2017年4月28日金曜日

中原中也「早春散歩」⑧

中也は「詩的履歴書」の中で、「大正十二年より昭和八年十月迄、毎日々々歩き通す。読書は夜中、朝寝て正午頃起きて、それより夜の十二時頃迄歩くなり」と記しています。

この期間、1日の大半を使っていた「散歩」というのはどんなものだったのでしょうか。中也が残した「散歩生活」という未発表の随筆には、次のようにあります。

〈「女房でも貰つて、はやくシヤツキリしろよ、シヤツキリ」と、従兄みたいな奴が従弟みたいな奴に、浅草のと或るカフエーで言つてゐた。

そいつらは私の卓子のぢき傍で、生ビール一杯を三十分もかけて飲んでゐた。私は御酒を飲んでゐた。好い気持であつた。話相手が欲しくもある一方、ゐないこそよいのでもあつた。

其処を出ると、月がよかつた。電車や人や店屋の上を、雲に這入つたり出たりして、涼しさうに、お月様は流れてゐた。そよ風が吹いて来ると、私は胸一杯呼吸するのであつた。

「なるほどなア、シヤツキリしろよ、シヤツキリ――かア」

私も女房に別れてより茲に五年、また欲しくなることもあるが、しかし女房がゐれば、こんなに呑気に暮すことは六ヶ敷六ヶ敷(むつかし)からうと思ふと、優柔不断になつてしまふ。

それから銀座で、また少し飲んで、ドロンとした目付をして、夜店の前を歩いて行つた。四角い建物の上を月は、やつぱり人間の仲間のやうに流れてゐた。

初夏なんだ。みんな着物が軽くなつたので、心まで軽くなつてゐる。テカ/\した靴屋の店や、ヤケに澄ました洋品店や、玩具おもちや屋や、男性美や、――なんで此の世が忘らりよか。

「やア――」といつて私はお辞儀をした。日本が好きで遥々(はるばる)独乙から、やつて来てペン画を描(か)いてる、フリードリッヒ・グライルといふのがやつて来たからだ。

「イカガーデス」にこ/\してゐる。顳(こめかみ)をキリモミにしてゐる。今日は綺麗な洋服を着てゐる。ステッキを持つてる。〉

ちなみに、ここに出てくるフリードリッヒ・グライル(1902~2003)は、ペン画家で、NHKドイツ語放送のアナウンサーをしていた人です。

東洋の地に憧れて1928(昭和3)年に来日して、その後、日本を第二の故郷として定住。一橋大など多くの大学でドイツ語とドイツ文化を教えたりもしています。


また、「我が生活」というこれも未発表の随筆には、

〈女に逃げられた時、来る年の受験日は四ヶ月のむかふにあつた。父からも母からも、受験準備は出来たかと、言つて寄こすのであつた。

だが私は口惜しい儘に、毎日市内をホツツキ歩いた。朝起きるとから、――下宿には眠りに帰るばかりだつた。二三度、漢文や英語の、受験参考書を携へて出たこともあつたが、重荷となつたばかりであつた。〉

と「口惜しい」ままに「ホツツキ歩いた」青春の日々を描いている。さらに、同じ「我が生活」という題名の別の文章には――

〈私は銀座を歩いてゐた。私は中幕の勧進帳までしか見なかった。おなかが空いた時芝居なんかの中に、さう長くゐられるものではない。それよりかまだ歩いてゐた方がマシである。帰れば、借りつけの賄屋から取ることが出来る。けれども、

歩き出すと案外に平気だつた。初夏の夜空の中に、電気広告の様々なのが、消えたり点つたりする下を、足を投げ出すやうな心持に、歩いてゆくことは、まるで亡命者のやうな私の心を慰める。〉とあります。

ところで、「毎日々々歩き通す」中也の散歩生活が終わりを告げる1933(昭和8)年10月というのは、遠縁の上野孝子と結婚、新居を構える直前にあたります。

このとき、「亡命者のやうな私の心」にきっと、大きな変化があらわれたのだろう。中也26歳。それは、青春の終焉を意味していたのかもしれません。


  空は晴れてても、建物には蔭があるよ、
  春、早春は心なびかせ、
  それがまるで薄絹ででもあるやうに
  ハンケチででもあるように
  我等の心を引千切〈ひきちぎ〉り
  きれぎれにして風に散らせる

  私はもう、まるで過去がなかつたかのやうに
  少くとも通つてゐる人達の手前さうであるかの如くに感じ、
  風の中を吹き過ぎる
  異国人のやうな眼眸〈まなざし〉をして、
  確固たるものの如く、
  また隙間風にも消え去るものの如く

「早春散歩」は、「ホツツキ歩いた」、「毎日々々歩き通す」という散歩生活の最後にあたる、この昭和8年に作られています。



*1933年の銀座通り(ウィキペディア)

0 件のコメント:

コメントを投稿