2017年4月30日日曜日

中原中也「早春散歩」⑩

「早春散歩」を作ったころの、1933(昭和9)年3月、中也は東京外国語学校専修科を修了します。そして、下宿で近所の学生にフランス語の個人教授を始めました。

5月、牧野信一、坂口安吾の紹介で同人誌「紀元」に参加。月末には、腎臓炎を患っています。7月、「帰郷」、「少年時」などを季刊『四季』に、9月には、「凄じき黄昏」、「秋」を『紀元』創刊号に発表しています。

いずれも、『山羊の歌』用に印刷済みの詩編です。『山羊の歌』は青山二郎の装丁で江川書房から刊行される予定でしたが実現しませんでした。

12月、遠縁にあたる上野孝子と故郷で結婚します。中旬には上京して、当時の四谷区花園町の花園アパートに新居を構えました。同じアパートに住んでいた青山二郎は、そのころ、について次のように記しています。


〈新宿御苑の前から、電車道を越えて市ケ谷見附に出る路がある。一丁ばかり行つて左に折れて、そのまゝ左に右に折れて行くと、其処に花園アパートと謂ふ三階建三棟のボウ大なアパートがあつた。

赤坂の家をたたんでから、此処に私は十年住んでゐた。私が移つてマル一年ばかりしてから、中原が来た様に覚えている。その少し前に小林が結婚して、やがて私の方は夫婦別れをして、そのあと中原が結婚した。

そして、朝鮮の女学校を出た新妻を連れて、いきなり此の花園アパートへ中原が越して来たのである。生れて初めて東京に来て、これも生れて初めて見るアパートと謂ふものに入れられて、二十二か三の若い奥さんは事毎にちゞみ上つてゐた。

数寄屋橋の菊正ビルで中原は一杯やるのが好きで、奥さんの方は連れて行かれて、その間にライスカレーを二皿平らげるのである。それから銀座を一廻りし乍ら、ソレ松屋だ、三越だ、服部だと指差して、大きな声で説明する詩人の夫を奥さんは辱しがつた。

やれやれと思つてゐると、尾張町の四ツ角で中原が最敬礼(注:皇居に向かってなされた最もていねいな敬礼)を始めるのだつた。奥さんは外の遊びは何も知らなかつたが、麻雀だけは中原同様に下手糞ながらやれたから、我々の間に麻雀が流行つた。

中原が我々二三の者に手ほどきをして流行らせたのである。なんでも或る夏のことその晩は運良く奥さんが現れないで、夜明しになつた時、私の部屋で我々は四谷署にあげられた。

ポンもチーも区別の付き兼ねる連中が一晩留置所に入れられたのだから、皆んな得意だつた。その朝一番に呼出されて調べられ、帰つて来て見ると未だ寝てゐて誰も知らなかつた。

大岡昇平はその頃酒場の女が出来て、或る日二人連れで私の処へやつて来た時、中原にふつかつた。彼等は仲の悪い犬みたいに、会うと始めから喉を鳴らしてゐるのである。だから五分もすると双方は忽ち立上つた。

大岡は倚子の前にあつた重たい大きな木の足台を、金太郎が大石を振上げた様な恰好で、頭上高く振りかぶつた。私は大岡の女に耳打ちして、三階へ走つて行つて中原の奥さんをトツサに呼んで来させた。

さうして置いて、喧嘩をするなら表テでやつて呉れと二人にダメを押した。人のゐない所だと、二人では喧嘩にならない、さういふ喧嘩は始末の悪いもので世話の焼けること一通りではない。

中原の知つてゐる人間が私の所にいりびたつている癖に、詰り彼等に言はせると――電信柱の高いのも郵便ポストの赤いのも、皆んな私のノボクレの故なのである。そこへ中原の奥さんが大岡の女と駆けつけた。

中原は中原の一面を奥さんに見せることがなかつたので、この不意打ちに酷く面食らつた様子で、その怒りで大岡の女の背中をどやし付けながら、女房を呼ぶとは何事だと叫んだ。と、大岡は大岡で、よくも俺の女房の背中をどやしたなと改つた。

後年、中原の死後、この奥さんを嫁に貰つて呉れと強請んでゐたのを思ひ出して私が話すと、大岡はケロリと忘れてゐて私のネツゾウだと言ふから、特に書き添へて置く。私が中原を書かずに此の章で奥さん許り書いてゐるのは、中原の女性に対する愛情が彼を更生させてゐたからである。

極めて素朴な石頭の、家ねずみの様な若い女性――下駄屋も詩人も区別すること無く、亭主だから亭主にして、女房だから女房になつた、恁ういふ女性に結ばれた時期を中原は愛してゐる様子だつた。私は昔淋病に成つたことがあると言ふだけで、中原は私の所へ来てもお茶を飲むことを奥さんに禁じられてゐた。

奥さんに子供が出来たらしいのが分つてから、暫くすると奥さんは眼を患つた。うつちやつて置くと盲目になる病気だつた。段々一人で歩けない様になつた。それから毎日病院通ひが始まつた。三階から中原が手を引いて降りて、表テに出て、二三丁先きの俥屋までおねりの様に歩いて行く。

それから時間が来ると、またその通りに俥屋まで迎へに行つて連れて帰つて来て、三階の部屋に納める。それが今日びのアベックの様に恰好の良いものではなく、殊更に引く手をかゝげて、小男が色眼鏡を掛けた若い女の半歩前を歩いて行くのである。これが三四ケ月続いた様に覚えてゐる。〉(『新文藝読本・中原中也』「私の接した中原中也」)

「早春散歩」を作り、結婚をした翌1934(昭和9)年10月、長男の文也(ふみや)が生まれました。中也は、無類の子煩悩さを発揮します。そんな、愛するわが子に関する作品もたくさん残しました。その一つに、こんな春の詩もあります。

     春と赤ン坊

  菜の花畑で眠つているのは……
  菜の花畑で吹かれているのは……
  赤ン坊ではないでせうか?

  いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
  ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
  菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

  走つてゆくのは、自転車々々々
  向ふの道を、走つてゆくのは
  薄桃色の、風を切つて……

  薄桃色の、風を切つて
  走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲(しろくも)
  ――赤ン坊を畑に置いて

*写真は、孝子との結婚記念写真(昭和8年12月3日)=『新潮日本文学アルバム・中原中也』から

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