2017年4月28日金曜日

中原中也「早春散歩」⑧

中也は「詩的履歴書」の中で、「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」と記しています。

この期間、1日の大半を使っていた「散歩」というのはどんなものだったのでしょうか。中也が残した「散歩生活」という未発表の随筆には、次のようにあります。

〈「女房でも貰つて、はやくシヤツキリしろよ、シヤツキリ」と、従兄みたいな奴が従弟みたいな奴に、浅草のと或るカフエーで言つてゐた。

そいつらは私の卓子のぢき傍で、生ビール一杯を三十分もかけて飲んでゐた。私は御酒を飲んでゐた。好い気持であつた。話相手が欲しくもある一方、ゐないこそよいのでもあつた。

其処を出ると、月がよかつた。電車や人や店屋の上を、雲に這入つたり出たりして、涼しさうに、お月様は流れてゐた。そよ風が吹いて来ると、私は胸一杯呼吸するのであつた。

「なるほどなア、シヤツキリしろよ、シヤツキリ――かア」

私も女房に別れてより茲に五年、また欲しくなることもあるが、しかし女房がゐれば、こんなに呑気に暮すことは六ヶ敷六ヶ敷(むつかし)からうと思ふと、優柔不断になつてしまふ。

それから銀座で、また少し飲んで、ドロンとした目付をして、夜店の前を歩いて行つた。四角い建物の上を月は、やつぱり人間の仲間のやうに流れてゐた。

初夏なんだ。みんな着物が軽くなつたので、心まで軽くなつてゐる。テカ/\した靴屋の店や、ヤケに澄ました洋品店や、玩具おもちや屋や、男性美や、――なんで此の世が忘らりよか。

「やア――」といつて私はお辞儀をした。日本が好きで遥々(はるばる)独乙から、やつて来てペン画を描(か)いてる、フリードリッヒ・グライルといふのがやつて来たからだ。

「イカガーデス」にこ/\してゐる。顳(こめかみ)をキリモミにしてゐる。今日は綺麗な洋服を着てゐる。ステッキを持つてる。〉

ちなみに、ここに出てくるフリードリッヒ・グライル(1902~2003)は、ペン画家で、NHKドイツ語放送のアナウンサーをしていた人です。

東洋の地に憧れて1928(昭和3)年に来日して、その後、日本を第二の故郷として定住。一橋大など多くの大学でドイツ語とドイツ文化を教えたりもしています。


また、「我が生活」というこれも未発表の随筆には、

〈女に逃げられた時、来る年の受験日は四ヶ月のむかふにあつた。父からも母からも、受験準備は出来たかと、言つて寄こすのであつた。

だが私は口惜しい儘に、毎日市内をホツツキ歩いた。朝起きるとから、――下宿には眠りに帰るばかりだつた。二三度、漢文や英語の、受験参考書を携へて出たこともあつたが、重荷となつたばかりであつた。〉

と「口惜しい」ままに「ホツツキ歩いた」青春の日々を描いている。さらに、同じ「我が生活」という題名の別の文章には――

〈私は銀座を歩いてゐた。私は中幕の勧進帳までしか見なかった。おなかが空いた時芝居なんかの中に、さう長くゐられるものではない。それよりかまだ歩いてゐた方がマシである。帰れば、借りつけの賄屋から取ることが出来る。けれども、

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める。〉とあります。

ところで、「毎日々々歩き通す」中也の散歩生活が終わりを告げる1933(昭和8)年10月というのは、遠縁の上野孝子と結婚、新居を構える直前にあたります。

このとき、「亡命者のやうな私の心」にきっと、大きな変化があらわれたのだろう。中也26歳。それは、青春の終焉を意味していたのかもしれません。


  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

「早春散歩」は、「ホツツキ歩いた」、「毎日々々歩き通す」という散歩生活の最後にあたる、この昭和8年に作られています。



*1933年の銀座通り(ウィキペディア)

2017年4月27日木曜日

中原中也「早春散歩」⑦

    春の雨

  昨日は喜び、今日は死に、
  明日は戦ひ?……
  ほの紅の胸ぬちはあまりに清く、
  道に踏まれて消えてゆく。

  歌ひしほどに心地よく、
  聞かせしほどにわれ喘〈あえ〉ぐ。
  春わが心をつき裂きぬ、
  たれか来りてわを愛せ。

  あゝ喜びはともにせん、
  わが恋人よはらからよ。

  われの心の幼なくて、
  われの心に怒りあり。

  さてもこの日に雨が降る、
  雨の音きけ、雨の音。


長谷川泰子が小林秀雄のもとにに走った後も、詩作を中断することはありませんでした。むしろ、前に見た「朝の歌」にみられるように、この事件以降、中也は詩人になったといえるかもしれません。

そして、1927(昭和2)~1928(昭和3)年に中也は第一詩集を出そうと試みました。結局、その計画は実現しませんでしたが、「春の雨」はその詩集に入れるつもりで書かれた詩の一つです。

そんなさ中の昭和3年5月、泰子と小林の関係も破綻します。原因は泰子の神経症だったようですが、事は相当に深刻で、小林は関西へ単身逃げ出しました。

泰子は心情というものがまったく欠如している女だという内容の手紙を、小林は妹に送っています。それからの彼らについて、吉田凞生の「中原中也小伝」には次のように書かれています。

〈しかしそういう泰子が、中也の目には「私の聖母」と映ったのだから、異性関係というものは分からない。中也にしてみれば、泰子は自分のところへ帰ってくるべきなのだが、泰子の方は承知しない。

それどころか、山川幸世という左翼の演劇青年の子供を産んでしまう。中也はその子に名を付けてやり、泰子が映画女優として仕事に出る時は、お守りをしてやったりする。子供に対する特別な感情の現れである。

この間、中也は河上徹太郎、大岡昇平、安原喜弘、内海誓一郎らと同人誌「白痴群」を創刊する。昭和四年四月のことである。誌名は「俗物になれぬバカの集まり」という意味である。

初めて自分の詩を世に問う舞台を得た中也は、活発に詩作し、毎号作品を載せた。その中には「寒い夜の自画像」のように詩人としての使命感を示す詩もあれば、「時こそ今は……」のように泰子に対する再求愛のメッセージを含んだ詩もある。

人間には日常の利害打算よりもっと価値のある、普遍的な幸福というものがあり、愛というものがある、というのが詩人中也の信念だった。

しかし「白痴群」は一年で廃刊となった。原稿の集まりが悪くなったためである。そして廃刊を機に、中也の詩作も停滞し始める。

フランス行きの手段として外務書記生の試験を受けることを考え、東京外語に通い始めたりしている。小林秀雄が新進評論家として活躍し始めたのと対照的である。昭和六年、弟恰三が病没したことも中也には衝撃だった。

死者は清純で、生き残った自分は図々しい、という自責の念が中也を悩ます。『山羊の歌』の最後の二篇、「憔悴」「いのちの声」には、生命の停滞感とそこから脱出したいという願望が見える。

中也がそのために選んだのは、詩集を出版することだった。昭和七年(一九三二)、中也は『山羊の歌』を編集し、家から三百円を引き出して、自費刊行を企てる。

だが資金が続かず、本文を印刷しただけで中断せざるを得なくなった。それも一つの引き金となったのか、年末にはノイローゼ状態となった。強迫観念に襲われ、幻聴があったという。

しかし年が明けて昭和八年になると、精神状態は徐々に平衡を取り戻したらしい。この年三月、東京外語を修了。秋、遠縁に当る上野孝子と見合いをし、十二月に郷里山口で結婚した。中也は珍しく素直だったと伝えられている。

新居は四谷区(現在の新宿区)の花園アパートで、同じアパートに小林秀雄との共通の友人、青山二郎がいた。同じ十二月、『ランボオ詩集《学校時代の詩》』を三笠書房から刊行した。中也はまずランボーの翻訳で認められたのである。〉

「早春散歩」はこの年の早春、中也の精神状態が平衡を取り戻しつつあったころ書かれたと推定されています。

2017年4月26日水曜日

中原中也「早春散歩」⑥

  天井に 朱〈あか〉きいろいで
    戸の隙を 洩れ入る光、
  鄙〈ひな〉びたる 軍楽の憶ひ
    手にてなす なにごともなし。

  小鳥らの うたはきこえず
    空は今日 はなだ色らし、
  倦〈う〉んじてし 人のこころを
    諫〈いさ〉めする なにものもなし。

  樹脂〈じゆし〉の香に 朝は悩まし
    うしなひし さまざまのゆめ、
  森竝〈もりなみ〉は 風に鳴るかな

  ひろごりて たひらかの空
    土手づたひ きえてゆくかな
  うつくしき さまざまの夢。

中也自身がが最も好きだったともいわれ、「この詩に近代文学の誕生を見る」(吉田健一)などと讃えられる有名な詩「朝の歌」です。

以前にも見ましたが、中也は「詩的履歴書」の中に〈大正十五年五月、『朝の歌』を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり『朝の歌』にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くための、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす〉と記しています。

ここに中也は、自身の詩を見出した手応えを感じていたことになります。この詩はソネット風の五七調と、極めて古典的な形式で書かれています。しかし、そこに醸し出されているものは、従来の朝のイメージとは掛け離れています。


