2017年5月25日木曜日

「病牀六尺」の力⑦

日本で「しとねの墓穴」の文学者というと、多くの人が、脊椎カリエスとたたかった正岡子規(1867-1902)=写真、wiki=を思い浮かべるでしょう。


新聞「日本」に掲載された『墨汁一滴』(明治34年1月16日~同年7月2日)と『病牀六尺』(明治35年5月5日~同年9月17日)、さらには最晩年の日記をまとめた『仰臥漫録』。

これらをあわせた、いわゆる「三大随筆」は、私の人生にとっても欠かすことのできない大切な書物となっています。

結核菌が脊椎へ感染した病気が、脊椎カリエスです。肺結核、腎結核など何らかの結核性の病気にかかった後に発病します。椎体内に乾酪壊死というチーズの腐ったような壊死巣ができ、椎体周囲に膿瘍が形成されます。

そうして椎体が破壊され、次いで椎間板にも病巣が及び、さらに隣接した椎体にも病巣が広がっていきます。椎体の破壊とともに脊柱の後弯変形がみられます。

腹部や殿部に膿がたまり、神経麻痺を生ずることもあります。当時、不治の病と見られていたこの脊椎カリエスに蝕まれた子規の晩年がどのようなものだったのか、ハイネと同じようにざっと年表にしてながめてみましょう。

1888(明治21)年 8月、鎌倉旅行の最中に最初に喀血。

1889(明治22)年 5月には大喀血し、肺結核と診断される。子規の号を用いるようになる。

1895(明治28)年 5月、日清戦争の従軍記者として帰国途上、船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院。須磨で保養した後、松山に帰郷。松山中学校にいた漱石の下宿で静養。10月に再上京するころから腰痛で歩行困難になる。

1896(明治29)年 1月、子規庵で句会。結核菌が脊椎を冒し脊椎カリエスを発症。数度の手術を受けたが病状は好転せず、臀部や背中に穴があき膿が流れ出る。

1899(明治32)年 夏以後、座ることも困難になる。この頃から約3年間、寝たきり。寝返りも打てないほどの苦痛を麻痺剤で和らげながら、俳句、短歌、随筆を書き続けた。

1900(明治33)年 8月、大量の喀血。

1902(明治35)年 9月、死去。享年34。絶筆は

  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  をととひのへちまの水も取らざりき
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず

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