2017年9月24日日曜日

ゲーテ「変転のなかの持続」①

ここで、藤村からヨーロッパへとさっと飛んで、ドイツの大詩人ゲーテの「Dauer im Wechsel(変転のなかの持続)」をちょっとだけ、読んでいきます。まずは、ざっと訳をつけてみました。


Dauer im Wechsel
       
Hielte diesen frühen Segen,
Ach, nur Eine Stunde fest!
Aber vollen Blütenregen
Schüttelt schon der laue West.
Soll ich mich des Grünen freuen,
Dem ich Schatten erst verdankt?
Bald wird Sturm auch das zerstreuen,
Wenn es falb im Herbst geschwankt.

Willst du nach den Früchten greifen,
Eilig nimm dein Teil davon!
Diese fangen an zu reifen,
Und die andern keimen schon;
Gleich mit jedem Regengusse
Ändert sich dein holdes Tal,
Ach, und in demselben Flusse
Schwimmst du nicht zum zweitenmal.

Du nun selbst! Was felsenfeste
Sich vor dir hervorgetan,
Mauern siehst du, siehst Paläste
Stets mit andern Augen an.
Weggeschwunden ist die Lippe,
Die im Kusse sonst genas,
Jener Fuß, der an der Klippe
Sich mit Gemsenfreche maß.

Jene Hand, die gern und milde
Sich bewegte, wohlzutun,
Das gegliederte Gebilde,
Alles ist ein andres nun.
Und was sich an jener Stelle
Nun mit deinem Namen nennt,
Kam herbei wie eine Welle,
Und so eilts zum Element.

Laß den Anfang mit dem Ende
Sich in Eins zusammenziehn!
Schneller als die Gegenstände
Selber dich vorüberfliehn!
Danke, daß die Gunst der Musen
Unvergängliches verheißt,
Den Gehalt in deinem Busen
Und die Form in deinem Geist.

変転のなかの持続

ああ この早々とおとずれる天恵を
ほんのいっときでも確ととらえておけたら!
なのにもう咲きみだれる花びらの雨を
生ぬるい西風はふりうごかしにかかっている
わたしに最初の木蔭をさしだしてくれる
この緑樹をうれしく思えというのか
秋になり黄いろくあせてふらつけば
じきに嵐がまき散らしてしまうのだろう

きみが果実を手にしたいとのぞむなら
すぐさまそこから分け前をつかむことだ
こちらが熟しはじめているときには
あちらはもう芽を吹いているのだから
激しい雨のたびごとにいつだって
きみをなだめる谷あいも姿を変えてしまう
ああそして おんなじ川の流れのなかで
きみは二度とふたたび泳ぐことはない

いや きみ自身だって!
岩のように頑強に
きみの前に現れた城壁を 宮殿を
不断にちがうまなざしで見つめている
口づけによっていちどは
救われたくちびるも
断崖にたつ不敵なカモシカにも劣らない
あの足も 消えうせてしまったのだ

喜びのためこころよく
穏やかに動いていたあの手
系統だってつながれた形象も
すべてがいまや異なっている
そしていま それらに代わって在る
きみという名で呼ばれているものさえ
波のようにこちらへ寄せては
すぐさま四大へと還っていく

始まりを終わりとむすんで
ひとつのものへとたぐり寄せよ!
事象よりも素ばやくはねて
きみ自身を過ぎてされ!
詩神の恩ちょうに 感謝せよ
それは不滅なものを約束してくれるのだ
きみのこころに真のねうちを
そしてきみの精神にかたちを

2017年9月23日土曜日

島崎藤村『若菜集』(31)

 「逃げ水」を通してもういちど読み直しておきましょう。

ゆふぐれしづかに
     ゆめみんとて
よのわづらひより
     しばしのがる

きみよりほかには
      しるものなき
花かげにゆきて
     こひを泣きぬ

すぎこしゆめぢを
     おもひみるに
こひこそつみなれ
     つみこそこひ

いのりもつとめも
     このつみゆゑ
たのしきそのへと
     われはゆかじ

なつかしき君と
     てをたづさへ
くらき冥府までも
     かけりゆかん

「逃げ水」について、『島崎藤村事典』で笹淵友一は次のように解説しています。

『翻案の方向は清教徒的信仰から恋愛至上主義への方向であって、それは"かみ"が"きみ"に変わるところに端的に現われている。

藤村の信仰の対象としての神が恋愛の対象におきかえられた過程は『桜の実の熟する時』にも書かれている。

この詩の構成は、宗教感情を浪漫的な恋愛感情に変質させた1、2連から出発して、第3連に〈こひこそつみなれ〉という罪意識を前提としながら〈つみこそこひ〉という意識的な異端、反宗教の態度を打ち出し、第4連に楽園を自ら拒否して、〈なつかしき君と/てをたづさへ/
くらき冥府までも/かけりゆかん〉という、終連において地獄の苦患をかけて恋に殉じようとする想念に到達している。


この終連の想像はダンテ「神曲」地獄変第5歌のフランチェスカとパオロとの恋と関連があると思う。(第4連の罪意識にもフランチェスカとパオロの恋がかげを投げていよう。)

いずれにせよ、藤村の内部にはこういう暗い情熱が潜んでいた。なお「逃げ水」という題については「行方をまどわす暗い情熱の力」を意味するという解釈がある。』

讃美歌の翻案とはいっても、八六調の心地よい響きをもった近代的な定型詩となっています。「語音の流れがひそやかで、それがこの詩のしめやかな情感を誘い出す上に効果的な働きをしている」(『日本の詩歌』島崎藤村)ともいえるでしょう。

いずれにしても、この詩には、信仰としての宗教と芸術としての文学に対する藤村のアプローチのしかたが端的に表れていると考えることができそうです。

やや中途半端ですが、このへんでひとまず、藤村の『若菜集』から離れることにします。『若菜集』の日本の近代詩や日本語に与えた影響や意味づけについては、勉強が進んだ段階で、改めてきちんと考察したいと思っています。

2017年9月22日金曜日

島崎藤村『若菜集』(30)

 第3連は、「逃げ水」の核心部です。

すぎこしゆめぢを
     おもひみるに
こひこそつみなれ
     つみこそこひ

原詩は「すぎこしめぐみを おもひつづけ/いよゝゆくすゑの さちをぞねがふ」。

「すぎこしゆめぢ」は、愛する人といっしょに過ごしてきた浪漫的な恋愛の日々を暗示しています。

原詩の「いよゝゆくすゑの さちをぞねがふ」という敬虔な思いを表現した1行が、「こひこそつみなれ/つみこそこひ」と、「キリスト教的感情がくるりとルネッサンス的現世謳歌にかわって」(島田謹二『近代比較文学』)しまったことになります。

『島崎藤村詩への招待』では、次のように「鑑賞」しています。

〈人間主義をもって自らの生と恋の孕む一切の情念を肯定する姿勢が大胆にうたわれているのである。

したがって「こひこそつみなれ」と一種の罪悪感を断定的に訴えても、そこには作者の罪そのものへの深い懼れやおののきが必ずしも深く自覚されているわけではない。〉

 そして4連目と5連目は――

いのりもつとめも
     このつみゆゑ
たのしきそのへと
     われはゆかじ

なつかしき君と
     てをたづさへ
くらき冥府〈よみ〉までも
     かけりゆかん

「たのしきそのへと/われはゆかじ」は、旧約聖書の「創世記」にあるアダムとイヴの楽園喪失の物語、すなわち「失楽園」=写真、wiki=をふまえています。


「創世記」第3章の挿話によると、蛇に唆されたアダムとイヴは神の禁を破って「善悪の知識の実」を食べてしまったため、最終的にエデンの園を追放されます。

ここでは、「うれひもなやみもわたみかみに/まかすることをぞよろこびとせん」などと、神の意に任せることを「よろこびとせん」とする原詩とはまったく対照的に、「いのりもつとめも」やめて、神の国へ行くこともなげうって、恋が罪ならば罪人と呼ばれても愛する人と「てをたづさへ」て、ともに地獄の底へ墜ちて行ったほうがよいと開き直っています。

藤村には、ミルトンの「失楽園(パラダイス・ロスト)」の 翻案とされる、明治27年1月「文学界」に掲載された「草枕」という劇詩があります。この中で、

アダム「この花園ばかりが宿かいの。二人で添ふて暮すなら、あのおそろしい地獄も極楽」
イヴ「こうして添はるゝものならば、闇でもいゝ。地獄でもいゝ」

といわせているのと共通しているところがありそうです。

2017年9月21日木曜日

島崎藤村『若菜集』(29)

「逃げ水」は、『新撰讃美歌』(植村正久訳)第四「礼拝夕」(現在の讃美歌297番「祈祷」)を、恋歌へと改作したものです。

日本のキリスト教教会の形成に大きな役割を果たした植村正久(1858-1925)=写真、wiki=は1887(明治20)年、東京の千代田区に日本一致教会(日本基督教会)の教会を設立しました。後の富士見町教会です。


翌1888年(明治21)年、植村は「ゆふぐれしづかに いのりせんとて」としてこの讃美歌を訳し、1890年には歌がつけられました。そして、明治20年代には若者たちに広く愛誦されたそうです。

ある時期、この教会に通っていたことのある藤村はきっと、この讃美歌が気に入り心に刻まれていたのでしょう。その歌詞は、次のようなものです。

1 ゆふぐれしづかに いのりせんとて
 よのわづらひより しばしのがる

2 かみよりほかには きくものなき
 木かげにひれふし つみをくいぬ

3 すぎこしめぐみを おもひつづけ
 いよゝゆくすゑの さちをぞねがふ

4 うれひもなやみも わたみかみに
 まかすることをぞ よろこびとせん

5 身にしみわたれる ゆふくれどきの
 えならぬけしきを いかでわすれん

6 このよのつとめの をはらんその日
 いまはのときにも かくてあらなん

「逃げ水」の第1連と2連を、植村正久訳の讃美歌と比較しながら眺めてみましょう。

ゆふぐれしづかに
     ゆめみんとて
よのわづらひより
     しばしのがる

きみよりほかには
      しるものなき
花かげにゆきて
     こひを泣きぬ

第1連では、「いのりせんとて」を「ゆめみんとて」に変更しただけですが、これによって宗教的な詩情が一気に、浪漫的な色取りを帯びてきます。

「よのわづらい」は、世間的に心を悩ませること、苦労、迷惑、めんどう。『日本近代文学大系15 藤村詩集』で剣持武彦は「原歌詞では物質的、功利的、世俗的なわずらわしさだろうが、この詩では、人間の自由を抑圧する世俗的な慣習・束縛を意味している」としています。

第2連でも、「かみ」を恋人である「きみ」に、「つみ」を「こひ」にと、置き換えることによって、「懺悔の歌から悲恋の詩というかたちでより多く文芸的な世界を作り出している」(神田重幸『島崎藤村詩への招待』)ということがいえそうです。

2017年9月20日水曜日

島崎藤村『若菜集』(28)

 きょうから読むのは「逃げ水」です。

  逃げ水

ゆふぐれしづかに
     ゆめみんとて
よのわづらひより
     しばしのがる

きみよりほかには
      しるものなき
花かげにゆきて
     こひを泣きぬ

すぎこしゆめぢを
     おもひみるに
こひこそつみなれ
     つみこそこひ

いのりもつとめも
     このつみゆゑ
たのしきそのへと
     われはゆかじ

なつかしき君と
     てをたづさへ
くらき冥府〈よみ〉までも
     かけりゆかん


この詩は、仙台時代の「文学界」46号(明治29年10月)に「一葉集」と題して発表された「こひぐさ」9篇の「其八」にあたります。

明治30年に出版された『若菜集』では、「逃げ水」として収録されました。八六調の5連からなり、讃美歌を原典としています。

明治20年代のナショナリズムの勃興と相まって、藤村たちは日本の古典文学への認識を新たにし、そこから着想を得ることが多々ありました。

その一方で、キリスト教をはじめとする西洋の文学や思想の影響を強く受けます。

「文学界」の同人のほとんどが洗礼を受け、讃美歌の歌詞や形式が日本の伝統的な詩情にない新鮮なものとして、藤村の新体詩にも大きな影響を及ぼします。

この詩の題名の「逃げ水」とは、汲もうとして近寄ると、遠くに逃げてしまう幻の水のことをいいます。別名「地鏡」とも呼ばれ、武蔵野にあるといい伝えられてきました。

散木奇歌集(1128年ごろ)に、「東路(あづまろ)にありといふなる逃げ水の逃げかくれても世を過ぐすかな」(巻九雑上)とあります。

風がなくて晴れた暑い日に、アスファルトの道路などで遠くに水があるように見える現象のこと。近づいてみてもそこに水はなく、さらに遠くに見えるので、まるで水が逃げていくように見えるため、こう名づけられたようです。

いわゆる蜃気楼の一種で、地表付近の空気が熱せられ膨張することによって一部の屈折率が変わってプリズムとなるため、上のほうの景色があたかも道路の表面に映ったように見える現象と考えられています。

藤村は、逃げ水を地底にひそかに走る流水ととらえ、転じて地の底の水に、人目をはばかる人知れぬ恋心や悶々とした盲目的な想いを、象徴させようとしていたようです。

2017年9月19日火曜日

島崎藤村『若菜集』(27)

 「四つの袖」の第2連と第3連は次のようになっています。

をとこの熱き手の掌〈ひら〉の
お夏の手にも触るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき

をとこの黒き目のいろの
お夏の胸に映るとき
をとこの紅き口脣〈くちびる〉の
お夏の口にもゆるとき

「をとこの熱き手の掌の/お夏の手にも触るゝとき」、「をとこの黒き目のいろの/お夏の胸に映るとき」、触覚で、視覚でしる男の激しい欲情が、お夏の恋心を燃え立たせます。


そして、「をとこの紅き口脣の/お夏の口にもゆるとき」と、さらなる官能の高まりを見せていきます。同じ『若菜集』にある「おくめ」という詩の第6連は次のようになっています。

しりたまはずやわがこひは
雄々〈をゝ〉しき君の手に触れて
嗚呼口紅〈くちべに〉をその口に
君にうつさでやむべきや

「おくめ」はここで、愛情のあかしとして、口紅を相手の男の唇に残したい欲求に駆られているのです。そして、次の「おくめ」第9連では、恋心と官能が結び合わさって炎となって燃え上がります。

心のみかは手も足も
吾身はすべて火炎〈ほのほ〉なり
思ひ乱れて嗚呼恋の
千筋〈ちすじ〉の髪の波に流るゝ

これらと同じように「四つの袖」の3連でも藤村は、男と女の恋愛が成就し、いのちが輝く瞬間を激しく歌いあげているのでしょう

そして結びにあたる第4連では――

人こそしらね嗚呼〈あゝ〉恋の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎

一転、第3者的な立場になって歌われていきます。「人こそしらね」から、2人の恋は、人に知られぬ、ひそかな、さらには秘密の恋だったことがうかがえます。

そうした世間的に許されることのない間柄にある2人が、激しい恋心によってより強く結びけられていく様子が語られていきます。

「げに」は「現に」の転で、そのとおり、ほんとうにの意。「こがる」は、恋心で胸が焦がれる、「慕へども」の「慕ふ」も、恋い慕うこと。

こうした、お夏に対する切ないまでの恋心は、たとえそれが成就しても、決して絶えることなく清十郎の胸の中に募っていくということでしょうか。

最後に名前が記された「清十郎」は、主家の娘お夏との密通と、その家の金を盗んだ疑いで刑死します。ただし西鶴や近松の作品では、盗みのほうは冤罪となっています。

2017年9月18日月曜日

島崎藤村『若菜集』(26)

 きょうから『若菜集』の「四つの袖」という詩に移ります。 

  四つの袖

をとこの気息〈いき〉のやはらかき
お夏の髪にかゝるとき
をとこの早きためいきの
霰〈あられ〉のごとくはしるとき

をとこの熱き手の掌〈ひら〉の
お夏の手にも触るゝとき
をとこの涙ながれいで
お夏の袖にかゝるとき

をとこの黒き目のいろの
お夏の胸に映るとき
をとこの紅き口脣〈くちびる〉の
お夏の口にもゆるとき

人こそしらね嗚呼〈あゝ〉恋の
ふたりの身より流れいで
げにこがるれど慕へども
やむときもなき清十郎

藤村が仙台へ移り住んだ直後の1896(明治29)年10月「文学界」に発表されました。「こひぐさ」の其五にあたります。

「四つの袖」は、お夏と清十郎を題材にしています。「お夏清十郎」は、寛文2 (1662)年 に播州姫路で実際に起きた駆落ち事件を題材にした一連の文芸作品のことで、「お夏狂乱」とも呼ばれています。