「小鳥らの うたはきこえず」、空は、ツユクサの花=写真、wiki=に見られる、はなだ色(薄い藍色)で、「土手づたひ きえてゆくかな/うつくしき さまざまの夢。」というのです。そこには、新たな日を迎えた溌溂とした雰囲気とは無縁の、心の倦怠感のようなものが漂っています。

「朝の歌」に関して、野田真吉は、次のように記しています(『中原中也――わが青春の漂泊』)。

〈至純で自由な幼児のような魂をもって生きようと希った中原は、それ故に世故たけた現実生活の恥辱にまみれ、ふみにじられなければならなかった。

文字どおり業苦のさなかに身を置き、生きなければならなかった。だが、その業苦を自らのものとしてうけとめ生きることに、彼は詩人が至純な魂をいだいて生きているしるしだと思った。

私が中原中也の詩からうける人間的感動はこのような業苦の世界のただなかにたえずゆれうごき、身も心も引き裂かれる至極赤裸な人間の魂の痛みを抒情詩としてたかめ、うたいあげられているところにある。

それは祈りであり、悔恨であり、迷いであり、愛慕未練の訴えである。〉

「朝の歌」が入っている詩集『山羊の歌』(1934年)の、この詩の前にも、私の好きな春の詩があります。初稿は「朝の歌」と同じころ書かれたとみられている「春の夜」です。

       春の夜

  燻銀〈いぶしぎん〉なる窓枠の中になごやかに
    一枝の花、桃色の花。

  月光うけて失神し
    庭〈には〉の土面〈つちも〉は附黒子〈つけぼくろ〉。

  あゝこともなしこともなし
    樹々よはにかみ立ちまはれ。

  このすゞろなる物の音〈ね〉に
    希望はあらず、さてはまた、懺悔もあらず。

  山虔〈つつま〉しき木工のみ、
    夢の裡〈うち〉なる隊商のその足竝〈あしなみ〉もほのみゆれ。

  窓の中〈うち〉にはさはやかの、おぼろかの
    砂の色せる絹衣〈ごろも〉。

  かびろき胸のピアノ鳴り
    祖先はあらず、親も消〈け〉ぬ。

  埋みし犬の何処〈いづく〉にか、
    蕃紅花色〈さふらんいろ〉に湧きいづる
        春の夜や。

蕃紅花色というと、サフランの雌しべで染めた黄色っぽい色と、うす紫っぽい花の色の二通りが考えられます。この詩の場合、どちらがしっくりいくでしょうか。

2017年4月25日火曜日

中原中也「早春散歩」⑤

同棲していた長谷川泰子に逃げられた翌年の1926(大正15年・昭和元)年4月、中原中也=写真、wiki=は日本大学予科文科へ入学するものの9月に退学。11月ごろには、アテネ・フランセへ通います。


1928年(昭和3年)5月には父謙助が死去。中也は喪主でしたが、葬儀に帰省参列はしませんでした。このころ小林秀雄は、長谷川泰子のもとを去っています。昭和4、5年に書かれたとみられる「我が生活」という題の草稿には、次のようにあります。

〈私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方を瞶(みつ)めることが出来てゐたのと確信する。

つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若(も)し、若々しい言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。

手短かに云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして又、その可能なるものが如何にして可能であり、不可能なものが如何に不可能であるかを知つたのだ。私は厳密な論理に拠つた、而して最後に、最初見た神を見た。

然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、私はたゞもう口惜(くや)しくなるのだつた。――このことは今になつてやうやく分るのだが、そのために私は嘗ての日の自己統一の平和を、失つたのであつた。全然、私は失つたのであつた。

一つにはだいたい私がそれまでに殆んど読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知る所が殆ど皆無であつたので、その口惜しさに遇つて自己を失つたのでもあつたゞらう。

とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つてはゐなかつたのである! 私はたゞもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」であつた。〉

「口惜しき人」の意味合いは、単に女に逃げられた、友人に裏切られたというところにとどまりません。先行きも希望も見えない、名伏しがたいものを生きていく「口惜しき人」になったのです。それは、中也が、詩人になった瞬間であったのかもしれません。

1931(昭和6)年4月、東京外国語学校専修科仏語部に入学。この年の9月には、日本医科大学の学生だった弟の恰三が病死しています。中也は、その直後、次のような弟の追悼詩を書いています。中也が24歳のときです。

      死別の翌日

  生きのこるものはづうづうしく、
  死にゆくものはその清純さを漂はせ
  物云ひたげな瞳を床の上にさまよはすだけで、
  親を離れ、兄弟を離れ、
  最初から独りであつたもののやうに死んでゆく。

  さて、今日はよいお天気です。
  街の片側は翳〈かげ〉り、片側は日射しをうけてあつたかい、
  けざやかにもわびしい秋の午前です。
  空は昨日までの雨に拭はれてすがすがしく、
  それは海の方まで続いてゐることが分ります。

  その空をみながら、また街の中をみながら、
  歩いてゆく私はもはや此の世のことを考へず、
  さりとて死んでいつたもののことも考へてはゐないのです。
  みたばかりの死に茫然として、
  卑怯にも似た感情を抱いて私は歩いてゐたと告白せねばなりません。

この詩を読んでいくと、季節の違いこそあれ、詩のかたちも味わいも「早春散歩」とよく似たところがあることに気がつきます。

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……

中村稔は〈早春と秋という季節のちがいはあっても、散歩しながら心のなかにふきあげてくる感傷を描いている〉という点で両作品は似ており〈「死別の翌日」の呼吸、声調が、そのまま「青春散歩」にひきつがれている〉(『国文学』昭和52年10月)。



さらに、大岡昇平は「死別の翌日」の〈個人的感情の直截な表出から、より普遍化された詩想への展開〉が「早春散歩」(「神と表象としての世界」)と指摘しています。

2017年4月24日月曜日

中原中也「早春散歩」④

1925(大正14)年3月、中也は同棲していた泰子とともに上京します。中也は17歳、もうすぐで18歳になるというときのことです。

日大の予科などを受験するというのを口実にしましたが、替え玉受験を依頼したり、試験日にわざと遅刻して受験しなかったり。かと思えば今度は、受験のために予備校に通うのだといって両親らをごまかしていました。

そして山口の実家から、当時としてはサラリーマンの初任給よりずっと多かった80円、90円という送金をしてもらっていたのです。母のフクが「肝焼き息子」という生活の始まりです。送金は100円、120円とつりあがり、死ぬまで続いていきます。

秋山駿は「評伝」で次のように記しています。

〈これは、十七、八歳の乱暴さに賭けてでなければ行なえぬ、敢行の行為である。ヴァレリーは、自分の知る若干の天才の場合には、十九歳から二十四歳にかけての間に知的クーデターがあった、としているが、中原のこれは、それに先行する生のクーデターであった、といっていい。

しかし、その敢行の行為が、嘘を吐く(家に向って)、社会から見れば一種のインチキを踏み切り板にしているところに、中原の問題である。私が、中原における犯罪性と言ったのは、そこだ。むろん、そこはこの敢行の特徴を極端化するために言ったので、本当は犯罪性ではない。

嘘は、それを必要として自分の生の行手を賭ける者にとっては、嘘ではない、正当な行為である。むろん、嘘ではない、正当な行為である。むろん、中原はそう考えた。いま、すべてが赦されている、と。

――しかし、こういう生活の手段を生涯続けなければならない、と思うようになってからは、いったいこういう行為とその生とは、赦さるべきものなのか、それとも赦されないのか、という自問自答を、中原は無限に繰り返すようになる。

「生の罪」、あるいはこれを逆転して、「罪としての生」といった音調のものが、彼の詩の根底を流れ出す。〉(『新潮日本文学アルバム・中原中也』)


上京した翌月の1925(大正14)年4月、富永太郎と親しかった小林秀雄=写真、wiki=と知り合います。

この運命的な出会いによって、日本の近代文学史上よく知られた“奇怪な三角関係”がはじまることになるのです。

その年の11月12日、肺病を患い闘病生活を続けていた富永太郎が、酸素吸入器のゴム管を「きたない」と自ら取り去り、24歳の若さで死にます。

その直後、泰子は中也のもとを離れて小林秀雄のところへ走り、同棲を始めるのです。

そのあたりの詳細は、有名な大岡昇平の『朝の歌』につづられている。ここでは、小林自身が後に書いた「中原中也の思ひ出」(昭和24年8月『文藝』)の一節をあげるのに留めておきましょう。

〈私は中原との関係を一種の悪縁であつたと思つてゐる。大学時代、初めて中原に会つた当時、私は何もかも予感していた様な気がしてならぬ。尤も、誰も、青年期の心に堪へた経験は、後になつてから、そんな風に思ひ出したがるものだ。

中原に会つて間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合ふことによつても協力する)奇怪な三角関係が出来上り、やがて彼女と私は同棲した。この忌はしい出来事が、私と中原の間を目茶目茶にした。

言ふまでもなく、中原に関する思ひ出は、この処を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思ひ出といふ創作も信ずる気にならない。

驚くほど筆まめだつた中原も、この出来事に関しては何も書き遺してゐない。だゞ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は、「口惜しい男」といふ数枚の断片を見附けただけであつた。夢の多すぎる男が情人を持つとは、首根つこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。

そんな言葉ではないが、中原はそんな意味のことを言ひ、さう固く信じてゐたにも拘らず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変つた、と書いてゐる。が、先きはない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かつたに相違ない。〉

中也や秀雄たちの青春は、「宗教風の恋」を問うたような賢治とはかなり異質なものだったようです。それはともかく、こうした“奇怪な三角関係”のころに作られたと考えられる作品の中に、つぎのような春の詩があります。

      春

  春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
  その汗を乾かそうと、雲雀〈ひばり〉は空に隲〈あが〉る。
  瓦屋根今朝不平がない、
  長い校舎から合唱は空にあがる。

  あゝ、しづかだしずかだ。
  めぐり来た、これが今年の私の春だ。
  むかし私の胸を搏〈う〉つた希望は今日を、
  厳〈いか〉めしい紺青〈こあを〉となつて空から私に降りかゝる。

  そして私は呆気〈ほうけ〉てしまふ、バカになつてしまふ
  ――藪かげの、小川か銀か小波〈さざなみ〉か?
  藪かげの小川か銀か小波か?

