2017年11月24日金曜日

金子光晴「燈台」⑫

1937(昭和12)年には「燈台」の入った詩集『鮫』を、1940(昭和15)年には『マレー蘭印紀行』をと、戦時下の体制が強化され国をあげて戦争に深入りしていく中でも光晴は、非協力、反戦の詩を書き続けました。

しかし「厚く偽装をこらして」発表をつづけてきた作品も、次第に危険視され、文壇からも敬遠されていきます。

1944(昭和19)年11月14日、東京への最初の空襲。光晴が住んでいた吉祥寺に近い、中島飛行機製作所に爆弾を投じていきました。以降、東京は106回の空襲を受けることになります。

「この戦争では犠牲になりたくない。他の理由で死ぬのならかまわないが……」、そんな「意地っ張り」から光晴は、山梨県山中湖畔の平野地区にある旅館の別荘を借りて疎開することに決めます。

〈落葉松の林のなかに、安い借家普請のような、その別荘と称する家も建っていた。零下二〇度の寒さで、掛布団が吐く息で凍り、インキは氷になって、櫓炬燵(やぐらごたつ)のなかでとかしてから使わねばならなかった。

さすがに空気だけは、清澄だった。障子一枚のむこうにみえている湖水は、鈍く凍りついて、晴れた陽はまぶしく照返し、胸を突きあわせるように近々と富士山が聳えていた。〉(『詩人』)


有名な詩「富士」は、この疎開中に作られました。

  重箱のやうに
  狭つくるしいこの日本。

  すみからすみまでみみつちく
  俺達は数へあげられてゐるのだ。

  そして、失礼千万にも
  俺達を召集しやがるんだ。

  戸籍簿よ。早く燃えてしまへ。
  誰も。俺の息子をおぼえてるな。

  息子よ。
  この手のひらにもみこまれてゐろ。

  帽子のうらへ一時、消えてゐろ。

  父と母とは、裾野の宿で
  一晩ぢゅう、そのことを話した。

  裾野の枯林をぬらして
  小枝をピシピシ折るやうな音を立てて
  夜どほし、雨がふってゐた。

  息子よ。ずぶぬれになつたお前が
  重たい銃を曳きずりながら、喘ぎながら
  自失したやうにあるいてゐる。それはどこだ?

  どこだかわからない。が、そのお前を
  父と母とがあてどなくさがしに出る
  そんな夢ばかりのいやな一夜が
  長い、不安な夜がやつと明ける。

  雨はやんでゐる。
  息子のゐないうつろな空に
  なんだ。糞面白くもない
  あらひざらした浴衣のやうな
  富士。

山の中の村に疎開したからといっても、もちろん、戦争から自分たちの生活が隔離できるはずはありません。敵機は幾編隊を組んで富士山をめがけてやってきました。そして一子、乾への召集令状がまた届きます。

〈二年目の子供の召集状が、山のなかにまでとどいた。平野村には七十何歳の老医師が一人いた。僕は、再度、子供を松葉いぶしにして、喘息発作を誘発し、老医者を招いて、現に病状をみせ、診断書を書いてもらうとそれをもって上京した。

三月の大空襲のあった日だった。本部まで出むいて、僕は、係官に会い、診断書をみせて、事情を話し、また一年引きのばしてもらうことにした。空襲がはげしくなってからは、招集状も届かないものが多く、軍では、あつまった人員だけをかきあつめるようにして現地に送るより仕方がなくなっていた。

それも、多くは現地へ送る船舶に不足して、主として敵上陸に備える内地防備の方へ廻されることになったらしい。子供のことが安心となれば、僕らとしては、これで一片づきだった。

だが、このことの結果が、いずれ、大きなしっぺい返しとなってかえってくることだけは、覚悟していた。最後の段階では敗戦とわかっていても、そこに至るまでに、かえって身の危険があると考えたのは、まだ、日本の軍の力を過信していた証拠であろう。

インテリのこまかいリストが作りあげられ、本土作戦の前には、そういったあいまいな分子は、大量虐殺されるというようなデマがとんでいた。ありそうなことだった。〉(同上)

「富士」が収められた詩集『蛾』のあとがきに光晴は「全篇に哀傷のやうなものがただようてゐるのは、いつ終るかもしれない戦争の狂愚に対する絶望と歎きのよりどころない気持からで、いつはりなく弱々しい心になってゐた」と当時の心境を記しています。

2017年11月23日木曜日

金子光晴「燈台」⑪

  辛子のやうに痛い、ぶつぶつたぎつた戦争にむかつてやつらは、むやみに引金をひいた。
  いきるためにうまれてきたやつらにとつて、すべてはいきるためのことであつた。
  それだのに、やつらはをかしいほどころころと死んでいつた。
  リーベンたちは一つ一つへそのある死骸をひきずつてトラックにつみ、
  夜のあけきらぬうちにはこんで川底に、糞便のやうに棄てた。
  ふるさとのあるやつも。ふるさとのないやつも。

  そのからだどもはやつぱり、塞がつたり、あつがつたりするからだだつたのに。
  いまはどれも、蓮根のやうに孔があいて、肉がちぎれて百ひろがでて、かほがくつしやりとつぶされて。
  あんまりななりゆきに、やつらは、こくびをかしげ、うではひぢに、ひぢはとなりのひぢに、あわてふためいてたづねる。
  ――なぜ、おいらは、こんな死骸なんかになつたのかしら。

  だが、いくらかんがへてみても駄目だ。やつらの頭顱(とうろ)には、むなしいひびきをたててひとすぢに、濁水がそそぎこむ。
  氾濫する水は、――「忘れろ」といふ。

  こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。
  おいらは、これで満足といふわけか。
  だが、水は、やつぱり「忘れろ」といふ。

「燈台」が入っている詩集『鮫』にある「泡」という詩の一部です。中国ではじまった戦争の無惨さに対して、単に人道主義的な叫びを上げるのではなく、実態をからだで受け止め直視しているのです。

「こんなことをしたやつはいつたい誰だ。誰なんだ。」と腹の底からの問いを発します。そして行きついたものは、日本という国の「そらのふかさ」をつくっている理不尽な「神」の存在だったのです。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

1932(昭和7)年に、長い海外への旅から帰ってきた光晴の眼には、日本人をがんじがらめにしている天皇を頂点にした権力機構が、異様なものとして写っていたのでしょう。

「いまの日本人ほどの文化教養がありながら、いきなり飛びついてゆける天皇イズムの強力な魅力の正体について、どうしても合点がゆかないところがあった」(「政治的関心」)のです。


当時、光晴はマックス・シュティルナー(1806~1856)=写真=の思想に強い影響を受けていました。

いかなる人間的共通性にも解消出来ない自我のほかのすべてを空虚な概念として退け、自己が自らの有する力によって所有し消費するものだけに価値を認める“徹底したエゴイズム”の立場から、個人を阻害する国家などのあらゆる権力を否定する、アナキズムともいえる立場を主張したドイツの哲学者だそうです。

そうした中で、「天皇制権力機構への批判」を象徴的に歌いあげた「燈台」を作った背景について首藤基澄は、『金子光晴研究』で次のように指摘しています。

〈天皇はただに政治的な側面ばかりでなく、宗教的・倫理的な性格を帯びて日本人をしめつけていた。従って、昭和期における自我の確立は、天皇を中枢とする一切の権力を剥ぎ棄てることから始めなければならなかったわけである。

大正デモクラシーが簡単にやりすごしてしまったその問題を、スティネルに裸にされた光晴は恐れずに悪魔祓いして行ったのである。

彼は「マックス・スティルネルの影響で、政治を蛇蝎視していた時代の僕は、政治を憎まずにはいられないほど、政治にこだわりを持っていた」といっている。

われわれの心の底まで蚕食してしまう天皇制を批判する時、彼はスティルネルに習って一切の価値を否定するニヒリズムを基盤にしていたのである。〉

2017年11月22日水曜日

金子光晴「燈台」⑩

「燈台」が入った詩集『鮫』は、1937(昭和12)年8月、人民社から刊行されます。前にも見たように、その直前の昭和12年7月には、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。国をあげて戦争へとのめりこんでいった真っただ中でのことでした。

『鮫』には次のような序文があります。


〈武田麟太郎さんに序文をお願ひしたが、別に書くこともなささうだといふこと。僕が自分で筆をもつたが矢張、必ず言はねばならぬこともありません。一言、鮫は、南洋旅行中の詩、他は帰朝後一、二年の作品です。

なぜもつと旅行中に作品がないかと人にきかれますが、僕は文学のために旅行したわけではなく、塩原多助が倹約したやうにがつがつと書く人間になるのは御めんです。

よほど腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩を作らないつもりです。

僕の詩を面白がつて発表をすすめてくれた人は中野重治さんで、序文をたのしむのはその方が順序と思ひましたが、このあついのにと察してたのむのをやめました。〉

よほどの「腹の立つことか軽蔑してやりたいことか、茶化してやりたいこと」があって作られたのでしょう。反骨心にあふれた7篇の詩が収められこの詩集は200部出版されましたが、ほとんど梱包も解かれぬまま、光晴宅と人民社の発行人の武田麟太郎宅に山積みにされました。

武田宅に置かれた詩集は昭和20年の東京大空襲で焼失しています。

それにしても、言論統制が厳しさを増していたこの時代に、偽装を施した表現を用いたとはいえ、天皇制批判や日本軍の暴状をあばく激しい言葉を投げつけた、こうした詩集が出版されていたということは驚きです。光晴は自伝『詩人』につぎのように書いています。

〈印刷のはこびになったとき、盧溝橋事件があり中日戦争の火ぶたが切って落された。やはり、来る筈のものが来たという感じだった。

前の年、通州事件があって、日本人が虐殺された。丁度那須へ避暑にゆく時で、折角の行楽がくらい気持のものになった。その秋頃深夜明け方近く、僕が勉強していると人気ない表通りに、異様な地ひびきがきこえ、それがいつまでもつづいた。

小窓を開けて、そっとみると、蜒々(えんえん)とした、みたこともない戦車の列であった。どこへゆくのか。それが、毎夜つづいては、ただごととはおもえなかった。しかし、日本国民は、おおかた、なにも気づかなかった。日華事変の突発は、前年のこのことを裏書した。

戦時に入っては、僕の『鮫』も、一まず形勢をみて出版すべきだという説も出て、僕も、引込めるつもりでいたところ、『人民文庫』の編集をしていた本庄陸男が余丁町の家にやってきて、その考えに異議を申し立てた。

「こんな形勢になってこそ、この詩集の意義があると僕は思います。是非出してください」という、真正面な言葉によって、僕は意をひるがえした。本庄君のようなヒタ向きな人間のことばを、日本ではすでに久しく耳にしなかったのだ。

二人で余丁町から新宿に歩いて、角筈の角にあるオリムピックという店で、夕食をとりながら、出版の手筈をあれこれと相談した。本庄君はもう、よほど胸の病勢がすすんでいたらしい。

『鮫』は、禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっとみては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い、そんな面倒な鍵さがしをするような閑人が当局にはいなかった。

なにしろ、国家は非常時だったのだ。わかったら、目もあてられない。『燈台』は、天皇制批判であり、『泡』は、日本軍の暴状の暴露、『天使』は、徴兵に対する否定と、厭戦論であり、『紋』は、日本人の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に値する人間だったのだ。

強力な軍の干渉のもとの政府下で、どれだけ生きのびられるかが、我ながらみものであった。そして、この結果は、当時の僕としては、いかなる力をもってしても、考え直したり、枉(ま)げたりする余地のあるものではなかった。

僕らの周囲、例えば、僕の会社の上役連中にしても、日本国民としての国家への協力――それによって将来もうまい汁を吸えるようにとのはかない下心もあって、いつでも御用事業に切りかえようという態勢に出た。彼らは、大きな世界地図を壁に掛けて、新聞の報道に従って占領地に小旗を、いくつも刺していった。

御用作家たちも、続々と海をわたって、報道陣に加わった。非協力の作家のリストを、軍の黒幕になって作っている文士もあった。

金子光晴はまだ返り新参の駆出しだったので、そういうリストにも漏れていた。詩が難解ということも、僕にとっては有利だった。それに、僕の詩の鍵をにぎった連中は、概して、僕を外界から護ってくれた。

多くの正直な詩人達が、沈黙を守らされている時、僕に語らせようという、暗黙のあいだの理解が、目立たぬ場所で僕を見まもっていてくれたのだ。

文学報国会というものがうまれ、その会員でないものは、非協力者として、文筆の仕事もできなような窮屈な時代がきて、文士全体がなにか積極的な国家の提灯持の役を引受けなければ、一括して存在を許されなくなりそうな危機に、殆んど会に出席しなかった僕の存在を大目にみてくれたことは、やはり、文人の社会なればこそと、今でも思っている。

前田鉄之助と往来でばったり会った時、前田は、「君、いい加減にした方がいいよ。当局だって、めくらばかりがいるわけじゃないんだから」と、忠告してくれた。

最初は半年位で片づくなどという楽観説もあったのが、その年の暮になっても片付かず、益々戦局は深入りしてゆくばかりになって、「不拡大」を叫びながら、政府も曳きづられて、方途がつかない状態になっていった。〉

2017年11月21日火曜日

金子光晴「燈台」⑨

      三

  こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
  ――神はゐない。
  と、おろかにも放言した。
  それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
  ………………。
  ………………。

  つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
  神は下界をみおろしてゐる。
  かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
  ――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

  だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
  雷鳴。
  いや、いや、それは、
  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。
  威嚇するやうに雁行し、
  つめたい歯をむきだしてひるがへる
  一つ
  一つ
  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

大日本帝国憲法の第1条は「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(大日本帝国は、万世一系の天皇が、これを統治する)とされています。

戦前、天皇制を否定する主張を者は不敬罪、治安維持法違反などで、場合によっては死刑になることもありました。

「神はゐない」と「放言した」ために、ひどい処罰を受けて身を滅ぼした人たち。

逆説的な言い方をしたりメタファーで覆い包んだりしてはいるものの、詩人のこうした暴露的な言葉も、「神はゐない」という放言と立場は同じでしょう。

神のきびしい「いましめ」に縛られたこの世に「うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。」と詩人は嘆きます。


国民の生命を「一銭五厘」のハガキ一枚、いや「赤紙」=写真=といわれた徴兵令状一枚で自由に出来ました。そんな、天皇を頂点とした軍国主義国家への鋭い反発が、言葉に込められています。

「一銭五厘」とは、そもそも戦時中の葉書の郵便料金のことですが、実際は役場の職員が召集令状を持ってきました。臨時召集の令状は薄い赤色の紙であったことから「赤紙」と言われます。

当時、満20歳の男子は全員徴兵検査を受けました。甲種合格では2年間の現役兵としての兵役があり、乙、丙種はそのまま地域に残り、2年間の兵役を終えて帰郷した甲種合格者とともに「在郷軍人」として市民生活を送っていました。「燈台」ができたころは、40歳まで兵役を課されていたのです。

在郷軍人として市民生活を送っている傍らも、演習召集、教育召集、国民兵召集などいろんな色の召集令状が届けられ、有事にすぐ動けるような体制が整えられていました。

軍司令部から「赤紙」が地域の警察に運ばれ、さらに地域の役場の兵事係が手渡しました。「赤紙」には、発行年度や本人の住所や氏名のほか、出征すべき日時や場所が指示されていました。受け取り証の本人署名をする欄があって、配布時に切り取られて兵事係が預かったのです。

一人が何回も召集された例も多かったようです。職業や特技、健康状態、徴兵検査結果の優劣などによって、軍にとって有用と判断されれば、何回も「赤紙」を渡され、兵隊に行かざるをえませんでした。

召集のシステムは、軍のトップでなければ知ることはできませんでした。徹底した秘密主義のため、「赤紙」は郵便で来ると思われて「一銭五厘」と呼ばれたり、クジや役場で選抜しているという誤解も生じたようです。

国民がいかに怨嗟の声を放っても、唾を吐き、つぶてを投じても、天皇のところまでは届きません。「一銭五厘」の消耗品たちがいかに傷つこうとも、弾丸の届かないところで「なにもとどかぬたかみで、安閑として、神は下界をみおろしてゐる」のです。

詩人は弾のとどかないところで「安閑と」高みの見物をしている「神」を、権力の座から「曳きずりおろすんだ」と叫びます。

  燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
  ひつつこい蠅ども。

というのは、天皇を楯にして、そのまわりにはびこっている軍部の不気味な動きを表しているのでしょうか。そして最後に、日中戦争などで威力を発揮した、大量の爆弾類を搭載して水上を滑走して飛ぶ水上爆撃機が登場します。

  神託をのせた
  五台の水上爆撃機。

天皇の言葉は「信託」となって、戦争に駆り立て、国民と国土のうえに長く、重くのしかかっていきました。

2017年11月20日月曜日

金子光晴「燈台」⑧

    一

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

      二

  それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
   (こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
  包茎。
  禿頭のソクラテス。
  薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。  めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

  神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

  神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
  燈台はただよひ、

  燈台は、耳のやうにそよぐ。


第二章へと進んでいくと「そら」に「めじろおししてゐる」神をめぐる比喩的な表現は、より具体的に、はばかることなくすさまじいまでの勢いを強めていきます。

佐藤總右は『金子光晴・さまよえる魂』で次のように記しています。

〈たとえば“そら”という皇居のふかみには「神さまたちがめじろおししている」のである。それは神国日本の実状であり、かりにもそこをのぞいたりすれば、たちまち“不敬罪”という刑罰がくだされるというのである。

そういえばその当時は、二重橋の奥にはたえず霞がたなびき、牢固としたそのやぐら門はつねに身を清めた近衛兵に守られて、われわれ市民はやぐら門の間近にさえ近づくことが出来なかった。

しかもそこには“燈台”という現人(あらひと)神の天皇が君臨させられている。だが、その“燈台”は白い一本の蝋燭であり、男性として一人前にならない包茎なのだ。

(この辺の複数のイメージは金子光晴の独壇場である。しかも、“燈台”“蝋燭”“包茎”というイメージが、“禿頭のソクラテス”=写真=にまで進展すると、もやは私はこの詩人のアイロニーの見事さに脱帽せざるを得ない。