伝承による事件のあらましは次の通り。

姫路城下の大きな旅籠、但馬屋の娘、お夏は、恋仲になった手代の清十郎と駆け落ちをしますが、すぐに捕らえられてしまいます。

清十郎はかどわかしにくわえ、店の金を持ち逃げしたぬれぎぬまで着せられて打ち首となります。一方のお夏は、狂乱して行方をくらませ、誰も二度とその姿を見ることはなかったといいます。

姫路市内の慶雲寺に2人の墓があり、毎年8月9日に「お夏清十郎慰霊祭」が催されています。

お夏と清十郎の悲劇については、寛文年間に江戸中村座で歌舞伎舞踊「清十郎ぶし」が上演されたのを皮切りに、この事件を題材にした作品が次々と書かれていきました。

貞享3 (1686)年 には、井原西鶴が浮世草子「好色五人女」の第1章に「姿姫路清十郎物語」を書き、それを脚色して宝永4年(1707)年、近松門左衛門が世話物の人形浄瑠璃に仕立てた「五十年忌歌念仏」は、繊細な心情に迫った秀作とされています。

をとこの気息〈いき〉のやはらかき
お夏の髪にかゝるとき
をとこの早きためいきの
霰〈あられ〉のごとくはしるとき

ここにあげた「四つの袖」の冒頭の第1連は、先日読んだ「初恋」を思い起こさせます。「初恋」の第3連は、次のようなものでした。

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃〈さかづき〉を
君が情〈なさけ〉に酌みしかな

詩「初恋」をおおっていた清純なイメージから一歩踏み出した「わがこゝろなきためいきの/その髪の毛にかゝる」という表現は、「四つの袖」では「をとこの気息のやはらかき/お夏の髪にかゝる」と、より突っ込んだ艶やかな雰囲気に仕立てられています。

「をとこ」の仕草は、愛する女(お夏)に対して常に積極的で、挑発的です。まさに「早きためいき」は「霰のごとくはし」っていくのです。

男は誘惑者であり情念を注いで挑みかかり、お夏の官能を目覚めさせていこうとしているように思われます。

2017年9月17日日曜日

島崎藤村『若菜集』(25)

  きょうは「潮音」の後半の部分です。

しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

「しらべ」は、ここでは海の「そこにいざよふ」琴の調子、音律、調律のことでしょう。
源氏物語(松風)に「まだ調べも変はらず、ひき返し(七弦の琴はまだ調子も変わらず昔のままなので、くり返しお弾きになると)」とあります。

「もゝかは」は、漢語の「百川」の和訳で、たくさんの川のこと。

「うらゝか」は、日射しがやわらかで、穏やかに晴れているさま。詩人は、うらゝかに遠くから聞こえてくる春の潮の音、海の底の琴の音をきいています。


時がやってきて、新しい調べを奏でる琴のイメージは、芸術の世界を永遠の相につながるものとしてとらえ、新たな芸術を志していた若き藤村の思いを視覚化したものでもあるのでしょう。

明治31年に発表した「利根川だより」に、藤村は次のように記しています。

「心あるものをしてかの他界を窺ひ見るの思あらしむる海の姿のおもしろさ。こころせよ、表は潮行きかへりて大波の立ち騒ぐとも底安らかに静かなるわだつみのさまは、かの希臘の美術の姿なりといふぞかし」。

  潮音

わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

最後に『島崎藤村事典』にある「潮音」についての解説を載せておきます。

「典雅で大らかな調べの中に春の潮鳴りに表象される豊かな生の充実感がある。ただその〈しほのね〉はまだ〈とほくきこゆる〉ものであり、その豊かさは憧憬的叙情の対象である。

これは同時発表の『春の歌』『佐保姫』『草枕』など『さわらび』中の外の詩にも共通する性格である。

七五形式を繰り返して最後を七七で結ぶという韻律形式は『若菜集』ではポピュラーなものであるが、この詩はこの韻律形式と意味内容とが少しくい違う点がある。

それはこの詩の想像が〈わきてながるゝ/やほじほの/そこにいざよふ/うみの琴/しらべもふかし〉と〈もゝかはの/よろづのなみを/よびあつめ/ときみちくれば/うらゝかに/とほくきこゆる/はるのしほのね〉の2部から成っているのに、――後半は前半のヴァリエーションであって、展開ではない。

――調べの上では〈しらべもふかし/もゝかはの〉とつづいていることで、そのためにこの関節がなだらかでない。

〈わきてながるゝやほじほ〉は、遙かな南溟(なんめい)から日本列島に巡って来た黒潮であり、〈そこにいざよふうみの琴〉は大海の底にゆれ動くハープの視覚的表象であろう。(文学史の会「近代詩集の探求」。)

そして〈しらべもふかし〉は、この視覚性に感覚を対照させた、藤村好みの対句である。

〈わきてながるゝ〉のヴァリエーションである〈もゝかはのよろづのなみをよびあつめ〉は、百川朝宋・百川会海などの観念に典拠があろう。

〈ときみちくれば〉以下は、『草枕』の〈春や来ぬらん〉以下と類想である。」

2017年9月16日土曜日

島崎藤村『若菜集』(24)

 次にあげるのは『若菜集』の短い詩「潮音」です。

 潮音

わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴
しらべもふかし
もゝかはの
よろづのなみを
よびあつめ
ときみちくれば
うらゝかに
とほくきこゆる
はるのしほのね

1897(明治30)年2月、「さわらび」の総タイトルで5篇の詩が「文学界」に発表されました。その冒頭にるのが「潮音」です。『改刷版藤村詩集』では「生のあけぼの」に、『早春』では「仙台雑誌」の一つとして収録されています。

この年、藤村は25歳。「自分の内部に芽ぐんで来るものを重んじ育てなければ成らない」(「昨日、一昨日」)と文学や人生への思い新たに、明治29年9月に仙台の東北学院へ赴任しました。この詩は、こうして仙台に滞在するようになったときに書かれた作品です。

この詩に描かれているのは、孤独な「自分の内部」に渦巻くような荒涼とした海ではありません。あかるく駘蕩として包容力のある豊かな海がうたわれています。

〈信濃の木曾山のやうな深い森林地帯に生れたわたしは、少年時代から海といふものに特別なあこがれを持つてゐた。〉

『早春』には、こんな一節があります。信州の山奥で育った私もわかるような気がするのですが、藤村にとって「海」をうたうとことには、特別な意味あいがあったのでしょう。

わきてながるゝ
やほじほの
そこにいざよふ
うみの琴

2行目の「やほ」は、八百。数の八百、あるいは数が非常に多いことをいいます。ここでは「潮(しほ)」の接頭語尾として用いられています。

「八百日行く浜の沙も我が恋に豈まさらじか沖つ島守(八百日もかかって行く長い海浜の砂つぶが無数にあろうとも、私の恋の激しさには決してまさらないだろうね、沖の島守よ)」(万葉集・3・345)

「やほじほ」(八百潮)は、幾重にも重なり合って流れる波、あるいは、たくさんの潮流のことでしょう。

賀茂真淵『万葉考』の「柿本朝臣人麿は(中略)言は大うみの原に八百潮のわくが如し」をふまえているという指摘もあります。

「わきてながるゝ やほじほの」と、海の豊穣な生命力を表現しています。「いざよふ」は、漂うようにゆらゆらと流れ動くこと。ためらうこと。

海の「そこ(底)」に「いざよふ うみの琴」とは、藤村たちが生み出そうとしている新しい芸術を意味しているのでしょう。


この詩の「琴」は、日本の琴よりも西洋の竪琴をイメージしたほうがよさそうです。藤村が「韻文に就て」や「亡友反古帖」に書かれた「エオリヤン」の琴を強く意識しているという指摘もあります。

エオリヤン・ハープ(Aeolian Harp)=写真=は、ギリシャ神話の風神アイオロスに由来する、自然に吹く風により音を鳴らすとされる弦楽器。

シューマンが、ショパンの「練習曲Op.25-1」を聞いて「まるでエオリヤンハープを聞いているようだ」と感想をもらしたことから、この曲の愛称としても知られています。

木製の筐体と弦のみで構成され、弦を通過した空気がカルマン渦を発生させ、それを原動力となって弦が共振し、筐体で共鳴させます。

弦は、ここちよく聞こえる和音の組み合わせになっています。音色は調律にはほとんど左右されず、弦の直径と風速で決まる特徴があります。

ギリシャ時代からあったといわれますが、近代ではアタナシウス・キルヒャーがこれを再現して、18~19世紀にかけて使われました。

2017年9月15日金曜日

島崎藤村『若菜集』(23)

きょうは「初恋」をしめくくる第4連を見てゆきます。この連では、初恋を回想しています。

  林檎畠の樹〈こ〉の下に
  おのづからなる細道は
  誰〈た〉が踏みそめしかたみぞと
  問ひたまふこそこひしけれ

「おのづからなる」は、ひとりでに、他からの影響なしに、自然と、といった意味。ここでは、自然とできた「細道」という意味でしょう。

「かたみ」は、昔の思い出となるもの。しるし。ですから「誰〈た〉が踏みそめしかたみぞ」とは、誰が踏みはじめたしるしとして残されたもの。つまり、あなたが踏みしめてできた道ですよね、ということになります。

「誰が踏みそめしかたみぞ」と問うたことがあったこともまた、いまでは「こひし」い思い出になってしまったのです。


吉田精一は次のように鑑賞しています。

〈林檎畠の樹〈こ〉の下に
 おのづからなる細道は

もちろん、恋人の面影を慕って、忍び寄り、やがてはあひびきのためにと恋の忍び路に使ったために、自づから踏み作られたかたみであろう。

それも今はなつかしい思ひ出である。「……あの道はどなたがお作りになったの……」と、楽しい逢瀬のむつごとにささやく彼女の細い声もきこえさうな田園にめばえた可憐な純情の恋愛風景といふべきであらう。〉(『藤村名詩鑑賞』)

この結句「こひしけれ」も『早春』では「うれしけれ」に改められています。が、こちらも初出のほうが良さそうです。「初恋」はそのものが懐かしく、また恋しくもあるのですから。

最後に、詩「初恋」に関する『島崎藤村事典』の笹淵友一による解説を載せておきます。

西欧的感覚をもつ恋愛詩で、初恋という主題にふさわしい雅純かつ甘美な情調をもっている。藤村の幼年時代の経験が素材になり、それに詩的想像を加えたものといわれる。

第1連の〈前にさしたる花櫛〉の童女の髪風俗は多分実写であろうが、その印象がいかにも偶然の出あいのように描かれているのは創作的意図を含むもので、ダンテの「新生」に示唆されたものかもしれない。

3連を除いて各連に点出される林檎が異国情緒を醸している。「雅歌」などに示唆をえたものであろう。(林檎に性への禁断を読みとる解釈もある。)

第3連は青年期の情熱的かつ官能的な恋愛感情に近づいて、1、2連との調和を破っている。同時発表の『四つの袖』の

  をとこの気息(いき)のやわらかき
  お夏の髪にかゝるとき
  をとこの早きためいきの
  霰のごとくはしるとき

の官能性にそれは近い。(もっともその想像の核になったのは幼年期の童女抱擁の経験である。)

第4連は現時点からの回想であるが、その想像は「伊勢物語」の〈築地の崩れより通〉った男の一段の連想であろう。第3連を除けば、初恋という題にふさわしい雅醇な恋愛詩である。

2017年9月14日木曜日

島崎藤村『若菜集』(22)

 「初恋」の第3連では、恋を語り合ったのちのことが描かれています。

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃〈さかづき〉を
君が情〈なさけ〉に酌みしかな

「こころなし」は、「思慮がない」「不注意である」といった意味で使われますが、「わがこゝろなきためいき」というのは、恋をして、不注意にも我知らずもれてしまうためいきといった感じでしょうか。


「たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな」とは、自らの恋の思いがとどいて「こゝろなきためいき」が、「たのしき恋」へと変貌を遂げたということでしょう。

つまり、思いあまって隠しきれずに打ち明けた恋心を、幸いにも彼女は受け入れてくれたのです。

「わがこゝろなきためいきの その髪の毛にかゝるとき」に、恋をした青年のもだえ、苦悶が込められ、後半の「たのしき恋の盃を 君が情に酌みしかな」で、その恋が成就した喜びがうたわれています。

「たのしき恋……」の婉曲的な表現には、西洋の詩人たちの影響がうかがえます。

この第3連は、後の『早春』では省かれて、第2連からすぐに第4連へとつづいています。これについて吉田精一は次のように指摘しています。

「これはこの四行が初恋より少し成長した感がある為かも知れない。この連を省くことによって、この詩が必ずしも悪くなったとは考へられない。却ってすっきりとした観があるかもしれない」。

しかし、こうした肯定的な受け止めかただけでなく、初出のかたちを支持する意見も少なくありません。

「この官能的な一節を省いたのでは『初恋』ならびに『こひぐさ』全九篇の主旨は十分に表現されない」(『日本近代文学大系15 藤村詩集』頭注)

「確かに、一篇の詩としての首尾は初恋の幼さ、ういういしさを強調して、よりととのったといえるかもしれない。しかし、その整合性は詩篇の奥ゆきを浅くした。初出形のあざやかな抒情のきらめきを消して、作品の味わいを淡々しく希薄なものにしたのである」(三好行雄)

わたしも、どちらかというと3連目を省かない初出形のほうに魅力を感じています。

2017年9月13日水曜日

島崎藤村『若菜集』(21)

 ひきつづき「初恋」を読んでいきます。

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

「初恋」では、実体としても、シンボルとしての意味合いでも、「林檎」が重要な位置を占めています。

リンゴはもともと、中東コーカサスから、中央アジアにかけての一帯でつくられていて、それがシルクロードの商人の活動や、アレクサンダー大王の東征などで世界に広まったと考えられています。


旧約聖書に登場するアダムとイヴが、蛇にそそのかされて食べた「善悪を知る果実」(禁断の果実)はリンゴだとされます。

あわてて飲み込もうとしたアダムが善悪を知る果実をのどにつかえさせ、これがのどぼとけの始まりであるという故事から、男性ののどぼとけは「アダムのリンゴ」ともいわれます。

実のところ、食べたのがリンゴ、というのは後の時代に創作された俗説で、当時旧約聖書の舞台となったメソポタミア地方にはリンゴは分布せず、また当時のリンゴは食用に適していなかったとか。

ギリシア神話には、「最も美しい女神に与えられる」と言われた黄金のリンゴを巡ってヘラ、アテナ、アフロディテの3女神が争い、遂にトロイア戦争に至るというエピソードがあります(パリスの審判)。ヘラクレスの12の冒険の中にも、ヘスペリデスの園から黄金のリンゴを取ってくる話があります。

私たちがいま食べているリンゴは、明治以降、欧米から入ってきた外来種です。江戸時代から国内でつくられていた在来種(和リンゴ)がありました。

しかし、和リンゴは直径が「9寸(約3センチ)以内」と小さく、肉が薄く、味でも西洋リンゴにおよぶものではありませんでした。

現在、漢字で書くときには、リンゴ一般を「林檎」とすることが多いようですが、西洋リンゴが入って来た明治期には、和リンゴとは別の漢字を用いていました。在来の和リンゴを「林檎」、西洋リンゴは「苹果」と書いたのです。

  赤いリンゴに 唇よせて
  だまってみている 青い空
  リンゴは何んにも いわないけれど
  リンゴの気持は よくわかる
  リンゴ可愛や可愛やリンゴ

「初恋」のリンゴには雅歌的なイメージが残り、サトウハチローの「リンゴの唄」のような現代的な新しさはありませんが、「林檎のもとに見えし」「林檎をわれにあたへしは」といった若々しく、甘くも酸っぱくもある恋愛感情が伝わってきます。やはり海外から入ってきたばかりの西洋リンゴでしょう。

現代のリンゴの定番「ふじ」が現れるのは戦後のことですから、その先祖にあたる、1871(明治4)年に、アメリカから日本へ入ってきた「国光」か「紅玉」を思い浮かべたいところです。

2017年9月12日火曜日

島崎藤村『若菜集』(20)

つぎは、『若菜集』のなかでもひときは有名な一篇「初恋」を読んでいきます。

 初恋

まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛〈はなぐし〉の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅〈うすくれなゐ〉の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃〈さかづき〉を
君が情〈なさけ〉に酌みしかな

