2017年8月31日木曜日

島崎藤村『若菜集』(8)

「おえふ」の生い立ちをうたった最初の3連をもう一度、読みなおしておきます。

処女ぞ経ぬるおほかたの
われは夢路を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河をながむれば

水静なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影に
われは処女となりにけり

都鳥浮く大川に
流れてそゝぐ川添の
白菫さく若草に
夢多かりし吾身かな

この部分について、吉田精一は『藤村名詩鑑賞』で、つぎのように解説しています。

〈最初の3連は、夢多い幼少年の時代が、それにふさわしいほのぼのとしたことばとしらべをもって歌われている。

  処女ぞ経ぬるおほかたの
  われは夢路を越えてけり

という物語的な歌い出しも、この場合ふさわしい。その次の、

  わが世の坂にふりかへり
  いく山河をながむれば

というのは、あとにあるように平穏な、破綻のない生涯を展開するのであるから、幾らかものものしすぎる表現である。しかし山必ずしもけわしいとはかぎらず河もまた激流とはかぎらぬから、多く非難するにも当らない。とにかくこの第1連で、彼女の半生を絵巻物のようにくりひろげる準備をしたのである。次の、

  水静なる江戸川の
  ながれの岸にうまれいで
  岸の桜の花影に
  われは処女となりにけり

  都鳥浮く大川に
  流れてそゝぐ川添の
  白菫さく若草に
  夢多かりし吾身かな

は、多少重複する所もあるが、桜や、白菫によそえられるこの女性の美しさは、さこそと想像されるであろう。平凡に似ているが、私はこの2連を美しいと思う。「岸の桜の花影に」人となり、「白菫さく若草」をかりてうっとりと夢見勝ちな日を送ったおえふは、心もおっとりとした、ゆたかな家の生れであることが思われる。〉

さて「おえふ」の第4連からは、宮中に仕えての生活が描かれていきます。

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨


詩は「雲むらさき」すなわち紫雲たなびく宮中へと導かれます。むかし中国では、王城の門を九重にしたため、「九重」は宮中の別称としても用いられますが、ここでは大宮内(宮中)を強調するための修飾語として九重を用いています。

「清涼殿」=写真、wiki=は、平安京の内裏にある殿舎のひとつ。平安中期には天皇の御殿とされるようになり、日常の政務のほか、四方拝、叙位、除目などの行事も行われました。建物は九間四面で、屋根は檜皮葺の入母屋造。

「雲を彫め濤を刻り」というのは、浜に寄せる波のように雲がかたちを浮きぼりにさせながら寄せてくる様子を、「霞をうかべ日をまねく」は、漢詩文のイメージを生かし、自然の景にたくして、豪華な宮殿の高くそびえる何層もの高楼のさまを表現しているのでしょう。

「玉の台」(たまのうてな)は、玉台すなわち、天帝の住まいにある美しい楼台のこと。広壮雄大な宮殿を形容しています。

2017年8月30日水曜日

島崎藤村『若菜集』(7)

「おえふ」は七五調の1連4行12連からなる物語詩的な作品です。おえふは、お葉の仮名書き。当時は、女性のごく一般的な名前だったようです。詩は、この架空の未婚少女の生い立ちから始まります。1連目は、次のようになっています。

  処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
  われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
  わが世の坂にふりかへり
  いく山河〈やまかは〉をながむれば

最初の2行は、世の中のたいていの少女たちが過ごすような夢多き日々を、わたしも重ねてきましたという述懐でしょう。

「われは夢路を越えてけり」の「て」は、後の『早春』では「に」に改められ、「われは夢路を越えにけり」とやわらかな響きになっています。

「わが世の坂にふりかへり」とは、けわしい人生行路のなかで、過去をかえりみることができるような一つの「峠」に至って、そこから眺めているのでしょう。

「いく山河」というのは山あり谷ありの人生行路。それは、おえふの言葉であるとともに詩人自身の人生を見つめたものでもあるのでしょう。

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女〈をとめ〉となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮く大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草に
夢多かりし吾身かな

「おえふ」の2連目と3連目です。「江戸川」は、隅田川にそそぐ神田川の上流を指します。「大川」は、東京湾に注ぐ全長23.5kmの隅田川のこと。こうした生い立ちに関する川べりの描写は、青少年のころ隅田川のほとりの浜町で過ごした藤村自身の想いが託されているのでしょう。


「都鳥」は、現在の和名でミヤコドリと呼ばれる鳥ではなく、古来から和歌に詠まれているように、ユリカモメ=写真、wiki=を指していると考えられます。『伊勢物語』の「九段 東下り」には、

なほゆきゆきて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。(中略)さるをりしも、白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡しもりに問ひければ、「これなむ都鳥。」と言ふを聞きて、『名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと』とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

とあります。隅田川にいる鳥で、体が白く、嘴と脚が赤く、シギくらいの大きさ、魚を食べる水鳥とすれば、藤村のこの詩にもぴったり合いそうです。

「白菫」すなわちシロスミレは、スミレ科の多年草。スミレに似ていますが葉数は少なく2枚ほどで、地面から伸びる花柄に直径2センチほどの白い花をつけます。

2017年8月29日火曜日

島崎藤村『若菜集』(6)

藤村の第1詩集『若菜集』は、ひらがなで綴られた次のような「序」にはじまります。五七調のゆったりとしたリズムで、4行1連、3連構成です。

こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ

ぶだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ

そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと


さらに序詩につづいて、次のような前書きがあります。

「明治29年の秋より30年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は若葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌はまだ萌出しまゝの若葉なるをや。」

1896(明治29)年の秋から翌1896(明治30)年の春にかけて、ということは、藤村が東北学院に赴任して仙台に居たときに作った詩を集めたことになります。

1896年10月には母の死に直面し、故郷を再認識した時期でもありました。『若菜集』が春陽堂から出版されたのは1896年8月のこと。

それは「若葉のかげ深きころ」ではあるけれども「吾歌はまだ萌出しまゝの若葉」であるという思いが込められた詩集だったのです。

『若菜集』の冒頭に出てくるのは「おえふ」という詩です。この詩は『文学界』48号(明治29年12月)に、総題「うすごほり」と題して発表された6篇(ほかに「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)の最初に置かれています。

『若菜集』に収録された際には総題は省かれましたが、大正6年に出された『改刷版藤村詩集』には「六人の処女」という総題が付けられ、昭和11年の『早春』には「六人の処女一~六」として収められています。

   おえふ

処女〈をとめ〉ぞ経〈へ〉ぬるおほかたの
われは夢路〈ゆめぢ〉を越えてけり
わが世の坂にふりかへり
いく山河〈やまかは〉をながむれば

水静〈しづか〉なる江戸川の
ながれの岸にうまれいで
岸の桜の花影〈はなかげ〉に
われは処女となりにけり

都鳥〈みやこどり〉浮うく大川〈おほかは〉に
流れてそゝぐ川添〈かはぞひ〉の
白菫〈しろすみれ〉さく若草〈わかぐさ〉に
夢多かりし吾身かな

雲むらさきの九重〈こゝのへ〉の
大宮内につかへして
清涼殿〈せいりやうでん〉の春の夜の
月の光に照らされつ

雲を彫〈ちりば〉め濤〈なみ〉を刻〈ほ〉り
霞をうかべ日をまねく
玉の台〈うてな〉の欄干〈おばしま〉に
かゝるゆふべの春の雨

さばかり高き人の世の
耀〈かゞや〉くさまを目にも見て
ときめきたまふさまざまの
ひとのころもの香〈か〉をかげり

きらめき初〈そ〉むる曉星〈あかぼし〉の
あしたの空に動くごと
あたりの光きゆるまで
さかえの人のさまも見き

天〈あま〉つみそらを渡る日の
影かたぶけるごとくにて
名なの夕暮ゆふぐれに消えて行く
秀〈ひい〉でし人の末路〈はて〉も見き

春しづかなる御園生〈みそのふ〉の
花に隠れて人を哭〈な〉き
秋のひかりの窓に倚〈よ〉り
夕雲ゆふぐもとほき友を恋〈こ〉ふ

ひとりの姉をうしなひて
大宮内の門〈かど〉を出で
けふ江戸川に來きて見れば
秋はさみしきながめかな

桜の霜葉〈しもは〉黄に落ちて
ゆきてかへらぬ江戸川や
流れゆく水静〈しづか〉にて
あゆみは遅きわがおもひ

おのれも知らず世を経〈ふ〉れば
若き命いのちに堪へかねて
岸のほとりの草を藉〈し〉き
微笑〈ほゝゑ〉みて泣く吾身かな

2017年8月28日月曜日

島崎藤村『若菜集』(5)

1908(明治41)年10月に出た藤村の長編小説の『春』という長編小説があります。二葉亭四迷の勧めで同年4月7日から8月19日まで「東京朝日新聞」に連載、10月に緑陰叢書第2篇として自費出版されました。

藤村初の自伝的小説で、そのころ盛んに詩文を発表していた「文学界」の創刊ごろの同人たちとの交流を通して、理想と現実に悩み、苦しみながら、それぞれの道を模索する青春の姿が描かれています。

藤村自身がモデルと考えられる主人公の岸本捨吉は、教え子である勝子(モデルは佐藤輔子)を愛したため、職を捨てて旅に出たものの同人雑誌の創刊の話を聞いて、戻ってきます。

しかし捨吉や同人たちを待っていたのは、俗世の打算を打ち破り自由を求めようとする葛藤と挫折でした。そんな中、捨吉が心から尊敬していた先輩である青木が自殺して、大きな衝撃を受けます。


青木のモデルになったのは、北村透谷(1868-1894)でした。透谷は、英国から来日したクエーカー教徒のジョージ・ブレイスウェイトの影響もあって絶対平和主義の思想に共鳴。1889年には日本平和会結成に参画し、機関誌『平和』に寄稿するなどしていました。

しかし次第に国粋主義へと流れる時勢にあって、評論『エマーソン』を最後に、日清戦争勃発直前の1894(明治27年)年5月16日、芝公園で首吊り自殺をします。25歳5カ月の若さでした。

そんな尊敬する先輩の死後、「共同の事業」に疲れてきた「文学界」の同人たちの中にあっても「自分は自分だけの道路(みち)を進みたい」と思う捨吉は作家として生きることを決意し、一切を捨てて東北の学校へ赴任するのでした。

北村透谷の自殺について、藤村は後年「その惨憺とした戦ひの跡には拾つても拾つても尽きないやうな光つた形見が残った」(「北村透谷二十七回忌に」)と回想しています。

1895(明治28)年、こうした身辺の打撃や文学上の懐疑から、もう一度、勉強をやり直すことを思い立って「大学選科に入る準備」を開始。12月には明治女学校を退職しています。

1896(明治29)年9月には、明治女学校の同僚小此木忠七郎の世話で、仙台の東北学院に赴任します。

同学院に籍を置いたのは1年足らずで、翌1897年7月には辞職して帰郷しますが、「仙台へついてからといふものは、自分の一生の夜明けがそこではじまつて来たやうな心持を味ひました」(「『若菜集』時代)と回想しています。

そしてこの年の8月、第1詩集『若菜集』を春陽堂から刊行します。七五調を基調とし、冒頭の"六人の処女"(「おえふ」「おきぬ」「おさよ」「おくめ」「おつた」「おきく」)をはじめ、有名な「初恋」、「秋風の歌」など51編が収録。

日本におけるロマン主義文学の代表的な詩集として文壇の注目を集めることになります。『若菜集』について藤村は、後に次のように記しています。

「『若菜集』は私の文学生涯に取つての処女作と言ふべきものだ。その頃の詩歌の領分は非常に狭い不自由なもので、自分等の思ふやうな詩歌はまだまだ遠い先の方に待つているやうな気がしたが、兎も角も先蹤を離れやう、詩歌といふものをもつともつと自分等の心に近づけやうと試みた。黙し勝ちな私の口唇はほどけて来た」(『改訂版藤村詩集』序)

2017年8月27日日曜日

島崎藤村『若菜集』(4)

明治20年、藤村が入学したころの明治学院は西欧風の教育が特徴で、教授陣もほとんど外国人でした。在学中は馬場孤蝶や戸川秋骨と交友を結び、台町教会で木村熊二によってキリスト教の洗礼を受けています。

学生時代、シェークスピア、ゲーテ、バイロン、ワーズワースなど西洋文学を読みふけり、また松尾芭蕉や西行などの古典や、二葉亭四迷の『あいびき』や『めぐりあい』、森鴎外の諸作品など、近代文学の黎明を肌で感じつつ、自らを啓蒙していきました。

「樹木の多い、静かな場所」だった開校当初の学院について「学校で勉強する余暇には、よくあの辺の谷間やら、丘やら、樹蔭の多い道などを歩いたものだ。自然というものが、私の眼に映り始めたのも丁度其時分であった」(「明治学院の学窓」)とも記しています。

