2017年8月6日日曜日

長谷川龍生「理髪店にて」①

   理髪店にて

しだいに
潜ってたら
巡艦鳥海の巨体は
青みどろに揺れる藻に包まれ
どうと横になっていた。
昭和七年だったかの竣工に
三菱長崎で見たものと変りなし
しかし二〇糎備砲は八門までなく
三糎高角などひとつもない
ひどくやられたものだ。
俺はざっと二千万と見積って
しだいに
上っていった。

新宿のある理髪店で
正面に篏った鏡の中の客が
そんな話をして剃首を後に折った。
なめらかだが光なみうつ西洋刃物が
彼の荒んだ黒い顔を滑っている。
滑っている理髪師の骨のある手は
いままさに彼の瞼の下に
斜めにかかった。


私にとって、10代のときに決定的な影響を受けたのが宮沢賢治の『春と修羅』なら、20代で最も大きな衝撃を受けたのは、この詩が入っている長谷川龍生の『パウロウの鶴』でした。

ふとしたときに、いまもしばしば読み返すこの詩集の「理髪店にて」をここで、再び読むことにします。

『パウロウの鶴』は長谷川の第1詩集で、1957年に書肆ユリイカから出版されています。3部構成、50編あまりからなるこの詩集の第2部のまん中あたりにあります。

賢治は、私が生まれたときにはすでに偉人として伝記になった人。その、恐れ多くもある伝説を一枚ずつはがしながら読んでいかなければならないようなところがありました。

しかし長谷川は、まだまだ書き続けている現代を代表する詩人のひとりです。私にとっては、ちょうど父にあたる世代で、20年以上にわたって教えを受けてた師でもあります。

詩の中身に入る前に、ウィキペディアから「長谷川龍生」について整理しておきましょう。

【長谷川龍生】 はせがわ・りゅうせい。1928年(昭和3年)6月19日~。大阪文学学校校長。元日本現代詩人会会長(1997-2000年)。「歴程」同人

個人の内部にある素朴な意識を即物的かつ幻想的に表すことのできる異色の詩人として、18歳でデビュー。その幻想・妄想的な世界は時に難解ともとられるが、詩人の立場は貫徹しており、抒情のみに流されず真実を徹底して追究していく姿勢は、デビュー時より今日まで全く変わらない。

関係妄想を駆使した詩や、ドラマの中に動的なダイナミズムを感じさせる、この詩人ならではの作品を数多く書いている。その詩的世界は、常に知識をリニューアルし続ける非常にマメな姿勢にもみられる、すぐれた批評精神によって保たれている。

主な詩作方法として、自ら打ち出した「移動と転換」、「シュールドキュメンタリズム」を採用している。

大阪府大阪市船場出身。七人兄姉(五男二女。兄四人は夭折)の末っ子として誕生。 幼少の頃より失語症に陥る。母の死、父の失踪などを経て多感な青春時代を過ごす。

異常な読書家で、小学校を卒業する頃には夏目漱石全集などをすでに読破していたという。得意科目は数学。国語の成績は決して良くなかったという。

15歳頃から創作を始め、当初は小説家を志して作家の藤沢桓夫への弟子入りを試みるが、藤沢から「きみは詩のほうに向いている」と詩作を薦められ、そこで後に師となる小野十三郎と出会う。

その後、病身・貧窮など困難にあたりながらも勉学を続けるも大学進学は断念。全国各地をくまなく巡る放浪の旅に出る。

1948年浜田知章の個人雑誌「山河」に参加。その後50年「新日本文学会」に入会、52年には関根弘、菅原克己、黒田喜夫らの同人誌「列島」に参加、57年には第一詩集『パウロウの鶴』を書誌ユリイカの伊達得夫の尽力で世に送り出し、第8回H賞(現H氏賞)の次点となる。

58年には鮎川信夫、関根弘らの「現代詩」にて編集長を務める。60年には安部公房らと「記録芸術の会」を結成、詩人に留まらず多くの芸術家と交流を持った。特に花田清輝には多大な影響を受ける。この頃、安部公房に新宿の中華料理店に倉橋由美子と共に招かれ、後に安部の傑作『砂の女』のモチーフとなる話をする。

63年の冬から翌年の初春にかけて、日ソの作家交流を兼ねて初めての海外旅行でソ連各地(モスクワ、レニングラード、カリーニングラード、リガ、ミンスク、キエフなど)に3ヶ月ほど滞在。

この旅がきっかけでその後、世界各国を旅行(長谷川はこれを「遊行」という言葉をもって示す)するようになり、この頃から長谷川の作品の傾向は、急激に世界へと視線が注がれていく。

詩人としてのみならず、57年の処女作『パウロウの鶴』をもって電通専属のコピーライターに抜擢され働いていたこともある。また、東急エージェンシーの広告企画部長としても幅広く活躍した。とりわけコピーライティングにはその抜群のセンスが発揮された(クリスマス当日の新聞における「今日のサンタはパパだった」など)。

70年大阪万博では、サミー・デイヴィスJr.、マレーネ・ディートリッヒ、スヴャトスラフ・リヒテルなど、外国人ゲストのコーディネーターを務め、成功を収める。

その後、万博の終幕と共に会社を終われ、詩作に集中するようになるが、書き上げる詩は「(早くも戦後詩集の代表作ともなった)『パウロウの鶴』の自己模倣に過ぎない(飯島耕一)」と指摘されることもあり、苦難の日々が続いた。

40代を過ぎてもう一度「新人」として書き上げた、78年の『詩的生活』で第9回高見順賞受賞。 その後、アメリカやヨーロッパ、中東などを一人旅し続けながら、旅行時に世話になったあるフランス人女性をモデルにした『バルバラの夏』や、自身の怪奇体験をもとにした『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』などで、よりドラマティックな傾向を強めると共に、『知と愛と』、『泪が零れている時のあいだは』などでは、人間の純粋な精神志向を強く描き出していった。

02年には、13年の沈黙を破って『立眠』を刊行。その磨き抜かれた批評によって保たれる詩的世界はもはやどの詩人をしても手の届くものではなく、これをもって「現在における日本詩人の最高峰に立つ(平林敏彦)」と評価されている。(『立眠』は一度、その年度を代表する詩集に与えられる現代詩人賞の最有力候補として上げられたが、長谷川は辞退した)

映画『おくりびと』の原案となった『納棺夫日記』の著者青木新門にその本を書くきっかけを与えたのは長谷川である(『納棺夫日記』あとがきより)。

【著作】
『パウロウの鶴』(1957年 書肆ユリイカ H氏賞次点)
『虎』(1960年 飯塚書店)
『長谷川龍生詩集』(1967年 思潮社)
『現代詩論6』(1972年 晶文社 片桐ユズルとの共著)
『泉(ファンタン)という駅』(1975年 サンリオ出版)
『直感の抱擁』(1976年 思潮社)
『詩的生活』(1978年 思潮社 高見順賞受賞)
『バルバラの夏』(1980年 青土社)
『椎名町「ラルゴ」魔館に舞う』(1982年 造形社 画・赤瀬川原平)
『知と愛と』(1986年 思潮社 藤村記念歴程賞受賞)
『マドンナ・ブルーに席をあけて』(1989年 思潮社)
『泪が零れている時のあいだは』(1989年 思潮社)
『立眠』(2002年 思潮社 現代詩人賞受賞辞退)

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