林檎畠の樹〈こ〉の下に
おのづからなる細道は
誰〈た〉が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ


初出は、1896(明治29)年10月の『文学界(46号)』。総題は「一葉舟」とされ、その中の「こひぐさ」9篇の"序曲"にあたります。

「こひぐさ」の他の作品は「狐のわざ」「強敵」「東西南北」「四つの袖」「いきわかれ」「蓮花舟」「逃げ水」「月光」です。

七五調4行4連からなるこの詩は、4連目の「林檎畠の樹の下」に自然にできた細道を見つめる時点から初恋の思い出を回想するかたちになっています。

第1連の1行目では、それまで、おかっぱのような童髪だったのを、桃割などの髪に結い上げたばかりの前髪をした女性が登場します。

藤村は『桜の実の熟する時』で、女性が成長する様子を髪型の変化で次のように描いています。

「あの樽屋の内儀さんが自慢の娘のまだ初々しい鬘下地なぞに結って踊の師匠の許へ通っていた頃の髪が何時の間にか島田に結い変えられたその姉さんらしい額つきを捨吉は想像で見ることが出来た」

「花櫛」は、造花で飾ったさしぐしのこと。『若菜集』の詩「佐保姫」には、

やなぎのいとのみだれがみ
うめのはなぐしさしそへて
びんのみだれをかきあげよ

と、「うめのはなぐし」が出てきます。

「花ある君」とは文字通り、花のように美しいと讃えているのでしょう。この詩のモデルになったのは、藤村の幼友達で同じ年の女性だったそうです。

2017年9月11日月曜日

島崎藤村『若菜集』(19)

 きょうは、「草枕」の最後、第4部「早春」にあたる第26連から30連です。

遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音は
まだうらわかき野路の鳥

嗚呼〈あゝ〉めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑の羽もまだ弱き
それも初音〈はつね〉か鶯の

春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の上〈へ〉に

春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の辺〈べ〉に

磯辺に高き大巌〈おほいは〉の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらむ東雲〈しののめ〉の
潮〈しほ〉の音遠き朝ぼらけ


秋、冬と季節の移り変わり、ここでは「春きにけらし春よ春」というリフレインにみられるように「春」を待望する思いがうたわれています。「春」がやってくることによって、これまでの重苦しい心の状態から脱して、心の「春」を得ようと期しているようです。

「海の音」は、波のうねりが海岸を打つために起こる海鳴りのことでしょう。「うら」は心の意で、「うらわかき」は若々しい、おさないといった意味になります。

「初音」は、鳥がその年に初めて鳴く声のこと。特にウグイスやホトトギスについていいます。「年月をまつにひかれて経る人にけふうぐいすの初音きかせよ」(源氏・初音)

「春きにけらし春よ春……」からは、春が来たようだ、といううきうきした気分が伝わってきます。「春」は人生の春をも暗示しているのでしょう。新古今和歌集の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」(夏・175、持統天皇)をふまえていることがうかがえます。

「梅が香ぞする海の辺に」。梅は鶯との組み合わせで、春を象徴しています。「梅が香」を「海の辺」にもって配合は新鮮です。

「大巌」は、かたくて動かしがたいものの象徴たる大きな岩。「東雲」は、夜が明けようとするころ。明け方、暁のこと。つぎの行頭の「潮」と頭韻を踏んでいます。「潮の音遠き」の「遠き」には、遙かなるものを待ちこがれる思いが込められているような気がします。

この詩では、ヨーロッパの文学の影響とともに、和歌や俳諧の伝統を受け継いで自然感情によって詩人の思いがうたわれていきます。そこに、日本ロマン主義の一つの成果である藤村詩の特徴と限界があるという見方もできそうです。

最後に、『島崎藤村事典』にある「草枕」に関する笹淵友一氏の解説を以下、あげておきましょう。

仙台への旅によって迎ええた「生の曙」の感動がモチーフになっている。七五、4句を1連とし、30連から成り、藤村詩としては長編に属する。

その叙事的内容は「漂泊」「宮城野」「冬の海」「早春」の4部に分けられる。

この構成が示すように、その大部分は「人生の冬」の叙事と叙情とに向けられ、その焦点は〈心の宿の宮城野よ/乱れて熱き吾身には/日影も薄く草枯れて/荒れたる野こそうれしけれ〉

〈ひとりさみしき吾耳は/吹く北風を琴と聴き/悲しみ深き吾目には/色彩なき石も花と見き〉にあると見てよい。

この2連において詩人の悲哀と寂寥とが〈荒れたる野こそうれしけれ〉その他の逆説的情緒にまで深められる。

ただ叙述・叙情の大部分がこのような〈人生の冬〉に向けられたため、「生の曙」の感動とのバランスを失って、肝心のモチーフが付けたりのような形になっている。

今一つ発想上の問題は人生体験を自然体験のアナロジイとしたことである。そのために悲哀と寂寥との「人生の冬」は「自然の冬」と重なり合い、「人生の春」は「自然の春」によって招来されることになる。

こうして人生感情は自然感情の中に埋没し、「生の曙」という人間性回復の感動は、〈春やきぬらん東雲の/潮の音遠き朝ぼらけ〉という自然回帰の喜びという間接的なものに近づくのである。

藤村の詩情における自然感情の比重の大きさを示したものといってよい。

2017年9月10日日曜日

島崎藤村『若菜集』(18)

きょうは第3部「冬の海」としてくくられる、20連から25連までを見ておきましょう。望郷ともいえるロマンチックな詩情が展開されます。

野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海

朝は海辺〈うみべ〉の石の上〈へ〉に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは濤〈なみ〉ばかり

暮はさみしき荒磯の
潮〈うしほ〉を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ

さみしいかなや荒波の
岩に砕けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
潮とともに帰るとき

誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる

暦〈こよみ〉もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて潮となりにけり


「野のさみしさに堪へかねて」以降にあらわれてくる「海」の描写は、バイロンやブラウニングから学んだロマンティックな詩情、と指摘する研究者もいます。

「都のかたを望めども」というのは、東京をさしているのでしょう。単に故郷を思う郷愁に浸っているのではなく、青春の夢と挫折、さらには作家として名を成し、成功したいという野心がかなえられるところでもあるのです。

「潮」は、一定の時間に海水が高くなったり低くなったりすること。海水そのものをさすこともあります。

「おとなふ」は、音を立てる、ひびく、音がするという意。「鶏もいづ方にかあらむ、ほのかにおとなふに」(源氏・総角)

「波路」は、波の上の船の通る道筋のこと。航路。「波の方にいつから先に渡りけむ波路はあとも残らざりけり」(古今・物名・458)。これに対して、「砂路」は砂浜の道筋か。

「暦もあらぬ荒磯の」は、唐詩選の太上隠者「答人」にある「山中暦日なし」(山中に閑居する人は歳月が過ぎていくのを忘れる)がもとになっています。「山」を「磯」に変えて、海辺の荒涼とした情景を表しているのです。「あらぬ」と「荒磯」は頭韻ふんでいます。

2017年9月9日土曜日

島崎藤村『若菜集』(17)

 きょうは「草枕」の第9連から。第2部の「宮城野」です。

道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ

心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲み深き吾目には
色彩〈いろ〉なき石も花と見き

あゝ孤独〈ひとりみ〉の悲痛〈かなしさ〉を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらむ冬の日の
かくもわびしき野のけしき

都のかたをながむれば
空冬雲〈ふゆぐも〉に覆はれて
身にふりかゝる玉霰〈たまあられ〉
袖の氷と閉ぢあへり

「道なき今の身」とは、生きるための道を見失っているいまの自分自身のこと。

「心の宿」は、精神が休むところ。自らを旅人であるととらえるため、「迷ひ」ながらたどり着いた宮城野とその荒野を「宿」としてとらえています。


「宮城野」は仙台市東部の広瀬川の河岸段丘と低平な扇状地一帯にあった原野。宮城野原ともいいます。宮城県の名称はここから生れたとされています。古くは多賀城に向う東海道 (あづまかいどう) の道筋にあたり、軍事上の拠点でした。

「うれし」は、満足で快い。喜ばしいこと。「乱れて熱き」詩人は、宮城野の「荒れたる野」こそが満足で快いといいます。

「孤独の悲痛を 味ひ知れる人」は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の「孤独になじむものあらば たちまちひとりにならん。人はみなおのがじし命と恋を楽しみて、人の痛みを思わず」(高橋健二訳)などの影響がある、という指摘もあります。

「玉霰」は、その形が玉に似ていることからついたあられの美称です。「閉づ」は、水などが動きをとめて氷やつららになること。この場合は、ふりかかった霰が袖についた氷と連なるという意味か。

さらに、第2部「宮城野」の後半の14連から19連はつぎのようになっています。

みぞれまじりの風勁〈つよ〉く
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か

啼いて羽風〈はかぜ〉もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空の
汝〈なれ〉も荒れたる野にむせぶ

涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな

かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音に
声もあはれのその歌は

うれしや物の音を弾〈ひ〉きて
野末をかよふ人の子よ
声調〈しらべ〉ひく手も凍りはて
なに門〈かど〉づけの身の果ぞ

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿

「羽風」は、鳥や虫が羽を動かすときに起きる風。舞う人の袖の動きが起こす風。「求子(もとめご)舞ひてかよる袖どものうち返す―に」〈源・匂宮〉

「かさゝぎ」すなわちカササギは、スズメ目カラス科の1種で、穀類や昆虫、木の実などを食べる雑食性である。古代の日本には、もともとカササギは生息しなかったと考えられますが、七夕の架け橋を作る伝説の鳥として、知られることとなりました。

鵲の 渡せる橋に おく霜の しろきを見れば 夜ぞ更けにける

と、奈良時代の歌人、大伴家持は七夕伝説に取材してカササギを歌っています。

現在日本に生息するカササギは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、九州の大名らが朝鮮半島から日本に持ち帰り、繁殖したものだとされます。

「汝も」は、あなたも。

「人めも草も枯れはてゝ」は、人にもあえず、草も枯れ果てているという意味。

「山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば(山里は特に冬がよけいに寂しさの増す季節だ。人の行き来も途絶え、草も枯れてしまったなあと思うと) 」(源宗于『古今集』冬・315)を踏まえているとの指摘もあります。

「物の音を弾きて」は、三味線などを弾いて旅する芸人をイメージしているのでしょう。

「忍び音」は人知れず泣くこと。声を抑えて泣くこと。

「門づけ」は、日本の大道芸の一種で、門口に立ち行い金品を受け取る形式の芸能の総称。発祥の根本には、季節に応じて神が祝福に訪れるという民間信仰がありました。

『和名類聚抄』(934年ころ成立)には、「乞児」(ほかいびと)の文字で解説されており、物乞いであると10世紀の時点で定義されています。

「門づけの身」は、門づけ芸人のようにおちぶれた身の上ということでしょう。

「まだ初恋のまじりなく」は、初恋のような初々しい感じすらまだない、おさない親しみの情をさしています。

2017年9月8日金曜日

島崎藤村『若菜集』(16)

詩「草枕」には、きのうまで見たような藤村の苦悩に満ちた現実と、仙台への旅によって迎えることになる「生の曙」の感動がモチーフになっています。

全30連のこの詩は、内容から「漂泊」「宮城野」「冬の海」「早春」の4部構成になっています。きょうは第1部の「漂泊」、1~8連を読みましょう。その前半4連は次のようになります。すでに見た第1連から、行き場のない悲哀が語られていきます。

夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな

若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり

蘆葉〈あしは〉を洗ふ白波の
流れて巌〈いは〉を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ

かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん


「蘆葉を洗ふ白波」からの第3連は、新古今和歌集<春上・二六>「夕月夜潮満ち来らし難波江の蘆の若葉に越ゆる白波(夕月の光に照らされて潮が満ちて来るらしい。難波の入り江の蘆の若葉を越えて寄せてくる美しい白波よ)」(藤原秀能)をふまえています。

「思ひあまりて」の思ひあまるは、堪えがたいほどに思う、思い悩んで心の中だけで処理できない、思案に余ること。人生という旅路における苦悶を、いくつもの嶮しい巌にあたり、砕け散る白波に託しているのでしょう。

「道なき森に分け入りて などなき道をもとむらん」は、下記のようなダンテ『神曲』の冒頭部分をふまえています。

人のいのちの道のなかばで、
正しい道をふみまよい、
はたと気づくと 闇黒〈あんこく〉の森の中だった。
ああ、荒涼と 棘〈とげ〉だって たちふさがる
この森のさまは 口にするさえ せつないことだ。
思うだけでも 身の毛がよだつ!
その〔森の〕苦しさは 死にまさるともおとるまい。
ただ、その森で おもわずうけた僥倖〈しあわせ〉にふれるためにも、
そこで見たくさぐさのことを わたしは語ろう。(三浦逸雄訳)

さて、 第1部「漂泊」の後半の4連はつぎのようになっています。

われもそれかやうれひかや
野末に山に谷蔭〈たにかげ〉に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ

想〈おもひ〉も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行〈ゆく〉へもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな

身を朝雲にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨にたとふれば
あしたの雨の風となる

されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄〈ひるがへ〉り
朝の黄雲〈きぐも〉にともなはれ
夜〈よる〉白河を越えてけり

「われ」もそうなのです、なげき悲しんでいるのです。野の果て、山、谷の蔭に、見るべきわけもない朝夕に、光もなくて、なんとも寂しく秋が暮れていくというのです。

「想いも薄く」とは、もっている考えかたや思想もまずしく、足りなく、といった意味。

「黄雲」は、黄色い雲、金色の雲のことで、天気が悪くなる前兆として現れるとも考えられています。

「白河」は、古代、白河の関が置かれたことで知られる、福島県南部、都から陸奥国に通じる東山道の要衝。六国史に白河が初めて出たのは、718年5月2日に陸奥国から白河など5郡を分割して石背国を設置するという記事。

源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した時に、梶原景季に歌を詠むよう命じると、「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだとされています。

1800(寛政12)年、白河藩主松平定信の考証では、白河神社の建つところを白河の関跡と論じています。白河関にちなんで東北、北海道をまとめて「白河以北」ということもあります。白河を越えれば、そこは奥州、東北なのです。

2017年9月7日木曜日

島崎藤村『若菜集』(15)

  夕波くらく啼く千鳥
  われは千鳥にあらねども
  心の羽をうちふりて
  さみしきかたに飛べるかな

  若き心の一筋に
  なぐさめもなくなげきわび
  胸の氷のむすぼれて
  とけて涙となりにけり

「草枕」の冒頭の2連です。詩は、重々しく暗い雰囲気ではじまります。「夕波くらく啼く千鳥」の「夕波くらく」は、鳴く「千鳥」の暗い感じを醸し出しているだけでなく、「われ」の心の中の重苦しさも表しています。

すなわち「心の羽をうちふりて さみしきかた」に飛ぶ、詩人自らの心のありようでしょう。そこには、重苦しい現実に立ち向かった仙台時代の藤村の深い思いが投影されているようです。

ここで、『島崎藤村詩への招待』(神田重幸編)を参考に、仙台に至るまでの藤村の足取りをふたたび整理しておくことにしましょう。 

明治24(1891)年6月、明治学院を卒業した藤村は、横浜伊勢佐木町にあった雑貨店マカラズヤの店番を手伝いました。しかし、文学を仕事と定めていたため、やがて巌本善治が主宰していた「女学雑誌」の編集の仕事につきます。そこで翻訳などの仕事に従事したのが藤村の文学活動の第一歩となったのです。


明治25年2月、「女学雑誌」に掲載された北村透谷の「厭世詩家と女性」に感銘、それ以降、藤村は透谷との交友を重ね、文学的、精神的に大きな影響をうけることになります。この年、明治女学校の教師になります。

藤村はここで、佐藤輔子=写真=に出会います。輔子を愛しますが、輔子は教え子であり、彼女にはすでに婚約者がありました。藤村は自責の念などから明治26年には明治女学校を退職。教会の籍からも退きます。

精神的に不安定ななかで透谷らと「文学界」を創刊するものの、同年2月には関西へ漂泊の旅に出ます。そして11月下旬、東京浜町の吉村忠道方に落ち着くまで各地を転々とし、自殺も考えたようです。

翌27年に明治女学校に復職するものの、透谷自殺という衝撃が襲います。さらに長兄の秀雄が不正事件で逮捕されます。このため家の重荷を背負い、生活の現実と対峙しなくてはならなくなったのです。

28年には札幌に嫁いだ輔子が死去するなど、藤村にとって重苦しい出来事は続きます。透谷没後の「文学界」同人たちとの疎隔は、文学的、精神的孤立感を深めることにもなりました。