明治学院を卒業後は、巌本善治の主宰する『女学雑誌』の編集を手伝い、同誌に翻訳文を発表するなどして文学の道を歩み始めます。とりわけ同誌を介して知った北村透谷からは、文学的にも精神的にも決定的な影響を受けることになります。


北村透谷(1868-1894)=写真=は、本名は北村門太郎。相模国足柄下郡で没落士族の家に生まれ、両親とともに上京して東京の数寄屋橋近くの泰明小学校に通いました。

1883年、東京専門学校(現在の早稲田大学)政治科に入学。自由民権運動に参加しましたが、大阪事件の際に同志から活動資金を得るため強盗をするという計画の勧誘を受けて絶望、運動を離れました。

1889年『楚囚の詩』を自費出版しましたが、出版直後に後悔し自ら回収。1891年『蓬莱曲』を自費出版。1892年に評論「厭世詩家と女性」を『女学雑誌』に発表し、近代的な恋愛観(一種の恋愛至上主義)を表明しました。

「恋愛は人世の秘鑰(ひやく)なり」(鑰は鍵の意味)という冒頭の一文は藤村に衝撃を与えたといわれています。1893年に創刊された『文学界』誌上には「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、「内部生命論」など多くの文芸評論を執筆していました。

藤村は、明治学院を卒業すると、友人の世話で東京四谷にあった明治女学校高等科の英語の教師になりました。1892(明治25)年の9月、藤村21歳のときのことです。

翌年、交流を結んでいた北村透谷や星野天知の雑誌『文学界』に参加して、同人として劇詩や随筆を発表します。

ところが、まもなく藤村は、教え子の佐藤輔子という1歳年上の生徒を愛してしまいます。

輔子の父親は、岩手県の花巻出身で、第1回岩手県選出国会議員の佐藤昌蔵。国会議員となった父に伴って上京、明治女学校に通学するうち英語の教鞭をとっていた藤村と相知ることになったのです。

輔子には親の定めた鹿討豊太郎という許婚者がいて、藤村との板ばさみの恋に苦しみました。明治28年5月、鹿討豊太郎とともに札幌に移り住みました。

ところが不幸なことに、その年の8月、24歳で病死しています。ちなみに北海道大学総長を務めた佐藤昌介は、輔子の異母兄にあたりました。

輔子を愛した藤村は、教師として自責の念からキリスト教を棄教し、辞職します。その後関西へとあてのない旅に出ます。1894(明治27)年には女学校に復職しましたが、兄事した北村透谷の自殺という衝撃的なできごとに遭遇するのです。

当時のことは、後に『春』に描かれます。この小説で佐藤輔子は、主人公の捨吉の恋人、勝子のモデルとされています。

2017年8月26日土曜日

島崎藤村『若菜集』(3)

藤村の父、島崎正樹(1831-1886)は天保2(1831)年5月4日、信濃(長野県)馬籠宿の本陣、そして庄屋、問屋をかねた家に生まれました。

系譜によれば島崎氏は、相模国三浦の出。永正10(1513)年、島崎監物重綱が木曽氏に仕えてその祖となり、その長男七郎左衛門重通が永禄元年(1558)木曽馬籠に移って郷士となったそうです。

正樹は重通から降って17代に当たります。23歳で、隣村妻籠の本陣から同族の島崎与次右衛門重佶の妹ぬいを娶り、四男三女をもうけました。その末子が藤村ということになります。

正樹は幼くして四書五経を読み、長じて中津川の医師馬島靖庵に国学を学びます。文久3(1863)年には江戸の平田鉄胤の門をたたき、平田派国学の門人に加わりました。これが終生彼の思想の拠り所となります。

尊皇攘夷の波が、木曽谷の山中にまで押し寄せてくる時代でした。皇女和宮御降嫁の通行、水戸天狗党の武田耕雲斎一行の西上、中山道鎮撫総督の東征の通行など、正樹は草莽の士としてこれらを応援し歓迎しました。

維新後は戸長、学事掛をへて教部省考証課雇員になります。一方で、政治的な活動にも関与しています。

禁伐林とされた木曽山林の明山の解放、官有地と民有地の境界再調査、補償金の下付請願などを明治政府に求めた木曽の山林解放運動を展開。明治7年には、天皇の輿(こし)に憂国の歌をかいた扇をなげた疑いで、不敬罪に問われました。

正樹は明治新政府に大きな夢を抱いていました。しかし時代の流れは、彼の国粋思想、拝外思想とは相容れなかったようです。また、旧家の特権が奪われ、山林解放運動に頓挫するなど、家政の衰運はとどめようもありませんでした。

時代の歩みから取り残された正樹は悶々として、ついに発狂してしまいます。晩年、岐阜県水無神社宮司をしていましたが、帰郷して明治19年11月29日に死にます。満55歳でした。

ところで、籠村の庄屋の家に生まれた藤村は、1878(明治11)年、6歳のとき神坂学校に入ります。このころから学問好きの父正樹から『孝経』や『論語』の素読を受けています。

1881(明治14)年、9歳のとき、三兄友弥とともに上京し、京橋区鎗屋町(現在の中央区銀座4丁目)の、長姉そのの嫁ぎ先である高瀬薫方に寄宿。泰明小学校に通いました。

高瀬一家が木曽福島へ帰郷してからは知人の家などに身を寄せて、幼くして独りで生きていかなければならなくなります。

小学校を卒業した後の明治19(1886)年には、同郷の武居用拙から『詩経』『春秋左氏伝』の教授を受けています。また絵画に親しんだり、ナポレオン伝を読んで政治家にあこがれたりもしていたようです。


さらに三田英学校(錦城学園高等学校の前身)、共立学校(開成高校の前身)など、当時の進学予備校で学び、明治20(1887)年、16歳のとき、創立したばかりの明治学院普通部本科(明治学院高校=写真=の前身)へ入りました。

明治学院の起源は、1863年にジェームス・カーティス・ヘボンが横浜に開いた「ヘボン塾」にさかのぼります。1880年には築地へ移転、「築地大学校」と改称されてカレッジ・コースが設けられました。

1883年には、横浜の先志学校を併合して「一致英和学校」と改称し、大学と予備科を整える学校となりました。後に予備科は神田淡路町へ移転し「英和予備校」となっています。

他方、1877年には、アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革派教会、スコットランド一致長老教会の3会派が協力して「東京一致神学校」を設立されました。

1886年にはこれら一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」となることが決まり、翌1887年には、設立の認可が下りました。

これによって東京一致神学校は「明治学院邦語神学部」に、一致英和学校、英和予備校は「明治学院普通部本科」と「予科」に名前を変更。キャンパスは、荏原郡白金村(後に芝区白金今里町=現在の港区白金台)に設けられました。

2017年8月25日金曜日

島崎藤村『若菜集』(2)

私が子どものころから親しんできた『現代詩』(学燈社)で、吉田精一は島崎藤村の『若菜集』(1897)を、「近代詩のあけぼのを告げ、詩もまたじゅうぶんに芸術的要求を満たす表現様式であるということを証明した」と位置づけています。さらに、

「藤村は一方では西洋の死、ことに英詩から学び、一方では『古今和歌集』以来の和歌の伝統、芭蕉以降の俳諧、さらには杜甫・李白の漢詩など、東洋の叙情から生命をくみあげ、西洋的なものと、伝統的なものとを、一つにとけ合わせて新しい詩集を組み立てたのである」

「藤村の詩は五七調、もしくは七五を基準とし、それ以外の破格が少ない。詩語も詩情も自然でなだらかである。その詩情は優美で、せつない物のあわれを、胸いっぱいにつつみながら、ひかえめに表現するところに、純情なうたいぶりが強い。なげきとためいきの激しさが、彼の恋愛詩や、漂泊の旅情をうたうにふさわしい」

などとしたうえであげているのが、有名な「椰子(やし)の実」です。吉田は「この詩は、漢詩調の体言止めによって、感傷の激しさをうち出すのに成功している」としています。


  名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ

  故郷(ふるさと)の岸を 離れて
  汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

  旧(もと)の木は 生(お)いや茂れる
  枝はなお 影をやなせる

  われもまた 渚(なぎさ)を枕
  孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

  実をとりて 胸にあつれば
  新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

  海の日の 沈むを見れば
  激(たぎ)り落つ 異郷(いきょう)の涙

  思いやる 八重(やえ)の汐々(しおじお)
  いずれの日にか 国に帰らん

「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」と宣言した島崎藤村の「新体詩」とはいったいどのようなもので、"明治"という近代化の時代にあって、それはどのように生まれたのでしょう。それを知る手がかりにと、しばし藤村というひとの生い立ちを眺めてみることにしましょう。

島崎藤村は1872年3月25日(明治5年2月17日)、筑摩県第八大区五小区馬籠村に、大作『夜明け前』のモデルともされる父・正樹と、母・縫の4男として生まれました。

筑摩(ちくま)県は、藤村が生まれた前年の1871(明治4)年に、飛騨国と信濃国中部、南部を管轄するために設置されています。現在の長野県の中信・南信地方、それに岐阜県飛騨地方と中津川市の一部にあたります。

1874(明治7)年、馬籠村は湯船沢村と合併して神坂村になります。さらに1876(明治9)年には、筑摩県の信濃国分が長野県に、飛騨国分は岐阜県に編入されたため筑摩県は廃止。

これによって藤村が生まれた馬籠は、長野県筑摩郡神坂村に入ることになりました。その後、1958年(昭和33)年の合併で、西筑摩郡山口村に編入。このとき「島崎藤村」騒動ともいわれる大きな騒ぎが起こっています。

神坂村議会は当初「岐阜県中津川市との県境を跨いだ合併」を賛成多数で可決しました。しかし「文豪島崎藤村の生誕地を岐阜県に持っていかれたら大損失」と長野県議会が、これに猛反発します。

村は越県合併派、県内合併派に分裂していがみ合い、とうとう警察の機動隊が常駐する始末になりました。最終的に国の裁定で「越県合併を認めるが、馬籠など北部3集落は長野県に残す」というかたちで幕引き、馬籠は西筑摩郡山口村に編入されました。

1968(昭和43)年には、西筑摩郡は木曽郡と改称されて、長野県木曽郡山口村にある木曽谷の馬籠宿として観光客の人気を集めます。ところが平成の大合併で再び越県合併の話が持ち上がり、山口村は2005年、けっきょく岐阜県中津川市に越県合併されることになりました。

2017年8月24日木曜日

島崎藤村『若菜集』(1)

   潮音

  わきてながるゝ
  やほじほの
  そこにいざよふ
  うみの琴
  しらべもふかし
  もゝかはの
  よろづのなみを
  よびあつめ
  ときみちくれば
  うらゝかに
  とほくきこゆる
  はるのしほのね


これは、島崎藤村(1872-1943)の最初の詩集『若菜集』に入っている一篇です。「ときみちくれば うらゝかに とほくきこゆる はるのしほのね」。そんな春の潮騒のように、明治という"青春"の時代に、日本の近代詩は産声を上げました。

藤村は『若菜集』(1897年8月)を皮切りに、『一葉舟(ひとはぶね)』(1898年6月)、『夏草』(1898年12月)、『落梅集』(1901年8月)の4詩集を立て続けに出版、さらに4冊を合本した『藤村詩集』を1904年9月に出しています。

「若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四卷をまとめて合本の詩集をつくりし時に」という前書きが付いた『藤村詩集』の「自序」は、有名な「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ」という文句で始まります。

日本の近代詩の"誕生宣言"とも受け取ることもできる若々しく意気軒昂な「自序」を、とりあえずここにあげておきましょう。その内容については、折に触れて少しずつ検討していきたいと思います。書かれたのは、明治37(1904)年夏となっています。

〈遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。
 そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新聲と空想とに醉へるがごとくなりき。

 うらわかき想像は長き眠りより覺めて、民俗の言葉を飾れり。
 傳説はふたゝびよみがへりぬ。自然はふたゝび新しき色を帶びぬ。
 明光はまのあたりなる生と死とを照せり、過去の壯大と衰頽とを照せり。

 新しきうたびとの群の多くは、たゞ穆實なる青年なりき。その藝術は幼稚なりき、不完全なりき、されどまた僞りも飾りもなかりき。青春のいのちはかれらの口脣にあふれ、感激の涙はかれらの頬をつたひしなり。こゝろみに思へ、清新横溢なる思潮は幾多の青年をして殆ど寢食を忘れしめたるを。また思へ、近代の悲哀と煩悶とは幾多の青年をして狂せしめたるを。われも拙き身を忘れて、この新しきうたびとの聲に和しぬ。

