭和45)年、ようやく深田サルベージ株式会社の主導でサルベージが再開され、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収。1971(昭和46)年には艦尾の浮揚にも成功し、第4砲塔も引き揚げられて中から遺骨数体が回収されています。

2007年には、第6管区海上保安本部の測量船の探測機が「陸奥」の船影を捉えています。このころまでに7割程度が浮揚されたましたが、いまも艦の前部など一部はは海底に残ったままです。

ついでだが、「陸奥」の鋼材が、思わぬところで重宝がられているエピソードがあります。現代の製鉄では、溶鉱炉内の耐火煉瓦にコバルト60という放射性物質を含ませて、そこから出るガンマ線によって破損箇所を調べるシステムを取っています。

そのため、放射性物質の一部が鉄に混入してしまいます。しかし戦前に造られた「陸奥」の鉄材には、そうした放射性物質は含まれていんません。このため引き揚げられた「陸奥鉄」は、精密な放射線測定機の遮蔽材などに最適というわけです。

「陸奥」が沈没したのは国内の、浅い瀬戸内海の海底でした。それでも、サルベージは困難を極めるたいへんな作業だったと考えられます。なんといっても巡洋艦「鳥海」が沈んだのは、遠くフィリピンのサマール沖なのです。「理髪店にて」に出てくるサルベージ会社の潜水士とおぼしき理髪店のお客は、そんな遙かな異国の海に潜ったということになります。

  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

つまり、5基10門が搭載されていたと思われる「鳥海」の口径20センチの大砲は「八門までなく」、4基積んでいたはずの3センチ口径の高角砲(仰角の大きな機関砲)などひとつもないほど、ひどくやられていたのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

それにしても国内でも大変なのに、遙かな異国の海で大がかりなサルベージ作業をするというのはただならぬことです。前述したように「鳥海」の乗組員は全員死亡しましたが、それは駆逐艦「藤波」に乗り移った後でのこと。「鳥海」に、亡骸が残されているはずもないのです。

とすれば、その時代の最先端の技術の粋を集めて造られた軍艦は、たとえ海に沈んでしまっても「宝の山」的な要素をたくさん持ち合わせていて、それをねらってもぐったということでしょうか。

サルベージ会社の潜水士とおぼしきお客は、秘かに潜って見つけた巨大な鉄の残骸に搭載されているであろう燃料、機械類、食料品、繊維品、それに艦体の鋼材などの「はぎとり」をしていったら2000万円くらいにはなりそうだとざっとはじき出し、ちょっぴりほくそ笑みながら、海面のほうへと上っていったのでしょうか。

2017年8月10日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑤

サルベージ会社の潜水士とおぼしき理髪店の客がしだいに潜って見つけた巡洋艦「鳥海」の巨体。それは、

  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし

でした。理髪店の客は、三菱長崎で誕生したばかりの「鳥海」を見ていた。そしてまた、海に沈だ「鳥海」の最期の姿をもまのあたりにしているのです。

三菱長崎というのはたぶん、いまも長崎県にある三菱重工業長崎造船所=写真、wiki=のことでしょう。


長崎造船所は1857年(安政4)年、日本初の艦船修理工場である「長崎鎔鉄所」として誕生しました。1887(明治20)年には、明治政府から三菱に払い下げとなり、その後、民営の造船所として多くの艦船を建造しました。

特に民間で建造された初の戦艦である1915(大正4)年竣工の「霧島」や1942(昭和17年)の 戦艦「武蔵」がよく知られています。

また、「鳥海」と同じ重巡洋艦の「古鷹」「青葉」「羽黒」「三隈」「利根」「筑摩」も造られています。

「理髪店にて」が収められた詩集『パウロウの鶴』は、敗戦から10年あまり経った1957年に、書誌ユリイカから出版されています。長谷川龍生が29歳のときのことです。

同詩集の中に、「造船の夕暮」という作品があります。

  第四船台をぬけて
  夕ぐれのなぎさに立つ。
  なみ、たちせまる彼方
  飾磨の海空はくもっている。
  あらい縞げむりの吐きむらがるところ
  あれが広畑だと三菱の友がいった。
  ある秋たけた夕ぐれの海だった
  国籍不明の貸船が岸壁に近づくや
  木っぱになったスクラップの山を
  そのままごっそりと陸揚げし
  霧の海路を去っていった。

大阪市船場に7人兄姉の末っ子として生まれた龍生は、終戦前後にあたる10代後半から20代にかけて、さまざまな労働に携わりながら各地を放浪し、「詩を考えること」に終始する生活を送っていました。

「若いころ、港湾地帯の俗に言う“一本かつぎ”の重労働に従事したことがある。天秤棒のしなるリズムとしなるリズムと、足もとの水の上をわたしてある送り板の揺れ、腰力の切り方、左右のバランス、腰そのもののはこびが、たいせつであった。そのときは、労働がきびしくて、むだな“ことば”も交わせず、もくもくとして一日がうちすぎていった。いまからおもうと、そのような細密な肉体のうご
きは、からだの“ことば”ではなかったかとおもう」(1976年12月『国文学・解釈と鑑賞』の「“ことば”と体験」)

「造船の夕暮」は、そんな、阪神工業地帯で労働者として働いていた時の作品です。

この詩について、『パウロウの鶴』のあとがきで長谷川は「十数年経って、最近、それらの工業地帯をあるいて見て、日本の基幹産業の技術革新がもうれつな勢いで成長しているのを目の当りに見た。私は、もう一度、重工業地帯に目をすえて詩を考えようと思っている」と記しています。

龍生自身が、長崎造船所に行ったことがあるのか、「鳥海」が沈んだ現場を訪れたことがあるのかどうかは分かりません。しかし『理髪店にて』を書いたころ、「造船の夕暮」にもあるような三菱の関係の友人があり、そちらの方面の情報をかなり持っていたことが予想されます。

そして当時の重工業の象徴的存在だった「造船」というものに、軍艦をはじめとする船に対して、一方ならぬ興味を抱き、その本質を労働者として体で見極めようとしていたことは間違いありません。

2017年8月9日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」④

1932(昭和7)年に就役した「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」の高雄型重巡洋艦4隻は、太平洋戦争で各地を転戦、多くの戦果を挙げました。しかし4艦そろって参加したレイテ沖海戦で、「高雄」を除く3艦は相次いで沈没します。

高雄型で唯一生き残った「高雄」=写真、wiki=も、レイテ沖海戦のときの修理が済まない航行不能の状態で、シンガポールで終戦を迎えることになります。


レイテ沖海戦は、1944(昭和19)年10月23日から25日にかけて、フィリピンとその周辺海域で起こった日本海軍とアメリカ海軍など連合国軍との一連の海戦。この戦いの結果、日本海軍の連合艦隊は事実上壊滅し、太平洋戦争の趨勢は決したともいわれています。

そのころになると巡洋艦の主要な敵は、「鳥海」や「高雄」が造られたころ想定されていたような魚雷ではなく、航空母艦などから飛び立つ飛行機になっていました。

戦艦に代わって航空母艦が主力になると、それを護衛する防空艦も必要となります。米国では防空巡洋艦がたくさん造られ、日本軍は巡洋艦を防空巡洋艦に改造しようと計画しましたが思うようには進みませんでした。

さらに、米国ではすでに戦前に造った巡洋艦への魚雷搭載を廃止していたのに、日本は依然として魚雷戦に固執した装備しか持ち合わせていなかったのです。日本軍の巡洋艦は、時代の趨勢に逆行していたわけです。

詩「理髪店にて」の前半の主人公、重巡洋艦「鳥海」は、そんな宿命を背負ってフィリピンの中部にあるサマール島沖合の海へと進撃し、最期を迎えることになります。

「鳥海」がレイテ沖海戦に突入した1944(昭和19)年10月23日、高雄型4艦すべてが米潜水艦の攻撃を受けるものの、「鳥海」だけは被害を受けずに済みます。翌24日の米航空機部隊の攻撃でも損害はありませんでした。

しかし、25日のサマール沖の海戦では、米駆逐艦の砲撃や護衛空母「カリニン・ベイ」の艦載機による攻撃を受け、右舷船体中央部に被弾。甲板に装備していた魚雷が誘爆して、機関と舵が破壊される致命傷を負います。

さらに艦載機部隊の攻撃では、機関室前方に500ポンド爆弾を受け、火災とともに大破。そして、この日のうちに駆逐艦「藤波」の魚雷によって処分されています。乗組員は「藤波」に乗り移りましたが、「藤波」も空襲で撃沈され、両艦の乗組員全員が死にました。

沖合が海戦の舞台になったサマール島は、フィリピン中部にあるヴィサヤ諸島の一つ。面積約1万3000平方キロで、ルソン島、ミンダナオ島に続いてフィリピンで3番目に大きい島。南西にあるレイテ島とは、最狭2キロの幅の狭い海をはさんで隣り合っています。

さて、このへんで「理髪店にて」にもどることにしましょう。

  しだいに
  潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。

冒頭の5行、句点で括られた一つの文からすれば、鏡を前に椅子に座って散髪してもらっているお客は、沈没した船を引き上げる仕事をしているサルベージ会社の潜水夫ということになるでしょう。

「鳥海」が海中深く、藻に包まれてどうと横になっていた。ということは、戦艦「武蔵」など多くの艦艇が沈み、約1万人が犠牲になったとされるレイテ沖戦の悲劇の海の深みへと、この潜水夫は潜って帰ってきたばかり、あるいは潜水作業に携わった特別な経験の持ち主ということになります。

2017年8月8日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」③

長谷川龍生の詩「理髪店にて」に出てくる「鳥海」=写真、wiki=は、高雄型と呼ばれる4隻の重巡洋艦の一つです。高雄型は、大日本帝国海軍が“最後の重巡洋艦”として計画建造されました。

巡洋艦というのは、「大和」に象徴されるような大型で鈍足の戦艦と、魚雷や砲撃など機動性に飛んだ駆逐艦の中間に位置する軍艦をいます。スピードでは戦艦に勝り、総合的な攻防力や耐波性では駆逐艦を凌駕するそうです。


巡洋艦はもともと、電波による通信がまだ発達していなかった時代に、情報を伝達したり、敵の在処を探ったりしたコルベット船やフリゲート船のような役割を担うものでした。

しかし水雷艇や駆逐艦が生まれてからは、それらより大型で遠洋航海能力が高く、艦砲を主装備している軍艦をさすようになりました。

巡洋艦のなかで大型のものを、重巡洋艦といいます。1930年のロンドン海軍軍縮条約では、砲口径6.1インチ(155ミリ)を超え、8インチ(203ミリ)以下の艦砲を搭載する1万トン以下の巡洋艦を指しています。

高雄型は、前身の妙高型を引き継ぐ重巡洋艦で、藤本喜久雄造船大臣が設計を担当しています。

本艦の主砲は「50口径3年式20センチ砲」と呼ばれているもので、砲口の初速は毎秒870メートル。110キログラムの砲弾を仰角45度で、29400キロまで到達させることができたといいます。

据えられた新型の砲塔は、最大仰角が70度に及び、対空砲弾用に専用の揚弾機を備えていました。

とはいえ、実際のところ、砲弾が重すぎて砲弾の射撃間隔が長くならざるを得ず、発射速度も遅くて、実践で十分威力を発揮できるものではなかったようです。

前のタイプである妙高型の「足柄」が1937年、英国王戴冠記念の観艦式のため欧州へ派遣されたとき、乗艦した英国の新聞記者は「私はきょう初めて軍艦というものを見た。いままで見てきたのは客船だった」と評しとか。

これくらい、当時の重巡洋艦は船内で暮らしの居住環境は劣悪だったのです。

高雄型は、悪評をかった狭い居住区域を広くするなど、乗組員のすみやすさに配慮されました。艦隊の指揮能力を高めるため、ブリッジの大型化するなどの改良も施されました。

龍生の詩に出てくる「鳥海」は、高雄型のなかでもとりわけ内装が豪華だったとも言われています。

「鳥海」をはじめ「高雄」「愛宕」「摩耶」の高雄型4隻は、1932(昭和7)年に就役。、1934年11月には、4隻で海軍第二艦隊第4戦隊を構成します。

それは、詩人がまだ、小学校へ入ったばかりのころでした。

2017年8月7日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」②

詩「理髪店にて」は、前半13行と後半8行の2連から成っています。舞台は「新宿のある理髪店」。散髪の客が鏡の前に座って、何やら話をしながら理髪師に剃刀をあててもらっています。