  大きい猫が頸ふりむけてぶきつちよに
  一つの鈴をころばしてゐる、
  一つの鈴を、ころばして見てゐる。

2017年4月23日日曜日

中原中也「早春散歩」③

中原中也(1907―1937)は、1907(明治40)年4月29日、山口県吉敷郡山口町大字下宇野令村(現在の山口市湯田温泉)に父柏村謙助、母フクの長男として生まれています。

父謙助は当時陸軍軍医として旅順にいました。1909(明治42)年、父謙助の転任にともなって広島へ、その後、金沢へと移り住みます。

1914(大正3)年3月、父謙助が朝鮮龍山(現ソウル市)聯隊の軍医長となったため、家族は山口に戻ります。1915(大正4)年1月、弟の亜郎が病死。その死を歌ったのが最初の詩作だと、中也は後に書いています。

8月、父謙助は山口に帰任。10月には中原家との養子縁組を届け出て、一家は中原姓となりました。1917年(大正6)年4月、父謙助は願によって予備役に編入され、中原医院を受け継ぐ。

1920(大正9)年2月、『婦人画報』と『防長新聞』に投稿した短歌が入選。4月には県立山口中学(現山口県立山口高等学校)に入学しましたが、このころ読書に目覚め、次第に学業を怠るようになります。

1922(大正11)年5月、友人2人とともに私家版の歌集『末黒野』を刊行。中に、「温泉集」と題して、28首を収めました。「防長新聞」に好意のある批評が載っています。

1923(大正12)年3月、山口中学を落第し、京都の立命館中学第3学年に転入学しました。晩秋には、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に出会い、ダダイズムに傾倒していきます。

その冬、ドイツ文学者の成瀬無極が主宰した小劇団「表現座」に所属していた女優、長谷川泰子(1904―1993)=写真、wiki=を知ることになります。


稽古場にいたとき、中学生がやってきて、ダダの詩の書いてあるノートを見せたのが、出会いの始まりだ、と自著『ゆきてかへらぬ』で泰子は述べています。

泰子は、広島市出身。英和女学校(現・広島女学院)を卒業。ひとり立ちして生きていこうと女優を志し、京都に出てきて、表現座で役者修業をしていました。しかし劇団は解散してしまったため、泰子は途方に暮れてしまいます。

「それなら、ぼくの部屋に来てもいいよ」と中也が言ったのがきっかけで、二人の同棲生活がはじまります。1924年(大正13年)4月のことです。

この年の7月、富永太郎が、上海に渡って永住しようという計画に挫折して、友人がいる京都へ遊びに来ました。その際、中也と知り合い、2人はすっかり意気投合。詩を語り、ダダイストを論じあう仲になります。

そのころとについて、大岡昇平は『中原中也伝――揺籃』のなかで、次のように記している。

〈富永は殆ど毎日中原の部屋へ来て詩の話をし、下鴨の下宿へは寝に帰るだけだった。と当時中原と同棲していた長谷川泰子はいっている。富永二十三歳、中原十七歳、泰子二十歳である。

泰子はマキノ・プロダクションの大部屋女優で、撮影所へはあまり行かなかった。二人の食事を作った。しかし酒を出すなんて考えたことはなかったというから、二詩人のアルコール中毒は大して進んでいなかったと見倣していい。また金もなかった。〔中略〕

中原はこの前の年から高橋新吉の影響の下に、ダダイスムの詩を書いている。早熟の詩才は二人の大学生にとって驚異だったことは間違いない。

富永も大正十年から約十五篇の詩を書いているが、いずれも習作の域を出ず、模索時代である。中原は彼にとって、最初の詩人の友であった。

七月七日附の手紙に「ダダイストを訪ねてやりこめられたり」の句があるところをみると、中原は六歳年長の友に遠慮しなかったと想像される。しかし相互に影響の跡は、二人のその後の作品にはあまり見あたらない。〉

中也が「詩帖」と呼んだ詩篇ノートの最も古い一冊にも、「春」の詩が書かれています。推敲を重ね、中也が生きているときに出した唯一の詩集『山羊の歌』の冒頭に置かれることになった詩「春の日の夕暮」です。

     春の日の夕暮

  トタンがセンベイ食べて
  春の日の夕暮は穏かです
  アンダースローされた灰が蒼ざめて
  春の日の夕暮は静かです

  吁〈ああ〉! 案山子〈かかし〉はないか――あるまい
  馬嘶〈いなな〉くか――嘶きもしまい
  ただただ月の光のヌメランとするまゝに
  従順なのは 春の日の夕暮か

  ポトホトと野の中に伽藍は紅く
  荷馬車の車輪 油を失ひ
  私が歴史的現在に物を云へば
  嘲〈あざけ〉る嘲る 空と山とが

  瓦が一枚 はぐれました
  これから春の日の夕暮は
  無言ながら 前進します
  自〈み〉らの 静脈管の中へです

2017年4月22日土曜日

中原中也「早春散歩」②

中原中也は、自らの詩作の遍歴について、未発表の「詩的履歴書」という文章で、次のように記しています。
 
大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌つたのが抑々〈そもそも〉の最初である。学校の読本の、正行〈まさつら〉が御暇乞の所、「今一度〈ひとたび〉天顔を拝し奉りて」というのがヒントをなした。

大正七年、詩の好きな教生に遇う。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。

大正九年、露細亜〈ロシア〉詩人ベールィ=写真、wiki=の作を雑誌で見かけて破格語法なぞということは、随分先から行われてゐることなんだなと安心す。

大正十年友人と「末黒野」なる歌集を印刷す。少しは売れた。

大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。

大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思う。

仝年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省がなかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎〈とが〉めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正十四年、小林に紹介さる。

大正十四年八月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和二年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。

仝年十一月、諸井三郎を訪ぬ。

昭和三年父を失ふ。ウソついて日大に行つてるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧ろウソが明白にされたので過去三ヶ年半の可なり辛い自責感を去る。

昭和四年同人雑誌「白痴群」を出す。

昭和五年八号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和七年季刊誌「四季」第二輯夏号に詩三篇を掲載。

昭和八年五月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。

昭和八年十二月、結婚。

昭和九年四月、「紀元」脱退。

昭和九年十二月、「ランボオ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。

昭和十年六月、ジイド全集に「暦」を訳す。

仝年十月男児を得。

仝年十二月「山羊の歌」刊行。

昭和十一年六月「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正四年より現今迄の制作詩篇約七百。内五百破棄。


さらに「履歴書」の最後には、この詩の題名にもなった「散歩」について、次のように書かれていました。

「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。」

*アンドレイ・ベールイ(1880-1934)は、実験的な作風や独自の詩論で知られるロシア後期象徴派の中心的な詩人

2017年4月21日金曜日

中原中也「早春散歩」①

ここでアントニオ・マチャードから離れ、きょうからしばらく私のブログで以前公開したこともある、日本の近代詩を読んでいきたいと思います。まずは、ちょっと時期を失した感がありますが、中原中也(1907-1937)の「早春散歩」をしばらく読みたいと思います。

     早春散歩

  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

  さうしてこの淋しい心を抱いて、
  今年もまた春を迎へるものであることを
  ゆるやかにも、茲〈ここ〉に春は立返つたのであることを
  土の上の日射しをみながらつめたい風に吹かれながら
  土手の上を歩きながら、遠くの空を見やりながら
  僕は思ふ、思ふことにも慣れきつて僕は思ふ……


「早春散歩」は、原稿用紙に書かれたままの状態で、中也の死後に見つかった作品です。

原稿用紙は紀伊国屋製。グリーンの罫線で、400字詰め。四方に子持ち罫による囲みがあるタイプで、ブルーブラックインクの万年筆で記されていました。

題名には「早春」とあり、2行目には「春、早春」とありました。原稿用紙の種類やこれらの記載から、1933(昭和8)年早春の作と推定されています。

2017年4月20日木曜日

第二の黄金期③

20世紀は「イスパニア詩の第2の黄金世紀」 といわれるほど、才能豊かな個性的な詩人たちが多く現れ、独自の発展を遂げました。清水憲男は「20世紀以降のスペイン文学は、一定の輝かしい小説家の存在を除いて、根本的に詩がその大動脈を形成してきたというのが年来の私見である」とし、その理由として次のように記しています。