そんな中で、ふたたび明治女学校を辞職。同校の同僚だった小此木忠七郎の世話で、仙台の東北学院に勤めることになります。

藤村に『春』という小説があります。明治41(1908)年4月7日から8月19日まで135回にわたって東京朝日新聞に連載。同年10月〈緑蔭叢書〉第2編として自費出版されました。

明治26(1893)年7月22日東海道の宿場町吉原に、東京から青木、市川、菅、関西の旅から帰った岸本の4人が集まりました。

主人公の岸本は正月来「恩人の家庭」を捨てて、「西の方の旅」を続けてきたという、藤村をモデルとしていると考えられます。

年かさの青木が数えの26、最年少の市川が21歳でした。青木の「物を視る目付、迫つた眉、蒼ざめた頬、それから雄々しい傲慢な額なぞの表情は、傷つけ破らざれば休まずとでも言つたやうな、非常に過激な神経質を示して居た」

岸本の「傲岸であると同時に柔弱な、過激であると同時に臆病な、感じ易いと同時に愚図々々した」性格は、「彼の容貌を沈鬱」にさせている。青年たちの話題は、岸本の苦しい旅の話であり、恋愛談、女性観であり、文学の話でした。

こんな感じで話が展開していく『春』のなかで藤村は、自身の「生」への問いかけを、東北への旅立ちの汽車の中で主人公の岸本に、次のように語らせています。

「汽車が白河を通り越した頃には、岸本は最早遠く都を離れたような気がした。寂しい降雨の音を聞きながら、何時来るとも知れないやうな空想の世界を夢みつつ、彼は頭を窓のところに押付けて考へた。

春と考へるには、自分の若い命はあまりに惨憺たるものであつた。吾生の曙はこれから来る――未だ夜が明けない。

『ああ、自分のやうなものでも、どうかして生きたい。』斯う思つて、深い深い溜息を吐いた。」

2017年9月6日水曜日

島崎藤村『若菜集』(14)

きょうから「六人の処女」を離れ、詩集『若菜集』の「草枕」を読みます。藤村は同じ題名の戯曲も作っています。

詩のほうの「草枕」は、1897(明治30)年2月「文学界」50号に「さわらび」の一篇として発表されました。七五調で4句を1連として、30連からなる次のような長行詩です。

 草枕

夕波くらく啼く千鳥
われは千鳥にあらねども
心の羽をうちふりて
さみしきかたに飛べるかな

若き心の一筋に
なぐさめもなくなげきわび
胸の氷のむすぼれて
とけて涙となりにけり

蘆葉〈あしは〉を洗ふ白波の
流れて巖〈いは〉を出づるごと
思ひあまりて草枕
まくらのかずの今いくつ

かなしいかなや人の身の
なきなぐさめを尋ね侘び
道なき森に分け入りて
などなき道をもとむらん

われもそれかやうれひかや
野末に山に谷蔭〈たにかげ〉に
見るよしもなき朝夕の
光もなくて秋暮れぬ

想〈おもひ〉も薄く身も暗く
残れる秋の花を見て
行〈ゆく〉へもしらず流れ行く
水に涙の落つるかな

身を朝雲にたとふれば
ゆふべの雲の雨となり
身を夕雨にたとふれば
あしたの雨の風となる

されば落葉と身をなして
風に吹かれて飄〈ひるがへ〉り
朝の黄雲〈きぐも〉にともなはれ
夜〈よる〉白河を越えてけり

道なき今の身なればか
われは道なき野を慕ひ
思ひ乱れてみちのくの
宮城野にまで迷ひきぬ

心の宿の宮城野よ
乱れて熱き吾身には
日影も薄く草枯れて
荒れたる野こそうれしけれ

ひとりさみしき吾耳は
吹く北風を琴と聴き
悲み深き吾目には
色彩〈いろ〉なき石も花と見き

あゝ孤独〈ひとりみ〉の悲痛〈かなしさ〉を
味ひ知れる人ならで
誰にかたらむ冬の日の
かくもわびしき野のけしき

都のかたをながむれば
空冬雲〈ふゆぐも〉に覆はれて
身にふりかゝる玉霰〈たまあられ〉
袖の氷と閉ぢあへり

みぞれまじりの風勁〈つよ〉く
小川の水の薄氷
氷のしたに音するは
流れて海に行く水か

啼いて羽風〈はかぜ〉もたのもしく
雲に隠るゝかさゝぎよ
光もうすき寒空の
汝〈なれ〉も荒れたる野にむせぶ

涙も凍る冬の日の
光もなくて暮れ行けば
人めも草も枯れはてゝ
ひとりさまよふ吾身かな

かなしや酔ふて行く人の
踏めばくづるゝ霜柱
なにを酔ひ泣く忍び音に
声もあはれのその歌は

うれしや物の音ねを弾〈ひ〉きて
野末をかよふ人の子よ
声調〈しらべ〉ひく手も凍りはて
なに門〈かど〉づけの身の果ぞ

やさしや年もうら若く
まだ初恋のまじりなく
手に手をとりて行く人よ
なにを隠るゝその姿

野のさみしさに堪へかねて
霜と霜との枯草の
道なき道をふみわけて
きたれば寒し冬の海

朝は海辺〈うみべ〉の石の上〈へ〉に
こしうちかけてふるさとの
都のかたを望めども
おとなふものは濤〈なみ〉ばかり

暮はさみしき荒磯の
潮〈うしほ〉を染めし砂に伏し
日の入るかたをながむれど
湧きくるものは涙のみ

さみしいかなや荒波の
岩に砕けて散れるとき
かなしいかなや冬の日の
潮とともに帰るとき

誰か波路を望み見て
そのふるさとを慕はざる
誰か潮の行くを見て
この人の世を惜まざる

暦〈こよみ〉もあらぬ荒磯の
砂路にひとりさまよへば
みぞれまじりの雨雲の
落ちて潮となりにけり

遠く湧きくる海の音
慣れてさみしき吾耳に
怪しやもるゝものの音は
まだうらわかき野路の鳥

嗚呼〈あゝ〉めづらしのしらべぞと
声のゆくへをたづぬれば
緑の羽もまだ弱き
それも初音〈はつね〉か鶯の

春きにけらし春よ春
まだ白雪の積れども
若菜の萌えて色青き
こゝちこそすれ砂の上〈へ〉に

春きにけらし春よ春
うれしや風に送られて
きたるらしとや思へばか
梅が香ぞする海の辺〈べ〉に

磯辺に高き大巌〈おほいは〉の
うへにのぼりてながむれば
春やきぬらむ東雲〈しののめ〉の
潮〈しほ〉の音遠き朝ぼらけ


「草枕」とは、旅先で草で仮に編んだ枕の意から、旅寝すること、旅先でのわびしい宿り、草のまくらなどのことを言います。

「君をのみ恋ひつつ旅の草枕露しげからぬ暁ぞなき(あなただけを恋しく思いながら旅をするその旅寝には、露がたくさん降りないような暁はありません)」(拾遺・別)
「衣うつ音を聞くにぞ知られぬる里遠からぬ草枕とは」(千載・秋下)

また「たび」「たご」「ゆふ」などにかかる枕詞としても使われます。
「家にあれば筍〈け〉に盛る飯〈いひ〉を草枕旅にしあれば椎〈しひ〉の葉に盛る(家にいる時は食器に盛る飯を、旅先なので、椎の葉に盛ることよ)」(万葉・2・142)

「草枕」というと、やはり夏目漱石の小説を思い出すかたが多いでしょう。

「山路〈やまみち〉を登りながら、こう考えた。智〈ち〉に働けば角〈かど〉が立つ。情に棹〈さお〉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」の有名な書き出しではじまる、著者いわく「非人情」の世界を描いた初期の名作です。

漱石の「草枕」は1906(明治39)年、『新小説』に掲載されました。藤村の詩「草枕」が『文学界』に載ったのは、1897(明治30)年のこと。漱石の小説の9年前に出ていたことになります。

2017年9月5日火曜日

島崎藤村『若菜集』(13)

短き笛の節〈ふし〉の間〈ま〉も
長き思〈おもひ〉のなからずや

七つの情〈こゝろ〉声を得て
音をこそきかめ歌神〈うたがみ〉も

われ喜〈よろこび〉を吹くときは
鳥も梢に音ねをとゞめ

怒〈いかり〉をわれの吹くときは
瀬せを行く魚も淵〈ふち〉にあり

われ哀〈かなしみ〉を吹くときは
獅子も涙をそゝぐらむ

われ楽〈たのしみ〉を吹くときは
虫も鳴く音をやめつらむ

愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り

悪〈にくみ〉をわれの吹くときは
散り行く花も止〈とゞま〉りて

慾〈よく〉の思〈おもひ〉を吹くときは
心の闇の響あり


「おさよ」のつづき、14から22連までです。一管の笛の音を極め、求めんと強い意志で邁進する未婚の音楽家、おさよ。その笛が奏でる音は「七つの情」におよびます。

七情は、7種類の感情。礼記(らいき)では、喜、怒、哀、懼(く)、愛、悪、欲を、仏教では、喜、怒、哀、楽、愛、悪(お)、欲をいいます。

「七つの情声を得て 音をこそきかめ歌神も」と、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、愛、にくしみ、欲という人間の業をさまざまな音色で吹き奏でます。

すると、「鳥も梢に音ねをとゞめ」「瀬せを行く魚も淵にあり」「獅子も涙をそゝぐらむ」「虫も鳴く音をやめつらむ」「流るゝ水のたち帰り」「散り行く花も止〈とゞま〉りて」「心の闇の響あり」と、自然界のあらゆるものを感化できる。

さらには「歌神」ですら耳を傾けるだろうというのです。なんとも気宇壮大な、大げさ過ぎるとも思える表現になっています。

歌神はミューズの意味。ギリシア神話で、詩、劇、音楽、美術など文芸を司る女神たちのことです。パルナッソス山に住み、ミューズたちを主宰するのは芸術の神アポローンとされています。

日本では北村透谷がミューズを「詩神」と訳していますが、日本女性のおさよに合わせて藤村は、和歌をつかさどる神の意もある「歌神」としています。

「われ哀を吹くときは」からの3連は、藤村が好きだったシェイクスピアの詩「ヴィナスとアドニス」からヒントを得たと考えられています。藤村は「夏草」という題で、これを浄瑠璃調に次のように訳しています。

「知らぬかや、その花の姿を見ては、獅子も吼りをやめつらむ。竹に威を張る虎さへも、其声音を聞くときは、やさしの涙をそそぐらむ。されば小河に影のうつりては、瀬を行く魚も淵にあつまり、樹下の影にいこひては、空行く鳥も落ちてくるらむ」

 そして、「おさよ」の最後3連は――

うたへ浮世〈うきよ〉の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ

くるしむなかれ吾友よ
しばしは笛の音に帰れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を

いずれも情熱的な「六人の処女」を扱った中で、第3番目に登場する「おさよ」は、芸術に情熱をそそぐ未婚の音楽家です。6人の中でもひときは思いの激しさが際立っているように思われます。そこに、詩人としての藤村自身の、芸術に対する物狂おしいほどの強い心情を投入しているから、ともいえそうです。

「浮世」は、もともとは形容詞「憂(う)し」の連体形「憂き」に名詞の「世」が付いた「憂き世」です。漢語「浮世(ふせい)」の影響で、定めない世をいうように変化して「浮き世」と書かれるようになりました。

仏教的厭世観から、いとうべき現世、辛いことの多い世の中をいいます。「散ればこそいとど桜はめでたけれ浮世になにか久しかるべき」(伊勢物語・82)

「浮世の一ふし」は、笛の音の一曲であるとともに、浮き世の「一節」をも意味しているのでしょう。浮き世は、笛の一ふしにも似て短くはかないもの。笛の音にはかない世をたくした縁語的表現でしょう。

「きゝね」の「ね」は希望の意を表す上代語に使われた終助詞で、助動詞の未然形につきます。「…てほしい」「…てくれ」など、他に対して願い望む意を表します。

何はともあれ、魂のなぐさめとなるべき生き方を見出したおさよの姿が静かにうたわれて、詩が締めくくられます。

2017年9月4日月曜日

島崎藤村『若菜集』(12)

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女〈をとめ〉とは

うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわが思〈おもひ〉

流れて熱きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

乱れてものに狂ひよる
心を笛の音〈ね〉に吹かむ

「おさよ」の第3連から第7連までです。第3連では「をかしくものに狂へり」と、風変わりな狂人じみた女性だとあざけられている自分を客観的にうたっています。そして「げに狂はしの身なるべき」と自嘲気味に第4連に入ります。

おさよが何歳なのかははっきりしませんが、当時は数えで20歳を過ぎれば「年増」と呼ばれていた時代。「この年まで」と言うからには、23、24歳、20代半ばより上であると想像できます。

「むすぼほれたる」は、『万葉集』(18)に「懇(ねもころ)に思ひむすぼれ嘆きつつ」とあるように、気がふさいで晴れ晴れしない、ふさいでいるといった意味でしょう。

それは「うれひ」が深く、「手もたゆい」すなわち疲れゆるんでだるいためですが、そもそもそれが何の憂いによるものなのかははっきりしません。


「流れて熱きわがなみだ」の第6連以降は、森鴎外主宰の「新声社」同人による訳詩集『於母影』(1889年刊)の「笛の音」(少年の巻)、

おもふおもひのあればこそ
夜すからかくはふきすさべ
あはれと君もきゝねかし
こゝろこめたる笛のこゑ

といった詩句が影響しているとも言われています。近代的な意味での憂愁の心持ちに似た「乱れてものに狂ひよる 心を」笛の音にたくそうとする強い想いには、藤村ならではの新鮮な味わいがあります。さらに、第8連から13連までは――

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十〈とを〉の指

音にこそ渇〈かわ〉け口脣〈くちびる〉の
笛を尋ぬる風情〈ふぜい〉あり

はげしく深きためいきに
笛の小竹〈をだけ〉や曇るらむ

髪は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息〈いき〉を聴け

力をこめし一ふしに
黄楊〈つげ〉のさし櫛〈ぐし〉落ちてけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

第8連の「笛をとる手は火にもえて」という情熱的な激しい表現にはじまり、「笛」にたくした物狂おしいような、おさよの思いが、さまざまな音色を放ちながら切迫した調子でうたわれていきます。この詩のクライマックスでしょう。

「髪は乱れて落つるとも まづ吹き入るゝ気息を聴け」とさそっておいて、「力をこめし一ふしに 黄楊のさし櫛落ちてけり」と、女性の美しくも神秘的でもある所作を浮かび上がらせます。「黄楊のさし櫛」はまさに日本女性の美の象徴でしょう。

「黄楊」は、ツゲ科の常緑小喬木。材は黄褐色で、極めて緻密です。櫛のほか、数珠、将棋の駒、印材、版木など、さまざまな用途に使われています。

櫛は「霊妙なこと、不思議なこと」という意味の「奇(く)し」「霊(くし)び」が語源とされます。髪を梳くことから女性の象徴的な物品として扱われるとともに、呪術的な意味あいも有しています。

「吹けば流るゝ流るれば 笛吹き洗ふわが涙」からは、芸のもつ霊肉一致の境地、奥深さを感じとることもできます。

2017年9月3日日曜日

島崎藤村『若菜集』(11)

