2017年4月22日土曜日

中原中也「早春散歩」②

中原中也は、自らの詩作の遍歴について、未発表の「詩的履歴書」という文章で、次のように記しています。
 
大正四年の初め頃だつたか終頃であつたか兎も角寒い朝、その年の正月に亡くなった弟を歌つたのが抑々〈そもそも〉の最初である。学校の読本の、正行〈まさつら〉が御暇乞の所、「今一度〈ひとたび〉天顔を拝し奉りて」というのがヒントをなした。

大正七年、詩の好きな教生に遇う。恩師なり。その頃地方の新聞に短歌欄あり、短歌を投書す。

大正九年、露細亜〈ロシア〉詩人ベールィ=写真、wiki=の作を雑誌で見かけて破格語法なぞということは、随分先から行われてゐることなんだなと安心す。

大正十年友人と「末黒野」なる歌集を印刷す。少しは売れた。

大正十二年春、文学に耽りて落第す。京都立命館中学に転校す。生れて始めて両親を離れ、飛び立つ思いなり、その秋の暮、寒い夜に丸太町橋際の古本屋で「ダダイスト新吉の詩」を読む。中の数篇に感激。

大正十三年夏富永太郎京都に来て、彼より仏国詩人等の存在を学ぶ。大正十四年の十一月に死んだ。懐かしく思う。

仝年秋詩の宣言を書く。「人間が不幸になつたのは、最初の反省がなかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。然し、不可なかつたにしろ、政治的動物になるにはなつちまつたんだ。私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎〈とが〉めはしない悲嘆者なんだ。」といふのがその書き出しである。

大正十四年、小林に紹介さる。

大正十四年八月頃、いよいよ詩を専心しようと大体決まる。

大正十五年五月、「朝の歌」を書く。七月頃小林に見せる。それが東京に来て詩を人に見せる最初。つまり「朝の歌」にてほゞ方針立つ。方針は立つたが、たつた十四行書くために、こんなに手数がかゝるのではとガツカリす。

昭和二年春、河上に紹介さる。その頃アテネに通ふ。

仝年十一月、諸井三郎を訪ぬ。

昭和三年父を失ふ。ウソついて日大に行つてるとて実は行つてなかつたのが母に知れる。母心配す。然しこつちは寧ろウソが明白にされたので過去三ヶ年半の可なり辛い自責感を去る。

昭和四年同人雑誌「白痴群」を出す。

昭和五年八号が出た後廃刊となる。以後雌伏。

昭和七年季刊誌「四季」第二輯夏号に詩三篇を掲載。

昭和八年五月、偶然のことより文芸雑誌「紀元」同人となる。

昭和八年十二月、結婚。

昭和九年四月、「紀元」脱退。

昭和九年十二月、「ランボオ学校時代の詩」を三笠書房より刊行。

昭和十年六月、ジイド全集に「暦」を訳す。

仝年十月男児を得。

仝年十二月「山羊の歌」刊行。

昭和十一年六月「ランボウ詩抄」(山本文庫)刊行。

大正四年より現今迄の制作詩篇約七百。内五百破棄。


さらに「履歴書」の最後には、この詩の題名にもなった「散歩」について、次のように書かれていました。

「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり。」

*アンドレイ・ベールイ(1880-1934)は、実験的な作風や独自の詩論で知られるロシア後期象徴派の中心的な詩人

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