なぜなら哲人ソクラテスは生涯インポだったという伝説が伝えられている。そのことにさえ思い当たるからである)〉

詩のなかにある「三位一体」とは、「キリスト教で、創造主としての父なる神と、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神と、信仰経験に顕示された精霊なる神とが、唯一なる神の位格(ペルソナ)であるとする説。この三者に優劣の差別はない」と、広辞苑にはあります。

キリスト教を離れても、三つの要素が互いに結びついていて、本質において一つであること、三者が協力して一体になること、三者が心を合わせることなどを指して用いられる場合もしばしばあるそうです。

ソニーが1967(昭和42)年に開発したブラウン管「トリニトロン(TRINITRON)」。一つの電子銃から三原色分の電子線を放つこのブラウン管は、三位一体を表す英語TRINITYと電子を表す英語ELECTRONから名づけられました。

小泉純一郎が総理大臣だったとき「三位一体の改革」を唱えました。地方に出来る事は地方に、民間に出来る事は民間に、という小さな政府論を実現するため「国庫補助負担金の廃止・縮減」「税財源の移譲」「地方交付税の一体的な見直し」をいう三つの政策を一体的に進めようとするものでした。

神も、経済も、政治も、ときに、「三位一体」であることによって、恐ろしいまでのふるまいを見せるのです。

2017年11月19日日曜日

金子光晴「燈台」⑦

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。

岬の突端に、「いつぽんのしろい蝋燭(ろうそく)」のように立っている燈台。眼下には騒ぐ海が広がり、塔の上には遥かな空があります。

金子光晴は〈詩集「鮫」のなかの、燈台という詩も、白浜燈台を頭のなかに描いてつくったもので、やはりこの時の旅行の印象が深く心に焼きついていたので、内部からの発想が、象(かたち)を借りたものだと言える〉(「日本の芸術について」)と記しています。

「この時の旅行の印象」というのは、26~27歳のころ、千葉県南房総の白浜のほうへ旅をしたときの思い出のようです。

房総半島を南へと向かうと、潮風の香る海辺のまち白浜にたどりつきます。東西に全長10kmの海岸線。さわやかな海の蒼さ、陽光は飛び散るようにきらめき、すべての風景をくっきりと映し出します。

そんな白浜の近く、房総半島の最南端野島崎には野島埼灯台が立っています。高さ24メートルの、太平洋にぐるりと囲まれた白亜の八角灯台。灯台の光源であるレンズの直径は2メートル以上あるそうです。

1866年(慶応2)年5月、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書によって建設することになった8ヶ所の灯台(観音埼、野島埼、樫野埼、神子元島、剱埼、伊王島、佐多岬、潮岬)の一つです。

1870(明治2)年、観音埼灯台に続いて、日本の洋式灯台では2番目に初点灯しました。むかしもいまも野島崎は、日本の中枢、東京湾に出入りする船舶を守る最重要なポイントなのです。

ヴェルニーをトップとするフランス人技師たちの設計で建設された当初は、白色八角形のレンガ造の燈台でした。燈火までの高さは30m 。フランス製の一級のレンズが使われました。

光晴が白浜を訪れたとみられる直後の1923(大正12)年、関東大震災のため地上 6 m のところで折れて、大音響と共に倒壊しました。1925(大正14)年に現在の白色塔形(八角形)コンクリート造で再建されますが、1945(昭和20)年の太平洋戦争の攻撃で再び大きな被害を受けることになります。

燈台は、船舶の航路標識の一つで、その外観や灯光によって位置を示す光波標識の中の「夜標」として位置づけられています。遠くからでも識別できる強力な光源をもち、夜間には光源が明滅、大型のものは光源のレンズが回転して、航行する船舶が場所を識別する目印となるのです。

そもそも、紀元前7世紀にエジプトのナイル河口の寺院の塔上で火を焚いたことに始まるといわれている灯台。

紀元前279年ごろから約19年の歳月をかけて、世界の七不思議の一つともいわれる「アレクサンドリアの大灯台」=写真、wiki=が港口のファロス島に建設されます。約134m の高さがあったと言われ、796年の地震で半壊するまで使われていたようです。


日本では、839年(承和6年)に復路離散した遣唐使船の目印として、九州各地の峰で篝火を焚かせたと『続日本後紀』にあるのが、最初の燈台と考えられています。

江戸時代に入って海運が盛んになると、灯明台や常夜灯が岬や港に近い神社の境内などに設置されるようになりました。

第二次世界大戦直前には400基を数えるようになりましたが、海外の水準からすると「ダークシー」と呼ばれる状況でした。戦後は高度経済成長により飛躍的に増加し、燈台は3000基を超えるまでになっています。

2006(平成18)年、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下惠介監督)の舞台となったことで知られる、日本最後の職員滞在灯台、女島灯台(長崎県五島市)が自動化され、日本の全ての灯台が無人化されました。

旅で見たとき、燈台が印象に残ってたがものの、光晴に特別な感慨はなかったようです。旅から約10年後にできたこの詩で、燈台は、空、高所、雲の上などへの連想に誘う作品の舞台、主題への導入の大きな役割を演じることになったあけです。

燈台の上の深い空。その空へ私たちの目を向けさせ、そこに何があるかを語る。空は聖なるもの、神々のいるところ。詩人がここで語るのは、信仰の神々でも観念上の神々でもありません。

「現人神」としての天皇であり、その絶対権力であり、天皇を中心に築かれた絶対的な国家体制なのです。戦前の天皇は人間であるよりも神でした。「天」にある絶対的存在だったのです。

2017年11月18日土曜日

金子光晴「燈台」⑥

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

「エーテル」の語源は、燃やす、輝くといった意味をもつ、ギリシア語の“アイテール”とされます。

空間に何らかの物質が充満しているという考えは古代ギリシャからありました。その「天空を満たす物質」が、エーテルです。

エーテルは17世紀以後、力や光が空間を伝わるための媒質とされてきました。デカルトは、ブドウの樽のブドウ酒のように、あらゆる物質の隙間を埋める「微細な物質」を想定。それが光を伝達させ、惑星はその渦に乗って動いていると考えていたといいます。

エーテルは、惑星の運動をはじめ、光や電磁気の振る舞い、さらには私たちの日常に起こっているさまざまな事象を成り立たせているのに欠かせないものとされてきたわけです。

ところが、エーテルを想定するとさまざまな矛盾を来たしてきます。辻褄を合わせるために、エーテルの理論は二転三転、いろんな理論武装を重ねて複雑怪奇な様相を呈することになるのです。

エーテルという“化け物”を完全否定し、「幻影」でしかないことを明らかにしたのは、あのアインシュタインです。

相対性理論によって、エーテルを含めた絶対座標系、絶対的な基準は取り払われ、より根本的な原理から「長さ」や「時間」といった概念が導き出されるようになったのです。

「天使」は、聖書などに登場する神の使い。英語の「Angel」はギリシア語のアンゲロスに由来し、原義は「伝令」「使いの者」。天使は人間よりも優れた知恵と能力を持った、肉体を持たない“霊”であるとされます。

キリスト教では悪魔は、堕落した天使。もともと神によって善きものとしてつくられたものの、神にさからって地獄に堕ち、人間に悪を行うことを薦めるようになったとされます。

「鷹」は、古くから支配者の権力の象徴的な存在として扱われてきました。古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在します。

日本書紀には仁徳天皇の時代(355年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ)が置かれたという記録があります。

平安時代にも天皇は代々鷹狩を好み、狩をする鷹場がは禁野として一般の出入りが制限されていました。嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残し、その技術の書『新修鷹経』を編纂させています(818年)。


金子光晴が「エーテル」に対してどのような認識をもっていたかは分かりません。

ただ、アインシュタインが特殊相対性理論を発表したのが1905年。それを拡張させて、一般相対性理論が出たのが1915~1916年のことです。

光晴がヨーロッパなどを放浪していた時期に、化けの皮が剥がされた「エーテル」が一般の間でも、世界的に大きな話題になっていたことは想像されます。

古くから天空を満たしていると信じられながら、それが幻影でしかなかった「エーテル」。幻でしかないのに「飴のやう」であるエーテルに、神の使いである霊的な存在である天使の「腋毛」が、そして支配者の象徴である鷹の「ぬけ毛」が、リアルにただよっているのです。

この場面、じっくりと味わいたい強烈なメタファーだと思います。そして、さらに畳みかけるように「青銅」がつづきます。

青銅は主成分が銅で、スズを含む合金。中国から製法が伝わったことから、青銅は唐金(からかね)とも呼ばれています。

青銅の使用は、紀元前3000年ごろ、初期のメソポタミア文明であるシュメール文化の時代までさかのぼるそうです。青銅は銅などに比べて硬く、鋳造や圧延などの加工ができたので、斧、剣、壷などに広く使われてきました。

より安価な鉄の製造技術が確立すると多くの青銅製品は鉄製品に代わりますが、大砲の材料としては19世紀ごろまで用いられています。大砲のような大型製品を材質を均一に鉄で鋳造する技術が無かったからだそうです。

日本へは紀元前4世紀ごろ、鉄とともに九州に伝わったと考えられています。紀元前1世紀ごろ、国内での生産が始まり、2世紀には大型銅鐸が作られます。

鉄とともに伝来したため、日本で青銅で作られたのは祭器が中心でした。「神さま」を神さまとするための道具として使われたのです。

秤〈かんかん〉は、車の重さなどを測る大型の秤のことでしょう。重さを量ること、あるいはそのために使う台秤を意味する「看貫(かんかん)」という言葉に由来します。

「飴のやうなエーテル」には、神さまたちの「はだ」から発せられる、祭器や大砲の材料に使われてきた青銅が灼けるやうな凄じい「にほひ」が漂います。

そして、そこには大砲の重さを計ることもできるであろう、大きな秤が置かれているのです。

2017年11月17日金曜日

金子光晴「燈台」⑤

  そらのふかさをのぞいてはいけない。
  そらのふかさには、
  神さまたちがめじろおししてゐる。

  飴のやうなエーテルにただよふ、
  天使の腋毛。
  鷹のぬけ毛。

  青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

  そらのふかさをみつめてはいけない。
  その眼はひかりでやきつぶされる。

  そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

  そらにさからふものへの
  刑罰だ。

  信心ふかいたましひだけがのぼる
  そらのまんなかにつつたつた、
  いつぽんのしろい蝋燭。
  ――燈台。


地上から見上げたとき、頭のうえにひろがっているる「そら(空)」。

地球をおおう大気圏だとその「ふかさ」はざっと1000キロにもおよんでいます。

高気圧や低気圧、雲ができたり消えたりする対流圏だと、9~17キロです。

太陽の光は、大気中の酸素、窒素、水蒸気などの分子や、微粒子にぶつかって散乱します。青っぽい光は散乱されやすく、赤っぽい光は散乱されにくい傾向があります。

光が大気中をどのように進んで、目に届くかによって空の色は変わり、さまざまな表情を見せるのです。

東のほうに朝焼け、暗い空が赤く染まります。陽が昇っていくと晴れていれば青色になり、日没が近くなると西のほうはオレンジ色の夕焼け。雲は白く、曇りなら灰色。夜中は真っ黒、空は星の世界に変わります。

空と空以外が作り出す境界線を“スカイライン”と言います。空と海面とのスカイラインが水平線、空と大地との境界が地平線。

よく知られた柿本人麻呂の歌「さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月渡る見ゆ」(夜は更けたらしい。雁の鳴く声が聞こえる空に月が渡っていくのが見える)など、万葉人たちも空を扱った歌をたくさん作っています。

もっとずっと昔、たとえば縄文人は、空をどんなふうに見つめていたのでしょう。考古学者の小林達雄らの研究によれば、次のように位置づけるようです。

恒久的な人工建造物である竪穴住居に住むようになって縄文人には、イエの「ウチ」と「ソト」の意味ができてきた。イエのソトには狩猟などをする仲間のイエが何軒か集まったムラの世界が広がる。その外にあるのが、ハラ。

旧石器人は自然の中に溶け込んで生きてきたが、縄文人はムラという人工スペースを確保してムラとハラをはっきり区別した。彼らにとってハラは対立するものである一方で、食物を手に入れる場所であり道具の材料を提供してくれるところでもあった。

ハラの外にはヤマ。ヤマの向こうにはソラが広がっている。イエを抱えるムラはヒトの世界、ハラはヒトと自然の共生の世界、ヤマは自然そのもの、ソラはヒトや自然をこえた神の世界。生きて行くことのできない「アノ世」でもあった、というわけです。

「空」という漢字は、「穴」という字と、つきぬける意味を含む「工」が組み合わされてできています。つきぬけて穴があき、中になにもないことを示しているのです。

一方、空のことを、しばしば「天」と呼びます。天という漢字は、人の姿を現す「大」の上に、「一」を置いて、人の上方、すなわち空の方向を示す。人の上方という意味では「空」という字と重なるわけです。

二つの文字を組み合わせれば「天空」。「空=天」は神の住むところとされてきたので、派生的に「天」だけで神を意味することもあります。死後に人の霊がゆく、人が達することができる、神の世界に近いところにある天国。

嬉しくて仕方ないと「天にも昇る心地」になります。しかし、そんな「そら」の「ふかさ」を、詩人は「のぞいてはいけない」といいます。「神さまたちがめじろおししてゐる」、そんな「そらのふかさ」を「のぞいてはいけない」というのです。

2017年11月16日木曜日

金子光晴「燈台」④

光晴がパリから、シンガポールへと渡って4ヵ月ほどマレー半島を旅した後、帰国したのは1932(昭和7)年6月のことでした。

新宿の界隈を放っつきあるいて見つけた連れ込み宿に居座り、貸布団を借りて朝も、晩も、ねむりつづけた。そのころについて『詩人』に、つぎのように書き残しています。

〈東京の街は、相変らず、東方的殷津を極め、消費生活の面がいやにけばけばしく、刺戟的だった。殊に僕の住んでいる周囲は、女給や、その他の水商売の女の巣で、彼女たちの私生活のなかにいっしょになって、ごたごたくらしているようなもので、わずかなあいだにも、目まぐるしい事件が展開していった。

僕の宿でも、検挙があったり、心中があったりした。宿直属の高等淫売が、我家のように通ってきていて、僕のところへ来る客の応対までしてくれ、僕の妻とまちがえるものもあった。旧い友ですぐ昔通りの友交が結ばれたのは、正岡容と国木田虎雄だった。〉

国木田独歩の息子の虎雄は、光晴のスーツケースの中から〈シンガポールを出るとき、乱雑に書いておいた〉という詩を見つけました。

  コークスのおこり火のうへに、
  シンガポールが載つかつてゐる。
  ひび入つたゐ焼石、蹴爪の椰子。ヒンヅー・キリン族。馬来(マレー)人。南洋産支那人(パパ・ナンキン)。それら、人間のからだの焦げる凄愴な臭ひ。
  合歓木(スナ)の花と青空。
  荷船(トンカン)。

  檳榔の血を吐く――赤い眩迷。

  鮫は、リゾール水のなかで、鼻っぱしらが爛れかけてゐる。
  奴らの眼は紅く、ぽっと腫れあがってゐる。

といった、全6章からなる長大な詩「鮫」です。

国木田がこれを中野重治に見せたところ興味を持ち、改造社から出ていた『文芸』という雑誌に「鮫」は載ります。この詩は「その頃の詩壇の主流からは、なんの反響もなかった」ものの、帰国のあいさつがわりにはなったといいます。


帰国を知った実母の「父母の揃った生活の幸福を孫に味わせたい」という配慮から、光晴は実妹が設立した化粧品製造会社「モンココ洗粉」に入って、「一カ月五十円」の給料をもらうようになります。

〈僕の生活は、平坦な道に出ていながら、僕らの肌にふれるその時代の空気は、なんとしても息苦しかった。パリを出発するとき、丁度、満州事変がはじまっていた。満州事変に対する、ヨーロッパ市民の一般の意見は非難的だった。

世界のどこへ行っても、日本人はいづらい立場になりはじめていたが、日本人同士は強気だった。南方の華僑のあいだでは、一層、抵抗が大きく、はっきりした排日の態度をとった。

シンガポールの裏町では、大道の講釈師が人力車夫などをあつめて、「白川大将大敗亡」などというみだしの号外を前において、忠勇馬占山の張飛趙雲まがいの豪傑談を得々と弁じ、聴衆を熱狂させていた。

上海では上陸が出きなかった。上海事件というのがはじまって、瑪頭から揚樹浦の方向へかけてバリケードが築かれ、銃剣をもった陸戦隊の兵士が並んでいて、無理に上陸したものも、舟へとってかえさねばならなかった。呉淞の方向に、砲声がきこえた。

そんな、海外世界の空気を身につけてかえってきた故国日本は、最初のうち、あまり事もなげにみえた。だが、やがて、僕も、そのことなげな故国に底流する、ただごとでないないものにふれ、すこしづつ何事か理解することがあるようになった。

銀座や、新宿には、なにかあると、未曾有の群衆が流れあるいた。日々の享楽にとりつかれたそれらの群衆が、いったいどこへゆくのだろうかとおもうと、僕の心もいっしょに、大きな倦怠、目的のない蕩尽の場面につきあたった。〉

『文芸』に載った詩を見て中央公論の畑中繁雄(1946~1947年同誌編集長) が光晴に詩を頼みにきました。こうして出来た作品が「燈台」でした。

「燈台」が『中央公論』に掲載されてしばらくたった、雪の寒い朝のことです。国木田が〈蒼ざめた顔をしてぶるぶるふるえながら〉やってきました。

〈「たいへんだよ。光ッちゃん」といって、軍人たちがクーデターをはじめて、内閣の閣僚は皆殺されたと報道した。二・二六事件だった。僕も、来るものが来た、という感じがした。〉

2017年11月15日水曜日

金子光晴「燈台」③

金子光晴の生涯の「相棒」となる森三千代=写真=は、1901(明治34)年愛媛県生まれ。光晴より6歳下でした。


上京して東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)に入学して小説家修行をしていましたが、光晴との結婚、出産して学校を退学。結婚後も多くの恋愛遍歴を重ねるとともに、女流作家として活躍しました。

