2017年5月15日月曜日

北村太郎「五月の朝」⑩

  コップがひかる
  水がこぼれる
  バターをパンに塗る
  コーヒーいい匂い

「五月の朝」は、こんなふうに始まる。陽が昇りつつある。食卓に、かなり強まってきた春の光がキラキラと差し込んでいる。そこに、コーヒーの匂いがただよってくる。

  春来れば路傍の石も光あり 高浜虚子
  磔像の全身春の光りあり 阿波野青畝
  春光や白髪ふえたる父と会ふ 日野草城

「春光」という季語がある。俳句では、この詩の時期より少し前の早春の感じの季語として使うことが多いが、輝く春の陽光には心浮き立つ格別なものがある。太郎の記憶の中にも五月の陽光は、特別な彩りと匂いを放って刻まれていたようだ。

〈戦前・戦中に浅草に住んでいたころは、たいてい五月のよく晴れた日を選び、一つの町ごとに町ぐるみの掃除をしたものだった。

年末の煤払いはいまでも家単位にやっているところが多いようだが、いわゆる大掃除は、梅雨に入る前に畳まで全部上げて、店、居間、台所にいたるまで、埃り一つないように清掃し、伝染病シーズンに備えるのが目的であったようである。

わたくしは子どもだったが、表の舗装道路に、二枚ずつ人の字形に立てかけた畳の列が並んでいるところをくぐり抜けて遊んだりしたものだった。さわやかな五月の風、かなり湿度の高くなった日の光。

箪笥や嵩ばった什器など、重たい物をかつぐ男衆の上半身裸の腕や背に汗が輝く。昼食は母や女中が作った握り飯がきまりだった。

隣りの文房具屋、その先の果物屋、前のパン屋、鮨屋、どこも忙しげに人びとが立ち働き、ときには持ち運ぶ陶器類を取り落として、道に派手な音が響き、女たちの悲鳴のような高い声が聞こえることもあった。

そうこうするうちに、たっぷり陽光を吸いこんだ畳を叩きまくる段どりになる。濛々たる埃りの煙がいっそ爽快に街のうえの空に舞い上がる。細い棒切れで叩く音が五月の大通りに響く。〉(北村著『詩へ詩から』)


ところで、「コーヒーいい匂い」からはじまる詩「五月の朝」は、コーヒーの匂いでしめくくられる。

  コーヒーいい匂い
  ヤバいおもい
  さんさんと 日は昇りつつある
  いかなる情念にとりこまれようともゆるせ
  かなたにひかる海よ

ひかるコップとともにあった「コーヒーいい匂い」は、ここに来て「ヤバいおもい」へとつながる。

「いかなる情念にとりこまれようともゆるせ」という、もはや、苦さも、渋さも、甘さも人生のなかで味わい尽くしてきた大人の言葉になっているのだ。

コーヒーといえば、詩集『笑いの成功』のなかには、六月のコーヒーの詩も入っている。季節がすすんで気候も、詩人の心象もだいぶ変化しているあらわれか、受けるイメージは「五月の朝」とはだいぶ異なる。

     白いコーヒー

  さわやかな風が吹いている 六月
  ゆうべはあんなに恐ろしく雨戸やガラス窓を
  揺り動かし、小さな蛍光灯で翻訳小説を
  読んでいたぼくの額に、青い汁を垂らされていたのに

  いま朝 あの邪悪な風の意志、あの
  入り組んだ話の筋を追うのを中断させた忌々しい
  うなり声、ついにぼくの手から本を奪って
  ウイスキー・グラスを押しつけた、あの陰険な息は

  ない! 悩ましげに身を揉んでいた
  ミズキやソメイヨシノの林は、無数の葉を
  さざなみのように瞬かせ、窓に光の挨拶を送っている
  なんということだろう、ゆうべの

  闇の吊り上がった目がいまはこんなにも
  やさしい緑の微笑に変わってしまう風の表情
  自然にからかわれているだけなのか、ぼくは
  と、すこし憂鬱になってしまう でも

  涼しい風は快く、青空のした、遠くの街から
  いまにも行進曲が聞こえてくるみたいな――パンを
  一枚焼き、コーヒーをいれる 茶色の
  茶碗にフィルターペーパーをかぶせ、ひとさじの粉に最初の

  熱い数滴をそそぐと、たちまち芳香がひろがる ついで
  一気に一杯ぶんの湯を これで
  気分のわるいわけはないのだが、それでも
  心が揺れ動くのは、自然のなかの自分が

  ゆうべのあらしから、錨の爪でひっかかれる
  海底の砂のように、荒らされ、曇っているからなのだろう
  「あるものはないものばかり」つづめていえば
  そうなるが、ムクドリも、ヒヨドリも

  愉快そうに林から出たり入ったりしているではないか!
  茶碗に入ったコーヒーを見る 茶色の
  容器のなかの黄色い液体とは、ずいぶん
  陰気だな――ともあれ、あした

  また、口笛のように風が吹きだすとしても、きょうは、
  きょう、生きるに値する幻があればいいのだ
  たとえば、白いコーヒーがなみなみと
  茶色の茶碗につがれる、ある夜の!

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