その話の内容が、いきなり誘い込むような書き出しで1連目の13行で語られます。客が口にしていた「そんな話」は、いまの感覚からすると、床屋の世間話にしてはなんとも重苦しい。


「潜って」いたら、海に沈んで「青みどろに揺れる藻」に包まれて横たわる「鳥海」という巡艦を見つけた、というのです。

1連目の主役は、その「鳥海」。2連目のほうは、後に折った剃首の肌を滑っていく「なめらかだが光なみうつ」西洋刃物でしょう。

海の中にある重々しく巨大な残骸となった軍艦と、生きている人間の首をすっすっすうっと走ってゆく危うい刃物が、言葉を通して鋭く交わりあいます。

戦後、だいぶ経ってから生まれた私にとっては、戦艦といわれて姿形をなんとなく察することができるのは情けないかな、「大和」くらいなものです。そもそも「鳥海」とは如何なるものだったのでしょう。

「鳥海」は、全長204メートル、全幅19メートル、排水量1万3千トン、乗員760人の重巡洋艦だ。名前は、山形と秋田の県境にある火山、鳥海山(2236メートル)に由来しています。

長谷川龍生が生まれた昭和3(1928)年に、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工。昭和6(1931)年に進水、昭和7(1932)年に就役しています。

昭和17(1942)年、ガダルカナル島へ向け出撃し第1次ソロモン海戦に参加。昭和19(1944)年にはマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参戦した後、10月25日のサマール沖海戦でアメリカ艦隊と交戦して最後を迎えました。

米駆逐艦、護衛駆逐艦からの砲撃と護衛空母「カリニン・ベイ」の艦載機による攻撃で、右舷船体中央部に被弾、甲板に装備した魚雷により機関と舵が破壊され、戦列を離脱。

さらに、艦載機部隊の攻撃で、機関室の前方に500ポンド爆弾を浴びて大破。その日のうちに駆逐艦「藤波」の魚雷で処分されています。

乗組員は「藤波」に乗り移りましたが、「藤波」もその後の空襲で撃沈。両艦の乗組員全員が戦死しています。

2017年8月6日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」①

   理髪店にて

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

新宿のある理髪店で
正面に篏った鏡の中の客が
そんな話をして剃首を後に折った。
なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
滑っている理髪師の骨のある手は
いままさに彼の瞼の下に
斜めにかかった。


私にとって、10代のときに決定的な影響を受けたのが宮沢賢治の『春と修羅』なら、20代で最も大きな衝撃を受けたのは、この詩が入っている長谷川龍生の『パウロウの鶴』でした。

ふとしたときに、いまもしばしば読み返すこの詩集の「理髪店にて」をここで、再び読むことにします。

『パウロウの鶴』は長谷川の第1詩集で、1957年に書肆ユリイカから出版されています。3部構成、50編あまりからなるこの詩集の第2部のまん中あたりにあります。

賢治は、私が生まれたときにはすでに偉人として伝記になった人。その、恐れ多くもある伝説を一枚ずつはがしながら読んでいかなければならないようなところがありました。

しかし長谷川は、まだまだ書き続けている現代を代表する詩人のひとりです。私にとっては、ちょうど父にあたる世代で、20年以上にわたって教えを受けてた師でもあります。

詩の中身に入る前に、ウィキペディアから「長谷川龍生」について整理しておきましょう。

【長谷川龍生】 はせがわ・りゅうせい。1928年(昭和3年)6月19日~。大阪文学学校校長。元日本現代詩人会会長(1997-2000年)。「歴程」同人

個人の内部にある素朴な意識を即物的かつ幻想的に表すことのできる異色の詩人として、18歳でデビュー。その幻想・妄想的な世界は時に難解ともとられるが、詩人の立場は貫徹しており、抒情のみに流されず真実を徹底して追究していく姿勢は、デビュー時より今日まで全く変わらない。

関係妄想を駆使した詩や、ドラマの中に動的なダイナミズムを感じさせる、この詩人ならではの作品を数多く書いている。その詩的世界は、常に知識をリニューアルし続ける非常にマメな姿勢にもみられる、すぐれた批評精神によって保たれている。

主な詩作方法として、自ら打ち出した「移動と転換」、「シュールドキュメンタリズム」を採用している。

大阪府大阪市船場出身。七人兄姉(五男二女。兄四人は夭折)の末っ子として誕生。 幼少の頃より失語症に陥る。母の死、父の失踪などを経て多感な青春時代を過ごす。

異常な読書家で、小学校を卒業する頃には夏目漱石全集などをすでに読破していたという。得意科目は数学。国語の成績は決して良くなかったという。

15歳頃から創作を始め、当初は小説家を志して作家の藤沢桓夫への弟子入りを試みるが、藤沢から「きみは詩のほうに向いている」と詩作を薦められ、そこで後に師となる小野十三郎と出会う。

その後、病身・貧窮など困難にあたりながらも勉学を続けるも大学進学は断念。全国各地をくまなく巡る放浪の旅に出る。

1948年浜田知章の個人雑誌「山河」に参加。その後50年「新日本文学会」に入会、52年には関根弘、菅原克己、黒田喜夫らの同人誌「列島」に参加、57年には第一詩集『パウロウの鶴』を書誌ユリイカの伊達得夫の尽力で世に送り出し、第8回H賞(現H氏賞)の次点となる。

58年には鮎川信夫、関根弘らの「現代詩」にて編集長を務める。60年には安部公房らと「記録芸術の会」を結成、詩人に留まらず多くの芸術家と交流を持った。特に花田清輝には多大な影響を受ける。この頃、安部公房に新宿の中華料理店に倉橋由美子と共に招かれ、後に安部の傑作『砂の女』のモチーフとなる話をする。

63年の冬から翌年の初春にかけて、日ソの作家交流を兼ねて初めての海外旅行でソ連各地(モスクワ、レニングラード、カリーニングラード、リガ、ミンスク、キエフなど)に3ヶ月ほど滞在。

この旅がきっかけでその後、世界各国を旅行(長谷川はこれを「遊行」という言葉をもって示す)するようになり、この頃から長谷川の作品の傾向は、急激に世界へと視線が注がれていく。

詩人としてのみならず、57年の処女作『パウロウの鶴』をもって電通専属のコピーライターに抜擢され働いていたこともある。また、東急エージェンシーの広告企画部長としても幅広く活躍した。とりわけコピーライティングにはその抜群のセンスが発揮された(クリスマス当日の新聞における「今日のサンタはパパだった」など)。

70年大阪万博では、サミー・デイヴィスJr.、マレーネ・ディートリッヒ、スヴャトスラフ・リヒテルなど、外国人ゲストのコーディネーターを務め、成功を収める。

その後、万博の終幕と共に会社を終われ、詩作に集中するようになるが、書き上げる詩は「(早くも戦後詩集の代表作ともなった)『パウロウの鶴』の自己模倣に過ぎない(飯島耕一)」と指摘されることもあり、苦難の日々が続いた。

40代を過ぎてもう一度「新人」として書き上げた、78年の『詩的生活』で第9回高見順賞受賞。 その後、アメリカやヨーロッパ、中東などを一人旅し続けながら、旅行時に世話になったあるフランス人女性をモデルにした『バルバラの夏』や、自身の怪奇体験をもとにした『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』などで、よりドラマティックな傾向を強めると共に、『知と愛と』、『泪が零れている時のあいだは』などでは、人間の純粋な精神志向を強く描き出していった。

02年には、13年の沈黙を破って『立眠』を刊行。その磨き抜かれた批評によって保たれる詩的世界はもはやどの詩人をしても手の届くものではなく、これをもって「現在における日本詩人の最高峰に立つ(平林敏彦)」と評価されている。(『立眠』は一度、その年度を代表する詩集に与えられる現代詩人賞の最有力候補として上げられたが、長谷川は辞退した)

映画『おくりびと』の原案となった『納棺夫日記』の著者青木新門にその本を書くきっかけを与えたのは長谷川である(『納棺夫日記』あとがきより)。

【著作】
『パウロウの鶴』(1957年 書肆ユリイカ H氏賞次点)
『虎』(1960年 飯塚書店)
『長谷川龍生詩集』(1967年 思潮社)
『現代詩論6』(1972年 晶文社 片桐ユズルとの共著)
『泉(ファンタン)という駅』(1975年 サンリオ出版)
『直感の抱擁』(1976年 思潮社)
『詩的生活』(1978年 思潮社 高見順賞受賞)
『バルバラの夏』(1980年 青土社)
『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』(1982年 造形社 画・赤瀬川原平)
『知と愛と』(1986年 思潮社 藤村記念歴程賞受賞)
『マドンナ・ブルーに席をあけて』(1989年 思潮社)
『泪が零れている時のあいだは』(1989年 思潮社)
『立眠』(2002年 思潮社 現代詩人賞受賞辞退)

2017年8月5日土曜日

日夏耿之介「太陽は世界を牽く」

  きょうは『転身の頌』の最期の詩「太陽は世界を牽く」です。

   太陽は世界を牽く

太陽は世界を牽(ひ)く
世に日蝕(につしよく)あり
かかる日の午後
片丘(かたをか)に攀(よ)ぢ登りて
地平の上に浮動する嗤笑(わらひ)を見む
恐らくもつとも聖くされどかすかなる
まことの笑ひを

若し夫れ裸蟲(らちゆう)たるあらば
赤くややすさみ肥(ふと)れる対斉(たいせい)を見
また怪綺なる
嬌媚の瞳に露じめる単純の騒音をきくべき歟
最後にかかる懐瑾(くわいきん)の火のひまびまにありて
ほとんど私語のごとき喘鳴の冷たさを感ず
すべてこれ心なり


「片丘」は、片方が低くなっている丘、または、丘の片側のこと。孤立した丘をいうこともあるようです。

「裸蟲」は、羽毛鱗介のない生物。人もそうです。

「懐瑾」は文字通りにみれば、胸中の固くて美しい玉。

「喘鳴」(ぜんめい)は呼吸のとき出るぜいぜい、ひゅうひゅうという音のことです。

   ◇

ここまで耿之介の『転身の頌』を、ざっと眺めてきましたが、これらのなんとも難解な詩を読み解く力は、いまの私にはありません。

それは将来への「宿題」としおき、ここでは耿之介のこの最初の詩集が、萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』と同じ1917年に刊行されていることに注目しておき、ひと区切りとしておきます。

2017年8月4日金曜日

日夏耿之介「金色のエロス」

 きょうは『転身の頌』から「金色のエロス」を読みます。3部に分かれています。

   金色のエロス

(一)黄金欣栄

ああ 斯(こ)の崇高(けだか)き民戯よ
哀憐の黄金帝座に雙(なら)びあり
謙仰にして至純なれば自然の繁殖部に溺没す
群りあひ低語(さざ)めき又俯仰するは賤人(まちびと)らなり
虚空たかく晴れわたり太陽とともに逍遥す
金色の浄光は必ずその環境を鍍金(めつき)せり
時ありて密雲ふかく帝座は金声を点ず
哀しく君臨しかつ嬉しみて高蹈せり
夫れ ものみなの情熱による更生は
燦爛(きらめ)く黄金の欣栄か

(二)黄金王

火燭(くわしよく)に火とぼして この日
危き夜の世界をとぶらはむ
すべてのものことぼとくその原容をとり失ひ
譬へば捕縛せられし犯罪美少人のごとし
わが紫磨黄金(しまわうごん)の火燭の光ひとり栄(は)えて
燦爛と凄壮と立ち坐(ゐ)ならぶ也
このとき軽く われ しはぶきするに
灯は樸直(ぼくちよく)に火(も)え 躍り かがみ
すべてのもの ひとしく明滅す

茂林(もりん)の深緑に黄金の征矢(そや)わけ入り
暗紫(こむらさき)の陰影(かげ)など梢に啼きしきり
病める流星は夙(と)く南天を航す也
わがこがねいろの洋燈(らむぷ)は暗夜を遍照し
こころたのしみ華奢なる網代車に憩へる
月はなく 星も今は亡(な)し
ああ、太陽をや