「27年世代、あるいはそれに先立つ98年世代のAntonio Machado他の詩人に私淑するにせよ反発するにせよ、詩を読み、詩を書く必要性を主張かつ実践する骨太の感性の持ち主たちが、日本ではまったくと言っていいほど知られないまま、次々に台頭しているからである」 。


これまで見てきたように、フランス象徴主義やモダニズムの影響を受けて詩作をスタートしたマチャードは、「1898年世代」がこだわったカスティーリャに移り住むのと時を同じくして、詩風を大きく変化させます。

きらびやかな形容詞の飾りを捨て去り、近代的、象徴主義的手法からも離れ、ものごとを語り、心の鼓動を伝える動詞を重視、ロマンセなどスペインの伝統的な手法を用いるようになるのです。こうして、「98年世代」の意思を体現しているようにも思える詩集『カスティーリャの野』ができあがったのです。

同詩集には、スペインの源流であるカスティーリャの荒涼たる風景に刻まれた歴史や人々の醜い心を描写した定型詩があるかと思えば、カスティーリャの地に巣食う犯罪の根を探るロマンセ、さらにはロマンセの伝統を受け継いだ短詩であるコプラもたくさん盛り込まれています。

一見、脈略のない寄せ集め的な構成で、文学的には時代に逆行した感さえする詩集です。しかしそこには、高名な民俗学者の父をもったことなどで培ったマチャードの素養とともに、「98年世代」の課題を誠実に遂行し言葉の力でスペインの再生を夢見ていた詩人の、相当に意図的な言葉の「戦略」といえるようなものがあったと考えることができるでしょう。

どん底に落ち込んだ国を再生するのは、最終的にはそこに住んでいる国民であり、民衆たちです。彼らが、祖国の置かれている状況を自覚し、変えていこうとしなければ再生などありはしません。

彼らに言葉を届かせるためには、詩人は民衆の言葉で語らなければならなかったのです。スペインの伝統的な詩形であるロマンセや、民衆の歌であるコプラにこだわり、落ちぶれ果てた現在を描写し、その醜さまでをも語りきる動詞を必要としたのです。

『カスティーリャの野』の序文で、マチャードは「詩人の使命というのは、永遠に人間的であるところの新しい詩を考案するところにあると私は思った」 と記しています。その一つが「新しいロマンセを書く」ことでもあったわけです。

「98年世代」的な課題を背負った詩人にとって、大きくのしかかっていた「使命」とは何か。それは、とりもなおさず国の再生という現実的な問題だったはずです。とすれば、「新しい詩を考案」しようというマチャードの試みは、すなわち詩人の「戦略」と位置づけても、さほどに不自然ではないのではないでしょう。

国の近代化と再生を夢見たマチャードたちの運動は、内戦へと向かう社会の混乱や、共和派の敗北、フランコ独裁といったその後の歴史をみると、結局は夢の域を出ず、これといった成果を得られないまま挫折したと考えられます。しかし、「98年世代」の中で最後の最後まで戦い通したのが、当初はもっとも政治活動に消極的だったマチャードでした。

そして、彼の志は「イスパニア詩の第2の黄金世紀」といわれた20世紀の詩人たちに受け継がれていったのです。私は、スペイン語の「晩生の果実(fruto tardío)」という言葉が好きです。ヨーロッパ諸国の文学の中ですでにすたれてしまったジャンルが、遅れてスペインに移入され、それが独特の興趣を帯びた文学となって実を結ぶことです。

さらには、スペインに以前から存在していたものが、ある種の色付けをされ、時により活気を帯びて再び現れ「継続性」となるのです。マチャードもまた、1898年の破局からの再生という夢に向けて、詩人としての「戦略」を模索するなかで、ロマンセなどスペインの詩に新たな「継続性」を与えるという大きな役割を演じたといえるのではないでしょうか。

一見古くさくもあるそうした「晩生の果実」が将来、ヨーロッパ諸国に逆輸入されて新たな花を咲かせることもあるでしょう。どん底の危機にあえぐ世界のどこかの国で、あるいは、絶望に打ちひしがれて明日が見えなくなった世界のどこかの人に、マチャードがつかみ取った言葉が「再生」への手掛りになることもありうるはずです。

私にとってアントニオ・マチャードは、むかしからずっとやってみたいと思いながらできないでいた「詩を読む」という試みを本気で実行する最初の詩人となりました。これを機に、マチャードだけでなく、日本や世界のいろんな詩や詩論を人生のつづいていく限りじっくりと読み続けていきたいと思っています。それが、ささやかの私の“第二の人生”であり、また、私自身の「再生」への道ではないのか、という気もしています。

2017年4月19日水曜日

第二の黄金期②

このブログで再三引用したエントラルゴは「この世代が行動の世界にわずかに触れたあと、苦悩からスペインの夢想へ移行したことを、アントニオ・マチャードほど美しく明快に歌った人はいない」 として、『カスティーリャの野』の詩「若きスペイン(Una España Joven)」(1914) をあげています。その第1節に描かれているのは、彼らが青春時代に見出したスペインの実相です。


中傷と欺瞞の時代だった。
その傷口をさぐり当てぬようにと、彼らは
カーニバルの衣装をまとい深手を負ったスペイン全体を、
貧しくやせおとろえ酔いしれたものとした
Fue un tiempo de mentira, de infamia. A España toda,
la mal herida España, de Carnaval vestida
nos la pusieron, pobre y escuálida y beoda,
para que no acertara la mano con la herida.

詩人は、王政復古から間もないスペインの偽の陽気さを、表面的で愚かしい歓声を表現しています。手回し風琴からはチュエカの調べが流れ、祖国の力と安泰をスペイン人に信じこませました。後に「98年の世代」を形成することになる若者たちは、このようなスペインに目を開いたのです。

それは昨日のこと、われわれがまだほんの若者だったころだ。
それは不吉な前兆に満ちた荒れ模様の時代
われわれは裸のキメーラにまたがろうとしていた
そして海は難破者に飽いて眠っていた
Fue ayer; éramos casi adolescentes; era
con tiempo malo, encinta de lúgubres presagios,
cuando montar quisimos en pelo una quimera,
mientras la mar dormía ahita de naufragios.

まもなく彼らはみな、そうしたスペインの脆弱さと苦悩に満ちた運命に気づくことになります。カーニバルの笑い声のかげに1898年の不吉な前兆があったのです。海は眠り、海底には数世紀にわたる漂流のあいだに沈没した船がひしめきあっていました。未来の世代を構成する若者たちは夢想することを、艦隊を組むことを始めます。

汚れたガレー船は港に残し
沖をめざして黄金の船に乗り
陸地を期待せずに航海を楽しんだ
帆も錨も舵も海に投げ捨てて
Dejamos en el puerto la sórdida galera,
y en una nave de oro nos plugo navegar
hacia los altos mares, sin aguardar ribera,
lanzando velas y anclas y gobernalle al mar.

彼らは古いスペインというガレー船を捨てて、夢の船、つまり予測できぬ果てしなき旅に耐えうる夢想せるスペインという船に乗り組んだのです。夢の世界は現実の古い世界の上をさまよい、夢見る人々の目覚ましい働きは、新しい夜明けの光の下に道を開いたかのように思われました。

そのとき、われわれの夢の奥底から
――それは惨めに敗北して遠ざかっていった1世紀の遺産だ
暁の光が昇ろうとしていた、聖なる理念の光が
われらの擾乱と戦っていた
Ya entonces, por el fondo de nuestro sueño—herencia
De un siglo que vencido sin gloria se alejaba—
Un alba entrar quería; con nuestra turbulencia
la luz de las divinas ideas batallaba.

当時の若者たちは、真、善、美という永遠の理念のために戦いました。古びた背景を通して微かに見えると思われた光こそ、これら理念の光だったのです。しばらくのあいだ彼らは、自分たちの夢の勝利を目のあたりにできるのではないかと希望していましたが、じきに四散し、それぞれの道をたどり続けることになります。だれもが、あの過去が内包するバラ色の未来を信じていました。

だが各自おのが狂気の道をたどった
腕を鳴らし、おのが鋭気を頼りとした
鏡のように輝く武器をぬぎ、そして言った
「今日は日が悪い。だが明日は……私のものだ」
Mas cada cual el rumbo siguió de su locure;
agilitó su brazo, acreditó su brío;
dejó como un espejo bruñida su armadura
y dijo: 《El hoy es malo, pero el mañana... es mío》.

彼らの狂気はドン・キホーテの狂気でした。ドン・キホーテは神話の相の下に、ふたたびスペインの大地を馬で行きます。冒険の目的は何でしょうか。失敗以外のものが可能でしょうか。ドン・キホーテの冒険と同じように、この冒険においてもまた分限者フワン・アルドゥードが相変わらず若い召し使いをなぐり、旅籠は城のように見えた後も相変わらず旅籠でした。

今日は昨日のあの明日……そしてスペインはどこもかしこも
汚い飾りのついたカーニバルの衣装を着たまま
貧しく痩せ衰え酔っている
だが今日は苦いぶどう酒だ。それは傷口から滴る血
 Y es hoy aquel mañana de ayer... Y España toda,
con sucios oropeles de Carnaval vestida
aún la tenemos: pobre y escuálida y beoda;
mas hoy de un vino malo: la sangre de su herida.