「新しいあいてができたら、遠慮なくお互いにわかれることだった」というのが一緒になるときの条件だったという二人。貧乏生活のなか、1926年(大正15年) 3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわします。

翌年にも、兄の独歩の印税が入った国木田虎雄らと上海を再び訪れ3ヵ月ほど滞在しました。しかし旅行中に、三千代は美術評論家の土方定一と恋におちいってしまいます。

生活苦と三角関係を打開するため、1928(昭和3)年9月に東京を出て、東南アジア、ヨーロッパへのあてのない放浪を始めます。出発時の所持金は、光晴の4円と三千代に入った原稿料の10円だけでした。

上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を工面し、1929(昭和4)年5月には香港へ渡ります。6月にシンガポールへ到達し、風景小品画展を開いて、ジャカルタ、ジャワ島へも旅行。11月、1人分のパリまでの旅費が貯まったので、三千代を先に旅立たせます。

当時の東南アジアにはすでに、多くの日本資本が、ゴム園や鉱山などに進出していました。日本の経済人や地元の農園主らに絵を売るためにジャワ島やマレー半島を歩きまわるうちに、光晴はそこに住む人たちと風景に魅せられていったのです。

「僕は長年のあひだ、洗面器といふうのは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが、爪哇人たちは、それに羊(カンピン)や、魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木陰でお客を待つてゐるし、その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しやぼりしやぼりとさびしい音を立てて尿をする」

そんな前書きが付いた有名な詩「洗面器」もこのころ作っています。

  洗面器のなかの
  さびしい音よ。

  くれてゆく岬(タンジヨン)の
  雨の碇泊(とまり)。

  ゆれて、
  傾いて、
  疲れたこころに
  いつまでもはなれぬひびきよ。

  人の生のつづくかぎり
  耳よ。おぬしは聴くべし。

  洗面器のなかの
  音のさびしさを。

パリへと三千代を送り出した後、光晴は1カ月ほどマレー半島を旅した後、三千代を追う。その船旅の様子を描いたもののなかに次のような文章もあります。

〈僕の寝ている下の藁蒲団のベッドで譚嬢は、しずかに眠っていた。船に馴れて船酔に苦しんでいるものはなかった。僕はからだをかがむようにして、彼女の寝顔をしばらく眺めていたが、腹の割れ目から手を入れて、彼女のからだをさわった。じっとりとからだが汗ばんでいた。

腹のほうから、背のほうをさぐってゆくと、小高くふくれあがった肛門らしいものをさぐりあてた。その手を引きぬいて指を鼻にかざすと、日本人とすこしも変わらない、強い糞臭がした。同糞同臭だとおもうと、「お手々つなげば、世界は一つ」というフランスの詩王ポール・フォールの小唄の一節がおもいだされておかしかった〉(『どくろ杯』)

自分の生理感覚で肉体を通して人間を語ってゆく。光晴ならではの言葉の世界を、このころ手に入れていたのでしょう。

1930(昭和5)年1月、パリで三千代と合流。額縁造り、旅客の荷箱作り、行商など「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」がついにパリに居られなくなり、翌年にはパリを離れて、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せます。

日本画の展覧会を開いて旅費を稼いで、1932(昭和7)年1月、シンガポールへ渡り、4ヵ月ほどマレー半島を旅行した後、6月に帰国。実妹の設立した化粧品会社に広告担当のようなかたちで入り、生活費を得るようになりました。

こうした海外での長い放浪生活を通して光晴は、過酷な植民地支配に虐げられる東南アジアの人々を肌で知り、過酷な収奪をつづける西欧の帝国主義とキリスト教文明のエゴイズムを目の当たりにしました。

1937(昭和12)年に刊行された、「燈台」などが入った詩集『鮫』には、そうした旅を通して、生々しい人間の生の視点から世界を見つめた、批判精神がほとばしる言葉に満ちています。

2017年11月14日火曜日

金子光晴「燈台」②

  いつからか幕があいて
  僕が生きはじめてゐた。
  僕の頭上には空があり
  青瓜よりも青かつた。

  ここを日本だとしらぬ前から
  やぶれ障子が立つてゐて
  日本人の父と母とが
  しよんぼり畳に坐つてゐた。

  茗荷の子や、蕗のたうがにほふ。
  匂ひはくまなくくぐり入り
  いちばん遠い、いちばん仄かな
  記憶を僕らにつれもどす。

金子光晴の『人間の悲劇』という詩集にある「NO.2」というタイトルの詩の冒頭部分です。


金子光晴は、1895(明治28)年12月25日、現在の愛知県津島市に生まれました。日本が日清戦争に勝ち、帝国主義の基盤を築いた年である。生まれて2年後には父が事業に失敗し、店をたたんで名古屋市の知人方に移っています。

光晴が遊んでいると、たまたま建築業「清水組」の支店長をしていた金子荘太郎の若妻の目にとまります。そして、夫妻の養子になることになるのです。そのころ、について光晴は自著『詩人』で、次のように書いています。

〈親戚の女髪結いのもとにあずけられて、無心であそんでいた三歳の僕を、髪結いにきた女たちが、かわるがわる抱きあげてあやした。色が白く、骨なしのようにやわらかいそのあかん坊は、すでにバカボンドの素質をもっていたものか、抱くあいてが誰であっても気にとめないで、三白眼でじっと眺めたり、ぬきうちに、大人とおなじ口をきいて、あいての度肝をぬいたりした。

うまれつきのように画が好きで、壁という壁に、爪で絵を刻りつけた。「坊さん、大きくなったら、なにになるの?」とあいそうに人がたずねると、その子供は、シニックな、おどけた表情をつくって、「手ぬぐいをかぶって」とかたちをしながら、「お尻をはしょって、屋根をみし、みし」と、さんざん気をもたせたあげく、「泥棒になるの」と言った。

えらい画家になるとでもいうのだろうと期待していたあいては、返事のしようもなくて、鼻白んでしまうのだった。そんな僕を抱いたまま、手放すのが嫌になった十六歳の若妻がいた。建築請負「清水組」の名古屋支店長の金子荘太郎の妻のすみだった。

子供のような若妻は、髪を結いに来て、ふと僕を抱いてから、ふたたび下へ置こうとはしなかった。人形を買うつもりで、僕の実父母に交渉し、僕を養子の籍にうつした。実父母は、前途の方策に迷っていた時なので、子供の一人口を減らすことで、それだけ行動が身がるくなるので、手離す気になったものらしい。

十三しか歳のちがわない養母は、疳性で、我儘で、派手好きな、まだ娘と言った方がふさわしい女性だったが、異常なまでの好悪と、美醜の差別感が強かった。彼女は、着せかえ人魚のつもりで、僕をおもちゃにした。髪をのばしておたばこ盆に結い、またくずして、稚児髷に直した。

つくるきものは、女の子の仕立で、柄も、鶴の丸や、雪輪もようの友禅染の女柄だった。弱いから、女装で育てるとよくそだつというのが口実だった。三歳から五歳まで、そんなわけで僕は、女の子のように育てられ、あそびにくる友達も女の子ばかりで、てまりや、きしゃごや、おはじきであそんだ。〉

こうした特異な幼少期をおくった光晴のその後の人生も、放浪に明け暮れた、波乱に富んだものとなるのです。

養子になった光晴は、養父の転勤に伴って京都市へ。そして1906(明治39)年には、東京本店転任で銀座の祖父宅に転居する。銀座竹川町(現・銀座7丁目)のキリスト教教会で洗礼を受け、浮世絵師小林清親に日本画を習います。

1907(明治40)年11月には、12歳の光晴は友人と渡米を企てて家出、横浜、横須賀と20日ほど転々とします。放浪中の不摂生で体をこわし、翌年3月まで床に臥せることになります。

1909(明治42)年、夏休みには、徒歩で房総半島を横断旅行。中学の校風に反発し、翌年には長期間学校を休んだため留年となります。関心は現代文学に向かい、小説家を志望。1912(明治45/大正元)年には同人誌を発行し、級友に回覧しています。

1914年(大正3年) 4月、早稲田大学高等予科文科に入学しますが自然主義文学の空気になじめず、翌年2月には中退。4月には東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学するものの、8月には退学。翌9月には慶應義塾大学文学部予科入学と、入退学を繰り返します。当時のすさんだ生活を振り返って光晴は後に、「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。

肺尖カタルにより、3ヵ月ほど休学して、1916年(大正5年) 6月、慶應義塾大学を中退。保泉良弼、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめます。ボードレール、北原白秋などの詩を読みふける。7月には、石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行します。

1918(大正7)年12月、養父の友人とともに2年余にわたるヨーロッパ遊学に旅立ち。その間の1919年1月、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行しています。

1924年(大正13年) 1月には、東京で小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係に。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(お茶の水女子大学)を退学して、室生犀星の仲人により結婚することになります。

困窮した生活にあえぎながら、二人の世界をまたに掛けての放浪生活がはじまるのです。このとき、光晴は29歳でした。

2017年11月13日月曜日

金子光晴「燈台」①

きょうから、金子光晴の「燈台」という詩を再読します。

   燈台

    一

そらのふかさをのぞいてはいけない。
そらのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

飴のやうなエーテルにただよふ、
天使の腋毛。
鷹のぬけ毛。

青銅〈からかね〉の灼けるやうな凄じい神さまたちのはだのにほひ。秤〈かんかん〉。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらのふかさからおりてくるものは、永劫にわたる権力だ。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

信心ふかいたましひだけがのぼる
そらのまんなかにつつたつた、
いつぽんのしろい蝋燭。
――燈台。

    二

それこそは天の燈守(あかしもり)。海のみちしるべ
 (こゝろのまづしいものは、福〈さいはひ〉なるかな)
包茎。
禿頭のソクラテス。
薔薇の花のにほひを焚きこめる朝暾の、燈台の白亜にそうて辷りながら、おいらはそのまはりを一巡りする。めやにだらけなこの眼が、はるばるといただきをながめる。

神……三位一体。愛。不滅の真理。それら至上のことばの苗床。ながれる瑠璃のなかの、一滴の乳。

神さまたちの咳や、いきぎれが手にとるやうにきこえるふかさで、
燈台はただよひ、

燈台は、耳のやうにそよぐ。

    三

こころをうつす明鏡だといふそらをかつては、忌みおそれ、
――神はゐない。
と、おろかにも放言した。
それだのにいまこの身辺の、神のいましめのきびしいことはどうだ。うまれおちるといふことは、まづ、このからだを神にうられたことだつた。おいらたちのいのちは、神の富であり、犠とならば、すすみたつてこのいのちをすてねばならないのだ。
………………。
………………。

つぶて、翼、唾、弾丸〈たま〉、なにもとどかぬたかみで、安閑として、
神は下界をみおろしてゐる。
かなしみ、憎み、天のくらやみを指して、おいらは叫んだ。
――それだ。そいつだ。そいつを曳きずりおろすんだ。

だが、おいらたち、おもひあがつた神の冒涜者、自由をもとめるもののうへに、たちまち、冥罰はくだつた。
雷鳴。
いや、いや、それは、
燈台の鼻つ先でぶんぶんまはる
ひつつこい蠅ども。
威嚇するやうに雁行し、
つめたい歯をむきだしてひるがへる
一つ
一つ
神託をのせた
五台の水上爆撃機。


「燈台」は、1935(昭和10)年12月に、『中央公論』に発表されました。金子光晴はこの年、40歳。喘息の発作で苦しむことが多くなっていたころの作品です。

翌年2月には、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483人の兵を率いてクーデターを試みた「二・二六事件」が起こっています。

その翌年、1937(昭和12)年7月には、北京の南西15kmの盧溝橋で、日本軍と中国国民革命軍が衝突。これが引き金になって、日中戦争が勃発します。

盧溝橋事件が起こった直後の昭和12年8月、金子光晴は詩集『鮫』(人文社)を刊行します。「燈台」は、「鮫」「おつとせい」「紋」などとともに、その中に収められました。

2017年11月12日日曜日

立原道造「はじめてのものに」⑭

立原道造の日記や手紙の中に、水戸部アサイが姿を現すようになるのは、石本建築事務所に入って1年後の1938(昭和13)年4月以降のことです。

その前年の昭和12年10月、道造は突然発熱し、肋膜炎と診断されます。そして医師から当分安静にするように命じられています。

翌11月には、静養のため信濃追分へ。「はじめてのものに」の恋の舞台ともなった油屋に滞在していましたが、滞在中に油屋は火災で消失してしまうのです。幸い道造は、2階から辛くも逃れて助かりました。


病いが刻々と自身の体を蝕んでいくなか、追分で出会った少女たち、すなわち「はじめてのもの」たちとのポエティックな夢想の恋にかわって、アサイとの、ある意味で散文的な、現実の恋愛が展開されていくことになります。

〈……僕らは今はじめて新しく一歩を踏み出す。『風立ちぬ』としるしたひとつの道を抜け出して〉と、新生への力強い意志を示したエッセー「風立ちぬ」をはじめ、最後の旅から紡ぎ出された「盛岡ノート」「長崎ノート」など、アサイとの現実の愛をよりどころに生まれた晩年の散文作品は、そのころの詩よりずっと輝いているように思われます。

道造はアサイを愛するようになって1年後の1939(昭和14)年3月29日、血痰による喀痰不能のため息を引き取ります。享年24歳。

三好達治は道造の詩を、「青春の園生に吹く微風の声のような、そこはかとない爽やかなリズムをもった、明るいすがすがしい、そういう年頃の魂のみを訪れる哀感に満ちた、思想的というほどには沈潜した面影のない、軽やかな音楽」と評しています。

私はといえば、道造の詩は正直、あまり好きではありません。読むと立ち所にむず痒くなるのです。そんな道造の詩の中にあって、これまで読んできた「はじめてのものに」は、表現はゴタゴタしていてぎこちなさを感じますが、それがかえって青春の一断面を実態として浮かび上がらせてくれるようで、心地よく読むことができます。

書いた詩が好きとはいえない、とはいっても、道造の日本語は実に美しいと思います。たとえば、死の前年の11~12月に病をおして出かけた長崎への旅から生まれた、比類ない珠玉の散文「長崎ノート」を読むと、あの萩原朔太郎でさえ文語へ回帰していった時代に、日常の言葉をここまで高めることができたのか、とあらためて驚嘆します。

道造が逝って半年後の1939年9月、ドイツのポーランド侵攻を機に第2次世界大戦が始まります。戦争の闇をくぐらず“青春の詩人”の軽やかなリズムだけを残していった立原道造。

だからこそ、道造の詩は輝き続けてきたのでしょう。でも、戦後を生きていたらどんな(苦渋に満ちた)言葉を残したのか。やっぱり、読んでみたかったなという気もします。

2017年11月11日土曜日

立原道造「はじめてのものに」⑬

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

道造は子どものころから、歌舞伎役者の声色や物まねがうまかったといわれます。とりわけ、鹿の真似が真に迫っていたとか。信濃追分で出逢い、そして別れていった少女たちにも冗談を言ったりからかったり、笑い声にあふれた夏のひとときを過ごしていたのでしょう。

「はじめてのものに」は、第1詩集『萱草(わすれぐさに)に寄す』の中に収められています。松永伍一は、追分の少女たちとの別れについて、次のように指摘しています。

〈詩集のタイトルを『萱草に寄す』としたのは暗示的だ。「忘れること」より「忘れさせる」心理の働きが、過ぎ去っていく束の間の夏にこそふさわしかったから。それは、現れたものは初めから消えていくべき運命を夏の日の恋が負うているということを、確認することが詩人立原の流儀だった。

少女とめぐりあうのは、結婚するという通俗の道筋とはまったく無縁のものであった。会うのは所詮別れるためであり、それが詩のテーマとして立ちあがるとき、恋という行為をも「忘れさせる」ことが、かれの正統な手続きであった。そのためには追分の少女たちは去っていかねばならなかった〉

去っていった少女たち。それと時を同じくして、建築を専攻していた道造の学生生活も終わります。そして今度は、鮮明でたしかな恋愛の対象であり、最後の恋人ともなった女性に出逢うことになります。その出逢いについて、小川和佑著『立原道造 忘れがたみ』には、次のように記されています。


〈「帝大の立原ですが……」それが水戸部アサイ=写真=の聞いた最初の立原の声だった。昭和十二年三月、立原は石本建築事務所に来意の電話をかけて来た。

石本建築事務所では毎年、東大と早大からその年の最も優れた卒業生を一名ずつ採用することになっていた。立原はその一人だった。

しかし、水戸部アサイは、そうした事情をよく知らされていなかった。電話の声はよく響く太い声だったから、水戸部アサイは、たぶん立原氏というのは帝大の若いが偉い先生かなにかで、所長の石本氏の友人だろうと思った。

――だが、その「立原氏」が受付けに現われて見ると、電話の声の印象とはまったくうらはらな、ひどく痩せて、やたらに丈ばかり高い、髪の長い学生だった。

応対しながら、水戸部アサイは、なんだかさっきのひとり合点がおかしかった。この帝大の「立原氏」はひょろ長い足を踏みしめるようにおづおづと事務所に入って来たのだ。

それにしても声だけは堂どうと、さっきの電話のように太く、逞しい男性を思わせる声だったので、その不均衡が、なんとなくまたおかしかった。〉

実際にアサイに会ってもいる小川によれば、この女性は「立原が愛したどの少女にも似ていない」といいます。〈美しさだったら松竹歌劇団の北麗子(今井静枝)に及ばない。才気でいえばあの関鮎子がより勝っている。優雅な物腰や言葉づかいなら、学友柴岡亥佐雄の遠縁の少女横田ケイ子が対照的に思いかえされる〉(同書)。

きっと、追分の少女たちになかったアサイの温かく豊かな何かが、道造の心を激しく揺さぶったのでしょう。

2017年11月10日金曜日

立原道造「はじめてのものに」⑫

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「灰の煙の立ち初めた」すなわち、恋のときめきを感じたその日から、幾夜もエリーザベトの悲恋の物語を夢みたというわけです。