(三)黄金王景

緑濃き草原(くさはら)を奔(はし)る細川のうちに
月夜(げつや)なり
黄金色(わうごんじき)ひかりあまねき天人の亡骸(なきがら)泛ぶ

うら寂び 浄く澄める細流(ながれ)のひまを
やすらかに睡むる銀鱗のむれびとよ
水底の力に伴(つ)れて
老いたる水藻(すゐさう)の鬚(ひげ)いともかすかに顫ふ也
天人のかばね赫灼と光れり
甘き羞明はわが心を襲ふ

ああ 黄金(こがね)なす妹好のしかばね
いとおびただしきソプラアノの連続は
めぐみ裕(ゆた)かなる生(いき)の身の光被者ぞもよ


「欣栄」(きんえい)は、よろこびと光栄、よろこばしい光栄。

「逍遥」は、気ままにあちこちを歩き回ること。

「高蹈」には、身を高く清く処する意があります。

「紫磨黄金」は、紫色を帯びた純粋の黄金で、最も良質とされたもの。紫金。紫磨金。

「征矢」は、鋭い鏃(やじり)をつけた、戦闘に用いる矢のことをいいます。

「赫灼」(かくしゃく)は、ひかりかがやくさま。

「光被」は、光が広く行きわたること、君徳などが広く世の中に行きわたることをいいます。

2017年8月2日水曜日

日夏耿之介「三鞭酒」「房星」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   三鞭酒――又は流火の歌

良後(あたらよ)の天床(ふしど)に於ける片破星(かたわれぼし)は
夥しくこぼれし三鞭酒(しやんべんしゆ)の一滴にすぎず
微星(ぬかぼし)らの声音(こわね)を好む
神経質の笑ひにて
其存在を精密に高度に知覚すべければ
詼諧(くわいかい)よ 衝動よ 慟哭よ 歓呼よ
房心楽しみ快飲するとき
屡(しばしば)声高く叫ぶなり
快く目醒ましき凄壮の奇襲戦よ
醗酵せる焮衝(きんしよう)よ 跛足(はそく)の悲嘆よ 地上讃美よ
爾の小賢しき毛髪と
快く熟眠せる四肢と戯謔(ぎぎやく)好きの黒瞳とを嘉す
爾 何を思索するもよし喋言するも亦よし
いで黄金杯高くかかげ
われらが片破星らを頌(ことほ)がむ

   ◇

中国では3種類の動物の陰茎を漬けて、強精剤としての効果もあるとされる酒を「三鞭酒」(サンピエンチユウ)というそうですが、ここでいうのはシャンパンのことでしょう。すなわち、フランスのシャンパーニュ地方でつくられる、アルコール分13%前後の発泡性ブドウ酒です。

「片破」(かたわれ)は、かけら、細かいかけらの意。

「詼諧」(かいかい)は、こっけいな言動をしてふざけること。おどけ。諧謔(かいぎゃく)。

「焮衝」(きんしょう)は、からだの一局部が赤くはれて熱をもち、痛むこと、炎症。


   房星

房星(ばうせい) 遠流(をんる)にありて
黄金(こがね)の鈴さはやかに鳴らす也
われ 房星の彳みを見きはめて
みづからのたましひの蒙塵(もうぢん)を感ず
わが肌の細胞にいと鮮かなるその鈴の音(ね)よ
王者なれば われは美服(びふく)し
浄光肉身にして
かの貴金属の孤唱(こしやう)をきかむ
怪綺なる痙攣(けいれん) いまわが骨を埋没(うづめ)たり
房星らをして死なしめな
房星らをしてたのしましめな
ああ 孕(はら)みしわが心 疲れぬる

   ◇

「房星」は、二十八宿の房(ぼう)宿の和名。サソリ座の頭部の四星から成ります。

二十八宿というのは、黄道に沿う天空の部分に設けた二八の中国の星座。月がだいたい一日に一宿ずつ宿るところと考えられました。

各宿の間隔は等分というわけではありませんが、それぞれ規準になる星があります。房宿は二十八宿のひとつで、サソリ座の頭部の四星から成ります。

「蒙塵」は、もともと宮城の外に出て塵(ちり)をかぶる意で、変事に際し、天子が難を避けて宮城の外に逃れることをいいます。

2017年8月1日火曜日

日夏耿之介「春娃と万象」「愛の王者」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   春娃と万象

棕櫚の葉は高く掌(てのひら)を放(ひら)き
白樺の幹を褄(つま)かかげて並居(なみゐ)たり
おほどかに月のめぐる
宙空(そら)は碧玉の頸飾にして
山山呼吸(いき)はげしく地心よりの輪舞に狂へり
青き光を生絹(すずし)に鍍金(めつき)して
一人(いちにん)の阿嬌は若くあゆめど
その陰影(かげ)をよそにして何かありや

   ◇

「娃」の音読みは「アイ、ワ、ア、エ」など。美しい、美女、少女などの意味があります。「おほどか」は、おおらか、おっとり。

「棕櫚」は、ヤシ科の常緑高木。高さは5メートル以上になり、幹は直立し、枝がなく麻のような毛で覆われます。

「棕櫚の葉」=写真、wiki=は頂上に群生し、手のひら状で大きく長い柄をもちます。帽子、敷物、うちわなどの材料にも使われます。

「頸飾」(けいしょく)は、くびかざりのこと。

「阿嬌」(あきょう)の「阿」は親しみを表す語、「嬌」は漢の武帝の后の幼名で、美しい女性を意味します。


   愛の王者――又は螢感の歌

心は大気にはびこりみち
愛は運命のごとく出没す
婉美流火(えんびりうくわ)よ
爾(おんみ)ら 悉(ことごと)く光沢(つや)ある紅玉の類(たぐひ)にして
わが愛のあしどり速くもすぎ適(ゆ)かば
泡沫(うたかた)のごとく砕け散らむ
愛の王者のあゆみは軽く迅かに
廓(ひら)けゆく世界に火花咲きかつ散るべし

   ◇

「婉美」は、しとやかで美しいこと。

「流火」は、7月の異名でもあるようです。



「廓」には、城の外囲い、くるわといった意のほかに、がらんとして広い、広げるという意味もあります。

2017年7月31日月曜日

日夏耿之介「神学教授」「挨拶」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   神学教授

空気は春にぬるみ
雲しどけなく泪(なんだ)ぐみ
水流は環舞宴(くわんぶえん)にのぞみ
大いなる顔上天(じやうてん)に形(あらは)れて
神学教授の瞳まことに青し

   ◇

「神学」は宗教、特にキリスト教で、その教理を体系化し、信仰の正統性や真理性、さらに、その実践について研究する学問。ヨーロッパの大学で神学部は、最も古くからある学部の一つです。

「環」は、輪の形、めぐって端がないこと、一まわりまわる、めぐる、めぐらす、かこむこと。「環舞」という踊りがあるのでしょうか?。

「上天」には、そら、天、天上、天上界の中ですぐれている方の天などの意があります。


   挨拶

われ感ず
存(ながら)ふる積儲(もの)の挨拶を
わがこころの曠野に落日(いりひ)して
わが哀憐(あいれん)の花苑(はなぞの)にひと村雨(むらさめ)しければ
はたた神 世を領(しろ)し
雨後の清純こそ来りたれ
われ感ず
存ふる積儲の挨拶を

   ◇

「積儲」は、本来は「蓄(たくわ)える」という意味のようです。

「村雨」は、強く降ってすぐ止む雨のことをいいます。「群れた雨」の意で、群雨、叢雨とも書きます。歌川広重の「東海道五十三次/庄野・白雨」=写真、wiki=の白雨も村雨のこと。



「はたた神」は、はたたく神の意味で、激しい雷を指します。夏の季語で、たとえば山口青邨に「はたた神下りきて屋根の草さわぐ」という句があります。

2017年7月30日日曜日

日夏耿之介「伝説の朝」「痴情小曲」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   伝説の朝

古伝の春の朝まだき
あまた郡民のまづ臥し匿れて
血汐吐く玉冠も
顔色(いろ)蒼白めし古塔の破風(はふ)も
姦妊の宵の内扉(うちど)も
石級下に泪(なんだ)さしぐむ処女林も
すべて心暖かき春の日の光うれしみ興じ
浪漫底格(ろまんちく)の絹衣 古雅のうち被(かづ)き
悠久の姿力(すがた)あり 現界(ここ)にあらはる
かかる祈り
樹の間に来啼く紅樹歌童(うぐひす)の
いと快くいと婉雅なる
されどまた弾力ある顫音(せんおん)を心に聴く歟
烏乎(ああ) 伝統の美と
美より生れし異(あや)しき生命(いのち)とを讃美す

   ◇

「破風」=写真、wiki=は、東アジアに広く分布する屋根の妻側の造形のこと。もともと切妻造、入母屋造の屋根の妻側部分を広く示す名称です。

屋根の平側に、ドーマーのようにあえて部分的に切妻造の屋根をつけ、破風として屋根装飾を施す例が日本の神社や城郭建築に見られます。

「石級」は、石の階段、石段のこと。「この石級は羅馬(ローマ)の乞児(かたい)の集まるところなり」(鴎外訳「即興詩人」)

「処女林」とは、自然のままの森林、原生林のことです。


   痴情小曲

春のあしたの日も寒く
沈沈とものみな黙(もだ)す牢獄(らうごく)の
窓に靠(よ)り青き爪喰(つめは)む囚人(めしうど)か

真昼の街の片かげに
ちやるめらの音(ね)を在りし日に忍(しの)びては
白足袋(しろたび)の穢(よご)れも厭ふ売女かな

ながれて澱(よど)む悪水(あくすゐ)の
濁臭(だくしう)に白宵(ゆふべ)の唄をながめては
身の末を嘆(かこ)ち顔なる船子(ふなこ)かな

梵音(ぼんのう)みだる僧院の
内陣にかげとぼとぼと燃えかがむ
黄蠟(くわうらふ)のひびきを愛(め)でむ朽尼(くちあま)か

日は沈み
月出(い)でにけり

     ◇

「靠」には、寄りかかる、もたれる、という意味があります。

「船子」は、船長の指揮下にある人、水夫、船方。土佐日記に「楫取り、船子どもにいはく」とあります。

「梵音」は、五種清浄の音を発するという、梵天の王の声。読経や仏教の音楽の意で使われることもあります。



「黄蠟」は、蜜蜂から分泌され、蜜蜂の巣の主成分をなす蠟のことです。

2017年7月29日土曜日

日夏耿之介「園囿閑春」「悲劇役者の春の夜」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   園囿閑春

夜半の村雨小心の忍び足にうち過ぎぬ
哀思に濡れ霑(そぼ)ちたる花苑(はなぞの)の央(もなか)にありて
閑暇は過去(こしかた)を孕(はら)みつ現当(げんたう)の夢に仮睡し
月は追憶に蝕ばまれて色青く嘆嗟(なげかひ)す也
わが幻人(げんじん) かかる折りしも悲しく
いと古風なる寝衣紅(あけ)に艶めかしく
白鞣(しろなめし)の小靴(をぐつ)なめらかに履き鳴らし
青き夜帽(ナイト・キヤツプ)前飾りおどろおどろしき
かの紫夢(むらさきのゆめ)に鍍金(めつき)せられ現出(あらは)るめり
幻人の声 琳璆(りんきう)と黄金(きん)に光り音し
地の黒影(こくえい) 鬱悒(うついふ)のバス咳(しはぶ)きすれば
遙か彼方の街角(がいかく)より風狂者の銀笛響き来り
悠長なる行潦(にはたづみ)に宣叙調(せんじよてう)の点線奔(ほとば)しりいでて
夜半の雨有(また)もや一切(しき)り閑談に耽りゆく覩(み)ゆ

   ◇

「囿」(ゆう)はもともと鳥獣を放し飼いにするという意で、「園囿」は草木を植え、鳥や獣を飼うところをいいます。

「現当」は、仏語で、現世と来世。この世とあの世。現未。げとう、とも言います。

「白鞣」は、色染めをしてないなめしがわ。

「幻人」とは、ふつう人の目をくらます術を使う人のことをいいます。妖術、忍術、魔法、奇術、手品などを含みます。もともと西域に起こったもので、唐を通じて伝来、天平時代にはかなり盛んになっていたようです。