 詩歌は靜かなるところにて思ひ起したる感動なりとかや。げにわが歌ぞおぞき苦鬪の告白なる。
 なげきと、わづらひとは、わが歌に殘りぬ。思へば、言ふぞよき。ためらはずして言ふぞよき。いさゝかなる活動に勵まされてわれも身と心とを救ひしなり。

 誰か舊き生涯に安んぜむとするものぞ。おのがじゝ新しきを開かんと思へるぞ、若き人々のつとめなる。生命は力なり。力は聲なり。聲は言葉なり。新しき言葉はすなはち新しき生涯なり。

 われもこの新しきに入らんことを願ひて、多くの寂しく暗き月日を過しぬ。
 藝術はわが願ひなり。されどわれは藝術を輕く見たりき。むしろわれは藝術を第二の人生と見たりき。また第二の自然とも見たりき。

 あゝ詩歌はわれにとりて自ら責むるの鞭にてありき。わが若き胸は溢れて、花も香もなき根無草四つの卷とはなれり。われは今、青春の記念として、かゝるおもひでの歌ぐさかきあつめ、友とする人々のまへに捧げむとはするなり。〉

2017年8月23日水曜日

リルケ「初期のアポロ」④

    初期のアポロ

  いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
  すっかり春めいた朝が見とおせるように
  アポロのこうべには何ひとつ
  妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

  ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
  その目を凝らすところには いまだ影はなく
  月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
  そして 時がたてば眉のあたりの

  薔薇の園から幹が高く伸びいでて
  葉は一まい一まい解き放たれ 
  震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

  くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
  ただほほ笑みながら何かをすすっている
  自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように


リルケは『ロダン論』の中で、次のように記しています。

「彼は第一印象を正しいとせず、第二印象もまたその後のどの印象も正しいとしない。彼は観察し、書きとめる。彼は言うに値しない動きでも書きとめる。回転や半回転、40の短縮や80のプロフィールを書きとめる。

……彼は人間の顔を、彼自身参加している舞台のように体験する。彼はその直中にいて、そこに生じるもので彼が無関心であるものは一つもないし、何ものも彼の目を逃れられない。彼は当事者に何も語らせない。

彼は自分が眼にするもの以外何も知ろうなどと思わないのである。しかし彼は一切を見る。……この創作方法は生を構成する数百もの要素の強烈な集約へ導くのである。」

「だが我々が目前に持ち、知り、解釈し、説明するものすべては表面なのではないか。また我々が精神と呼び、心と呼び、愛と呼ぶもの、それは一切近い顔の上のわずかな表面に起こる微かな変化にすぎないのではないか」

また戸口日出夫は「新詩集におけるリルケの詩作」で次のように指摘しています。

「詩人はそこで素材の観察に始まり、その精神化を経て、人間的意味を持った芸術事物へ造型した。

その過程は対象物を契機として主体の感覚自体が、精神自体が練磨され、純化されていく形に他ならない。

かくて事物は精神により隅々まで透過され、深く主体化される。こうなるとリルケが何を作ろうが、それは彼独自のものとなる。

この芸術の内的論理に従った第二の自然の組織化を詩人は“ Ding-Werdung ” (事物の自己実現)と呼ぶのである。」

2017年8月22日火曜日

リルケ「初期のアポロ」③

ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875年12月4日~1926年12月29日)はプラハ生まれ。プラハ大学、ミュンヘン大学などに学び、早くから詩を発表していました。

当初は甘美な旋律をもつ恋愛抒情詩を作っていましたが、ロシアへの旅行での精神的な経験を経て、『形象詩集』、『時祷詩集』で独自の言語表現へと歩みだします。

1902年からオーギュスト・ロダン=写真、wiki=と交流。ロダンの芸術観に深い感銘を受け、その影響から言語を通じて手探りで対象に迫ろうとする「事物詩」を収めた『新詩集』を発表します。


「Früher Apollo(初期のアポロ)」も、そんな「事物詩」として位置づけられます。パリでの生活していたちょうどそのころ、有名な『マルテの手記』を執筆しています。

リルケは1898年、イタリア旅行中に、フィレンツェで画家ハインリヒ・フォーゲラーと知り合います。そして、1900年8月、フォーゲラーが住んでいた北ドイツの村ヴォルプスヴェーデに滞在することになりました。

1901年4月、リルケはこの滞在で知り合った女性彫刻家クララ・ヴェストホフと結婚。隣村のヴェストヴェーデに藁葺きの農家を構えました。同年12月に娘が生まれていますが、父からの援助が断ち切られて生活難に陥ります。

それを打開しようと1902年8月、リルケは『ロダン論』の仕事のためパリに渡ります。そして、翌9月に「地獄の門」、「考える人」などで知られるフランソワ=オーギュスト=ルネ・ロダン(1840~1917)に会います。

妻のクララもパリに渡ってロダンに師事しましたが、貧しさのため夫妻は同居できませんでした。リルケは図書館通いをして『ロダン論』の執筆を進めながら親しくロダンのアトリエに通い、彼の孤独な生活と芸術観に深い影響を受けていきます。

ロダンの対象への肉迫と職人的な手仕事はリルケに浅薄な叙情を捨てさせ、「事物詩」をはじめ対象を言葉によって内側から形作る作風に向かわせることになったのです。

パリの現実と深い孤独。「どんなに恐ろしい現実であっても、僕はその現実のためにどんな夢をも捨てて悔いないだろう」といっています。

リルケは一時ロダンの私設秘書になり、各地で講演旅行をしました。その後、誤解がもとで不和となりましたが、ロダンに対する尊敬は終生変わりませんでした。

2017年8月21日月曜日

リルケ「初期のアポロ」②

きのう訳してみたFrüher Apollo(初期のアポロ)は、1907年に出た『新詩集(Neue Gedichte Erster Teil)』に収められているソネットです。

5脚のヤンブスで、11音節と10音節の詩行が交互に連なっています。脚韻は、abab、cdcd……。伝統的な抱擁韻などとは異なります。

リルケは、1908年には『新詩集 別巻(Der neuen Gedichte anderer Teil)』という姉妹編も出しています。いずれの詩集もロダンの影響を強く受け、対象を手作業を通して造形することを目指しました。

詩行、詩節のまたぎによる自由なリズム。定型から離れようとする危うさ。比喩表現に抒情性は消え、事物的、彫刻家的な目で言葉が発せられています。意味の集積点としての対象とは何か、といったあたりに迫る巧みな比喩を使っていると思います。

リルケは、古代のアポロ像=写真、wiki=の断片を博物館で見て、その素朴で圧倒的な芸術に打たれて作ったのでしょう。


アポロは、ギリシア神話に登場する男神です。オリュンポス十二神の一人で、ゼウスの息子。詩歌や音楽などの芸能、芸術の神として名高いが、羊飼いの守護神で光明の神でもあります。

「イーリアス」ではギリシア兵を次々と倒した、冷酷さ、残忍さも持つ「遠矢の神」とされています。疫病の矢を放ち、男を頓死させた神であるとともに、病を払う治療神でもありました。

古典ギリシアでは理想の青年像とも考えられ、ヘーリオス(太陽)と同一視されることもあります。ニーチェは、理性をつかさどる神とし、ディオニューソスと対照的な存在と考えていました。

ある日、アポロはエロス(キューピット)が弓矢で遊んでいるのを見て、子供がそんなものをおもちゃにしてはいけない、とからかいました。エロスは、それに怒って、金の矢をアポロに放ちます。そして、鉛の矢を川の神の娘ダフネに射たのです。

金の矢は恋に陥る矢で、鉛の矢は恋を拒む矢。2本の矢が、2人の胸にささった瞬間から、アポロンはダフネを恋し、ダフネはアポロンを拒否するようになりました。アポロはダフネを追いかけ、ダフネはどこまでも逃げます。

ダフネは父親の川の神のところへ駆け込み、言いました。「助けてください。私の姿を変えてください」。すると彼女の姿が変化して、足元から月桂樹の木になっていました。アポロは、ダフネへの愛の記念に、ダフネの月桂樹の葉で冠を作り、生涯それを頭にかぶりました。

いわゆる「アポロとダフネの物語」です。

2017年8月20日日曜日

リルケ「初期のアポロ」①

きょうから、しばし、私の好きな、ライナー・マリア・リルケ(Rainer Maria Rilke、1875-1926)=写真、wiki=のソネット「初期のアポロ(Früher Apollo)」を読むことにしましょう。まずは、私の粗訳です。


  Früher Apollo

Wenn manches Mal durch das noch unbelaubte
Gezweig ein Morgen durchsieht, der schon ganz
im Frühling ist: so ist in seinem Haupte
nichts was verhindern könnte, daß der Glanz

aller Gedichte uns fast tödlich träfe,
denn noch kein Schatten ist in seinem Schaun,
zu kühl für Lorbeer ist noch seine Schläfe
und erst später wird aus Augenbraun

hoch stämmig sich der Rosengarten heben,
aus welchem Blätter, einzeln, ausgelöst
hintreiben werden auf des Mundes Beben,

der jetzt noch still ist, nie gebraucht und blinkend
und nur mit seinem Lächeln etwas trinkend
als würde ihm sein Singen eingeflößt.

初期のアポロ

いまだ葉のつかない枝の間からも 幾たびとなく
すっかり春めいた朝が見とおせるように
アポロのこうべには何ひとつ
妨げられるものはなく あらゆる詩の光彩が

ほとんど致命的なまでに私たちを撃ちつける
その目を凝らすところには いまだ影はなく
月桂樹を戴くにはそのこめかみは涼しすぎる
そして 時がたてば眉のあたりの

薔薇の園から幹が高く伸びいでて
葉は一まい一まい解き放たれ
震えるくちびるのうえ 舞いただようのだ

くちびるはなおシンとして 一度も用いられることなく煌めいて
ただほほ笑みながら何かをすすっている
自らの歌がそのからだに吸いこまれてゆくように

2017年8月19日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑭

長谷川龍生は、私が頭に描いている「現代詩」というものを体現している天性の詩人の一人です。伝統的な短歌、俳句の抒情をまっ向から批判した「歌とは逆に歌に」の詩人、小野十三郎に学び、これまでにない新たな詩空間を築くことによって、小野の志を受け継ぎ開花させました。

小野十三郎の理論は明快で、大きな刺激を受けました。しかし小野の詩を読んでいても、その理論の意味するところがどう表現に結びついているのか、20代の私には読み取るのが困難でした。一方で、長谷川の詩を読んではじめて小野の主張するところの表現を見た気がしました。

伝統的な抒情とは異質の、物質的で張りつめた言葉の力学ともいえる詩空間が構築できることを知ったのです。

喩えは相当に飛躍するが、それは非ユークリッド幾何学の一つとして確固たる理論の骨組みを備えていたリーマン空間が、アインシュタインの相対性理論に使われることによって、肉を得、血流がゆきわたって行ったのと似ているように思えました。

「長谷川龍生のユニークさは、世界をその自然的な影や彩りや美の形においてではなく、そして勿論文学プロパーのことばとしてであるが、世界を〈論理的に〉とらえることのできる詩の構造を、初めてといっていい程の新しさでつくり上げたところにある。いわば世界観の新しさが、同時に詩の方法論上の新しさとして成立しているところが、前記の詩人達(中野重治や谷川雁=筆者注)との構造上の違いである。自然発生的な美に対する人間主体的な美を、自然構造的な論理の代りに人工的な論理を、世界をその衣装においてでなく、その本質を貫く運動としてとらえること、これらの発想を、全く新鮮な方法上の後ずけをもって行ったところに、長谷川龍生の詩の革命的といってよい意味がある」

と、岡庭昇は指摘している。

  しだいに潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。
  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

伝統的な抒情詩とは異質の、こうした長谷川ならではの詩作の具体的な方法の一つが、「理髪店にて」の中にも、そのエッセンスが凝縮されている「シュールドキュメンタリズム」でしょう。将来、長谷川の別の詩を読むときに、シュールドキュメンタリズムについてはあらためて考えてみたいと思います。


20代のとき、「理髪店にて」が入っている『パウロウの鶴』を読んで、大きな衝撃を受けました。しかし同時に、何事にもネガティブな性癖の持ち主の私にとって、なんとなく憧れがあった文学から遠ざかる契機となった苦い一冊ともなりました。

長谷川のような想像力をもち、言語空間を築くのは、私の能力では到底なしうることができないと観念したのです。そして、創作の道を断念し、一会社員として生きていこうと考えるようになりました。

長谷川は『パウロウの鶴』の後も、「理髪店にて」に垣間見られるような、伝統的な抒情とは異質で独自な幻想、妄想的な要素を含んだ、新たな言語空間を築く努力を続けていきます。

政治や社会、歴史、人々の心情や思いの根底にある「物理」までも徹底的に探ろうとする姿勢は、他の詩人の追随を許さない独創的なものとなりました。

アインシュタインの出現には、ニュートンから200年の歳月が必要でした。同じように、長谷川の後を追い、その先をも視野に入れるのは常人にたやすくできることではないでしょう。