もはや残された道は、各自の夢と希望のもっとも密かな部屋に入り込むだけ。それは、スペイン人たちのもう一つの伝道突子(カム)が、新たな希望へ、つまり新しくより高遠な冒険への駆りたてを魂の中に感じとるよう希望することでした。

君、青春の只中にいる若者よ、もし意志が
もっと高き頂から君のもとに至るなら、君は冒険に向かうだろう
きらめくダイヤモンドのように、汚れなきダイヤモンドのように
天上の光に目を開き、透き通れ
Tú, juventud más joven, si de más alta cumbre
La voluntad te llega, irás a tu aventura
despierta y transparente a la divina lumbre:
como el diamente clara, como el diamante pura.

エントラルゴが指摘しているように、マチャードはまさに「98年世代」の詩人でした。その精神にしたがって誠実に詩人としての使命を果たそうとしただけでなく、この世代の誕生とその冒険をも歌ったのです。

1939年、詩人は非業の死を遂げ、スペインはフランコ=写真=の独裁による閉ざされた時代へと突入しました。アントニオ・マチャードという詩人は「伝説」となり、スペイン再生を夢見た詩人の「戦略」は、次の世代に受け継がれていくことになります。

2017年4月18日火曜日

第二の黄金期①

「崩れ落ちる兵士――1936年9月5日 コルドバ・ムリアーノで」。スペイン内戦に従軍したハンガリー生まれの報道写真家ロバート・キャパ(1913~1954)が撮った「死の瞬間」の写真の題名です。

兵士はフランコ軍から共和体制を守ろうと、地元の民兵組織に入った若い工場労働者だった。正式には「人民戦線兵士の死(Loyalist Militiaman at the Moment of Death, Cerro Muriano, September 5, 1936)」=写真=と呼ばれているこの1枚は、ジャーナリズムの転換点を示す象徴的な写真となりました。


それまで戦場写真といえば4×5インチのフィルムを用いて、遠くから撮る動きの乏しい写真がふつうでした。ところがキャパは、機動性と速写性を確保するため、35ミリフィルムでの撮影が可能なライカを用いて戦場に飛び込みました。

しかも、人民戦線の兵士が頭を撃たれて倒れる瞬間を、兵士の前方至近距離から撮影した奇跡的とも思えるシャッターチャンスをものにしたのです。第1次世界大戦中のヨーロッパでロシア革命の始まりを知り、ジョン・リード(1887~1920)がアメリカからロシアへと向かったのは、1917年のことです。

リードがこの年、ウラジーミル・レーニンへのインタビューをはじめロシア革命を克明に記録して描いたルポルタージュ『世界をゆるがした10日間(Ten Days That Shook the World)』は、現代ジャーナリズムの幕開けを告げる古典としていまも読み継がれています。

スペインがすべてを失った1898年。キャパやリードが活躍するようになる前の当時はまだ、時代を記録し、世界で起こっている出来事とその意味を伝える役割の一端を詩人が担っていました。とりわけ「中世のルポライター」ともいえる吟遊詩人らの伝統を受け継いだロマンセが、時代を超えて作られてきたスペインでは、そうした傾向がより強く残っていたと考えていいでしょう。

詩人の言葉がまだ社会的に大きな力をもっていた時代なのです。ホセ・ガルシア・ロペス(José Garcia López)は、スペイン文学史におけるマチャードの詩を、次のように位置づけています。

〈全体としてマチャドの詩は一切の誇飾を省き、質実ながらも深々とした感動に満ちており、彼自身が語っているように《深い精神の鼓動》を表している。そして読者の心に彼自身の言葉を借りれば「ごくわずかな真の言葉で小波のように」その鼓動を伝えるのである。このようにして彼の詩は時代の嗜好の変化を乗越えてスペイン詩の歴史に永遠の輝きを保っていくであろう。彼の詩が現代の抒情詩に決定的な影響を与えているのは、あらゆる唯美主義的態度を排除し、もっとも真正な人間の姿との交感を求める時代の一般的な趨勢に合致しているためである。〉

フランス象徴主義やモダニズムの影響を受けた美しい詩で文壇に登場したマチャードは、これまで見てきたように、スペインの魂として「98年世代」がこだわったカスティーリャに住むようになったのと時を同じくして、その詩風を大きく転換させます。きらびやかな形容詞の飾りを切り捨て、「深い精神の鼓動」を伝えるような動詞の使い方に気を配るのです。

こうして生まれた詩集『カスティーリャの野』には、荒涼たる風景に刻まれた歴史や人々の醜い心の奥処までも描写した14音節の定型詩があるかと思えば、カスティーリャの地に巣くう犯罪の根をさぐる長いロマンセもあります。さらには、人間の真正に迫って小波のように心を振わせるコプラも盛り込まれています。

文学的には時代に逆行した感さえするマチャードの詩の転換や、詩集『カスティーリャの野』の独特な構成の背景には、民俗学者の父をもったといった詩人が育った環境や資質が大きく影響しているのでしょう。と同時に、そこには、当人がどこまで意識していたかは確とは分かりませんが、「98年世代」の課題を誠実に遂行し言葉の力でスペインの再生を純粋に夢見ていた詩人の、相当に意図的な言葉の「戦略」があったと私は思います。

国を再生するのは最終的には、そこに住まう民衆です。彼らが置かれている立場を自覚し変えていくには、当時の世界の潮流がどうであれ、詩人は民衆の言葉で語らなければなりませんでした。スペインの伝統的な詩形であるロマンセや、民衆の歌であるコプラにこだわり、深みへと導きながらもきっちりと言い切る動詞の起用が必要だったのです。

国の近代化を目指したマチャードら98年世代の運動は、結局のところスペインにとってどういう成果をもたらしたのでしょう。その後の政治的混乱、そして内戦、フランコの勝利という歴史的経過からすると、少なくとも表面的には彼らの「夢想」の域を出ることはなく、これといった実のある収穫をもたらすことはできずに挫折に終わった、というのがおおかたの見方だと思います。

そうした「98年世代」の中で最後の最後まで戦いぬいたのが、皮肉にも当初はもっとも政治活動に消極的だったマチャードだったのです。

2017年4月17日月曜日

内戦へ⑤

1936年7月、第2共和国政府に対する軍部の蜂起によってスペイン内戦が始まりました。人民戦線とも呼ばれる共和国陣営は、ソヴィエトの支援を得て、アナーキストや「アカ」と呼ばれた共産主義者、マルローやヘミングウェイらの参加で知られる国民義勇軍とともに反乱軍をおさえこもうとします。

しかし共和国陣営は、土地と権力を独占していたカトリック教会や聖職者を厳しく弾圧したこともあり、力尽きます。フランコ率いる反乱軍は自らを国民軍と名乗り、ドイツやイタリアの支援のもと、ファランヘ党などファシズム勢力を取り込んで次々と都市を制圧、1939年4月に勝利を宣言しました。

当初は政治には無関心だったマチャードですが、内戦に入ると、共和派のサイドに立ってフランコ率いる反乱軍と最後まで戦うことになります。野々山真輝帆は、スペイン内戦時にとったマチャードの姿勢について、オルテガ、ウナムーノというスペインを代表する2人の思想家と比較して次のように述べています。

「最近になって、スペイン内戦におけるオルテガやウナムーノのような第一線のスペインの知識人の政府参加を調べはじめて、私はかなり失望を味わった。実際に武器を手にして戦ったのは20代、30代のいわば知識人候補者であったのに対して、彼らは世論を指導する立場にあった、真の意味での第一線の知識人であった。しかし共和制の成立のために若い人々を励ました2人の著名な知識人のうち、1人は内戦が始まるや否や足早にスペインを去り、1人はファシスト支持を一時は公然と表明したのである。オルテガは年老いていたし病気だったから仕方がない、と私の友人の1人はいった。しかし、スペインにはオルテガを治療する医者はいないのかという、当時の人民戦線内に起こったオルテガ批判に、私はやはり賛成である。オルテガにとって、スペインが愚劣で無意味と化した時、彼はパリに居を定め、自己の深奥の城に深く閉じこもった。それは、詩人アントニオ・マチャードが戦火のマドリードにあくまで留まろうとした倫理的姿勢とは、まったく対照的であった」


スペインにおけるアントニオ・マチャードという詩人の位置づけについては、近年スペインで大ベストセラーになった、内戦を扱った1冊の小説をみても、その一端をうかがい知ることができるでしょう。2001年春に出版されたハビエル・セルカスの『サラミスの兵士たち』です。

1年以上にわたってスペインの本の売り上げのトップを走り、スペイン語版の総売上数は60万部。日本を含む24カ国語に翻訳されて、世界で100万部以上にのぼりました。2002年には、映画化もされています。ノーベル賞作家のバルガス・リョサは2001年9月3日付の「El Pais」紙で「近年読んだ中で最も優れた作品。大きなテーマを扱った重い文学が、読者をひきつけることを知らしめてくれる」と絶賛しました。

