2017年4月13日木曜日

内戦へ①

『カスティーリャの野』を刊行するという大仕事を終えた直後の1912年8月、肺結核のレオノールが息をひきとります。するとマチャードは、愛妻と暮らした思い出の地であり、また自身の作品に対する反発も少なくないソリアに居たたまれないものを感じたのか、逃げるようにカスティーリャの地を離れ、マドリードで転出希望を願い出ました。

そして、11月1日付で、やはりフランス語教師として北部アンダルシア地方の田舎町バエサに赴任しました。1916年6月には、当時グラナダ大学の学生だったフェデリコ・ガルシア・ロルカ(Federico García Lorca、1898~1936)が、研修旅行でバエサを訪れ、マチャードと会っています。

マチャードは、『カスティーリャの野』の一節や、その年に死んだルベン・ダーリオの詩を朗読。代わりにロルカは、アンダルシア的な発想で作った自作曲を演奏するなどして、2人は深いきずなで結ばれました。

1927年、マチャードは文学者として最高の栄養に輝く学士院会員に迎えられましたが、その生活は、バエサからセゴビアへ、さらに第2共和国発足直後の1931年9月にはマドリードへと、一教師として各地を渡り歩く、決して裕福でも輝かしいものでもありませんでした。


再婚することはありませんでしたが、マチャードの後半生の作品にしばしば登場するグイオマール(Guiomar)=写真=という女性が、彼の人生に深く関わっていたことが知られています。

女流作家のコンチャ・エスピナ(1877~1955)は1950年、マチャードの書き残した手紙を丹念に調査した結果、グイオマールがマドリードに実在した女性のピラール・デ・ヴァルデラマ(Pilar de Valderrama)夫人であることを突き止めました 。

人目をはばからねばならない2人の恋愛関係は1928年から1931年か1932年ころまでの数年間と推定されていましたが、折しも勃発した内乱によって2人は別れ別れとなり、グイオマールはポルトガルで、マチャードはフランスの片田舎の漁村でそれぞれ孤独な死を迎えることになるのです。

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