「琳璆」は、玉がふれあって鳴るすがすがしい音、あるいは水のさわやかな音の形容として用いられます。

「鬱悒」は、心配事などがあり、心がふさがることをいいます。

宣叙調は、レチタティーヴォ、叙唱のことでしょう。オペラ、オラトリオ、受難曲、カンタータなどでみられる形式で、歌というよりも朗読のように歌われます。

 「その天然の美音もて、百錬千磨したる抑揚をその宣叙調(レチタチイヲオ)の上にあらはしつ」(鴎外「即興詩人」)


   悲劇役者の春の夜

道化たる古雅の衣(きぬ)まとへる悲劇役者のひと群は
春の夜の雨の巷をさざめきて縫ふ
人間の命より溢れ出でし膩(あぶら)とかせし春の雨
青く愁ひ怡びに痩せ 白脛顫動(しろはぎをののか)す女等を矚(み)よ
また 頬赤き美少人(びせうじん)の疾走哉
美興(びきよう) すべて春空(そら)より降(くだ)り 快感 地(つち)に湧く歟
巷巷に灯(ともしび)笑ひ
飾窓 銀にざんざめけば
甃石(しきいし)のアスファルトもバスす也
心煕(こころたの)しきこの宵を
道化たる悲劇役者の一群が
ぞめきの姿湮(さ)えゆけば
古き世の笛吹き奏(なら)し
若き按摩(あんま)も踊り出づ
鬚白(ひげしろ)き哲学教授が皺だめる額に刻む
索迷の苦茗(くめい)醍醐味
巷巷に怡悦(よろこび)あふれ
生活は街頭に海波を逶迀(うね)る

   ◇

「膩」には、脂っこい、しつこい、飽き飽きする、うんざりだ、ねばねばする、細かい、垢(あか)などの意があるようです。

「巷」には、人が大ぜい集まっている賑やかな通り、町中といった意味のほかに、道の分かれる所、分かれ道、岐路という意もあります。

「ぞめき」は、浮かれさわぐこと。遊郭や夜店などをひやかしながら歩くこと。

「湮」の音読みは、「イン」。うずもれて、跡形もなくなることをいいます。

「苦茗」は、苦い茶、質の悪い茶。

仏教では、牛や羊の乳の精製過程を、乳味、酪味、生酥味(しょうそみ)、熟酥味、醍醐味の五段階の味で表わします。

このうち「醍醐味」は、精製の段階を経て美味となった最高級の風味や乳製品を指し、このことから物事の真のおもしろさや仏教での衆生に例えられることもあります。

*写真は「ハドリアヌス帝のヴィッラのモザイクに描かれた悲劇と喜劇用の仮面(wiki)

2017年7月28日金曜日

日夏耿之介「古風な月」「聖痕」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   古風な月

泪(なんだ)にみてる無際涯の気海を
漕ぎゆくは ぴかぴかとひかる
もの古りし鍬形兜に前飾られし
三日月のごとき夫(か)の光の快艇(ヨット)なり
風 天心より吹きいでて
岡と森とその緑を環(めぐ)る掘割と
掘割に泛ぶ難破せし笹舟と
夜警の巡邏(じゆんら)のごとく彳(た)ち睡れる煙突と
天主公教会の堂母の破風(はふ)とを
揺曳ある迷景に顫動せしむるとき
(こは雨をふくみて黙せる卯月の夜なり)
われは なにとはなくも固定表情の
神楽舞に用ゆる滑稽にして神厳なるべき
翁面(おきなめん)の抽象凝視を想ふ
こころ このとき歩みを歇(とど)め
たよりなき小乗の感傷性に殉死せむとし
ひたすらに肉情の奔躍を蔑視しつつ
絶望を育める更生者のありて
月蝕の夜の十字街に索迷せるさまに
また かの蘇生(よみが)へりしモナ・リイザの幻に眼(まなこ)釘打たれて
くごもりつ くごもりつ
巌間(いはま)を迸(ほとば)しる小泉の爆声は
息つまり からくも叫ぶ也
ああ 古風なる月よと

   ◇

この詩の入った「古風の月」という節のタイトルには「ユピテルは、恒に、サツルヌスの胃を免れる。――アルテュル・ゴビノオ『文芸復興』第二版序」という但し書きがあります。

「鍬形」は、鍬をかたどったところから、「兜」(かぶと)の前部につけて威厳を添える一種の前立物をいいます。時代劇などでよく見かけるように、金属や練り革で作った2本の板を、眉庇につけた台に挿して角のように立てたもので、長鍬形、大鍬形、獅噛(しがみ)鍬形、三つ鍬形などの種類があるそうです。

「天主公教会」は、ローマ-カトリック教会の明治・大正期の呼び名です。公教会とも略されます。

「顫動」は、小刻みにふるえ動くこと。

「神楽舞」(かぐらまい)は、神前で奏する、日本古来の舞い。


   聖痕

かかる宵
熱疫(や)める満月はあまた磋嘆(さたん)し
星どもことごとく嘲笑せり
心忙しく茂林を漫歩(そぞろあ)りきつつ
わが哀傷の聖痕(すてぐまた)を凝視(みつ)めたり
また われは如何なる物欲に心牽かれざるべし
この地球のきしめき自転(めぐ)るにつれても
素秋(あき) 中空にはびこりつ
まま 冷たき夜風這ひ蟠居(わだか)まりぬ
わびしき限りなければ
白く暖き寛衣(がうん)に この身ふかく匿(かく)れ
いづくの里に赴くならむ
たえず つぶやきて
ああ『月魄(つき)は涓(なが)れぬ』と

   ◇

「磋嘆」はなげくこと、あるいは感心してほめるという意味。嘆息磋嘆ということばもあります。

「蟠居」(ばんきょ)は、根を張って動かないこと、わだかまること。その地方一帯に勢力を張っていることをいいます。

「寛衣」(かんい)は、ゆったりと大きく仕立てた着物のことで、ここではガウンをイメージさせています。



「涓」は、音読みだと「ケン」。小さい流れ、水のしずく、わずか、きよめる、などの意があります。

2017年7月27日木曜日

日夏耿之介「涙を喰ふ者」「火の寵人」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   涙を喰ふ者

透明清純にして 味甘(あぢあひうま)く かつ にがし
白宵(ゆふべ)白宵にあまたの涙を喰(くら)はなむ
かつて数おほく薄明舞台をよろめき歩める者
いま明るき洋燈(らむぷ)とともに夜を奔らなむ
薄暮(くれがた)の草原(くさはら)に戯(たはむ)る処子らは
生命(いのち)とともにいそしみて
いそいそとその泪(なんだ)を捧ぐ也
捧げもの小胸(こむね)にみたば
愛は跣足して生活を踏みしだき
常春楽土きたるなるべし
頽唐を課税し 絶望を負債せしむる
淫蕩世界を泛み出でて
狂ひたまむるる
あまた そこらなる
あまたの涙(なんだ)を喰ふ者

   ◇

「処子」は、未婚の女性、おとめ、処女の意の他、処士すなわち民間にあって、仕官しない人を言うこともあります。

「跣足」は、はだし、すあし。

「頽唐」は、勢いが衰え、くずれ落ちること。健全な思想が衰え、不健全な傾向に進んでいくようすをいいます。

「淫蕩」のほうは、酒色にふけってだらしがないことです。


   火の寵人

惟(これ)を嗜む千万冠子蟲(かんしちゆう)を その嗟嘆(なげかひ)を
破灌子(はくわんし)等肥満(ふと)り弾力ある裸身(はだかみ)にして
牡豹(をへう)の如く白日の青床に横る時
肉障の各処より汗と発散する異風の香に咽ぶ
其柔く粘気ある真白き蹠(あなうら)に呂(べえぜ)せん歟
かの放肆なる笑ひを綴る
腓脛(こむらはぎ)の輝く感触に眩暈す
凡そ髪毛の洒落(しやらく)なる刺衝心理の落付たる享感を喜(この)む
あらゆる内気なる皮膚の羞める恍惚の繊美に傾倒す
此等感覚性蠱惑(こわく)の法悦よ
更に更にこれらなに者よりも
希くば 神よ 神よ
崇(けだか)く健康にして叡智夥しき妙人の
艶ある雙頬(さうけふ)の通路を下る白光真珠の一群を搾取せしめよ
涙(なんだ)の中心にて感ずるは悉皆(しつかい)世界の好色横断面也
そのいとをかしき重積なり
宝石鉱の燦爛(さんらん)ある至高情緒の心ゆく顫音也
六月月夜(げつや)の燐光ある耽楽(たんらく)の抽象的内在美也
想像(おもふ)は
白く冷き星涙に濡れそぼてる丹朱花の生香ある花弁に呂する。
健かなる紅顔子の黒瞳(こくとう)より
自然(おのづから)に奔(ほとばし)り出る白熱の水液也
視よ 覩よ
かかる玉瑶大地に落ち散り
力あれど青さめし炎(ほむら)と火(も)え昌(さか)るを
今全世界を死力にて我心臓を重圧すと夢見たり
然れども常にかかる涙(なんだ)の酵出する火によりて
酷愛せらるるを喜ぶもの我也
火よ! 火よ!

   ◇

この詩には「ひと日日光の熱を楽しむ老いさらばひたる檞樹の下にて歌へる歌」との前書きがあります。

「寵人」は、ちょうにん、または、ちょうじんと読み、愛している人のことです。

「冠子」は、鶏のとさかの意味とか。

「肉障」は、唐の楊国忠が多くの美女を周囲に並べて、寒さ防ぎの屏風がわりにした故事のこと。肉屏風、肉陣。

「悉皆」は、ふつうは、残らず、すっかり、全部の意で用いられます。

「紅顔」は、年若い男の血色がよくて皮膚につやがある顔の意ですが、古くは美しい婦人の容貌にも用いたそうです。

2017年7月26日水曜日

日夏耿之介「うるわしき傀儡なれど」「翫賞」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   うるわしき傀儡なれど

うるはしき傀儡なれど
みにくかる生存なれど
わが右手(めて)の脈搏を相応(ふさは)く乱調せしめ
わが小むねの赤き血汐を溷濁(こんだく)せしめ
わが青春の光ある肌膚(きふ)を窘蹙(きんしゆく)せしめ
つひにわが肉体より
力と美とを駆り落し
すべて
まことわが心を圧死せしむ

うるはしき傀儡なれど

   ◇

「溷濁」は、混濁と同義で、いろいろなものがまじってにごる、といった意味がありますが、「溷」は、川の流れの上に作った小屋の意からか、「かわや」とも読まれます。

「傀儡政権」などといわれますが、「傀儡」は、あやつり人形、くぐつ、でくのこと。また、自分の意志や主義を表さず、他人の言いなりに動いて利用されている者のことをいいます。

「窘蹙」は、すくむ、ちぢまる状態。



   翫賞

われ旃(これ)を嗜む
この婉美(えんび)なる無思念とその弾力ある激感と
戯謔(ぎぎやく)好きなる鮮血を珍蔵する腿肚(こむら)と
かなたこなたなる自由なる表皮の磁力と温度とを
旃によりて涙感するは
呂(べえぜ)によりて出産する法悦と
抱擁の醗酵する解脱と
電光のごとき人間神化の痙攣のすべて也
されど ああ 夙く小夜の出牕を闔(と)ぢて
かの紅法衣よりほの瞥ゆる
旃が内なる世界をしていと熟睡(うまい)せしめよ

   ◇

「翫賞」は、風景・美術品などを味わい楽しむこと、鑑賞。

「戯謔」(ぎぎゃく)は、たわむれ、おどけ。「こは、固 (もと) より戯謔に過ぎざりき」(鴎外訳「即興詩人」)

中国語では、ふくらはぎのことを「小腿肚子」というようです。

「呂」(りょ)は、中国や日本の音楽理論用語で、中国では、12律のうち偶数番目にあって陰性をもつと考えられていた6個の律をいいます。日本では雅楽や声明の音階の1つを意味します。

2017年7月25日火曜日

日夏耿之介「坂路に於ける感触」「白き足」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   坂路に於ける感触

日は 黄色(わうじき)に膿み爛(ただ)れ世界(よ)に腹這ひ
凡て物象は三稜形灰白の墳墓を築く

わが肉は青白き衰耗面紗(すゐもうめんさ)に臥し隠れて
わが心は裂傷の神経性疼痛に戦きけり
しかれどもわが便乗の街上電車のみは
限りなく凄まじき偏盲の惰力に奔馳(ほんち)す

