2017年4月17日月曜日

内戦へ⑤

1936年7月、第2共和国政府に対する軍部の蜂起によってスペイン内戦が始まりました。人民戦線とも呼ばれる共和国陣営は、ソヴィエトの支援を得て、アナーキストや「アカ」と呼ばれた共産主義者、マルローやヘミングウェイらの参加で知られる国民義勇軍とともに反乱軍をおさえこもうとします。

しかし共和国陣営は、土地と権力を独占していたカトリック教会や聖職者を厳しく弾圧したこともあり、力尽きます。フランコ率いる反乱軍は自らを国民軍と名乗り、ドイツやイタリアの支援のもと、ファランヘ党などファシズム勢力を取り込んで次々と都市を制圧、1939年4月に勝利を宣言しました。

当初は政治には無関心だったマチャードですが、内戦に入ると、共和派のサイドに立ってフランコ率いる反乱軍と最後まで戦うことになります。野々山真輝帆は、スペイン内戦時にとったマチャードの姿勢について、オルテガ、ウナムーノというスペインを代表する2人の思想家と比較して次のように述べています。

「最近になって、スペイン内戦におけるオルテガやウナムーノのような第一線のスペインの知識人の政府参加を調べはじめて、私はかなり失望を味わった。実際に武器を手にして戦ったのは20代、30代のいわば知識人候補者であったのに対して、彼らは世論を指導する立場にあった、真の意味での第一線の知識人であった。しかし共和制の成立のために若い人々を励ました2人の著名な知識人のうち、1人は内戦が始まるや否や足早にスペインを去り、1人はファシスト支持を一時は公然と表明したのである。オルテガは年老いていたし病気だったから仕方がない、と私の友人の1人はいった。しかし、スペインにはオルテガを治療する医者はいないのかという、当時の人民戦線内に起こったオルテガ批判に、私はやはり賛成である。オルテガにとって、スペインが愚劣で無意味と化した時、彼はパリに居を定め、自己の深奥の城に深く閉じこもった。それは、詩人アントニオ・マチャードが戦火のマドリードにあくまで留まろうとした倫理的姿勢とは、まったく対照的であった」


スペインにおけるアントニオ・マチャードという詩人の位置づけについては、近年スペインで大ベストセラーになった、内戦を扱った1冊の小説をみても、その一端をうかがい知ることができるでしょう。2001年春に出版されたハビエル・セルカスの『サラミスの兵士たち』です。

1年以上にわたってスペインの本の売り上げのトップを走り、スペイン語版の総売上数は60万部。日本を含む24カ国語に翻訳されて、世界で100万部以上にのぼりました。2002年には、映画化もされています。ノーベル賞作家のバルガス・リョサは2001年9月3日付の「El Pais」紙で「近年読んだ中で最も優れた作品。大きなテーマを扱った重い文学が、読者をひきつけることを知らしめてくれる」と絶賛しました。

『サラミスの兵士たち』は、ファランヘ党の創設者の1人で理論的指導者だった作家サンチェス・マサスの銃殺未遂事件をテーマに展開します。作者と同じ名前の主人公である新聞記者ハビエル・セルカスが、ある日、内戦終結間近にカタルーニャ山中であった共和国軍による集団銃殺のエピソードを知ります。

フランス国境近くに連行されて仲間と銃殺されかかったサンチェス・マサスは、混乱に乗じて森に逃げ込んだものの、共和国軍の若い兵士に見つかってしまいます。しかし、兵士はなぜかサンチェス・マサスの目を見つめただけで去っていきました。

主人公のセルカスは、この事件を扱った「本質的な秘密」という見出しの記事を書きます。その記事は、内戦で非業の死を遂げた詩人アントニオ・マチャードの内戦終結60年を記念した追悼特集の企画ということになっているのです。そのあたりの事情について小説には次のように記されています。