「おえふ」と同じく「文学界」48号(明治29年12月)に総題「うすごほり」と題して発表されたうち、きょうから読むのは「おさよ」です。

冒頭に出てきた「おえふ」のつぎのつぎ、「おさよ」は3番目に置かれています。1連が七五調2句、計25連から成り立っています。

  おさよ

潮〈うしお〉さみしき荒磯〈あらいそ〉の
巌陰〈いはかげ〉われは生れけり

あしたゆふべの白駒〈しろごま〉と
故郷〈ふるさと〉遠きものおもひ

をかしくものに狂へりと
われをいふらし世のひとの

げに狂はしの身なるべき
この年までの処女〈をとめ〉とは

うれひは深く手もたゆく
むすぼゝれたるわが思〈おもひ〉

流れて熱きわがなみだ
やすむときなきわがこゝろ

乱れてものに狂ひよる
心を笛の音〈ね〉に吹かむ

笛をとる手は火にもえて
うちふるひけり十〈とを〉の指

音にこそ渇〈かわ〉け口唇〈くちびる〉の
笛を尋ぬる風情〈ふぜい〉あり

はげしく深きためいきに
笛の小竹〈をだけ〉や曇るらむ

髮は乱れて落つるとも
まづ吹き入るゝ気息〈いき〉を聴け

力〈ちから〉をこめし一ふしに
黄楊〈つげ〉のさし櫛〈ぐし〉落ちにけり

吹けば流るゝ流るれば
笛吹き洗ふわが涙

短き笛の節〈ふし〉の間〈ま〉も
長き思〈おもひ〉のなからずや

七つの情〈こゝろ〉声を得て
音〈ね〉をこそきかめ歌神〈うたがみ〉も

われ喜〈よろこび〉を吹くときは
鳥も梢に音をとゞめ

怒〈いかり〉をわれの吹くときは
瀬を行く魚も淵〈ふち〉にあり

われ哀〈かなしみ〉を吹くときは
獅子も涙をそゝぐらむ

われ楽〈たのしみ〉を吹くときは
虫も鳴く音〈ね〉をやめつらむ

愛のこゝろを吹くときは
流るゝ水のたち帰り

悪〈にくみ〉をわれの吹くときは
散り行く花も止〈とゞま〉りて

欲の思〈おもひ〉を吹くときは
心の闇の響ひゞきあり

うたへ浮世〈うきよ〉の一ふしは
笛の夢路のものぐるひ

くるしむなかれ吾友〈わがとも〉よ
しばしは笛の音ねに帰〈かへ〉れ

落つる涙をぬぐひきて
静かにきゝね吾笛を


詩の冒頭では「潮さみしき荒磯の 巌陰われは生れけり」と、おさよの出生が語られています。

藤村は1896(明治29)年9月上旬、東北学院の作文の教師として単身赴任しました。そのころ、仙台の荒浜海岸を散策した際のイメージが、下敷きにあると考えられます。

また、「巌陰われは生れけり」は、モーリス・ド・ゲラン(1810-1839)の散文詩「ル・サントール(Le Centaure)」の平田禿木訳「われはこの巌の岩窟に生まれぬ……」が反映しているともいわれています。

このシチュエーションにはやはり、木曽の山の中に生まれ育った藤村の海に寄せる思いも詰まっていることでしょう。

「あしたゆふべの白駒と」の「白駒」は、白い馬のこと。

この句は『荘子』知北遊篇の「人生天地之間 若白駒之過郤 忽然而已(人、天地の間に生くるは、白駒の郤を過ぐるがごとく、忽然たるのみ)に依拠していると考えられています。

郤は隙と同義で、「人生は白駒の隙を過ぐるがごとし」。すなわち、月日が経つのははやく、人生はつかの間のできごとにすぎない、という意味合いです。

2017年9月2日土曜日

島崎藤村『若菜集』(10)

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門〈かど〉を出で
けふ江戸川に来て見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉〈しもは〉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静〈しづ〉かにて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経〈ふ〉れば
若き命に堪へかねて
岸のほとりの草を藉〈し〉き
微笑〈ほゝゑ〉みて泣く吾身かな


「おえふ」の最後の3連では、姉の死によって宮中からの外出が許され、生まれ育った地である大川端で目にした風景とその感慨を描いています。

久しぶりに訪れた、懐かしい江戸川=写真。でも、白すみれが咲く若草をしいて、夢を抱いて空想にふけったむかしは、もはや戻ってはきません。

そこにあるのは「桜の霜葉黄に落ちて」という秋の寂しい眺めなのです。

「おのれも知らず」は自覚することもないままに。「若き命に堪へかねて」は若々しい生命の衝迫をおさえかねるという、この詩人らしい表現です。

川の岸辺に草を敷いて物思いにふけるという発想は、藤村の詩によく見られます。この「草」は、2連目にあった「若草」と同じように、若き青春の日々を象徴しているように思えます。

吉田精一は『声でよむ現代詩』の中で、次のように鑑賞しています。

〈若いおとめの身として、外面ははなやかで実は複雑な法式にしばられて自己を発揮することのできない宮中生活をしているのであるが、うら若い女性の本能・欲求・理想は、はけ口を求めて、たえきれないほどに心にも身にもこもっている。

積極的にそれを打開する道を知らない、清純なおとめであってみれば、方向のない、はっきりした対象のない欲求、救いようのない空虚な感じ、みたされない心――それを笑ってよいか泣いてよいかわからないのであり、それが「若き命に堪へかねて」「微笑みて泣く吾身かな」である。思春期に生きる女性のなやみとあこがれが、ここにたくみに表現されていると思う。〉

しきたりばかりの閉ざされた宮仕えのなかに「世を経」てきた身には、うら若い女性ならではの、ときめくような恋愛や開放感を求めるべくもありません。

それで「若き命に堪へかねて」と、うずくような青春の欲求を抑え込むことができず、晩秋にもかかわらず「岸のほとりの草を藉き 微笑みて泣く」。

そうしたわが身をいとおしむ乙女の哀感が、ゆったりとしたリズムでうたわれ、実感となって響いてきます。こうした個人として抱く情感がうたわれるのは、近代の産物たる所以なのでしょう。

「微笑みて泣く吾身かな」というのも、藤村ならではの詩情豊かなしめくくりになっています。『島崎藤村詩への招待』で、神田重幸はこの詩についてつぎのように指摘しています。

〈詩想において劇的な面は乏しいが、明治の現実と王朝の幻想というかけ離れた世界をあえて「夢」と「現実」としてつむぐことで、若い処女の嘆きに仮託し、人生の哀しみをうたうことは、そのまま詩人の生命をうたうことであり、それは藤村詩の新しい抒情の形式を象徴したものと言えよう。〉

2017年9月1日金曜日

島崎藤村『若菜集』(9)

「おえふ」の6連目から9連目まででは、宮中での経験とその栄枯盛衰をうたっています。

さばかり高き人の世の
耀〈かゞや〉くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香〈か〉をかげり

きらめき初〈そ〉むる暁星〈あかぼし〉の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天〈あま〉つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名の夕暮に消えて行く
秀〈ひい〉でし人の末路〈はて〉も見き

春しづかなる御園生〈みそのふ〉の
花に隠れて人を哭〈な〉き
秋のひかりの窓に倚〈よ〉り
夕雲〈ゆふぐも〉とほき友を恋ふ

「さばかり」は、たいそう、「ときめきたまふ」は、よい時にあって栄えるという意。


「きらめき初むる」からの第7連と「天つみそらを」からの第8連は、対照をなす対句的な構造になっています。イギリスのロマン派詩人、パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley、1792-1822)=写真、wiki=の「ひばりの歌(Ode to a Skylark)」によっているともいわれています。

「あした」は、朝の意味。「暁星」は、明けの明星、すなわち金星のこと。「御園生」は宮中の庭園を言っているのでしょう。

「天つみそらを渡る日の 影かたぶけるごとく」は『万葉集』(巻二)の山部赤人の「不尽山を望める歌」の「富士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影もかくろひ 照る月の」をふまえているのでしょう。

「花に隠れて人を哭き 秋のひかりの窓に倚り」では、一般の社会から閉ざされた宮中にあって、おおっぴらに泣くことも笑うことも許されない境涯を嘆いています。それは、当時の藤村の心境を写しているのかもしれません。

「夕雲とほき友を恋ふ」には、『古今集』(巻十一・恋歌一)の「夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人を恋ふとて」(読人しらず)の影響がうかがえます。

2017年8月31日木曜日

島崎藤村『若菜集』(8)

「おえふ」の生い立ちをうたった最初の3連をもう一度、読みなおしておきます。

処女ぞ経ぬるおほかたの
われは夢路を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河をながむれば

水静なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影に
われは処女となりにけり

都鳥浮く大川に
流れてそゝぐ川添の
白菫さく若草に
夢多かりし吾身かな

この部分について、吉田精一は『藤村名詩鑑賞』で、つぎのように解説しています。

〈最初の3連は、夢多い幼少年の時代が、それにふさわしいほのぼのとしたことばとしらべをもって歌われている。

  処女ぞ経ぬるおほかたの
  われは夢路を越えてけり

という物語的な歌い出しも、この場合ふさわしい。その次の、

  わが世の坂にふりかへり
  いく山河をながむれば

というのは、あとにあるように平穏な、破綻のない生涯を展開するのであるから、幾らかものものしすぎる表現である。しかし山必ずしもけわしいとはかぎらず河もまた激流とはかぎらぬから、多く非難するにも当らない。とにかくこの第1連で、彼女の半生を絵巻物のようにくりひろげる準備をしたのである。次の、

  水静なる江戸川の
  ながれの岸にうまれいで
  岸の桜の花影に
  われは処女となりにけり

  都鳥浮く大川に
  流れてそゝぐ川添の
  白菫さく若草に
  夢多かりし吾身かな

は、多少重複する所もあるが、桜や、白菫によそえられるこの女性の美しさは、さこそと想像されるであろう。平凡に似ているが、私はこの2連を美しいと思う。「岸の桜の花影に」人となり、「白菫さく若草」をかりてうっとりと夢見勝ちな日を送ったおえふは、心もおっとりとした、ゆたかな家の生れであることが思われる。〉

さて「おえふ」の第4連からは、宮中に仕えての生活が描かれていきます。

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨


詩は「雲むらさき」すなわち紫雲たなびく宮中へと導かれます。むかし中国では、王城の門を九重にしたため、「九重」は宮中の別称としても用いられますが、ここでは大宮内(宮中)を強調するための修飾語として九重を用いています。

「清涼殿」=写真、wiki=は、平安京の内裏にある殿舎のひとつ。平安中期には天皇の御殿とされるようになり、日常の政務のほか、四方拝、叙位、除目などの行事も行われました。建物は九間四面で、屋根は檜皮葺の入母屋造。

「雲を彫め濤を刻り」というのは、浜に寄せる波のように雲がかたちを浮きぼりにさせながら寄せてくる様子を、「霞をうかべ日をまねく」は、漢詩文のイメージを生かし、自然の景にたくして、豪華な宮殿の高くそびえる何層もの高楼のさまを表現しているのでしょう。

「玉の台」(たまのうてな)は、玉台すなわち、天帝の住まいにある美しい楼台のこと。広壮雄大な宮殿を形容しています。

2017年8月30日水曜日

島崎藤村『若菜集』(7)

「おえふ」は七五調の1連4行12連からなる物語詩的な作品です。おえふは、お葉の仮名書き。当時は、女性のごく一般的な名前だったようです。詩は、この架空の未婚少女の生い立ちから始まります。1連目は、次のようになっています。

  処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
  われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
  わが世の坂にふりかへり
  いく山河〈やまかは〉をながむれば

最初の2行は、世の中のたいていの少女たちが過ごすような夢多き日々を、わたしも重ねてきましたという述懐でしょう。

「われは夢路を越えてけり」の「て」は、後の『早春』では「に」に改められ、「われは夢路を越えにけり」とやわらかな響きになっています。

「わが世の坂にふりかへり」とは、けわしい人生行路のなかで、過去をかえりみることができるような一つの「峠」に至って、そこから眺めているのでしょう。

「いく山河」というのは山あり谷ありの人生行路。それは、おえふの言葉であるとともに詩人自身の人生を見つめたものでもあるのでしょう。

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女〈をとめ〉となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮く大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草に
夢多かりし吾身かな

「おえふ」の2連目と3連目です。「江戸川」は、隅田川にそそぐ神田川の上流を指します。「大川」は、東京湾に注ぐ全長23.5kmの隅田川のこと。こうした生い立ちに関する川べりの描写は、青少年のころ隅田川のほとりの浜町で過ごした藤村自身の想いが託されているのでしょう。


「都鳥」は、現在の和名でミヤコドリと呼ばれる鳥ではなく、古来から和歌に詠まれているように、ユリカモメ=写真、wiki=を指していると考えられます。『伊勢物語』の「九段 東下り」には、

なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

とあります。隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤く、シギくらいの大きさ、魚を食べる水鳥とすれば、藤村のこの詩にもぴったり合いそうです。

「白菫」すなわちシロスミレは、スミレ科の多年草。スミレに似ていますが葉数は少なく2枚ほどで、地面から伸びる花柄に直径2センチほどの白い花をつけます。

2017年8月29日火曜日

島崎藤村『若菜集』(6)

藤村の第1詩集『若菜集』は、ひらがなで綴られた次のような「序」にはじまります。五七調のゆったりとしたリズムで、4行1連、3連構成です。

こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ

ぶだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ

そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと


さらに序詩につづいて、次のような前書きがあります。

「明治29年の秋より30年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は若葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌はまだ萌出しまゝの若葉なるをや。」

1896(明治29)年の秋から翌1896(明治30)年の春にかけて、ということは、藤村が東北学院に赴任して仙台に居たときに作った詩を集めたことになります。

1896年10月には母の死に直面し、故郷を再認識した時期でもありました。『若菜集』が春陽堂から出版されたのは1896年8月のこと。

それは「若葉のかげ深きころ」ではあるけれども「吾歌はまだ萌出しまゝの若葉」であるという思いが込められた詩集だったのです。

『若菜集』の冒頭に出てくるのは「おえふ」という詩です。この詩は『文学界』48号(明治29年12月)に、総題「うすごほり」と題して発表された6篇(ほかに「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)の最初に置かれています。

『若菜集』に収録された際には総題は省かれましたが、大正6年に出された『改刷版藤村詩集』には「六人の処女」という総題が付けられ、昭和11年の『早春』には「六人の処女一~六」として収められています。

   おえふ

処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河〈やまかは〉をながむれば

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮うく大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草〈わかぐさ〉に
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿〈せいりやうでん〉の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀〈かゞや〉くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香〈か〉をかげり

きらめき初〈そ〉むる曉星〈あかぼし〉の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天〈あま〉つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名なの夕暮ゆふぐれに消えて行く
秀〈ひい〉でし人の末路〈はて〉も見き

春しづかなる御園生〈みそのふ〉の
花に隠れて人を哭〈な〉き
秋のひかりの窓に倚〈よ〉り
夕雲ゆふぐもとほき友を恋〈こ〉ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門〈かど〉を出で
けふ江戸川に來きて見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉〈しもは〉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静〈しづか〉にて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経〈ふ〉れば
若き命いのちに堪へかねて
岸のほとりの草を藉〈し〉き
微笑〈ほゝゑ〉みて泣く吾身かな

2017年8月28日月曜日

島崎藤村『若菜集』(5)

1908(明治41)年10月に出た藤村の長編小説の『春』という長編小説があります。二葉亭四迷の勧めで同年4月7日から8月19日まで「東京朝日新聞」に連載、10月に緑陰叢書第2篇として自費出版されました。

藤村初の自伝的小説で、そのころ盛んに詩文を発表していた「文学界」の創刊ごろの同人たちとの交流を通して、理想と現実に悩み、苦しみながら、それぞれの道を模索する青春の姿が描かれています。

藤村自身がモデルと考えられる主人公の岸本捨吉は、教え子である勝子(モデルは佐藤輔子)を愛したため、職を捨てて旅に出たものの同人雑誌の創刊の話を聞いて、戻ってきます。

しかし捨吉や同人たちを待っていたのは、俗世の打算を打ち破り自由を求めようとする葛藤と挫折でした。そんな中、捨吉が心から尊敬していた先輩である青木が自殺して、大きな衝撃を受けます。


青木のモデルになったのは、北村透谷(1868-1894)でした。透谷は、英国から来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトの影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴。1889年には日本平和会結成に参画し、機関誌『平和』に寄稿するなどしていました。

しかし次第に国粋主義へと流れる時勢にあって、評論『エマーソン』を最後に、日清戦争勃発直前の1894(明治27年)年5月16日、芝公園で首吊り自殺をします。25歳5カ月の若さでした。

そんな尊敬する先輩の死後、「共同の事業」に疲れてきた「文学界」の同人たちの中にあっても「自分は自分だけの道路(みち)を進みたい」と思う捨吉は作家として生きることを決意し、一切を捨てて東北の学校へ赴任するのでした。

北村透谷の自殺について、藤村は後年「その惨憺とした戦ひの跡には拾つても拾つても尽きないやうな光つた形見が残った」(「北村透谷二十七回忌に」)と回想しています。

1895(明治28)年、こうした身辺の打撃や文学上の懐疑から、もう一度、勉強をやり直すことを思い立って「大学選科に入る準備」を開始。12月には明治女学校を退職しています。

1896(明治29)年9月には、明治女学校の同僚小此木忠七郎の世話で、仙台の東北学院に赴任します。

同学院に籍を置いたのは1年足らずで、翌1897年7月には辞職して帰郷しますが、「仙台へついてからといふものは、自分の一生の夜明けがそこではじまつて来たやうな心持を味ひました」(「『若菜集』時代)と回想しています。