その警鈴(べる)は 紅き点線の誇張ある継続にして
車台は海嘯の相(かたち)して今坂路(はんろ)を溢れ下らむとす
不思議なる法悦はかの春潮の若(ごと)くはやく
悪運の前知に慄(わなな)くわが胸の小函をみせたり

わが心はかの若く美しき阿嬢子が
天鵞絨(びろうど)の繊巧ある水落の周辺なり

   ◇

「衰耗」衰え弱ること。

「面紗」はベール、「黒色の長い面紗をかぶり」(永井荷風「ふらんす物語」)。

「海嘯」は、海鳴り、あるいは満潮のとき、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になって砕けながら川上に進む現象をいいます。

「阿嬢子」は、「お嬢さん」ということでしょうか。


   白き足

人人は木彫の静止を保ち
小景の両側(りやうそく)に群り集ふ

急行列車のひと列(つら)は
心みち気驕れる青年侍従が
ことさらなる厳峻の威容以て
いづくよりか奔り来りぬ

年老いし踏切番は
冷殺の微笑とともに
把手を手にとり持ちつつ
若き犯婦の白き足を
淡紅の半霄(なかそら)高くささげたり
されど列車は 躁狂者の悲鳴を放ち
いち早くその常軌により逸し去りぬ
踏切番の老人は私語しつつその静居にかくれ
人人はその硬直を自ら解きていま蠢動す

   ◇

「把手」(はしゅ)は、手に握る部分、取っ手のこと。

「躁狂者」は、ある事に非常に熱中している人、マニア、神がかり、気違い、といった意味があります。

「蠢動」(しゅんどう)は、虫などがうごめくこと、物がもぞもぞ動くこと。「不満分子が蠢動している」などと、つまらないもの、力のないものなどが騒ぎ動くことに使います。

2017年7月24日月曜日

日夏耿之介「漂泊」「遊民序歌」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   漂泊

「女性」と呼べる声あり
さながら凱歌のごとく世界(よ)に満つ
他は野犬の徒らに吠え続くるあるのみ
星は眼(まなこ)血走りて切(しき)りに星座を離れ
地は息づかひ激しく脈搏(みやくう)てり
ひたすらに 風吹(ふ)き浪あれ
あまつさへ 黄金(こがね) 山に吹き出で
白銀(しろがね) 谿(たに)に流れいでたるさへあるに
いま われ何地(いづち)いづくに漂泊(さま)よふらむか

   ◇

「漂泊」は、流れただよう、所を定めずさまよい歩く、さすらうこと、流浪。

「あまつさへ」は、「あまっさへ」の「っ」を、促音でなく読んでできた語で、別の物事や状況が、さらに加わるさま。特に悪い事柄が重なるときに多く用いられます。

「何地(いづち)」は、どこ、どの方向。方向や場所についていう不定称の指示代名詞。平家物語に「おのれはとうとう、女なれば、いづちへも行け」とあります。「いづく」も、どこ、どちらといった意で、同じく平家物語には「薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん」などとあります。


   遊民序歌

心つねにたはむる
 ――人かく云へり われもまたかく信ず――
偉(おほ)いなるたはむれよ
触手ある飛躍よ
飢者の餌(ゑば)を漁るがごとき
少人(せうじん)の春に憧がるるがごとき
警吏の自動車に轢殺せらるるがごとき
航空機の時ありて墜落するがごとき
おごそかなる確性(かくせい)の実事にして
崇(たふと)ぶべき真理のかげなり

すべて戯れは道義の一也

   ◇

「触手」というのは、主に無脊椎動物の、頭や口の周囲から伸びる柔らかい突出部分=写真、wiki=のことをいいます。感覚細胞が多く分布し、触覚や捕食の働きをします。

「轢殺」は、電車や自動車などの車輪でひき殺すこと。

「実事」(じつごと)は、一般には、真実であること、真剣であること。歌舞伎では、判断力を備え、人格的にすぐれた人物の精神や行動を写実的に表現する演技のことをいいます。

2017年7月23日日曜日

日夏耿之介「伶人の朝」「青き神」

 きょうも詩集『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   伶人の朝

山門は四十歳の去勢者のごとき
その風貌と足踏みとをもて聳(そそ)り立てり
格天井に浮彫彩画ありて
十二匹の畜類は夫(か)のあらゆる奇蹟のごとく
単なる冷嘲(れいてう)をもて俯瞰す也
時は秋晴の朝(あした)なりき
若き伶人(れいじん)は小琴(をごと)掻き鳴らしつつ
その驕慢の一路を歩みきたれり
跫音(きようおん)は快き中音(アルト)に高く波打てり
この時丘の公孫樹(いてふ)は風なくて
金色の朽葉を振ひ落せしが
葉は太陽にきらめきわたり
白金の鴎を空気中に踊れりしか
伶人は歩みをとどめ得ざる也
その瞳は堂母の冷厳(れいごん)と伝統美とに
焼きつけられしもののごとくに爾(しか)くありき
斯(かか)る冒険の後脱出なせしこの人に
外光ふたたびかの奢侈なる美服を照し出(いで)しとき
門内の一隅に偃曝(ひなたぼこ)りしてただ仮睡せる
偏盲の女乞丐(をんなかたゐ)は何事か夢語をなせりき
朝(あさ)はきはめて寂寞なりき

   ◇

「冷嘲」は、冷ややかにあざけり笑うこと。

「伶人」は、雅楽を演奏する人=写真、wiki=、楽人、楽師。1870(明治3)年に太政官に置かれた雅楽局の楽人につけられた名称でもあります。

「偃」は、のいふす、あおむけに寝る、倒れ伏す。

「偏盲」は、片方の目が見えないこと。両目の大きさが著しく異なる人をいうこともあります。

「乞丐」は、こじき、ものもらい、物知らず、ばか者の意。


   青き神

ある夜寒―歌亡き宵(よ)也
嗤(あざわ)らふかの遊星の隙間(あひまあひま)を 閑閑と
わが世に来航(きた)る青き神神をわれ観たり
神の眼(まなこ)は 腐魚の臭ひを放ち
跫音(あしおと)は突風のごとく黝(かぐろ)き積雲を蹴上げつつ

窓に坐凭(ゐよ)り 限りなく愁ひ啼けば
神かたはらに彳みし

わが脈搏は 靭(つよ)く最高度に大波打ち
雪白(しろ)き肌膚(はだへ)のおのおのは
鋭(と)き夜の空気に軋(きし)みて
火を発(はな)たむとす

響なく色なく香なきいく刻に
この逢遭(はうさう)は人間の言の葉をも亡(な)みしたり
わが庭の小鳥のむれは気敏(けさと)くして
僅か七分の後に閑閑と遠離(とほざ)かりゆく神神のかげを睹(み)しか

音立てて燃ゆる空気と
狂ほしく叫ぶ大地と
かの仮睡に落ちゆかむとする昊天(おほぞら)の下(もと)にあり
啾啾(しうしう)と愁ひ泣き且跼蹐(きよくせき)する小さき我がかげを瞥(み)て
小鳥らの私語(さざ)めくを感ず也

   ◇

「凭」は」、もたれるという意。ここでは、窓にもたれているということでしょう。

「逢遭」は、めぐりあうこと、出会い。

「啾啾」は、小声でしくしくと泣くさま。



「跼蹐」は、跼天蹐地(きょくてんせきち)の略。高い天の下でからだを縮め、厚い大地の上を抜き足で歩く意。肩身がせまく、世間に気兼ねしながら暮らすこと、ひどくつつしみ恐れることをいいます。

2017年7月22日土曜日

日夏耿之介「黒瞳」「照る日の下に」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   黒瞳

燭(そく)の灯をとれ
灯は憤怒(いか)りて いくたびか乱舞したれば
火逝かば
寂莫(じやくばく)の夜の暗黒(やみ)の黒瞳(ひとみ)をみとれ
闇は 性急につぶやけり
暗黒は眼(まなこ)をしばだたけり
爾(なんぢ)は闇より生るる嗤笑を聆(き)きしか

   ◇

「寂莫」は、じゃくまく、とも読んで、寂しいほど、ひっそりしているさまをいいます。

「嗤笑」(ししょう)は、あざけり笑うこと、嘲笑。「此言を聞く者、咸(みな)予を嗤笑して以て狂と為し」(幸田露伴「運命」)


   照る日の下に

照る日の下に 暗黒世界あり
裸身(はだかみ)にして 人人奔(わし)り狂ふ
男あり女もまた在り
緘黙(かんもく)は世界に咳(しはぶき)す
わが右手(めて)を翻せば
人人俯仰(ふぎやう)して仆る
たとへば砂丘の上に横死する魚類の若(ごと)し
人人笑ひ泣き且つ怒る
私語するもあり
押しなべて一顫音(せんおん)を引くのみ
わが弓手(ゆんで)を振れば
轟(とどろ)きありて地は乾割(ひわ)れ
人人悉く没落し去る
懸念に勝(た)へざる也

   ◇

「緘黙」(かんもく)は、原因によらず、明瞭な言語反応が欠如した状態を指します。

「仆る」は、「たうる」。「たおれる」の文語形、倒る、殪る、斃る、とも書きます。

「顫音」は装飾音の一種トリルのことで、ある音と、それより二度上または下の音とをかわるがわる素早く鳴らします。

「弓手」は、弓を持つほうの手、左の手をいいます。

2017年7月21日金曜日

日夏耿之介「寂寥」「神領追憶記」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   寂寥

身を抱擁(だき)しめる秋の沙(いさご)
白くひかる
波の穂がしら
たはむれ遊ぶ異民の女(をみな)らよ
心は塩垂れ ためらひがちに
身は弱く生命(いのち)の息を圧(お)して
ああ 心寥(さび)し
漁人(ぎょじん)よ 白鴎(はくおう)よ 若き散策者らよ
大地も秋に 覚醒(めざ)め
海光のみかぎりもなく
日を孕(はら)みて蕩揺(たうよう)する海辺に

   ◇

「塩垂れ」は、みすぼらしいようすになる、元気がないように見えること。「しょぼしょぼと塩垂れた姿で帰って来る」(花袋「田舎教師」)。

「白鴎」は、全身白色で全長73センチほどある大型のカモメ。北極圏で繁殖し、冬鳥として北日本の沿岸でみられます。

「蕩揺」は、ゆり動かすこと、ゆれ動くこと。「春は何時しか私の心を―し始めたのである」(漱石「硝子戸の中」)


   神領追憶記

わが神を
かの幻惑と威力と抱擁との
凄まじき統一者の神領をわれ想ふ

黔首(まちびと) あまた住みあひて
定業(さだめ)られたる小事業いそしみぬ
われも亦心狂へるみそさざいのごとく
翔(と)びかつ舞へり
ひと日虚空に颱風の羽ばたきありて
神苑の長者天降(あも)りたまひぬ
形相(かたち)なく色調(いろ)とてなし
況(ま)してその道(ことば)をや
怕(おそ)れ慄へる心の上にわれはただ響を感ず
かくて畢(つひ)に凄惨だるかの末日は来りにけり
その夕(ゆふべ)あまた人の子おとしめられつ
そは悉く盲目(めし)ひたる牧人なりき
黔首はいと自誇(ほこ)れる悲鳴を放ちあひ
居残れる男 女と袂別(わか)れゆきぬ
ただ一人 裸形女人は発狂の発作著しく
『とどめたまへ』と繰り返し繰り返し
人人のあはひを縫ひぬ

いく人かおとしめられし
いく人か居のこれりしを
忘却(しら)ず ただ懐(おも)ふ
偉(おほい)なる野のわが神なつかしく
怕ろしき神領の白宵(ゆふべ)白宵を

   ◇

「神領」は、神社の領地、社領をいいます。明治維新以前、全国の神社にその運営の経済的基盤等のため、神地、神田、神戸、神郡、御厨、御園、朱印地、黒印地などとよばれる地があり、神社がそこを管理して収入を得、ときにその地の行政権、司法権ももっていました。

「黔首」(けんしゅ)は、むかし中国で庶民はかぶりものをせず黒髪を出していたことから、人民、庶民の意。

「怕れ」は、(神を)おそれ多く思うこと。

2017年7月20日木曜日

日夏耿之介「堕ちきたる女性」「野心ある咳」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   堕ちきたる女性