しかし、長谷川龍生を「もはやどの詩人も手の届かない最高峰」などと持ち上げて、過去へと追いやってしまうような気持ちには私はなれません。

  変わりはてた異邦の港湾で
  元型の女 永遠の女を待っている
  自由な愛の取引は終わった と
  ドックの監視員が叫んでいる

  かつての愛の斥候であった一兵士の死骸
  冒されたざん濠 くびられた人家
  津波がさらっていった暮しの舟
  砲弾が崩していった詩稿の束

  全世界を相手にしている男の親和力
  その一すじの火縄だけをたよりにする
  戦友が倒れている 倒れた詩人の背後に
  集落があり 統制地が見え 国家がひそむ

2002年に出た詩集『立眠』=写真=の中の「遭遇こそ」という詩です。その実績や名声がどうであれ、より深く、より鋭い世界観へとつながる言語空間を探れば探るほど、その詩人の道のりは、より困難を増し、より孤独に、迷いだらけに、そして挫折の繰り返しとなります。

長谷川龍生は80歳を過ぎても迷い、失敗し、そしていまも求めつづけているのです。

2017年8月18日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑬

二つの連から成る「理髪店にて」は、これまで見てきたように、1連目と2連目のまったく異なった鮮明な映像が対比的に現れ、それらが切れ味のいい強烈な活断層となって響いてきます。

1連目は致命傷を負って海に沈んだ軍艦であり、2連目は客である潜水夫の荒んだ黒い肌を滑る西洋刃物です。

しかし理髪店にて、理容師と客とのやりとりに出あった第三者、すなわち散髪の順番待ちをしているのか、偶然この場に居合わせたと想定されるこの詩の作者の立場からすれば、時間はつながっているのです。

その見ているものの時間の連続と、場面の断絶が、比類のないドキュメントを生み出しているわけです。

赤と青のサインポールの扉を開けて順番待ちの長いすに座ってしばらくすると、鏡の前に座った後ろ姿の客の声が耳に入ってきました。がっしりした肉体労働者らしき男だ。なんやら、遠い異国の海のなかに沈んだ軍艦の話らしい。


  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

耳に入ってくる話にぐんぐん興味をそそがれてゆきます。それが、待っている作者の想像を掻き立て、頭のなかにクリアな映像を作っていきます。

ふっと我に返って、潜水夫らし客のほうに目をやります。すると、見えてくるのは「正面に篏った鏡の中」の客の姿です。

遠い海のなかに潜って、藻に包まれた軍艦の残骸を見渡して値踏みをしていた潜水労働者。それが、いま首から下をケープで閉ざされ、鏡のワクのなかに嵌っています。

目に入って来たのは鏡のなかに映し出された、唯一の資本である肉体をよりどころに働く労働者だったのです。それは港湾労働者などとして、各地を転々として働いていた詩人自身の姿でもあったのではなかったのでしょうか。

海に潜って、軍国主義の遺物を眺めて値踏みしている。そんな一見、たくましく、したたかで、若々しい強さを持った労働者であっても、ひとたび雇い主に首を切られればたちまち生きるすべを失ってしまいます。

国家という得体の知れない化け物は、ひとたび暴走を始めると「なめらかだが光なみうつ西洋刃物」のような切っ先をありふれた労働者や庶民に向けてきます。

それを戦中、戦後、肌身で感じていた天性の詩人は、鏡の中の姿から、剃首を後に折った生身の客のほうへと次第に視線を移ってゆきます。

すると、理髪師の骨のあるきゃしゃな手に握られた西洋剃刀が、いままさに客のまぶたへと迫っているのです。ひとつ間違えれば、ふたたび目を閉ざされる闇の中へと連れいかれるかもしれぬ危うさを秘めて。

長谷川とほぼ同時代の詩人、川崎洋は「理髪店にて」についてつぎのように指摘しています。

「昭和二十六年、連合国軍最高司令官がマッカーサーからリッジウェイに代わったころから、〈逆コース〉といわれた一連の動きが始まりました。第九条戦争放棄条項を含む憲法の見直しと再軍備。公職追放の解除。破壊活動防止法。電気・石炭業のスト規制法。その他、戦後民主主義から、もとに逆もどりし始めたような世の中となりました。沈められた重巡洋艦がやがて引き上げられる。そのことは、水面下のミリタリズムが、もう一度姿を現そうとしている、復活しようとしている、復活しようとしているという事を、詩の中で暗にほのめかしている。そんなふうに感じ取ることができ、そのことに、西洋刃物がいままさに瞼の下に斜めにかかったような不安感がある――とこの詩は告げています」

それは、なにも戦争直後だけの話ではありません。一見、平穏におもえても、生身に刃物があてられているゾッとするような危うさをいつも身に感じて生きるしかない時代と社会に、現にいま私たちは置かれているのです。

2017年8月17日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑫

  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。
  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし
  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

青みどろは、ホシミドロ科に属する淡水性の藻類の総称です。繁殖力が強く、池や水田を緑色に覆っているのが、どこでも見られます。

細胞が一列に並んで糸状になり、枝分かれせずに根本から先っぽまで太さがそろっているのが特徴。触るとぬるぬると滑る、つまりヌメリがあります。

池ができればすぐにアオミドロ=写真、wiki=が発生し、池の中の見通しが悪くなります。多量に発生すれば、底の方の藻体から死んで汚泥状となります。まさに「青味泥」です。


ぬるぬるした「青味泥」が、アジアの片隅の小さな島国の、ボロボロになって沈んだ軍艦を覆っている。小さな島国ではあっても世界の列強に交じって覇権を争い、領土や資源を求めてアジアへの侵略を繰り返した軍国主義国でした。

帝国主義と呼ばれる時代だったのです。レーニン的にいうなら、資本主義の独占段階。帝国主義に従って列強が、領土(植民地)を拡張していけば、いずれは覇権を争ってぶつかり合い世界大戦となります。それは当然の帰結でした。

そんな成れの果て、壊滅した帝国主義国家の手先ともいえる軍艦の残骸を「青みどろに揺れる藻」が覆っているのです。

レーニンのいうとおりなら、世界大戦の結果として、資本主義体制は破局へと向かっていたはずでした。ところが、時代はどうもそんなふうには進んでいかなかったのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

ぬるぬるとした「青味泥」が覆う、帝国主義的軍事国家の遺物である軍艦。そんな海の化石となりつつある残骸を、取り立てた感慨を持つわけでもなく、潜水夫である一労働者らしきが「ざっと二千万と見積って」見つめています。

そのころの二千万とは、いまなら十億くらいに値するかもしれません。一人の労働者が、ことによると「資本主義体制の破局」の象徴になったかもしれない、沈没した軍艦の値踏みをしているのです。

戦後、資本主義体制は無くなるどころか、更なる新たな展開を遂げてきました。資本主義はその本性を際立たせ、ますますわたしたちの生活に根を張っています。労働者の敵であるはずの資本家の姿は、すっかり見えずらくなってきました。

個人が大量の株を保有して会社を支配するというより、企業間で株式持ち合い、直接関係のない法人が会社を支配するようになった。資本家がモノと化するにつれて、団結して戦う労働者も減っていっきました。

私は30年ほど前、大学で経済学を勉強していました。通っていた大学の経済学部はまだ、マルクスの資本論を基礎に置く「マル経」と、消費者の行動や市場の構造を数学的に分析する「近経」の二つにはっきり分かれていました。「経済理論」と題された講義も「マル経」と「近経」で別々に2種類用意されていたのです。

長谷川龍生は若いときに新日本文学会に入り、「列島」などに参加して、どちらかというと社会性の強い詩を書いてきました。ですからなんとなく共産党的、マルクス主義的な詩人という烙印を押されることもあるようです。

しかし私には、「マル経」よりもはるかに「近経」的な思考をする詩人に思えます。「近経」のミクロ理論は基本的に、お金やモノ、サービスを得たいと欲する個々の人間が、市場の中で、価格の変動などに伴っておこなう合理的な行動をもとに成り立っています。

長谷川の詩には、労働がどうの、資本がどうの、賃金がどうのというよりも、なんやかんや理屈や主義主張を振りかざしたところで所詮は、カネやモノへの欲求や執着、打算で動いてゆく“人間というもの”のきわめて合理的な行動に興味を持ち、それに冷徹ともいえる眼差しを向けているものが多いように思うのです。

もっとも、彼が唯物論的、科学的なものの見方をする詩人という意味では実にマルクス主義的であるといえるかもしれません。長谷川龍生は国家や理念などといったものは信じません。確かなのは、巷にうごめくカネでありモノであり、それから人間に秘められている怨念なのです。

2017年8月16日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑪

以前にも少し見ましたが、長谷川龍生は、この詩を作ったころの20代、日傭い労働者、港湾労働者、日傭いセールスマン、業界新聞の記者など、さまざまな職に就いていました。それは、生活のためであるとともに、「ほんとうの人間の詩を、生活する場から発見したい」からだったのでしょう。

もっとも詩人の言にしたがえば、閉ざされた「私」の壁を何んの制約もなくすり抜けていくことができる長谷川龍生の「亡霊」が、「社会への唯一の交流媒体」として、労働に勤しんでいたというほうが正確なのかもしれません。

港湾労働者などとして肉体労働に汗を流していたこうした若き日々に、龍生は、「理髪店にて」に出てくる潜水夫のような人と出会ったのでしょうか。それとも当時は、巡洋艦「鳥海」のような軍艦のサルベージが盛んに話題にのぼっていたのでしょうか。

言うまでもないことですが、この世の何が「現実」で何が「幻影」であるのか、何が「実在」で何が「亡霊」なのか、はたまた何が「真実」で何が「虚偽」かなんて、そうたやすくはかり知ることができるものではありません。

ましてや「あくまでも、自己の言葉でもって、自己の意味でもって、自己だけにのみ可能である世界を構築しなければならない。そのためには、つねづね、洗練された感覚に、客体化の光を放射しなければならないのである」(長谷川龍生「自分の天職とは逆の方向に美をもとめて」)とうい詩人ともなれば、なおさらのことでしょう。


しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

それにしても、この潜水夫からは、無惨に破壊されて沈んでいる祖国の軍艦に対する感傷、無念さ、痛恨な思い、祖国愛といった、戦前、戦中の愛国教育を受け、国のために戦った多くの人々が持ちあわせているであろう感情は微塵も感じられません。

ただ、「なんぼくらいになるやろ」という商売人的、あるいは日傭い労働者的、プロレタリアート的な、合理でしたたかに残骸を見つめる視線があるだけです。この詩を読んだとき、私にはそれが実に爽快で気持ちよく、いつしかこの潜水夫は長谷川龍生という詩人そのものではないかと思うようになりました。

「根っから、この日本の国を信用していない」という長谷川龍生に、祖国愛は薄いといいます。「悪い国家というものの実体が判っているだけで、理想の国家像、ほんとうに大衆の住みよい、くらしよい国家像が判らないために、愛情のありかが判らない」(同上)からだそうです。

青年の日々を送る詩人の現実は、「私のまわりで、激しい変化を見せながら流動していたのであるが、私は、あまり、その波浪にはまかれなかった。唯、その波浪の恐怖を〈見る〉という行為にとどめただけで、私は、つねに、空白の意識に、閉じ込められていたのである」。

詩人は、潜水夫になって、その閉じ込められている空白の意識の海の中へと潜り込んでいます。すると、「〈見る〉という行為と、〈見ている自分が見られている〉という自意識とが、奇妙に重なって」現実が幻影化し、そこにイメージが乱出してくるのでしょう。

そうしたイメージの中から、現実とのかかわりあいのうえで、のっぴきならない〈私の存在〉を中核に材料を選択していった。そんな作業の中で、詩人の視界に現れてきた「ドキュメントという証拠物件」が、この場合には巡洋艦「鳥海」だったのではないでしょうか。

それは、「幻影といえども、現実との深い擦過点を求めた」(同上)ものだったのです。

2017年8月15日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑩ 

    剛よい羽毛をうち
    飛翔力をはらい
    いっせいに空間の霧を
    たちきり、はねかえし
    櫂のつばさをそろえて
    数千羽という渉禽の振動が
    耳の奥にひびいてくる。
     たんちょう類か、姉羽鶴こうのとりか
    どちらとも見わけのつかない
    奇妙なパウロウの羽ばたきが
    夜の、静かな大脳の空に、
     ひらめくとびの魚の
    胸鰭の水さばきのように
    皮膚の上から、連続的に
    ひびき、わたってくる。

「理髪店にて」が入っている第1詩集のタイトルでもある、有名な詩「パウロウの鶴」の冒頭です。

“パウロウ”は、犬のほおに管を通して唾液の分泌量を測定 する条件反射の実験で、大脳の生理機能を明らかにしたことで知られるロシアのイワン・ペトローヴィチ・パブロフ=写真、wiki=に由来するとも言われています。


