2017年5月28日日曜日

吉野弘「I was born」①

     I was born

 確か 英語を習い始めて間もない頃だ。

 或る夏の宵。父と一緒に寺の境内を歩いてゆくと 青い夕靄の奥から浮き出るように 白い女がこちらへやってくる。物憂げに ゆっくりと。

 女は身重らしかった。父に気兼ねをしながらも僕は女の腹から目を離さなかった。頭を下にした胎児の 柔軟なうごめきを 腹のあたりに連想し それがやがて 世に生まれ出ることの不思議に打たれていた。

 女はゆき過ぎた。

 少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の眼にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

 父は無言で暫く歩いた後 思いがけない話をした。
――蜉蝣(かげろう)という虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
 僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜉蝣の雌だといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化して食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返される生き死にの悲しみが 咽喉もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて<卵>というと 彼も肯いて答えた。<せつなげだね>。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ、お母さんがお前を生み落としてすぐに死なれたのは――。

 父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつの痛みのように切なく 僕の脳裡に灼きついたものがあった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。


「I was born」は、1952(昭和27)年11月の『詩学』に投稿されました。このとき吉野弘は26歳。投稿をはじめて2作目の詩です。

第1詩集『消息』所収、全24篇のうち20番目に置かれています。

『消息』は、1957(昭和32)年5月1日に「自家版」として100部を刊行。同年8月1日に150部を再版しました。

謄写刷り、本文54ページ。B5判よりやや小さめの大きさでした。発行所は「谺詩の会」、非売品。

吉野の『消息』についての「覚えがき」によると、「当時、100部で5000円を要したので、1冊当り50円で出来たことになる。確か、1冊100円で購入してもらった。当時の郵送料20円程度(1冊送りの場合は16円、『谺』を添えたりすると24円だった)を加えても赤字にはならなかった」といいます。

「I was born」は、1959(昭和34)年に出された第2詩集『幻・方法』に再録されました。この際、第6連の「淋しい 光の粒々だったね」は「つめたい光りの粒々だったね」に改められています。

これについて吉野は1994年に出された『全詩集』の「収録詩覚えがき」に次のように記しています。

<『現代詩文庫』収録の時は初版に復し、註を付して『幻・方法』では〈つめたい光りの粒々だったね。〉であった旨を記した。『現代詩文庫』巻末の〈収録作品についての若干の覚えがき〉の中で、「私自身は〈つめたい〉を取ります。」と言っているにもかかわらず、本書に初版の作を収めたのは、初版に対する作者の無意識裡の贔屓(ひいき)を示していることかもしれない。教科書は、一社(筑摩)が〈淋しい〉で、他の二社が〈つめたい〉となっている。作者としては、今は、どちらとも決め兼ねているというのが正直な気持ちである。>

「どちらとも決め兼ねている」のなら、初出にしたがうのが自然でしょう。というわけで、このブログでは『全詩集』と同じく、「淋しい 光の粒々だったね」にしました。

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