昏黒(くらやみ)の霄(そら)たかきより 裸形(らぎやう)の女性(をんな)堕ちきたる
緑髪(かみ)微風(そよかぜ)にみだれ
雙手(もろて)は大地をゆびさす
劫初(ごふしよ)の古代(むかし)よりいままで 恒に堕ちゆくか
一瞬のわが幻覚(まぼろし)か
知らず 暁(あけ)の星どもは顔青ざめて
性急に嘲笑(あざわ)らふのみ

   ◇

「昏黒」は、ふつうは「こんこく」と読んで、日が暮れて暗くなること、日没のことをいいます。

「霄」は、大空、はるかな天。

「劫初」は、仏語で、この世の初めのことをいいます。


   野心ある咳

心 孤(ひと)つ身
たまたま泪(なんだ)に浴(ゆあ)みしけり
慄(ふる)へ揺くさまざまの血脈よ
聖(きよ)き刹那の法悦に色青さめし生命(いのち)の貌(おもわ)よ
もの哀しき前(さき)の世のまぼろしよ
ああ 野心ある咳(しはぶき)の音(ね)よ

   ◇

「揺く」(あよ・く)は、ゆらぐ、ゆれることです。「群玉 (むらたま) の枢 (くる) に釘刺し固めとし妹が心は揺くなめかも」(万葉集、4390)



「刹那」はもともと、仏教でいう時間の最小単位で、一つの意識の起こる時間をいいます。『正法眼蔵』には、「一弾指の間に六十五の刹那ありて」と、1回指を弾く間に65の刹那があるとされます。

2017年7月19日水曜日

日夏耿之介「海底世界」「憤怒」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   海底世界

青き水面(みなも)を透(すか)して
日はほの赤くさせり

魚鱗(ぎよりん)のむれ 乱れ擾(さや)ぎて
海草の隙(あはひ)に匿れ しばしば
雑色(ざつしき)の埃及(えじぷと)模様を織りなせしかば
なかば錆びたる沈没船の砕片は
黒色(こくしよく)砂山のいただきに金字塔を築きたり
水死者の蹠(あなうら)たかきよりきたる

魚鱗のむれみだれさやぎ いま
若き新来者(まらうど)を相抱擁(いだき)たり
覩(み)よ ここにして不思議なる観念(こころ)の裡(うち)に
青ざめし死者の笑顔を
死者は踊れる也 狂へる也
魚は魚とむすび 貝は貝とむすび
悪(ああ) 人と人は相接すなり

まとゐは尽きねど
水死の人 人魚と化(な)り
砕片は塔をなす
滄溟(おほわだ)の底(そこひ)にして
人すべて鱗族(りんぞく)たるをえうす

ああ 日はほの赤くこの世界を訪るる

   ◇

「魚鱗」は、文字通りに読めば、うろこのことですが、うお、さかな、そのものを指すこともあります。また、兵法で、魚のうろこの形のように、中央部を突出させて人の字形に配置した陣形をいうこともあります。

「蹠」は、あしうら、あしのうら。

「滄溟」は、青海原。

「鱗族」は、うろこのある動物、魚類のことです。


   憤怒

白金の烈夏の熱砂の街頭に
緑髪のもの仆れたり
心敏(こころさと)き風とく砂礫を運び来て
物静けき埋葬に忙(いそ)げば
勇敢なる雄蟻はために行潦(にはたづみ)に憤死せり
ひそやかに含羞草(おじぎさう)の青さめし表情に心そそげ
愛すべきくさかげろふの狂舞歇みはて
疲憊(ひはい)に頭(かうべ)うなだれし雑草の小陰に
われは重傷せる地蜂の盲目(めしひ)たる歓語を聆(き)く
毀(こぼ)たれし舶来玩具の各(おのおの)に痴呆対話あり
燃えはてし葉巻の頑迷(かたくな)なる怨声(ゑんせい)を聆くや
女人の屍(しかばね)にも日光の顫音(せんおん)あり
噫(ああ) 黽勉(びんべん)なる日のひかりの営みを覩(み)よ
屍(しかばね)は神に還元(かへ)りゆく也
かかる自然の各部につきて観察せよ
午後の街上に憤怒はわが心情(こころ)を拊(う)つ

   ◇

「行潦」は、雨が降って、地上にたまり流れる水のこと。

「疲憊」は、動けないほどに疲れること、疲れ弱ること。

「聆く」は、きく、さとる、と読んで、聞く、悟る、了解するといった意味があります。

「黽勉」は、つとめはげむこと、精を出すこと、里見弴の「今年竹」に「黽勉よく努めて忽ち世の認むるところとなった」とあります。

2017年7月18日火曜日

日夏耿之介「さかしき星」「闇の化怪」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   さかしき星

すさまじき滄溟(おほわだ)に泛(うか)び漂ふ
小(ち)さく醜く古風なるわれに
さかしき星の青く淋しく揺れ揺れて
波間に泛き沈むをややながめてあれば
生命(いのち)はじじと燃え下(さが)り
水沫(うたかた)ふかく消え亡びむとおぼゆ
かかる淋しき星の稟性(こころ)よ
畏れ崇(たふと)び恋ひしたふはわれなり

   ◇

「うたかた」というと普通は「泡沫」という字を使いますが、ここではふつう「みなわ」と読む「水沫」。もともと「みなあわ」の音変化で、こちらも水のあわ、はかないことのたとえに使われます。

「滄溟」は、ふつうは「そうめい」と読んで、あおく広い海、青海原のこと。

「稟性」は、「ひんせい」、生まれつきの性質、天性の意です。


   闇の化怪

化怪(けくわい)は光れり
土蛍(つちほたる)のごとし
化怪は夥し 尽きざる也
あらゆる夢を産卵しつつ
闇の徂徠(ゆきか)ふこの夜(よる)をあゆめり
悲嘆するは何人ぞ
夜を誰何(すゐか)するあるは何人ぞ
悪(ああ) 化怪は世にみちみちわたれり
われは何故にかく夜を安臥しうるか

   ◇

「怪」とは化け物、変化(へんげ)、もののけ。

オーストラリアの洞窟などにいる、幼虫が青白い光を発するヒカリキノコバエという昆虫が「土蛍」として知られています。日本で土蛍というと、ホタル類の幼虫=写真、wiki=、中でもマドボタルの幼虫を指すことが多いようです。

2017年7月17日月曜日

日夏耿之介「抒情即興」「かげ」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   抒情即興

あたたかい日 あかるい日
この晴れた秋空高い由比ケ浜
沙(いさご)の上に臥(ふ)しまろぶ
身は熱に口かわき
心は杳(とほ)き神の息吹きに口かわく
あたたかき沙のやはらかさ こまやかさ
天恵(めぐみ)ふかい太陽は
大海(おほわだ)にぴかぴか光る宝玉(ほうぎよく)をばら撒いて
空に眩しい銀網(ぎんまう)をいつぱいに張りつめ
波にくちつけ 沙にまろぶ
あまりに昏黯(くら)い肉身と
病める心と

   ◇

「由比ケ浜」は、いまの鎌倉市南部、相模湾に面した海岸。鎌倉時代には御家人同士の激戦地で、処刑場でもありました。

「杳」はふつうは「よう」と読んで、はるかに遠い、奥深く暗いという意もあります。


   かげ

日はまなこ病み
世は痙攣(けいれん)す
叫喚死(さけびし)し
どよもし亡(ほろ)び
なべては皆偶像なるか
時ありて
かげのごとくきたり
かげのごとくそふ

   ◇

「叫喚」は、「阿鼻叫喚」というように、大声でわめきさけぶこと。

「どよもし」の「どよ(響)もす」とは、音や声を響かせる、どよめかせる意があります。

2017年7月16日日曜日

日夏耿之介「死あらむのみ」「花の中の死」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   死あらむのみ

太陽(ひ)のもと
老幼男女狂奔(ひとびとはし)り煩(まど)ひ
吹くそよ風咳(しはぶ)きゆきすぎ
操兵の菰(らつぱ) 天心に傲(おご)りて
狐いろの小径(こみち) ひんがしに邪(よこしま)を織る
死あらむのみ

   ◇

「咳き」は、せきをすること、またはせきばらいのこと。

「菰」(こも)は、通常は、マコモを粗く編んだむしろ、こもむしろのことを指します。ここでは、兵士を訓練・指揮するラッパにこの漢字を用いています。

「狐いろ」(きつね色)は一般に、名前の通りキツネの体毛のような、薄い茶褐色を指します。


   花の中の死

朱夏(なつ)の日の後園(こうえん)に燃えたつ花は
恒にやはらぎて睡(ねむ)れる也
燃えかつ睡れるは ただ花あるのみ
日はひねもす
ものかなしき小さき花の片丘に光の塔を築く
寒風(かぜ)すさみ 日も亡びし宵(ゆふべ)
睡れる花のさなかに逝かむ

   ◇

「朱夏」は、五行思想で赤色を夏に配するところから、夏の異称として用いられます。また人生の真っ盛り、30代前半から50代前半くらいをそれに喩えていうこともあります。

「後園」は、家のうしろにある庭園や畑。

「片丘」は一般的には、一方が切り立て他方がなだらかになっている丘をいいます。

2017年7月15日土曜日

日夏耿之介「海光」「災殃は日輪にかがやく」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。


   海光

ふか海は もの哀れに日光(ひざし)を招(よば)ひしかば
明(あか)き光 ことごとく蒼海にとり忙(いそ)ぐ
ああ すべて光は波に入らむ
この宵(ゆふべ) 海に散りしく無数の船よ
船に乗れる逞ましき白水郎(あま)だちよ
おん身ら大海に何をか漁(すなど)れる

丘に攀ぢ松吹く風と一(ひとつ)の海景とを眺めてあり

   ◇

「白水郎」の「白水」は中国の地名。水にもぐることのじょうずな者がいたというところから、漁師、海人(あま)のことを白水郎(はくすいろう)というようになったそうです。

「攀」の読みは、ハン、よじる。よじ登る、上の人にすがりつくの意です。


   災殃は日輪にかがやく

災殃(まがつび)は日輪(ひ)にかがやく
黔首(くび)あたま 現生(ここ)もとに生まれいでなば
すさまじき神の息
かならず大地を割らむ
昨夜 寒き夜の曠野(あれの)にたちて
黟き森 眠れる濁江のうち
醜く蟠居(うづく)まれる街巷(まち)より
かすかなる神の奇しき塏笑(あざけり)を聴き得たり

   ◇

「黔首」(けんしゅ)の「黔」は黒い色のこと。古代中国で、一般民衆は何もかぶらず、黒い髪のままでいたことから、人民、庶民のことをいいます。

「災殃」はふつうは、「さいおう」と読んで、わざわい、災難のこと。

「黟」の音読みはエイ、 イ。訓読みは、こくたん。ここでは「くろ・き」でしょうか。

「蟠居」は、蟠踞(ばんきょ)、根を張って動かないこと、その地方一帯に勢力を張っていることをいいます。

2017年7月14日金曜日

日夏耿之介「軽舸の歌」「心虚しき街頭の散策者」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   軽舸の歌

透明の泪(なんだ)の湖(うみ)に
軽舸(こぶね)泛(うか)べ
ほのぐらき岸の花 真白く花咲きみだれ
夕風は淑やかに水浴を摂る
繊(ほそ)りし水竿(みさを)
蒼白き漣(さざなみ)の下腹を転(かへ)せども

日輪(ひ)は逝き 私語(ささめき)をのみて
面(おも)伏せる自然(もののね)の顔の上
舸(こぶね)は黙(もだ)しあゆみ
その歩武永遠(あゆみとこしへ)に遅き哉
噫(ああ) 明星よ
おん身が冷たき瞳を遁れいづる泪の雫は
わが舸(ふね)の水竿に泊(は)て 光りぬ

わが軽舸(こぶね) いづくに赴(ゆ)くや

   ◇

「軽舸」は、ふつうは軽快に走る小舟、舟足の速い舟の意。

「水竿」は、水底・岩などを押して、それによって船を進める棹。普通、竹で作ったものを用います。

「遁れ」は、逃れ、と同義で、のがれること。この場合は、好ましくない状態になるのを回避する、といった感じでしょう。「冷たき瞳を遁れいづる泪の雫」というのは、なかなか意味深長な美しい表現です。


   心虚しき街頭の散策者

視神経のいちじるしき疲憊(ひはい)と羞明(しうめい)と
あまりに夥く凝視したるか
街頭には黔首とその家畜とその自動車とがあり
柏は万葉(ばんえふ)を日光(ひざし)に笑(ゑま)ひ
国境線は路傍に頑迷(かたくな)の枯座をつづく
なにゆゑに微風はかく潜行するか
われは心虚(こころむな)しき街頭の散策者にすぎざる也