長谷川龍生は、自閉症だった(である)そうです。自閉症は、内気な性格や引きこもり、さらにはうつ病などと混同されがちですが、それらとは根本的に異なり、生まれつき脳の機能に障害を持つ、発達障害のひとつと考えられています。

症状には①人とのかかわりに質的な障害がある②コミュニケーションが取れない③活動や興味の範囲に著しい偏りがある、などがあげられます。

医師の診断を受けてのことか、それとも一種の「詩語」として使っているのか、長谷川がどういう意味合いで自らを「自閉症」と言っているのかを断定することはできません。

しかし、自閉症の要因を自身の血脈や、生まれあわせた広い意味での環境の中に求めていたことは間違いないでしょう。

長谷川家には墓所はあるが、家はない。明治初頭の西南の役で戦病死して血筋が途絶えた長谷川家を、縁もゆかりもないカップルが引き継いだ。それが龍生の母イクであり、父カナメだったといいます。

「私は、小さい時から、この長谷川家をぶきみな呪いのかかっている家筋として、うすうすは知っていた。誰が、どのような方法で、この長谷川家に呪いをかけたのか、それは、余り言いたくはないが、とにかく、一族中に呪いをかけた奴が存在したのである。私は、単純に、その呪いから少しでもレーダー距離を置きたかった。単に意識の距離である。距離を置きながら、一族中の最大の焦点であり、呪われた最大の癌である私の父親〈長谷川カナメ〉のくたばるのをひたすらに待った」(長谷川龍生「自閉症異聞」1968年)

どういういきさつかは知りませんが、母のイクは戦前の、龍生がまだ8歳のときに「明らかに栄養失調」で死んでいます。また父カナメは、その30年後に「徳島県の片田舎」の病院で、行路病者として誰にも見とられずにこと切れました。

このとき龍生はすでに、福井県・三国町の、縁もゆかりもない名谷家へ養子に入っています。筆名として残しているだけで、「長谷川」からは縁が切れていたことになります。

龍生は7人兄弟の五男でした。長男は一高、東大卒の数学の秀才でしたが昭和初期に変死、三男は25歳の若さで流浪の果てに栄養失調死、四男は大阪信貴山の山麓で拾われたが20歳で病死、というように、長谷川一族はほとんどが行路病死、変死の家系だといいます。

「私は、小さい時から、そのような環境の中で、自らと世の中との通路を閉ぢた。明らかに自閉症として、詩人の道をえらんだ。しかし、自閉症としては生きていくことはできない。私はそこで亡霊を創造した。現在、街をあるいたり、会社に勤めたり、他人と会話したりしているのは、私の亡霊である。亡霊だけが、自閉症の壁を、何んの制約もなくすり抜けていくことができ、社会への唯一の交流媒体として働いている」(同)

2017年8月14日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑨

《喉から頬、顎、額などを剃った後、喉の柔らかい部分がどうしてもうまくいかぬ。こだわり尽くした彼はその部分を皮ごと削ぎ取りたいような気がした。肌理の荒い一つ一つの毛穴に油が溜まっているような顔を見ていると彼は真からそんな気がしたのである。若者はいつか寝入ってしまった。がっくりと後へ首をもたせてたわいもなく口を開けている。不揃いな、汚れた歯が見える。

疲れ切った芳三郎は居ても立ってもいられなかった。全ての関節に毒でも注されたような心持がしている。何もかも投げ出してそのままそこへ転げたいような気分になった。もうよそう!こう彼は何遍思ったか知れない。しかし惰性的に依然こだわっていた。

……刃がチョッと引っかかる。若者の喉がピクツとうごいた。彼の頭の先から足の爪先まで何か早いものに通り抜けられたように感じた。で、その早いものは彼からすべての倦怠と疲労とを取っていってしまった。

傷は五厘ほどもない。彼はただそれを見詰めて立っていた。薄く削がれた跡は最初乳白色をしていたが、ジッと淡い紅がにじむと、見る見る血が盛り上がって来た。彼は見詰めていた。血が黒ずんで球形に盛り上がって来た。それが頂点に達した時に球は崩れてスイと一筋に流れた。この時彼には一種の荒々しい感情が起こった。

かって客の顔を傷つけた事のなかった芳三郎には、この感情が非常な強さで迫って来た。呼吸はだんだん忙しくなる。彼の全身全心は全く傷に吸い込まれたように見えた。今はどうにもそれに打克つ事が出来なくなった。

……彼は剃刀を逆手に持ちかえるといきなりぐいと喉をやった。刃がすっかり隠れるほどに。若者は身悶えもしなかった。

ちょっと間を置いて血がほどばしる。若者の顔は見る見る土色に変わった。

芳三郎はほとんど失神して倒れるように傍らの椅子に腰を落とした。すべての緊張は一時に緩み、同時に極度の疲労が還ってきた。眼をねむってぐったりしている彼は死人の様に見えた。夜も死人の様に静まりかえった。全ての運動は停止した。すべての物は深い眠りに陥った。ただ独り鏡だけが三方から冷ややかにこの光景を眺めていた》


志賀直哉が、青年時代の1910(明治43)年に書いた短編小説『剃刀』の最後の部分です。現在の東京・六本木の理容店「辰床」の主人、芳三郎は珍しく風邪をひいて、忙しい盛りではあったが寝込んでいました。

芳三郎はもともと、この床屋の小僧ですが、前の主人がその剃刀の腕前に惚れ込んで1人娘の婿に迎えました。

芳三郎は剃刀の扱いは名人クラスだが癇の強い男で、客の肌を撫でて少しでもざらつけば毛を1本1本押し出すようにして剃らねば気が済みませんでした。客は芳三郎にあたってもらうと1日延びがちがうと言い、彼は10年間、客の顔にキズをつけたことがないことを自慢にしていました。

2人の使用人は頼りにならなかった。芳三郎は熱で苦しい身を横たえながら床の中で1人いらいらしていました。剃刀を研ごうとしても、熱で手が震えて思うようにいきません。

そんなところに、景気良く硝子戸を開けてせいの低い二十二三の若者が入ってきました。イキがった口のききようだが田舎者。節くれ立った指や凸凹の多い黒い顔から、昼間は荒い労働についていると察せられます。

剃り始めたものの思うように切れない。手も震える。水洟が垂れてくる。切れない剃刀で剃られながらも平気な顔をしている若者は無神経さが癪に触る。それでも、少しでもざらつけば、どうしてもそこにこだわらずにはいられない。こだわればこだわるほど癇癪が起こってくる。そして、冒頭にあげた場面になるわけです。

子どものころの私は、床屋へ行くのが怖かった。あの、剃刀があるからです。床屋に入ると、その日の機嫌を探るように理容師のおじさんの顔を覗き込むのが常でした。

さすが小説の神様、志賀直哉の描写も見事です。が、あのゾッとする瞬間を、

  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

と、5行で表現しきる詩人もまたすごい。無駄な表現が削ぎ落とされた、なんという驚くべきリアリティでしょう。

「理髪店にて」をはじめて読んだときの20歳くらい私は、この詩人は剃刀のように鋭く、冷たく、そして怖い人に違いないと思い込んでいました。

2017年8月13日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑧

最近では、男性が美容院でパーマネントウエーブをかけるのは当たり前ですし、シェービングや美顔のために女性が理容店を利用するケースも多くなっています。

しかし「理髪店にて」のころは、理容店のあの、赤青白の3色が螺旋状に回るサインポールが置かれた入口から入るのは、男に限られていたはずです。

理容(理髪)は先史時代からありました。青銅器時代の紀元前3500年ころの剃刀も見つかっているそうです。『旧約聖書』にも理容のことが書かれていますし、釈迦の10大弟子の1人ウパーリは、出家前には釈迦族の理髪師でした。


近世のヨーロッパでは、理髪師は外科医と同種の職業として扱われていた国も多かったようですが、日本では江戸時代の「髪結い」の流れをくみ、明治時代にかけては「理髪業従事者」と総称されました。伝統的な髪型が対象の理容について、「髪結い」の呼称はいまも残っています。

また江戸時代、鬢(びん)や月代(さかやき)を剃り、髪を結うことを仕事にした髪結床は床屋とも呼ばれていました。床屋という呼び方は、理髪業従事者とその店の俗称としていまも通用しています。近代的な理髪店は、文明開化の折に横浜に開業したものが第1号といわれます。

  春は早ようから  川辺の葦に
  蟹が店出し  床屋で ござる
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

  小蟹ぶつぶつ  石鹸(シャボン)を とかし
  おやじ自慢で  鋏(はさみ)を 鳴らす
  チョッキン チョッキン  チョッキンナ

1923年に発表された北原白秋作詞、山田耕筰作曲の童謡「あわて床屋」では、新たな時代の理髪店で使われるようになった、文明開化を象徴する道具の一つといってもいいハサミをモチーフに、白秋らしい発想と巧みなオノマトペで歌っています。

  新宿のある理髪店で
  正面に篏った鏡の中の客が
  そんな話をして剃首を後に折った。
  なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
  彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
  滑っている理髪師の骨のある手は
  いままさに彼の瞼の下に
  斜めにかかった。

ハサミの普及で理髪店の主役だった剃刀は、少しずつ補助的な道具に変わっていきました。しかし「理髪店にて」の時代、もしくはこの理髪店においては、まだまだ剃刀が頑と主役を張っているように思えます。それも、「なめらかだが光なみうつ西洋刃物が」。

戦後のドサクサから経済復興へと経済が激しく動き出したころ、時代の変化に動ずることなく安定した収入が得られる理容師は人気の職種で、競争も激しかったようです。きっと、いまのカリスマ美容師と似たようなところもあったのでしょう。

そんな時代の、激動する大都会の象徴、新宿の理髪店を訪れた常連らしき潜水夫の「荒んだ黒い顔」を剃刀が滑っていく。80~90キロもあるヘルメット潜水の重い潜水服を着て、海中を這いずり回る百戦錬磨のたくましい肉体労働者。といえども、理髪師のきゃしゃな骨張った手がもしも、グサリといけば、一巻の終わりなのです。

2017年8月12日土曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑦

流氷の海の下を潜ってみたい、と思い立って学生のころ、ライセンスを取るためスキューバ・ダイビングの講習に通ったことがあります。北海道の海でも大丈夫なように、厚さ1センチ余りの厚めのウエットスーツを買い、積丹半島の海に通いました。

ところが、山育ちでろくに泳げもしない私には、海に潜るという作業は想像以上にハードルが高かった。エアタンクを背負い、浮力に負けないための重りをつけるとけっこう動きずらい。潜るにつれてのしかかる水圧に対処するための「耳抜き」がうまくいかず、耳がつぶされるように痛みました。

なによりも、海中にいるという閉塞感が先に立って、レギュレーター(自動調整器)から適度に送られてきている呼吸ガスがどうにも息苦しくてパニックのような状態になります。結局、向いていないなと観念し、講習の途中でやめてしまいました。

そんなのは海に向かない素人の話。スキューバなど潜水技術が進歩した現代では、訓練を積んだプロなら、思いのままに海中を動き回り、沈没船の引き上げ、救助などの困難な作業にもあたれるようになっています。

しかし「理髪店にて」のお客である戦後間もない時期の潜水夫が、映画「海猿」の海難救助にあたる海上保安官のようなイメージで、スルスルと海に潜り、サルベージの作業にあたっていたとは考えにくいようです。

スキューバは1943年にフランスで考案されたもので、海中での作業やスポーツのため世界に普及し始めたのは1950年代になってからのこと。それまでは、いわゆる「ヘルメット潜水」でした。


ヘルメット潜水=写真、wiki=は、ゴム引き帆布などの防水素材で作られた潜水服と、ガラス窓のついた主に真鍮製のヘルメットを使って、水上からホースでヘルメットに空気を供給する送気式の潜水方法です。

1900年前後に基本的なシステムが確立され、以来、水中土木作業や軍事、漁業用にも広く利用され、スキューバが普及し始めるまで実用的な潜水法としてはほとんど唯一のものでした。

潜水服はゴム引きの帆布などの防水素材で作られ、首のところが大きく開く。ここからダイバーが服の中に入り、台座を取り付けヘルメットを固定します。

ヘルメットには、空気供給ホースの接続口や排気バルブ、水上と交信するための電話装置などが取り付けられ台座に固定されているため、首はほとんど動かせません。そのため、外を見るためのガラス窓が取り付けられているのです。

潜水服やヘルメットの内容積が多く、大きな浮力がかかるので胸や背中などに重い鉛の重りをつけたうえ、直立姿勢を保てるように靴にも鉛が内蔵されています。そのため装備の総重量は80~90キロに達しました。