エリーザベトの物語、前回みたシュトルム『みずうみ』を持ち出すまでもなく、追分の少女たちは必然のごとく詩人の前から去っていきます。

〈去年の秋の頃から、指折りかぞへてゐたらこの頃は、おや指と人さし指しか曲げないで、もう夏休みまでの月日をかぞへられます。

夏が来たら! とばかり思ひつづけたが、かうしてその日々近づくと、去つて行つた少女との再会など思はれ、何のたのしさも湧いて来ません。

諦めきれぬ心のどこかが、その少女の行方とどめる夢とたくらみに波打ちます。風景、季節など何の心もそそつてくれない。しかし、今年の夏は、卒業論文の勉強するのでいそがしいのです。また、論文は美学なのです。〉


「はじめてのものに」を発表した翌年の1936(昭和11)年の5月12日に友人の杉浦明平にあてた手紙の一節には、こんなふうにあります。

いっしょに追分を散策した「ゆふすげびと」の関鮎子はちょうどこのころ、内田源太郎という人と結婚しています。

そして鮎子は、その4年後、岡崎でこの世を去ります。23歳の若さでした。

道造は、杉浦に傷心の手紙を書いた昭和11年夏にも信濃追分を訪れています。そこで再会した、ともにモーツァルトを聴いた今井春枝も、その年の8月に結婚しました。

そんな春枝との別れをモチーフにしたと思われる散文「花散る里」には、次のような描写があります。

〈馬車の窓を隔てて青年と少女が顔を見合わせてゐた、彼たちの間に交される言葉はもうなにもなかつた。少女は考へてゐた、その前の夜、青年の口を不用意に洩れた一言を。

――あの娘も秋になるとお嫁に行つてしまうのだ、と。少女はそれがいぶかいかつた、私はこの季節のはじめの明日、お嫁に行くのに、と。

しかし、その意味を悟つたときに、少女の姿はふたつにたちきられたやうだつた。少女はその酷い言葉を今も窓の外に見つめてゐた。

どこにあるとも知れず、村中に咲いてゐる林檎の花のにほひがつめたくこめてゐた〉

2017年11月9日木曜日

立原道造「はじめてのものに」⑪

  ――人の心を知ることは……人の心とは…… 私は
  そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「エリーザベトの物語」というのは、ドイツの作家、テオドール・シュトルム1817-1888)の『みずうみ』(原題:Immensee)のことでしょう。


『みずうみ』はシュトルムが32歳だった、1849年に発表。その2年後に刊行された"Sommergeschichten und Lieder"(夏の物語と歌)という短篇集に収録されています。

物語は、老いたラインハルトの回想のかたちをとります。

子どものころからラインハルトは、幼なじみの5歳年下の少女エリーザベトに心を寄せ、エリーザベトもラインハルトを慕っていました。

2人は休みにはいつもいっしょ。ラインハルトは彼女に童話を読んで聞かせたりしていたのです。

やがて、ラインハルトは大学へ進むため、エリーザベトと離れなければならなくなります。

復活祭で帰省すると、取った手を引っ込めようとするエリーザベト。ラインハルトは、何かよそよそしいものがはいり込んできたように感じます。

そして、エリーザベトの母から、ラインハルトの学友のエーリッヒが湖畔の別邸を父から相続したことを聞きます。

2年ほどたって、研究に励むラインハルトのもとに手紙が届きます。エリーザベトがエーリッヒからの結婚の申し入れを、ここ3カ月のあいだに2度も断っていたものの、とうとう受け入れたという内容でした。

さらに数年たって、ラインハルトはエーリッヒの邸宅を訪れ、結婚したエリーザベトとも再会します。民謡を蒐集する仕事をしているラインハルトは、ある日の夕暮れ近く、エーリッヒ夫妻やエリーザベトの母の前で民謡を朗読します。

中に、母のすすめで思い定めた人をあきらめ、別の人と結婚したのを悔いる次のような詩が含まれていました。

  母は欲(ほ)りせり君ならで
  あだし男に添えかしと、
  思いさだめしかの君を
  忘れ果てよとつれなくも、
  されど得堪えじわが思い。

  われは嘆こうわが母の
  とらせし道のたがいてし、
  かからざりせば尊かる
  恋も罪とはなりはてて、
  ああいかにせむこの嘆き!

  なべての誇り喜びに
  かえて得たるはこの悩み、
  ああこの憂い見むよりは
  枯野の上をさまよいて
  物乞う子ともなりはてむ!
     (訳・関泰祐)

読んでいるうちにラインハルトは、紙が震えるのを感じます。彼が読み終えると、エリーザベトはそっと倚子をうしろにずらして、黙って庭へおりていきました。開けはなしてあるドアのそばを、蛾がぶんぶんうなりながら飛びすぎていきました。

それから何日かたった早朝、ラインハルトは、2、3行の書付を机の上に残して、夫妻に黙って屋敷を出ていこうとします。しかし、それを察したエリーザベトが立っていました。彼女は手を彼の腕の上においた。

「わたしにはわかっていますわ。嘘はおっしゃらないでください。あなたはもう、二度といらっしゃらないのね」

「ええ、もう伺いません」

と彼は言いました。彼女は手をおろし、もう、ひとことも口に出しませんでした。

2017年11月8日水曜日

立原道造「はじめてのものに」⑩

明治、大正生まれの文化人の作品を読んでいると、若くして身につけた教養の深さ、広がりに驚くことがしばしばあります。

立原道造にも、詩をはじめ、建築、絵画などに見られる人並み外れた才気だけでなく、さすがは当時の帝大生だけあって、その教養や表現力の成熟ぶりにも目を見張ります。

と同時に、その恋愛には、現代の感覚からするとずいぶんと純で、プラトニック、情熱的でありながらなんとなく可愛らしく思えたりもするのです。

その成熟した教養、表現力と、ウブな若々しさとのギャップがまた魅力となって、いまも瑞瑞しい青春の文学として新鮮さを保ちつづけているのかもしれません。

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

さて、夏の信濃追分で出あった「ゆふすげびと」とも呼ばれた「ひと」との交際はどのようになっていったのでしょうか。

〈僕は不吉な悲しい恋をしてゐる。相手の人はfianceがあるのだ。しかし僕らは愛しつくされない位互に愛しあつてゐる。しかも、僕らは果ての日には他人のやうにとほく別れなくてはならないのだ。

相手の人はひとりの女の人を、同時に愛してゐる。そして僕は、友だちを、おそらくは愛さうとはせずに彼からただ愛されようとばかり念つてゐる。……二人の人を、ひとは同時に愛せるのだ。

この不吉な敗北の恋はしかしたのしいみせかけをして、一日一日僕の心とじやれてゐる。うつかり何もかも忘れて僕はうれしくなつてしまふのだつた! だがそれだけのことだつた、不吉に哀しかつた〉


これは、「はじめてのものに」が『四季』(第12号)に載ったころの、1935(昭和10)年11月12日、柴岡亥佐雄にあてた手紙の一節です。

小川和佑『立原道造・愛の手紙』などによると、ここで「僕の心とじやれ」ながらも、若者らしい恋の不安を感じている対象の女性は、前にもふれた関鮎子のようです。

道造は、1934(昭和9)年7月、植物学者で歌人の近藤武夫に招かれて初めて訪れた信濃追分で、近藤を介して鮎子を識り、いっしょに「岐れ道」や遊女の墓などを散策する仲になりました。

再び追分を訪れていた翌35年8月16日には、道造は柴岡の遠縁の一家に招かれて、横田ミサオ・ケイ子姉妹に会い、妹のケイ子に心惹かれます。

が、翌17日には、千葉から来た鮎子と再会。すると鮎子にも心が傾きます。しかし、鮎子のほうは近藤の助手の久保秀雄に、より好意を寄せていたようです。

鮎子が千葉へ帰ったあと、滞在先の油屋で、箏曲家今井慶松の次女春枝(北麗子)と親しくなります。いっしょにモーツアルトのレコードを聴き、音楽への理解を深めています。

東京へ帰った11月、道造は、東大のキャンパスで近藤にばったり会いました。「近藤さんとタムラでお茶をのみ、あの自転車に乗つて街道を走つた少女・鮎子ちやんの写真を見せてもらつたけれど近藤さんはケチンボで僕には与えなかつた」(10月26日、柴岡あて手紙)と記しています。

才に長けるが、まだまだ本当の恋愛を知らないウブな帝大生が、恋に恋して、片思いに悶々としている。当時の道造はそんなふうにも見えます。

2017年11月7日火曜日

立原道造「はじめてのものに」⑨

〈この宿屋には、もう夏からずつとゐるのは僕きり。さうしてそのほかのひともゐないゆゑ、この廣い家のなかにも、宿屋の人たちのほかは、僕きり。

さみしいといへばさうかも知れないが、ひとり炬燵にはひり、本をよんでゐれば、たのしいといふ方がいい。よんでゐるのは、藤原定家歌集。

(秋の夜のかがみと見ゆる月かげは昔の空をうつすなりけり。)

(いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ。)

これが萬葉の歌より、いまの僕の心に近いといへば、それは僕の心がかげ日向多く、うつくしきもの念ふことしきりだといふのだらう。萬葉集とは童謡のごとく面白いが、何だか身近ではない。〉

「はじめてのものに」が発表された昭和10(1935)年の9月15日、滞在していた信濃追分の油屋から友人の小場晴夫にあてて送った手紙の冒頭の部分です。

「いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ」は、定家の自撰家集「拾遺愚草」の中にある一首。「みねに烟の立ち初めけむ」は、恋のはじまりを暗示しているのでしょうか。

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

最終連の「いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか」が、道造が敬愛していた定家の「いまぞ思ふいかなる月日ふじのねのみねに烟の立ち初めけむ」によっているというのは、間違いないところでしょう。

定家の歌の「みねに烟の立ち初めけむ」のように、道造の詩の「みねに灰の煙の立ち初めたか」も、恋のはじまりを告げているのかもしれません。


今年6月、関連する文化財群とともに世界文化遺産に登録された富士山。

その名の由来を、あの“かぐや姫”の『竹取物語』に求める説もあります。

物語の最後の場面。帝が「后に来てくれ」と嘆願するが、かぐや姫は「私はこの世の者ではありません。もうすぐ使者がまいります」と言って、昇天していきます。


この際、かぐや姫は、不死の薬を帝に渡します。しかし「姫に二度と会えないのに、長生きしても何の意味があろう」と帝は嘆き、武士をたくさん遣わして、その薬を富士山の頂上で燃やしてしまいます。

帝が「不死」の薬を山頂で焼いたから、あるいはたくさんの「武士」が登ったから、「フジ」と呼ばれるようになったというわけです。

すでに見たように、小場晴夫に手紙を出した1カ月余り前の昭和10年8月5日に、道造は「地異とはまたすさまじいもの」と、当時たびたび起こって被害も少なくなかった浅間山の爆発を初めて見て、強い衝撃を受けています。

源氏物語のころから、並び称せられていた浅間と富士という二つの火山。

詩の「火の山の物語と……また幾夜さかは」というのは、『竹取物語』が道造の念頭にあったのでしょうか。

それはちょっと深読みのしすぎで、現に、その身でも実体験している、恋愛という心の異変をも含めた「地異」を、「火の山の物語」といっているのでしょうか。

2017年11月6日月曜日

立原道造「はじめてのものに」⑧

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり

  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた

「それは僕のソナチーネだつた」と言った道造の詩の“音楽性”の秘密は、どこに潜んでいるのでしょう。その音数律にあるのでしょうか。たとえば、第1連目を見ると――

  ささやかな【5音】地異は【3音】 そのかたみに【6音】
  灰を降らした【7音】 この村に【5音】 ひとしきり【5音】
  灰はかなしい【7音】追憶の【5音】やうに【3音】 音立てて【5音】
  樹木の【4音】梢に【4音】 家々の【5音】屋根に【3音】 降りしきつた【5音】

5音が確かに多いようですが、日本語に特徴的な、5音、7音を基調にして3音などの破調を交えながら音楽的なリズムを刻んでいる、というようにはどうも感じられません。

近藤基博は「十四行詩の音楽性」(「国文学解釈と鑑賞」別冊『立原道造』)という論文で、詩の句末の「に」や「た」に注目しています。

〈第一連であれば、一行目「そのかたみに」の「に」音が、二・三・四行中の、「この村に」「灰はかなしい追憶のやうに」「樹木の梢に」「家々の屋根に」といった各句末の「に」音と響き合い、四行目「降りしきつた」の「た」音は、二行目「灰を降らした」の句末にある「た」音と響き合っているといった効果である。

これらはまた、「に」音が、二行目「ひとしきり」の「り」音とイ段音同士の響きを作り、「た」音が、一行目「ささやかな地異は」の「は」音とア段音同士の響きを作り上げて、さらに、こうした響き合いは各連中に留まらず、詩全体の各連各句末、あるいは各句中の音韻と反響呼応し合い、複雑な音韻効果を作り出している。〉


さらに、〈彼の詩の手法に見られる対句や繰り返しが、詩として脚韻といった側面を目立たせることもあるが、日本語の詩において、単に行末の脚韻を踏み揃えただけではその音韻効果はあまり期待出来ない。

むしろ、頭韻・脚韻を含めて、詩句の中に同音・同段音が連続的に繰り返されることによって音楽的効果を持ち得るのであって、立原の詩ではそれに成功しているのである〉としています。

音楽性についての細かな分析はともかく、1937(昭和12)年6月26日、道造の詩に今井慶明が曲を付けた組曲「ゆふすげびとの歌」が、上野の東京音楽学校奏楽堂=写真=で演奏されました。テナー独唱・酒井弘、ピアノ伴奏・外猟仲一。

道造は「この方の《ゆふすげびとの歌》は《鳥啼くときに》と《わかれる昼に》のふたつから成ってゐて詩集におさめたソナチーネ・1番とはすこしちがつてゐる」(風信子一)と記しています。

曲譜は現存していないようですが、こうして道造の「ソナチーネ」は、音楽になったのです。

2017年11月5日日曜日

立原道造「はじめてのものに」⑦

〈重なりあつた夢は、或る日、しづかに結晶した――

僕は風信子叢書の第一篇に《萱草に寄す》と名づけて、楽譜のやうな大きい本を持つことが出来たのだ。

それは僕のソナチーネだつた。クラヴサンとフルートのために。二つのソナチーネと小曲・夏花の歌をおさめて。そしてひとつの詩はひとつのカットで飾られた。

《萱草に寄す》のうちソナチーネ一番は《ゆふすげびとの歌》とも名づけられる。萱草はゆふすげである。それは高原の叢で夏のころ淡く黄く咲く花だつた。そしてそれは夕ぐれの薄明かりを愛する花だつた。

僕の村ぐらしの日々はその花の影響の下にあるのを好んだ。この詩集は古い師友と日ごろ敬愛する少い知り人とだけに配つた。はじめてのものゆゑ、人知れずそのおもひを身近に愛したかつたために。

 ……僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなつて、たしかめられず心の底でかすかにうたう奇蹟をねがふ。

そのとき、この歌のしらべが語るもの、それが誰のものであらうとも、僕のあこがれる歌の秘密なのだ。〉

前回、少しだけ引用した「風信子(一)」に道造は、詩集『萱草に寄す』についてこのように記しています。

「ソナチネ」はふつう、クラシック音楽のジャンルあるいは形式名をいいます。バロック音楽では、単に短い器楽曲のことを指していたようですが、古典派以降は、わかりやすくて演奏しやすい短いソナタのことを言うようになりました。

ソナタ(奏鳴曲)の小さいもの、というところから「小奏鳴曲」とも訳されることもあるそうです。たいてい2楽章か3楽章構成で、最初のほうは通常、ソナタ形式で作られますが、展開部や再現部の一部が省略されたりします。

ソナチネと聞いて私が真っ先に思い出すのは、ピアノの練習に欠かせないクレメンティの作品です。それから、以前やっていたギターで挑戦したポンセの「南国のソナチネ」。結局、最後まで弾ききれずに終わってしまいましたが。


クラヴサン=写真、wiki=は、ビアノのように弦をハンマーで叩くのではなく、プレクトラム(爪状のもの)で弾いて音を出す撥弦楽器です。フランス語読み由来の呼び名で、英語でいうハープシコード、ドイツ語のチェンバロにあたります。

いま読んでいる「はじめてのものに」に始まり、「またある夜に」「晩(おそ)き日の夕べに」「わかれる昼に」「のちのおもひに」とつづく、《ゆふすげびとの歌》である第1のソナチネ。

そして、小曲(夏花の歌)をはさんで、「虹とひとと」「夏の弔ひ」「忘れてしまつて」からなる第2のソナチネ。これら『萱草に寄す』を構成する詩は、すべて14行詩です。それらが、楽譜のような本に収まっているのです。

確かに『萱草に寄す』を通読すると、一つの微妙な音楽的リズムを刻みながら、クレメンティのソナチネのように言葉がすっと流れてきます。私には、この詩集全体が、一つの「小奏鳴曲」のようにも思われます。

道造きっと音楽が相当に好きだったのでしょう。それだけでなく、音楽を、詩という言葉とそのリズムで表現しようとする若々しい意気が「聞こえ」てくるような気もするのです。

2017年11月4日土曜日

立原道造「はじめてのものに」⑥

「はじめてのものに」は、4行、4行、3行、3行の14行詩です。道造の詩には、この形式の14行詩がたくさんあります。

こうした14行詩は、しばしば「ソネット」といわれていますし、道造自身もそういう呼び方をしています。

けれど私は、「ソネット」と呼ぶのには、なんとなく抵抗を感じています。それは、西洋の3行詩を「ハイク(HAIKU)」と呼ぶのに似た違和感からかもしれません。

ソネットは14行からなるヨーロッパの定型詩。もともと「小さな歌」という意味があるそうです。13世紀にそれは、厳格な押韻構成と特定の構造を持つ14行の詩を意味するようになりました。

ルネサンス期にイタリアで盛んになり、英語詩にも取り入れられて代表的な詩形のひとつとなります。

本来のイタリア風ソネットは、二つの部分に分けられ、前半の8行で問いを投げかけ、後半の6行で答える。それをつなぐ9行目は、「ターン」の役目を担っています。

押韻構成は、前半8行が「abab abab」や「abba abba」、後半6行は「cdecde」や「cdccdc」、やがて「cdcdcd」という変化形も採用されています。


最も有名なソネット詩人といえば、154篇のソネットを書いたウィリアム・シェイクスピア=写真、wiki=でしょう。4、4、4、2行からなるシェイクスピア風ソネットの押韻構成は「abab cdcd efef gg」です。