時ありて 耳辺(じへん)に水声(すいせい)す
猗(ああ) かかる大高原の途上において
逆巻き嗔恚(いか)る水流音をわれ感ず

なにゆゑにかくわれは心忙(こころいそ)ぎ逍遥するか
こころ 縛(いまし)められたるか
この瞳閉ぢざるべからず

   ◇

「黔首」は、人民、庶民、たみくさ。「黔」は黒色のことで、昔、中国で庶民はかぶりものをせず黒髪を出していたことに由来します。

「枯坐」はものさびしくひとりですわっていること。ここでは「国境線」がすわっています。

「水声」(すいせい)は、「谷川の水声」というように水の流れる音。耳もとに水の音がしてきたのでしょう。

「瞋恚」(しんい、しんに)は、怒り、仏教では、十悪の一つで、自分の心に逆らうものを憎み怒ることをいいます。

2017年7月13日木曜日

日夏耿之介「ある跪拝のときに」「畏怖」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩です。

   ある跪拝のときに

そば降る小雨は緑林(ぬすびと)のごとく忍び来て
泪(なんだ)の搾木(しめき)を捉へしか
ああ 追憶(おもひで)は身内に温流をめぐり
眼も赤く哭きはらし
息たえだえに
われは跪拝して 生存を感謝してあり
神よ おん身ぞ逝くべけれ

   ◇

「跪拝」(きはい)は、ひざまずいて礼拝すること。

「緑林」は、前漢の末期、王莽(おうもう)が即位した後、王匡(おうきょう)・王鳳(おうほう)らが窮民を集め、湖北省の緑林山にこもって盗賊となり、征討軍に反抗したという、「漢書」にある故事から、盗賊のたてこもる地、また、盗賊のことをいいます。

「搾木」は、2枚の板の間に植物の種子などを挟んで、強く圧力をかけて油をしぼり取る木製の道具。身をしぼられるようなつらい状態のたとえにも用いられます。


   畏怖

心の皮膚(はだ)青ざめ
あらき風を忌(い)む
熱き泪(なんだ) 心の眼(まなこ)より転(まろ)びいで
薄暮(くれがた)の流沙(りうさ)に交らひぬ
ああ 内なる火 赤赤と火(も)え立ちて
繊(かぼそ)きたましひの身を燬(や)きしか

われは西空(せいくう)に泛(うか)べる瀟灑(せうしや)なる新月を覩(み)たり
夜風は呼吸(いき)にわろければ
青き帽誇(ほこ)りかに飾りて
暖かき思念の寝床(ベツド)に忙がなむ
晨星(しんせい)はいつ消ゆべきか
夜半(やは)にも上る黒色の太陽あらめ
心の肌膚(きふ)は繊弱(かよわ)くして
叱嗟(ああ) いつか亡びむ身ぞ

   ◇

「燬」の読みは、キ、やく。やきつくす、火の勢いが激しいなどの意味があります。

「瀟灑」は、すっきりとあか抜けしているさま、俗っぽくなくしゃれているさま。

「晨星」は 明け方の空に残る星のことです。

2017年7月12日水曜日

日夏耿之介「崖上沙門」「無言礼拝」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩です。

   崖上沙門

衣赤き沙門は稚く ただひとり
瞑目(めとぢ)て崖上(がいじやう)に彳(たたず)めり矣
断層面に八月の日光(ひ)は驕り
夏空(そら)は懈怠(けたい)を孕み 汗ばみたり
閑古鳥は風防林に蘭秋(あき)を呼び
青春の蜥蜴(とかげ)らは
緋に燃えたる花崗巌(くわかうがん)の傷趾(きずあと)に
緑色の飾紐(りぼん)を結べり
かかるとき
南風は大盗(たいたう)のごとく闖入しきて
さてかろく咳(しはぶき)して 出で去りぬ
草原(くさはら)は枯草熱に疼(いた)みて 屡(しばしば)傷痛の銀波をあげ
山脈は肩そびやかし
おもむろに延び 欠呿(あくび)す
沙門は瞑目(めとぢ)たり 永劫に

   ◇

「沙門」は、サンスクリット語の音写で、「つとめる人」の意味があります。ゴータマ・ブッダとほぼ同時代に出現したインドの新たな思想家たち、あるいは、出家して修行を実践する人たちを指します。

「懈怠」(けだい)は、仏教用語では、仏道修行に励まないこと、怠りなまけること。六大煩悩の一つあるいは二十随煩悩の一つとして数えられています。

「閑古鳥」は、カッコウ=写真、wiki。鳴き声が物悲しいので、寂れていること、寂れた店を閑古鳥が鳴いていると表現されます。

「蘭秋」は、ふつうに読めば「らんしゅう」、秋のはじめのことです。


   無言礼拝

竝樹街(なみきがい)に鉄軌(てつき)あり
長剣のごとくひかり 延び延びと
地平の焦点さして夙(と)く走れり
夜 月光ここもとに泊(は)てて
蒼白(あをじろ)きアンダンティノを綴る
沈黙は僭主(せんしゆ)のさまに世界(よ)を領(しろ)し
「時」は光の縷(いとすじ)を綱渡り
永劫さして忙げるなり
珍事(こと)ぞおこれる
万有(もの)の響 音 擾(さや)ぎわたりて地軸を揺蕩(ゆすぶ)り
災殃(まがつび)のごとく奇襲しきたりしかば
夜の花 不慮に眼ざめ
深林(もり)の若葉等は相抱擁(あひいだき)て吐息つき 慴伏(せふふく)す也
しばしの後 何者かの悲鳴は
擾乱の昏迷に口火点(つ)け
怕るべき叫喚世界(よ)を聾(し)ひむとす

されど視よ一分時(いつぷんじ)の後
何事かありたる

万物折目正しく静坐し
忍者(しのびのもの)の若(ごと)くにその声を呑み
樹(こ)の間ふかく
沈黙と黯黒(あんこく)とは密通のくちつけに心狂へる

無言礼拝(むごんらいはい)のとき いまぞ わが子らよ
わが子らよ

   ◇

「アンダンティノ」は音楽の速度標語で、アンダンテ(歩くような速さで)よりやや速めに、の意。「怕(おそ)る」は、気遣い不安がる、危ぶみ心配すること。

「僭主」は、前7世紀の後半から前5世紀の前半にかけて、ギリシアの多くのポリスに現れた独裁的な支配者の総称です。英語のタイラント(tyrant)はこれに由来します。彼らはほとんどが貴族の家柄でしたが、貴族政の乱れに乗じてこれを倒し、非合法な独裁政を打ちたてました。

「慴伏」は、ふつう「しょうふく」と読んで、おそれひれ伏すこと、勢力におそれて屈服する意があります。

2017年7月11日火曜日

日夏耿之介「羞明」「訪問」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩です。

   羞明

孟夏の十字街をおもへ
神ありて ここに街樹(き)を現はし
幹ありて水枝をたもち
枝ありて若葉をささげ
葉ありて果実をまもり
果(み)ありて核種をふせぎ
核ありて細胞をみとれる
細胞に性染色体のありて
稟性(ひんせい)のいとなみに勤(いそ)しめり
これ事実也
類推の至上指令ぞ
風は街頭に亡び
日輪(ひ)は高く頭上に盈(み)ち耀(かがや)き
人馬なく 鳥語なく 色相なく
物象に陰影あるなし
世界(よ)は あげて銀製の大坩堝(おほるつぼ)のみ
わが神経 かかるとき 羞明し歔欷(きよき)する也

   ◇

「羞明」は、まぶしいこと、まぶしさ、異常にまぶしさを感じる病的な状態をいいます。

「稟性」は天性。

「歔欷」は、すすり泣くこと、むせび泣きのことです。


   訪問

誰(た)ぞや 風 黒(かぐろ)きこの宵
内なる扉ほとほとと打ちたたくは
こころ 重傷して昏睡(まどろ)めり
こころ 夢の環境(めぐり)の彼岸(かのきし)に埋没(うづも)れてあり
あかき灯(ひ)のもと邇(ちか)くつどひて
わが懇切なる兄弟姉妹(けいていしまい)ら
夜(よ)の歓会(まとゐ)に酔(ゑ)ひぬるを
ああ 誰ぞ軟かき黒夜(こくや)の空気かき乱して
こころ憎くも忍び音(ね)の訪問(おとづれ)は
灯の侍童(じどう) 赧(あか)く愕ろき
淑やかに延びちぢみ
冷淡なる時圭(とけい) あしおと高く
人人 一旦に死を孕まむ
誰ぞや ほとほと 扉きしめき
物象ことごとく いま戦慄す

   ◇

「昏睡」は、現在ふつうには、外界の刺激に全然反応せず、反射もほとんど消失した最高度の意識障害のことをいいます。

「侍童」は小姓のこと。

「赧」は、あからめる、顔が赤くなる、恥じるなどの意があります。

2017年7月10日月曜日

日夏耿之介「真珠母の夢」「悲哀」

 きょうも詩集『転身の頌』から二つ詩です。

   真珠母の夢

こころの閲歴いともふかく
手さぐりでもてゆけば
明銀のその液体のうち
いろさまざまの珠玉あり
黄と藍は泪ぐみ
身もあらず臥(ふ)しなげき
緑と樺は泛(う)き泛きと
なか空に踊りぞめき
そこ深く黒玉坐して動かざるに
紅ひとり笑みつつもたかだかと泛み遊べり
さて 曇り玉ひとつ
泛きかつ沈み
蕩揺のしづけさに酔ふ

真珠母(しんじゆも)の夢

   ◇

「真珠母」(しんじゅぼ)は、真珠層ともいわれ、貝類などが外套膜から分泌する炭酸カルシウム主成分の光沢物質をいいます。

「樺」の読みには、かにわ、かば、かんばがあります。かんばは、カバザクラ、シラカバの古名ともされます。上代には、舟に巻いたり器に張ったりした、その樹皮をいいます。万葉集に「しきたへの枕もまかず、樺巻き作れる舟に」。

「蕩揺」(とうよう)は、ゆり動かすこと、ゆれ動くこと。


   悲哀

羸弱(るゐじやく)は この身に警策を打ち
心は 喘鳴(ぜんめい)して呼吸(いき)途絶えむ
心とともに沙(いさご)深く身を横臥(よこた)へてあれば
仲霄(そら)を別離(わか)るる日光(ひざし)うるみ
黒髪(くろがみ)おのおの寒慄(さむ)けく立ちあがり
なにものか わが家(や)を遁避(にげさ)らむとする若(ごと)し

   ◇

「羸弱」(るいじゃく)は、衰え弱ること、からだが弱いこと。

「警策」は、禅宗で座禅中の僧の眠けや心のゆるみ、姿勢の乱れなどを戒めるため、肩などを打つ木製の長さ1メートルほどの棒。

「沙」は、 すなのことです。

2017年7月9日日曜日

日夏耿之介「騒擾」「雲」

きょうも『転身の頌』から二つ詩です。

   騒擾

騒擾は 高きより来る
黎民(ひとびと) 聾(みみし)ひたるか
聾(みみし)ひなば 眼(まなこ)をみひらけ
薔薇(さうび)の花の紅(あけ)をうれしみ
八月の日の日の光の銀色にうち興じ
深く谿間黒燿の黝(くろず)めるをめでよかし
眼(まなこ)疲れなば 爾が嗅官(きうくわん)を使用せよ
かの味識(みしき)にても事足れるを
爾は訖(つひ)にその黄ばみ波うてる肌膚(きふ)の
かのいと荒き感触を斥けむと欲(ほ)りするか
輪環(りんくわん)の久遠をめぐりめぐりて
天上より降り来るかの騒擾(どよもし)を如実(まま)ならしめよ
または 爾の生をして 一旦
かなたに住居せるかの嬌憐と媾引(あひびき)せしめよ