水上の空気供給設備さえ稼動していれば何時間でも海中にいられるわけですが、空気供給ホースが水中の障害物に引っ掛かる危険性が常につきまとい、ダイバーの水中行動は極度に制約されていました。

スキューバのように空気の給排気がダイバーの呼吸に応じて自動的に調整されるわけではないので、ダイバー自身が空気供給ホースの調整バルブとヘルメットの排気バルブの双方を操作して調整しなければなりません。操作を誤ると、窒息死や潜水服が水圧で押しつぶされて傷害を負ったりすることもありました。

身につける装備が重いため、水上では一人で移動することは困難です。水中でもフィン(足ひれ)を使って泳ぐことはなく、ほとんど水底をはうように歩いて移動する必要がありました。

わたしたちがいま抱く潜水のイメージよりも、むしろ、様々な装置がつながれた大きな膨らみを持った宇宙服を着て、ぎこちない感じの足取りで月面を歩いたアポロ宇宙飛行士の姿に近いものだったのかもしれません。

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

「理髪店にて」をはじめて読んだとき私は、冒頭「しだいに 潜ってたら」の「潜ってたら」がなんとなく気になっていました。「潜ってたら」ではなく、「潜っていったら」と表現したほうが潜水の動きが出てくるのに、どうして「潜ってたら」なのだろうかと。

だが、当時の潜水事情を考えてみると、納得します。水中を人魚のようにゆらゆらと潜って行くなどという動作はできなかったのですから。

野武士のような体つきをした頑健な労働者が、決死の覚悟で水底を這うように歩いて移動する。まさに「潜ってたら」だったのです。

2017年8月11日金曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑥

「理髪店にて」が入っている龍生の第1詩集『パウロウの鶴』が出版されたのは1957年。敗戦の年から12年が経っていました。

この間に、大戦で海に沈んだ軍艦を引き上げ回収する計画や試みがどれくらいあったのか。沈んだ軍艦を利用する事業や商売があったのか。あったとすれば、どのようなものだったのか。私には把握できていません。

いま私にできるのは、良く知られた戦艦「陸奥(むつ)」=写真、wiki=の引き上げから推し量ることくらいです。


「陸奥」は1921(大正10)年10月に完成し、戦前の学校の教科書に描かれるなど日本海軍の象徴として国民に愛されました。

大戦中は、戦地に赴かず温存されていましたが、1943年(昭和18)年6月8日、広島湾沖柱島泊地で原因不明の爆発事故を起こし、沈没してしまいます。

乗員1474人のうち助かったのは353人だけ。死者のほとんどは溺死でなく爆死でした。

爆沈直後から海軍は再戦力化に向けて「陸奥」引き上げを検討していました。しかし調査の結果、船体の破損が著しく再生は不可能と判断されて諦めました。

占領下の監視のため終戦直後には浮揚作業はできず、1948(昭和23)年になってから、西日本海事工業株式会社が艦の搭載物資のサルベージを開始する。

しかしこのとき、許可範囲を超えた引き揚げが行われる「はぎとり事件」が起こって作業が中断されてしまいます。「はぎとり事件」とはどいういうものだったのか。それを知る手がかりとして、少し長くなりますが、1952(昭和27)年6月30日の衆議院本会議における当時の内藤隆・行政監察特別委員長の発言を引用しておくことにします。
     
 《国有財産管理処分に関する事件の第三に、山口県岩国市の沖になぞの爆沈を遂げた軍艦陸奥のはぎとり事件と称せられるものであります。

これは、西日本海事工業株式会社が、山口県知事の許可を得て、搭載物資たる燃料、食料品、繊維品、非鉄金属類の引揚げを企てたことに端を発するものでありますが、当時陸奥は、連合軍からわが国に返還されていなかつたので、極東海軍司令部から抗議が来たために、一時この計画は中止されたのであります。

その後、建設省が主体となり、あらためて搭載物件の引揚げ及び処分をその責任において実施することの許可を得たので、建設省にその実施監督を山口県知事に委任し、引揚げた物件は一般の返還軍需物資、すなわち特殊物件の処分方法により、政府の指示に従つて売却するということになつたのであります。

ここにおいて、山口県知事は、あらためて前述西日本海事工業と契約を結び、引揚げ作業が再開されたのでありますが、この作業継続中、朝鮮事変が勃発して、金属類の価格が暴騰し、また陸奥の艦体有体が連合軍からわが国に返還されるに至つたのであります。

今までは引揚げ許可を受けた物件だけが特殊物件として返還されたのでありますが、今度は艦体そのものも返還されたのでありますから、建設省の所管においての引揚げ物件の範囲、すなわち搭載物件は何ぞやということが問題となつて来たのであります。

大蔵省、建設省、山口県当局の見解は、艦と一体をなす機械類、裝備品は搭載物件ではないとしているのでありますが、会社側はこれをきわめて広義に解し、艦体をどんどん破壞して、重要機械類、裝備品を引揚げ、またこれを無断で処分してしまつたのであります。

しかるにかかわらず、山口県の監督の任に当つている係員は、県が搭載物件でないとしている物件の引揚げを黙認記し、また無條件に契約量を超過する引揚げを認め、火薬に対しても申請通りの数量の使用を許可しているのであります。

これは、県と会社とが共謀して、特殊物件の名のもとに国有財産を窃取横領したのではないかとの疑いも起りますので、本委員会はこの点を追究しましたところ、結局搭載物件に関する見解の相違と、県がこの仕事を一係長にまかせ切りであり、この係長がまつたく傀儡的存在となつて会社側に翻弄されていたことが判明したのであります。

なおこれに加うるに、建設省が三回目の期間延長に際し、何ら実情を調査しなかつたことが、不正行為にさらに拍車をかけた結果となつたことも否定しがたく、中国財務局もまたその所管となりた後、單に一片の書類による警告を発しただけで、全然現地調査をしていないというように、行政官公署の事務懈怠が禍因をなしていることも否定できないのであります。

山口地方検察庁は、本年四月十五日、西日本海事工業社長武岡賢に対し、業務上の横領罪で起訴しておりますが、大蔵省、建設省、山口県当局は、損害の共同調査を遂げ、西日本海事工業に対し求償すべき責任があるというのが、本委員会の結論の一つであります。

なお、本件調査中、陸奥艦内には約一千柱と推定される多数の英霊と殉職者の尊き遺体が眠つていることが判明いたしましたので、関係官庁を証人として喚問し、英霊に対する事後の行政措置につき、その善処方を要求したのであります。遺家族多数より、委員会に対し、激励と感謝のり書状が参つております》

長谷川龍生が「理髪店にて」の着想を得たころはきっと、こうした陸奥の「はぎとり事件」のような軍艦のサルベージ作業を巡るあれやこれやが話題になり、新聞などが盛んに取りあげていたのでしょう。

「陸奥」の乗組員の遺族たちは、それでも諦めることはなく、1955(昭和30)年5月には2度目の陸奥遺体引揚請願書を国会に提出。翌1956年には、浮田信家・元海軍中佐が遺族会代表宅を訪れ、「多くの軍艦が沈んでいるので陸奥だけを引き揚げるのは出来ない」旨を知らせますが、引き揚げ運動は粘り強く継続されます。

そして1970(昭和45)年、ようやく深田サルベージ株式会社の主導でサルベージが再開され、艦体の一部や菊の御紋章、主砲身や主砲塔などが回収。1971(昭和46)年には艦尾の浮揚にも成功し、第4砲塔も引き揚げられて中から遺骨数体が回収されています。

2007年には、第6管区海上保安本部の測量船の探測機が「陸奥」の船影を捉えています。このころまでに7割程度が浮揚されたましたが、いまも艦の前部など一部はは海底に残ったままです。

ついでだが、「陸奥」の鋼材が、思わぬところで重宝がられているエピソードがあります。現代の製鉄では、溶鉱炉内の耐火煉瓦にコバルト60という放射性物質を含ませて、そこから出るガンマ線によって破損箇所を調べるシステムを取っています。

そのため、放射性物質の一部が鉄に混入してしまいます。しかし戦前に造られた「陸奥」の鉄材には、そうした放射性物質は含まれていんません。このため引き揚げられた「陸奥鉄」は、精密な放射線測定機の遮蔽材などに最適というわけです。

「陸奥」が沈没したのは国内の、浅い瀬戸内海の海底でした。それでも、サルベージは困難を極めるたいへんな作業だったと考えられます。なんといっても巡洋艦「鳥海」が沈んだのは、遠くフィリピンのサマール沖なのです。「理髪店にて」に出てくるサルベージ会社の潜水士とおぼしき理髪店のお客は、そんな遙かな異国の海に潜ったということになります。

  しかし二〇糎備砲は八門までなく
  三糎高角などひとつもない
  ひどくやられたものだ。

つまり、5基10門が搭載されていたと思われる「鳥海」の口径20センチの大砲は「八門までなく」、4基積んでいたはずの3センチ口径の高角砲(仰角の大きな機関砲)などひとつもないほど、ひどくやられていたのです。

  俺はざっと二千万と見積って
  しだいに
  上っていった。

それにしても国内でも大変なのに、遙かな異国の海で大がかりなサルベージ作業をするというのはただならぬことです。前述したように「鳥海」の乗組員は全員死亡しましたが、それは駆逐艦「藤波」に乗り移った後でのこと。「鳥海」に、亡骸が残されているはずもないのです。

とすれば、その時代の最先端の技術の粋を集めて造られた軍艦は、たとえ海に沈んでしまっても「宝の山」的な要素をたくさん持ち合わせていて、それをねらってもぐったということでしょうか。

サルベージ会社の潜水士とおぼしきお客は、秘かに潜って見つけた巨大な鉄の残骸に搭載されているであろう燃料、機械類、食料品、繊維品、それに艦体の鋼材などの「はぎとり」をしていったら2000万円くらいにはなりそうだとざっとはじき出し、ちょっぴりほくそ笑みながら、海面のほうへと上っていったのでしょうか。

2017年8月10日木曜日

長谷川龍生「理髪店にて」⑤

サルベージ会社の潜水士とおぼしき理髪店の客がしだいに潜って見つけた巡洋艦「鳥海」の巨体。それは、

  昭和七年だったかの竣工に
  三菱長崎で見たものと変りなし

でした。理髪店の客は、三菱長崎で誕生したばかりの「鳥海」を見ていた。そしてまた、海に沈だ「鳥海」の最期の姿をもまのあたりにしているのです。

三菱長崎というのはたぶん、いまも長崎県にある三菱重工業長崎造船所=写真、wiki=のことでしょう。


長崎造船所は1857年(安政4)年、日本初の艦船修理工場である「長崎鎔鉄所」として誕生しました。1887(明治20)年には、明治政府から三菱に払い下げとなり、その後、民営の造船所として多くの艦船を建造しました。

特に民間で建造された初の戦艦である1915(大正4)年竣工の「霧島」や1942(昭和17年)の 戦艦「武蔵」がよく知られています。

また、「鳥海」と同じ重巡洋艦の「古鷹」「青葉」「羽黒」「三隈」「利根」「筑摩」も造られています。

「理髪店にて」が収められた詩集『パウロウの鶴』は、敗戦から10年あまり経った1957年に、書誌ユリイカから出版されています。長谷川龍生が29歳のときのことです。

同詩集の中に、「造船の夕暮」という作品があります。

  第四船台をぬけて
  夕ぐれのなぎさに立つ。
  なみ、たちせまる彼方
  飾磨の海空はくもっている。
  あらい縞げむりの吐きむらがるところ
  あれが広畑だと三菱の友がいった。
  ある秋たけた夕ぐれの海だった
  国籍不明の貸船が岸壁に近づくや
  木っぱになったスクラップの山を
  そのままごっそりと陸揚げし
  霧の海路を去っていった。

大阪市船場に7人兄姉の末っ子として生まれた龍生は、終戦前後にあたる10代後半から20代にかけて、さまざまな労働に携わりながら各地を放浪し、「詩を考えること」に終始する生活を送っていました。

「若いころ、港湾地帯の俗に言う“一本かつぎ”の重労働に従事したことがある。天秤棒のしなるリズムとしなるリズムと、足もとの水の上をわたしてある送り板の揺れ、腰力の切り方、左右のバランス、腰そのもののはこびが、たいせつであった。そのときは、労働がきびしくて、むだな“ことば”も交わせず、もくもくとして一日がうちすぎていった。いまからおもうと、そのような細密な肉体のうご
きは、からだの“ことば”ではなかったかとおもう」(1976年12月『国文学・解釈と鑑賞』の「“ことば”と体験」)

「造船の夕暮」は、そんな、阪神工業地帯で労働者として働いていた時の作品です。

この詩について、『パウロウの鶴』のあとがきで長谷川は「十数年経って、最近、それらの工業地帯をあるいて見て、日本の基幹産業の技術革新がもうれつな勢いで成長しているのを目の当りに見た。私は、もう一度、重工業地帯に目をすえて詩を考えようと思っている」と記しています。