『サラミスの兵士たち』は、ファランヘ党の創設者の1人で理論的指導者だった作家サンチェス・マサスの銃殺未遂事件をテーマに展開します。作者と同じ名前の主人公である新聞記者ハビエル・セルカスが、ある日、内戦終結間近にカタルーニャ山中であった共和国軍による集団銃殺のエピソードを知ります。

フランス国境近くに連行されて仲間と銃殺されかかったサンチェス・マサスは、混乱に乗じて森に逃げ込んだものの、共和国軍の若い兵士に見つかってしまいます。しかし、兵士はなぜかサンチェス・マサスの目を見つめただけで去っていきました。

主人公のセルカスは、この事件を扱った「本質的な秘密」という見出しの記事を書きます。その記事は、内戦で非業の死を遂げた詩人アントニオ・マチャードの内戦終結60年を記念した追悼特集の企画ということになっているのです。そのあたりの事情について小説には次のように記されています。

「時が流れた。その物語のことを、僕は忘れていった。そんな1999年の2月初めのことだ。内戦終結60年にあたるその年、非業の死を遂げた詩人アントニオ・マチャードの追悼特集の企画がもちあがった。マチャードは1939年1月、母親と弟のホセをはじめとする数万人のスペイン人難民ととともに、フランコ軍の進軍を避けてバルセロナからフランスに向かい、国境を越えたコリウールにのがれたものの、その直後に亡くなった。これはかなり有名なエピソードだったので、この時期、この話をとりあげないカタルーニャ語(あるいはカタルーニャ語以外)の新聞はなかったと思う。そこで僕も、目新しくもない記事を惰性的に書き起こしはじめたときだった。ふとサンチェス=マサスのこと、つまりマチャードの死とほとんど同時期に、国境の反対側のスペインの山中であった銃殺事件のことを思い出した。」

ここにあるように、アントニオ・マチャードの「かなり有名なエピソード」は、国民の間で繰り返し語られてきた内戦の象徴的な出来事であり、「アントニオ・マチャードの死」は決して風化してはいない、目新しくはないが記憶に留め置くべき出来事とスペインでは見られているのです。こうして書きあげられた「本質的な秘密」という見出しの記事は、次のようなものでした。マチャードの最後のようすがうまくまとめられています。

〈 内戦末期のアントニオ・マチャードの死から60年がたとうとしている。内戦にまつわるエピソードは数々あるが、マチャードの物語はまちがいなく最も切ない物語の一つだ。終わりが悲しいからだ。もう何度となく語られてきた話である。マチャードは、母と弟のホセとともにバレンシアを発ち、1938年4月、バルセロナに到着した。ホテル・マジェスティックに投宿した後、サン・ジャルバジ地区の古い豪邸カスタニェー邸に逗留した。マチャードはバルセロナでも、反乱勃発時からしてきたことをしつづけた。つまり、共和国政府の正当性を擁護する文章を書きつづけた。だが老いて衰弱し、病をわずらい、もはやフランコは倒せないだろうと思っていた。

「もう終わりだ。バルセロナはいつ陥落してもおかしくない。戦略的にも政治的にも歴史的にも、われわれが敗れたのは自明のことだ。しかし、人間として見たらどうなのだろう? ひょっとして、勝ったのはわれわれかもしれない」こう書いている。結びの文が的を射ているかどうかはともかく、前半はまちがいなく正しかった。 1939年1月22日の夜、フランコ軍によるバルセロナ制圧の4日前、マチャードは母と弟とともに貨物列車でフランス国境に向かった。道づれにはコルプス・バルガ、カルラス・リバといった作家がいた。サルビア・デ・テールとフィゲラスに近いファシャット農場で泊まり、27日夜、雨の中を600メートル歩き、マチャード一行はとうとう国境越えを果たした。荷物は途中で置いていくしかなく、金もなかった。マチャードはコルプス・バルガに助けられてコリウールにたどりつき、ブニョル・キンタナ・ホテルに投宿したが、ひと月もせず息をひきとった。母親もその3日後に後を追った。アントニオ・マチャードの外套のポケットにあったメモを、弟のホセが見つけた。辞世の句の書き出しだろうか、そこには次のような文句が書かれていた。「この青き日々、幼き日の太陽よ」〉

小説の中で「アントニオ・マチャードの死」は、内戦を語るときの最も象徴的な出来事であり、読者によく知られた、いってみれば「定番」として語られているのです。マチャードの死というエピソードは、それほどまでにスペイン国民の心に深く刻まれていることになります。

これまでも述べてきましたが、マチャードが詩人として活動したのは、1898年の米西戦争敗北から1939年の内戦終結までの40年余りにぴったりと重なります。こうしたスペインの危機と混沌の時代に、マチャードはスペインの魂をもとめて純粋に言葉を探りつづけました。その志は挫折に終わったものの、一方でそれはアントニオ・マチャードという国民詩人の「伝説」をスペインに深く刻み込むことにもなったのです。

2017年4月16日日曜日

内戦へ④

バレンシアの郊外、ロカフォルト村の農家の小屋を借りて住んでいたマチャード一家。そのころのマチャードの健康は、心臓の障害などでかなり衰えを見せていたものの、気力はまだまだ旺盛だったようです。

1937年7月、戦禍のはなはだしいマドリードを避けて急きょバレンシアに会場が変更になった第2回国際作家会議には、避難民でごった返す町のなかを友人の車で会場へと駆けつけ、「文化の防衛と普及」というテーマで講演しています。

ちょうど、この会議が開かれたころ、グラナダでロルカが射殺されたというニュースが人々の耳から耳へと伝えられ、世界各国から集まってきていた文学者たちを驚かせ、激怒させました。マチャードは直ちに「犯罪はグラナダで行われた(El crimen fue en Granada)」 と題する詩を作っています。


1 犯罪(El crimen)

ひとは見た かれが銃にかこまれ
長い道をとぼとぼと歩き
まだ星の残っている朝まだき
寒い野っ原に姿を現すのを
やつらはフェデリコを殺した
そのとき 日が昇った
死刑執行人の一隊は
かれをまともに見ることができなかった
やつらはみんな眼をつむって
祈った――神さえもきみを救えはしない!
かれ フェデリコは 倒れ 死んだ
――額から血が流れ 腹に鉛をぶち込まれて
……犯罪はグラナダで行われた!
知ってるか――哀れなグラナダよ
フェデリコのグラナダよ
Se lo vio, caminando entre fusiles,
por una calle larga,
salir al campo frío,
aún con estrellas de la madrugada.
Mataron a Federico
cuando la luz asomaba.
El pelotón de verdugos
No osó mirarle la cara.
Todos cerraron los ojos;
Muerto cayó Federico
—sangre en la frente y plomo en las entrañas—
...Que fue en Granada el crimen
sabed—¡ pobre Granada! —, en su Granada.

2
歩いてゆく2人の姿が見えた……
友よ 建ててくれ
石と夢を――アランブラに
詩人のために
水のすすり泣く 泉のほとりに
そうして永遠に伝えてくれ
犯罪はグラナダで行われたと
かれのふるさとグラナダで行われたと
Se le vio caminar...
    Labrad, amigos,
de piedra y sueño en el Alhambre,
un túmulo al poeta,
sobre una fuente donde llore el agua,
y eternamente diga:
el crimen fue en Granada, ¡en su Granada!

憤りをぶつけるように言葉をはき、叫んでいるます。そして最後は、「アルバルゴンサレスの地」がそうであったように、「水のすすり泣く 泉のほとりに(sobre una fuente donde llore el agua)」と水が登場してしめくくられるのです。

2017年4月15日土曜日

内戦へ③

「98年世代は識者としてもっともらしい助言はしても、実際の政治的な運動となるとポーズだけでするりと身をかわし傍観者の側に回る」 といった見方をされることがよくあります。「98年世代」のなかでもマチャードは、もともと政治運動にはきわめて消極的でした。

「わたくしという人間はもともと政党にはいって活躍するには何かが欠けているんです。だから一度も政党に加入したことはありません。いや、絶対に入るまいと決心しています。私の政治理念はいつだって変わりません。一般市民の自由な意志を代表している政府でありさえすれば、それが正当な統治機関であるとして受け入れるだけのことです」 。

さらに「現時点における芸術家のあり方」というテーマの対談で、マチャードは記者の質問に対して次のように発言しています。「政治というものはあらゆる領域を侵します。どんな片隅にうずくまっていても、政治力はわれわれの身にぴりぴりと及んできます。これから先、スペインにおいて政治が文化と一体となってぴったりと合致するようなことは滅多にありますまい。だから芸術家や知識人に忠告せねばならぬことは、政治にはできるだけ関与するな、それよりも自分たちで開拓する芸術や学問にもっと力を入れなさいとね」 。

それまでのマチャードの政治活動といえば、1926年にウナムーノらとともに「共和主義者同盟」に参加、1928年にはセゴビアで「人権連盟」の発足時の1人として名前を連ねた、といった程度に過ぎませんでした。しかし「98年世代」的な問題意識を突き詰めていけば当然、政治との接点は避けて通れなくなります。それに、時代は「政治には関与せずに自分たちで開拓する芸術や学問」だけに打ち込むことを許すような状況では到底なくなっていました。