   ◇

「騒擾」(そうじょう)は集団で騒ぎを起こし、社会の秩序を乱すこと。

「黎民」は、一般人民、庶民、万民。

「輪環」は、数学的には、ドーナツのような形をしたトーラスのことをいいます。


   雲

戦闘は大気緑明のもなかに在り
夙(と)く参加せざらめや
赤く爛(ただ)れし裂傷を繃帯(はうたい)し
その輝く銀冠を逆立てるよかし
日に涙(なんだ)あり
微風の跑(だく)を趁(お)ひ従(お)ひて
おんみは一万尺の巌頭(がんとう)に来り彳めり
おんみは戦線杳(はる)かに濁血(だくけつ)の不可思議を聴く
軟かき足なみを攮(ぬす)めよかし
泪ぐめる夕暮方は早も波打ち来れり
かくて夜の捷利必ずこれに次がむ
おんみは今や形態(かたち)なき白馬(はくば)の手綱を牽(ひ)く

   ◇

「跑」は、走る、駆ける、逃げる、歩く、奔走する、駆けずり回るといった意。

「攮」は、本来は(短剣や銃剣で)突き刺すこと、短剣、あいくちのことをいいます。

「捷」は訓読みで、かつ、はやい。「捷利」(しょうり)は、勝利と同義です。

2017年7月8日土曜日

日夏耿之介「夏落葉」「少人に予ふる歌」

きょうも『転身の頌』から二つ詩です。

   夏落葉

無辜と純鮮と
その水無月の日の後園を
白日(まひる)の鐘音(かね)いと疎慵(ものう)げに手まさぐり
日の光 行潦(にはたづみ)の面(おもて)に驕(おご)りて
かがやく 逞(たく)ましき 老はてたる
檞樹林(かいじゆりん)第一樹枝の若葉だち
しらじらと 燃えたちしとき
仄昏(ほのくら)き榛樾(しげみ)のほとりを 夙(と)く翔(かげ)り
はたと墜つる朱夏(なつ)更けし朽葉(くちば)ありけり
そのひびき 地を揺(ゆ)りし

   ◇

「無辜」(むこ)は罪のないこと。

「行潦(にはたづみ)」は、雨が降ったりして、地上にたまり流れる水。

「檞樹林」は、「檞」(かしわ)の林か。

「榛」は、はしばみ、雑木や草が群がり生えること、やぶ。

「樾」は、木陰の意だそうです。


   少人に予ふる歌

八月は野の白宵(ゆふべ)に心おごりたるに
都市(みやこ)よりの早乙女(さをとめ)だち
山ふもと 洋館は白き仔羊(こひつじ)のごとく
七つの若き瞳をまばたき初めてけり
その大いなる聖手(おんて)を延して 今や
神は海上遠く夕映(ゆうばえ)の黄金砂(きんさ)を鏤(ちりば)めたまひぬ
爾(きみ)が椿萱(かぞいろ)も 爾(きみ)がよく秘めたる妹好(ひと)も
胸疾(や)みたまふ女兄(あねぎみ)も 仇敵(きうてき)の一団も集ひしぞ

憖(ああ) まんまろき青(あを)大空のもと
しどけなき砂丘に攀(よぢのぼ)り
夏夕風(なつゆふかぜ)の赴くなべに
哀傷(かなしき)かぎりなき頌(うた)に生きよ しばしなりとも

   ◇

「椿萱」は、椿堂が父を、萱堂が母をたとえて、父母のことを指します。

「憖」は、ふつうは「なまじ」「なまじい」と読みます。中途半端であるさま、いいかげん、なまじっか。しなければよかったのに、という気持ちで用いられます。

「頌」は、「しょう」と読む場合、古くは、中国最古の詩集『詩経』で、全詩を六つのジャンル(六義)に分けたうちの一つで、宗廟の祭礼における舞楽の歌をいう。「ほめうた」を意味します。



特有の文体で、農事の神々、祖先、君王の盛徳などを形容し、賛美、頌揚、祈求するものでした。後に、対象が鬼神帝王から一般人や普通の事物へと拡大され、漢の揚雄の「趙充国頌」、晋の劉伶の「酒徳頌」、唐の韓愈の「子産が郷校を毀らざるの頌」などが作られました。

2017年7月7日金曜日

日夏耿之介「王領のめざめ」「驕慢」

 きょうも『転身の頌』から詩を二つ。

  王領のめざめ

人人よ 王領(おうりやう)こそは覚醒(めざ)めつれ
時ありて 王土の番卒は
緇(くろ)く黄なる抱服をその身に纏ひ
夜守(よもり)の燭(しよく)をかかげ
あけぼのに 一位の森を巡警す

日出で 月逝(さ)り
森には露かがやけども
赤く爛(ただ)れし王土の春は
かつてひとむらの野の花の花咲き狂ふ
繁殖の怡悦(よろこび)だに遞(つた)へたることもなし
また 皎(しろ)き日光(ひのひかり)の鋭(と)き香ありて
吹上(ふきあげ)の水沫(みなわ)に噎(むせ)べど
樹(こ)の間に光る幻覚(まぼろし)の彩(あや)のみ栄(は)えて
青き小禽の囀りだに得聞えず

いま 昴宿(すばる)いで
夕風 疾(はや)く駛(はし)り
膨張(ふくら)める地平の遥か杳(はる)かかなた
あわただしき夜の跫音(きようおん)をきく
あはれ 王領の濁れる春宵(よひ)に
わが女王(によわう)らも 王子らも
いちはやく めざめたり
おそらく永劫に覚醒(めざ)めしならむ

禽謝(とりしや)し花凋(しぼ)み
天然と中宵(ちゆうせう)としばし抱擁(いだ)きて
哀楚(かなしみ)や幽欣(よろこび)の歓会に楽しび耽けるとき
王領こそは覚醒めつれ
そはおそらく 永劫に覚醒めしなるべし

   ◇

「抱服」は、もともとは「捧腹」。「捧」はかかえる意で、ふつう、捧腹絶倒というように、腹をかかえて大笑いするさまをいいます。。

「遞(逓)」には、逓信、逓送というように、横へ横へと次々に伝え送る意。

「遥か」は遠くまで眺望が開けているさま、「杳か」には奥深く暗いさまを表すようです。


   驕慢

蘭引(らんびき)の上に踊る心
梟木(けうぼく)の傍(かたへ)に はた 彳(たたず)む心
心は天地(あまつち)の魂に倚り加餐(かさん)し
また 宇宙新教徒の気軽き微笑(ほほゑみ)を企つ

されど神よ 多く災(わざはひ)する事なかれ
開けゆく夜の間の小さき叫び
晨星(しんせい)とともに消えはてむ迄

   ◇

「驕慢」(きょうまん)は、おごり高ぶって人を見下し、勝手なことをすること。

「蘭引」は、ランビキ、兜釜(かぶとがま)式焼酎蒸留器。江戸時代に薬油や酒類などを蒸留するのに用いた器具、「梟木」はさらし首をかけておく木、獄門台のようです。

「加餐」は、養生すること、健康に気をつけること、「時節柄御加餐ください」。

「晨星」は、 明け方の空に残る星のこと。

2017年7月6日木曜日

日夏耿之介「夜の思想」「紅宵」

 きょうも『転身の頌』から二つの詩を読みます。   

   夜の思想

なにものかあり 鬨声(ときのこえ)はわれを連行(はこ)ぶ

われは 瓦斯体(がすたい)のごとく揺曳(えうえい)す
われは 数多(かずおほ)くの世界とその前後(あとさき)とを瞥(み)たり

昏瞑(やみ)はしばしば悲鳴をあげ
その下霄(しもぞら)に黄色の月ひとつ泛べる
微風(そよかぜ)は心をして温情ならしむ歟(か)

あはれ おびただしきわが心の産卵哉

   ◇

「揺曳」(ヨウエイ)は、ゆらゆらとただようこと。また、音などがあとまで長く尾を引いて残ること。

「昏瞑」(コンメイ)は、暗いこと、暗くてようすのわからない意。


   紅宵

野にいでて
淑(しと)やかに
吐息(といき)すれば
昊天(そら)は沈み
地は臥(ふ)しまろび
落日(いりひ)のみ
きらきらと
世界に膨張(ふくら)む

   ◇

題の「紅宵」はコウショウと読んでおこうと思います。

「昊天」はふつう「こうてん」と読んで、夏の空、広い空、大空のことをいいます。

「まろび」は、まろぶ、転ぶ。ころがる、ひっくりかえる、倒れるといった意味です。

2017年7月5日水曜日

日夏耿之介「白馬の歌」「洞穴を穿て」

きょうも『転身の頌』から二つの詩を読みます。   

   白馬の歌

稚(いとけな)き造化(もの)われら
敬虔(けいけん)の心一途(いちづ)に捧げまほしく
薄暮(はくぼ)の河畔にぬかづく
きみの白馬(はくば)にうち騎(の)り
殉情の星より僥倖(げうかう)のごとく降(くだ)りたまへる
岡巒(やま)も艸木(き)も深林(もり)も野もいま怡悦(よろこび)に顫(ふる)へたり
瞳は繊(かぼそ)く麗はしく柔(やさ)しげに謙仰しつつ
爾が崇貴(けだか)き白馬を仰ぎ胆望(み)たり
烏呼(ああ) なのものの痴言ぞ 蕪穢(ぶわい)するは
跪坐して久しく己(おの)が脈搏をとるわれに
なにものぞ これ亡びゆく枯葉(こえふ)のみ
爾(きみ)は遠来(きたれ)り
白馬の騎士 至上なるもの
もろ手もて爾(おんみ)を抱擁(いだ)かむ

   ◇

「巒」は、音読みでは「ラン」、やまなみ、山の連なり、峰を意味します。

「蕪穢」は、雑草などが生い茂って、土地が荒れていることをいます。 「最も近き道は、最も蕪穢なるものなり(西国立志編 )」


   洞穴を穿て

暟(しろ)き朱明(まなつ)の高原にいと深き洞穴を穿て
雲雀(ひばり)は露けき叢(くさむら)に狂ひ
地蜂は垂直に出陣すなるを

大いなる洞穴を穿(うが)ちをはらば
猴利根(かしこ)く喧擾(かしま)しき老幼男女を埋没せむ
夕日 巒巒(やまやま)を血塗りて
白日のいともの静かなる殺戮もはてなば
亡きもののために夜鳴鳥は歌うたはなむ
このとき爾(きみ)は 青く悩める弦月の
神経質なる微笑に逢着するならむ

   ◇

「暟」は、ふつう「カイ」「てらい」と読みます。霜や雪が一面、白く見えるさまを「皚 皚(がいがい)」ともいいます。

「朱明」は、ふつうは「シュメイ」と読み、夏のこと、太陽をさすことも。類語に、朱夏があります。

2017年7月4日火曜日

日夏耿之介「塵」「青き隕石」

きょうも『転身の頌』から二つの詩を読みます。   

   塵

塵ひとつ泛びたり
日輪(ひ)はいときらびやか哉
航空騎士敢行歟
光れる天童の巡察歟

虔(つつ)しみ畏(いやま)ひて ひたすら
天来のおのが所持せざる力を頌(ことほ)ぐ

   ◇

「騎士」とは、もともと、中世ヨーロッパにおいて荘園の支配を保障される代わりに騎兵として戦うことを義務付けられた身分のことを指します。

「歟」の訓読みは、か、や。文末の助字、疑問・反語を表す助字として用いられます。「頌」には、たた(える)、ほ(める)といった訓読みがあります。

「天童」は本来、仏教の守護神や天人などが子供の姿になって人間界に現れたものをいます。


   青き隕石

白き光おびただしく放てる碧き隕石の墜落は
巷に悲鳴の花咲かせり
此時賢人来り 多く蒼人艸(たみくさ)を呼ばひて曰(い)へりき
子らよ 悲しき愕(おどろ)きもて神は爾(おんみ)の胸を燬(や)けり
出でよ 戸外(こぐわい)に趁(わし)れ 俯聴(ふてい)せよ
仰げよ 彳めよ 将た祈禱(いの)りてあれ
神はわが世の扉口(とぐち)に在(い)ませりと

   ◇

「趁」の読みは、ふつう「おう」「チン」。追う、という意味があります。「俯聴」は、「ふちょう」ともいい、うつむいて耳をすます意味です。

「蒼人艸」は、民草(たみくさ)、青人草(あおひとくさ)、すなわち、人民、蒼生、国民のことなのでしょう。人が増えるのを、草が生い茂るのにたとえた言葉。日本書紀(神代上訓)に、「葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆるうつしき青人草の」とあります。

「俯聴」の「俯」には、うつむく、身をかがめて下を向くという意があります。