龍生自身が、長崎造船所に行ったことがあるのか、「鳥海」が沈んだ現場を訪れたことがあるのかどうかは分かりません。しかし『理髪店にて』を書いたころ、「造船の夕暮」にもあるような三菱の関係の友人があり、そちらの方面の情報をかなり持っていたことが予想されます。

そして当時の重工業の象徴的存在だった「造船」というものに、軍艦をはじめとする船に対して、一方ならぬ興味を抱き、その本質を労働者として体で見極めようとしていたことは間違いありません。

2017年8月9日水曜日

長谷川龍生「理髪店にて」④

1932(昭和7)年に就役した「高雄」「愛宕」「摩耶」「鳥海」の高雄型重巡洋艦4隻は、太平洋戦争で各地を転戦、多くの戦果を挙げました。しかし4艦そろって参加したレイテ沖海戦で、「高雄」を除く3艦は相次いで沈没します。

高雄型で唯一生き残った「高雄」=写真、wiki=も、レイテ沖海戦のときの修理が済まない航行不能の状態で、シンガポールで終戦を迎えることになります。


レイテ沖海戦は、1944(昭和19)年10月23日から25日にかけて、フィリピンとその周辺海域で起こった日本海軍とアメリカ海軍など連合国軍との一連の海戦。この戦いの結果、日本海軍の連合艦隊は事実上壊滅し、太平洋戦争の趨勢は決したともいわれています。

そのころになると巡洋艦の主要な敵は、「鳥海」や「高雄」が造られたころ想定されていたような魚雷ではなく、航空母艦などから飛び立つ飛行機になっていました。

戦艦に代わって航空母艦が主力になると、それを護衛する防空艦も必要となります。米国では防空巡洋艦がたくさん造られ、日本軍は巡洋艦を防空巡洋艦に改造しようと計画しましたが思うようには進みませんでした。

さらに、米国ではすでに戦前に造った巡洋艦への魚雷搭載を廃止していたのに、日本は依然として魚雷戦に固執した装備しか持ち合わせていなかったのです。日本軍の巡洋艦は、時代の趨勢に逆行していたわけです。

詩「理髪店にて」の前半の主人公、重巡洋艦「鳥海」は、そんな宿命を背負ってフィリピンの中部にあるサマール島沖合の海へと進撃し、最期を迎えることになります。

「鳥海」がレイテ沖海戦に突入した1944(昭和19)年10月23日、高雄型4艦すべてが米潜水艦の攻撃を受けるものの、「鳥海」だけは被害を受けずに済みます。翌24日の米航空機部隊の攻撃でも損害はありませんでした。

しかし、25日のサマール沖の海戦では、米駆逐艦の砲撃や護衛空母「カリニン・ベイ」の艦載機による攻撃を受け、右舷船体中央部に被弾。甲板に装備していた魚雷が誘爆して、機関と舵が破壊される致命傷を負います。

さらに艦載機部隊の攻撃では、機関室前方に500ポンド爆弾を受け、火災とともに大破。そして、この日のうちに駆逐艦「藤波」の魚雷によって処分されています。乗組員は「藤波」に乗り移りましたが、「藤波」も空襲で撃沈され、両艦の乗組員全員が死にました。

沖合が海戦の舞台になったサマール島は、フィリピン中部にあるヴィサヤ諸島の一つ。面積約1万3000平方キロで、ルソン島、ミンダナオ島に続いてフィリピンで3番目に大きい島。南西にあるレイテ島とは、最狭2キロの幅の狭い海をはさんで隣り合っています。

さて、このへんで「理髪店にて」にもどることにしましょう。

  しだいに
  潜ってたら
  巡艦鳥海の巨体は
  青みどろに揺れる藻に包まれ
  どうと横になっていた。

冒頭の5行、句点で括られた一つの文からすれば、鏡を前に椅子に座って散髪してもらっているお客は、沈没した船を引き上げる仕事をしているサルベージ会社の潜水夫ということになるでしょう。

「鳥海」が海中深く、藻に包まれてどうと横になっていた。ということは、戦艦「武蔵」など多くの艦艇が沈み、約1万人が犠牲になったとされるレイテ沖戦の悲劇の海の深みへと、この潜水夫は潜って帰ってきたばかり、あるいは潜水作業に携わった特別な経験の持ち主ということになります。

2017年8月8日火曜日

長谷川龍生「理髪店にて」③

長谷川龍生の詩「理髪店にて」に出てくる「鳥海」=写真、wiki=は、高雄型と呼ばれる4隻の重巡洋艦の一つです。高雄型は、大日本帝国海軍が“最後の重巡洋艦”として計画建造されました。

巡洋艦というのは、「大和」に象徴されるような大型で鈍足の戦艦と、魚雷や砲撃など機動性に飛んだ駆逐艦の中間に位置する軍艦をいます。スピードでは戦艦に勝り、総合的な攻防力や耐波性では駆逐艦を凌駕するそうです。


巡洋艦はもともと、電波による通信がまだ発達していなかった時代に、情報を伝達したり、敵の在処を探ったりしたコルベット船やフリゲート船のような役割を担うものでした。

しかし水雷艇や駆逐艦が生まれてからは、それらより大型で遠洋航海能力が高く、艦砲を主装備している軍艦をさすようになりました。

巡洋艦のなかで大型のものを、重巡洋艦といいます。1930年のロンドン海軍軍縮条約では、砲口径6.1インチ(155ミリ)を超え、8インチ(203ミリ)以下の艦砲を搭載する1万トン以下の巡洋艦を指しています。

高雄型は、前身の妙高型を引き継ぐ重巡洋艦で、藤本喜久雄造船大臣が設計を担当しています。

本艦の主砲は「50口径3年式20センチ砲」と呼ばれているもので、砲口の初速は毎秒870メートル。110キログラムの砲弾を仰角45度で、29400キロまで到達させることができたといいます。

据えられた新型の砲塔は、最大仰角が70度に及び、対空砲弾用に専用の揚弾機を備えていました。

とはいえ、実際のところ、砲弾が重すぎて砲弾の射撃間隔が長くならざるを得ず、発射速度も遅くて、実践で十分威力を発揮できるものではなかったようです。

前のタイプである妙高型の「足柄」が1937年、英国王戴冠記念の観艦式のため欧州へ派遣されたとき、乗艦した英国の新聞記者は「私はきょう初めて軍艦というものを見た。いままで見てきたのは客船だった」と評しとか。

これくらい、当時の重巡洋艦は船内で暮らしの居住環境は劣悪だったのです。

高雄型は、悪評をかった狭い居住区域を広くするなど、乗組員のすみやすさに配慮されました。艦隊の指揮能力を高めるため、ブリッジの大型化するなどの改良も施されました。

龍生の詩に出てくる「鳥海」は、高雄型のなかでもとりわけ内装が豪華だったとも言われています。

「鳥海」をはじめ「高雄」「愛宕」「摩耶」の高雄型4隻は、1932(昭和7)年に就役。、1934年11月には、4隻で海軍第二艦隊第4戦隊を構成します。

それは、詩人がまだ、小学校へ入ったばかりのころでした。

2017年8月7日月曜日

長谷川龍生「理髪店にて」②

詩「理髪店にて」は、前半13行と後半8行の2連から成っています。舞台は「新宿のある理髪店」。散髪の客が鏡の前に座って、何やら話をしながら理髪師に剃刀をあててもらっています。

その話の内容が、いきなり誘い込むような書き出しで1連目の13行で語られます。客が口にしていた「そんな話」は、いまの感覚からすると、床屋の世間話にしてはなんとも重苦しい。


「潜って」いたら、海に沈んで「青みどろに揺れる藻」に包まれて横たわる「鳥海」という巡艦を見つけた、というのです。

1連目の主役は、その「鳥海」。2連目のほうは、後に折った剃首の肌を滑っていく「なめらかだが光なみうつ」西洋刃物でしょう。

海の中にある重々しく巨大な残骸となった軍艦と、生きている人間の首をすっすっすうっと走ってゆく危うい刃物が、言葉を通して鋭く交わりあいます。

戦後、だいぶ経ってから生まれた私にとっては、戦艦といわれて姿形をなんとなく察することができるのは情けないかな、「大和」くらいなものです。そもそも「鳥海」とは如何なるものだったのでしょう。

「鳥海」は、全長204メートル、全幅19メートル、排水量1万3千トン、乗員760人の重巡洋艦だ。名前は、山形と秋田の県境にある火山、鳥海山(2236メートル)に由来しています。

長谷川龍生が生まれた昭和3(1928)年に、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)で起工。昭和6(1931)年に進水、昭和7(1932)年に就役しています。

昭和17(1942)年、ガダルカナル島へ向け出撃し第1次ソロモン海戦に参加。昭和19(1944)年にはマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦などに参戦した後、10月25日のサマール沖海戦でアメリカ艦隊と交戦して最後を迎えました。

米駆逐艦、護衛駆逐艦からの砲撃と護衛空母「カリニン・ベイ」の艦載機による攻撃で、右舷船体中央部に被弾、甲板に装備した魚雷により機関と舵が破壊され、戦列を離脱。

さらに、艦載機部隊の攻撃で、機関室の前方に500ポンド爆弾を浴びて大破。その日のうちに駆逐艦「藤波」の魚雷で処分されています。

乗組員は「藤波」に乗り移りましたが、「藤波」もその後の空襲で撃沈。両艦の乗組員全員が戦死しています。

2017年8月6日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」①

   理髪店にて

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

新宿のある理髪店で
正面に篏った鏡の中の客が
そんな話をして剃首を後に折った。
なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
滑っている理髪師の骨のある手は
いままさに彼の瞼の下に
斜めにかかった。


私にとって、10代のときに決定的な影響を受けたのが宮沢賢治の『春と修羅』なら、20代で最も大きな衝撃を受けたのは、この詩が入っている長谷川龍生の『パウロウの鶴』でした。

ふとしたときに、いまもしばしば読み返すこの詩集の「理髪店にて」をここで、再び読むことにします。

『パウロウの鶴』は長谷川の第1詩集で、1957年に書肆ユリイカから出版されています。3部構成、50編あまりからなるこの詩集の第2部のまん中あたりにあります。

賢治は、私が生まれたときにはすでに偉人として伝記になった人。その、恐れ多くもある伝説を一枚ずつはがしながら読んでいかなければならないようなところがありました。

しかし長谷川は、まだまだ書き続けている現代を代表する詩人のひとりです。私にとっては、ちょうど父にあたる世代で、20年以上にわたって教えを受けてた師でもあります。

詩の中身に入る前に、ウィキペディアから「長谷川龍生」について整理しておきましょう。

【長谷川龍生】 はせがわ・りゅうせい。1928年(昭和3年)6月19日~。大阪文学学校校長。元日本現代詩人会会長(1997-2000年)。「歴程」同人

個人の内部にある素朴な意識を即物的かつ幻想的に表すことのできる異色の詩人として、18歳でデビュー。その幻想・妄想的な世界は時に難解ともとられるが、詩人の立場は貫徹しており、抒情のみに流されず真実を徹底して追究していく姿勢は、デビュー時より今日まで全く変わらない。

関係妄想を駆使した詩や、ドラマの中に動的なダイナミズムを感じさせる、この詩人ならではの作品を数多く書いている。その詩的世界は、常に知識をリニューアルし続ける非常にマメな姿勢にもみられる、すぐれた批評精神によって保たれている。

主な詩作方法として、自ら打ち出した「移動と転換」、「シュールドキュメンタリズム」を採用している。

大阪府大阪市船場出身。七人兄姉(五男二女。兄四人は夭折)の末っ子として誕生。 幼少の頃より失語症に陥る。母の死、父の失踪などを経て多感な青春時代を過ごす。

異常な読書家で、小学校を卒業する頃には夏目漱石全集などをすでに読破していたという。得意科目は数学。国語の成績は決して良くなかったという。

15歳頃から創作を始め、当初は小説家を志して作家の藤沢桓夫への弟子入りを試みるが、藤沢から「きみは詩のほうに向いている」と詩作を薦められ、そこで後に師となる小野十三郎と出会う。

その後、病身・貧窮など困難にあたりながらも勉学を続けるも大学進学は断念。全国各地をくまなく巡る放浪の旅に出る。

1948年浜田知章の個人雑誌「山河」に参加。その後50年「新日本文学会」に入会、52年には関根弘、菅原克己、黒田喜夫らの同人誌「列島」に参加、57年には第一詩集『パウロウの鶴』を書誌ユリイカの伊達得夫の尽力で世に送り出し、第8回H賞(現H氏賞)の次点となる。