1935年2月には「世界平和連盟」のスペイン支部が発足。マチャードはその声明書に署名しています。1936年には、ウナムーノをはじめ、バレ・インクラン、マエツら親しい文学者たちが次々に帰らぬ人となりました。血なまぐさい戦乱が起こり、持病の心臓病は悪化します。それでも、マチャードは懸命に仕事に打ち込みました。最後の著作となる『Juan de Mairena』は、1934年11月4日付のマドリードの日刊紙「Diario de Madrid」に初めて掲載され、この新聞が廃刊になると「El sol」の時評欄に受け継がれて1936年7月28日まで続きました。


1936年11月、国民派軍の爆撃にさらされ始めたマドリードにとどまって居ることはもはやできなくなり、マチャードは83歳の母アナや弟家族とともにバレンシアへ避難します。そのころレオン・フェリーペとともにマチャード宅を訪ねた詩人ラファエル・アルベルティ(Rafael Alberti Merello、1902~1999)は次のように書き残しています。

「のっそりと家から出てきた大きな体のマチャードの後ろには枯木のように痩せてひからびた年寄りのお母さんが寄り添っておられました。あんな小さくてひ弱な母親から彼みたいな大きな息子がどうして生まれたのか、とまどうほどでした。あの頃のマドリードの家庭では金持ちも貧乏人も区別はありません。燃料がまったく手に入らないから、どこの家でも部屋の中は凍てつくような寒さです。マチャードはマドリードからの退去を勧めに来た私たちの言葉を黙って悲しそうな顔で聞いていましたが、まだこの首都を見捨てる時期が来ているとは思えないんだとわれわれに答えました。

われわれ2人は、説得するためにもう一度訪ねて行かなければなりませんでした。強く彼を言い含めた結果、やっとマドリードを去ることを承諾してくれましたが、今度は持ち前のあの自尊心の強さと勿体ぶりからおめおめとマドリードを後にするのが恥だという気がしたらしく、1人では行かない、母や弟のホアキンやホセと一緒でなくては嫌だと駄々をこねました。われわれは彼の言い分に従うより仕方がありませんでした。弟夫婦2組と母を入れて家族全部で8人なんだ、頼むよ、と彼が言ったのを記憶しています」
 
こうしてマチャード一家は、バレンシアの郊外のロカフォルト=写真=という村の農家の小屋を借りて住むことになりました。マチャードの健康は、心臓の障害などでかなり衰えを見せていたものの、気力はまだまだ旺盛だったようです。1937年7月、戦禍のはなはだしいマドリードを避けて急きょバレンシアに会場が変更になった第2回国際作家会議には、避難民でごった返す町のなかを友人の車で会場へと駆けつけ、「文化の防衛と普及」というテーマで講演しています。

ちょうど、この会議が開かれたころ、グラナダでロルカが射殺されたというニュースが人々の耳から耳へと伝えられ、世界各国から集まってきていた文学者たちを驚かせ、激怒させました。

2017年4月14日金曜日

内戦へ②

1932年夏ごろになると、スペインでは各地で労働者や教員らのストライキが慢性化、爆弾騒ぎやテロの発生は日常茶飯事となり、もはや市民が日常生活を営むのもままならなくなりました。

同年8月10日には、歩兵第31連隊による共和国政府転覆を目論んだ軍事クーデターがセビリアで勃発。クーデターは結局失敗に終わって首謀者はウエルバ州で捕らえられ、10月21日の裁判で一応の決着をみました。

クーデター鎮圧後の反共和主義活動家への弾圧は大規模なものでした。後にファランヘ党の創設者の1人になったホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラも逮捕されます。

事件を報道した「ABC」などの有力新聞は軒並み押収され、マドリード市内へ近郊の軍隊が送り込まれて政府の主要機関の守備にあたりました。事実上の戒厳令下の状態です。

こうした混乱のなか、マチャードは、哲学的思索にのめり込んでいきます。1924年に出版した『新詩集(Nuevas canciones)』は主に、以前にみた人生哲学的な示唆に富んだコプラや「格言と歌」、覚え書き的な短詩から成っています。

内戦に入って作られた『戦争詩(La guerra 1936-1937)』には、政治的でメッセージ性の強い作品が目立ちます。また、1936年に出版されたマチャードの生前最後の著作『Juan de Mairena』には、次のような記述も見られます。

先生は言われた。虚構と同じように美しいものは、真実のほかにはない。
偉大な詩人は、落後した形而上学者である。
偉大な哲学者は、詩の真実を信じる詩人である。
詩人たちの懐疑論は、哲学を刺激するのに役立つ。一方、詩人たちは大いなるメタファーの技法を哲学者たちから習うことができる。それは、教育的に有効であるとともに、詩の値打ちを永遠のものにする。
Después de la verdad decía mi maestro nada hay tan bello como la ficción.
Los grandes poetas son metafísicos fracasados.
Los grandes filósofos son poetas que creen en la realidad de sus poemas.
El escepticimo de los poetas puede servir de estímulo a los filósofos. Los poetas, en cambio, pueden aprender de los filósofos el arte de las grandes metáforas, de esas imágenes útiles por su valor didáctico e inmortales por su valor poético.


このころのマチャードは、詩人と哲学者は深い関係にあり、偉大な哲学者は詩人であり「詩の値打ちを永遠のものにする」には哲学が必要だと考えていたようです。

もともとドイツの哲学者クラウゼ=写真=の思想を取り入れ、自由主義的知識人を育成することを目指した「自由教育学院」で教育を受けたマチャード。 若いころから哲学に興味をもち、パリで学んだベルクソンからも強い影響を受けたといわれます。

当然、「98年世代」の中心人物であるウナムーノには思想的に深く共感していました。当時、パリへの留学で教えを受けたベルクソンらの影響で、マチャードがどのような哲学にたどり着いていたのかを語る見識は私にはありません。

しかし、『カスティーリャの野』で詩人として一つの仕事を終えた彼にとって、政治的、社会的混乱のなかで純粋に新たなスペインを見いだそうとすれば、哲学的な方向に傾斜していったのは、むしろ自然な流れだったように思われます。

2017年4月13日木曜日

内戦へ①

『カスティーリャの野』を刊行するという大仕事を終えた直後の1912年8月、肺結核のレオノールが息をひきとります。するとマチャードは、愛妻と暮らした思い出の地であり、また自身の作品に対する反発も少なくないソリアに居たたまれないものを感じたのか、逃げるようにカスティーリャの地を離れ、マドリードで転出希望を願い出ました。

そして、11月1日付で、やはりフランス語教師として北部アンダルシア地方の田舎町バエサに赴任しました。1916年6月には、当時グラナダ大学の学生だったフェデリコ・ガルシア・ロルカ(Federico García Lorca、1898~1936)が、研修旅行でバエサを訪れ、マチャードと会っています。

マチャードは、『カスティーリャの野』の一節や、その年に死んだルベン・ダーリオの詩を朗読。代わりにロルカは、アンダルシア的な発想で作った自作曲を演奏するなどして、2人は深いきずなで結ばれました。

1927年、マチャードは文学者として最高の栄養に輝く学士院会員に迎えられましたが、その生活は、バエサからセゴビアへ、さらに第2共和国発足直後の1931年9月にはマドリードへと、一教師として各地を渡り歩く、決して裕福でも輝かしいものでもありませんでした。


再婚することはありませんでしたが、マチャードの後半生の作品にしばしば登場するグイオマール(Guiomar)=写真=という女性が、彼の人生に深く関わっていたことが知られています。

女流作家のコンチャ・エスピナ(1877~1955)は1950年、マチャードの書き残した手紙を丹念に調査した結果、グイオマールがマドリードに実在した女性のピラール・デ・ヴァルデラマ(Pilar de Valderrama)夫人であることを突き止めました 。

人目をはばからねばならない2人の恋愛関係は1928年から1931年か1932年ころまでの数年間と推定されていましたが、折しも勃発した内乱によって2人は別れ別れとなり、グイオマールはポルトガルで、マチャードはフランスの片田舎の漁村でそれぞれ孤独な死を迎えることになるのです。

2017年4月12日水曜日

「ドゥエロ川のほとりで」に投影された歴史③

惨めなカスティーリャよ、かつては覇者の夢に充ちていたが、
今は ぼろを身にまとい、「未知」を疎んじ、頑なに心を閉ざしている。
期待しているのか、眠っているのか、それとも夢を見ているのか。剣への渇望に
駆られた時に流された血を、いまだに忘れられずにいるのか。
すべてが移ろい 流れ 過ぎ 走り 巡る。
海と山が変容し それを観る眼が変容する。
すべては 終ってしまったのか。神の名を唱えながら 戦に臨んだ
民衆の亡霊が、今なお 荒野をさ迷っている。
Castilla miserable, ayer dominadora,
envuelta en sus andrajos desprecia cuanto ignora.
¿Espera, duerme o sueña? ¿La sangre derramada
recuerda, cuando tuvo la fiebre de la espada?
Todo se mueve, fluye, discurre, corre o gira;
cambian la mar y el monte y el ojo que los mira.
¿Pasó?  Sobre sus campos aún el fantasma yerta
de un pueblo que ponía a Dios sobre la guerra.