そしてこの年の8月、第1詩集『若菜集』を春陽堂から刊行します。七五調を基調とし、冒頭の"六人の処女"(「おえふ」「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)をはじめ、有名な「初恋」、「秋風の歌」など51編が収録。

日本におけるロマン主義文学の代表的な詩集として文壇の注目を集めることになります。『若菜集』について藤村は、後に次のように記しています。

「『若菜集』は私の文学生涯に取つての処女作と言ふべきものだ。その頃の詩歌の領分は非常に狭い不自由なもので、自分等の思ふやうな詩歌はまだまだ遠い先の方に待つているやうな気がしたが、兎も角も先蹤を離れやう、詩歌といふものをもつともつと自分等の心に近づけやうと試みた。黙し勝ちな私の口唇はほどけて来た」(『改訂版藤村詩集』序)

2017年8月27日日曜日

島崎藤村『若菜集』(4)

明治20年、藤村が入学したころの明治学院は西欧風の教育が特徴で、教授陣もほとんど外国人でした。在学中は馬場孤蝶や戸川秋骨と交友を結び、台町教会で木村熊二によってキリスト教の洗礼を受けています。

学生時代、シェークスピア、ゲーテ、バイロン、ワーズワースなど西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典や、二葉亭四迷の『あいびき』や『めぐりあい』、森鴎外の諸作品など、近代文学の黎明を肌で感じつつ、自らを啓蒙していきました。

「樹木の多い、静かな場所」だった開校当初の学院について「学校で勉強する余暇には、よくあの辺の谷間やら、丘やら、樹蔭の多い道などを歩いたものだ。自然というものが、私の眼に映り始めたのも丁度其時分であった」(「明治学院の学窓」)とも記しています。

明治学院を卒業後は、巌本善治の主宰する『女学雑誌』の編集を手伝い、同誌に翻訳文を発表するなどして文学の道を歩み始めます。とりわけ同誌を介して知った北村透谷からは、文学的にも精神的にも決定的な影響を受けることになります。


北村透谷(1868-1894)=写真=は、本名は北村門太郎。相模国足柄下郡で没落士族の家に生まれ、両親とともに上京して東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通いました。

1883年、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学。自由民権運動に参加しましたが、大阪事件の際に同志から活動資金を得るため強盗をするという計画の勧誘を受けて絶望、運動を離れました。

1889年『楚囚の詩』を自費出版しましたが、出版直後に後悔し自ら回収。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明しました。

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は藤村に衝撃を与えたといわれています。1893年に創刊された『文学界』誌上には「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆していました。

藤村は、明治学院を卒業すると、友人の世話で東京四谷にあった明治女学校高等科の英語の教師になりました。1892(明治25)年の9月、藤村21歳のときのことです。

翌年、交流を結んでいた北村透谷や星野天知の雑誌『文学界』に参加して、同人として劇詩や随筆を発表します。

ところが、まもなく藤村は、教え子の佐藤輔子という1歳年上の生徒を愛してしまいます。

輔子の父親は、岩手県の花巻出身で、第1回岩手県選出国会議員の佐藤昌蔵。国会議員となった父に伴って上京、明治女学校に通学するうち英語の教鞭をとっていた藤村と相知ることになったのです。

輔子には親の定めた鹿討豊太郎という許婚者がいて、藤村との板ばさみの恋に苦しみました。明治28年5月、鹿討豊太郎とともに札幌に移り住みました。

ところが不幸なことに、その年の8月、24歳で病死しています。ちなみに北海道大学総長を務めた佐藤昌介は、輔子の異母兄にあたりました。

輔子を愛した藤村は、教師として自責の念からキリスト教を棄教し、辞職します。その後関西へとあてのない旅に出ます。1894(明治27)年には女学校に復職しましたが、兄事した北村透谷の自殺という衝撃的なできごとに遭遇するのです。

当時のことは、後に『春』に描かれます。この小説で佐藤輔子は、主人公の捨吉の恋人、勝子のモデルとされています。

2017年8月26日土曜日

島崎藤村『若菜集』(3)

藤村の父、島崎正樹(1831-1886)は天保2(1831)年5月4日、信濃(長野県)馬籠宿の本陣、そして庄屋、問屋をかねた家に生まれました。

系譜によれば島崎氏は、相模国三浦の出。永正10(1513)年、島崎監物重綱が木曽氏に仕えてその祖となり、その長男七郎左衛門重通が永禄元年(1558)木曽馬籠に移って郷士となったそうです。

正樹は重通から降って17代に当たります。23歳で、隣村妻籠の本陣から同族の島崎与次右衛門重佶の妹ぬいを娶り、四男三女をもうけました。その末子が藤村ということになります。

正樹は幼くして四書五経を読み、長じて中津川の医師馬島靖庵に国学を学びます。文久3(1863)年には江戸の平田鉄胤の門をたたき、平田派国学の門人に加わりました。これが終生彼の思想の拠り所となります。

尊皇攘夷の波が、木曽谷の山中にまで押し寄せてくる時代でした。皇女和宮御降嫁の通行、水戸天狗党の武田耕雲斎一行の西上、中山道鎮撫総督の東征の通行など、正樹は草莽の士としてこれらを応援し歓迎しました。

維新後は戸長、学事掛をへて教部省考証課雇員になります。一方で、政治的な活動にも関与しています。

禁伐林とされた木曽山林の明山の解放、官有地と民有地の境界再調査、補償金の下付請願などを明治政府に求めた木曽の山林解放運動を展開。明治7年には、天皇の輿(こし)に憂国の歌をかいた扇をなげた疑いで、不敬罪に問われました。

正樹は明治新政府に大きな夢を抱いていました。しかし時代の流れは、彼の国粋思想、拝外思想とは相容れなかったようです。また、旧家の特権が奪われ、山林解放運動に頓挫するなど、家政の衰運はとどめようもありませんでした。

時代の歩みから取り残された正樹は悶々として、ついに発狂してしまいます。晩年、岐阜県水無神社宮司をしていましたが、帰郷して明治19年11月29日に死にます。満55歳でした。

ところで、籠村の庄屋の家に生まれた藤村は、1878(明治11)年、6歳のとき神坂学校に入ります。このころから学問好きの父正樹から『孝経』や『論語』の素読を受けています。

1881(明治14)年、9歳のとき、三兄友弥とともに上京し、京橋区鎗屋町(現在の中央区銀座4丁目)の、長姉そのの嫁ぎ先である高瀬薫方に寄宿。泰明小学校に通いました。

高瀬一家が木曽福島へ帰郷してからは知人の家などに身を寄せて、幼くして独りで生きていかなければならなくなります。

小学校を卒業した後の明治19(1886)年には、同郷の武居用拙から『詩経』『春秋左氏伝』の教授を受けています。また絵画に親しんだり、ナポレオン伝を読んで政治家にあこがれたりもしていたようです。


さらに三田英学校(錦城学園高等学校の前身)、共立学校(開成高校の前身)など、当時の進学予備校で学び、明治20(1887)年、16歳のとき、創立したばかりの明治学院普通部本科(明治学院高校=写真=の前身)へ入りました。

明治学院の起源は、1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」にさかのぼります。1880年には築地へ移転、「築地大学校」と改称されてカレッジ・コースが設けられました。

1883年には、横浜の先志学校を併合して「一致英和学校」と改称し、大学と予備科を整える学校となりました。後に予備科は神田淡路町へ移転し「英和予備校」となっています。

他方、1877年には、アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の3会派が協力して「東京一致神学校」を設立されました。

1886年にはこれら一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」となることが決まり、翌1887年には、設立の認可が下りました。

これによって東京一致神学校は「明治学院邦語神学部」に、一致英和学校、英和予備校は「明治学院普通部本科」と「予科」に名前を変更。キャンパスは、荏原郡白金村(後に芝区白金今里町=現在の港区白金台)に設けられました。

2017年8月25日金曜日

島崎藤村『若菜集』(2)

私が子どものころから親しんできた『現代詩』(学燈社)で、吉田精一は島崎藤村の『若菜集』(1897)を、「近代詩のあけぼのを告げ、詩もまたじゅうぶんに芸術的要求を満たす表現様式であるということを証明した」と位置づけています。さらに、

「藤村は一方では西洋の死、ことに英詩から学び、一方では『古今和歌集』以来の和歌の伝統、芭蕉以降の俳諧、さらには杜甫・李白の漢詩など、東洋の叙情から生命をくみあげ、西洋的なものと、伝統的なものとを、一つにとけ合わせて新しい詩集を組み立てたのである」

「藤村の詩は五七調、もしくは七五を基準とし、それ以外の破格が少ない。詩語も詩情も自然でなだらかである。その詩情は優美で、せつない物のあわれを、胸いっぱいにつつみながら、ひかえめに表現するところに、純情なうたいぶりが強い。なげきとためいきの激しさが、彼の恋愛詩や、漂泊の旅情をうたうにふさわしい」

などとしたうえであげているのが、有名な「椰子(やし)の実」です。吉田は「この詩は、漢詩調の体言止めによって、感傷の激しさをうち出すのに成功している」としています。


  名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ

  故郷(ふるさと)の岸を 離れて
  汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

  旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
  枝はなお 影をやなせる

  われもまた 渚(なぎさ)を枕
  孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

  実をとりて 胸にあつれば
  新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

  海の日の 沈むを見れば
  激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙

  思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
  いずれの日にか 国に帰らん

「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」と宣言した島崎藤村の「新体詩」とはいったいどのようなもので、"明治"という近代化の時代にあって、それはどのように生まれたのでしょう。それを知る手がかりにと、しばし藤村というひとの生い立ちを眺めてみることにしましょう。

島崎藤村は1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村に、大作『夜明け前』のモデルともされる父・正樹と、母・縫の4男として生まれました。

筑摩(ちくま)県は、藤村が生まれた前年の1871(明治4)年に、飛騨国と信濃国中部、南部を管轄するために設置されています。現在の長野県の中信・南信地方、それに岐阜県飛騨地方と中津川市の一部にあたります。

1874(明治7)年、馬籠村は湯船沢村と合併して神坂村になります。さらに1876(明治9)年には、筑摩県の信濃国分が長野県に、飛騨国分は岐阜県に編入されたため筑摩県は廃止。

これによって藤村が生まれた馬籠は、長野県筑摩郡神坂村に入ることになりました。その後、1958年(昭和33)年の合併で、西筑摩郡山口村に編入。このとき「島崎藤村」騒動ともいわれる大きな騒ぎが起こっています。

神坂村議会は当初「岐阜県中津川市との県境を跨いだ合併」を賛成多数で可決しました。しかし「文豪島崎藤村の生誕地を岐阜県に持っていかれたら大損失」と長野県議会が、これに猛反発します。

村は越県合併派、県内合併派に分裂していがみ合い、とうとう警察の機動隊が常駐する始末になりました。最終的に国の裁定で「越県合併を認めるが、馬籠など北部3集落は長野県に残す」というかたちで幕引き、馬籠は西筑摩郡山口村に編入されました。

1968(昭和43)年には、西筑摩郡は木曽郡と改称されて、長野県木曽郡山口村にある木曽谷の馬籠宿として観光客の人気を集めます。ところが平成の大合併で再び越県合併の話が持ち上がり、山口村は2005年、けっきょく岐阜県中津川市に越県合併されることになりました。

2017年8月24日木曜日

島崎藤村『若菜集』(1)

   潮音

  わきてながるゝ
  やほじほの
  そこにいざよふ
  うみの琴
  しらべもふかし
  もゝかはの
  よろづのなみを
  よびあつめ
  ときみちくれば
  うらゝかに
  とほくきこゆる
  はるのしほのね


これは、島崎藤村(1872-1943)の最初の詩集『若菜集』に入っている一篇です。「ときみちくれば うらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね」。そんな春の潮騒のように、明治という"青春"の時代に、日本の近代詩は産声を上げました。

藤村は『若菜集』(1897年8月)を皮切りに、『一葉舟(ひとはぶね)』(1898年6月)、『夏草』(1898年12月)、『落梅集』(1901年8月)の4詩集を立て続けに出版、さらに4冊を合本した『藤村詩集』を1904年9月に出しています。

「若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四卷をまとめて合本の詩集をつくりし時に」という前書きが付いた『藤村詩集』の「自序」は、有名な「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」という文句で始まります。

日本の近代詩の"誕生宣言"とも受け取ることもできる若々しく意気軒昂な「自序」を、とりあえずここにあげておきましょう。その内容については、折に触れて少しずつ検討していきたいと思います。書かれたのは、明治37(1904)年夏となっています。

〈遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。

 うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。
 傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帶びぬ。
 明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壯大と衰頽とを照せり。

 新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた僞りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寢食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。

 詩歌は靜かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦鬪の告白なる。
 なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされてわれも身と心とを救ひしなり。

 誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。

 われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。
 藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。

 あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの卷とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。〉

2017年8月23日水曜日

リルケ「初期のアポロ」④

    初期のアポロ

  いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
  すっかり春めいた朝が見とおせるように
  アポロのこうべには何ひとつ
  妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

  ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
  その目を凝らすところには いまだ影はなく
  月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
  そして 時がたてば眉のあたりの

  薔薇の園から幹が高く伸びいでて
  葉は一まい一まい解き放たれ 
  震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

  くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
  ただほほ笑みながら何かをすすっている
  自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように


リルケは『ロダン論』の中で、次のように記しています。

「彼は第一印象を正しいとせず、第二印象もまたその後のどの印象も正しいとしない。彼は観察し、書きとめる。彼は言うに値しない動きでも書きとめる。回転や半回転、40の短縮や80のプロフィールを書きとめる。

……彼は人間の顔を、彼自身参加している舞台のように体験する。彼はその直中にいて、そこに生じるもので彼が無関心であるものは一つもないし、何ものも彼の目を逃れられない。彼は当事者に何も語らせない。

彼は自分が眼にするもの以外何も知ろうなどと思わないのである。しかし彼は一切を見る。……この創作方法は生を構成する数百もの要素の強烈な集約へ導くのである。」

「だが我々が目前に持ち、知り、解釈し、説明するものすべては表面なのではないか。また我々が精神と呼び、心と呼び、愛と呼ぶもの、それは一切近い顔の上のわずかな表面に起こる微かな変化にすぎないのではないか」

また戸口日出夫は「新詩集におけるリルケの詩作」で次のように指摘しています。

「詩人はそこで素材の観察に始まり、その精神化を経て、人間的意味を持った芸術事物へ造型した。

その過程は対象物を契機として主体の感覚自体が、精神自体が練磨され、純化されていく形に他ならない。

かくて事物は精神により隅々まで透過され、深く主体化される。こうなるとリルケが何を作ろうが、それは彼独自のものとなる。

この芸術の内的論理に従った第二の自然の組織化を詩人は“ Ding-Werdung ” (事物の自己実現)と呼ぶのである。」

2017年8月22日火曜日

リルケ「初期のアポロ」③

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日~1926年12月29日)はプラハ生まれ。プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表していました。

当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を作っていましたが、ロシアへの旅行での精神的な経験を経て、『形象詩集』、『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだします。

1902年からオーギュスト・ロダン=写真、wiki=と交流。ロダンの芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表します。


「Früher Apollo(初期のアポロ)」も、そんな「事物詩」として位置づけられます。パリでの生活していたちょうどそのころ、有名な『マルテの手記』を執筆しています。

リルケは1898年、イタリア旅行中に、フィレンツェで画家ハインリヒ・フォーゲラーと知り合います。そして、1900年8月、フォーゲラーが住んでいた北ドイツの村ヴォルプスヴェーデに滞在することになりました。

1901年4月、リルケはこの滞在で知り合った女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚。隣村のヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えました。同年12月に娘が生まれていますが、父からの援助が断ち切られて生活難に陥ります。

それを打開しようと1902年8月、リルケは『ロダン論』の仕事のためパリに渡ります。そして、翌9月に「地獄の門」、「考える人」などで知られるフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(1840~1917)に会います。

妻のクララもパリに渡ってロダンに師事しましたが、貧しさのため夫妻は同居できませんでした。リルケは図書館通いをして『ロダン論』の執筆を進めながら親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けていきます。

ロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事はリルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」をはじめ対象を言葉によって内側から形作る作風に向かわせることになったのです。

パリの現実と深い孤独。「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」といっています。

リルケは一時ロダンの私設秘書になり、各地で講演旅行をしました。その後、誤解がもとで不和となりましたが、ロダンに対する尊敬は終生変わりませんでした。

2017年8月21日月曜日

リルケ「初期のアポロ」②

きのう訳してみたFrüher Apollo(初期のアポロ)は、1907年に出た『新詩集(Neue Gedichte Erster Teil)』に収められているソネットです。

