2017年5月10日水曜日

北村太郎「五月の朝」⑤

〈一九七六年(昭和五十一年)にそのA子さんに会う前になにかの会やなにかで一、二度会っているんです。

五十一年の夏ごろでした。ある日、彼女と会って話していると、亭主とのあいだが全然うまくいっていないという。

で、まあ同情もあって「困ったことですね」とかいっているうちに、なんかその人といっしょに話していると気持ちが休まるというか、女の魅力というのは人によって違うわけで、ぼくにとってはいっしょにいて心が休まるということですが、それから数回彼女に会っているうちに、旦那とうまくいっていないことが分かって、こっちもそういう気になってくる。

するとかみさんとの気持ちが離れていくわけです。かみさんとは二十年以上もいっしょにいるんだから、普通の夫婦だと思う。

それで過ごせばすごせるし、別にそれほど決定的な不満というのもなかったかと思う。

けれどもA子さんと話して以降、この人といっしょになる運命なんじゃないかとばかりに、再々会っていたわけです。

それは子どものことも考えたし、二十何年いっしょにいてぶちこわすのはどうかと思ったりもしました。けれども、再々会ったりしているうちに自分の気持ちとしては、かみさんよりもA子さんといっしょに暮らすほうにいくのはしょうがないとなったんです。

もうかみさんとは気持ちが完全に離れていたということもある。そういうことで、会社をやめてから、半年くらいは再建しようとも思ったけれど、これはもう駄目だということが分かった。家にいて仕事ができる状態ではないし、かといって仕事をしなければ食えないんですから、新しく自分の生活を変えて仕事をやるしかないと考えたわけです。

子どもはかわいそうだったけれど。いまでも子どもには悪いと思っている。ただそう決めたら、元にもどれない。飛ぶよりない。飛ばなかったら、もっとひどい目にあうという気がした。で、さんざん我慢したすえ、二年くらいたってから家を出たわけです。〔中略〕

一番の被害者はかみさんでしょう。再建できるなら再建したほうがいいというに決まっている。けれど、再建できなかったら、またその場所から考え直さなければいけない。それは家を出る半年くらい前からひじょうに確固としてありました。

ぼくはそういうところで最後の決断をしたわけですが、家を出る一年も二年も前から状況を見ていて、そういう見通しというか、冷静といえば冷静でした。家を出たときはまったく身ひとつで、A子さんのほうもかなり破滅的になって、時期が合って出たわけです。

金は百万円くらいもったでしょうか、でも家には数百万円残して出たわけです。その頃角川書店の中途にしてあった翻訳があっただけで、六、七十万円しか入る見通しがなかったんです。年金ももらっていない時期だし、先行きが不安でした。

彼女もいくらかもって出たので、お互いにやりくりした。食うために翻訳をやって、なんとか二人でやっていけるかという感じでした。川崎の家は六畳、三畳、隣が大家さんの家で、後ろに竹藪。そこによく鮎川とか友人が遊びに来ました。〉(『センチメンタルジャーニー』)


A子さん、すなわち良く知られているように田村隆一の妻、和子とのこうした恋愛事件。それが表沙汰になり、朝日新聞社での25年間にわたる会社員生活に終止符を打ったのは1976(昭和51)年、54歳のときでした。この年を境に、それまでの寡作がウソのように、北村太郎は多作な詩人に変貌していきます。

その変貌には、忙しい新聞社での勤務から開放されたといった物理的な要因もあったのでしょうが、瀬尾育生は次のように、北村太郎という詩人の本質的なところに目を向けています。

「突然の詩的多産がはじまるのは一九七六年。つまり彼が自らの生命力を永続的な恐怖によって損傷したり賦活したりして、自らの罪の意識と釣り合わせるような生を選んだ、そのときからだ」(『現代詩手帖2月臨時増刊 北村太郎』)。

太郎は、この年から世を去る15年ほどの間に、9冊の詩集、7冊の散文集を出しています。そのうちの1冊、家を出て田村和子と生活するようになった1978(昭和53)年に刊行した詩集『冬を追う雨』には、「五月」を描いた、つぎのような詩があります。

     緑

  打ちよせる波のように
  カーテンが揺れる
  わたくしはすべての動くものを目で追ったが

  ことば
  水
  緑の葉のむれのそよぎ
  女のひとの目の光り
  もちろん匂いも
  死ですら
  動く

  すぐ消える
  よろこびの声
  ながい長い文字のたくさんの仕組み
  欲望と
  限りない風の感情
  たちまち骨がかさなり

  子猫がねむる
  五月の倚子

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