往時 母は多くの戦士を生み出しはしたが、
今は 賤しい雑役人夫の継母、
カスティーリャに 昔日の寛容な母の面影は もはやない、
ビバールの わがシッド、ロドリーゴが
新たな武勲と財宝を携え 誇らし気に凱旋し、
王アルフォンソへ バレンシアの沃土を献上した時のような。
あるいは その勇猛さを証す冒険のあとで、
新世界の大河征服を
宮廷に上申し、
カラスのごとく略奪し 獅子のごとく戦を交え、スペインへ
帝王のガレオン船に 金銀財宝を満載し 帰還する命を賜った兵士、
戦士、首領たちの母。その母の面影は もはや無い。
La madre en otro tiempo fecunda en capitanes,
madrastra es hoy apenas de humildes ganapanes.
Castilla no es aquella tan generosa un día,
cuando Myo Cid Rodrigo el de Vivar volvía,
ufano de su nueva fortuna, y su opulencia,
a regalar a Alfonso los huertos de Valencia;
o que, tras la aventura que acreditó sus bríos,
pedía la conquista de los inmensos ríos
indianos a la corte, la madre de soldados,
guerreros y adalides que han de tornar, cargados
de plata y oro, a España, en regios galeones,
para la presa cuervos, para la lid leones.


時は流れ、世界が変化したいまもなお、カスティーリャは聖戦に挑んでいった熱い戦いの日々のことが忘れられず、ただ時代から取り残されていきます。

シッドが活躍した国土回復時代や、冒険を求めて海のかなたに飛び出した大征服時代の栄光はもう戻ってこないのに、です。

「期待しているのか、眠っているのか、それとも夢を見ているのか」と詩人はカステーィリャの運命を問いかけます。しかし、それをになうのは、無為のうちに天の恵みを待つ僧院の哲学者のような人々でしかありません。

修道院のスープで身を養なう 哲学者どもは、
ただ平然と 広大な虚空を見つめるばかり。
レバンテの波止場で 商人たちの叫ぶ声が
遠いどよめきのように 彼等の夢に届いても、
馳せ参じ、「何ごとなのか?」と、訊きもしないだろう。
すでに、戦が彼等の家の扉を叩き 押しかけているというのに。
    惨めなカスティーリャ、かつての覇者は、
今はぼろを身にまとい、「未知」を疎んじ、頑なに心を閉ざしている。
夕陽が傾いていく。遠い町から
快い鐘の音が聞こえてくる。
――もう 喪服の老女たちの 晩禱の時刻――
岩影から二匹の小さなイタチが 現われる。
イタチは ぼくに眼をやり、逃げようとしたが、ふたたび、
すがたを現わす。好奇心いっぱいのイタチ!……。原野は 暮れていく。
白い径のかなた、暮れなずむ原野に、
人気の絶えた岩地に 一軒の旅籠の灯が点る。
Filósofos nutridos de sopa de convento
contemplan impasibles el amplio firmamento;
y si les llega en sueños, como un rumor distante,
clamor de mercaderes de muelles de Levante,
no acudirán siquiera a preguntar ¿qué pasa?
Y ya la guerra ha abierto las puertas de su casa.
       Castilla miserable, ayer dominadora,
envuelta en sus harapos desprecia cuanto ignora.
       El sol va declinando. De la ciudad lejana
me llega un armonioso tañido de campana
—ya irán a su rosario las enlutadas viejas—.
De entre las peñas salen dos lindas comadrejas;
me miran y se alejan, huyendo, y aparecen
de nuevo, ¡tan curiosas!... Los campos se obscurecen.
Hacia el camino blanco está el mesón abierto
al campo ensombrecido y al pedregal desierto.

詩人がここで嫌悪し、怖れているのは「虚空を見つめるばかり」で何もしようとしない「修道院のスープで身を養なう 哲学者ども」です。彼らは、何世紀もの間、宗教のカラの中に閉じこもり、新しい社会思想や近代科学に対して興味を持とうともしません。

そしてまた「ぼろを身にまとい」、「頑なに心を閉ざ」す「惨めなカスティーリャ」に、夕陽は傾いていきます。岩影からは「好奇心いっぱい」のイタチが現われる。小さな隙間でもすり抜けてすばしこく動き回るイタチは、隙あればと触手を伸ばす近代国家たる欧米諸国を暗示しているのでしょうか。

確かに「祖国の偉大と卑小を、彼ほど深く、具体的に、言葉に刻みつけられた詩人は、後にも先にもいない」 のかもしません。『カスティーリャの野』が住民たちが反発するということは、マチャードの詩がそれだけ人々に読まれ、住民たちの琴線に触れるなにかを秘めていた証し、という見方もできるでしょう。

スペインの地を徹底的に描いたのは、マチャードの内面主義が生んだ産物ともいえそうです。荒涼とした大地と、そこにすむ人たちの姿は、スペイン解釈を彼に夢想させました。そして、カスティーリャの野についての詩的描写のなかに、いまや「期待しているのか、眠っているのか、それとも夢を見ているのか」わからなくなっているスペインの過去、現在、未来に対する自身の思いを投影したのです。

マチャードにとって、引き裂かれた「二つのスペイン」の深い溝を修復して新しいスペインを見いだすには、このように「カスティーリャ」をとことん描くほかに、すべはなかったのかもしれません。

2017年4月11日火曜日

「ドゥエロ川のほとりで」に投影された歴史②

広く翼を拡げた ハゲワシが一羽、
空の深い青さのなかを 悠然と旋回していた。
ぼくは見た――はるかに 高く切り立った嶺、
打ち出し模様の盾のような 丸い丘、
朽葉色の大地のうえの 紫の丘、
――さながら 兵どもの古びた甲冑の残骸――、
小さな鋸を想わせる 不毛の丘。そこをぬってドゥエロは流れ、
射手の石の弓さながら 弧を描いて
ソリアを巡る。――ソリアは カスティーリャの塔、
アラゴンまで見渡せる 前哨の町――。
Un buitre de anchas alas con majestuoso vuelo
cruzaba solitario el puro azul del cielo.
Yo divisaba, lejos, un monte alto y agudo,
y una redonda loma cual recamado escudo,
y cárdenos alcores sobre la parda tierra
harapos esparcidos de un viejo arnés de guerra—,
las serrezuelas calvas por donde tuerce el Duero
para formar la corva ballesta de un arquero
en torno a Soria. —Soria es una barbacana,
hacia Aragón, que tiene la torre castellana—.


盾(escudo)、甲冑(arnés)、石の弓(ballesta)、前哨(barbacana)といったメタファーからすると、詩人が見つめているのは、中世のヨーロッパ、イベリア半島中央部にあって、キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)を主導し、スペイン王国の中核ともなったカスティーリャ王国の「残骸」であることがうかがわれます。

ぼくは見た――鈍色の丘で、
槲と 樫の冠で 閉ざされる地平線、
裸の岩地、羊が草を食み、牡牛が草にひざまずき反芻する
つましい牧草地、
夏の明るい陽光にきらめく 川縁のポプラ、
もの音ひとつ立てない はるかな旅人たち、
なんと小さな影!
長い橋を渡っていく
――荷車、騎手、馬方――、そして 石の橋梁の下で、
銀色のドゥエロの川面に
落ちる 黒い影。
   ドゥエロは イベリアとカスティーリャの
樫の芯を貫き 流れる。
        ああ、悲しく 気高い大地よ!
高原と 荒野と 岩だらけの大地、
鋤を容れず 小川もなく 雑木も生えない原野、
衰微していく町々、旅籠のない街道、
驚きは顔にしても、踊ることも、歌うことも忘れた 田舎の住人たち、
彼らは 火種の絶えた竈を見限り、
カスティーリャよ、そこを流れる長い川のように、
ただ 海へ向かい 流れていくのだ。
Veía el horizonte cerrado por colinas
oscuras, coronadas de robles y de encinas;
desnudos peñascales, algún humilde prado
donde el merino pace y el toro, arrodillado
sobre la hierba, rumia; las márgenes de río
lucir sus verdes álamos al claro sol de estío,
y, silenciosamente, lejanos pasajeros,
¡tan diminutos! —carros, jinetes y arrieros—,
cruzar el largo puente, y bajo las arcadas
de piedra ensombrecerse las aguas plateadas
del Duero.
       El Duero cruza el corazón de roble
de Iberia y de Castilla.
             ¡Oh, tierra triste y noble,
la de los altos llanos y yermos y roquedas,
de campos sin arados, regatos ni arboledas;
decrépitas ciudades, caminos sin mesones,
y atónitos palurdos sin danzas ni canciones
que aún van, abandonando el mortecino hogar,
como tus largos ríos, Castilla, hacia la mar!

詩は再び、カスティーリャの自然風景へと戻ります。裸の岩地、牡牛が草にひざまずき反芻するつましい牧草地、夏の陽光にきらめく川縁のポプラ、荒野と岩だらけの大地、鋤を容れず雑木も生えない原野、衰微していく町々。そして視線は、火種の絶えた竈を見限る人々へと移っていくのです。

それにしても、マチャードの詩に現れる風景のもつ比類のない「存在感」には驚かされます。

そして再び、スペインの過去と現在の時空を往来し、栄光の過去と失われてしまった現在が対比されていくことになるのです。