5脚のヤンブスで、11音節と10音節の詩行が交互に連なっています。脚韻は、abab、cdcd……。伝統的な抱擁韻などとは異なります。

リルケは、1908年には『新詩集 別巻(Der neuen Gedichte anderer Teil)』という姉妹編も出しています。いずれの詩集もロダンの影響を強く受け、対象を手作業を通して造形することを目指しました。

詩行、詩節のまたぎによる自由なリズム。定型から離れようとする危うさ。比喩表現に抒情性は消え、事物的、彫刻家的な目で言葉が発せられています。意味の集積点としての対象とは何か、といったあたりに迫る巧みな比喩を使っていると思います。

リルケは、古代のアポロ像=写真、wiki=の断片を博物館で見て、その素朴で圧倒的な芸術に打たれて作ったのでしょう。


アポロは、ギリシア神話に登場する男神です。オリュンポス十二神の一人で、ゼウスの息子。詩歌や音楽などの芸能、芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神で光明の神でもあります。

「イーリアス」ではギリシア兵を次々と倒した、冷酷さ、残忍さも持つ「遠矢の神」とされています。疫病の矢を放ち、男を頓死させた神であるとともに、病を払う治療神でもありました。

古典ギリシアでは理想の青年像とも考えられ、ヘーリオス(太陽)と同一視されることもあります。ニーチェは、理性をつかさどる神とし、ディオニューソスと対照的な存在と考えていました。

ある日、アポロはエロス(キューピット)が弓矢で遊んでいるのを見て、子供がそんなものをおもちゃにしてはいけない、とからかいました。エロスは、それに怒って、金の矢をアポロに放ちます。そして、鉛の矢を川の神の娘ダフネに射たのです。

金の矢は恋に陥る矢で、鉛の矢は恋を拒む矢。2本の矢が、2人の胸にささった瞬間から、アポロンはダフネを恋し、ダフネはアポロンを拒否するようになりました。アポロはダフネを追いかけ、ダフネはどこまでも逃げます。

ダフネは父親の川の神のところへ駆け込み、言いました。「助けてください。私の姿を変えてください」。すると彼女の姿が変化して、足元から月桂樹の木になっていました。アポロは、ダフネへの愛の記念に、ダフネの月桂樹の葉で冠を作り、生涯それを頭にかぶりました。

いわゆる「アポロとダフネの物語」です。

2017年8月20日日曜日

リルケ「初期のアポロ」①

きょうから、しばし、私の好きな、ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875-1926)=写真、wiki=のソネット「初期のアポロ(Früher Apollo)」を読むことにしましょう。まずは、私の粗訳です。


  Früher Apollo

Wenn manches Mal durch das noch unbelaubte
Gezweig ein Morgen durchsieht, der schon ganz
im Frühling ist: so ist in seinem Haupte
nichts was verhindern könnte, daß der Glanz

aller Gedichte uns fast tödlich träfe,
denn noch kein Schatten ist in seinem Schaun,
zu kühl für Lorbeer ist noch seine Schläfe
und erst später wird aus Augenbraun

hoch stämmig sich der Rosengarten heben,
aus welchem Blätter, einzeln, ausgelöst
hintreiben werden auf des Mundes Beben,

der jetzt noch still ist, nie gebraucht und blinkend
und nur mit seinem Lächeln etwas trinkend
als würde ihm sein Singen eingeflößt.

初期のアポロ

いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
すっかり春めいた朝が見とおせるように
アポロのこうべには何ひとつ
妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
その目を凝らすところには いまだ影はなく
月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
そして 時がたてば眉のあたりの

薔薇の園から幹が高く伸びいでて
葉は一まい一まい解き放たれ
震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
ただほほ笑みながら何かをすすっている
自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように

2017年8月19日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑭

長谷川龍生は、私が頭に描いている「現代詩」というものを体現している天性の詩人の一人です。伝統的な短歌、俳句の抒情をまっ向から批判した「歌とは逆に歌に」の詩人、小野十三郎に学び、これまでにない新たな詩空間を築くことによって、小野の志を受け継ぎ開花させました。

小野十三郎の理論は明快で、大きな刺激を受けました。しかし小野の詩を読んでいても、その理論の意味するところがどう表現に結びついているのか、20代の私には読み取るのが困難でした。一方で、長谷川の詩を読んではじめて小野の主張するところの表現を見た気がしました。

伝統的な抒情とは異質の、物質的で張りつめた言葉の力学ともいえる詩空間が構築できることを知ったのです。

喩えは相当に飛躍するが、それは非ユークリッド幾何学の一つとして確固たる理論の骨組みを備えていたリーマン空間が、アインシュタインの相対性理論に使われることによって、肉を得、血流がゆきわたって行ったのと似ているように思えました。

「長谷川龍生のユニークさは、世界をその自然的な影や彩りや美の形においてではなく、そして勿論文学プロパーのことばとしてであるが、世界を〈論理的に〉とらえることのできる詩の構造を、初めてといっていい程の新しさでつくり上げたところにある。いわば世界観の新しさが、同時に詩の方法論上の新しさとして成立しているところが、前記の詩人達(中野重治や谷川雁=筆者注)との構造上の違いである。自然発生的な美に対する人間主体的な美を、自然構造的な論理の代りに人工的な論理を、世界をその衣装においてでなく、その本質を貫く運動としてとらえること、これらの発想を、全く新鮮な方法上の後ずけをもって行ったところに、長谷川龍生の詩の革命的といってよい意味がある」

と、岡庭昇は指摘している。

  しだいに潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。
  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

伝統的な抒情詩とは異質の、こうした長谷川ならではの詩作の具体的な方法の一つが、「理髪店にて」の中にも、そのエッセンスが凝縮されている「シュールドキュメンタリズム」でしょう。将来、長谷川の別の詩を読むときに、シュールドキュメンタリズムについてはあらためて考えてみたいと思います。


20代のとき、「理髪店にて」が入っている『パウロウの鶴』を読んで、大きな衝撃を受けました。しかし同時に、何事にもネガティブな性癖の持ち主の私にとって、なんとなく憧れがあった文学から遠ざかる契機となった苦い一冊ともなりました。

長谷川のような想像力をもち、言語空間を築くのは、私の能力では到底なしうることができないと観念したのです。そして、創作の道を断念し、一会社員として生きていこうと考えるようになりました。

長谷川は『パウロウの鶴』の後も、「理髪店にて」に垣間見られるような、伝統的な抒情とは異質で独自な幻想、妄想的な要素を含んだ、新たな言語空間を築く努力を続けていきます。

政治や社会、歴史、人々の心情や思いの根底にある「物理」までも徹底的に探ろうとする姿勢は、他の詩人の追随を許さない独創的なものとなりました。

アインシュタインの出現には、ニュートンから200年の歳月が必要でした。同じように、長谷川の後を追い、その先をも視野に入れるのは常人にたやすくできることではないでしょう。

しかし、長谷川龍生を「もはやどの詩人も手の届かない最高峰」などと持ち上げて、過去へと追いやってしまうような気持ちには私はなれません。

  変わりはてた異邦の港湾で
  元型の女 永遠の女を待っている
  自由な愛の取引は終わった と
  ドックの監視員が叫んでいる

  かつての愛の斥候であった一兵士の死骸
  冒されたざん濠 くびられた人家
  津波がさらっていった暮しの舟
  砲弾が崩していった詩稿の束

  全世界を相手にしている男の親和力
  その一すじの火縄だけをたよりにする
  戦友が倒れている 倒れた詩人の背後に
  集落があり 統制地が見え 国家がひそむ

2002年に出た詩集『立眠』=写真=の中の「遭遇こそ」という詩です。その実績や名声がどうであれ、より深く、より鋭い世界観へとつながる言語空間を探れば探るほど、その詩人の道のりは、より困難を増し、より孤独に、迷いだらけに、そして挫折の繰り返しとなります。

長谷川龍生は80歳を過ぎても迷い、失敗し、そしていまも求めつづけているのです。

2017年8月18日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑬

二つの連から成る「理髪店にて」は、これまで見てきたように、1連目と2連目のまったく異なった鮮明な映像が対比的に現れ、それらが切れ味のいい強烈な活断層となって響いてきます。

1連目は致命傷を負って海に沈んだ軍艦であり、2連目は客である潜水夫の荒んだ黒い肌を滑る西洋刃物です。

しかし理髪店にて、理容師と客とのやりとりに出あった第三者、すなわち散髪の順番待ちをしているのか、偶然この場に居合わせたと想定されるこの詩の作者の立場からすれば、時間はつながっているのです。

その見ているものの時間の連続と、場面の断絶が、比類のないドキュメントを生み出しているわけです。

赤と青のサインポールの扉を開けて順番待ちの長いすに座ってしばらくすると、鏡の前に座った後ろ姿の客の声が耳に入ってきました。がっしりした肉体労働者らしき男だ。なんやら、遠い異国の海のなかに沈んだ軍艦の話らしい。


  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

耳に入ってくる話にぐんぐん興味をそそがれてゆきます。それが、待っている作者の想像を掻き立て、頭のなかにクリアな映像を作っていきます。

ふっと我に返って、潜水夫らし客のほうに目をやります。すると、見えてくるのは「正面に篏った鏡の中」の客の姿です。

遠い海のなかに潜って、藻に包まれた軍艦の残骸を見渡して値踏みをしていた潜水労働者。それが、いま首から下をケープで閉ざされ、鏡のワクのなかに嵌っています。

目に入って来たのは鏡のなかに映し出された、唯一の資本である肉体をよりどころに働く労働者だったのです。それは港湾労働者などとして、各地を転々として働いていた詩人自身の姿でもあったのではなかったのでしょうか。

海に潜って、軍国主義の遺物を眺めて値踏みしている。そんな一見、たくましく、したたかで、若々しい強さを持った労働者であっても、ひとたび雇い主に首を切られればたちまち生きるすべを失ってしまいます。

国家という得体の知れない化け物は、ひとたび暴走を始めると「なめらかだが光なみうつ西洋刃物」のような切っ先をありふれた労働者や庶民に向けてきます。

それを戦中、戦後、肌身で感じていた天性の詩人は、鏡の中の姿から、剃首を後に折った生身の客のほうへと次第に視線を移ってゆきます。

すると、理髪師の骨のあるきゃしゃな手に握られた西洋剃刀が、いままさに客のまぶたへと迫っているのです。ひとつ間違えれば、ふたたび目を閉ざされる闇の中へと連れいかれるかもしれぬ危うさを秘めて。

長谷川とほぼ同時代の詩人、川崎洋は「理髪店にて」についてつぎのように指摘しています。

「昭和二十六年、連合国軍最高司令官がマッカーサーからリッジウェイに代わったころから、〈逆コース〉といわれた一連の動きが始まりました。第九条戦争放棄条項を含む憲法の見直しと再軍備。公職追放の解除。破壊活動防止法。電気・石炭業のスト規制法。その他、戦後民主主義から、もとに逆もどりし始めたような世の中となりました。沈められた重巡洋艦がやがて引き上げられる。そのことは、水面下のミリタリズムが、もう一度姿を現そうとしている、復活しようとしている、復活しようとしているという事を、詩の中で暗にほのめかしている。そんなふうに感じ取ることができ、そのことに、西洋刃物がいままさに瞼の下に斜めにかかったような不安感がある――とこの詩は告げています」

それは、なにも戦争直後だけの話ではありません。一見、平穏におもえても、生身に刃物があてられているゾッとするような危うさをいつも身に感じて生きるしかない時代と社会に、現にいま私たちは置かれているのです。

2017年8月17日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑫

  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

青みどろは、ホシミドロ科に属する淡水性の藻類の総称です。繁殖力が強く、池や水田を緑色に覆っているのが、どこでも見られます。

細胞が一列に並んで糸状になり、枝分かれせずに根本から先っぽまで太さがそろっているのが特徴。触るとぬるぬると滑る、つまりヌメリがあります。

池ができればすぐにアオミドロ=写真、wiki=が発生し、池の中の見通しが悪くなります。多量に発生すれば、底の方の藻体から死んで汚泥状となります。まさに「青味泥」です。


ぬるぬるした「青味泥」が、アジアの片隅の小さな島国の、ボロボロになって沈んだ軍艦を覆っている。小さな島国ではあっても世界の列強に交じって覇権を争い、領土や資源を求めてアジアへの侵略を繰り返した軍国主義国でした。

帝国主義と呼ばれる時代だったのです。レーニン的にいうなら、資本主義の独占段階。帝国主義に従って列強が、領土(植民地)を拡張していけば、いずれは覇権を争ってぶつかり合い世界大戦となります。それは当然の帰結でした。

そんな成れの果て、壊滅した帝国主義国家の手先ともいえる軍艦の残骸を「青みどろに揺れる藻」が覆っているのです。

レーニンのいうとおりなら、世界大戦の結果として、資本主義体制は破局へと向かっていたはずでした。ところが、時代はどうもそんなふうには進んでいかなかったのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

ぬるぬるとした「青味泥」が覆う、帝国主義的軍事国家の遺物である軍艦。そんな海の化石となりつつある残骸を、取り立てた感慨を持つわけでもなく、潜水夫である一労働者らしきが「ざっと二千万と見積って」見つめています。

そのころの二千万とは、いまなら十億くらいに値するかもしれません。一人の労働者が、ことによると「資本主義体制の破局」の象徴になったかもしれない、沈没した軍艦の値踏みをしているのです。

戦後、資本主義体制は無くなるどころか、更なる新たな展開を遂げてきました。資本主義はその本性を際立たせ、ますますわたしたちの生活に根を張っています。労働者の敵であるはずの資本家の姿は、すっかり見えずらくなってきました。

個人が大量の株を保有して会社を支配するというより、企業間で株式持ち合い、直接関係のない法人が会社を支配するようになった。資本家がモノと化するにつれて、団結して戦う労働者も減っていっきました。

私は30年ほど前、大学で経済学を勉強していました。通っていた大学の経済学部はまだ、マルクスの資本論を基礎に置く「マル経」と、消費者の行動や市場の構造を数学的に分析する「近経」の二つにはっきり分かれていました。「経済理論」と題された講義も「マル経」と「近経」で別々に2種類用意されていたのです。

長谷川龍生は若いときに新日本文学会に入り、「列島」などに参加して、どちらかというと社会性の強い詩を書いてきました。ですからなんとなく共産党的、マルクス主義的な詩人という烙印を押されることもあるようです。

しかし私には、「マル経」よりもはるかに「近経」的な思考をする詩人に思えます。「近経」のミクロ理論は基本的に、お金やモノ、サービスを得たいと欲する個々の人間が、市場の中で、価格の変動などに伴っておこなう合理的な行動をもとに成り立っています。

長谷川の詩には、労働がどうの、資本がどうの、賃金がどうのというよりも、なんやかんや理屈や主義主張を振りかざしたところで所詮は、カネやモノへの欲求や執着、打算で動いてゆく“人間というもの”のきわめて合理的な行動に興味を持ち、それに冷徹ともいえる眼差しを向けているものが多いように思うのです。

もっとも、彼が唯物論的、科学的なものの見方をする詩人という意味では実にマルクス主義的であるといえるかもしれません。長谷川龍生は国家や理念などといったものは信じません。確かなのは、巷にうごめくカネでありモノであり、それから人間に秘められている怨念なのです。

2017年8月16日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑪

以前にも少し見ましたが、長谷川龍生は、この詩を作ったころの20代、日傭い労働者、港湾労働者、日傭いセールスマン、業界新聞の記者など、さまざまな職に就いていました。それは、生活のためであるとともに、「ほんとうの人間の詩を、生活する場から発見したい」からだったのでしょう。

もっとも詩人の言にしたがえば、閉ざされた「私」の壁を何んの制約もなくすり抜けていくことができる長谷川龍生の「亡霊」が、「社会への唯一の交流媒体」として、労働に勤しんでいたというほうが正確なのかもしれません。

港湾労働者などとして肉体労働に汗を流していたこうした若き日々に、龍生は、「理髪店にて」に出てくる潜水夫のような人と出会ったのでしょうか。それとも当時は、巡洋艦「鳥海」のような軍艦のサルベージが盛んに話題にのぼっていたのでしょうか。

言うまでもないことですが、この世の何が「現実」で何が「幻影」であるのか、何が「実在」で何が「亡霊」なのか、はたまた何が「真実」で何が「虚偽」かなんて、そうたやすくはかり知ることができるものではありません。

