2017年5月29日月曜日

吉野弘「I was born」②

吉野弘=写真、『吉野弘全詩集』(撮影・石井徹)から借用=は、1926(大正15)年1月16日、山形県酒田市生まれ。1942(昭和17)年12月、山形県立酒田商業学校を戦時繰り上げ卒業しました。10代のころ、高村光太郎の「道程」を読んで感銘を受けたといいます。

同校を卒業後、1943年1月に帝国石油に就職。翌44年に徴兵検査に合格しますが、入営する5日前に終戦を迎えることになります。戦後は職場の労働組合に参加して、組合運動に打ち込んでいきます。当時の様子について、大滝安吉は次のように記しています(「吉野弘さんの横顔」)。


〈メーデーの行進の中に吉野さんがいた。そこは帝石労組員のしんがりのところで、事務系統の人が多いようだった。だから行列の他の部分とくらべていくらか自由な雰囲気をもっていたが、その中でも彼はひときわ自由のように見えた。しかし、それ以上に私の注意をひいたのは、他の事務系統の人の持つ自由さが浮草のそれで、ともすれば、行列からはみ出しそうなのに比較して彼のそれは行進自体の雰囲気とは決して矛盾するものではないことであった。

つまりこの場合彼の自由さは、傍観者のものではなくあくまで内にとどまった厳しい批判性によって支えられていたと言える。彼は、行進の中にいて、行進にとけこみ、しかも終始、行進の意味を考え続けていたにちがいないのである。

そして、このような自由さが彼の支配的な他への印象ということが出来よう。だから若し形容矛盾を許してもらえるなら、彼の性格は、剛直な素直さである。恐らく、私は思うのだが、彼の剛直さは、暴動のような集団の激動の中にあっても尚かつ自由であるに違いないのだ。〉

ところが1949(昭和24)年、過労がもとで肺結核を発病します。そして、翌50年6~7月には東京で胸部右側肋骨除去手術を受けました。51年8月に退院して帰郷、その翌年には全快して職場に完全復帰しました。このころ印象に残ったこととして、大滝は「吉野弘さんの横顔」の中で次のようなエピソードを紹介しています。

〈彼が胸部の成形手術を受けた時、その費用の捻出に困って、会社の法規類を探したというのである。そこで彼は死亡者に対する弔慰金(或いは葬式費用?)が出るのを見つけて、その前借を考えついた。そこで彼は、今後の利用者のためも考えて、前借の特例を設けるよう会社と交渉したというのである。

私はこの話を聞いて少々驚いた。自分の死亡後の弔慰金を前借しようという思いつきも思いつきだが、こんな話をなにかの話の合間にさりげなく一言でいってしまうなどということは私の考え及ばぬことだった。この小さなエピソードはいくらか彼の詩の方法をも暗示しているかもしれない。〉

3年間にわたる療養の間に、弘は詩作をするようになりました。そして、雑誌『詩学』への投稿を始めます。初投稿した「爪」が、1952(昭和26)年6月号に掲載。投稿2作目が「I was born」でした。

「I was born」は投稿欄ではなく、選者の推薦で同年11月号の『詩学』の本欄に掲載されました。そして「I was born」は、5年後に出版された第1詩集『消息』に収められました。この第1詩集は次のような序詩から始まっています。

  何もすることがないとき
  彼は突堤の先に立っている。
  足下にひろがる
  ふかぶかとした海の色に
  身震いして
  彼は一散に陸の方へ駆け出す。

  何もすることがないとき
  彼は いつも
  同じ突堤の先に立っていて
  青ざめて
  陸の方へ走る。

  陸の人達の間にまぎれこみ
  多忙を取り戻してから
  ほっとして彼は呟く。

  ――何かすることがあるのは有難いことだ。資本主義的生産様式であれ、社会主義的生産様式であれ、その中に、身をゆだねる多忙があるのは救いだ。多忙は神様だ!

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