ソネットは構成や押韻だけでなく、韻律にも特徴があります。伝統的に、英語詩の場合は弱強5歩格、ロマンス諸語では、11音節かアレクサンドラン(12音節)が広く使われています。

道造の「はじめてのものに」を読むと、それが、イタリア風やシェイクスピア風などヨーロッパのソネットの押韻法によってはいないことがわかります。シラブルをきっちりそろえているわけでもなさそうです。

菅原克己著『詩の辞典』のソネットの項をみると、「14行詩。古いドイツの詩形からから出て、イタリア、フランス、イギリスに伝わった。西洋のものはうるさい約束があるが、日本では14行の詩行を、4、4、3、3、或は、8、6に分けて書く程度で試みられている」とありました。

詩集『萱草に寄す』は、「SONATINE NO.1」、「夏花の歌」、「SONATINE NO.2」の3部に分かれ、「はじめてのものに」は「SONATINE NO.1」の冒頭に置かれています。

この詩集について道造は、「それは僕のソナチーネだつた。クラヴサンとフルートのために、二つのソナチーネと小曲・夏草の歌をおさめて。そしてひとつの詩はひとつのカツトで飾られた」(「風信子一」)と記しています。

道造は“ソネットの詩人”だ、というよりも、“ソナチネの詩人”と言うほうが、私にはぴったりとはまるような気がします。

2017年11月3日金曜日

立原道造「はじめてのものに」⑤

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

それにしてもタイトルの「はじめてのものに」の「もの」とは、何のことを言っているのでしょう。関鮎子ら恋愛の対象となった「女性」のことを指しているのでしょうか。それとも「恋の思い」そのものなのでしょうか。


この詩が『四季』に掲載される直前の1935(昭和10)年8月5日、道造が2度目の信濃追分滞在をしていたとき浅間山が噴火しています(写真は、昭和48年)。

「けさ浅間の爆発にはじめて立ち会つた。それは雲の絶間から眺められたのだが、りつぱなものであつた。地異とはまたすさまじいものであろう」(猪野謙二あて書簡)。

そんな、すさまじい火山の噴火という「地異」が「はじめてのもの」なのでしょうか。

これらどれであったにしても、タイトルとしてはあり得るし、どれでなければならない、ということもないような気がします。それらすべてを含んだ抽象的な名詞なのでしょう。

実際には、かなり具体的な「もの」を指しています。にもかかわらず、こうしたある種の“あいまい化”用法を使うことによって、現実的な意味あいを残しながも、そこから距離を置いて人や物を見つめることができるのです。

「はじめてのものに」が入った道造の第1詩集『萱草に寄す』について、吉本隆明は次のように記しています。

「言語的には指示代名詞や人称代名詞を主語として、日本語よりも印欧語的に繁多に繰返し用いることで、景物や事象を代名詞的世界の水準に抽象し、独特な背景の世界を造りだした。そのあいだにごく少数の具象的な草花の名や事物の名をあしらうことによって〈美〉を構成した」(『吉本隆明歳時記』)

吉本のいう「代名詞的世界」の構築には「もの」だけでなく、「私はひとと/窓に凭れて語りあつた」「そのひとが蛾を追ふ手つきを」と確かな実在性をもちながら代名詞的な表現になっている「ひと」もまた大きく寄与しています。

道造は柴岡亥佐雄への手紙で〈エリザベートとのめぐりあひをうたつて、「はじめてのものに」といふ詩を書いた。四季の十一月号に出した。「もしエリザベートたちが見ることなどあつたら。」そんなことを考へて、今まで僕のうたつた世界が、いかにdas Lebenにとほかつたか、わかつたやうに思つた〉と記しています。

「ひと」は、道造が実際にエリザベートと呼んでいた柴岡の遠縁の横田ケイ子なのでしょうか。月光の中でともにモーツァルトを聴いた北麗子かもしれないし、ゆふすげの花と同じ黄色い帯をしめた関鮎子なのかもしれません。

そんなことはどうでもいいといってしまえば、その通りですが、ついそんな詮索ができるのも、この詩の「代名詞的世界」の魅力なのでしょう。詩人が、そこまで目論んでいたのか、それとも「代名詞的」な表現にしなければなんらかの支障がでてくる事情があったのか。そんな詮索までも、楽しめます。

ともかく、ある女性をイメージしていることは確かですが、それは「ひと」でしかありません。憶測をめぐらして周りがじれったくなりそうなあいまいさの間隙をぬうようにして、初めて本当の恋をする心の小刻みな鼓動が聞こえてくるのです。

あいまいな代名詞的世界であるがゆえに、その心の波動はよりはっきりと、そして、かなしい追憶のように音をたてて降りしきる「地異」と共鳴して、響いてくるように思われます。

2017年11月2日木曜日

立原道造「はじめてのものに」④

これまで見てきたように、道造は1934(昭和9)年夏、約1カ月にわたって、信濃追分で初めての村ぐらしを体験しました。

滞在中に20歳を迎えた帝大生でした。

当然のごとく、年ごろの女性たちとの出会いがあり、恋心がふくらんでゆきます。

そんな一人に、関鮎子がいました。

当時18歳だったとされる鮎子は、追分の本陣「永楽屋」の孫娘で、千葉市で弁護士を開業していた関一二の娘。

親のふるさとの追分に、遊びに来ていたのです。

道造をに追分に招いた近藤武夫の身の回りの世話を彼女がしていたのがきっかけで、親しくなったようです。

道造は鮎子を連れ立って、村外れの「岐れ道」や遊女の墓などをしばしば散策しています。

  あの人は日が暮れると黄色な帯をしめ
  村外れの追分け道で 村は落葉松の林に消え
  あの人はそのまゝ黄いろなゆふすげの花となり
  夏は過ぎ……

その年の『四季』第2号に掲載された道造の詩「村ぐらし」の中に、こんな一連があります。


ユウスゲ(夕菅)=写真、wiki=は、ユリ科の多年草。初夏、淡黄色のユリに似た細長い花が夕方開き、翌日の午前中にはしぼみます。「黄いろなゆふすげの花」となった「あの人」とは、鮎子のことなのでしょうか。

道造はほかに、翌1935(昭和10)年夏の追分滞在では、東大の級友、柴岡亥佐雄の遠縁にあたる横田ケイ子、さらには昭和の大検校といわれた山田流箏曲家今井慶松の次女で、松竹歌劇団の今井静枝(北麗子)とも親しくなり、恋慕の情を抱いていたようです。

立原道造の研究家、小川和佑は著書『立原道造 忘れがたみ』の中で、〈この3人の信濃追分の少女たちが、立原の詩と散文のなかの1人の少女「ゆふすげびと」であった。立原のこの少女たちとの愛は、いって見れば夢と現実の境界が定かでない立原の夢幻の詩的世界のなかに溶解している〉と指摘しています。

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲(こえ)が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

私たちがいま読んでいる詩「はじめてのものに」に出てくる「ひと」も、信濃追分で出会った3人の少女たちが、立原の夢幻の詩的世界のなかで溶解している「ゆふすげびと」なのでしょうか。

2017年11月1日水曜日

立原道造「はじめてのものに」③

  小諸なる古城のほとり 
  雲白く遊子(いうし)悲しむ
  緑なす繁蔞(はこべ)は萌えず
  若草も藉くによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡邊
  日に溶けて淡雪流る

  あたゝかき光はあれど
  野に滿つる香(かをり)も知らず
  淺くのみ春は霞みて
  麥の色わづかに靑し
  旅人の群はいくつか
  畠中の道を急ぎぬ

  暮れ行けば淺間も見えず
  歌哀し佐久の草笛
  千曲川いざよふ波の
  岸近き宿にのぼりつ
  濁り酒濁れる飲みて
  草枕しばし慰む

島崎藤村の有名な「千曲川旅情の歌」です。この詩にも出てくる、ゆったりとした雄大な山容、しかし、しばしば怒りを顕わにするように噴煙をのぼらせる浅間山は、近くに住んでいる人たちにとって、親しくもあり、畏怖の的でもある特別な存在でしょう。

長野県出身の私も、そんな1人です。学生時代も、サラリーマンになってからも、「あさま」の車窓から、幾たび標高2568メートルの浅間山を眺め、励まされたことでしょう。


浅間山=写真、wiki=は三つの火山体で構成され、それらは浅間烏帽子火山群ないし浅間連峰と総称されています。

一帯は数十万年前から火山活動が活発でした。

気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、ランクAの活火山に指定。

活動レベルに応じて入山規制をしています。

溶岩流や火砕流をともなう大噴火としては、4世紀、1108年、1783年のものが知られています。だいたい700~800年間隔で大噴火が起こっていると考えられるわけです。

平安時代の1108年(嘉承3年、天仁元年)の天仁大噴火では30億トンに及ぶ大量の噴出物があったと推定されています。

噴煙は空高く舞い上がり、噴出物は上野の国(いまの群馬県)一帯に達し、田畑がことごとく埋まりました。長野県側にも火砕流(追分火砕流)が、約15キロほどかけ下り、湯川や小諸付近まで達したとされています。

1783年の天明の大噴火は、天仁大噴火ほどの規模ではなかったようですが、降った火砕物によって火事や家の倒壊、用水被害や交通遮断が起こるとともに、火砕流、岩屑なだれ、泥流などで浅間山北麓から利根川流域中心に関東平野一帯に大きな被害をもたらしました。

死者1624人、流失家屋1151戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋130戸余りとされています。

長い噴火の歴史から見ると比較的落ち着いているとはいえ、現在も小規模な噴火は繰り返し起こっています。夏になると浅間山のふもとの信濃追分に滞在していた道造も、その噴火をいく度か、近くにいて体験しました。

信濃追分は、いまの長野県軽井沢町追分。軽井沢町の西端に位置し、御代田町と接しています。標高1000メートル、美しく静かな森や畑が広がり、軽井沢の都会チックな華やかさはありません。

1934(昭和9)年7月22日、その年に東大の建築学科に入学した道造は、初めて信州の地を踏みました。軽井沢駅に降りて、堀辰雄を旧軽井沢のつるや旅館に訪ねるものの、掘はあいにく急用で上京した後で行き違いとなりました。

けれども、掘の依頼を受けていた阿比留信(英文学者)の案内で町を見てまわり、室生犀星宅も訪れています。

23日から25日にかけて神津牧場、志賀、岩村田、小諸をまわり、25日夜から8月20日まで追分にとどまります。このとき初めて、“村のくらし”を体験することになりました。そのころの様子が、次のような詩からもうかがえます。

     静物

  堡塁のある村はづれで
  広い木の葉が揺れてゐる

  曇つた空に 道は乾き
  曲ると森にかくれた 森には
  いりくんだ枝のかげが煙のやうだ

  雲が流れ 雲が切れる
  かがやいてとほい樹に風が移る

  僕はひとり 森の間から
  まるい石井戸に水汲む人が見えてゐる
  村から鶏が鳴いてゐる ああ一刻 夢のやうだ

2017年10月31日火曜日

立原道造「はじめてのものに」②

立原道造は1914(大正3)7月30日、立原貞次郎、トメ夫妻の長男として日本橋区橘町(現在の中央区東日本橋)に生まれました。荷造り用の木箱製造を家業としていました。「立原」は母方の家系で、近い祖に水戸藩の儒者立原翠軒、画家立原杏所がいます。

1919(大正8)年、5歳のとき父の死去により家督を相続しますが、家業は母が取り仕切り、後に弟の達夫が継いでいます。

1927(昭和2)年、東京府立第三中学校に入学。まだ13歳でしたが、アートや文学など旺盛な活動をはじめます。

パステル画に抜群の才能を発揮したほか、国漢教師の橘宗利について作歌を学び、北原白秋を訪ね、口語自由律短歌を『学友会誌』に発表。

自選の歌集『葛飾集』、『両国閑吟集』、詩集『水晶簾』をノートにまとめています。

1931(昭6)年、第一高等学校理科甲類入学。当初は、天文学を志していました。

一高短歌会会員となり、前田夕暮主宰の『詩歌』に続けて投稿します。


物語「あひみてののちの」が『校友会雑誌』に掲載され、学内で注目されます。秋には堀辰雄を識り、以後兄事するようになりました。

1932(昭7)年には同人誌『こかげ』を創刊。一高文芸部の編集委員に選ばれ、杉浦明平らの上級生に伍して活躍します。この年に『さふらん』、翌年、『日曜日』、『散歩詩集』と続けて手づくり詩集を作っています。

1934(昭9)東京帝国大学工学部建築学科に入学。岸田日出刀の研究室に所属しました。1学年下に丹下健三や浜口隆一が、2学年下に生田勉がいました。この年、同人誌『偽画』を創刊。夏、初めて軽井沢を訪れ、それから毎夏、信濃追分の油屋に滞在するようになります。そして室生犀星、萩原朔太郎を識ります。

この年、堀辰雄を中心に創刊された『四季』(第2次)に、三好達治、丸山薫、津村信夫とともに編集同人となります。第2号に組詩「村ぐらし」「詩は」を発表し、詩壇に登場することになります。

1935(昭10)年には、課題設計「小住宅」で、建築の奨励賞である辰野賞を受賞。また、同人誌『未成年』を創刊しています。そして立原の詩作の主要な舞台となった『四季』11月号に、「はじめてのものに」を発表しています。

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

詩を発表した前年から夏を過ごすようになっていた信濃追分は、世界有数の活火山、浅間山(標高2,568メートル)のふもとにあります。道造が訪れていた当時も、しばしば噴火を繰り返し、灰を降らし、山火事を起こし、空振で戸障子やガラスが破損するといった被害も少なくありませんでした。

そんな「地異」がもたらした灰が「かなしい追憶のやうに 音立てて」降りしきった村で、若い2人は、灰を降らせた山の見える「窓に凭れて語りあつた」。怖いもの知らずの青春。詩人は、なんとなく別れを予感させる恋の中にいるのです。

2017年10月30日月曜日

立原道造「はじめてのものに」①

きょうから、信州追分での恋愛体験をいわゆる"ソネット形式"でつづった、立原道造(1914~1939)の「はじめてのものに」を読み直していきます。

     はじめてのものに

  ささやかな地異は そのかたみに
  灰を降らした この村に ひとしきり
  灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
  樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

  その夜 月は明かつたが 私はひとと
  窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
  部屋の隅々に 渓谷のやうに 光と
  よくひびく笑ひ聲が溢れてゐた

  ――人の心を知ることは……人の心とは……
  私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
  把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

  いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
  火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
  その夜習つたエリーザベトの物語を識つた


この詩は、第2次『四季』の12号〈1935(昭和10)年11月号〉に発表されました。

『四季』は、昭和を代表する同人詩誌の一つです。1933(昭和8)年に堀辰雄らを中心に創刊されましたが、2号だけでおわった「第1次」。さらに、1984(昭和59)年に創刊されて1987(昭和62)年の第11号で終刊となった「第5次」まで、通算すると半世紀以上にわたり、昭和の有力な抒情詩人たちの創作の舞台となりました。

なかでも1934(昭和9)年に創刊、戦中の1944(昭和19)年の第81号まで続いた「第2次」の同人には、堀をはじめ三好達治、丸山薫、津村信夫、井伏鱒二、桑原武夫、神西清、神保光太郎、竹中郁、田中克己、辻野久憲、中原中也、萩原朔太郎、室生犀星などが名を連ねています。『四季』が絶頂期を迎えた時期でした。

立原は堀に才能を認められ、第2号に「村ぐらし」を発表して詩壇に登場します。その後『四季』は、立原にとって作品発表の主要な場であり、創作のよりどころとなります。

『四季』に「はじめてのものに」を発表したとき、道造は21歳。東京帝国大学工学部建築学科の学生でした。掲載された「第2次」の昭和10年11月号は、次のようなラインナップになっています。

  短編「詩と雄弁について11(アラン)」 桑原武夫訳
    散文詩「夜が私に歌って聞かせた・・・(ジャム)」 三好達治訳
    詩「『未成年』といふ雑誌の扉におくる」  丸山薫
  詩「はじめてのものに・またある夜に」 立原道造
    詩「詩人は辛い」 中原中也
    詩「日暮の街」 竹村俊郎
    随筆「詩人の故郷」 辻野久憲
  感想「燈下言」 三好達治
    詩「何でもない詩抄」 竹中郁
    詩「その人」 蔵原伸二郎
    詩「夏の嘆き」 伊東静雄
    詩「嵐」 笹沢美明
    詩「三十歳」 村野四郎
    詩「挽歌」 内田忠
    詩「巷の風・八月にしるす・後醍醐天皇の島」 杉山平一
    詩「四季だより」 Y・K
    感想「僕の言葉」 三好達治

「はじめてのものに」は、『四季』に発表された2年後の1937(昭和12)年5月に出版された第1詩集『萱草(わすれぐさ)に寄す』=写真=に収められました。

『萱草に寄す』は、まるで楽譜のような感じの大きな本です。

「SONATINE NO.1」「夏花の歌」「SONATINE NO.2」に分かれて、合わせて10篇の詩から成っています。

道造は『萱草に寄す』について〈「ソナチネ」(小ソナタ、小奏鳴曲)それも「クラヴサンとフルートのソナチネだ」〉と述べています。

そんな第1詩集の冒頭を飾っている詩が「はじめてのものに」です。

2017年10月29日日曜日

北原白秋「落葉松」⑬

「落葉松」の入った詩集『水墨集』が出版された3カ月後の1923(大正12)年9月、東京が壊滅状態となる関東大震災が起きました。

その時、小田原の伝肇寺=写真=の竹林に建てた山荘「木菟の家」に、白秋一家は住んでいました。白秋は2階の書斎にいた。あたりは濛々とした土煙。揺れた足をとられて体を泳がせながら、離れへの渡りのところまで来ました。


妻の菊子は埃まみれ、長男の隆太郎も無事でした。その時、について震災直後に書いた「その日のこと」で次のように記しています。

〈寺の舗道へ出て見ると、一直線であつた舗石がそつくり続いたままよれよれになり、地が亀裂し、卵塔場の墓石は全部が二三間も泳いでバラバラになつてゐた。

榧の木地蔵堂などは見るかげもなく半ばからひしやげ、桃山時代の遺物だといふ山門なぞもくちやくちやにつぶれてゐた。町の方を瞰下すると、ついこの丘の下から煙が上つてゐる。それから丘の向うで盛んに火の手があがつてゐる。