「時が流れた。その物語のことを、僕は忘れていった。そんな1999年の2月初めのことだ。内戦終結60年にあたるその年、非業の死を遂げた詩人アントニオ・マチャードの追悼特集の企画がもちあがった。マチャードは1939年1月、母親と弟のホセをはじめとする数万人のスペイン人難民ととともに、フランコ軍の進軍を避けてバルセロナからフランスに向かい、国境を越えたコリウールにのがれたものの、その直後に亡くなった。これはかなり有名なエピソードだったので、この時期、この話をとりあげないカタルーニャ語(あるいはカタルーニャ語以外)の新聞はなかったと思う。そこで僕も、目新しくもない記事を惰性的に書き起こしはじめたときだった。ふとサンチェス=マサスのこと、つまりマチャードの死とほとんど同時期に、国境の反対側のスペインの山中であった銃殺事件のことを思い出した。」

ここにあるように、アントニオ・マチャードの「かなり有名なエピソード」は、国民の間で繰り返し語られてきた内戦の象徴的な出来事であり、「アントニオ・マチャードの死」は決して風化してはいない、目新しくはないが記憶に留め置くべき出来事とスペインでは見られているのです。こうして書きあげられた「本質的な秘密」という見出しの記事は、次のようなものでした。マチャードの最後のようすがうまくまとめられています。

〈 内戦末期のアントニオ・マチャードの死から60年がたとうとしている。内戦にまつわるエピソードは数々あるが、マチャードの物語はまちがいなく最も切ない物語の一つだ。終わりが悲しいからだ。もう何度となく語られてきた話である。マチャードは、母と弟のホセとともにバレンシアを発ち、1938年4月、バルセロナに到着した。ホテル・マジェスティックに投宿した後、サン・ジャルバジ地区の古い豪邸カスタニェー邸に逗留した。マチャードはバルセロナでも、反乱勃発時からしてきたことをしつづけた。つまり、共和国政府の正当性を擁護する文章を書きつづけた。だが老いて衰弱し、病をわずらい、もはやフランコは倒せないだろうと思っていた。

「もう終わりだ。バルセロナはいつ陥落してもおかしくない。戦略的にも政治的にも歴史的にも、われわれが敗れたのは自明のことだ。しかし、人間として見たらどうなのだろう? ひょっとして、勝ったのはわれわれかもしれない」こう書いている。結びの文が的を射ているかどうかはともかく、前半はまちがいなく正しかった。 1939年1月22日の夜、フランコ軍によるバルセロナ制圧の4日前、マチャードは母と弟とともに貨物列車でフランス国境に向かった。道づれにはコルプス・バルガ、カルラス・リバといった作家がいた。サルビア・デ・テールとフィゲラスに近いファシャット農場で泊まり、27日夜、雨の中を600メートル歩き、マチャード一行はとうとう国境越えを果たした。荷物は途中で置いていくしかなく、金もなかった。マチャードはコルプス・バルガに助けられてコリウールにたどりつき、ブニョル・キンタナ・ホテルに投宿したが、ひと月もせず息をひきとった。母親もその3日後に後を追った。アントニオ・マチャードの外套のポケットにあったメモを、弟のホセが見つけた。辞世の句の書き出しだろうか、そこには次のような文句が書かれていた。「この青き日々、幼き日の太陽よ」〉

小説の中で「アントニオ・マチャードの死」は、内戦を語るときの最も象徴的な出来事であり、読者によく知られた、いってみれば「定番」として語られているのです。マチャードの死というエピソードは、それほどまでにスペイン国民の心に深く刻まれていることになります。

これまでも述べてきましたが、マチャードが詩人として活動したのは、1898年の米西戦争敗北から1939年の内戦終結までの40年余りにぴったりと重なります。こうしたスペインの危機と混沌の時代に、マチャードはスペインの魂をもとめて純粋に言葉を探りつづけました。その志は挫折に終わったものの、一方でそれはアントニオ・マチャードという国民詩人の「伝説」をスペインに深く刻み込むことにもなったのです。

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