2017年4月20日木曜日

第二の黄金期③

20世紀は「イスパニア詩の第2の黄金世紀」 といわれるほど、才能豊かな個性的な詩人たちが多く現れ、独自の発展を遂げました。清水憲男は「20世紀以降のスペイン文学は、一定の輝かしい小説家の存在を除いて、根本的に詩がその大動脈を形成してきたというのが年来の私見である」とし、その理由として次のように記しています。

「27年世代、あるいはそれに先立つ98年世代のAntonio Machado他の詩人に私淑するにせよ反発するにせよ、詩を読み、詩を書く必要性を主張かつ実践する骨太の感性の持ち主たちが、日本ではまったくと言っていいほど知られないまま、次々に台頭しているからである」 。


これまで見てきたように、フランス象徴主義やモダニズムの影響を受けて詩作をスタートしたマチャードは、「1898年世代」がこだわったカスティーリャに移り住むのと時を同じくして、詩風を大きく変化させます。

きらびやかな形容詞の飾りを捨て去り、近代的、象徴主義的手法からも離れ、ものごとを語り、心の鼓動を伝える動詞を重視、ロマンセなどスペインの伝統的な手法を用いるようになるのです。こうして、「98年世代」の意思を体現しているようにも思える詩集『カスティーリャの野』ができあがったのです。

同詩集には、スペインの源流であるカスティーリャの荒涼たる風景に刻まれた歴史や人々の醜い心を描写した定型詩があるかと思えば、カスティーリャの地に巣食う犯罪の根を探るロマンセ、さらにはロマンセの伝統を受け継いだ短詩であるコプラもたくさん盛り込まれています。

一見、脈略のない寄せ集め的な構成で、文学的には時代に逆行した感さえする詩集です。しかしそこには、高名な民俗学者の父をもったことなどで培ったマチャードの素養とともに、「98年世代」の課題を誠実に遂行し言葉の力でスペインの再生を夢見ていた詩人の、相当に意図的な言葉の「戦略」といえるようなものがあったと考えることができるでしょう。

どん底に落ち込んだ国を再生するのは、最終的にはそこに住んでいる国民であり、民衆たちです。彼らが、祖国の置かれている状況を自覚し、変えていこうとしなければ再生などありはしません。

彼らに言葉を届かせるためには、詩人は民衆の言葉で語らなければならなかったのです。スペインの伝統的な詩形であるロマンセや、民衆の歌であるコプラにこだわり、落ちぶれ果てた現在を描写し、その醜さまでをも語りきる動詞を必要としたのです。

『カスティーリャの野』の序文で、マチャードは「詩人の使命というのは、永遠に人間的であるところの新しい詩を考案するところにあると私は思った」 と記しています。その一つが「新しいロマンセを書く」ことでもあったわけです。

「98年世代」的な課題を背負った詩人にとって、大きくのしかかっていた「使命」とは何か。それは、とりもなおさず国の再生という現実的な問題だったはずです。とすれば、「新しい詩を考案」しようというマチャードの試みは、すなわち詩人の「戦略」と位置づけても、さほどに不自然ではないのではないでしょう。

国の近代化と再生を夢見たマチャードたちの運動は、内戦へと向かう社会の混乱や、共和派の敗北、フランコ独裁といったその後の歴史をみると、結局は夢の域を出ず、これといった成果を得られないまま挫折したと考えられます。しかし、「98年世代」の中で最後の最後まで戦い通したのが、当初はもっとも政治活動に消極的だったマチャードでした。

そして、彼の志は「イスパニア詩の第2の黄金世紀」といわれた20世紀の詩人たちに受け継がれていったのです。私は、スペイン語の「晩生の果実(fruto tardío)」という言葉が好きです。ヨーロッパ諸国の文学の中ですでにすたれてしまったジャンルが、遅れてスペインに移入され、それが独特の興趣を帯びた文学となって実を結ぶことです。

さらには、スペインに以前から存在していたものが、ある種の色付けをされ、時により活気を帯びて再び現れ「継続性」となるのです。マチャードもまた、1898年の破局からの再生という夢に向けて、詩人としての「戦略」を模索するなかで、ロマンセなどスペインの詩に新たな「継続性」を与えるという大きな役割を演じたといえるのではないでしょうか。

一見古くさくもあるそうした「晩生の果実」が将来、ヨーロッパ諸国に逆輸入されて新たな花を咲かせることもあるでしょう。どん底の危機にあえぐ世界のどこかの国で、あるいは、絶望に打ちひしがれて明日が見えなくなった世界のどこかの人に、マチャードがつかみ取った言葉が「再生」への手掛りになることもありうるはずです。

私にとってアントニオ・マチャードは、むかしからずっとやってみたいと思いながらできないでいた「詩を読む」という試みを本気で実行する最初の詩人となりました。これを機に、マチャードだけでなく、日本や世界のいろんな詩や詩論を人生のつづいていく限りじっくりと読み続けていきたいと思っています。それが、ささやかの私の“第二の人生”であり、また、私自身の「再生」への道ではないのか、という気もしています。

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