閑院宮邸はと、山の上を振り仰ぐと、松林ばかり見えて、あの魏然とした円頂閣〈ドオム〉は影も形も無くなつてゐる。煙がもくもくと湧きあがつた。おそろしい事になつたと私は吐息をついた。そこへ、隣の和尚が顔の色を変へて駆け込んで来た。

「みんな無事か無事か。」
「無事です、無事です。」
「裏藪にゐます。」
私たちは叫んだ。
和尚は裏へすつ飛んで行つた。〉

生前未刊の歌集『風隠集』で次のような歌も詠んでいます。

  世を挙げて心傲ると歳久し天地の譴怒〈いかり〉いただきにけり
  この大地震〈おほなゐ〉避くる術なしひれ伏して揺りのまにまに任せてぞ居る
  大正十二年九月ついたち国ことごと震亨〈しんとほ〉れりと後世〈のちよ〉警め

この大震災は、以前にこの連載でもふれたように、治安維持法、金融恐慌、そして大戦と、激動の社会変動の始まりを告げる天変地異となりました。

プロレタリア文学の台頭など文学も大きく変貌するなか、歌壇でも、歌誌『日光』を中心とした歌人たちの新たな活動がはじまりました。

『日光』は、震災の翌年の1924(大正13)年に創刊。短歌結社が固定化、互いに反目対立して沈滞している状況を打ち破り、自由で明るい歌人たちの活躍の場を作ろうとしたのです。

創刊から4年後の廃刊まで主要同人として同誌にかかわった白秋は、巻頭言として「日光を仰ぎ、日光に親しみ、日光に浴し、日光のごとく健やかに、日光とともに新しく、日光ととともに我等在らむ」と記しています。

このように、白秋の40代以降、昭和に入ってからの創作の中心は、詩作より短歌のほうへと重心が移っていきます。いわゆる幽玄歌風錬磨の時代です。「落葉松」にも見られた伝統的な寂寥感を進めていけば、古代幻想に行きつく。

白秋は記紀歌謡、風土記、祝詞などの世界に分け入って古語を復活し、日本の古神道を現代詩によみがえらそうとします。叙事詩「建速須佐之男命」、長篇交声曲詩「街道東征」などは、そうした試みです。

しかし、日本的な幽玄を盛る器としては、自由詩よりも短歌のほうがはるかに長い歴史と蓄積をもっています。結局、白秋も短歌のほうに精力が注がれ、そうした壮大な現代詩の試みは、実験の範囲にとどまりました。

とはいえ、白秋でしかなしえない、自在で巧み、独特の光沢を放つ言葉の世界は、ますます洗練されたものになっていきました。1929(昭和4)年に出た詩集『海豹と雲』には、私の好きなこんな詩もあります。

     水盤の夏

  光は曲ぐる
  薔薇〈ばら〉の枝、
  水には光る水の影。

  夏は来れり、
  薄玻璃〈うすはり〉に。
  強く寂しくわれ居らむ。

2017年10月28日土曜日

北原白秋「落葉松」⑫

  われは思ふ、末世〈まつせ〉の邪宗〈じやしゆう〉、切支丹〈きりしたん〉でうすの魔法〈まはふ〉。
  黒船の加比丹〈かぴたん〉を、紅毛〈こうまう〉の不可思議国〈ふかしぎこく〉を、
  色赤〈いろあか〉きびいどろを、匂鋭〈にほひと〉きあんじやべいいる、
  南蛮〈なんばん〉の浅留縞〈さんとめじま〉を、はた、阿刺吉〈あらき〉、珍?〈ちんた〉の酒を

  見目〈まみ〉青きドミニカびとは陀羅尼誦〈だらにず〉し夢にも語る、
  禁制〈きんせい〉の宗門神〈しゆうもんしん〉を、あるいはまた、血に染む聖磔〈くるす〉、
  芥子粒〈けしつぶ〉を林檎のごとく見すといふの欺罔〈けれん〉の器〈うつは〉、
  派羅葦僧〈はらいそ〉の空〈そら〉をも覗〈のぞ〉く伸〈の〉び縮〈ちぢ〉む奇〈き〉なる眼鏡〈めがね〉を。


1909(明治42)年、白秋が24歳の年に出した第1詩集『邪宗門』の最初に置かれた「邪宗門秘曲」の冒頭の2連です。

『邪宗門』の大きな特徴は、その象徴詩的作風にあるといわれます。象徴(シンボル)とは簡単にいうと、観念的、気分的な抽象的ことがらを、具体的な事象によって暗示する修辞。伝えにくいテーマを、感性的、直感的に示そうとします。

文学の象徴主義の起源は、シャルル・ボードレールの『悪の華』(1857)に求められます。

日本には、1905(明治38)年に出版された上田敏の訳詩集『海潮音』によって、「象徴詩」の概念がはじめて明確にされたといわれています。

日本の象徴詩は薄田泣菫の『白羊宮』(1906)、蒲原有明の『有明集』(1908)などによって、一つの完成を見ます。その後、白秋らによって大正期にかけて新たな展開を見せるが、当時は口語自由詩への変遷という問題を抱えることになるのです。

『邪宗門』に始まる白秋の詩作は、大きく三つの時期に分けられます。

①『邪宗門』から『思ひ出』(1911)、『東京景物詩及其他』(1913)に見られる都会的で、官能・唯美的な傾向②『真珠抄』(1914)、『白金之独楽』(1914)の自然を素材にした汎神論的法悦境的な時代、そして③「落葉松」が入った『水墨集』やそれ以降の詩集に見られる、芭蕉的な閑寂境に分け入るような伝統的・古典主義的傾向の時代です。

〈私の詩風も随分と変遷した。今日に於て、かの「邪宗門」「思ひ出」の狂飆時代を思ふと、あの目まぐるしい絢欄さは何処へ行つたかと思ふ。然し今さらあの青春時の詩風に還らうとは思はぬ、還れも為ない、また還つたところでそれは偽るものである。

兎に角私は此処まで到りついた。それは人としても詩の道を行ふ者としても可なりの悲惨な複雑な曲折を経てやうやうに辿りついたのである。今日の私は無論昨日の私を遥かに振り返る点まで隔って来てゐる。(これを真に知ってくれる人は少い。)

思ふにあの頃の詩風はあの頃ではまことにさうあるべきであつた。その意味で今日の境地も今の私としてはこれより外には無い。詩の香気にも様々の種別がある。寂しければ寂しいままに、何等かの、それは曾て見なかつた、却て本質としての特殊な気品は保たれるものであらう。

ただそれがおのづからのまことのものか否かで詩としての価値は極るのである。兎に角その時代時代をひたぶるに生かしきるものにこそ真の恩寵を見、生かしきつたものにこそ最後の歓呼は聞かされるであらう。生かしきりたいものである。〉

『水墨集』の跋で、白秋はこのように記しています。三木卓は自著『北原白秋』で、この部分を引用したうえで「かれがいっていることに、わたしは心打たれた」として、次のように続けています。

〈ほんとうに、あの「目まぐるしい絢爛」とはどうなってしまったのであろう。それを一言でいえば、モチーフの消耗ということになるだろう。すでに述べたように、白秋という人は、得たモチーフは書き続けられだけ書き続けなければ気が済まない人だった。

それは童謡や歌謡にのみ当てはまるものではない。『邪宗門』『思ひ出』も例外ではなかった。両者ともその厚さ、篇数の多いことでもきわだっているが、再刊の機会があると、詩集に入れなかった作品を拾う増補という形で蘇らせたりしている。

かれは興が乗れば、目下関心のあるモチーフはどこまでも書き尽くす、というはなはだいさぎよい詩人だった。おいしいおやつを、そっとしまっておいて、あとで食べようなどというさもしい考えは持ち合わせていなかったのである。

『邪宗門』には若い野心と天性の才能にまかせた力業が、『思ひ出』には人にとって決定的な「生まれた場」という唯一無二のものがあった。『桐の花』には生死のかかった恐ろしい体験があった。そのどれも一度限りの場である(実際、章子に裏切られるという深刻な事態が、俊子のときほどのモチーフにはなり得なかった。白秋にとってはもはや、決定的な体験ではなかったのであろう)。

そのいずれをも白秋は、見事な、それも最大級の文学的結実に結びつけることに成功したのだから、ふつうの芸術家だったら、それで大いによしとするところである。しかし、かれは書きつづけなければならなかった。

そうしている間に、詩壇は象徴詩を置いていってしまった。詩壇は口語詩の時代となり、民衆詩派が前面に出てくるようになった。弟子である、犀星や朔太郎が大いに注目された。白秋は、詩の前線から取り残され、時代遅れになっていたはずである。〔中略〕

おそらくそのときの白秋は、出発時に自分が持っていると意識できたモチーフは、すでに使い果たしていた。あると思えばすべて費消してしまうのが、白秋の創作だからである。かれが「水墨」という世界をここへ持ちだしてきたのは、あらたな美学を自らのうちから掘り起こさなければならないと思いそれを開始した、ということである。

もともと言葉を使うことに対して、白秋は比類ない才能をもっていた。日本語であるかぎり、どのような文体も書き分けることができた。そして常に現在を信じ、現在が最高の表現者であると自分に言い聞かせて、仕事をしていったのだと思う。書き手とは、そう思って仕事をするものなのだ。〉

2017年10月27日金曜日

北原白秋「落葉松」⑪

     八

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

最後の第8連は、それまでとは趣を異にして最後に一種の観想を加えたもので、詩に一種の深みをもたせています。

世の中は「あはれ」なのです。「あわれ」は、深く感動したときに使う日本語の特徴的なことば。しみじみとした情趣がある。趣が深い。といった意味でふつう使います。ここで趣が深いのは「常なけどうれしかりけり」といいます。

「常」とは、変わらないこと、永久不変なこと。だが「世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる(この世の中にはいつまでも変わらないものなど何もない。昨日は深い淵だった飛鳥川が今日は浅瀬になるのだから)」(古今集)というように、仏教的な人生観では、この世は「常無し(無常)」とみなすのです。

「常なけど」には、諸行無常、いってみれば「あきらめ」的な気持ちが込められているわけですが、にもかかわらず「うれし」といいます。つまり、この世は無常だけれど、それが喜ばしい、満足で快いと肯定的に感じているのです。

  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

渓流には渓流の音があり、カラマツにはカラマツの風が吹く。森羅万象さまざまなものに違いがあり、個性があり、変化がある。「落葉松」の林の中で詩人は、それらを積極的に受け入れているのです。

「落葉松」が入っている『水墨集』のなかには、次のような詩があります。

     境涯の讃

         朝顔にわれは飯食ふ男かな  芭蕉

  句はおのづからのもの、
  境涯のもの、
  松ゆゑに松の風、
  椎ゆゑに椎の涼〈すず〉かぜ。

「境涯」とは、「この世に生きてゆく上で置かれた、人それぞれの立場。身の上。境遇」と広辞苑にはあります。

詩の前書きにある芭蕉の句は、其角の「草の戸に我は蓼〈たで〉くふほたる哉」を受けたもの。「自らを蓼食う蛍にたとえた君と違い、私は朝顔の花を見ながら飯を食べる男なのだ」といった意味です。

奔放磊落な其角の個性と句風を認めたうえで、平凡で無骨な生き方のなかにも俳諧の道があること示した句ともいわれています。

芭蕉は「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」といい、「乾坤の変は風雅のたね也」(『赤冊子』)として、天地のさまざまなものの変化が俳諧の根源にあることを説いています。

この世は、常に変化してやみません。しかし、これを突きつめていけば、それぞれが、それぞれのかけがえのない個性を発揮し、万物が変化流転してやまないことこそが、宇宙の本源ともいえるのです。


  薔薇ノ木ニ
  薔薇ノ花サク。

  ナニゴトノ不思議ナケレド。

     (『白金之独楽』の「薔薇」)

白秋にとって自然は、感覚的な対象ではなく即物的であり、また、自らと交響しあい生を享受しあう存在でした。

「落葉松」が発表になった1921(大正10)年に出された歌集『雀の卵』には次のような歌もあります。

  この山はたださうさうと音すなり松に松の風椎に椎の風

2017年10月26日木曜日

北原白秋「落葉松」⑩

恩田逸夫の解説(『北原白秋』)にしたがって、詳しく「落葉松」をみてみましょう。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

冒頭の第1連でまず、詩人の位置や詩想の焦点を示す。カラマツの林を歩いて「過ぎ」、カラマツを「しみじみと」眺めていった。この観照によって、自然と人生の「さびし」さに思いいたります。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

第2連ではカラマツの林をつぎつぎに通ってゆく歩みを述べ、1~2連で作品の輪郭が手際よく示されています。「しみじみ」「さびし」「細く」などの語感も、これから展開する主想を暗示しているのです。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

第3、第4連の中心は「道」です。「また細く道はつづけり。」(第2連)を受けて、「道」が6回繰り返されます。「からまつの林の道」は、「われ」がゆく道であり、「ひと」も通る道。そして、「雨」や「かぜ」と交流する道でもあるのです。


自然も、人生も、「からまつの林の道」に集約されています。「ほそぼそと通ふ」「さびさびといそぐ」のは、カラマツ林の道であるとともに、当然、人生の行路も意味しているのでしょう。

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、
  からまつとささやきにけり。

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

第5、第6連では、ふと立ち止まります。それまでゆるやかに進んできたリズムが一時中断し、印象が新たになります。「歩みひそめつ」「けぶり立つ見つ」の「つ」の完了の助動詞も、「ぬ」でなく、短切な完了という語感を示しているといいます。

以前にも少しふれたところだが、「からまつとささやきにけり。」は、「われ」と「からまつ」とがささくのか、それとも「からまつ」同士がささやいているということなのか。恩田は次のように説明しています。

〈「風」の幽かなささやきや「から松」の幽かなささやきが、作者の幽かな微妙な心の動きと同じであるというのであるから、ここは、から松の幽かなひびきの意味を作者が理解すること、すなわち作者が自然との一体感を覚えることであろう。

つまり、から松に当たるかすかな風のひびきの中に、風やから松やその他万象を生み出し統一支配している、宇宙の根源的生命力の存在を直感しているのである。

このように、から松も自分も、ともにこの根源力・神の力によって生かされていると直感するところに、この力を媒介とする、から松と作者との連帯感が生まれ、「風とそのささやきはまた我が心のささやきなるを」「からまつとささやきにけり」ということになるのである。

「浅間嶺にけぶり立つ見つ」は、いままで歩いていた林の道を出はずれて、急に視界の開けた感じがよくあらわれている。それに、単に一般的なから松の林でなく、浅間山という具体的な固有名詞を出して印象を強めている。

なお、この詩句を二度くり返している声調には、謡曲の詞章の気分が感じられる。この詩が、中世的な幽玄の気分を主調としているためかもしれない。〉

そして最後の二つの連では、「中世芸術の、美の伝統を受けつぐ、芭蕉的閑寂境が中心となる」といいます。

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。

第7連は「憂き我を淋しがらせよかんこ鳥」「旅人と我が名呼ばれむ初時雨」の句境をふまえて、かんこ鳥や時雨の音、8連目の川の音やからまつに吹く風など、聴覚的要素で統一、それまでの歩行による運動感覚や視覚と対照している。最後に自然と人生を統合した世界観を述べて、全篇の結論としているとしています。

2017年10月25日水曜日

北原白秋「落葉松」⑨

〈純粋に詩集としては本集こそ「白金の独楽」以来のものである。「白金の独楽」以来、いろいろな事情の下に私は単行の詩集公刊の機会を失つて了つた。三崎詩集「畑の祭」その他がそれである。

綜合詩集には兎に角収拾は為たが、単行詩集の気品はまたさうした別種の味があるので、何となく済まぬ心もちで今日に到ったのであった。

小唄、民謡、童話集はその前後を通じて可なり公刊したが、「畑の祭」以後、私は主として短歌の製作に専心したので、純粋の詩作は極めて少なかつた。葛飾、動坂で少々、小田原お花畑で少々、天神山の生活で「観相の秋」ぐらゐのものであつたろう。

十年の十月、突然の感興が湧いて「落葉松」第二十五章の詩が成つた。これが動機となつて私は再び新に詩へ還つて来た。それ故に特に「落葉松」数章は私にとつて忘るべからざるものとなつた。〉

詩人であり、歌人であり、童謡作家であり、白秋ほど詩歌の広い世界で、次々に新しい境地を切り開いていった作家は、近代日本でほかに見あたりません。

詩集に関しては『白金之独楽』を1914(大正3)年に出してから、「落葉松」の入った『水墨集』を1923(大正12)年に刊行するまで、10年近い間隔があります。きわめて多作な白秋からすれば、30代のこの時期、詩作から遠ざかる、ある意味ではスランプの時期だったといえるかもしれません。


以前にもみたように、『白金之独楽』を出した年に最初の妻俊子と離婚、『水墨集』刊行までに、章子との結婚と離婚、佐藤菊子との結婚と私生活で落ち着かない出来事がつづきました。菊子との結婚で、はじめて平穏な家庭生活を手に入れることができたわけです。

菊子との結婚は、白秋の作風にも大きな影響を与えます。「これが動機となつて私は再び新に詩へ還つて来た」という「落葉松」も、軽井沢のカラマツ林を菊子と散策したのがきっかけで生まれた詩です。

穏やかさと広がりを加え、いっそうおおらかで、自由な白秋ならではの境地を展開することになるのです。

閑寂さを深め、洗練されていぶしのかかった華やかさもただよいます。「水墨」の名のとおり、閑寂淡彩な世界でもあります。

詩「落葉松」は、最終連を除いて第7連までどれも「からまつの林」という書き出してはじまっています。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

第1連では、「からまつの」「からまつを」「からまつは」と冒頭の3行にわたって「からまつ」を連ね、「の」「を」「は」の助詞を使い分けながら、動いてゆく微妙な音感を示しています。そして、3行目と4行目で「さびしかりけり」を重ねて、落ち着きを与える。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

