2017年5月9日火曜日

北村太郎「五月の朝」④

潮干狩りの事故で亡くなった妻は、「あなた、わたしを生きなかったわね」といっているのではないか。「わたしを生きなかった」と妻が迫ってくる。太郎は、そんなふうに感じるようになります。

わたしがこういう死に方をしたのは、あなたに直接関係はないんだろうけれども、あなたはようするに自分だけの生を追求して、わたしを生きなかった。こうした謎の声は、その後の詩の中にもしばしば登場してきます。

1954(昭和29)年、関喜代子と再婚。後に男女2人の子を授かります。1966(昭和41)年には、初めての詩集『北村太郎詩集』を刊行しました。

〈思潮社の小田久郎が「『荒地』の人はほとんど詩集を出したけれど、あなたは出していないから編集者をさし向けますから出しましょうよ」という。それはありがとう、ということで、これならどうにか人様に見せられるかという詩を数えたら、たった二十二篇しかない。

総行数は八百ちょっとでした。川西健介という編集者が面倒をみてくれたんですが、さすがに呆れ返っていった、「これだけですか」と。といって捨ててのもそんなに多くはないので、もともと数が少ない。戦前、戦中のモダニズムの詩など載せるわけにいかない。

束(つか)を出すために困って、なんと一ページたった七行にしたんですが、それでも百五十ページで収まってしまった。粟津潔さんの装丁で、その年の十一月、ちょうど満四十四歳になる少し前に出たわけです。

ぼくが鮎川の初めての詩集に解説を書いたこともあって、お返しというわけではないけれど、鮎川に解説を書いてもらいました。できあがったものを手にとってみると、なにかこれで終わりだという感じがまずしました。

鮎川に「これができたから、もうじき死ぬかもしれない」といったら笑われたというか、呆れられたような気があります。第一詩集が四十四歳近くというのは「荒地」のなかで遅いだけではなく、詩壇全体を考えても戦前でも遅いと思う。

それは結局、本質的に詩人としての自覚が著しく未成熟だったことに尽きる。衰弱詩人だといったけれど、若くして衰弱していて、未熟のまま年月がたってしまったということ。よかれあしかれ、いわゆる詩人の枠に入らないへんな詩人じゃないかという気がするんです。〉(『センチメンタルジャーニー』)


1972(昭和47)年には詩集『冬の当直』を、1976(昭和51)年には、散文集『パスカルの大きな眼』と詩集『眠りの祈り』をいずれも思潮社から刊行しています。「そんなに変わりばえはしないけれども、本人は楽しんで書いている詩が多かった」というこの詩集のタイトルになったのはこんな詩でした。

     眠りの祈り

  物自体は不可知であり
  形相即質料であり永遠は逆さに着いた目であり

  わたくしは形而上学を熱愛し
  どぶ板にしぶきをあげる驟雨が大すきで

  闇の窓からとつぜん飼猫がとび込んで
  よくみると鼠をくわえていてわたくしはギャッと叫び

  ペンキ臭い下等室でもいいから船旅をして
  精神の現象をつぶさに観察して

  緻密な絨毯をけして逆なですまいと思い
  駅の階段を二段ずつ駆けのぼって行き

  蛇行する川の両側の決定的な矛盾は
  宙に浮いた川向こうであり

  わたくしは白昼にしか夢をみることができず
  夜はみみっちく覚めていて

  大むかでが壁を這い
  わたくしの神経はそれに同調して危機を直観し

  存在していないくせに存在し
  猫にとって鰹節は物自体ではなくて

  断崖はしちょうにとられる碁石ほど絶望的で
  ほとんど時間の孤立であり

  まもなく観念は霧消し
  わたくしは観念のなかに眠り

  天井のしみが怪物に見えて
  わたくしは半睡のうちにふたたび叫ぶわたくしを聞いている

54歳。『眠りの祈り』を出した年、太郎は定年まで1年を残して朝日新聞社を退職しています。その理由は、職場での人間関係がいやになったのにくわえ、前妻との初めての恋愛から「三十四年くらいたって」の恋愛問題がかかわっていました。

〈A子さんというのと恋愛したわけだけれども、むこうはむこうで亭主との問題があって悩んでいた。かみさんにはまったく罪はない、被害者です。ぼくはさんざん謝った。それでも駄目なわけで、頭がおかしくなって自殺するとか崩壊するに決まっている。

家を出て別々に暮らせば少しは冷めるかもしれない。とにかく家庭を捨てようとしたわけです。離婚も考えたんです。一度壊れたものは絶対に駄目だってかみさんにいった。いくら年をとっていてもきちんと整理したほうがいいといったけれど、かみさんは絶対に反対なんです。

彼女は古い道徳に育った、自分が辛抱すればいいというタイプの女性でした。けれども、そのくせまったく辛抱しないどころか、自分のプライドが許さないという。離婚しないのなら、こっちには請求する権利がないから、ぼくが家を出て、送金すれば、つまり家庭内離婚でいくよりしょうがないと思ったわけです。〉



*有楽町にあった北村太郎が務めていたころの朝日新聞東京本社(ウィキペディアから)

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