2017年5月8日月曜日

北村太郎「五月の朝」③

北村太郎が参加した「ル・バル」(1939年2月刊19号)の同人募集には次のように記されていたそうです。

①詩人にもいろいろある。古池を見て喜んだり、お月さんを見て泣いたりする。機械の美しさなどとカンタンしてベルトに捲きこまれ、死んでしまつたりする。こんな詩人には用がない。僕たちはライジンング・ゼナレイションだから、過去的過去はすててしまふ。

②あらゆる意味で健康でなければならぬ。従つて所謂、蒼白い文学青年ではあり得ない。

これについて太郎は、〈軽薄といえば軽薄にちがいないが、しかし①で述べられているのは〈過去的過去〉との訣別であって、これは中桐雅夫が後年、「やせた心」で書いた「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は/おれは絶対風雅の道はゆかぬ」(『会社の人事』所収)の、〈風雅の道〉のことでもあろう。

あるいは、なんの発展も期待できないような過去の残滓のようなものであったかもしれない。風雅とか過去とかいうものが浅くしか捉えられていないのは詩的モダンボーイたちの弱点であったろうが、朔太郎、達治、それに中原中也の世界から離れようとすれば、幼稚であるにしても、ごく自然な宣言だった。〉(「センチメンタルジャーニー」)とふりかえっています。


太郎は、1940(昭和15)年に東京府立第三商業学校を卒業。4月1日から日本橋三越近くにあった横浜正金銀行の東京支店に就職しましたが、一週間でやめてしまいます。

朝から晩まで帳面だけをつけるだけの仕事に、初日からがっくり。こういうことがずっと続くのかと思うと暗澹たる気持ちになった。「新潮」を買って仕事のあい間に見ていると係長に見つかって怒られた。それでいやになり、無断でやめたというのです。

太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、東京外国語学校に入学。翌年には根本和子と結婚し、長男昭彦を授かります。1944(昭和19)年1月から7月まで海軍予備生徒となり、旅順で一般兵科の基礎訓練を受けました。

7月下旬には横須賀市久里浜の海軍通信学校に入り、卒業後は士官候補生となり、大和田通信隊に勤務。英米の暗号通信を傍受し分析する仕事に携わります。隊の生活は厳しかったが、英語が読めて勉強できる環境をありがたく思ったといいます。

終戦となった後、除隊となり、長野の母の実家の近くに疎開していた家族のもとに帰ります。日本橋の小さな商社に就職し1946(昭和21)年、商社が設立した外電配給会に移り、外電やGHQの指令などを翻訳する仕事に就きました。

東京外語学校は昭和19年に知らぬままに卒業になっていて、同社に在籍のまま東大仏文科に入学。大学の研究室にあったフランスの文芸誌「nrf」のバックナンバーにカフカの「変身」やスケッチの仏訳を見つけ、耽読するなどしました。夏を過ぎて退社。妻子を養うため、古道具外交員、生命保険外交員などアルバイトを転々とします。

1947(昭和22)年4月、学生の身分を隠して、京橋の出版社に入ります。このころから「北村太郎」のペンネームを使うようになっっています。9月には月刊「荒地」の創刊に参加。1949(昭和24)年に東大を卒業。卒論は「パスカル論序説」でした。

卒業後、大阪商事に就職しましたが、1949(昭和24)年には退社。この年、年刊『荒地詩集51年版』の編集を担当、11月には朝日新聞社へ入り、校閲部員となっています。ところが翌1952(昭和27)年8月、大きな悲劇が襲います。川崎の海に潮干狩りに来ていた妻子が、深みにはまって水死してしまったのです。

翌年、「終わりのない始まり」という詩を発表しています。「ぼくらはやがて冷たい闇に沈むだろう/さよなら、あまりに短いぼくらの夏の強い光りよ!」というボードレールの詩句を前書きに付けた、全4章におよぶ長篇です。その前半の2章をあげておきましょう。

 1

  いま、何時?
     夢ばかり見つめていた黒い眼と、
     ぼくの髪をさぐった指の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     馬車の鈴ばかり聴いていた小さな耳と、
     葡萄のような乳房の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     犬ばかり追っていた冷たい鼻と、
     いい匂いのした頬の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     お互いに深く愛しあった八歳の
     男の子と、若い母の焼かれるときだ。

  いま、何時?
     おお、夕ぐれの横浜子安火葬場、
     夏の光りが、生けるものたちの影を
     長々と敷石にうつす、午後六時!

 2

  骨をひろう人たちよ、
  どうか、泣かないでください。
  泣いて鉄の箸に挟んだ昭彦の骨を
  落したりしないでください。まだ熱い
  この子の骨を、ひとつでもコンクリートの床に落すと、
  そのひびきが、ぼくの骨に伝わりそうです。
  骨をひろう人たちよ、
  どうか、泣かないでください。
  泣いて錆びた箸に挟んだ和子の骨を
  落したりしないでください。まだ赤い
  和子の骨を、ひとつでも靴のうえに落すと、
  その音が、ぼくの骨を折りそうです。
  しずかな、しずかな、夏の
  夕方の火葬場、光りが斜めに射す窓の
  向うにある空は、沈黙して
  ひろがっています。ああ、どうか
  泣かないでください。死んだものたちの
  影も、あの鰯雲のあたりで
  おしゃべりをして、にこにこと
  ほほえんでいるころかもしれません。どうか
  泣かないで、骨を
  ひろう人たちよ、泣いて昭彦と
  和子の骨を落したりしないでください……

*写真は、北村太郎(思潮社『現代詩体系――④』1967年)から

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