さらに第2連も、最初の3行で「からまつの林」が繰り返されます。「出でて」「入りぬ」「入りて」と、少しずつ変化する動作をあらわす3音の動詞によって、連続的な動作が足元をフィルムで見るように映し出されます。落葉松の道は、「わが通る」人生の道でもあるわけです。

第3連では「けり」「なり」「なり」と、切れのある助動詞が続き、「霧雨のかかる道なり。/山風のかよふ道なり。」といった対句を随所にもりこむことで、韻律的な表現効果を高めています。

恩田逸夫は『北原白秋』の中で、「落葉松」について「類似の表現が多いので、作品の展開は、一見まとまりがないように思われるが、実は、細かく配慮された緊密な構成である。

二連ずつが一組で、序(第一、二連)から展開部(第三~六連)を経て結論(第七・八連)に至る経路が整然としていて、しかもその各部はゆるやかなリズムで接続している」としています。

2017年10月24日火曜日

北原白秋「落葉松」⑧

白秋は生涯にわたって、自分の作品の推敲や修正を加えつづけたことで知られています。

「落葉松」も、1921(大正10)年の『明星』には前の7章で発表されましたが、1923(大正12)年の『水墨集』には、全体の順序を変えるなどしたうえ、最後の8章が加えられています。

「この七章は私から云へば、象徴風の実に幽かな自然と自分との心状を歌つたつもりです。これは此のままの香を香とし、響を響とし、気品を気品として心から心へ伝ふべきものです。

何故かなら、それはからまつの細かな葉をわたる冷々とした風のそよぎ、さながらその自分の心の幽かなそよぎでありますから」(大正11年9月『詩と音楽』創刊号)と書いています。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、   
  からまつとささやきにけり。

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。


4行8連、計32行の詩のなかに、「からまつ」という言葉が、ひらがなで17回登場してきます。

からまつ林を通り過ぎながら、詩人は、すぎゆく木々をしみじみ見つめた。わきたってくるさびしさ。それは、出あい、別れる、旅のさびしさ。人生のさびしさ。

からまつ林を抜けても、その先にはまだ、からまつの林。そこに細々と道が、奥のほうまでつづいている。霧のように細かな雨が、降りそそぐ道。山から吹き下ろす風が、通り抜けてゆく道。

その道は、私だけでなくだれもがたどる道。どうにかこうにか、ひきつづき通ってゆく道。さびしい心を抱きながら、いそいで通る道。

からまつ林を通り過ぎ、ふと歩調をゆるやかにする。山風にかすかに音をたてるからまつたち。そんな、からまつ林のささやきと、詩人の心が共鳴してゆきます。

からまつを抜けると、そこにあるのは浅間山=写真、小諸市観光協会のサイトから。林のうえ、火口付近から煙を立てているのを見ます。

霧雨はさびしく(「さびしけ」は形容詞「さびし」の已然形の古い形だという)降りそそぎ、あたりはいよいよ静まりかえる。ただカッコウ(かんこ鳥)が、鳴くだけ。からまつは濡れつづけるだけ。

人の世は、しみじみとした情感のあるもの。さだめなくはかないけれど、心なぐさめられるもの。山の渓流には、渓流の音。からまつには、からまつの風がある。万物には、それぞれの趣があるのです。

2017年10月23日月曜日

北原白秋「落葉松」⑦

  からまつの はやしをすぎて
  からまつを しみじみとみき
  からまつは さびしかりけり
  たびゆくは さびしかりけり

  からまつの はやしをいでて
  からまつの はやしにいりぬ
  からまつの はやしにいりて
  またほそく みちはつづけり

  からまつの はやしのおくも
  わがとおる みちはありけり
  きりさめの かかるみちなり
  やまかぜの かよふみちなり

「落葉松」の最初の3連を、試しに、すべて平仮名にするなど書きなおしてみました。ご覧のように、五音、七音の順番で繰り返す「五七調」で書かれていることがわかります。

万葉以降、日本の詩歌は、五音と七音がの基本単位になってきました。五七調は、五音に七音が続く二句がまとまりをなすときの調べ。七五調は、七音に五音が結合するときの調べです。

五・七・五・七・七が基本形の短歌の場合、2句目あるいは4句目で切ると、五・七/五・七/七となって五七調に、1句目や3句目で切ると五/七・五/七・七と七五調になります。

万葉集では、初め短い五音と次の長い七音の「五・七」2句が韻律的にも意味的にもまとまりをもち、切れる五七調の歌が多い。その後、平安期に入ってからできた古今和歌集では、逆に七・五調の歌が主流になってきます。

  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
  山行かば 草生(くさむ)す屍
  大君(おおきみ)の  辺(へ)にこそ死なめ


これは、太平洋戦争中の戦果発表のラジオ放送で、玉砕を伝えるとき冒頭でよく流されたという軍歌『海行かば』です。『万葉集』の大伴家持の歌からとられていますが、確かに五七調です。

  小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子(いうし)悲しむ
  緑なすはこべは萌えず
  若草も藉(し)くによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)
  日に溶けて淡雪流る

島崎藤村の有名な「小諸なる古城のほとり」(落梅集)も五七調。一方、

  春高楼(こうろう)の花の宴(えん)
  巡る盃(さかづき)影さして
  千代の松が枝(え)分け出(い) でし
  昔の光今いづこ

土井晩翠作「荒城の月」は、七五調で書かれています。

一般に、五七調は素朴で力強く、重厚な感じを与え、これとは対照的に七五調は、軽妙な響きをかなで、優しく優雅な感じを与えるとされます。明治以降に作られた詩や唱歌には、五七調より七五調のほうが多いようです。

詳しいことは知りませんが、韻律論的にみても、五七調に比べて七五調のほうがずっとリズミカルになるようです。

五七調は2拍の繰り返しが2回しかなく、十分リズムに乗りきらずに「七」に移るため重たい感じになるが、初めに2拍を3回繰り返す七五調では、十分に助走がつけてから「五」でコンパクトにまとめることができる。

そんな説をどこかで目にした覚えがあります。逆に考えると、七五調にすると、リズミカルで調子がよくなりすぎて、場合によっては軽薄な感じになってしまうこともありそうです。

とすれば、荘重な自然を歌う「落葉松」のような作品には五七調のほうが向いているといえるのでしょう。

「落葉松」が収められている詩集『水墨集』には、〈落葉松〉というタイトルで、「落葉松」のほか「寂心」「ふる雨の」「啼く虫の」「露」の四つの詩が収められています。

     ふる雨の(一)

  ふる雨のひとつひとつも
  こまかには観る人ぞなき。
  ひとすぢの雨はひとつぶ、
  松の葉に玉とむすぶを。

のように、五つの詩どれもが五七調です。そこには、きっと白秋の無言のメッセージが隠れているのでしょう。

2017年10月22日日曜日

北原白秋「落葉松」⑥ 

カラマツは、マツ科カラマツ属の落葉針葉樹。日本の固有種で、日当たりのよい乾燥した場所が生育に適し、東北地方南部から、関東、中部地方の亜高山帯から高山帯に分布しています。

中国の絵画である唐絵のマツに似ているのが名前の由来です。日本の針葉樹のうちで、唯一の落葉樹であることから、白秋のように「落葉松」と書くこともあります。

樹高20-40m、幹の太さは1mに達します。枝は長枝と短枝という二形性を示し、長枝は10-50cmになります。短枝はひとつの芽だけからなり、1-2mmしかありません。葉は針形。白い粉に覆われた薄い緑色で、長さは2-5cm。


秋には葉を黄金色に染め、北海道や信州などの秋の景色を美しく彩り、晩秋になると、褐色の冬芽を残して葉を落とします。

樹皮は灰黒色から暗い赤褐色。表面は短冊状に剥がれます。

松かさは長さ2.0-3.5cmで、中に30-50個の種子を生産します。松かさははじめ緑色ですが、受粉後4-6ヶ月して十分に熟すと茶色に変化して、種子を散きます。古くなった松かさは樹にそのまま残り、鈍い灰黒色に変色しています。

白秋の「落葉松」の舞台になった軽井沢の開発で欠かせない人物として、前回も名前を出した雨宮(あめのみや)敬次郎(1846-1911)あげられます。

近代化のうねりのなか、「天下の雨敬」「投機界の魔王」などと言われ、養蚕、鉄道、製鉄などいろんな分野で活躍した大実業家です。

雨宮は山梨の名主の息子として生まれ、生糸、養蚕業で財を成し、1876~1877年、生糸貿易を世界に展開しようとアメリカからヨーロッパへと渡りました。

外遊の際のアメリカ大陸横断旅行で、不毛の地が開墾によって生まれ変わる姿を目の当たりにし、荒野を開拓植林して都市を作る壮大な事業を、浅間山麓で実現しようと考えました。

1883(明治16)年、現在の軽井沢ゴルフやプリンスホテルがある中心部から、人気の別荘地である上ノ原や、千ケ滝近くまで、当時は避暑地の片鱗すらない軽井沢の原野を購入。山麓に邸宅を構えて、ワイン用のブドウ栽培に乗り出したり、近代農場の開拓を試みたりします。

しかし、寒冷で耕地に適さない土地に阻まれてことごとく失敗。やむなく落葉松を植林したところ、これが環境にあった。そして、700万本の植林事業化に成功したのです。雨宮は次のように述懐していたといいます。

「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。“せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい”という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」。

「(カラマツの)性質は檜と杉の間の良材で、この土地の風土に最適で成長が早い。私自身の健康のためにも最適であった。毎年30万、40万本ずつ植えていったのが遂に700万本になった。

私は木を植えるという、金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前の貯蓄ではなく死後のために貯蓄をやっているのだ」

戦後になってからも、将来の需要を見込んで、全国各地で木材資源として適しているスギやヒノキなどの大規模な植林活動が展開されました。木を植えることは将来に向けて貯金するのと同じ、と言われ、急峻な斜面を登って苗木を植え、育てていったのです。

海抜が高い地域や痩せ地では植林に適した樹種が見あたりませんでした。その中で選ばれたのがカラマツでした。育苗が簡単で、根付きも良く、成長も速い。そのため、大量に生産する樹種としては最も適していたのです。

長野県では、造林面積の半分はカラマツで占められました。私の父は、長野県の営林局に勤めていて、県内の山地のあちこちを転勤して回っていました。どこに住んでも、私の近くには、遊びの空間であり、底知れない宇宙に誘ってくれるような神秘の場でもあったカラマツ林が広がっていました。

ブナ帯ではスギの植林は成功しにくく、美林には仕立てにくい。浅間山麓のような火山灰の痩せ地も同様です。このような立地でも生育が比較的良好なカラマツが注目されたわけですが、植栽した時点で、十分な用材利用の見通しがあったわけではありません。

カラマツ材は、割れや狂いが出やすく、当時の技術水準では板材として使いにくいので、将来は炭鉱や工事で使う杭木や電信柱として使う計画でした。

ところが、収穫期を迎えるようになったころには、電信柱の材料には、鋼材やコンクリートがもっぱら使われるようになっていました。杭木の用途はなくなり、せっかく成熟したカラマツも用途は極めて限られることになったのです。

最近の木材の利用・加工技術の進歩などによってようやくカラマツの欠点が克服され、積極的にカラマツ材を使う動きがでてきました。主に合板としての用途が多いものの、強度があって、比較的廉価なので梱包材としても利用されています。

さらには、腐朽しにくく適度な弾力性をもつ木質から、ガードレールなどの材料として、また、寸法の小さい板材を接着剤でつなぎ合わせて作る「集成材」という加工技術を使い、建築材としての用途も広がっています。

2017年10月21日土曜日

北原白秋「落葉松」⑤

菊子と結婚した1921(大正10)年の1月、白秋は、画家の山本鼎、文芸評論家片上伸、口演童話の岸辺福雄とともに『芸術自由教育』という雑誌を創刊しています。

その巻頭言で白秋は、次のように述べています。

「予は詩を以〈もつ〉て児童の世界を極楽たらしめる。児童本来の稟質〈りんしつ〉は詩そのものだ。神秘の蔵だ。

自由、正直、無邪、天真、而も俊雋〈しゆんしゆん〉限りなき感覚のピンだ。彼等は単純だ。然〈しか〉し此の単純は既に成人の種々相を包含した光り輝く感性の酵母体だ。

予は詩の無き教育を極端に排斥する。詩の無き処に自由は無い。教育は初め母のその子に乳房を含ますが如く真の愛と滋味とを滴らすことだ。子守歌の温かさだ。揺籃のリズムだ」

そして、同年8月には「自由教育夏期講習会」を、軽井沢の星野温泉で開きました。

星野温泉は、軽井沢西部、中軽井沢地区から北軽井沢地区へ国道146号線を1.5キロほど北上した浅間山の麓にある温泉地。

美しいカラマツ林に囲まれ、日本3大野鳥繁殖地に「野鳥の森」に隣接した、鳥のさえずりが聞こえる閑静な避暑地にある名湯です。

夏期講習会には、講師として鈴木三重吉、巌谷小波、島崎藤村、弘田竜太郎、それに飛び入りで内村鑑三が参加しました。講習会の印象について白秋は次のように記しています。

「此度の星野温泉の講習会は全く楽しかつた。非常に親しく飾り気がなくて、活き活きとしてゐて面白かつた。

何より第一気に入つたのは、あの材木小屋の会場で挽〈ひ〉きつぱなしの無雑作に造らへた講壇や卓に、それから土間一面に鋸屑〈のこくず〉が敷いてあつた事だ。

講壇に上がつて見ると左手の窓に新鮮なキャベツ畑が目に入つたのも嬉しかつた。

右手の落葉松〈からまつ〉山もよかつたが、何にしても明けつぱなしで日光は明るいし、風は吹き通すし、渓川の音、蝉時雨、時たまにはがらがら通る幌馬車の軋〈きし〉りなどまことにさすが山の中の温泉地らしくてよかつた」(『芸術自由教育』大正十年九月号編輯後記)

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

「落葉松」は、この講習会での滞在中に、軽井沢の「落葉松山」のカラマツ林を散策して生まれたとされています。


なお、「材木小屋の会場」は、軽井沢高原教会として、現在まで受け継がれることになったようです。同教会のホームページには、次のように書かれています。

〈ここ軽井沢高原教会は、1921(大正10)年に開かれた「芸術自由教育講習会」を原点に誕生しました。前身であった質素な講堂に、キリスト教者であり思想家である内村鑑三をはじめ、北原白秋、島崎藤村ら当時を代表する文化人が集い、「真に豊かな心」を求めて、熱く語り合ったのです。

「遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり」。芸術自由教育講習会からひとつの理念が芽生えました。遊んで楽しむ、大いに結構、心から楽しいと感じればそこからまた何かを学び取れる、素晴らしいことではないか。

何事においても慎みが求められた時代にあって、芸術自由教育講習会は、感じたことを感じたままに表現し、自由に討論できる空間でした。

その空間をこよなく愛した内村鑑三は「星野遊学堂」=写真=と名づけ、布教の場としました。そして、芸術自由教育講習会の理念は、この地で受け継がれていくこととなったのです。〉

ところで、白秋を作詩に駆り立てた軽井沢のこの高原には、天然生のカラマツすなわち天落葉はあまりありません。明治初期、農用林野として用いられていたため、毎春、野火がつけられて野草地になっていたからです。

そんなところに、1883(明治16)年、甲州財閥の雨宮敬次郎が、官有地500町歩、民有地600町歩を買い入れて、700万本におよぶカラマツを植林しました。1921(大正10)年に白秋が見たカラマツ林は、植林から40年近くたった雨宮の人工林だったのかもしれません。

2017年10月20日金曜日

北原白秋「落葉松」④

「我はこれ畢竟詩歌三昧の徒」と称した白秋。俊子との短い結婚生活で、三崎、小笠原と転々とする中でも、文学的な収穫には、相変わらず豊穣なものがありました。

俊子と別れた直後の1914(大正3)年の12月には、こんな序にはじまる詩集『白金之独楽』を刊行しています。

〈苦シミハ人間を耀カシム、空ヲ仰ゲバ魚天界ヲ飛ビ、山上ニ白金ノ耶蘇豆ノ如シ。大海ノハテニ煙消エズ、地上ニ鳩白日交歓ノ礼ヲ成ス。林檎ハジメテ音シ、水ハ常ニ流レテ真実一路ノ心ヲアヤマラズ。麗ラカナルカナ、十方法界。ワガ身ヲ周ルハ摩羅ヲ頭ニイダク摩暹仏、麦酒樽ヲコロガス落日光ノ男。桶ノ中ニ光リツメタル天ノ不二。……〉


人間的な悲痛から脱却しようとする一念から、一気に書き上げた詩集でした。部屋に閉じこもったまま食事もしない兄を案じて、そっとにぎりめしを障子の外に置く妹に、次にあげる「白金ノ独楽」をはじめ、出来たばかりの詩を朗々と読んで聞かせたといいます。

  感涙ナガレ、身ハ仏、
  独楽ハ廻レリ、指尖ニ。

  カガヤク指ハ天ヲ指シ、
  極マル独楽ハ目ニ見エズ。

  円転、無念無想界、
  白金ノ独楽音モ澄ミワタル。

翌1915(大正4)年には、弟の鉄雄と阿蘭陀書房を創立して、雑誌『ARS』をはじめます。さらに詩集『わすれなぐさ』、歌集『雲母集』を出版しています。

1916(大正5)年、生活は苦しいものの、心にようやく安らぎを得るようになった白秋は、詩人の江口章子と知り合い、再婚。葛飾に移り住みます。

「今度の妻は病身だが、幸い心は私と一緒に高い空のあなたを望んでゐてくれる。さうして私を信じ、私を愛し、ひたすら私を頼つてゐる」と友人に書き送り、章子も「北原はほんとうに痛痛しい赤ん坊です」と理解を示していました。

1917(大正6)年、阿蘭陀書房を手放し、再び弟・鉄雄と出版社アルスを創立します。この時期、白秋は詩よりも短歌のほうに情熱を注ぎ、推敲に明け暮れして新たな原稿をほとんど書きませんでした。

  咳すれば寂しからしか軒端より雀さかさにさしのぞきをる

家計はきわめて困窮し、妻の章子は胸を病みました。1918年(大正7年)、小田原に転居。鈴木三重吉の要請で『赤い鳥』の童謡、児童詩欄を担当することになって新たな道が開けます。