ましてや「あくまでも、自己の言葉でもって、自己の意味でもって、自己だけにのみ可能である世界を構築しなければならない。そのためには、つねづね、洗練された感覚に、客体化の光を放射しなければならないのである」(長谷川龍生「自分の天職とは逆の方向に美をもとめて」)とうい詩人ともなれば、なおさらのことでしょう。


しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

それにしても、この潜水夫からは、無惨に破壊されて沈んでいる祖国の軍艦に対する感傷、無念さ、痛恨な思い、祖国愛といった、戦前、戦中の愛国教育を受け、国のために戦った多くの人々が持ちあわせているであろう感情は微塵も感じられません。

ただ、「なんぼくらいになるやろ」という商売人的、あるいは日傭い労働者的、プロレタリアート的な、合理でしたたかに残骸を見つめる視線があるだけです。この詩を読んだとき、私にはそれが実に爽快で気持ちよく、いつしかこの潜水夫は長谷川龍生という詩人そのものではないかと思うようになりました。

「根っから、この日本の国を信用していない」という長谷川龍生に、祖国愛は薄いといいます。「悪い国家というものの実体が判っているだけで、理想の国家像、ほんとうに大衆の住みよい、くらしよい国家像が判らないために、愛情のありかが判らない」(同上)からだそうです。

青年の日々を送る詩人の現実は、「私のまわりで、激しい変化を見せながら流動していたのであるが、私は、あまり、その波浪にはまかれなかった。唯、その波浪の恐怖を〈見る〉という行為にとどめただけで、私は、つねに、空白の意識に、閉じ込められていたのである」。

詩人は、潜水夫になって、その閉じ込められている空白の意識の海の中へと潜り込んでいます。すると、「〈見る〉という行為と、〈見ている自分が見られている〉という自意識とが、奇妙に重なって」現実が幻影化し、そこにイメージが乱出してくるのでしょう。

そうしたイメージの中から、現実とのかかわりあいのうえで、のっぴきならない〈私の存在〉を中核に材料を選択していった。そんな作業の中で、詩人の視界に現れてきた「ドキュメントという証拠物件」が、この場合には巡洋艦「鳥海」だったのではないでしょうか。

それは、「幻影といえども、現実との深い擦過点を求めた」(同上)ものだったのです。

2017年8月15日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑩ 

    剛よい羽毛をうち
    飛翔力をはらい
    いっせいに空間の霧を
    たちきり、はねかえし
    櫂のつばさをそろえて
    数千羽という渉禽の振動が
    耳の奥にひびいてくる。
     たんちょう類か、姉羽鶴こうのとりか
    どちらとも見わけのつかない
    奇妙なパウロウの羽ばたきが
    夜の、静かな大脳の空に、
     ひらめくとびの魚の
    胸鰭の水さばきのように
    皮膚の上から、連続的に
    ひびき、わたってくる。

「理髪店にて」が入っている第1詩集のタイトルでもある、有名な詩「パウロウの鶴」の冒頭です。

“パウロウ”は、犬のほおに管を通して唾液の分泌量を測定 する条件反射の実験で、大脳の生理機能を明らかにしたことで知られるロシアのイワン・ペトローヴィチ・パブロフ=写真、wiki=に由来するとも言われています。


長谷川龍生は、自閉症だった(である)そうです。自閉症は、内気な性格や引きこもり、さらにはうつ病などと混同されがちですが、それらとは根本的に異なり、生まれつき脳の機能に障害を持つ、発達障害のひとつと考えられています。

症状には①人とのかかわりに質的な障害がある②コミュニケーションが取れない③活動や興味の範囲に著しい偏りがある、などがあげられます。

医師の診断を受けてのことか、それとも一種の「詩語」として使っているのか、長谷川がどういう意味合いで自らを「自閉症」と言っているのかを断定することはできません。

しかし、自閉症の要因を自身の血脈や、生まれあわせた広い意味での環境の中に求めていたことは間違いないでしょう。

長谷川家には墓所はあるが、家はない。明治初頭の西南の役で戦病死して血筋が途絶えた長谷川家を、縁もゆかりもないカップルが引き継いだ。それが龍生の母イクであり、父カナメだったといいます。

「私は、小さい時から、この長谷川家をぶきみな呪いのかかっている家筋として、うすうすは知っていた。誰が、どのような方法で、この長谷川家に呪いをかけたのか、それは、余り言いたくはないが、とにかく、一族中に呪いをかけた奴が存在したのである。私は、単純に、その呪いから少しでもレーダー距離を置きたかった。単に意識の距離である。距離を置きながら、一族中の最大の焦点であり、呪われた最大の癌である私の父親〈長谷川カナメ〉のくたばるのをひたすらに待った」(長谷川龍生「自閉症異聞」1968年)

どういういきさつかは知りませんが、母のイクは戦前の、龍生がまだ8歳のときに「明らかに栄養失調」で死んでいます。また父カナメは、その30年後に「徳島県の片田舎」の病院で、行路病者として誰にも見とられずにこと切れました。

このとき龍生はすでに、福井県・三国町の、縁もゆかりもない名谷家へ養子に入っています。筆名として残しているだけで、「長谷川」からは縁が切れていたことになります。

龍生は7人兄弟の五男でした。長男は一高、東大卒の数学の秀才でしたが昭和初期に変死、三男は25歳の若さで流浪の果てに栄養失調死、四男は大阪信貴山の山麓で拾われたが20歳で病死、というように、長谷川一族はほとんどが行路病死、変死の家系だといいます。

「私は、小さい時から、そのような環境の中で、自らと世の中との通路を閉ぢた。明らかに自閉症として、詩人の道をえらんだ。しかし、自閉症としては生きていくことはできない。私はそこで亡霊を創造した。現在、街をあるいたり、会社に勤めたり、他人と会話したりしているのは、私の亡霊である。亡霊だけが、自閉症の壁を、何んの制約もなくすり抜けていくことができ、社会への唯一の交流媒体として働いている」(同)

2017年8月14日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑨

《喉から頬、顎、額などを剃った後、喉の柔らかい部分がどうしてもうまくいかぬ。こだわり尽くした彼はその部分を皮ごと削ぎ取りたいような気がした。肌理の荒い一つ一つの毛穴に油が溜まっているような顔を見ていると彼は真からそんな気がしたのである。若者はいつか寝入ってしまった。がっくりと後へ首をもたせてたわいもなく口を開けている。不揃いな、汚れた歯が見える。

疲れ切った芳三郎は居ても立ってもいられなかった。全ての関節に毒でも注されたような心持がしている。何もかも投げ出してそのままそこへ転げたいような気分になった。もうよそう!こう彼は何遍思ったか知れない。しかし惰性的に依然こだわっていた。

……刃がチョッと引っかかる。若者の喉がピクツとうごいた。彼の頭の先から足の爪先まで何か早いものに通り抜けられたように感じた。で、その早いものは彼からすべての倦怠と疲労とを取っていってしまった。

傷は五厘ほどもない。彼はただそれを見詰めて立っていた。薄く削がれた跡は最初乳白色をしていたが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上がって来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上がって来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一筋に流れた。この時彼には一種の荒々しい感情が起こった。

かって客の顔を傷つけた事のなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫って来た。呼吸はだんだん忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打克つ事が出来なくなった。

……彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと喉をやった。刃がすっかり隠れるほどに。若者は身悶えもしなかった。

ちょっと間を置いて血がほどばしる。若者の顔は見る見る土色に変わった。

芳三郎はほとんど失神して倒れるように傍らの椅子に腰を落とした。すべての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還ってきた。眼をねむってぐったりしている彼は死人の様に見えた。夜も死人の様に静まりかえった。全ての運動は停止した。すべての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷ややかにこの光景を眺めていた》


志賀直哉が、青年時代の1910(明治43)年に書いた短編小説『剃刀』の最後の部分です。現在の東京・六本木の理容店「辰床」の主人、芳三郎は珍しく風邪をひいて、忙しい盛りではあったが寝込んでいました。

芳三郎はもともと、この床屋の小僧ですが、前の主人がその剃刀の腕前に惚れ込んで1人娘の婿に迎えました。

芳三郎は剃刀の扱いは名人クラスだが癇の強い男で、客の肌を撫でて少しでもざらつけば毛を1本1本押し出すようにして剃らねば気が済みませんでした。客は芳三郎にあたってもらうと1日延びがちがうと言い、彼は10年間、客の顔にキズをつけたことがないことを自慢にしていました。

2人の使用人は頼りにならなかった。芳三郎は熱で苦しい身を横たえながら床の中で1人いらいらしていました。剃刀を研ごうとしても、熱で手が震えて思うようにいきません。

そんなところに、景気良く硝子戸を開けてせいの低い二十二三の若者が入ってきました。イキがった口のききようだが田舎者。節くれ立った指や凸凹の多い黒い顔から、昼間は荒い労働についていると察せられます。

剃り始めたものの思うように切れない。手も震える。水洟が垂れてくる。切れない剃刀で剃られながらも平気な顔をしている若者は無神経さが癪に触る。それでも、少しでもざらつけば、どうしてもそこにこだわらずにはいられない。こだわればこだわるほど癇癪が起こってくる。そして、冒頭にあげた場面になるわけです。

子どものころの私は、床屋へ行くのが怖かった。あの、剃刀があるからです。床屋に入ると、その日の機嫌を探るように理容師のおじさんの顔を覗き込むのが常でした。

さすが小説の神様、志賀直哉の描写も見事です。が、あのゾッとする瞬間を、

  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

と、5行で表現しきる詩人もまたすごい。無駄な表現が削ぎ落とされた、なんという驚くべきリアリティでしょう。

「理髪店にて」をはじめて読んだときの20歳くらい私は、この詩人は剃刀のように鋭く、冷たく、そして怖い人に違いないと思い込んでいました。

2017年8月13日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑧

最近では、男性が美容院でパーマネントウエーブをかけるのは当たり前ですし、シェービングや美顔のために女性が理容店を利用するケースも多くなっています。

しかし「理髪店にて」のころは、理容店のあの、赤青白の3色が螺旋状に回るサインポールが置かれた入口から入るのは、男に限られていたはずです。

理容(理髪)は先史時代からありました。青銅器時代の紀元前3500年ころの剃刀も見つかっているそうです。『旧約聖書』にも理容のことが書かれていますし、釈迦の10大弟子の1人ウパーリは、出家前には釈迦族の理髪師でした。


近世のヨーロッパでは、理髪師は外科医と同種の職業として扱われていた国も多かったようですが、日本では江戸時代の「髪結い」の流れをくみ、明治時代にかけては「理髪業従事者」と総称されました。伝統的な髪型が対象の理容について、「髪結い」の呼称はいまも残っています。

また江戸時代、鬢(びん)や月代(さかやき)を剃り、髪を結うことを仕事にした髪結床は床屋とも呼ばれていました。床屋という呼び方は、理髪業従事者とその店の俗称としていまも通用しています。近代的な理髪店は、文明開化の折に横浜に開業したものが第1号といわれます。

  春は早ようから  川辺の葦に
  蟹が店出し  床屋で ござる
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

  小蟹ぶつぶつ  石鹸(シャボン)を とかし
  おやじ自慢で  鋏(はさみ)を 鳴らす
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

1923年に発表された北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡「あわて床屋」では、新たな時代の理髪店で使われるようになった、文明開化を象徴する道具の一つといってもいいハサミをモチーフに、白秋らしい発想と巧みなオノマトペで歌っています。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

ハサミの普及で理髪店の主役だった剃刀は、少しずつ補助的な道具に変わっていきました。しかし「理髪店にて」の時代、もしくはこの理髪店においては、まだまだ剃刀が頑と主役を張っているように思えます。それも、「なめらかだが光なみうつ西洋刃物が」。

戦後のドサクサから経済復興へと経済が激しく動き出したころ、時代の変化に動ずることなく安定した収入が得られる理容師は人気の職種で、競争も激しかったようです。きっと、いまのカリスマ美容師と似たようなところもあったのでしょう。

そんな時代の、激動する大都会の象徴、新宿の理髪店を訪れた常連らしき潜水夫の「荒んだ黒い顔」を剃刀が滑っていく。80~90キロもあるヘルメット潜水の重い潜水服を着て、海中を這いずり回る百戦錬磨のたくましい肉体労働者。といえども、理髪師のきゃしゃな骨張った手がもしも、グサリといけば、一巻の終わりなのです。

2017年8月12日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑦

流氷の海の下を潜ってみたい、と思い立って学生のころ、ライセンスを取るためスキューバ・ダイビングの講習に通ったことがあります。北海道の海でも大丈夫なように、厚さ1センチ余りの厚めのウエットスーツを買い、積丹半島の海に通いました。

ところが、山育ちでろくに泳げもしない私には、海に潜るという作業は想像以上にハードルが高かった。エアタンクを背負い、浮力に負けないための重りをつけるとけっこう動きずらい。潜るにつれてのしかかる水圧に対処するための「耳抜き」がうまくいかず、耳がつぶされるように痛みました。

なによりも、海中にいるという閉塞感が先に立って、レギュレーター(自動調整器)から適度に送られてきている呼吸ガスがどうにも息苦しくてパニックのような状態になります。結局、向いていないなと観念し、講習の途中でやめてしまいました。

そんなのは海に向かない素人の話。スキューバなど潜水技術が進歩した現代では、訓練を積んだプロなら、思いのままに海中を動き回り、沈没船の引き上げ、救助などの困難な作業にもあたれるようになっています。

しかし「理髪店にて」のお客である戦後間もない時期の潜水夫が、映画「海猿」の海難救助にあたる海上保安官のようなイメージで、スルスルと海に潜り、サルベージの作業にあたっていたとは考えにくいようです。

スキューバは1943年にフランスで考案されたもので、海中での作業やスポーツのため世界に普及し始めたのは1950年代になってからのこと。それまでは、いわゆる「ヘルメット潜水」でした。


ヘルメット潜水=写真、wiki=は、ゴム引き帆布などの防水素材で作られた潜水服と、ガラス窓のついた主に真鍮製のヘルメットを使って、水上からホースでヘルメットに空気を供給する送気式の潜水方法です。

1900年前後に基本的なシステムが確立され、以来、水中土木作業や軍事、漁業用にも広く利用され、スキューバが普及し始めるまで実用的な潜水法としてはほとんど唯一のものでした。

潜水服はゴム引きの帆布などの防水素材で作られ、首のところが大きく開く。ここからダイバーが服の中に入り、台座を取り付けヘルメットを固定します。

ヘルメットには、空気供給ホースの接続口や排気バルブ、水上と交信するための電話装置などが取り付けられ台座に固定されているため、首はほとんど動かせません。そのため、外を見るためのガラス窓が取り付けられているのです。

潜水服やヘルメットの内容積が多く、大きな浮力がかかるので胸や背中などに重い鉛の重りをつけたうえ、直立姿勢を保てるように靴にも鉛が内蔵されています。そのため装備の総重量は80~90キロに達しました。

水上の空気供給設備さえ稼動していれば何時間でも海中にいられるわけですが、空気供給ホースが水中の障害物に引っ掛かる危険性が常につきまとい、ダイバーの水中行動は極度に制約されていました。

スキューバのように空気の給排気がダイバーの呼吸に応じて自動的に調整されるわけではないので、ダイバー自身が空気供給ホースの調整バルブとヘルメットの排気バルブの双方を操作して調整しなければなりません。操作を誤ると、窒息死や潜水服が水圧で押しつぶされて傷害を負ったりすることもありました。

身につける装備が重いため、水上では一人で移動することは困難です。水中でもフィン(足ひれ)を使って泳ぐことはなく、ほとんど水底をはうように歩いて移動する必要がありました。

わたしたちがいま抱く潜水のイメージよりも、むしろ、様々な装置がつながれた大きな膨らみを持った宇宙服を着て、ぎこちない感じの足取りで月面を歩いたアポロ宇宙飛行士の姿に近いものだったのかもしれません。

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

「理髪店にて」をはじめて読んだとき私は、冒頭「しだいに 潜ってたら」の「潜ってたら」がなんとなく気になっていました。「潜ってたら」ではなく、「潜っていったら」と表現したほうが潜水の動きが出てくるのに、どうして「潜ってたら」なのだろうかと。

だが、当時の潜水事情を考えてみると、納得します。水中を人魚のようにゆらゆらと潜って行くなどという動作はできなかったのですから。

野武士のような体つきをした頑健な労働者が、決死の覚悟で水底を這うように歩いて移動する。まさに「潜ってたら」だったのです。