58年には鮎川信夫、関根弘らの「現代詩」にて編集長を務める。60年には安部公房らと「記録芸術の会」を結成、詩人に留まらず多くの芸術家と交流を持った。特に花田清輝には多大な影響を受ける。この頃、安部公房に新宿の中華料理店に倉橋由美子と共に招かれ、後に安部の傑作『砂の女』のモチーフとなる話をする。

63年の冬から翌年の初春にかけて、日ソの作家交流を兼ねて初めての海外旅行でソ連各地(モスクワ、レニングラード、カリーニングラード、リガ、ミンスク、キエフなど)に3ヶ月ほど滞在。

この旅がきっかけでその後、世界各国を旅行(長谷川はこれを「遊行」という言葉をもって示す)するようになり、この頃から長谷川の作品の傾向は、急激に世界へと視線が注がれていく。

詩人としてのみならず、57年の処女作『パウロウの鶴』をもって電通専属のコピーライターに抜擢され働いていたこともある。また、東急エージェンシーの広告企画部長としても幅広く活躍した。とりわけコピーライティングにはその抜群のセンスが発揮された(クリスマス当日の新聞における「今日のサンタはパパだった」など)。

70年大阪万博では、サミー・デイヴィスJr.、マレーネ・ディートリッヒ、スヴャトスラフ・リヒテルなど、外国人ゲストのコーディネーターを務め、成功を収める。

その後、万博の終幕と共に会社を終われ、詩作に集中するようになるが、書き上げる詩は「(早くも戦後詩集の代表作ともなった)『パウロウの鶴』の自己模倣に過ぎない(飯島耕一)」と指摘されることもあり、苦難の日々が続いた。

40代を過ぎてもう一度「新人」として書き上げた、78年の『詩的生活』で第9回高見順賞受賞。 その後、アメリカやヨーロッパ、中東などを一人旅し続けながら、旅行時に世話になったあるフランス人女性をモデルにした『バルバラの夏』や、自身の怪奇体験をもとにした『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』などで、よりドラマティックな傾向を強めると共に、『知と愛と』、『泪が零れている時のあいだは』などでは、人間の純粋な精神志向を強く描き出していった。

02年には、13年の沈黙を破って『立眠』を刊行。その磨き抜かれた批評によって保たれる詩的世界はもはやどの詩人をしても手の届くものではなく、これをもって「現在における日本詩人の最高峰に立つ(平林敏彦)」と評価されている。(『立眠』は一度、その年度を代表する詩集に与えられる現代詩人賞の最有力候補として上げられたが、長谷川は辞退した)

映画『おくりびと』の原案となった『納棺夫日記』の著者青木新門にその本を書くきっかけを与えたのは長谷川である(『納棺夫日記』あとがきより)。

【著作】
『パウロウの鶴』(1957年 書肆ユリイカ H氏賞次点)
『虎』(1960年 飯塚書店)
『長谷川龍生詩集』(1967年 思潮社)
『現代詩論6』(1972年 晶文社 片桐ユズルとの共著)
『泉(ファンタン)という駅』(1975年 サンリオ出版)
『直感の抱擁』(1976年 思潮社)
『詩的生活』(1978年 思潮社 高見順賞受賞)
『バルバラの夏』(1980年 青土社)
『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』(1982年 造形社 画・赤瀬川原平)
『知と愛と』(1986年 思潮社 藤村記念歴程賞受賞)
『マドンナ・ブルーに席をあけて』(1989年 思潮社)
『泪が零れている時のあいだは』(1989年 思潮社)
『立眠』(2002年 思潮社 現代詩人賞受賞辞退)

2017年8月5日土曜日

日夏耿之介「太陽は世界を牽く」

  きょうは『転身の頌』の最期の詩「太陽は世界を牽く」です。

   太陽は世界を牽く

太陽は世界を牽(ひ)く
世に日蝕(につしよく)あり
かかる日の午後
片丘(かたをか)に攀(よ)ぢ登りて
地平の上に浮動する嗤笑(わらひ)を見む
恐らくもつとも聖くされどかすかなる
まことの笑ひを

若し夫れ裸蟲(らちゆう)たるあらば
赤くややすさみ肥(ふと)れる対斉(たいせい)を見
また怪綺なる
嬌媚の瞳に露じめる単純の騒音をきくべき歟
最後にかかる懐瑾(くわいきん)の火のひまびまにありて
ほとんど私語のごとき喘鳴の冷たさを感ず
すべてこれ心なり


「片丘」は、片方が低くなっている丘、または、丘の片側のこと。孤立した丘をいうこともあるようです。

「裸蟲」は、羽毛鱗介のない生物。人もそうです。

「懐瑾」は文字通りにみれば、胸中の固くて美しい玉。

「喘鳴」(ぜんめい)は呼吸のとき出るぜいぜい、ひゅうひゅうという音のことです。

   ◇

ここまで耿之介の『転身の頌』を、ざっと眺めてきましたが、これらのなんとも難解な詩を読み解く力は、いまの私にはありません。

それは将来への「宿題」としおき、ここでは耿之介のこの最初の詩集が、萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』と同じ1917年に刊行されていることに注目しておき、ひと区切りとしておきます。

2017年8月4日金曜日

日夏耿之介「金色のエロス」

 きょうは『転身の頌』から「金色のエロス」を読みます。3部に分かれています。

   金色のエロス

(一)黄金欣栄

ああ 斯(こ)の崇高(けだか)き民戯よ
哀憐の黄金帝座に雙(なら)びあり
謙仰にして至純なれば自然の繁殖部に溺没す
群りあひ低語(さざ)めき又俯仰するは賤人(まちびと)らなり
虚空たかく晴れわたり太陽とともに逍遥す
金色の浄光は必ずその環境を鍍金(めつき)せり
時ありて密雲ふかく帝座は金声を点ず
哀しく君臨しかつ嬉しみて高蹈せり
夫れ ものみなの情熱による更生は
燦爛(きらめ)く黄金の欣栄か

(二)黄金王

火燭(くわしよく)に火とぼして この日
危き夜の世界をとぶらはむ
すべてのものことぼとくその原容をとり失ひ
譬へば捕縛せられし犯罪美少人のごとし
わが紫磨黄金(しまわうごん)の火燭の光ひとり栄(は)えて
燦爛と凄壮と立ち坐(ゐ)ならぶ也
このとき軽く われ しはぶきするに
灯は樸直(ぼくちよく)に火(も)え 躍り かがみ
すべてのもの ひとしく明滅す

茂林(もりん)の深緑に黄金の征矢(そや)わけ入り
暗紫(こむらさき)の陰影(かげ)など梢に啼きしきり
病める流星は夙(と)く南天を航す也
わがこがねいろの洋燈(らむぷ)は暗夜を遍照し
こころたのしみ華奢なる網代車に憩へる
月はなく 星も今は亡(な)し
ああ、太陽をや

(三)黄金王景

緑濃き草原(くさはら)を奔(はし)る細川のうちに
月夜(げつや)なり
黄金色(わうごんじき)ひかりあまねき天人の亡骸(なきがら)泛ぶ

うら寂び 浄く澄める細流(ながれ)のひまを
やすらかに睡むる銀鱗のむれびとよ
水底の力に伴(つ)れて
老いたる水藻(すゐさう)の鬚(ひげ)いともかすかに顫ふ也
天人のかばね赫灼と光れり
甘き羞明はわが心を襲ふ

ああ 黄金(こがね)なす妹好のしかばね
いとおびただしきソプラアノの連続は
めぐみ裕(ゆた)かなる生(いき)の身の光被者ぞもよ


「欣栄」(きんえい)は、よろこびと光栄、よろこばしい光栄。

「逍遥」は、気ままにあちこちを歩き回ること。

「高蹈」には、身を高く清く処する意があります。

「紫磨黄金」は、紫色を帯びた純粋の黄金で、最も良質とされたもの。紫金。紫磨金。

「征矢」は、鋭い鏃(やじり)をつけた、戦闘に用いる矢のことをいいます。

「赫灼」(かくしゃく)は、ひかりかがやくさま。

「光被」は、光が広く行きわたること、君徳などが広く世の中に行きわたることをいいます。

2017年8月2日水曜日

日夏耿之介「三鞭酒」「房星」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   三鞭酒――又は流火の歌

良後(あたらよ)の天床(ふしど)に於ける片破星(かたわれぼし)は
夥しくこぼれし三鞭酒(しやんべんしゆ)の一滴にすぎず
微星(ぬかぼし)らの声音(こわね)を好む
神経質の笑ひにて
其存在を精密に高度に知覚すべければ
詼諧(くわいかい)よ 衝動よ 慟哭よ 歓呼よ
房心楽しみ快飲するとき
屡(しばしば)声高く叫ぶなり
快く目醒ましき凄壮の奇襲戦よ
醗酵せる焮衝(きんしよう)よ 跛足(はそく)の悲嘆よ 地上讃美よ
爾の小賢しき毛髪と
快く熟眠せる四肢と戯謔(ぎぎやく)好きの黒瞳とを嘉す
爾 何を思索するもよし喋言するも亦よし
いで黄金杯高くかかげ
われらが片破星らを頌(ことほ)がむ

   ◇

中国では3種類の動物の陰茎を漬けて、強精剤としての効果もあるとされる酒を「三鞭酒」(サンピエンチユウ)というそうですが、ここでいうのはシャンパンのことでしょう。すなわち、フランスのシャンパーニュ地方でつくられる、アルコール分13%前後の発泡性ブドウ酒です。

「片破」(かたわれ)は、かけら、細かいかけらの意。

「詼諧」(かいかい)は、こっけいな言動をしてふざけること。おどけ。諧謔(かいぎゃく)。

「焮衝」(きんしょう)は、からだの一局部が赤くはれて熱をもち、痛むこと、炎症。


   房星

房星(ばうせい) 遠流(をんる)にありて
黄金(こがね)の鈴さはやかに鳴らす也
われ 房星の彳みを見きはめて
みづからのたましひの蒙塵(もうぢん)を感ず
わが肌の細胞にいと鮮かなるその鈴の音(ね)よ
王者なれば われは美服(びふく)し
浄光肉身にして
かの貴金属の孤唱(こしやう)をきかむ
怪綺なる痙攣(けいれん) いまわが骨を埋没(うづめ)たり
房星らをして死なしめな
房星らをしてたのしましめな
ああ 孕(はら)みしわが心 疲れぬる

   ◇

「房星」は、二十八宿の房(ぼう)宿の和名。サソリ座の頭部の四星から成ります。

二十八宿というのは、黄道に沿う天空の部分に設けた二八の中国の星座。月がだいたい一日に一宿ずつ宿るところと考えられました。

各宿の間隔は等分というわけではありませんが、それぞれ規準になる星があります。房宿は二十八宿のひとつで、サソリ座の頭部の四星から成ります。

「蒙塵」は、もともと宮城の外に出て塵(ちり)をかぶる意で、変事に際し、天子が難を避けて宮城の外に逃れることをいいます。

2017年8月1日火曜日

日夏耿之介「春娃と万象」「愛の王者」

 きょうも『転身の頌』から二つ詩を読みます。

   春娃と万象

棕櫚の葉は高く掌(てのひら)を放(ひら)き
白樺の幹を褄(つま)かかげて並居(なみゐ)たり
おほどかに月のめぐる
宙空(そら)は碧玉の頸飾にして
山山呼吸(いき)はげしく地心よりの輪舞に狂へり
青き光を生絹(すずし)に鍍金(めつき)して
一人(いちにん)の阿嬌は若くあゆめど
その陰影(かげ)をよそにして何かありや

   ◇

「娃」の音読みは「アイ、ワ、ア、エ」など。美しい、美女、少女などの意味があります。「おほどか」は、おおらか、おっとり。

「棕櫚」は、ヤシ科の常緑高木。高さは5メートル以上になり、幹は直立し、枝がなく麻のような毛で覆われます。

「棕櫚の葉」=写真、wiki=は頂上に群生し、手のひら状で大きく長い柄をもちます。帽子、敷物、うちわなどの材料にも使われます。

「頸飾」(けいしょく)は、くびかざりのこと。

「阿嬌」(あきょう)の「阿」は親しみを表す語、「嬌」は漢の武帝の后の幼名で、美しい女性を意味します。


   愛の王者――又は螢感の歌

心は大気にはびこりみち
愛は運命のごとく出没す
婉美流火(えんびりうくわ)よ
爾(おんみ)ら 悉(ことごと)く光沢(つや)ある紅玉の類(たぐひ)にして
わが愛のあしどり速くもすぎ適(ゆ)かば
泡沫(うたかた)のごとく砕け散らむ
愛の王者のあゆみは軽く迅かに
廓(ひら)けゆく世界に火花咲きかつ散るべし

   ◇

「婉美」は、しとやかで美しいこと。

「流火」は、7月の異名でもあるようです。



「廓」には、城の外囲い、くるわといった意のほかに、がらんとして広い、広げるという意味もあります。