新しい感覚の童謡を次々と発表するようになるとともに、1919(大正8)年には、処女小説『葛飾文章』、『金魚』を発表。ようやく生活に落ち着きをみせはじめます。

  ゴンシヤン ゴンシヤン 何処へ行く。
  赤いお墓の曼珠沙華〈ひがんばな〉、
  曼珠沙華、             
  けふも手折りに来たわいな。

  ゴンシヤン ゴンシヤン何本か。
  地には七本血のやうに、
  血のやうに
  ちやうどあの児の年の数。

この年、よく知られた「曼珠沙華」などが入った、最初の童謡集『とんぼの眼玉』も出版しています。

それまで一室を借りていた伝肇寺(でんじょうじ)の境内に住宅を建て「木菟(みみずく)の家」と名付けました。1920年(大正9年)には『雀の生活』を出し、『白秋詩集』の刊行も始まりました。

そんな折、伝肇寺境内の自宅の隣に山荘を新築した建前の祝宴で、“事件”が起きます。小田原の芸者出という派手さに、白秋の生活を支えてきた弟らが反発し、章子を糾弾したのです。

それに対して、着物のほとんどを質入れするなどしてきた章子は、非難されるいわれはないと反発。その晩、章子は出入りの新聞記者と行方をくらましてしまいます。白秋は不貞を疑い、章子と離婚することになるのです。

翌1921(大正10)年、白秋は、国柱会会員で、田中智學のもとで仕事をしていた佐藤菊子と3度目の結婚をします。この年、信州滞在に想を得て、「落葉松」を発表することになるのです。

2017年10月19日木曜日

北原白秋「落葉松」③

    白い月
          ――わかかなしきソフイーに

  白い月が出た、ソフイー、
  出て御覧、ソフイー、
  勿忘草(わすれなぐさ)のやうな
  あれあの青い空に、ソフイー。

  まあ、何んて冷(ひや)つこい
  風だろうね、
  出て御覧、ソフイー、
  綺麗だよ、ソフイー。

  いま、やつと雨が晴れた――
  緑いろの広い野原に、
  露がきらきらたまつて、
  日が薄すりと光つてゆく、ソフイー。

  さうして電話線の上にね、ソフイー。
  びしよ濡れになつた白い小鳥が
  まるで三味線のこまのやうに溜つて、
  つくねんと眺めている、ソフイー。

  どうしてあんなに泣いたのソフイー、
  細かな雨までが、まだ、
  新内のやうにきこえる、ソフイー。
  ――あの涼しい楡の新芽を御覧

  空いろのあをいそらに、
  白い月が出た、ソフイー、
  生きのこつた心中の
  ちやうど、かたわれでもあるやうに。


俊子との恋に苦悶していた1912年4月に作られた詩です。この年の7月、姦通罪によってり告訴された白秋は2週間、未決監に拘置されますが、上京した弟らの尽力で和解が成立し、告訴は取り下げられます。

心に深い傷を負った白秋は翌1913(大正2)年1月、死を思い立って三浦三崎へ渡ります。しかし「どんなに突きつめても死ねなかった、死ぬにはあまりに空が温く日光があまりに又眩しかった」(「朱欒」後記)。

一方の俊子は、ホテルのバーのホステスなどをしていたようです。まわりには売春をする女たちがいたり、外国人が相手の洋妾になれとママにいわれたりしていたといわれています。

一時は、2人の仲は終わったと思っていた白秋ですが、文通がはじまると恋心は再燃してきました。当時、俊子にこんな手紙も送っています。

〈僕はあなたを高いものにしやうと思つて失敗した、たゞあなたは美しい僕の白栗鼠だ、美しい美しいお跳ねさんだ、あの人妻だつた時の怪しさ美しさ、いまでもあんな誘惑を僕に投げかける事ができるかしら、僕はね恐ろしい事だが、この頃人の細君さへ見るとあなたとの怪しい愉楽を思ひ出す、さうして一種の人妻病といふものに罹りはしないかと思ふまで、誘惑される。

かういふ恐ろしい事がまたと世の中にあるだろうか、――ああ自分たちの昔のゆめ、たつた半年前の事だが千年も経つた昔のやうな気がする。も一度あのゆめを取りかへしたい、然しもうあなたは人妻でない。

会うと思へば何時でも会へる身の上だ、それにしてもそのつまらなさを充分に償ふだけ今のあなたの生活は僕に怪しい誘惑を投げる、而して新らしい美しさを二人の昔の恋の上に輝かす。

あなたの生活が果してあなたのいふ通りか、あなたの心が果たしてあなたのいふ通り信実か、疑へば疑ふだけ苦しさと美しい好奇心とが僕の胸をかきむしる。何でもいい、焼木杭に火がついたのだ、ゆくところまで二人はゆかねばならぬ。

逢つて見たい、とは思ふが、逢つてもしや気まづい思をしたら、それこそ取りかへしのつかない不幸だ、まあ当分のうち逢はずにゐて、もつと苦しんで、逢はねば死んでしまうといふ心もちになつた時はじめてキユツと抱きしめたい――あなたはさうは思はないか。〉

こうした死ぬか生きるかの激しい色恋沙汰の騒ぎのなかにあっても、白秋の文学的な意欲は衰えを見せていません。この年、初めての歌集『桐の花』と、詩集『東京景物詩及其他』を刊行しています。

とりわけ、白秋が汚名の挽回をも期した『桐の花』は、直截で流麗なロマンティズムに彩られた作風で、これによって歌壇でも独特の位置を占めるようになります。

俊子とのよりは戻って同棲、やがて結婚することになります。1913(大正2)年5月父の長太郎や弟鉄雄ら一家をあげて三崎向ケ崎異人館に転居しました。しかし、長太郎らは事業に失敗。万事に派手好きの俊子と両親の間にも溝が次第に生まれ、一家は東京に引き上げます。

1914年3月、胸を病んでいた妻を伴って白秋は、小笠原父島へ渡ります。しかし、単調な島の生活にあきた俊子は6月には島を離れ、翌月には白秋も帰京することになります。

待っていたのは、両親たちと妻とのいやしがたい不和でした。そして、1年足らずの夫婦生活で、白秋と俊子は別れる道を選択します。『雀の卵』輪廻三鈔の序には次のように記されています。

「我深く妻を憫(あはれ)めども妻の為に道を棄て、親を棄て、己を棄つる能はず。真実二途なし。乃ち心を決して相別る」

2017年10月18日水曜日

北原白秋「落葉松」②

     母

  母の乳は枇杷より温〈ぬ〉るく、
  柚子〈ゆず〉より甘し。

  唇〈くち〉つけて我が吸えば
  擽〈こそば〉ゆし、痒〈か〉ゆし、味よし。

  片手もて乳房圧し、
  もてあそび、頬を寄すれ。

  肌さはりやはらかに
  抱かれて日も足らず。

  いとほしと、これをこそ
  いふものか、ただ恋し。

  母の乳を吸ふごとに

  わがこころすずろぎぬ。
  母はわが凡て。

生まれたばかりのころの感触をよりどころに、母というものの肉体そのものをとらえた北原白秋の比類のない作品です。

白秋=写真=は、1885(明治18)年1月25日、熊本県の南関にある母の実家で生まれました。まもなく、福岡の柳川にある自宅に戻ります。父は長太郎、母はしけ。2人の間に生まれた長男は、隆吉と名付けられました。

北原家は江戸時代以来栄え、「油屋・古問屋」の屋号で九州中に知られた海産物問屋。当時は酒造を本業としていました。1887年には弟の鉄雄が誕生。この年、白秋に大きな影響を与えた乳母のシカがチフスで死んでいます。


1897(明治30)年、県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高校)に進みましたが、数学の教師の陰険な管理教育に反発して幾何1科目を落として落第。そして、このころから詩歌に熱中し、雑誌『文庫』、『明星』などを濫読し、文学に熱中するようになります。

1901(明治34)年、大火で北原家の酒蔵が全焼し、家産が傾き始めます。家運を立て直そうとしていた長太郎は、息子の落第、文学狂いを許そうとはしませんでしたが、白秋は禁じられた文学書を畳の下や砂に埋めるなどして隠れ読んでいたといいます。そして、この年から「白秋」の号を用いています。

1904(明治37)年、長詩『林下の黙想』が河井醉茗に認められて『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、上京して早稲田大学英文科予科に入ります。このころ号を「射水」と称し、同郷の好で親しくなった若山牧水や友人の中林蘇水とともに「早稲田の三水」と呼ばれました。

1905(明治38)年には「全都覚醒賦」が「早稲田学報」の懸賞一等に入選し、新進詩人として注目されるようになります。翌明治39年には、新詩社に参加。与謝野鉄幹、晶子夫妻、木下杢太郎、石川啄木らと知り合います。『明星』で発表した詩は、上田敏、蒲原有明、薄田泣菫らの賞賛され、文壇に名が広まっていきました。

1908(明治41)年には、象徴詩「謀叛」を「新思潮」に発表。鉄幹の新詩社を脱退し、木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加します。この会には吉井勇や高村光太郎も加わって、象徴主義、耽美主義的詩風をめざす文学運動の拠点となりました。

翌1909(明治42)年には、『スバル』創刊に参加。また第1詩集『邪宗門』を出版、官能的、唯美的な象徴詩作品が話題となります。しかし、年末には実家が破産し、一時帰郷を余儀なくされました。このころから、脚光をあびて登場した新進詩人の行く手に暗雲がさしはじめます。

1910(明治43)年、『屋上庭園』第2号に掲載した「おかる勘平」が風俗紊乱にあたるとされて、発禁処分になります。またこの年の9月、転居した隣家には、美貌の人妻、松下俊子がいました。

サディスティックな夫の暴行で生傷が絶えなかった俊子は、夫が連れ込んだ混血の情婦からもいびられ、乳飲み子を抱えて日夜泣き暮らすという異常な状況にありました。垣根越しの同情はやがて愛に変わることになります。俊子も青年詩人への憧れを抱くようになったのです。

1912(明治45・大正元)年、俊子の夫が白秋を姦通罪で訴え、俊子と白秋は市ヶ谷未決監に2週間拘留されます。この出来事に、「文芸の汚辱者」などと世評をあおるものもいて、白秋の盛名は一時、失墜することになるのです。

世評以上に、白秋自身の愛の苦悩、罪の意識は大きく、放免となったときは、狂気寸前の錯乱状態に陥っていたといいます。ときに白秋、27歳。『朱欒』の大正元年9月号に、次のように記しています。

「獄舎の経験は何よりの貴い省察と静思の時間を与へて貰ひました。これが為に若し今後の芸術上の作品に真に信実な感情の光と曾て見なかつた新しい思想の芽生とをもたらす事が出来たら」。

2017年10月17日火曜日

北原白秋「落葉松」①

秋も深まって来ました。きょうからしばらく、有名な白秋のこの詩を味わうことにしましょう。

    落葉松

    一 

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

     二

  からまつの林を出でて、
  からまつの林に入りぬ。
  からまつの林に入りて、
  また細く道はつづけり。

     三 

  からまつの林の奥も
  わが通る道はありけり。
  霧雨〈きりさめ〉のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

     四 

  からまつの林の道は
  われのみか、ひともかよひぬ。
  ほそぼそと通ふ道なり。
  さびさびといそぐ道なり。

     五

  からまつの林を過ぎて、
  ゆゑしらず歩みひそめつ。
  からまつはさびしかりけり、   
  からまつとささやきにけり。

     六

  からまつの林を出でて、
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。   
  浅間嶺〈あさまね〉にけぶり立つ見つ。
  からまつのまたそのうへに。

     七

  からまつの林の雨は
  さびしけどいよよしづけし。
  かんこ鳥鳴けるのみなる。
  からまつの濡るるのみなる。

     八 

  世の中よ、あはれなりけり。
  常なけどうれしかりけり。
  山川に山がはの音、
  からまつにからまつのかぜ。


北原白秋の「落葉松〈からまつ〉」は、1921(大正10)年、与謝野鉄幹がはじめた月刊文芸誌「明星」の11月号に掲載されました。このとき白秋は36歳。前年に妻と離婚し、この年4月に佐藤菊子と再婚しています。

「落葉松」は、その後、大正12年6月18日にアルスから発行された詩集『水墨集』の中に収められました。

同詩集には、〈落葉松〉として「落葉松」「寂心」「ふる雨の」「啼く虫の」「露」の順に5篇の詩が載っています。また、〈落葉松〉には、「落葉松について」と題して、次のような前書きがあります。

「落葉松の幽かなる、その風のこまかにさびしく物あはれなる、ただ心より心へと伝ふべし。また知らむ。その風はそのささやきは、また我が心の心のささやきなるを、読者よ、これらは声に出して歌ふべききはのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂を匂とせよ」

2017年10月16日月曜日

山之口貘「鮪に鰯」⑲

1959(昭和34)年1月、2カ月近い滞在で沖縄の変貌ぶりに衝撃を受けて帰京すると、夏の終わりまで半年近く仕事がまったく手につかないウツ状態が続きます。故郷の喪失感が、貘の内部にはかり知れないダメージを与えていたのでしょう。

1963(昭和38)年3月、貘は胃に異変を訴え、入院します。胃ガンでした。朝日新聞社に勤めていた土橋治重が、文学やマスコミ関係者をまわってカンパを集め、入院費や手術代にあてました。

そして同年7月19日、家族や友人に見守られて貘は逝きます。59歳でした。翌1964(昭和39)年12月、生前、書きためていた原稿を集めて原書房から詩集『鮪に鰯』が出版されました。

 『鮪に鰯』の2番目にこんな詩が出てきます。

     ひそかな対決

  ぱあではないかとぼくのことを
  こともあろうに精神科の
  著名なある医学博士が言ったとか
  たった一篇ぐらいの詩をつくるのに
  一〇〇枚二〇〇枚だのと
  原稿用紙を屑にして積み重ねる詩人なのでは
  ぱあではないかと言ったとか
  ある日ある所でその博士に
  はじめてぼくがお目にかかったところ
  お名前はかねがね
  存じ上げていましたとかで
  このごろどうです
  詩はいかがですかと来たのだ
  いかにもとぼけたことを言うもので
  ぱあにしてはどこか
  正気にでも見える詩人なのか
  お目にかかったついでにひとつ
  博士の診断を受けてみるかと
  ぼくはおもわぬのでもなかったのだが
  お邪魔しましたと腰をあげたのだ

貘の詩を読んでいると、一見、思いついたことをさらさらっと書き連ねただけのようにみえますが、実は驚くべき推敲を重ねて言葉にたどりついているのです。

〈詩を書き出してから、すでに、四十年にも近くなったというのに、まだまだ、まるで手習いの域を一歩も出ることが出来ないのは、自分ながら、また気の毒みたいで、ぼくはいまでも、詩作にかかると、一日に原稿用紙五枚か六枚を屑にして、百枚ばかりから、二百枚三百枚を屑にして、どうやら一篇の詩をまとめるという風なのろさなのである。それでどうにか詩みたいのになっているのだろうが、なかには、五百枚ほども屑にして、ついに出来ないものも、いくつかあったことを経験した。〉

晩年の1957年2月に創元社から出た『現代詩入門』の中に収録された「バランスを求めるために」という詩論のなかで、このように述べ、一篇の作品が出来るあがる過程を詳しく説明しています。それでは、なぜ推敲をするのか。貘は、次のようにきっぱりと言い切ります。

〈たとえ一篇の詩を書くために、自殺したくなるほどのおもいで苦労したところで、結果に於てその作品がつまらぬものであれば、そのつまらなさはどこまでもその作品のせいなのであって、一旦、作品となったからには、作品の責任は作品が問われなくてはならないものだからである。

というと、如何にも、作者には責任がないみたいであるが、実は、作品の全責任を作品に持たせることが、即ち作品に対する作者の責任なのではないかと、ぼくはそう常々おもっているのである。

それならば、作品の責任を作品に持たせるための作者の責任というのは、一体どういうことを云うのであろうか、即ち、ぼくの場合は、前述のような推敲をするより外に道はないとおもっているのであって、つまり、作者は作者としてのやるべきことを、その博学、浅学、才能の如何にかかわらず全力をそそいで推敲することなのだとぼくは思うのだ。

作者としてのやるべきことをやりもしないでいて、自分の作品がけなされたり、やっつけられたりすることを気にしたところで、あとの祭りではなかろうか。〉

さらに、「バランスを求めるために」はつぎのようにしめくくられています。

〈このごろ、原子爆弾や水素爆弾のことをテーマとした詩が、あちらこちらに見受けられる。ぼくにも、「鮪に鰯」というのがある。


  鮪の刺身を食いたくなったと
  人間みたいなことを女房が言った
  言われてみるとついぼくも人間めいて
  鮪の刺身を夢みかけるのだが
  死んでもよければ勝手に食えと
  ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
  女房はぷいと横をむいてしまったのだが
  亭主も女房も互に鮪なのであって
  地球の上はみんな鮪なのだ
  鮪は原爆を憎み
  水爆にはまた脅かされて
  腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
  ある日ぼくは食膳をのぞいて
  ビキニの灰をかぶっていると言った
  女房は箸を逆さに持ちかえると
  焦げた鰯のその頭をこづいて
  火鉢の灰だとつぶやいたのだ

ここまで挙げた作品によって、ぼくがどんな風な詩を書いて来たかは、読者にわかってもらえることに違いない。「鼻のある結論」では、うんこのことを、詩や人間や文明のことにまで結びつけて考えたり、「鮪と鰯」では、原爆、水爆のような大問題を、日常の箸の尖端に結びつけたりしているが、これは、なにごとも生活との結びつきにおいて詩を探り歩いているからなのかも知れない。

この間、若い友人に、君はなんのために詩を書くのかときいたら、かれは、小首をかしげて、「恋人に見せるために。」と答えた。ぼくもしばしば、受ける質問であるが、そのたびに、自分の答えが、めしを食わずには生きてはいられないことと似ているのを感じる。

めしを食うということ、詩を書くということ、それは食わずにはいられないことであり、書かずにはいられないことなのであり、生きることそのことなのであって、それは、人間としてのバランスを求めるためなのである。〉